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2020/07/05

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 二

 

         

 

 元禄元年、其角が二度目に京に遊んで翌年まで滞在した時、去来は無論これに逢っている。去来の句が其角の撰集に見えるのは貞享四年の『続虚栗』からであるが、その当時已に其角と多少の交渉があったか、単に京洛の一作者としてその句を収めたものか、それはわからぬ。貞享元年に其角が京へ上って、京の俳人と唱和した『蠧集(しみしゅう)』の中には、去來の名はまだ見えぬから、俳人としての去来はその後に及んで形を成したものに相違ない。

[やぶちゃん注:「元禄元年」一六八八年。

「貞享四年」一六八七年。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「貞享元年」一六八四年。

「蠧集(しみしゅう)」当時、二十四歳の其角が上京して春澄らの京都の俳人と座を同じくして同年に京都で板行した其角編の俳諧撰集。書名は同集に載る世吉(よよし:四十四句形式の連句)の「句を干(ほし)て世間の蠧(しみ)を拂ひけり」という友静の発句に由る。]

 元禄三年に其角が上梓した『新三百韻』及『いつを昔』は、二度目の上京の記念と見るべきもので、『新三百韻』には去来の名は見当らぬが、『いつを昔』の中にはやや注目すべきものがある。

 朝桜よし野深しや夕ざくら   去来

   ひろさは

 池のつら雲の氷るやあたご山  同

[やぶちゃん注:「ひろさは」嵯峨野の「廣澤の池」。「あたご山」愛宕山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。広沢の池の北西六キロメートル半ほどの位置にある。「いつを昔」に元禄元年『十月廿日 嵯峨遊吟』(其角・凡兆と同行)とする内の一句。]

   臨川寺

 凩の地迄おとさぬしぐれかな  同

[やぶちゃん注:「臨川寺」嵯峨野渡月橋の左岸東北直近にある寺。これも前の句と同じ吟行中の一句であるが、後の「去来抄」に載るものは、

 凩の地にもおとさぬしぐれ哉

と改作している。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、「葛の松原」支考著・不玉編・元禄四年刊)に『よれば「されど、迄といへる文字は未練の叮嚀なれば、ただ地にも落さぬと有るべき」だという芭蕉の教えによって改案したものであり、『去来抄』にも、荷兮の「凩に二日の月のふきちるか」の句との比較の上で、「汝が句は何を以て作したるとも見えず、全体の好句也。たゞ地迄とかぎりたる、迄の字いやしとて直したまへり」と、同じく芭蕉の斧正があった旨を記している。「地迄」では、説明に堕し、天地の空間のひろがりが感じられないのである』とある。]

   大井里

 冬枯の木間のぞかん売屋敷   同

[やぶちゃん注:「大井里」は「おほゐのさと」。嵯峨の奥、保津川沿い。現在の京都府亀岡市のこの付近。「木間」は「このま」。「いつを昔」に前の「池のつら雲の氷るやあたご山」の句と並んで載るので、やはり同じ吟行の作と思われる。]

   続みなしぐりの撰びにもれ侍りしに
   首尾年ありて此集の人足にくはゝり
   侍る

 鴨啼や弓矢を捨て十余年    同

[やぶちゃん注:「此集」は「いつを昔」のことであるが、この前書は少し判り難い。堀切氏の前掲書の本句の注に、『この句は『いつを昔』に載る去来・嵐雪・其角の三吟歌仙の発句であるが、この句を詠んだ貞享三年冬当時は、この歌仙が未完成だったため、『続虚栗』には間に合わず、その後年を経て首尾したので、『いつを昔』に加えられることになったとの意である』とある。上五は「かもなくや」。「捨て」は「すてて」。堀切氏の評釈によれば、『鴨の鴫き声を聞いて、ふと己れの半生を述懐した句である。弓矢の修業の道を捨てて十余年――もはやすっかりに隠士の境涯にある自分は、いま鴨の淋しげな鳴き声を耳にすると、過ぎし曰のことをしみじみと思い返してしまうことだというのである。かつて剣術・柔術・馬術・兵法などあらゆる武芸の道を究めた去来も、仕官お志を断ってはや十余年、この年、貞享三年にはすでに三十六歳を迎えていたのであった。若き日の己の姿と現在の境涯とを比べて、深い感慨を催しているのである』と、句よりも素敵な解を記しておられる(私は本句に惹かれない)。さらに、其角編とされる「俳諧錦繡緞(きんしゅうだん)」(元禄一〇(一六九七)年刊。但し、近年疑義有り)には『「番匠(ばんしょう)の入口に『俳諧に力なき輩(ともがら)、かたく入(いる)べからず』と定めたるも」と前書。『句集』は下五「十五年」とする』とある。]

