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2020/07/22

梅崎春生 砂時計 29 / 砂時計~了

 

     29

 

 駅から夕陽養老院にいたる石ころ道を、栗山佐介は鞄と卓上ピアノを胸に抱き、びっこを引きながら歩いていた。空は明るく平和と栄光に満ち、樹立ちはあおあおと天を指して伸びていた。道ばたに簇生(そうせい)した雑草の花々に蝶や蜂が群れ、中空を時折つばめがしなやかに身をひるがえして飛翔(ひしょう)する。卓上ピアノは佐介のびっこの足並にしたがって、ぐるるんぐるるんと不機嫌な音を立てた。昨日よりもずっと音色がわるい。靴で蹴飛ばされ、堤の斜面をころがり落ちたせいで、木質部の接合がゆるみ、釘の頭さえ出ていたし、形そのものが総体的にすこし歪(ゆが)んでいた。音階も狂っているらしい。[やぶちゃん注:「簇生」「叢生」とも書く。草木などが群がり生えること。]

(堤をころがり落ちたくらいで、こんなにガタガタになるなんて)卓上ピアノを持ち換えながら佐介は思った。(だから日本品は駄目なんだ。世界の市場からボイコットを食うんだ)

 日の位置は正午をぐっと越していた。遠くで牛の鳴き声が聞え、また近くの林の中から、犬が何匹も厭な声で鳴き立てながら、街道を横切って走って行った。さっき上水路に辷り落ちそうになったことも忘れて、佐介はのんびりと口笛を吹いていた。口笛のつもりでも、唇の形が悪いので、それは音となっては出ない。やがて夕陽養老院の鉄の正門が近づいてきた。

「お腹(なか)がすいたな」口笛を中止して佐介は呟(つぶ)いた。「そうだ。今日は経営者会議だったな。木見婆さんが俺のために、御馳走の残りを取って置いてくれるといいんだがな。しかしあの婆、ふくぶくしい格好はしているが、見かけによらず全然親切げのない婆さんだからなあ。あの木見婆さん」

「木見婆さん」

 調理室の半開きの扉から、松木第五郎爺の顔がそっとあらわれて、押し殺したような声で呼びかけた。焼き終えた鰻(うなぎ)を折りに詰めつつあった木見婆は、ぎょっとそちらに振り向いた。松木爺の顔が歯の抜けた口をひらいてにやにやわらっている。「入ってもいいか」

 木見婆は折詰めの作業を継続しながら、入ってもいい、という身振りを黙ってしてみせた。松木爺はすばやく調理室に飛び込んで、用心深く扉をしめた。そして調理台に近づいた。

「ふん。ウナギか」松木爺は見下げ果てたような高慢ちきな声を出した。「折詰めと来たな。ふん、そうか。お土産か」

「ねえ、ニラ爺さんはどこにかくれている?」作業の手を休めないまま、木見婆は哀願的な声を出した。「もう見付かったの?」

「知らないね」松木爺は鰻に向って鼻翼を動かした。「まだだろう」

「ねえ、ニラ爺はどんなことをしゃべったのさ」木見婆は肥った軀(からだ)を切なげにくねらした。「そして、聞いたのはあんただけ?」

「ずいぶん御心配だね」松木爺ははぐらかした。「心配することはないよ。おれたち、黙っててやるからな」

「おれたち?」木見婆は顔色を変えた。「あんたひとりにしゃべったんじゃないんだね。あのニラの糞爺!」

「昨夜の会議が遅かっただろう。だからおれたちは寝不足で、とても疲労している」松木爺はおもむろに本題に入った。「疲労回復には糖分摂取が第一だな。おれたちはこの数ヵ月というものは、汁粉という名の食物を一度も口にしたことがない。婆さんもこしらえたことがないだろう」

