梅崎春生の長篇「砂時計」の電子化始動する / 砂時計 1・2・3
[やぶちゃん注:本篇は雑誌『群像』に昭和二九(一九五四)年八月号より翌昭和三〇(一九五五)年七月号まで連載され、連載終了の同年九月に講談社から単行本「砂時計」(解説・福永武彦)として刊行された。恐らくは梅崎春生の小説の中でも最も長いものの一つである。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。
全二十九章。底本では一頁で一行二十六字詰二十三行の二段組で二百十四ページ分あるので、単純計算しても二十五万字余りはある。四百字詰原稿用紙に単純換算すると六百二十五枚相当である。
傍点「ヽ」は太字に代えた。
毎日、最低でも一章分は必ず公開することとする。ストイックに注も入れる。初回は三章分を示す。
但し、実際に読み始めると判るが、この小説は非常に変わった展開構成を持っており、それは一種、「ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)風の突飛な映像で、複数のエピソードが痙攣的に一見、不連続に連結されてあるもので、これを初出誌で連載で読んだ読者は、かなり面食らったのではないかと思う。それをまた、味わってみるのもよかろう。
特段、何かの記念に始めるわけではない。こうでもしないと彼の数少ない長い作品に手をつけるのが後回しになると思ったからである。【2020年7月8日始動 藪野直史】]
砂 時 計
1
古ぼけた陸橋が線路をこえてかかっている。もしこれが昼間のことなら、それを渡ってしばらく行けば、貧弱な赤松の防風林となり、その向うに砂浜がゆるやかな勾配(こうばい)で海に傾いている。赤松は総じて潮風にいためつけられ、背丈も低く、枝や幹もねじくれて曲っている筈だ。陸橋から逆に引返せば、道の両側は畠となり、やがて小さな町の最後尾があらわれてくるだろう。
夜、陸橋のたもとには街燈があった。
しかしそれは緑のペンキを塗った一本の支柱と、裏を黒く塗ったブリキの笠だけで、電球はくっついていなかった。球の金具の部分だけが笠の中心にはめこまれ、そのままぎしぎしと錆(さ)びついていた。潮風の塩分のために、どうしても電球の寿命が短かかったし、一々電球を取替えるには、町の施設防犯協会は人手がすくなすぎた。防犯協会は来月の祭りの寄付集めにいそがしかった。だから陸橋の上は総体にうすぐらかった。空には星明りだけがあった。
彼は駅の方から土堤(どて)沿いに、ひとりで歩いてきた。そしてその街燈の下に立ちどまり、うしろをふり返った。駅の燈が見えるだけで、土堤上に人影は見えないようである。しかし土堤の斜面は暗かった。彼は警戒的な姿勢でそこらを見詰めながら、上衣(うわぎ)をそろそろと脱いだ。脱ぐのには意味があった。身のこなしが軽くなるからだ。四つにたたんで街燈の柱の下に置き、それからちょっと考えてネクタイに手をかけた。ネクタイを解くにはひどく時間がかかった。しかもこれはそれほど意味のあることでもなかった。彼はそのネクタイを四つ折りの上衣にきりきりと巻きつけた。そして腕時計に眼を近づけたが、やはり星明りだけでは指針の位置は見えなかった。耳を寄せるとセコンドの音だけはかすかに聞える。彼はあきらめて立ち上った。そのまま彼はうすくらがりの中で、両手を前から横に振り、膝を屈伸し、徒手体操の真似ごとのようなことをした。手足を動かすだけで、かけ声は出さなかった。(これは海軍体操の基本型だ)動作の途中で彼はそう気付いた。彼は土堤の方を見ながら、こわばった頰をゆるめ、笑おうと努力していた。(こんな時に海軍体操をやってもイミがない)彼の背の方のずっとずっと遠くで、汽笛が弱々しく尾を引いて鳴った。彼は体操を中止して、いくらか芝居じみた身振りで闇に身構えた。
陸橋は幅が十米ぐらいで、細い鉄のてすりが両側についている。土台が古朽している関係からか、手すりはいくぶんか外側に反っていて、鉄自身も虫が食ったようにデコボコになっている。夜だから今はそれは見えない。その手すりにそって、彼はふらふらと陸橋の中央まで歩いてきた。そして首を伸ばして下方を見おろした。
眼下に数条の線路が陸橋と直角に走っている。線路はかすかに光を帯び、地面から浮き上って見えた。線路と線路の間は暗く、なぜかそこだけは軟かそうに感じられる。彼は視線を陸橋の真下から、その線路の光の帯にそって、ずっと遠くの方に移動させた。
五十米ほどの彼方に、いくつかの燈がかたまって見える。そこが先刻までその待合室に彼がいた沿線の小駅だ。――待合室は狭い土間で、長い木椅子が二つ向き合っているだけであった。彼は先刻その一つのはしっこに腰をおろし、握り飯を食べていたのだ。握り飯は塩味だけで、しかも一つきりであった。その代りその大きさは赤ん坊の頭ほどもあった。オカズに沢庵(たくあん)が五片か六片ついていた。このお粗末な弁当は北小路がつくって呉れたのだが、それを受取ってからの後味はひどく悪かった。
待合室には上(のぼ)り二十一時五十九分着の普通列車を待つ客が、彼の他に三人いた。一人は和服にはかまをつけた老人で、次はリュックサックを持った壮年の男だ。それから少し離れて農婦らしい中年の女がぽつんと坐っていた。下駄を二つそろえ、木の椅子の上に実直に坐りこんでいる。二人の男は顔見知りらしく、ぼそぼそと会話を交していた。彼はいらいらと大時計を見上げたり、居眠りしている駅員の姿をガラス越しに眺めたり、会話に何となく聞き耳を立てたりした。会話は二人の共通の知人のゴヘイという男のことらしく、やりとりの中で何度もゴヘイという言莱が発音されていた。
「それがよう、爺さん」男はごつごつした声を出した。「二年間に三寸もちぢむちゅうのは、一体何だねえ?」
「そういうこともあるもんだ」
老人は仔細(しさい)らしく合点々々をした。ゴヘイという五尺九寸の漁師が、二年間に背丈が五尺六寸まで縮まったという話らしかった。リュックサックの男はしきりにそれを不思議がった。
「なあ、爺さん。いくらなんでもねえ」男は口をとがらせた。男の顔は彼もよく新聞などで見るある高名な将棋さしの顔によく似ていた。「ちぢむちゅうのはよくねえよ。不吉なことだね。瘦せるちゅうのなら先ず判りもするが」
「いやいや、そんなこともある」老人は確信ありげに掌を振ってさえぎった。「栄養がかたよるとやっぱしちぢむのじゃ。わしも今まで何人かそんなのを見て来た」
彼はうつむいて沢庵を嚙んだ。沢庵は完全に乾されて漬けられたものと見え、よくひねこびて、微妙な甘味があった。旨かったにもかかわらず、オカズに沢庵しかつけてくれなかったということに、彼はまだへんなこだわりを感じていた。しかしもうこだわりを感じる自分も無意味であった。彼は沢庵をすっかり食べ尽し、握り飯は半分残して、がさがさと新聞紙に包みこんだ。そして大時計を見上げたが、まだ時間までに三十分もあった。椅子に坐った農婦はそのままの姿勢で、うつらうつらと居眠りを始めている。それを見た時彼は発作的にするどい眠気を感じた。それは同時に酔いの前兆でもあった。
「しかしそりゃ何かのタタリかも判らねえ。それにゴヘイどんは、なんでもかんでもジャンボが好きだからなあ」
「ジャンボとこれと関係があるか」老人は間の抜けた口でせせらわらった。「そりゃやっぱしデッコリじゃよ。背がちぢむということは背骨がちぢむことよ」
ジャンボという言葉もデッコリという言葉も判らなかったし、この二人が何故他人の背丈ばかりを気にしているのか、それが先ず理解出来なかった。居眠りしている農婦にも二人の男に対しても、彼はさっきから漠然と軽蔑と不信の念を感じていた。彼は腰かけたままのろのろと上衣を脱ぎ、裏地の名前の縫取りに歯を当てた。これさえ破り取れば、もう彼が誰であるか判定するものは皆無となる。握り飯を食べながら考えついたことだ。しかしその縫取りは、服全体はくたびれているにも拘らず、案外に頑強であった。彼はついにいらだって、縫取りを含む三寸四方の裏地を、犬のようにばりばりと嚙み破った。そういう彼の動作にも、二人の男たちは全然関心を示さない風で、相変らずゴヘイどんの話をつづけていた。彼は窮屈な動きで上衣をつけ、唾に濡れたぐちょぐちょの布片を、丸めて長椅子の下に弾(はじ)き飛ばした。そのついでに握り飯の紙包みを、がさがさと椅子の下に放置した。もう北小路のことは彼の意識から去っていた。そして思った。
(何も考えることはない!)