 弓になる笋は別のそだちかな  同

[やぶちゃん注:「笋」は「たけのこ」。]

   鉢たゝき聞にとて翁のやどり申されしに
   はちたきまいらざりければ

 箒こせまねても見せん鉢扣   同

[やぶちゃん注:「箒」は「はうき」。「鉢扣」は「はちたたき」。空也念仏(平安中期に空也が始めたと伝えられる念仏で、念仏の功徳により極楽往生が決定(けつじょう)した喜びを表現して瓢簞・鉢・鉦 (かね) などを叩きながら、節をつけて念仏や和讃を唱えて踊り歩くもの。「空也踊り」「踊り念仏」とも称した)を行いながら勧進することであるが、江戸時代には門付芸ともなった。特に京都の空也堂の行者が陰暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間に亙って鉦・瓢簞を叩きながら行うものが有名であった。堀切氏前掲書に、『元禄二年の師走二十四日、郷里伊賀から京へ出て、嵯峨の落柿舎(もしくは中長者町堀川の去来宅)に泊まった芭蕉は、鉢叩きがやってくるのを夜通し待ち詫びたが、ついに廻ってこなかった。そこで去来は、待ち詫びた師翁へのせめてもの慰めにしたいので、誰かはやく箒をよこしなさい――わたしが箒を手に持って鉢叩きの恰好をまねてみせましょう、と即興的に吟じたのである。もちろん、実際に鉢叩きの姿をしてみせたというのではなく、この句を献ずることで、慰めの志を示して、自ら興じたものとみてよかろう』とある。実は去来にはこのエピソードを素材にした俳文「鉢扣の辭」がある。宵曲は面倒として後で抄録するが、実際には短いし、去来嫌いの私にして、この一篇は非常に好きな小品なので、以下にフライングして電子化しておく。底本は昭和八(一九三三)年大倉広文堂刊藤井乙男校註「江戸文學新選」を国立国会図書館デジタルコレクションで視認した。読みは私が歴史的仮名遣で附した。一部に読み易く鍵括弧を附した。ロケーションは嵯峨の落柿舎である。

   *

   ○鉢扣の辭

 師走も二十四日、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞(きか)むと例の翁わたりましける。こよひは風はげしく雨そぼふりて、とみに來(きた)らねば、いかに待ち侘び給ひなむといぶかりおもひて

  箒こせ眞似ても見せむ

と灰吹(はひふき)の竹うちならしける。其聲妙(たへ)也。「火宅(くわたく)を出(いで)よ」と仄めしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもあらず。かれが修行は瓢簞をならし、鉦打たゝき、二人三人つれてもうたひ、かけ合(あひ)ても諷(うた)ふ。其の唱歌は、空也の作也。かくて寒の中と、春秋の彼岸は、晝夜をわかず都の外(そと)七所(しちしよ)の三昧(さんまい)をめぐりぬ。無緣の手向(たむけ)のたふとければ、 かの湖春も、「わが家はづかし」とはいへり。常は杖のさきに茶筌(ちやせん)をさし、大路小路に出て、商ふ業(わざ)かはりぬれど、さま同じければ、「たゝかぬ時も鉢扣」とぞ曲翠は申されける。あるひはさかやきをすり、或は四方(しはう)にからげ、法師ならぬすがたの衣(ころも)引(ひき)かけたれど、それも墨染にはあらず、おほくは、萌黃(もえぎ)に鷹の羽(は)打ちがへたる紋をつけて着たれば、「月雪(つきゆき)に名は甚之亟(じんのじよう)」と越人も興じ侍る。されば其角法師が去年(こぞ)の冬、「ことごとく寢覺(ねざめ)はやらじ」と吟じけるも、ひとり聞くにやたへざりけむ。「うちとけて寢たらむは、かへり聞(きか)むも口をしかるべし。明(あか)してこそ」との給ひける。橫雲の影より、からびたる聲して出來(いできた)れり。「げに老ぼれ足よはきものは、友どちにもあゆみおくれて、獨り今にやなりぬらん」と、翁の

