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2020/07/03

譚海 卷之三 烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

 

烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

○烏丸(からすまる)光廣卿又連歌などを好(このま)れ、玄旨法師の門弟となり、澤庵・江月などと云(いふ)大德寺の僧徒と往來密にして、漢和の百韻など度々興行有。光廣卿殊に禪學に入られけるゆゑ、詠歌其氣を帶(おび)てあらき作意也。其上連歌の餘執(よしふ)に引(ひか)れて、はいかい體(てい)にながれしゆゑ、詠歌半(なかば)はたゞごと歌になり、俗語をまじへよまれしまゝ、狂歌の風に落(おち)たり。玄旨法印の和歌も半は狂歌まじれり。若狹守長嘯子(わかさのかみちやうしやうし)・牡丹花老人(ぼたんくわろうじん)など右の窩窟(くわくつ)をまぬかれず、小堀遠州などの詠歌も同じやうのことなり。朝廷に和歌の道すたれしより、東野州(とうやしう)などと云(いふ)人專ら委任し、地下(ぢげ)の歌よみ盛(さかん)に成(なり)て、古今傳(こきんでん)などと云(いふ)事を私(わたくし)に考へ、二條流の說などをまじへて興行せしより、古今の讀(よみ)まちまちにわかれ、却て深祕不可說ある事の樣にとりはやしぬる事になりぬ。西三條家など雷同せられて、搢紳(しんしん)過半地下の歌よみになびきよられしかば、又一旦は和歌の道さかんの樣に見えぬれど、まつたく歌道亂世によりて地に落たる災(わざはひ)也と人のいへり。

○古今の傳と云(いふ)事は、二條家斷絕ののちは、上冷泉殿御家に傳へられたるのみ古來の正說とする事也。天子古今御傳受のとき、宗匠をめされて聽聞(ちやうもん)ある時は、そば聞(ぎき)と云(いひ)て、壹人(ひとり)昵近(ぢつこん)の公卿を許され、始終御傍にて承る事也。是を古今傳受せらるゝとはいはね共、自然其公卿の家に其說のこりとゞまりて、世にひろまる事とも成(なり)ぬるよし。

○光廣卿禪に入られける故にや、放蕩なる人にて、寐所(しんじよ)なども晝夜枕席(ちんせき)を收(をさむ)る事なく、眠(ねむり)來(きた)ればいつにても入(いり)て寐られけるとぞ。後陽成院禁裏の高どのより公卿の屋敷をえいらん有けるに、殊に破損して見苦敷(みぐるしき)家有(あり)、誰(た)が家ぞと勅問有(あり)、光廣卿の宅の由を申上(まうしあげ)ければ、餘り荒たるとて修覆仰付られけるとぞ。【但(ただし)光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし】

[やぶちゃん注:「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)「元和の比堂上之風儀惡敷事」に既出既注なので、参照されたい。江戸前期の公卿で准大臣烏丸光宣の長男で、官は正二位権大納言に至り、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ人物で能書家としても知られるが、ここにある通り、私生活はトンデモ法外なる公卿である。

「玄旨法師」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「澤庵」知られた安土桃山から江戸前期にかけての臨済僧沢庵宗彭(そうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)。

「江月」(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は江戸初期の臨済僧で茶人。津田宗及(そうぎゅう:安土・桃山時代の堺生まれの豪商で茶人。信長・秀吉の茶頭となった)の子。名は宗玩(そうがん)。別号に欠伸子。和泉の人。大徳寺住持となり、皇室を始めとして上流階層の帰依を得、特に茶道を好み、父津田宗達及び小堀遠州について奥義を究めた。

「大德寺」京都市北区にある臨済宗大徳寺派大本山。山号は竜宝山。開創は正中元(一三二四)年、開山は宗峰妙超、開基は赤松則村。後醍醐天皇から勅額を賜り、五山の一となったが、後、その位を辞し、在野的寺格を保った。「応仁の乱」で焼失したが、堺の豪商の帰依を得て一休宗純が再建。多数の塔頭があり、有名な茶室・茶庭も多い。

「はいかい體(てい)」「俳諧」の「體」。「はいかいたい」でもよいが、私は批判がましい謂いであるところから「てい」と読んでおきたい。

「若狹守長嘯子」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。

「牡丹花老人」(嘉吉三(一四四三)年~大永七(一五二七)年)は室町中期の連歌師・歌人で歌学者。准大臣中院通淳(なかのいんみちあつ)の号。京生まれ。若くして出家し、連歌師宗祇より伝授された「古今和歌集」・「源氏物語」の秘伝を、晩年に移住した堺の人々に伝え、「堺伝授」の祖となった。「古今和歌集古聞」など、講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては宗祇・宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」などが伝わる。「牡丹花」は「ぼたんげ」とも読むらしい。

「窩窟(くわくつ)」以下にも下卑て非難めいた謂いで、寧ろ、江戸の歌人としても名を馳せた筆者津村であるとは言え、こうした畳掛けが彼自身の嫌らしさを感じさせるところである。