「院長先生がニラ爺さんを呼んで来いとおっしゃるんだよ」木見婆は苦しそうにばたばたと足踏みをした。「もう何か院長先生の耳に届いたんじゃないかしら。だからそれを確かめるために、ニラ爺を呼んで来いとおっしゃったんじゃないかしら」

「なに。院長がニラ爺を?」松木爺はいぶかしげに木見婆を見た。「そりゃおかしいな。聞き捨てにならんぞ。何時のことだ」

「何時だったかしら」今度は木見婆が質問をはぐらかした。院長から口止めされていることをふっと思い出したのだ。「な、なにを食べたいと言うの。汁粉という名の食物をかい?」

「おい!」松木爺は猿臂(えんぴ)を伸ばして、木見婆の肩をぎゅっとつかんだ。「ニラ爺を呼べと院長が言ったのは、会議の席上でか。それともそれ以外の場所でか?」[やぶちゃん注:「猿臂」猿の腕。転じて、そのように長い腕。]

「痛いよ!」木見婆は顔をしかめ、勢いを込めて松木爺の掌を肩から振り放した。「痛いじゃないか。いきなり人の肩をつかんだりしてさ。助平!」

「助平?」松木爺は失笑した。「そんなせりふは若い娘が言うことだ。六十にもなって、うぬぼれもはなはだしいよ。それよりも院長は、ニラ爺のことを何と言ってた?」

「うぬぼれで悪かったね。イイだ」木見婆は顎(あご)を憎々しげに突き出して、両掌をパンパンと打ち合わせた。折詰め製作をすっかり完了してしまったのだ。「そんなこと、教えてやらないよ。こちらが何か訊ねると、はぐらかしてろくすっぽ教えないくせに、白分の都合となると、しつこく聞きたがる。何て身勝手な爺さんだろう」

「そ、そんなことを言っていいのか、お前」

「お前?」木見婆はその呼称で自尊心をぐっと傷つけられたらしく、顔色を変えた。「お前。お前とは何だよ。お前呼ばわりされる覚えはあたしにゃないよ。あたしゃあね、これでも自分で働き、自分の力で食ってんだよ。養老院に放り込まれ、お情けで食わして貰っているヨタヨタ爺とは違うんだ」

「なに。ヨタヨタ爺とは何だ!」松木爺はたまりかねたように拳固をかためて振り上げた。「お情けで食わせて貰ってるとは、何という言い種(ぐさ)だ。よし、お前がそういう気持なら、おれにも考えがある。おれは今直ぐにでもお前のことを、あらいざらい院長に……」

 木見婆は身構えたまま、松木爺は拳固を振り上げたまま、はたと絶句した。調理室の扉が外からコツコツと叩かれたからだ。二人は一斉に扉を見、そして黙って顔を見合わせた。そして松木爺はふり上げた拳固をへなへなとおろし、かくれ場所を求めるように忙がしく視線を動かした。ノブがぎぎっと回された。木見婆がするどく叫んだ。

「誰?」

「なんだ。鍵がかかってないのか」扉が開かれて声がはっきり飛び込んできた。「僕だよ。栗山だよ。ああ、おなかがすいた」

 栗山佐介は皮鞄と卓上ピアノを窮屈そうに抱きかかえ、びっこを引きながら調理室に入ってきた。ふと立ち止って、不審げな視線を松木爺に向けた。松木爺はすっかり困惑して、あざらしのように顔をあてどなく左右に動かした。木見婆は頰をふくらませて手早く折詰めを五つ積み重ねた。

「木見婆さん。何か食べるものないかね」佐介は荷物を米櫃(こめびつ)の上に置きながら言った。「僕はおなかが。ヘコペコだよ」

「何もないよ。お茶漬けでも食べな」木見婆はつっけんどんに答えた。腹立ちがまだ続いていたし、それに彼女はこの栗山書記をあまり高くは買っていなかった。「それは何だい。そのごろりんしゃん」