  長嘯(ちやうせう)の墓もめぐるか鉢たゝき

と聞え給ひけるは此のあかつきの事にてぞ侍りける。

   *

少し語釈しておく。

・「師走も二十四日」元禄二年十二月二十四日(グレゴリオ暦一六九〇年二月三日)。

・「冬もかぎりなれば」元禄二年は閏一月があったために年内立春となり、この日に寒が明けたのである。

・「とみに」すぐには。

・「灰吹」煙草の灰を入れる竹筒。

・「火宅を出よ」これは鉢叩きがよく詠ずる歌の知られた一節。

・「七所の三昧」当時の洛外七ヶ所の墓地。鳥部野(鳥辺山)・阿弥陀ヶ峰・(新)黒谷・船岡山(蓮台野)・西院(さいいん)・狐塚(栗栖野(くりすの))・金光寺(こんこうじ)。

・「湖春」は北村季吟の嫡男。本名は李重。その一句は「米やらぬわが家はづかし鉢敲き」である。

・「茶筌」鉢叩きの僧はこの時期以外は、茶筌を作って街路で売って身銭としていた。

・「曲翠」は大津膳所藩重臣菅沼外記定常(万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。近江蕉門の重鎮。「曲水」とも記す。晩年、不正を働いた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺し、自らも切腹した。墓所は義仲寺にある。芭蕉の「幻住庵の記」の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵の号である。彼は膳所に於ける芭蕉の経済的支援をもした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。ここでのその一句は「おもしろやたゝかぬ時もはちたゝき」。

・「四方」総髪のこと。

・越人の一句は「鉢扣月雪に名は甚之亟」。修行者であるのに俗人名を名乗っていることを、少し洒落た衣の文様をも含めて、ちゃかして可笑しがったもの。

・其角の一句は「ことごとく寢覺めはやらじ鉢たゝき」。しみじみとした哀感を誘う鉢叩きではあるが、世俗の誰も彼もがそれに心打たれて目を覚ます、というわけでは、ないぜ、という捻りを入れた千両役者其角らしい句であり、去来は其角の字背の思いに徹して添えているのである。

・「橫雲」明け方の山の端にかかる雲。

・「長嘯」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号「長嘯子」の略。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。歌集に「挙白集」がある。長嘯の墓は京都東山高台寺にあり、長嘯の一首にも、

 鉢叩き曉方の一聲は冬の夜さへも鳴く郭公

がある。]

 そのふるき瓢簞見せよ鉢たゝき 同

 「ひろさは」「臨川寺」「大井里」の三つは、いずれも「十月廿日嵯峨遊吟」の作である。この時の同行者は其角、加生(凡兆)の両人であったらしく、各その句をとどめている。其角は元禄二年には江戸に帰っているから、この十月二十日は元年でなければならぬ。去来と凡兆とが当時已に相識であったことは、これによって知ることが出来る。

 「鴨啼や」の句は去来自身の述懐である。『続虚栗』の選に洩れたとあるから、多分貞享年代の作であろう。「十余年」という言葉も漠然たるを免れぬが、姑(しばら)く貞享四年から逆算するとして、去来が弓矢を捨てたのは延宝初年の勘定になるらしい。二十四、五歳と見ていいわけである。

 「弓になる」の句は「舎利講拝み侍りしに十如是(じゅうにょぜ)の心をおもひよせてこの心に叶ふべきを拾ひ出侍る」という十句の中の一で、頭書(かしらがき)に「因」とある。『曠野』に見えた「笹の時よりしるし弓の竹」と殆ど同じ意であるが、句としては数歩を譲らなければならぬであろう。『去来発句集』には「笋」の方のみを採り、「武士の子の生長をいはうて」という前書がついている。これは前書のあった方がよさそうに思う。「弓になる」は「笹」の初案だろうという説もあるが、俄に先後を定めることは困難である。同案として後者を優れりとする外はあるまい。