握り飯を食べる前に、一息に飲み干した一瓶のポケットウィスキーが、しだいに身内に回って、皮膚の内側からむっと熱くなり始めていた。もう意識と感官がかすかに乱れて来ている。それを自覚しながら、彼はポケットから莨(たばこ)を出して火をかけた。リュックサックの男が、その時向う側からふいに立ち上って、彼の方に近づいてきた。頑丈な男の軀(からだ)全体から魚臭がただよい動いた。男は膝までの長さの褐色の厚司(あつし)を着ていた。
「火をひとつ――」
彼の前に立ちはだかるようにしてそう言った。火だけを必要としていて、俺を必要としているわけではないのだな。そんなことを誇えながら、彼は黙ってマッチを手渡した。男は一本目を点(つ)けそこない、二本目で点けて、ぽんとマッチを彼の膝に戻した。煙をふいて席に引返しながら、もう老人とゴヘイの話にもどっている。その冷淡さに、彼は怒りというよりも、むしろ奇妙な可笑(おか)しさを感じた。それから時間がじりじりと経(た)った。
九時四十五分。彼は莨を床にすてて唾をはいた。静かに立ち上って、さりげなく待合室を出る。誰からか背中をじっと眺められている。その感じを引き剝(は)ぐようにして、彼は駅前の小広場に立った。街がそこからまっすぐ、一本の道をはさんで細長くつづいている。しかし家々のほとんどは燈を消して眠りに入っている。彼は一応そちらの気配をたしかめて、右へ折れてすたすたと歩き出した。線路沿いに土堤がつづいている。土堤上の乾いた小路を彼は追い立てられるように歩いた。陸橋まで来るまでに、彼は誰とも出会わなかった。月はまだ出ていなくて、空には星だけがあった。そして橋のたもとの街燈はひっそりと消えていた。――
シャツだけになった彼の姿は、陸橋の中央に行って、駅舎の方に右手首をかざすようにした。さっきより幾分拡大した瞳孔が、やっと腕時計の針の位置をとらえた。長針は五十七分を指していた。それを確かめると、彼はゆっくりと身体を回し、陸橋を横断して反対側の手すりの前に立った。その方角から吹いてくる微風はたしかな潮のにおいがした。そちら側の陸橋の下は暗かったが、線路の列だけはうすうすと認められた。頭が二倍か三倍にふくれ上ったような気持で、彼はそれを見た。
彼方三百米の地点で、それらの線路は一斉に大きく彎曲(わんきょく)している。その彎曲の外側に砂丘があり、海がひろがっている。その地勢の概略を彼は知っていた。あと二分も経てば、その彎曲点にいきなり列車の前燈があらわれて、こちら向きに驀進して来るだろう。彼はそれを待っていた。上り列車の線路はすでに確かめておいた。彼は今その線路の正確な上方に立っていた。陸橋の高さは、彼の背丈ではかれば、四倍乃至五倍ほどある。彼はふたたび暗い線路を見おろしながら、鉄の手すりの脚を両手でつかみ、その強度をためすために一寸ゆすぶってみた。
その時前方でふたたび汽笛が鳴りわたった。夜空に反響しながら音は急速に近づいてきた。
彼の全身の筋肉は突然、発作的に慄(ふる)え出した。同時に彼の意識や判断力は、ほとんど麻痺(まひ)したようにその働きを止めた。彼は棒立ちになり、これ以上には出来ないほど眼を大きく見開いた。汽笛は鳴りやんだ。そしてかなた前方の闇のまんなかに、いきなりまばゆい前燈がぬっとあらわれた。予定通りの時刻である。その前燈はあらわれて、驀進してくるという感じではなく、一瞬静止しているように見えた、強烈なその光は、陸橋のみならず、枕木や線路やそこらに散らばる小石までも、かっと照らし出した。
彼は打ち倒されるように急いで腹這(ば)いになった。細い鉄の手すりの根元をきゅっと摑み、下半身を思い切り曲げて、手すりと、手すりの間に押し込んだ。そのままおそろしい空間に全身を投げ出した。しかし両掌がかたく手すりを握りしめているので、彼の身体は紐(ひも)のように無抵抗に陸橋にぶら下った。しかしこれは彼の予定した動作ではなかった。ほとんど無意識に身体だけが動いたのだ。陸橋があまりにも高過ぎるから、背丈の分だけでも、垂直距離を稼ごうとしたのか、いきなり飛び降りるには勇気を要するから、二重スイッチみたいなやり方で、一旦ぶらりとぶら下り、それから落ちようと試みたのか、とにかく彼はぶら下っていた。ぶら下ったまま彼は獣じみた大声を立てた。その声が走ってくる汽車の轟音と重なった。――彼は手すりから掌をもぎ放した。そして一個の物体として線路めがけて落下した。その落下の瞬間に彼は失神していた。
三分後、彼の意識は回復した。彼は生きていた。陸橋の下の暗い線路上に、身体をうつぶせに平たく伸ばしたまま、彼の意識は突然昏迷からよみがえった。頰にあたるのが枕木であり、右膝にごりごり触れるのがレールであると知った時、彼はぎょっとして上半身をもたげた。陸橋の翳(かげ)が額を圧しつけた。彼は血走った眼で線路の彼方を見た。かの彎曲部の方角からせまりつつあった前燈は、もう見えなかった。二十一時五十九分着の上り普通列車は、二十二時三分通過の準急行列車をやり過ごすために、上りの本線をあけわたし、すでに待避線に入って停止していた。――上半身を支えてついた両掌に、砂利(じゃり)石の角がぎしぎしと食い込んでくる。全身的な悪感(おかん)と共に、突然つよい嘔気(はきけ)が来た。アルコールと胃液の混ったどろどろのかたまりが、咽喉(のど)にこみ上げて来た。彼はむせて嘔き、涙を流し、顔を上げてあえいだ。汽笛が鳴りわたった。そして前方の闇に、ふたたび前燈がぎらりとあらわれた。
それは先刻のよりもひと回り大きく、彼の涙粒を通して、執拗(しつよう)な悪夢のようにギラギラと分裂した。彼は反射的に大声を上げ、レールの外にころがり出た。二三度つまずきながら必死に動き、三尺ほどの石垣に足をかけ、それにつづく土堤の斜面を大急ぎで這いのぼった。音は見る見る近づき、いきなり錯雑(さくざつ)した光の帯となって、陸橋の下を轟轟(ごうごう)と通過した。光の流れは十秒ほどつづいた。彼は草を摑み、顔だけをうしろに回してそれを見た。轟然たる流れはすっかり行き過ぎて尾燈だけになり、それは途方もない速さで、吸いこまれるようにかなたに遠ざかって行った。ふたたび陸橋にはしんかんと闇が戻って来た。
(ああ。あいつは急行なんだな)
彼は大きく身慄いをして溜息をつき、そしてのろのろとポケットを探った。ハンカチはなかった。ハンカチは街燈の下の上衣のポケットの中にあった。彼は土堤の上に立ち、シャツの袖で口辺を拭いた。そのまま両掌で顔をおおってつぶやいた。呟きというよりそれは空気の擦過音に近かった。
「やりそこなったんだ」
どこがどうなって失敗したのか、事情はまだ呑み込めなかった。しかし失敗したことだけは確かであった。彼は右足を引きずるようにして歩き出した。落ちた時レールにぶっつけたらしく、右の膝がぎくりと痛い。頭の働きも少々バカになっているようで、普通列車に轢(ひ)かれるのと急行に轢かれるのとどちらが痛いだろう、そんなことをぼんやり考えながら、彼は陸橋の中央まで来た。駅の待避線には普通列車が停っていた。感情のない眼で彼はそれを見た。(どうして線路が間違ったんだろう?)彼はびっこを引きながら、やっと街燈の下までたどりついた。渇きがはげしかった。彼は街燈の支柱に片手をもたせかけ、駅に到る土堤道をじっとすかして見た。
「誰かに見られたかな。それとも――」
