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2020/07/07

甲子夜話卷之六 13 京都公家流離の幷その和歌

 

6―13 京都公家流離のその和歌

林氏云。近年京より一奇人來りて和歌を唱へしに、忽人々風靡せられて、倍從するもの多かりしが、官より竊に沙汰あり、其人恐れて歸京しけり。實は武者小路家の子にて少將までに成し人とよ。年少豪邁放佚にて、三條とか五條とかの繁華の地にて、人を刃殺して廢嫡となりたるが、姓名を匿して東來せるとなん。銕山と號しける。唐伯虎、徐文長などの類にて、其人は兎も角も、文采はすぐれたることにて、其家に恥ざる才と思はる。惜しむべき人なり。傳へ聞し歌の中にて語記せるは、

   江鶉

 秋の日も入江の波は色くれて

      殘る尾花に鶉鳴なり

   冬杜

 木がらしの吹盡したるもりの中に

      なを枯のこるかしは手の聲

此二首などは近世の秀逸とも云べき詠なるべし。

■やぶちゃんの呟き

 私は和歌嫌いだが、この二首、静山が言う通り、なかなかいいと思う。特に後者は。因みに「なを」はママ。

「林氏」お馴染みの林述斎。

「竊に」「ひそかに」。

「武者小路家の子」「少將」「人を刃殺して廢嫡となりたる」「銕山」(てつざん)「と號しける」と並べられれば、調べようがあろうかと思うのだが、不詳。識者の御教授を乞う。

「唐伯虎」明代の文人にして畸人であった唐寅(とう いん 一四七〇年~一五二四年)。伯虎は字(あざな)、仏教に心を寄せたことから「六如」と号した。書画に巧みで「祝允明」・「文徴明」・「徐禎卿」と並んで「呉中の四才」と呼ばれたが、他の三人と異なり、生涯、官職に就くことが出来なかった。ウィキの「唐寅」によれば、父は『蘇州呉県の繁華街で営業していた肉屋』(或いは酒屋・飲食業)であったが、『幼少から利発であったため』。『教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため』、『人々の注目を集めた』。十六歳で『蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあって』『親友となった。文徴明の父、文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物で』十『歳年上だったが、生涯に渡る親友となった』。『青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが』生来の『享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず』、『一心不乱に勉学に励んだ結果』、一四九八年二十九歳の『時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため』、彼には『唐解元という呼び名も』ある。『科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが』、『思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆』(とぼく)『という人物が、嫉妬の余り』、『関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも』二『人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり』、『建物の』二『階から飛び降り』、『そのまま帰ってしまった』『という』。但し、温厚な『紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという』から、余程、毛虫のような厭な奴だったに違いない。『官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した』ことから、『明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから』、『唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという』。『唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが』、一五〇〇年頃から『周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである』という。一五一二年に『日本人商人・彦九郎に自作の詩を自署して贈っ』た「贈彥九郞詩」(京都国立博物館)が現存する』。一五一四『年に寧王の厚い招聘に応じて廬山やパン陽湖に遊びつつ』、『南昌に至った』が、『寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出』、一五一五年秋頃に『蘇州に帰った』。『その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生き』、五十四歳で『その生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう』とある。