[やぶちゃん注:「舎利講」仏舎利を供養する法会。本邦では鑑真の渡来以来、唐招提寺を始めとして東寺・延暦寺・法隆寺・薬師寺などで行なわれるに至った。

「十如是」は「法華経」の「方便品」に説かれた因果律のことで、「十如」「諸法実相」とも称する。ウィキの「十如是」によれば、これは鳩摩羅什(くらまじゅう)が訳出した「法華経」に『のみ見られるもので、他の訳や梵文(サンスクリット語)原典には見当たらない』とある。また、『後に天台宗の教学の究極とまでいわれる「一念三千」を形成する発端とされており、重要な教理である』。十如是とは、相(そう:形相)・性(しょう:本質)・体(たい:形体)・力(りき:能力)・作(さ:作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(ほんまつくきょうとう:以上の「相」から「報」に至るまでの九種の事柄が究極的に無差別平等であること)を指し、『諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この』十『の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている』十『の種類の存在の仕方、方法をいう』とある。]

 鉢敲の二句は元禄二年の作であろう。去来の書いた「鉢扣辞」に「されば其角法師が去来の冬。ことごとくね覚(ざめ)はやらじと吟じけるも。ひとり聞にやたへざりげむ」とあるのが、嵯峨遊吟のあった元禄元年の冬を指すものらしいからである。「鉢扣辞」はこの句を解する上からいっても、鉢敲の風俗を知る上からいっても、看過すべからざる文献であるが、全文を引くのは面倒だから、要点だけを記すと、十二月二十四日に例の翁(芭蕉)が去来のところへやって来た。

 「冬もかぎりなれば鉢たゝき聞む」というのだけれども、その晩は生憎「風はげしく、雨そぼふりて」というわけで、なかなか鉢敲が来ない。「いかに待詫び給ひなむといぶかりおもひて」詠んだのが「箒こせ真似ても見せむ」の句なのである。折角鉢敲を聞きに来た芭蕉のために、なかなか本物が登場しないのをもどかしく思って、箒を持って来い、鉢敲の真似をして御覧に入れよう、といったのは、如何にも去来らしい面目を現している。

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。読点であるべきところが句点なのはママ。]

 

打とけて寝たらむは。かへり聞むも口おし[やぶちゃん注:ママ。]かるべし。明(あか)して社(こそ)との給ひける。横雲の影より。からびたる声して出来(いできた)れり。げに老ぼれ足よはきものは。友どちにもあゆみおくれて。ひとり今にはなりぬらんと。翁の

長嘯の墓もめぐるか鉢たゝきと。聞え給ひけるは。此のあかつきの事にてぞ侍りける。

 

 「鉢扣辞」の最後はこの数行を以て結んである。この一句を得て芭蕉も恐らく満足し、気を揉んだ去来も安堵したのであろう。この鉢敲の句は、句の価値以外に師弟の情の流露するものがあって面白い。

 当時芭蕉は『奥の細道』の大旅行を了(お)え、一たび郷里に帰って後、京畿の地に悠遊しつつあった。芭蕉、去来の交渉の文字に現れたものとしては、これが最初のようであるが、已によほど親しかったらしい様子は、この鉢敲の一条によっても十分に想像される。

 次いで其角の著した『華摘』にも、去来の句は、

 雞のおかしがるらん雉のひな    去来

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」。]