「小堀遠州」(天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年)は江戸初期の茶人で遠州流の祖であり、また、江戸幕府の奉行として建築・土木・造園を手がけたことでも知られる。名は政一。近江国小堀村(現在の長浜市)生まれ。初め、豊臣秀吉に仕え、後、徳川家康に従い、父正次の死後は家を継ぎ、近江小室一万石を領して遠江守に任ぜられた。早くより古田織部に茶の湯を学び、品川御殿作事奉行の任にあった寛永一三(一六三六)年には同御殿で第三代将軍徳川家光に献茶し、ここから、所謂、将軍家茶道師範の称が起った。和歌・書・茶器鑑定にも優れ、陶芸も指導した。

「東野州」東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年頃)は室町前期の武家の歌人。法名は素伝。従五位下下野守であったことから「東野州」と称せられた。東国の武門の名家千葉氏の支流の東益之(とうのますゆき)の子で美濃国郡上領主。宝徳元(一四四九)年から二条派の堯孝(ぎょうこう)、冷泉派の正徹に歌を学び、翌年、正式に堯孝に入門した。この頃の歌についての話を書き留めたものが「東野州聞書」である。幕府の命で東国に転戦し、晩年は美濃に帰った。篤学で古典に詳しく、文明三(一四七一)年には、かの宗祇に「古今和歌集」や「百人一首」などを講じている。特に「古今和歌集」の秘説を切紙(きりがみ)に記して伝えたが(次注参照)、これが「古今伝授」の初めとして、後世、重視された。但し、彼は実際には当時の歌壇では大物と目されてはおらず、その死後、宗祇が自身の権威附けのために宣伝して、著名になったと考えられている。なお、「伊勢物語」・「新古今和歌集」・「拾遺愚草」などの講説も現存する。

「古今傳」「古今伝授」。歌学用語で「古今伝受」とも書く。「古今和歌集」の解釈上の問題点を。師匠から弟子へ教授し。伝えていくことで、「三木三鳥」などと呼ばれる同集所見の植物や鳥についての解釈を秘説とし、これを短冊形の切り紙に書き、秘伝として特定の弟子に授ける、所謂、「切り紙伝授」が特に有名であるが、本来は同集全体についての講義を行うことで、証本を授与することもあったらしい。その萌芽は、藤原俊成が藤原基俊に入門し、「古今和歌集」についての教えを受けたことを本源とする。俊成は息子の定家にこれを伝え、定家は「僻案抄」ほかを著わして、若干の弟子にこれを教えている。伝授の形式は、基俊・俊成・定家以来の教えを伝えていると称する東常縁が宗祇に伝授した時から整えられた。宗祇以後、「御所伝授」(宗祇-三条西実隆-細川幽斎-智仁親王-後水尾院)、「堺伝授」(宗祇-肖柏-宗伯)、「奈良伝授」(肖柏-林宗二(りんそうじ))などの各流が派生した。本来は純然たる古典研究であったが、中世の神秘思想の影響を受けて、室町以降、空疎な内容や末梢的な事柄を秘事として尊信する形式主義に流れ、近世の国学者らから批判を受けたものの、文化史的な意義は見逃せない(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「二條流」中世に於ける和歌の流派である二条派。藤原北家御堂流の御子左家(みこひだりけ)は藤原俊成・定家・為家と和歌の家系としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていたが、為氏の庶弟為教(ためのり)・為相(ためすけ)と相続を巡って不和となり、為教は京極家に、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世(ためよ)、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(後の南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(後の北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立し、勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派の実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまった。その後、秘伝は、先に出た東氏を経て、三条西家(藤原氏で公家)に伝わり、明治を迎えた。世に言う「古今伝授」がこれである。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家・宮家・堂上家・地下家にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家・烏丸家も二条派に属する(以上はウィキの「二条派」に拠った)。

「深祕不可說」禅宗で言う教外(きょうげ)別伝に引っ掛けたものであろう。

「西三條家」三条西家に同じ。藤原北家閑院(流嫡流の三条家の分家である現在の嵯峨家(正親町三条家)の、そのまた、分家。大臣家の家格を持つ公家。「西三条家」とした時期もある。前注に示した通り、室町から明治に至るまで、二条家正嫡流を伝承する三条西家が、定家の後継者として、歌壇の主流を占めていた。

「搢紳」官位が高く、身分のある人。「笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)む」の意から。

「上冷泉殿御家」ウィキの「冷泉家」の「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。冷泉為尹(ためまさ)は応永二三(一四一六)年に次男持為(もちため)に『播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するため』、『為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り』、『地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年には『為満が勅勘を蒙り、再び地方に下った。上冷泉家の家督は中山家から為親が新たに当主として迎えられ』、『冷泉為親を名乗る』。『しかし秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、徳川家康の執り成しに『よって前当主であった為満が都へ戻り』、『再び当主となることが出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め』、『公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『為満の復帰により』、『為親は上冷泉家の当主でなくなったが』、『別に新たに中山冷泉家を興せることとなり、その新たな堂上家の当主となった』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「枕席」寝具一式。

「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。以下の話は在位中の江戸時代、慶長一四(一六〇九)年七月に起きた「猪熊事件」(侍従猪熊教利による女官密通事件)に光広が連座して勅勘を下し(官停止・蟄居)、慶長一六(一六一一)年四月にそれを勅免して還任した後のことであろう。

「えいらん」「叡覽」。

「光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし」この割注、意味が私にはよく判らない。識者の御教授を乞うと記したいが、実際には、私は判ろうとする気持ちが起こらないのである。この辺りの津村、正直、全く、面白くなく、ゲロが出るほど生理的に厭だからである。]

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