「徐文長」明代の文人で畸人の徐渭(じょ い 一五二一年~一五九三年)。書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮し、その作風は後世に大きな影響を与えたが、その一方で精神を病み、妻を殺害するなど、破滅的で不遇な生涯を送った。ウィキの「徐渭によれば、『字』は当初は『文清、のちに文長と改めた』。『浙江省山陰県大雲坊』で、『現在の紹興市』『の生まれ』。『父徐鏓(じょそう)は四川夔州府(きしゅうふ)の知事をつとめ』、『徐渭はこの父の召使いとの間に生まれた庶子であった。正妻の子である二人の兄徐淮(じょわい)と徐潞(じょろ)がいたが、徐渭が生まれたときは既にこの正妻は亡くなって』おり、『生後百日目で父が病死。後妻だった苗氏が嫡母となって徐渭を育てた』。六『歳からエリート教育を受け、経学をはじめ八股文・古琴・琴曲・剣術などを学んだ』。十四『歳のときに嫡母が没し』、『精神的な支柱を失う』。二十歳の時、『ようやく童試に合格し秀才となる。その後』二十年間に八度も『郷試に臨』んだものの、『及第に至ることはなかったが、その間に多くの師友・学友を得て郷里では「越中十子」と称されたという。この中には画家の陳鶴や泰州知事にのぼった朱公節などがいる』。二十代始め頃、『潘氏の婿となり長男徐枚をもうけた』。二十五『歳のときに兄徐淮が急死。そのすぐ後に十九歳の『若妻が亡くなるという不幸が重な』った。『科挙に受からず』、『役人になることはできなかったため、やむなく家塾を営んだが』、『生活は貧窮した』。『友人を頼って各地を転々とするうち』、三十二歳の時、『紹興に侵入した倭寇の討伐軍に剣術の師である彭應時』『や友人呂光升』『らと参加』し、『戦果を挙げたことで胡宗憲など高級官僚から幕客(私設秘書)として迎えられた。この頃、名将として名高い戚継光や兪大猷に彼らを讃える詩を贈っている。胡宗憲は徐渭の文才を見抜き』、『様々な文章の代筆を依頼した。殊に』一五六〇『年に制作した「鎮海楼記」が高く評価され』、『褒賞を得る。これを元手に』四十『歳にして自宅となる酬字堂を建』てたが、二年後、『胡宗憲が不正事件』『に連座し』て『失脚』してしまう。『徐渭自身は罪に問われなかったとはいえ、有力な後ろ盾を失い』、『生活は困窮』し、次第に『精神が不安定になっていく。一旦は北京に職を見つけるが』、『すぐに辞め』、『紹興に戻った』。その後、『自ら「墓志銘」を書き』、僅か二年の間に九回もの『自殺未遂を重ねた』。一五六六年のこと、『狂気から』当時の『妻である張氏を殺害』、七『年の獄中生活を送』ることとなった。その間、『知人』にして『パトロンで』も『あった張天復・元汴(げんべん)父子』が『減刑や釈放に奔走し』、『親身になって徐渭の救出を試みている』。『釈放』『後、紹興近くの名勝五泄山に友人らと滞在し「遊五泄記」』『を著し、その後に杭州、南京、宣府(河北省)など中国各地を遊歴。多くの人物と交遊』して『盛んに詩や画の制作、文筆を行った。北京では武将の李如松と面識を得て後に任地の馬水口(河北省)に賓客として厚遇された』。一五八二年、病いが『進行し』、『帰郷する』も、『家庭内不和で後妻・長男と別居となり』、『次男徐枳(じょき)と暮らす。門戸を閉ざし』、『誰とも会おうとはせず』、『遠出もすることはなかったが、制作意欲は旺盛で「西渓湖記」など多くの傑作を残した』。一五八七年、『再び、李如松に招かれたため』、『北京へ赴く途次、徐州で発病』、『やむなく自宅に戻る。徐枳のみが赴き』、『幕客となっている。後にこのとき徐枳が得た報酬を充てて徐渭の詩文集を編纂した』。一五九三年、『徐枳の岳父の屋敷に仮寓』し、自伝「畸譜」を『書き上げると、その年に没した。享年』七十三であった。『当時の文学界では華美で大仰な「台閣体」に対して古文復興運動の機運が高まり、李攀竜や王世貞ら古文辞派が唱える擬古主義が台頭しはじめていた。しかし、徐渭は古文辞派を批判し、自らの素直な気持ちを表現すべきであると主張。袁宏道は徐渭を敬愛し』、「徐文長伝」を『著している』。また、『劇曲家で古文辞派批判の急先鋒の湯顕祖も、彼の「四声猿」を『高く評価した』。「四声猿」は『異色作として後進に大きな影響を及ぼした』。『書は蘇軾・米芾・黄庭堅などの宋代の書に師法し、行書・草書に秀でた。袁宏道が「八法の散聖、字林の侠客」と評したように』、『自由奔放な書風を確立した。清の八大山人・石濤・揚州八怪らは徐渭の書風を強く敬慕し』ている。『画は牧谿など宋・元の花卉図を模範とし、やはり自由奔放で大胆な画風であった。陳淳とともに写意画派の代表とされる。徐渭は好んで水墨の花卉雑画』『を画き、自作の題詩を書き込んでいる。山水図はあまり画かなかった。その画風は』『後の大家に強い影響を与えた』とある。

「類」「たぐひ」。

「江鶉」「えのうづら」と訓じておく。

「冬杜」「ふゆのもり」。

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