 一昨はあの山越ツ花盛り      同

[やぶちゃん注:「をととひはあのやまこえつはなざかり」。堀切氏前掲書に、『旅の途上、ふと振り返ってみると、遥か後方の山なみには爛漫たる桜の花が雲のように白くたなびいているのが眺望できる。一昨日あの山を越えたときはまだそれほどの開花ではなかったのに、わずか二日の間にもうあれほどの花盛りになったのだなあ、と感慨深く眺め入っているのである。恐らく、吉野あたりを旅した折の吟であろう。明るい花の風景を望んで、浪漫的な世界を歌い上 げているのであるが、また一脈の旅愁も感じられる句である。なによりも、軽くさらっとした詠みぶりであるのがよい』と褒められ、以下(踊り字「〱」を「々」に代えた)、『『旅寝論』に、芭蕉が「此句今ハとる人も有(ある)まじ。猶(なお)二、三年はやかるべし」と評したこと、また「其後よしの行脚の帰(かえり)に立(たち)より給ひて、『日々汝があの山越つ花盛の句を吟行し侍りぬ』と語り給ふ」たことが伝えられる』。『なお、一句の成立は、先の『旅寝論』にもみえる貞享五年三月下旬の芭蕉の吉野行脚のときには、すでに詠まれていたことなどから推して、貞享五年春または同四年春と考えられる』と添えておられる。]

   甲陽軍鑑をよむ

 あらそばの信濃の武士はまぶしかな 同

[やぶちゃん注:「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法・武士道を説く。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家老臣高坂弾正昌信の遺記をもとにして春日惣二郎・小幡(おばた)下野が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと考えられている。

「あらそば」は「荒岨」(切り立った崖(のような荒武者))に「荒蕎麥」を掛けて、「まぶし」も、まずは軍記のイメージから「射翳(まぶし)」(身を隠して獲物や相手が来るのを待ち伏せる所から転じて「待ち伏せすること」や、そうした「伏兵」を指す)がメインで、次に彼らのきっとした「目伏し」(目つき・まなざしの意)に、「眩し」もテンコ盛りに塗(まぶ)し加え、最後に次いでに蕎麦粉を「塗す」をも掛けてあるのかも知れない。]

等があり、俳文「鼠ノ賦(ふ)」一篇も収められているが、去来として特にいうに足るほどのものではない。去来最初の撰集たる『猿蓑』は、『いつを昔』や『華摘』に一年おくれて、元禄四年に上梓されたのであった。

[やぶちゃん注:「鼠ノ賦」昭和一六(一九四一)年芸艸堂刊金井紫雲編「芸術資料」のこちらで全文(と思われる)が読める。博物学的には面白いが、俳文としてはどうということはない。]

 俳壇における『猿蓑』の位置については今改めて説く必要はない。去来、凡兆が如何にこの書の撰に力を入れ、一句の取捨をも忽(ゆるがせ)しなかったかは、何よりもこの書の内容がこれを証している。

 他の手に成る『いつを昔』の巻頭にさえ

      定

   一 俳諧に力なき輩
     此集のうちへかたく
     入べからざるもの也
      月 日        去来校

という高札を掲げた去来が、自らの撰集に臨んで如何なる態度を持するかは、固より想像に難くない。

 いそがしや沖の時雨の真帆片帆  去 来

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に、『大津あたりから琵琶湖上を遠望したものであろう』とある。]

 尾頭のこゝろもとなき海鼠かな  同

[やぶちゃん注:「尾頭」は「をかしら」。海鼠の句としても全く以ってつまらぬ。]

 あら磯やはしり馴たる友鵆    同

[やぶちゃん注:「馴たる」は「なれたる」。座五は「ともちどり」。]

 ひつかけて行や雪吹のてしまござ 同

[やぶちゃん注:「行や」は「ゆくや」。「てしまござ」で「豐島茣蓙」と書く。摂津国豊島(てしま)郡に産した藺 () 茣蓙。酒樽を包んだり、雨具に用いたりした。狭く粗い粗末なものであるが、旅人などが携帯するには手軽であった「てしまむしろ」「としまむしろ」とも呼ぶ。]

 うす壁の一重は何かとしの宿   同

[やぶちゃん注:この薄い茅屋の煤けた壁の向こうにある新しい年とは何だ? という観想的にして人生的な疑義であるが、どうもちっとも迫ってこない。あなたには合わないよ、こういうの。]

 くれて行年のまうけや伊勢くまの 同

 心なき代官殿やほとゝぎす    同

[やぶちゃん注:慣れない社会諷喩詩などに手を出すものではないと思うがね、去来さんよ。]

 たけの子や畠鄰に悪太郎     同

[やぶちゃん注:「悪太郎」悪戯小僧のこと。]