「卓上ピアノだよ」佐介は丼をとり大釜の方に歩きながら答えた。「もう会議は始まってるのかい?」

「もう終りかかってるよ。あんたの来ようが遅いんで、院長先生カンカンになってるわよ」

「だって僕、膝をネンザしたんだよ」飯をよそう手を休めて、佐介は不審げに松木爺の顔を見た。「はて、ここは在院者の立入禁止地区じゃなかったかな」

「そうなんだよ」木見婆は両手で折詰めをかかえ上げ、とげとげしく言った。「立入禁止だと言うのに、この爺さん、無理矢理に押し入って来たんだよ。図々しい」

「入ってもいいと言ったじゃないか」松木爺はふたたび勃然(ぼつぜん)といきどおって、両方の掌が自然に拳固の形になった。[やぶちゃん注:「勃然」突然に起こり立つさま。或いは、顔色を変えて怒るさま。むっとするさま。]

「入っていいという格好をしたから、俺はよんどころなく入って来たんだ。図々しいとはどちらのことか」

「まあまあ」両方の剣幕が意外にもはげしいので、佐介はびっくりしてとりなした。「まあそれはどちらでもいいよ。僕は別段とがめてやしないんだ。でも、院長に見付かるとまずいから、松木爺さんも早いとこ出て行った方がいいな」

「出ればいいんだろう、出れば」松木爺はくるりと背を向けた。「木見婆。ニラ爺の件で後悔するなよ!」

 松木爺は捨ぜりふを残し、扉をパンと開き放したまま、肩をいからせて廊下に出て行った。

「ニラ爺さんがどうかしたのかね?」佐介はきょとんとした顔で木見婆に訊ねた。ニラ爺の件とは何だろう。リヤカーのことか?」

「ニラ爺さんの姿が今朝から見えないんだよ」木見婆はとぼけてごまかした。「悪者にでもさらわれたんじゃないかしら」

「そうかも知れないね。とっ拍子もない爺さんだからね」佐介は丼飯に茶をざぶざぶとかけ、木椅子にちょこなんと腰をおろして冗談めかした口をきいた。「悪者どもにかどわかされ、押入れか何かに幽閉され、今頃は嘆き悲しんでるかも知れないな」

 しかしニラ爺は、幽閉されてはいたものの、嘆き悲しんではいなかった。悲しむかわりに怒っていた。その怒りはニラ爺の置かれた位置において、発散されることなく、刻刻と蓄積されつつあった。煙爺も同様であった。ぐしょぐしょにしめった古書類の上にあぐらをかき、両老人は耳を猟犬のようにそばだて、眼をきらきらと光らせて怒っていた。板戸ひとつ隔てた院長室では、さきほどからの論議の中心であった院長の責任割当が、やっと妥協点に到達していたのだ。二瓶のウィスキーはすっかり空になり、それらは分散されて六人の男女の腹中に入り、各人の額や頰や顎をあかく染めていた。菓子屋の眼はとろけかかっていたし、女金貸の動作はじだらくになっていたし、黒須院長にいたってはさながら赤インクをすっぽり浴びた巨大な海坊主であった。その赤い海坊主は咽喉(のど)までのぞけるほどの大口をあけて、ここちよげに哄笑(こうしょう)した。

「やっと折り合いましたな」笑いを収めて院長は会議録を開いた。「毎月二人宛か。これじゃわたしもたいへんだな。よっぽど努力しなくちゃ責任額が達せられないぞ」

「その代り二人以上殺したら」と女金貸がくねくねと身体をよじらせた。「一人当り二万円の手当がつくんじゃないの。いい身分ねえ。あたしが院長になりたいくらいだわ」

「そのかわりに二人に達しない場合には」院長は会議録にゴシゴシ書きつけながら答えた。「一人当り二万円ずつの割合で、月給から差引かれるんですからな。一人も死ななきゃ、わたしはその月は手弁当で働くということになる。大へんなサービスだ」