誰かに目撃されたとすれば、その誰かの急報によって、駅から駅員たちがやって来るかも知れない。しかし土堤の上には人影もなく、そういう気配も見えないようであった。風の音以外はしんとしていた。彼はぎくしゃくと腰を曲げ、柱の下の上衣からネクタイをつまみ上げた。そしてそれをシャツの襟に通した。全身は虚脱しているのに、指だけがそれ自身独立した生き物のようにしきりにびくびく動くので、結ぶ操作になるとうまく行かなかった。彼は舌打ちをして、それをかたわらの黒い草叢に投げ捨てた。誰も見ていなかったとすれば、と今度は上衣を拾い上げながら彼はそう考えた。そうすれば、誰も知らないところで俺は懸命にことを敢行し、そして誰知れず失敗してしまったことになる。ケシツブにでもなったような惨めさが彼を包んだ。失敗にしても、全然他人に知られないよりも、知られて笑いものにされた方が、まだしも救われる。しかし同時に、待合室の二人の男や居眠り農婦を思い浮べた時、そして彼等から眺められることを想像した時、彼は身もすくむような嫌悪と羞恥を感じた。
汽笛が鳴った。待避線の汽車がにぶい音をひびかせて、ゆるゆると動き始めた。
陸橋の向うから、それと同時にごとんごとんと鈍重な音が近づいてくる。
彼は大急ぎで上衣の袖に手を通し、ハンカチで顔をぬぐい、ズボンの塵(ちり)をはたいた。ここにこんな時刻ぼんやりと佇(た)っている、それを見られるのはまずいという意識もあったが、同時に居直る気持もあった。彼は莨をとり出して口にくわえた。やはり指がしたたか慄えるので、マッチがなかなか点かない。それだけのことで彼は若干いらだった。
陸橋をわたって近づいて来るのは、そのおぼろ気(げ)な輪郭からして、牛車らしかった。
支柱によりかかって煙をはき出しながら、彼はそれを見詰めていた。近づいてくるのをむしろ待っていた。
牛車の通過で小さな陸橋はかすかに振動した。
牛を牽(ひ)く男は彼の前まで来て立ち止った。そしてのんびりと声をかけてきた。
「ちょっと、火をひとつ」
それは疑いを持つ男の口調ではなかった。牛車の荷から強い潮のにおいがした。夜目の感じから言えば、海藻を沢山たばねて積んでいるらしい。こんな時刻にこんな多量の海藻をどこに運ぶのか。
ここらあたりの連中は、概して誰もマッチを持っていないようだな。海藻のことよりは先ず彼はそう考えた。そしてポケットからマッチを取出して、やや不機嫌に手渡した。何故か莨の火を貸す気にはなれなかった。
男は一すりで正確に火を点けた。男の武骨な顔が火の色に照らし出された。先のとがった麦わら帽子をかぶり、頰や顎には無精鬚(ぶしょうひげ)が密生している。口には短い煙管(きせる)を横ぐわえにしている。その男の顔の斜め下のところに、牛の顔があった。牛は意志も感情も持たない眼で、じっと闇を見据(す)えていた。マッチが燃え尽きる短い時間に、彼はその牛の眼を見た。ある感じが胸を通り抜けた。焰は消え、マッチの軸は一本の火線となって地に落ちた。火線は地面にあたり、ちょっと身をくねらせるようにして消えた。
「へえ」
男はそう言った。低い声で掛け声をかけ、牛車はごとごとと動き出した。あの牛の眼のことを俺は案外あとあとまで覚えているかも知れない。ふと彼はそんなあまり意味のないことを考えた。そして事実その牛の眼の奇妙な印象を、彼は後になっても時にふれては鮮明に思い出したりしたのだが。――口もからからに乾いていたし、闇ですう莨(たばこ)はひどく不味(まず)かった。しかしそれを捨てることはしなかった。牛車のにぶい車輪の音がすっかり聞えなくなるまで、彼は支柱に背をもたせかけ、じっと動かないでいた。
[やぶちゃん注:「海軍体操」非常に詳しい解説が、「Web Magazine VITUP(ヴイタッフ)!」の「海軍体操を知っていますか? ①」から、②・③・④とある。また、画像が悪いが、YouTube のReinaChannelに戦中のニュース映像の「海軍と体操」1及び2で見られる。
「ジャンボ」不詳。北関東や新潟では葬式の方言ではある。
「デッコリ」不詳。東北では「肥大しているさま」を言う。]
2
午前九時。
男は火事の夢を見ていた。逃げ出そうとするが、どうしても逃げ出せない。うんうんうなりながらもがいている中に、ぽっかりと眼を覚ました。障子に穴があいていて、そこから朝の光が小さな束になって射し入り、男の鼻に当っているのだ。火事の夢はそのせいだと知れた。
「ちくしょうめ!」
男はがばと上半身を起し、鼻を撫でさすった。鼻は日の色を吸ってあたたかかった。
「へんなところに日が射して来るんだな。全くおどろかせやがる」
男は枕もとのタオルでぶるんと顔をふき、そして寄り眼になり、片眼を閉じたり開いたりして、自分の鼻を眺めた。見おろした。
(日本人は得意になる時、鼻が高いという表現を使うが、外国人はどうかな)
男は小学校の時のことを考えていた。男は少年の時は成績が良くて、たいてい一番か二番か、三番と下ったことはなかった。彼の母親は父兄会から戻って来ると、彼の頭を撫でながら、ほんとにあたしゃ鼻が高いよ、とほめて呉れた。そのことを男は思い出していたのである。
「英米人はあまり使わないようだな」
彼はひとりごとを言いながら、どたんばたんと蒲団を折りたたみ、部屋の隅に押しやった。煙草を探したが、空箱だけなので、仕方なく灰皿の中の比較的長いのをつまみ上げた。今日失業保険が貰えるので、昨夜は焼酎で金を使い果たしてしまったのだ。
(つまり日本人は、他人からほめられると、伏目になる。伏目になると、自分の鼻が見える。そこで鼻が高くなったような錯覚を起すのだ)
短い煙草を苦労して吸いながら、彼は考えた。
(そこにゆくと英米人は、ほめられてもうつむかない。得意になって空を見上げたりする。だから鼻が高いという発想が出て来ないんだ)
その後彼は順調に学業をおさめたが、ある大学の英文科在学中に母親が死に、そこで何となく中途退学をしてしまった。いささか英語に学のあるのは、そのせいであった。中退をしたのは、学問に興味をうしなったせいではない。もっといいことがこの世にあるような気がしたからだ。もっといいこと? しかし実際にはいいことはなかった。雑誌社に勤め、そこが潰れたので、現在は失業中の身の上なのである。
「そろそろ出かけるとするか」
彼はのろのろと立ち上り、寝巻を脱ぎ捨てる。すると廊下の方から、女の声がした。
「起きたの?」
「起きたよ」彼は答えた。「今から着換えして出かけるところだ」
「朝飯は?」
「まだだよ」
「うちで食べればいいじゃないの。おいしい味噌汁と目刺があってよ」
このすがりつくような女の声を、彼は嫌いではないが、あまり好きでもなかった。彼が間借りしているこの家の娘で、母娘して彼を養子に迎えたがっている。養子になれば、物質的に彼は不自由はしない。それは彼にも判っていた。しかしこの世には、そんなところにおさまるより、まだまだいいことがあるんじゃないか。
「飯なんか要(い)らないよ」彼はいくらかつっけんどんに答えた。「今目は保険がおりるから、それで御馳走を食うんだ」
「まあ、意地悪!」
彼は返事をしなかった。黙って部屋を出ようとすると、足音がばたばたと廊下を逃げて行った。娘の年齢は彼より二つ上になる。彼は玄関に出て、破れかかった靴を穿(は)こうとしたが、底から釘が出て足の裏を刺したので、彼はキャツと悲鳴を上げて、力まかせにその釘を引っこ抜いた。そして穿き直した。
外に出ると、いつの間にか雲が出て、空がどんよりと曇っていた。さっきまでの日の光が嘘のようであった。