   大和紀伊のさかひはてなし坂にて
   往来の巡礼をとゞめて奉加すゝめ
   ければ料足つゝみたる紙のはしに
   書つけ侍る

 つゞくりもはてなし坂や五月雨  同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書を引く。「はてなし坂」は『大和国(奈良県)紀伊国(和歌山県)の境、大和吉野郡南十津川村にある果無山に通ずる急坂が「はてなし坂」で、ここから熊野本宮まで三里という』。ここ(グーグル・マップ・データ)。『元禄二年夏、田上尼(たがみのあま)と共に熊野の巡礼に出たときの、はてなし坂での即興吟である。ここ「はてなし坂」にさしかかったところ、ちょうど道普請の最中であったが、折からの五月雨に道は泥濘そのもの、この様子では、まさに「はてなし坂」の地名のとおり、普請は果てしもなく、いつまでかかるかわからないように見受けられることだ、と詠んだのである。難儀をきわめる道普請に携わる人たちへの同情と感謝の気持を、地名にひっかけて巧みに示したのであろう。一説(森田蘭『猿蓑発句鑑賞』)には、「はてなし」を前書に出る「奉加」にもかかるものとし、巡礼の奉加もまたはてしなくまきあげられることだ、という諷刺をこめた笑いの句と解している』とある。]

 百姓も麦に取つく茶摘哥     同

   膳所曲水の楼にて

 蛍火や吹とばされて鳰のやみ   同

[やぶちゃん注:「鳰のやみ」琵琶湖の闇の意。「曲水」曲翠に同じ。元禄三(一六九〇)年五月の吟。]

 夕ぐれや屼並びたる雲のみね   同

[やぶちゃん注:「屼」は「はげ」。]

 はつ露や猪の臥芝の起あがり   同

[やぶちゃん注:「臥」は「ふす」。]

 みやこにも住まじりけり相撲取  同

   つくしよりかへりけるにひみといふ
   山にて卯七に別て

 君がてもまじる成べしはな薄   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『元禄二年中秋、郷里長崎から京へ戻るに際し、日見峠』(この付近。グーグル・マップ・データ)『まで見送ってくれた卯七』(『去来の血縁に当たる蕉門俳人。去来の甥とも義理の従弟ともいう)『と別れたときの吟である。秋も深まって、あたり一面には花薄が淋しく扉いている。もう君の姿を見ることはできないが、自分を招き返すかのように扉く、あの薄穂の群の中には、さだめし別れを惜しんで打ち振る君の手も交じっているにちがいない、というのである。まず「君」の姿が消え、次いで打ち振る手が消え、いまは茫漠とした薄原だけしか視界に入ってこないのであろう。巧みな表現の中に、熱い惜別の惜が伝わってくる離別吟である』とある。この句は、悪くない。]

 月見せん伏見の城の捨郭     去 来

[やぶちゃん注:座五は「すてぐるわ」。これは伏見城跡の本城の外に築かれた堀を廻らした郭跡である。]

 一戸や衣もやぶるゝこまむかへ  同

[やぶちゃん注:「一戸」は「いちのへ」で青森の一戸のこと。そこから遠く馬(「駒迎へ」とあるから献上馬である)を引いてきた人の姿を詠む。]

   自題落柿舎

 柿ぬしや梢はちかきあらし山   同

[やぶちゃん注:前書は「自(みづか)ら落柿舎に題す」。堀切氏前掲書の評釈に、『ある日、嵯峨野の別宅にやってきた柿商人に、庭の柿の実を売る約束をし、金まで受けとったが、その夜の大風でほとんど実が落ちてしまい、翌日柿商人に金をとり戻されてしまった――そこで以後、この別宅を「落柿舎」と名付けることにした、という意を含んだ前書である。毎年実が生(な)ることは生っても、嵐山からの風が吹けば、一夜のうちに落ちてしまう落柿舎の柿――それでもとにかく自分はその柿の持ち主であることに変わりはない――そんなように自得して柿の梢を仰ぎ眺めると、大きく延びた梢の先には、近々と嵐山が追って見える、この眺望だけで落柿舎は十分ではないか、といった句意であろう。「梢はちかき」で、すぐ間近にそびえるような嵐山の感じが巧みに描写されているが、その「嵐山」には、一夜で柿の実を吹き落としてしまうような嵐吹く山だから、といったことばの遊びも含まれているのであろう。実がすっかり落ちたため、梢の間の眺望が利くようになって、嵐山が間近に感じられるのだというところに、悠々とした自足の心境がうかがわれ、そこに俳諧らしいおかしみもある』とある。宵曲も語るエピソードをしっかり踏まえた上で鑑賞すると、こうした煽りの優れた映像が見えてくるのである。]