「だから今までみたいな行き当りばったりな方針をやめて」教授がずり落ちかかった鼻眼鏡の位置を正し、重々しく訓戒した。「組織的、かつ計画的に運営して行かねばならんよ。それが院長の幸福であり、ひいては我々の幸福となるんだ。こんな狭い国土ではだね、誰かが幸福になるためには、その分だけ誰かが不幸にならざるを得ない。他人の不幸をこいねがうことは、とりもなおさず自分の幸福をこいねがうことになるのだ。老いたる物質に不幸が皺(しわ)寄せになるのは、まあ止むを得ないことだし、当然のことでもある。しっかりやるんだな、院長」

 扉がことことと叩かれて、折詰めをかかえた木見婆がえっさえっさと入ってきた。教授は口をつぐんだ。木見婆は折詰めを卓上に、各自の前に並べ始めた。

「ニラ爺さんはまだか」院長が訊ねた。「何をしているんだね?」

「どこにいるのか見当らないのです」そして木見婆は思い余ったように院長に反問した。「一体ニラ爺さんに、どんな用事がおありになるのでしょうか?」

「ちょっと訊ねたいことがあるのだ」院長は自分のあから顔を掌でぶるんとこすった。「当院にはたいへん悪い奴がいる。それについて聞きたいのだ」

「悪い奴?」

 木見婆はぎくっと肩を慄わせて院長の顔を見た。院長の眼はとろんと好色的にうるんで、女金貸のふくよかな二の腕にそそがれていた。その腕も酔いのために桃色に染まっているのだ。そのままの姿勢で院長は大きくうなずいた。「そうだ。悪がしこい奴だ」

 木見婆の心臓はどきんと波打った。彼女はそのまま二三歩後退し、丁寧に頭を下げながらやっとのことで言った。

「もう用事はございませんか」

「もう用事はない」院長が掌を振った。「下ってもよろしい」

 何気ない院長のその言葉は、最後の宣告のように木見婆に響いた。木見婆はぶったおれそうな気分になり、扉を排して廊下に出た。よたよたと階段を降り始めた。教授が待ちかねたように口を開いた。

「在院者の回転率を高めるためにはだね、タイル張りのような物理的方法より、やはり化学的方法に重点を置くべきだと僕は思う。たとえば先ほどの黄変米の件だがね、あれを飯にたきこんで、一律に皆に食べさせるのは、あまり効果的な方法ではない」

「と申しますと?」

「たとえばだね、黄変米の中で、イスランジャ黄変米というやつは、これは人間の肝臓をおかす」教授は自分の肝臓の上を掌で押えた。「だから当院でも、肝臓の悪い人を集めて、これを食べさせるようにしたがよかろう。それからタイ国黄変米、これはもっぱら心臓や腎臓の障害をおこさせるな。だからこれは、心臓や腎臓の弱まった在院者にあてがうと効果的だ。そういう風に、黄変米と言っても、いろんな種類があるのだから、その種類に応じて医学的臨床的に使用することが大切だ。そうしないと、月二人は無理かも知れないよ。院長。当院在院者の健康診断簿はととのっているか」

「一応ととのってはいますが」院長は禿頭を押えて恐縮した。「なにしろ俵君は犬猫専門で、人間の方は専門ではありませんので」

「やはり人間専門の医者に変えるべきだねえ」食堂主が主張した。「獣医じゃ仕方がないし、それにあの俵医師はあまり当院に熱心でないようだからさ」

 木見婆は力無く肩をおとして、ふらふらと調理室に戻ってきた。二杯目の茶漬をかっこんでいる栗山佐介に眼もくれず、調理室のすみの戸棚の前に立ち、引出しから私物の大きな風呂敷をとり出して、そそくさとエプロンを外した。