午前十時。
交通事故があった。五十がらみの労務者風(ふう)の男を、オート三輪が引っかけたのである。オート三輪はそのまま逃げてしまった。サイレンを鳴らしながら、救急車が近づいて来た。彼は道端の、被害者に一番近い場所に立って、一部始終を観察していた。被害者は足を痛めたらしく、立ち上れない。
「イヤだよ。イヤだよ。そんなのには乗れねえ」被害者は彼を見上げてわめいた。「たすけて呉れえ」
「だからこの車がたすけに来たんだよ」
「これがないから駄目なんだ。駄目なんだよう」
被害者は左手を上げて、親指と人差指で輪をつくった。彼はそのそばにしゃがんだ。被害者は口から皮膚から、ぷんぷんと酒のにおいを発散させている。
「あれはタダなんだ。心配しなくてもいいんだよ」自分でもびっくりするくらいのやさしい声が、彼の口から出た。
「病院もタダで、ちゃんと飯も食べさせて呉れる。行ったら行ったで、きっといいことがあるよ」
被害者は何か言おうとした。が、もう救急車が到着して、ばらばらと屈強の係員たちが飛び降り、被害者を担架の上に乗せた。そのあおりを食って、彼はころりんと地べたに尻餅をついた。係員たちはそれをたすけようとも、手を貸そうともしなかった。やがて救急車の音が遠ざかり弥次馬たちが立ち去ったあと、やっと彼は尻を上げて立った。そして呟いた。
「まったくてきぱきしたもんだな」
どういうわけか、あの被害者が非常にうらやましい気分がする。彼は感動に似たものを感じながら、ばたばたとズボンの尻をたたいた。
午前十一時。
彼は職業安定所の、失業保険金の受取所にいた。それは二階の北側の部屋である。求人側は南向きの室で優遇されるが、保険金受領者は北側で冷遇されるのだ。なにしろ金をもぎ取って行くのだから、いい待遇を受ける筈がない。
失業保険金受給資格証と失業認定申告書を窓口に差出し、あとは木製長椅子に腰をおろして待っているだけだ。この待っている間、彼はいつも強い希望と幸福を感じる。
(何で皆うらぶれたような、面白くない顔をしているんだろうな)
彼はここを訪れる度にいぶかる。
(昨日まで貧乏していたのに、今日いくばくかの金が入る。貧乏している時にしけた顔をするのは当然だが、金が入るというのに何であんな表情をしているんだろう?)
常にそうであった。ぶすっとふくれた顔、眉をしかめて憂鬱そうな顔、怒ったような顔、そんなのばかりだ。中には手で頭をかかえて、今にも死にそうなやつもいる。それがどうしても彼には理解出来ない。しかも働かなくて、それで金が入るのではないか。どこに愁い顔をする必要があるだろう。
次々に名が呼ばれる。呼ばれた者は背を曲げるようにして、窓口に歩いて行く。たいていの場所は、同じ境遇にある者が集まると、一種の連帯感が生じるものだ。それがここにはまるでない。まるで国鉄の駅のように、お互いに関係がない風だ。駅には身分や貧富の差もあれば、幸不幸の差や行先の差もある。連帯感のないのは当然だ。ところがここでは身分や境遇が共通している。失職したという点で、皆は同じなのだ。それなのに、どうして連帯感が生れて来ないのだろう。何故背を丸め、眼をそむけ合うようにして、生きているのだろうか?
(猫背と失業という点では、皆はよく似ているな)
失職と猫背について、あれこれ考えをめぐらしている中に、突然彼は名を呼ばれた。ヒエッというような頓狂な返事と共に、彼は立ち上って、窓口に歩いた。疣(いぼ)のついたゴム板の上に、受取るべき金が乗っている。彼はそれを取上げ、丁寧に二度数えた。
「これ」と彼は窓口の女に言った。「百五十円、多いんじゃないでしょうか?」
「百五十円?」瘦せて青白い中年の窓口女の眉が、きりりと上った。「多けりゃ困るんですか。これでもあたしの計算は確かなんですよ」
「確かじゃないとは言いませんよ」女の剣幕にびっくりして、彼はおそるおそる答えた。「でも、現実には、百五十円ほど多いような気がするんです」
「気がするのは、そちらの勝手です!」女は扇形に紙幣を開いて、ちゃっちゃっと数をかぞえた。「も一度数え直して下さい」
こちらは貰う方で、向うは呉れる方の身分である。同じ境遇ではないが、仕事の上では関係がある。何か気持のつながりがあってもいいんじゃないか。これではまるで斧で繩を断ち切るようなものではないか。彼はちらと支払係の女の顔を眺め、も一度支給額を数え直した。やはり百五十円多かった。
(まさかおれが貧乏たらしい格好をしているので――)彼は内ポケットにそれをしまいながら考えた。(百五十円恵んでくれたんじゃあるまいな)
しかしそれ以上言い出すのは面倒だったし、その必要もないような気がする。損をするわけではないのだから、これでよろしい。彼は胸を張って部屋を出て行く。
午後零時。
彼はカレーフイス屋にいた。
安定所を出て、街角の店で煙草を一箱買った。腹は減っていた。すかすかに減っていた。そこで煙草の一服は、後頭部がしびれるほど身にしみた。彼は煙草を捨て、ふらふらと街を歩きながら、食堂を探す。
(何かうまくてどっしりしたものを食いたいなあ)
しかし直ぐ食堂に飛び込むことはしない。腹が減った時の愉しみは、うまそうな店を探すこと、それから入って注文するまでであって、注文して品物が運ばれて来た時から、人間はだんだん不幸になって行く。期待や希望がなくなって行くのだ。しかし人間はうまさにまぎらわされて、そのことを知らない。食べ終った瞬間に、人間は食欲においてもう極度に不幸になっている。もうそれ以上食べることは出来ないからである。彼は経験でそのことを知っていた。
『カレーライス専門店わにざめ』
しばらく歩いている中に、そんな店を見付けた。たちまち彼はその店が気に入った。というより空腹が極限にまで来ていたのである。
(鰐鮫(わにざめ)とは獰猛(どうもう)そうな名前だなあ。こちらが食うんじゃなく、まるで向うから食われるみたいだ)立ち止って彼は考えた。(しかも専門店と来ているからなあ。専門で、不味いわけがない)
彼は決心をして、のれんを分けてつかつかと店に歩み入った。カレー屋のくせに、入口には繩のれんがかけてあった。店は混んでいた。辛うじて席を一つ見付けると、彼は指を立てて注文した。またたく間にカレーライス一丁が運ばれて来た。彼は一匙含んで口をもぐもぐ動かした。
「うん。これはからくてうまい」
近頃彼はカレーのからさがなくなって来たような気がする。小学生の頃誕生日には、かならず母親がカレーライスをつくって呉れたものだ。その頃のカレーライスはからかった。水を飲みながら、ふうふう言いながら食べたものだ。今はそうでない。ワサビも唐辛子も、それほどからくなくなった。実際にから味が減ったのか、それとも大人になってからいという感覚が鈍麻したのか。彼は給仕女に思わず話しかけた。
「このカレー、からいね。うまいよ」
「そりゃそうでしょう」女給仕はちょっとしなを作って答えた。「修羅印カレー粉が、ふんだんに使ってあるのですもの」
「修羅印カレー?」彼は反問した。「あまり聞いたことがないような、あるような、カレー粉だね」
そして彼は五分ぐらいで一皿をたいらげ、ちょいと首をかしげて水を飲んだ。
「もう一皿呉れえ」
午後一時。