   上﨟の山荘にましましけるに
   候(こう)し奉りて

 梅が香や山路猟入ル犬のまね   同

[やぶちゃん注:「猟入ル」は「かりいる」。堀切氏前掲書の評釈に、『さる高貴な方が山荘に居られるところへ伺候し奉ったとき詠んだ挨拶の句である。どこからか漂ってくる梅の香をたよりに山路を辿ってきたのであるが、あたかもそれは獲物の臭いを追って山中に分け入ってゆく猟犬のようでもあることだ、というのである。山荘の在り処が、それほど山深いところであったことに軽く興じているのであろう。「梅が香」が上前その人の気高さを暗示していることはいうまでもない。なお、自らの行動を犬にたとえたのは、単なる卑下の意であるのか、それとも森川蘭氏が説くように、桃源境の故事をふまえ、そのユートピア幻想のシンボルとして出したものなのか、判然としない』とある。また、『「犬のまね」は、いかに身分制度の厳しい時代とはいえ、あまりに卑屈な言い方であることに疑問が出されている。森田蘭『猿蓑発句鑑賞』は、これを『和漢朗詠渠』巻下「仙家」に出る「奇火花に吠(ほ)ゆ 声紅桃の浦に流る」や陶淵明の名高い「桃花源ノ記」(『陶淵明渠』)中の「雞犬相聞こゆ」、あるいは同じく陶淵明の「園田の居に帰る(其一)(『古文真宝前渠』『陶淵明集』)にみえる「狗(いぬ)は深巷の中(うち)に吠え、鶏は桑樹の巓(いただき)に鴫く」なとがら着想されたもので、そこに桃源境的ユートピアの幻想を描くためのものであったとしている」とあるが、私は「犬のまね」の響きには凡そそのような幻想の透明感が全然感じられない。]

 ひとり寝も能宿とらん初子日   同

[やぶちゃん注:「能宿」は「よきやど」、「初子日」は「はつねのび」。堀切氏前掲書の評釈に、『旅中に新年の子の目を迎えることになった。今日は、本来なら共寝をする日だが、自分は「ひとり寝」をしなければならたい。だから、せめてきれいな宿をとって、ゆっくり寝ることにしよう、洒脱に興じたのである。初子の日を祝っての吟である』とされ、「初子日」については、『正月初めの子の日に、野外に出て小松を引いたり、若菜を摘んだりすること』を指し、『新年(春)の季題。「俳諧七部集大鏡」に『民家宜忌録』を引いて「正月は独寝をいむ月也。(中略)さればそのうへ初子の日とあれば、よき宿とらんと見へるならむ」と説き、『山の井』にも「子の日の遊びとて、いにしへ人々野辺に出で小松を引き、われ人ともに祝ひはべりしこととぞ。(中略)俳諧体に男は女松に腰をすり、女は松ふぐりに心引くなど、言ひなし侍る」とある。「初子日」は「初寝日」に通ずるからか』と目から鱗の解説をして下さっている。]

 鉢たゝきこぬ夜となれば朧なり  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で『元禄三年春の吟か』とされる。]

 うき友にかまれてねこの空ながめ 同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈に、『恋の相手からつれなくされた上に、手など咬まれで、しょんぼり引き下がった牡猫が、ぼんやりと放心した貌つきで空を眺めている風情である。発情期に屋根の上などによくみかける光景であろう。恋に敗れた猫の、滑稽にして、しかも哀れなさまを、「うき友」「空ながめ」といったことばを用いて人間臭くとらえている』とある。この句は映像が浮かぶ佳句である。]