「どうしたんだね」佐介はいぶかしく訊ねた。「顔色が悪いよ。病気じゃないのか」

「あたしゃもうここで働くのがイヤになったよ」木見婆は投げ出すように答えた。「もう辞(や)めちまおうかしら」

「辞めちまいなよ」佐介は冷淡に答えて、茶漬の残りをざぶざぶとかきこみ、ぎくしゃくと立ち上った。「さあ、院長室に出勤するかな」

「部屋割り変更の件ですが」院長は空瓶を卓の下に片付けながら説明した。「当院では年に一回部屋替えを行う。それもくじ引きによってです。今年はその期日は過ぎているのですが、わたしはわたしの考えがあって、わざとそれを引延ばしているのです」

「それは好都合だったな」と運送屋が言った。「じゃ先生の提案のような具合にして、部屋替えをやればいいな」

「先ず人間の医者を雇って来ることね」と女金貸。「そして早急に全員の綿密な健康診断をやることね。近頃、人間ドック入りというのが、あちこちで流行しているらしいわよ」

「そう、そう」食堂主が相槌を打った。「わたしも近いうちにそれに入ろうかと考えているんだ」

「しかし在院者にそれを感づかれてはまずいよ」教授が言った。「肝臓の悪い者は悪い者同士、心臓は心臓、胃腸は胃腸、卒中体質は卒中体質と、各グループにわけて部屋割りを行うんだ。そして、各グループによって、食事の種類をかえる。たとえば卒中体質グループなどには、酒煙草の特別支給を考慮してもいいな。肝臓グループにはイスランジャ黄変米のヤキ飯などだ。なに、政府が大がかりでまた大ざっぱにやっていることを、僕たちはこぢんまりと計画的にやってみるだけの話さ。ははは」

「誰だ。はいれ」黒須院長が大声を出した。扉がまたコツコツと鳴ったのだ。「韮山爺さんか?」

「僕です」扉のすき間から佐介がぽっこりと顔を出した。

「栗山書記です。いささか遅刻しました」

「なにがいささかだ!」院長は眉を吊り上げて、不興気にはき出した。「いささかということは、ちょっとと言うことだ。見ろ、会議は終りかけてるじゃないか」

「膝にネンザが起きたので、接骨医に行ってたのです」鞄と卓上ピアノをかかえて、佐介は恐縮した表情でびっこを引き引き入ってきた。「診断書をお見せしましょうか」

「診断書なんかいらん!」院長は怒鳴った。「もう君には、何も要求しないよ」

「まあまあ、おだやかに」と女金貸がなまめかしくとりなした。「ネンザなら仕方がないじゃないの。ねえ、書記さん。どうしたの。ころんだの?」

「ええ。犬に追っかけられて」佐介は習慣的なうそをついた。「僕は、もともところびやすく出来ているもんですから」

「そうでしょうねえ」女金貸は同情した。「書記さんはまったく頭でっかちだものねえ」

「ころびやすいのはまとめて」運送屋が本題に戻った。「二階の部屋に割当てるといいね。階段の登り降りということがあるから」

「水爆マグロなんか惜しいことをしましたな」食堂主が膝を叩いて口惜しがった。「魚河岸(うおがし)にわたしの従弟が勤めていてね、そいつに頼めばガイガーカウンターで調べる前のマグロを、都合して呉れたかも知れない。そしてそれを当院用に回せたのになあ」

「水燥マグロは、今は入荷してないのかい?」

「入荷してるかも知れないが」と食堂主。「昨年暮で政府は検査を中止してしまったんだ。だからどれが水爆マグロで、どれがふつうのマグロだか、見分けがつかないんだよ、険呑(けんのん)なことだ」

「どういう体質や病気に」教授がまたしても腕時計をのぞいた。「どういう食物が悪いか。その精密な一覧表を、来月の会議までに、院長は人間医者と相談して作成して呉れ。部屋割りとか、具体的な食事給与の方法については、どうしますか。今日ここでやりますか。それとも来月に――」