彼は街角の小公園のべンチに腰をかけて、すいすいととびまわるツバメの姿を眺めていた。おなかがいっぱいになっている。そこで腹ごなしのつもりで公園の子供たちのキャッチボールの仲間に入れてもらい、球を投げたり受けたりした。その彼の姿を、大きな桜の木の下からチョビ髭(ひげ)の太った男がじっと見守っていた。チョビ髭はマドロスパイプをくわえ、だぶだぶのレインコートを着こんでいた。足には地下足袋をはき、ちょっと見には、請負師かなにかのようであった。空はどんよりと曇っていた。二十分ばかりで彼はキャッチボールをやめた。キャッチボールをやっても、くたびれるだけで、一文の得にもならなかったからだ。
「なかなかボール投げがうまいじゃあないか」ベンチのそばでタオルで汗をふいている彼の方に、チョビ髭がのそのそと近づいてきた。「そうとうに年季をいれた腕だね」
「ヘヘヘ」彼はわらった。「中学時代にすこしやったんでね」
「お前さん、仕事はあぶれかい?」
チョビ髭は彼を見据(す)えるようにした。へんに威圧的な眼の色であった。
「そうですよ」いくらか当惑を感じながら、彼は返事をした。「よくわかるんだなあ」
「それがおれの商売だよ」チョビ髭はパイプでベンチの横木をこんこんと叩いた。「いい仕事があるんだが、やる気あるかね。夜の仕事だが、日当ははずむよ」
「いくら出してもらえるんです?」
「八百円だ」
チョビ髭はぶっきらぼうに答えた。
「八百円?」彼はびっくりして聞いた。「まさか危い仕事ではないでしょうね」
「どん仕事にも危険はつきまとうよ」チョビ髭は白い歯を見せてにやりとわらった。「バラス積だって、道路工事だってさ。危くない仕事なんて、今時どこを探したってあるものか」
「しかし、危険にも程度があるんでね」
「たいしたことはないよ」チョビ髭はあたりを見回した。
「もし万一に、怪我でもした場合には、治療費はもちろんこちらで持つし、治療期間中は一日五百円の割で持つよ」
「へえ。そしてそれはどんな仕事です?」
「仕事の内容は、現場につくまでは教えられない」
「さあ、それは――」彼はちょっと渋った。「なにはともあれ、仕事の種類を教えてもらわないことには――」
「じゃよしな」
チョビ髭はあっさりと言いすて、向うむきになって、さっさと歩きだした。彼はあわてて呼びとめた。なにかいいことがあるような気がしたからだ。
「親方、親方」親方という言葉が自然と口からでた。まさしく親方らしい風体であった。「ちょっと待って、おれ、その仕事をやるよ」
「そうか」チョビ髭はそれを予期したように、すたすたと立ち戻ってきた。そして再びにやりとわらった。「考え直したか」
チョビ髭はそれから、仕事にかかるについての、かんたんな指示をした。待ち合わせ場所、Q線のP駅のホーム。待ち合わせ時間、午後八時。手頃の石を十個持参の事。服装はなるべく身軽にする事、などであった。質問は一切封じられているので、彼は黙って神妙な顔で、チョビ髭の言葉を聞いていた。最後にチョビ髭は、彼の頭から足の先まで見まわしながら、しゃがれた声でいった。
「靴か。靴じゃまずいな。お前、地下足袋は持ってねえのか」
「うちに帰りゃあるけれど――」そして彼はおそるおそる質問をこころみた。「靴じゃまずいんですか」
「うん」チョビ髭はうなずいた。「この仕事は、多分、走らねば、ならんことになるからな」
「走るんですか」彼はちょっと情なさそうな顔をした。彼は走ることにあまり自信がなかったのだ。「短距離ですか。長距離ですか?」
「まあ中距離だね」
「ええと、では、手頃の石といいますと、その大きさは?」
「このくらいだ」チョビ髭は彼の眼の前に、拳固をにゅっと突き出した。その頑丈な指に太めの金指環が二つも光っていた。「このくらいの大きさのを十個だ!」
――午後八時。
彼はP駅のホームに立っていた。雨がしとしとと降っていたので、彼は番傘をさしていた。レインコートは質屋に入っていた。やがてチョビ髭が改札口からのそのそとやって来た。その姿をみとめて、ホームのあちこちから、五六人の男たちがぞろぞろと集まって来た。彼もその一人だ。彼はその男たちをじろじろと見回した。男たちはお互い同士をじろじろと眺めあい、その風体でもってお互いが同類であることを確認した。彼のようにポケットを石でふくらましているのもあれば、信玄袋につめこんでぶらさげている奴もいた。しかし、雨衣をつけず、のんびりと番傘をさしているのは、彼一人だけであった。その姿をチョビ髭が叱りつけた。
「仕事に出かけるというのに、番傘なんかさしている奴があるか!」
「でも――」
「でもじゃない。さっさと捨ててこい」チョビ髭は声を荒らげた。「でないと、つれてってやらねえぞ」
彼はしぶしぶと番傘を捨てにいった。いや、捨てるのはもったいないので、駅員詰所の横にそっと立てかけ、足早に戻ってくるとチョビ髭が日当のことを皆に説明しているところであった。
「いいか。今、半金の四百円を渡す。残りの四百円は明日のこの時刻に、この場所で支払う。わかったな」チョビ髭の語調は、有無を言わせぬ強引さに充ちていた。「さあ、みんな掌を出せ!」
つき出された六つの掌に、チョビ髭は手早くちょんちょんと四百円ずつをのせていった。のせられた順に掌は、一つずつひっこんだ。
「出発!」チョビ髭は低い声で号令をかけた。「仕事の指示は現場でおこなう!」
チョビ髭を先頭に、一行七名は改札口を通りぬけ、夜の町に足を踏みいれた。
チョビ髭はここらの地理にくわしいらしく、明るい街並をさけ暗い路地をずんずん歩いていった。六名も黙々とあとにつづいた。雨は少しずつあがりつつあった。場所によっては雲の切れめさえ見えつつあった。しかし雨は彼の服を濡らし、シャツを濡らし、ほとんど肌までとどいていた。迷路のような路地を曲ったり折れたりしているうちに、彼は空気の中に、なにか食欲をそそるような刺戟性の匂いを嗅ぎはじめていた。それはまさしく昼飯に食べたカレーのにおいであった。それと同時に、工場の単調な機械音が次第に彼に近づいてきた。……
[やぶちゃん注:「鰐鮫」「大鰐鮫」、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目オオワニザメ科オオワニザメ属オオワニザメ Odontaspis ferox という標準和名の鮫はいる(本邦近海にも分布)が、捕獲されたり、現認されたりすることがかなり稀れなサメである。
「修羅印カレー」梅崎春生の仮想設定。後の展開で出てくる。
「雨衣」「あまぎ」と読んでおく。]
3
その建物が最初建てられた時は撞球(どうきゅう)場だったそうだが、そのことを覚えている人は今はほとんどいないだろう。なんでもそれは明治の末期だということだ。しかしそう言われて見れば、二階の床(ゆか)もたいへん頑丈に出来ているし(撞球台の重さを支えるためにだ)、柱の数もすくないし(多いとキューの邪魔になる)、全体的にいかにも撞球場くさい家相を持っている。この一郭は戦時中この区でも奇蹟的に焼け残ったところなので、戦後の新しい町並を通ってここにたどりつくと、人によってはほっとした感じを持つだろうし、人によっては戸惑うような気持になるかも知れない。そういう特別の雰囲気がある。しっとりとくっついた生活の垢、あるいはカビ、そんなものがどことなく感じられるのだ。おかしなもので戦後立てられた電信柱にしても、この一郭のやつだけは、他の新しい町並のそれにくらべて、すっかり古びてしまっている。周囲に無理に同調したようにくろずんでいる。なにか風化作用みたいな力がここには働いているらしい。
