今日、遂に遺書に初めてKのことが語られる――(「もう一人」の「男」・「其男」として末尾に登場する)
……『奥さんは急に改たまつた調子になつて、私に何う思ふかと聞くのです。その聞き方は何をどう思ふのかと反問しなければ解らない程不意でした。それが御孃さんを早く片付けた方が得策だらうかといふ意味だと判然(はつきり)した時、私は成るべく緩(ゆつ)くらな方が可(い)いだらうと答へました。奥さんは自分もさう思ふと云ひました。
奥さんと御孃さんと私の關係が斯うなつてゐる所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です。自白すると、私は自分で其男を宅へ引張つて來たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隱さず打ち明けて、奥さんに賴んだのです。所が奥さんは止せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分あるのに、止せといふ奥さんの方には、筋の立つ理窟は丸でなかつたのです。だから私は私の善(い)いと思ふ所を强ひて斷行してしまひました。』
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月4日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十二回より。太字は私が施した)
*
「ければならない事にな」ったという先生、
「其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐ」ると、現在形で述懐する先生、
しかも「もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつた」という先生、
そうして悍(おぞ)ましくも
「私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ」だ
と言い放つ先生を見よ!
「手もなく」「其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ 」というどこか自己責任回避としか思えない弁解にならない弁解は何だ?!
「魔」とは何か?! いやさ、誰か?!
私は「こゝろ」の先生の遺書の中で唯一、今も甚だしい不快感を持たずには読めない数少ない箇所であることを「自白」する――
*
なお、「自白」という言葉は、現在、我々の知り得る遺書の中では三度目の出現である。最初は後の「先生と遺書」冒頭部分の『然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです』(『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月16日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十五回)で、次は故郷を永遠に去った直後の金の話で、『自白すると、私の財產は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです』である。
遺書を読む学生が君だったら、どう感じるか考えて見給え。
遺書はのっぴきならない絶対の告白書であり、自白書である。されば、学生は「自白」という言葉に甚だ敏感に反応するはずである。
しかし、この三つを並べて見た時、どうか?
先生の考え方から、第一のそれには、先生が生死の問題を常に意識している土壇場にあったことを除外して考えれば、
「世間的手蔓を求める君の依頼なんぞは私にはそれだけでも実は努力に値いしないものであることは判っていましょう」
という例の調子の含みが「自白」されているに過ぎないことは、後を読まずとも、直ちに判ることだ。
二つ目はどうだ? 高等遊民の癖に、
「金の話ですが、まあ、この程度の小金持ちに過ぎなかったのですよ」
という軽い「いなし」の「自白」でしかないではないか。
そうした「自白」項目の三番目が、これだ。
ここに「先生」の、いやさ、作者漱石自身の社会認識の偏頗性と哀れな自己合理化のそれが見え透いてくる。それこそが、例えば、私のこの箇所の文々(もんもん)に対する激しい生理的嫌悪感の正体であるように思うのである。
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