「来月だ」

「来月だ」

「来月ね」

「では、時間も来たようだし、今日の月例会議はこれで終ります」と教授が宣言した。「とにかくこういう事業を運営するには、人の和ということが大切です。われわれ経営者はもちろんのこと、院長との連絡、院長と部下、職員や書記や調理人にいたるまで、緊密に団結してことに当らねばならん。そうしないととても九十九名を相手として運営しては行けない。院長。部下の統率掌握という点には、ぬかりはないだろうな」

「そ、それは大丈夫です」院長は大げさに胸をどんと叩いた。「調理人の末々にいたるまでわたしにすっかり心服しています」

「木見婆さんが辞めたいと言っていましたよ」書記卓から佐介がうっかりと口を辷らした。「どういうわけですか、もうこんなところはイヤだって」

「なに?」院長は朱面をかり立てて佐介をにらみつけた。「いらざることに口を出すな。何も知らないくせに!」

「さあ、出かけるか」食堂主が立ち上りながら、居眠りをしている菓子屋をはげしく揺り起した。「おい、会議は終ったんだよ」

「え、なに、ああ、そうか」菓子屋は眼をぱちぱちさせながら口の端のよだれを拭いた。「僕のウナギはどれだ?」

 経営者たちはそれぞれ立ち上り、上着を着け、おのおの折詰めをぶら下げた。院長はすばやく入口の方にかけて行き、侍従のようにうやうやしく扉を押し開いた。教授を先頭に、五人の男女はぞろぞろと廊下に流れ出た。院長もそのあとにくっついて、階段を三四段降りかけたが、たちまち飛鳥のように階段をかけ登り、勢い込んで院長室にまい戻ってきた。書記卓の栗山佐介の前にいきなり立ちふさがった。

「もう君は今日限り、当院に出勤して来なくてよろしい。私物をまとめて帰って呉れたまえ」

「え。クビですか?」佐介はびっくりして院長の顔を見た。

「でも、僕がいないと、いろいろ当院の事務に支障……」

「後釜には女秘書がやってくることになっている」院長は怒りを押えて無理ににやりとわらった。「電報を打っても出て来ないし、出て来たと思うと、いらざることに口を出すし」

「昨晩は僕の方にも都合がありまして――」

 院長はその弁解を聞かず、くるりと身をひるがえして、経営者たちのあとを追って階段をどどどどとかけ降りた。経営者たちの群はおのおの折詰めをぶら下げ、すでに玄関を出て、陽光の玉砂利道を正門の方にゆるゆると進みつつあった。彼等の後ろ姿を見送るべく院長は笑いで頰を引きつらせながら、玄関の石畳のとば口に立ち止った。(今日はきゃつ等にも相当点数をかせがれたな)と院長は考えた。(ウィスキー戦術もあるいは逆効果だったかも知れないぞ)院長の頭上、バルコニーの端をかすめて、つばめが一羽すばらしい速度で飛んだ。その時院長室の書類戸棚が内側からがたごとと開かれて、煙爺とニラ爺がごそごそと這い出してきた。栗山佐介はぎょっとして書記卓の前に棒立ちになった。両老人の顔は憤怒と疲労と空腹のために、険(けわ)しい色にくまどられ、眼はにじみ出た涙や目やにのためにきらきらとかがやいていた。うしろめたい緊迫感と驚愕が佐介の身体を棒立ちのまま動けなくした。

「ど、どうして、そ、そんなところに」佐介の舌はもつれた。「這入ってたんです?」

「聞いたぞ」煙爺が腰をさすりながら低い声で言った。

「何もかも聞いたぞ?」

「お前たちの相談を」ニラ爺はかすれた声でわらった。

「すっかり聞いてやったぞ。ヒ、ヒ、ヒ」

「ぼ、ぼくは今来たばかりなんだ」弁解にならぬ弁解を佐介はした。「来たとたんにクビになってさ。何が何だかさっぱり判らないんだ」

 両老人はじりじりと書記卓に近づいてきた。長時間戸棚の中にちぢこまっていたので、二人とも足がしびれているらしく、その動作は緩慢であった。佐介は身体を固くして二人の動きをじっと見守っていた。しかし二老人はただ無意味に動いているだけで、どうしたら自分の感情を動きに移せるか、判っていないように見えた。ニラ爺の手が偶然に書記卓の卓上ピアノに触れ、さげすむような声を出した。