わずか焼け残っただけにここらの建物は戦後フルに活用されていて、またいろいろと代もかわった。たとえばこの建物について言えば、製本場だったこともあるし、海産物罐詰倉庫だった時期もあるし、階下がパチンコ上が喫茶室だったこともある。製本屋ならまだしも、パチンコだの喫茶だのはどうしてもこんな建物では具合が悪いらしく、客の入りも思わしくなくて、直ぐにつぶれてしまった。木造ペンキ塗りの二階建てだ。ペンキは緑色の筈だが、褪色(たいしょく)したり剝(は)げかかったりしている。屋根のてっぺんには変な形の飾り屋根がくっついていて、その下につばめが巣をつくっている。現在のところ階下はS土地建物会社で、階上が白川社会研究所ということになっていた。
土地会社の方は近来一般の金詰りと地価騰貴(とうき)のせいで、この頃はあまり営業が活発ではないようだ。それに先般某大土地会社が農地法違反のうたがいで調べられたりしている。いずれその余波が群小土地会社にも及んでくることだろう。農地法を犯していない土地会社なんか先ず現今にはあり得ないからだ。だから階下の社員たち(と言っても、四、五人ぐらいしかいないが)は、去年あたりにくらべると顔色もすぐれず、笑い声もあまり立てなくなった。無理もない話だ。
空はうっとうしく曇っていた。つばめが一羽しなやかに身をひるがえしてはしきりに飾り屋根の下に出入りしていた。
白川研究所所員の栗山佐介は道の反対側に立ち、首をあおむけてつばめの動きを眼で追っていた。口を半開きにし、そして首をそんな角度に曲げると、佐介はふだんよりもっと頭でっかちに見える。佐介はつばめが好きだったし、またつばめが飛ぶ季節が好きであった。つばめはほとんど空気の抵抗を感じていないような飛び方をした。
「つまり」鞄をぶらぶらさせて道を横切りながら佐介はぶつぶつと呟(つぶや)いた。「あれなんだな。つまり、あれだ」
佐介は建物の入口に入った。すぐ右手に二階に通じるリノリューム張りの階段がある。階下の事務室は客が一人もなく、がらんとしていた。『贈S土地建物会社』の金文字の入った途方もなく大きな壁時計が、十二時十五分前を指している。佐介はレインコートを脱ぎながら階段をぎしぎしとのぼった。この頃栄養が偏しているせいか、階段をのぼるたびに足が重い。
階上は七坪か八坪ほどの広さで、机だの戸棚だのが雑然と配置されてある。印刷インキのにおいが鼻をうった。壁には大きな黒板がかかっていて、それに肉太な白いチョーク文字で、
今週の標語
この世に弱味なき人間なし
相手のすべての退路を絶て
そして各文字に赤チョークで圈点(けんてん)をつけてある。その黒板の前の小卓で女事務員の熊井がしきりにガリ版を刷っていた。熊井は二十五六歳で、顔が肥ってまんまるで、顔色もややまだらをなしていて、ボーンレスハムの切口を連想させた。だから熊井はハムとここでは呼ばれていた。その旧式の謄写器をばたんばたんと開閉するたびに、熊井のサイプリーツのスカートが微妙な動きを見せるので、同じ所員の牛島がうしろから定規(じょうぎ)の角でつついてからかっていた。定規は鼠をもてあそぶ猫の手のような動き方をした。ハムは身をくねらせ、声をはずませて叫んだ。
「よしてよ。インキが手にくっつくじゃないの、助平」
「クリさんが出て来たよ」
牛島は定規のいたずらをやめ、逆にまたがった椅子の角度をずらして、入ってきた佐介の顔を見た。佐介はレインコートを自分の机にほうり、誰にともなくあいさつをした。
「こんにちは」
彼はそのまま机や屑箱の間をすりぬけて歩いた。部屋の一番奥に、ここの主任格とでも言ったかたちで、須貝という中老の男の卓がある。佐介はその前に立ち止った。須貝は卓に両肱(ひじ)をつき、頭をかかえるようにして、厚味のある印刷物にじっと眼をおとしていた。その表紙には昭和五年司法省発行『司法研究』第十二輯(しゅう)と印刷してある。その白髪混りの頭に佐介は低い声で呼びかけた。
「菅医院に行ってきましたよ」
須貝はびっくりしたように、片肱をがくんと卓から辷り落した。声をかけたのが佐介だと判ると、須貝は大急ぎで表情をとりつくろい、とがめるような眼付きをつくった。須貝は心臓が悪い。刺戟を受けると直ぐそんな表情になってしまうのだ。だからこれは意志的なものでなく、反射的な擬態と言った方がいいかも知れない。須貝は横柄に反問した。
「それでどうだった。菅に会えたのか?」
「会えました」
「金は出したか?」
「取りあえず二万円だけ貰ってきました」
「二万円?」須貝は上目使いしてちょっと口をとがらせた。「そりゃ少いじゃないか」
佐介は立ったまま皮鞄をひらき、やや厚ぼったい封筒をとり出して、須貝に手渡した。
「少いと言っても、僕の月給はそれの四分の一です」
「そりゃ初めからの約束だよ」
「そうです。約束です」
「君は一週間のうち、月、水、金だけしか出勤して来ない。五千円で充分だ。それに歩合(ぶあい)もあるし――」須貝は前歯の抜けた歯ぐきを見せてちょっとわらった。「もっとも君は成功率が低いから、自然と歩合も少くなるが」
「まだ経験が浅いからですよ」牛島が定規をカチャカチャ言わせながら、はたから口を出した。「クリちゃんはそのうちにいい仕事師になるよ。筋がいいからな」
「筋がいいか」
須貝は卓の引出しをあけて何か探そうとしたが、思い直して封筒を二つに折り、内ポケットにしまい込んだ。
「まあ、いろいろ勉強するんだね。詰将棋の勉強なんかが、この仕事に案外役に立つんだよ。これは一種の頭脳のプレーだからね」
「さっきの話ですが――」と佐介は真面目な顔で言った。
「週に三日しか出ないから五千円じゃなくて、五千円しか出さないから週に三日なんですよ。まあ、どっちでも同じようなことだが」
「そうだ。同じだ」須貝は大きくうなずいた。「それで、どう切り出したんだ。医師会に密告するとでも言ったのか?」
「まあ、そんなものです」
佐介は今朝の菅医院での情況を思い出していた。時刻が早かったから、菅医師はまだ食事をすましていなかったらしい。菅は顔色も悪く終始なげやりな口のきき方をした。佐介が菅に面会を求めたのはこれが四度目だ。そして診察室での用談は十五分ほどで済んだ。菅は長身の背をやや曲げ、足を引きずるようにして薬局に引込み、三分後にはその封筒をぶら下げてあらわれて来た。菅はもう口はきかず、つよく侮蔑をこめた眼で佐介を見た。そういう眼付きにたじろぐことを佐介はしなかった。そうすることをずっと以前から彼はやめていた。
「どんな顔をしてたかい」
「乞食に呉れるみたいな顔でしたね。封筒をよこす時は」
「高慢ちきな顔だろう」
「そうです」
「金をしぼられるやつの、そうだな、五十八パーセントぐらいは、とかくそんな表情をつくるもんだ。覚えとくがいい。つまり卑屈のうらがえしだ」須貝は顔をあおむけ、顎(あご)をことさらに突き出し鼻翼をびくびくと動かして見せた。
「高慢ちきな顔って、ほら、こんなだろう」
須貝は以前新聞記者だったが、某舞台俳優の情事をネタにゆすり、それが発覚してクビになったという話だ。のっぺりした顔をもっていて、数年前帝銀事件犯人のモンタージュ写真が市井(しせい)に配布された時、容疑者と見られて危く留置されそうになったことがある。当人はどういう了見かそれを自慢話のひとつにしている。佐介は動きのない表情でその須貝の顔をしばらく見おろしていた。
「そんな表情ではなかったですね」やがて佐介は断定するように言った。「あなたのその顔は、高慢というよりは滑稽です」
「そうか。滑稽か」
須貝はもとの顔に戻って、興ざめた口調で言った。