 振舞や下座になほる去年の雛   同

[やぶちゃん注:「ふるまひやしもざになほるこぞのひな」。堀切氏前掲書の評釈に、『桃の節句を迎えて、雛祭りの壇には人形や調度が並べられている。よく見ると、去年の古びた雛は、上座を新しい雛に譲って、つつましく下座の方に控えている――そうした古雛の身の処し方は、あたかも人の世の栄枯盛衰のさまを象徴しているかのようだ、というのである。雛を擬人化してとらえた観相の句である』とある。]

 知人にあはじあはじと花見かな  同

[やぶちゃん注:「知人」「しりびと」。]

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ     同

[やぶちゃん注:「羽」は「は」、「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」。無論、ここは雨に降られて、自然、掻い繕ったように見えているのである。]

 雞もばらばら時か水雞なく    同

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」、「時」は「どき」であろう。ニワトリが一斉にではなく、ばらばらに鶏鳴することを言う。「水雞」は「くひな」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいるから、その景であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。なお、堀切氏前掲書によれば、近江幻住庵での明け方の吟とする。]

 凡兆の四十四句に比べれば及ばざること遠いが、『猿蓑』集中における有力なる作家というを憚らぬ。去来の句の一大特長たる気稟(きひん)の高さは、その第一歩たる『続虚栗』において十分に発揮されており、『曠野』において殆ど完成されたかの観がある。『猿蓑』にある去来の句には、更に何者かを加えたところがあるかも知れぬが、「あら磯や」の句、「はつ露や」の句、「月見せん」の句、「鳶の羽も」の句等の緊密な高い調子は、『曠野』にあった「秋風」の句、「湖の水まさりけり」の句の系統に属するもので、その間に著しい軒輊(けんち)を認めることは出来ない。凡兆の句が『猿蓑』に至ってはじめて豁然たる新天地を打開したような消息は、去来には見当らぬように思う。『猿蓑』における去来の作品が比較的多いのは、撰者の句を多く集に入れるという古例に則ったためもあるが、当時芭蕉の鉗鎚(けんつい)を受くる機会の多かった点も考慮すべきであろう。元禄三年は芭蕉が幻住庵に籠った年で、その他の月日も多くは近江と京とにおいて過された。京摂近江の俳人がしばしば幻住庵を訪れたらしいことは、『猿蓑』の「几右日記」にも見えている。「雛もばらばら時か」の一句は「几右(きゆう)日記」中のものである。

[やぶちゃん注:「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。

「鉗鎚」「鉗」は「金(かな)鋏み」、「鎚」は「金槌(かなづち)」の意で、特に禅宗にあって師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導くことを譬えて言う。]

 純客観派の本尊たる凡兆は、滅多に自己の姿を句中に現さぬに反し、去来は右の二十六句中にもしばしば自己を示している。「つゞくりもはてなし坂」の句、「蛍火」の句、「君がてもまじる成べし」の句、「梅が香」の句等、いずれも前書によってその場合を推し得るが、最も興味あるのは「自題落柿舎」とある「柿ぬしや」の一句であろう。去来の自ら草した「落柿舎記」に従えば、その家の周囲には柿の木が四十本もあった。八月末の或日、京都の商人が来て、その木を欲しいといって一貫文置いて行った。しかるにその日から梢の柿が落ちはじめて、「ころころと屋根はしる音。ひしひしと庭につぶるゝ声。よすがら落もやまず」ということになった。翌日見に来た商人はこの有様を見て長歎し、自分はこの年まで商売にしているが、こんなに実の落ちる柿を見たことがない、これでは困るから昨日の代金を返してもらいたい、といい出した。いうままに返してやったが、その商人の帰る時、友達のところへ托してやった手紙に、自ら「落柿舎去来」と書いてやった、というのである。この逸話は去来の洒落な一面を窺うベきもので、同じような心持は自ら「柿ぬし」と称するこの句の中にも溢れている。四十本の柿の主として、梢に近き嵐山を望む去来の様子が目に浮んで来るような気がする。

[やぶちゃん注:「落柿舎記」は「らくししゃのき」(現代仮名遣)と読む。次の章でも言及されるので、そこで全文を電子化することとする。]

 

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