「なんや。これ、オルガンか?」

「ピアノだよ」佐介はおとなしく答えた。「あんたに上げるよ。そのつもりで持って来たんだ」

「またこれにも、たくらみがあるんじゃなかろうな」煙爺が佐介をきっとにらんだ。「全く油断もすきもないからな。強化米だとばかり思っていたら、黄変米だと来やがる。ニラ爺さんにそれを弾かせて、皆を神経衰弱にしようという仕組みだろう」

「そ、そんなことはないよ」

 ニラ爺は卓上ピアノから手を放したが、また直ぐに抱き上げて、何を思ったかふらふらとバルコニーの方に動き出した。開かれた窓からさわやかな空気が流れ入ってきた。煙爺は両手を上げて深呼吸をしながら、いらだたしげな足どりでそのあとにつづいた。バルコニーの上からは、あおあおと茂った院内菜園が見え、鈍(にび)色の鉄の正門が見え、かなた駅に至る一筋の石ころ道が見えた。その石ころ道を経営者たちの一行が小さく歩いていた。その右手にあたる雑木林の中から、大小数匹のよごれた犬がのそのそと這い出し、いやな声で啼き立てながら、こもごも入り乱れて石ころ道に走って来た。最初に悲鳴をあげたのは、一行の最後尾を歩いていた女金貸であった。

「犬が!」彼女は走り出そうとしたが、石ころにハイヒールの踵(かかと)をとられてよろめいた。「あっ、たすけてえ!」

 四人の男はぎょっとして振り向いた。よろめいた女金貸の折詰めを、大きな灰色の犬が濡れた鼻先を近づけてくんくんと嗅いだ。脚の短い小さな犬は金貸の背後に回り、そのふくよかな腰のあたりをくんくんと嗅ぎ回った。教授が叱咜するように言った。

「悲鳴を上げるんじゃない。そんな声を出すと、ますます犬からバカにされるんだ!」

 女金貸は大急ぎで眼の色をかえて起き上った。犬たちは二三歩後退した。眼の色を変えているのは彼女だけでなく、四人の男たちもすっかり変っていた。なかんずく恐怖で眼を青くしていた食堂主は、その肥った躰[やぶちゃん注:「からだ」。]にはずみをつけて、いきなりかけ出そうとした。教授が大声で叱りつけた。

「走るな! 走るとガブリと嚙みつかれるぞ。ふつうの歩調で歩くんだ」

「自分のことばかりを考えるな!」運送屋が必死に怒鳴った。しかしその運送屋も声がうわずって、足どりもすこし早くなっていた。「落着け。落着いて、かたまって歩け。犬になめられるな!」

「アレエ!」

 女金貸はふたたび絶叫して、鰻(うなぎ)の折詰めを手から放した。灰色犬がガブリと折詰めを嚙んで引っぱったのだ。犬たちはたちまち折詰めにたかり、押し合いへし合い、低くうなり合って牙を鳴らした。折詰めはただちにばらばらに分解され、犬たちは舌を鳴らして鰻の白焼きをむさぼり食い始めた。女金貸は小走りで一行に追い付いた。

「落着いて、ゆっくり歩け!」運送屋がふたたびうわずった声で注意した。「俺もビルマ俄線で野犬に後追いされたが、走っちゃダメだぞ。走ったとたんに飛びかかられるぞ。粛々(しゅくしゅく)と歩け!」