「滑稽なのはお互いさまだよ。君のその五頭身だって、そっくりそのままお笑い草だ」
刷り上げた紙をワクから外(はず)して揃えながら、ハムがくすっと笑い声をたてた。佐介はその方をふりむいた。須貝や栗山佐介だけではなく、この部屋にいるものは皆、牛島も、ハムも、窓辺の机にいる嘱託名義の玉虫老人も、普通人にくらべるとどことなく滑稽なところがあった。ハムは笑いやめて、刷り上ったものを戸棚に乗せた。このガリ版は『白川研究所報』で、一週に一度百刷(す)られ、そしてどこに配布されることもなく、やがて四つに裁断されて所員たちのメモ用紙になってしまうのだ。何のために『所報』が毎週刷られるのか、ハムもよく知らないようだし、疑いを持ったこともないらしい。彼女は自分の席に戻って、引出しから探偵小説を出して読み始めた。玉虫老人は朝刊の束から記事を切り抜いては、一枚ずつスクラップブックに丹念に貼りつける作業をつづけている。老人が無表情なのは耳が遠いからであった。佐介は首を元にもどして、皮鞄を閉じた。
「しかし、まあ、なんだな」須貝は莨(たばこ)にマッチを近づけながら、ひとりごとのように言った。「少いと言っても、二万円出したということは、一応自分の麻薬中毒を認めたということにもなるな。まんず成功の部類だ」
「そうです」
「それをネタにして、同業者の中毒患者の名を聞き出す手もあるな」牛島が定規で首筋をかきながら言った。「医者で中毒者というのが、都内にも相当にいるらしい。そいつを調べ上げるんだな。中毒者は何らかの形でお互いに連絡し合ってるに違いないもんな」
「そうだな。それも面白い」
「ハシタ金をしぼるより、その方が得でしょうな。当研究所としても」
「うん」須貝主任は考え深そうに眼をしばしばさせた。
「それが本筋かも知れんな。しかしそりゃ栗山君にちょっと無理だろう。もすこしベテランじゃないとねえ。鴨志田君にでもやってもらうか」
鴨志田というのは栗山佐介と同年で、少年航空兵上りで、そしてここでは佐介よりずっと古顔で、腕利きということになっていた。関西方面に出張中で、今日はここにいない。佐介は自分の席に戻って、鞄をどさりと机上に投げ出した。別に不快なわけではなかった。机上に白い封書が一つ乗っている。栗山佐介宛のものだ。彼はそれを裏返して見た。発信人の名はなかった。彼は封を切った。
「なんなら俺がやってもいいですよ」
と牛島がその佐介を横目で見ながら言った。その時壁の鳩時計から鳩が飛び出して、つづけさまに十二声啼いた。この可愛い声を出す精巧な鳩時計は、この殺風景な部屋にはしごく不似合いな備品であった。これは牛島が昨年あるバレリーナをゆすった時、記念品としてついでにカチ上げて来たものだ。
「あら、もうお昼だわ」とハムが時計を見上げた。「富岳軒になにか注文する?」
「僕はライスカレー」と須貝があたりを見回して言った。
「俺もライスカレー」と牛島が須貝を見て言った。
「あたしもライスカレー」とハムが玉虫老人へ近づきながら言った。
「わしはみんなといっしょ」
肩をハムから叩かれて、きょとんとあたりを見ながら玉虫老人が言った。この研究所のそれぞれの人員の食欲は(いや、食欲だけにも限らないが)、たいへんに自主性がなくて、誰かがラーメンと言い出すと大体総員がラーメンだったし、ヤキメシだと皆がヤキメシだ。他人と異ったものを食べることを、おどおどとおそれるような傾向が多分にあった。まるでそれ以外の食物には毒でも入っているかのように。ハムは濃過ぎる口紅を舌でちろりとなめ、佐介を見た。
「あんたもライスカレー?」
「いや。僕はハムライス」
「あんたは近頃ライスカレーの時は、いつも仲間はずれをするのね」ハムは怨(えん)ずるような眼で、非難がましい口を利いた。「どうしてなの。なにか事情でもあるの?」
「そう」佐介はうなずいた。「家庭の事情」
「家庭の事情で、食べ物が好きになったり嫌いになったりするの。へえ、だ」とハムは下唇を突き出した。「それにあんたは独身で間借りの身分でしょ。家庭も何も持ってないじゃないの」
「独身者はその独身が家庭さ」
佐介はそう答えながら、椅子に腰をおろした。そして拡げた一枚の便箋の文章をよみなおした。それにはわざとらしい活字体のペン字で、
『今の調査を打ち切れ。打ち切らねばお前の身は危
険である。右警告す』
ただそれだけ書いてある。佐介は一瞬その文言(もんごん)を皆に披露したい誘惑にかられたが、思いとどまってそれをたたみ、封筒の中に戻した。披露したって仕方がないし、この身の危険が減じるわけでもない。佐介は現在任せられている件を頭の中で数えてみた。さっきの菅医師の件をのぞけば、役人2、大学教授1、高級指圧師1、バーマダム1、写真師1、以上の六件だ。むつかしい事件はまだ佐介のところに回って来ない。それだけの力量がないからだ。そして六件とも早急を要する性質のものでなく、今週の標語にあるように、向うの退路をじわじわと絶ち、徐々にその弱味をしめ上げて行くだけでいい。こっちが追いつめるというより、向うの方で追いつまってしまうのだ。だからそれはわりに単純にして持続的な仕事であった。この警告状もその六件のうちの誰かのらしいが、それが誰だかはちょっと佐介にも見当がつきかねた。佐介は封筒を二つ折りにしてポケットにしまい、ぼんやりと窓外を眺めた。ハムは富岳軒に電話のダイヤルを回しはじめた。茫々(ぼうぼう)とつらなる家並の上に、どんよりと白茶けて濁った梅雨時(つゆどき)の空がある。つばめの影がひらりと窓を横切って消えた。(おれは残念ながらカレーは厭だ)佐介は空をまじまじと眺めた。そしてまた考えた。(人間というものは、いくらじたばたしたって、その環境には勝てっこないものだ。とてもつばめのように身軽にはゆかない)佐介は自分が借りている部屋のことを思い、そして白茶けた空の色からウドンの茄(ゆ)で汁(じる)を連想した。二年ほど前、佐介はソバ屋で働いていたのだ。そのソバ屋は神田にあって、よくはやって忙しい店であった。朝は八時頃から粉をねって機械にかけ、先ずウドンとヒモカワをつくる。ウドンとヒモカワはのびる率がすくないからだ。それがすむと今度はソバ。配給の粉はアメリカ製で腰が弱く、さらさらして粘り気がない。だからソバと言っても、戦前のそれにくらべると、ソバ粉の含有量は半分ぐらいしかないのだ。それ以上ソバ粉をふやすと、汁の中できれぎれになってしまう。腹が空けば勝手に何でもつくって食べていいきめになっていて、初めのうちこそ喜んで月見ウドンだの肉ナンバンなどをこしらえては食べたが、半月も経たないうちに、そんなじゃらじゃらしたものは見るのも厭になってしまった。出来たてのウドンをつけ汁につけて、するするとすすり込む、せいぜいそれがせきのやまで、他には手を出す気もしない。つまり生(き)のウドンに直面してしまったわけだ。人間だってウドンだって同じようなものだろう。このソバ屋の主人は空気枕みたいな肥り方をしていて、そのくせ手足は細く、男色趣味を持っていた。人使いも荒くて、なにかと言うと自分の若い時の苦労を持ち出してくる。佐介はこの店にそれでも三ヵ月ほども働いた。三ヵ月もいると粉のこね方もうまくなる。そしてウドン粉をこねるのも、今の仕事、人間をこねかえすような仕事も、さして変りはない。同じことのように今の佐介には思える。またつばめが窓を横切った。
「これはおかしいな」
須貝が机の引出しから鍵束をとり出し、その一つを眼に近づけながら言った。佐介はそちらに首を動かした。須貝がつまんでいる鍵は割に大型で復雑なギザギザがついているところから、ここの重要書類保管庫の鍵とわかった。金属製のその書類庫はA金庫と呼ばれ、須貝の席のうしろ、この室の一番奥まった場所に据えられている。ここの仕事にほんとに必要な資料は、ほとんどそこにしまわれていた。須貝の声にはへんな緊迫感があった。
「どうしたんです」と牛島が自席から訊ねた。
「いや」
須貝は鍵を鼻にもって行って、くんくんと嗅(か)いだ。
「粘土かな。牛島君、ちょっと来て呉れや」
牛島は須貝の卓のそばに立ち、鍵を光にかざしたり、またにおいを嗅いでみたりした。佐介も立ち上って、のろのろとそこへ近づいた。
「粘土?」牛島はガチャリと鍵束を須貝の掌に戻した。
「まさかねえ。でも――」
「誰かが粘土を使ってこの鍵の型でもとったんじゃないか」須貝はやや表情をこわばらせて、じろじろとあたりを見回した。「乾いた粉みたいなものがへばりついてたよ。それにへんに油くさいような――」
「そりゃあんたの指の脂(あぶら)ですよ」牛島も同じように周囲を見回しながら、とってつけたように言った。「ここに働いてる者で、そんなことをやる奴はないよ」
「何も君たちを疑ってるわけじゃない。わけじゃないがだ――」
「他の鍵にはくっついていないんですか」と佐介は訊ねた。
須貝は他の鍵もざらざらと掌にひろげて、そこに顔を近づけた。ちょっとの間白けた沈黙が来た。ハムは椅子にもたれて小説本を読みふけっているし、玉虫老人は手まめに記事を切り抜いている。須貝はぐふんとわざとらしいせきばらいをした。
「老眼鏡を忘れてきたから、よく判らん」須貝はあきらめたように眼をはなし、A金庫の鍵穴に鍵をがちゃりとさし込んだ。「まあ、お互いに用心することだな。ここにはいろんな連中が出入りすることだしな」
「型をとったのは俺じゃねえですよ」と牛島が低くささやくように言った。
「僕でもありませんよ」かぶせるように佐介も発言した。声は牛島のそれよりもちょっとばかり高かった。須貝はA金庫の錠をそろそろと開きながら、首だけを二人にむけた。その眼はむしろ打ちひしがれて、おどおどしたような光さえあった。
「もちろん僕でもないよ」須貝は内ポケットからさっきの二万円人りの封筒をとり出し、それをA金庫内に収めながら、奇妙な弁解の仕方をした。「鍵を管理しているのは僕だからな、その僕が型をとるわけがない」
「誰もあんただとは言ってねえですよ」と牛島が言った。
「まあ気のせいかな。粉だとおっしゃるが、こんな梅雨時の季節だから、カビが生えたんじゃなかろうか」
「カビか」
須貝は金庫の錠をしめて、にやにやとつくり笑いをした。牛島も笑いながら、足音を忍ばせるようにして自席ヘ戻った。須貝はちょっと考えて鍵束を、卓の引出しにではなく、内ポケットにしまいこんで丁寧に釦(ボタン)をかけた。
「カレーはまだか。腹へった」
「何を読んでんだい?」牛島ははずみをつけて、ハムが読んでいる本をひょいと取り上げた。「なんだって『殺人準備完了』だって。女の子のくせにおっそろしい本を読むんだな」
「返してよ!」ハムは中腰になって両手を伸ばした。「何を読もうとあたしの勝手じゃないの。探偵小説よ。作者のアガサ・クリスティは女なのよ」
「うん」須貝が自席でうなずいた。「探偵小説も勉強になる。大いに読み給え」
「僕もその本を読みましたよ」佐介は半分須貝に、半分ハムに向けた風に口をひらいた。そしてふと霜柱を踏みしだくような酷薄な快感が彼をそそった。彼は押しつけた声を出して言った。「犯人はね、ネビル・ストレンジなんだよ。意外だろう。大した悪者なんだ」
「まあ、ひどい」ハムは両掌を拳固にして、まっかになって地団駄を踏んだ。
佐介はうずくような気持でその顔を直視した。
「折角三分の二まで読んだのに、犯人の名を言ってしまうなんて。いいわ、きっと思い知らせてやるわよ。悪者!」
[やぶちゃん注:「リノリューム」リノリウム (linoleum)。亜麻仁油などの天然原料をもとに製造される建材で床材やインテリア素材として使われる。「linoleum」の語はラテン語の「linum」(「亜麻」)と、同じくラテン語「oleum」(「油」)を合成した混成語で、開発者のイギリスの発明家フレデリック・ウォルトン (Frederick Edward Walton 一八三四年~一九二八年)の命名で(一八六〇年特許取得)、発明当初は「カンプティコン」(Kampticon) と呼んでいたのを改名した。日本に於ける商標権はスイスのフォルボ・フィナンシャル・サービス社(Financial Services AG)が保有している。現在、亜麻仁油以外にジュートなどの植物繊維の他、ロジン(Rosin:マツ科 Pinaceae の植物の樹液である松脂等のバルサム類を集めてテレピン精油を蒸留した後に残る残留物)・粉状木材・石灰石・コルク粉などからも製造されている。
「サイプリーツのスカート」思うに「scye pleats」で、折り畳まれた形を開いてそれが襞状になっているスカートのことと思われる。但し、現行では「サイプリーツ」という言い方は、まず、しないようである(ネット検索に掛かってこないのである)。
「帝銀事件」の発生は昭和二三(一九四八)年一月二十六日。本作発表の七年前である。実は……「帝銀事件」は私にとって因縁の深い事件である。……私が二十代の頃に出遇った老人は私の「帝銀事件」に対する独自の推理を微笑しながらずっと黙って聴いておられたが、最後に「君の推察は概ね正しい。……私が死んだら、私の手帖をあげましょう。」と言った。そうして「あの頃、多くの謀略事件がありましたが、それに係わった人間は未だ生きており、私の知っているそれらの多くの真相を語ることは、それ故に許されません。……しかし……あの事件だけは……真実が語られなければいけません…………」と呟かれたのである――彼は敗戦前後の内務官僚であった人物であり、未だ生きておられるのである…………
「カチ上げて来たもの」「搗(か)ち上げ」は普通は、相撲の取り組みに於いて用いられる技の一つで、主に前腕を鍵の手に曲げ、胸に構えた体勢から、相手の胸にめがけてぶちかましを行うなどの形を取るものを言うが、ここは「賄賂としての戦利品」といったような意味で用いているのであろう。
「ヒモカワ」幅広の薄い「平打ち饂飩(うどん)」の別称。
「殺人準備完了」一九四四年にイギリスの小説家アガサ・クリスティが発表した長編推理小説「ゼロ時間へ」(Towards Zero)。彼女が読んでいるのは本作発表の三年前の昭和二六(一九五一)年早川書房刊の「世界傑作探偵小説シリーズ」の第九巻として「殺人準備完了」の邦題で三宅正太郎氏によって訳されたそれである。私は読んだことがないが、このネタバレ記載は、当時どころか今でも顰蹙を買うものであろう。なお、底本の解説は中村真一郎氏が担当しているが、その主たる部分は本篇に就いての評となっており、その中で本作の第九章の終わり方を評して、『ここには作者の推理小説趣味も働いている。働いているといっただけでは言い足りないような、大胆な、殆んど乱暴と言ってもいい程の冒険を作者は試みている。推理小説の読者ならば、「アンフェア」だと文句をつけたくなるくらいである』とある。というより、以上の通り、全体の構成自体が、読者が推理を重ねなければならぬ、かなり意地悪な構成となっているとも言えるのである。]