「狂犬じゃないかしら」女金貸が半分泣き声で言った。「狂犬だったらどうしましょう」

「不吉なことを言うな」菓子屋が慄えながら歩を早めた。

「ああ、神様!」

「ははは、犬にたかられてるな」玄関のとば口で背伸びしながら、院長がたのしげにひとりごとを言った。「二人や三人嚙みつかれた方がいいよ。だいたい経営者にはウルサ型が多過ぎるからな」

「折詰めなんかぶら下げてるもんだから」バルコニーの上で小手をかざしたまま、佐介はにこにことニラ爺をかえりみた。「犬から、うようよたかられているよ」

 ニラ爺は沈黙していた。沈黙したまま、バルコニーから半身乗り出して、真下をじっと見おろしていた。その真下には、開き切った向日葵(ひまわり)の花のような形で、黒須院長の禿頭があった。ニラ爺は手にした卓上ピアノを、ねらいをつけて、バルコニーからぐっと差し出した。そのまま手を放した。風圧を鍵盤(キイ)に受けて、卓上ピアノは微妙なメロディを奏しながら、まっすぐに大地めがけて落下し、院長の肩をわずかかすめて、めちゃめちゃな音響と共に石畳の角にぶつかった。声にならない声を立てて本能的に腰を曲げた院長の禿頭に、一本の小さな釘をともなった木質部の破片が、まるでねらいをつけたかのようにするどく飛びかかった。釘は禿頭にぐさりと突きささり、木の破片は釘にとめられてそのまま額にぶら下った。院長は頭を押えて、大声でわめいた。

「ああ、誰か、誰か来てくれ!」

 院長は玄関に逃げこみながら力をこめて釘を引き抜いた。引き抜かれた穴から、アルコール分を若干含有した鮮血がどくどくと流れ出て、院長の掌やこめかみや頰をべっとりと濡らした。院長は顔色を変えた。電球のガラスの針で脳天を突き刺し、そして死んでしまった父親のことを、パッと思い出したのだ。院長は追いつめられた鼠のような顔になり、忙しく左右を見回し、あえぐような声を出した。

「ああ、誰か来て呉れ。俵医師、いや俵じゃダメだ。木見婆さん。木見婆さん!」

 木見婆は私物や米やカンヅメを大風呂敷に包みこみ、すでに夕陽養老院の建物を離れ、小走りで裏門の方にかけていた。行きがけの駄賃に、米やカンヅメ類を欲張って押し込んだので、その風呂敷包みの重みで、木見婆の走り方はまるで泥酔者のそれであった。ニラ爺はバルコニーから院長室へかけこみ、廊下に飛び出して階段を大急ぎでかけ降りた。どこに行くというあてもなく、ニラ爺は顔中を汗と涙だらけにしながら、大声を上げて階下の廊下を走っていた。煙爺もあてもなくそれにつづいて走った。院長はふたたび玉砂利道に飛び出し、頭を両掌で押え、玉砂利を蹴散らしながら、鼠花火のようにそこらを無目的にかけ回っていた。経営者たちはてんでに折詰めを道ばたに投げ捨て、走るな、走るな、とお互いを牽制(けんせい)し合いながら、競歩の選手のように足を突張って駅に急いでいた。競歩と言うにはそれは規約を無視し過ぎていて、やはりそれは一種の疾走であった。犬たちは折詰めにたかってはそれを食べ尽し、また疾走する経営者たちのあとを追って走った。走ったりよろめいたりかけ回ったりしている人間や犬たちに、晩春の陽光はうらうらとさしわたり、さわやかな大気を切って紫黒色のつばめが飛んだ。つばめの尻尾は翅(はね)とともに長く、しゃれた形に分岐していて、それを自在に操作しながら方向を変えた。人間はとてもこういう具合に身軽には行かない。

 

[やぶちゃん注:以上を以って本篇「砂時計」は終わっている。]

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