三州奇談續編卷之七 多湖老狐
多湖老狐
越中「多湖(たこ)」は、「萬葉集」に多く聞えたる「藤波(ふじなみ)」の名所なり。謠(うたひ)にも又聞えたり。今日(こんにち)爰に至りて見るに、片岸(かたぎし)の岡山にして小村(こむら)田野靑し。往昔(そのかみ)の景は見えず。舊跡は寺となり、白藤山光照寺と云ふ。門の側に一つの古藤(ふるふぢ)あり。檜の木に纒ひて半ば上る藤根蟠(わだかま)りて臼の大さなるべし。實(げ)に千古の一物猶あり。是れ家持卿の再遊の地、爰にも鳥石(てうせき)の斑紋よきを寺に納む。其昔は海水爰に浸(ひた)して、波濤岸(きし)を打つと覺えたり。今十餘町[やぶちゃん注:六掛けで一キロ半近く。]海退(しりぞ)き、「布勢(ふせ)の海」も側(かたはら)により、田畑に狹(せば)められて、此あたり皆澤國(たくこく)の美田(びでん)と變ず。扨は「雪の島」と聞えし景も何(いづ)れやらん。
「今の西田國泰寺(こくたいじ)の前山の尾にや」
と、好事の人は云ふ。然れども「唐島(からしま)」をさすとも云ふ。論猶後條に記す。
[やぶちゃん注:「多湖」古くは「多祜」。富山県氷見市上田子(かみだこ)・下田子(しもだこ)一帯(国土地理院図)の旧地名。「布勢の水海(みづうみ)」「布勢(ふせ)の海」(後の原形の「十二町潟」。地盤の隆起・仏生寺川水系による土砂の堆積・近世以降の干拓事業などによって次第に湖面が縮小してしまい、現在の十二町潟は万尾川(もおがわ)に沿った(左岸。初めは万尾川は直接に十二町潟に流入していたが、現在は万尾川とは堤防を隔てた形で流路変更されている)長さ約一・五キロメートル、幅百メートルばかりの一条の水路様の池沼となってしまった)の沿岸であった。原十二町潟の範囲は、こばやしてつ氏のサイト「ゆかりの地☆探訪 ~すさまじきもの~」の「布勢の海(富山県氷見市)」に載る案内板(平安時代の十二町潟)がよい。写真も載るが、凡そ家持の時代を偲ぶ便(よすが)にはならない状態にある。リンク先にはこの「布勢の水海」を詠んだ家持の歌も載るので、必見。同サイトの「多胡の浦(富山県氷見市)」も見逃すまじ! 十二町潟の縄文時代以来の詳しい沿革はサイト「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」(PDF)がお薦めである。なお、実測距離の十二町は一キロ三〇九メートルである。]
「藤波(ふじなみ)」「万葉集」巻第十九の以下の大伴家持の歌(四一九九番。四首に第一)に基づく。
十二日に、布勢の水海(みづうみ)に
遊覽し、多祜(たこ)の灣(うら)に
船泊(ふなは)てして、月と藤の花を
望み見、各〻(おのがじし)懷(おも
ひ)を述べて作れる歌四首
藤波の影なす海の底淸(きよ)み
沈(しづ)く石(いし)をも
珠(たま)とぞわが見る
この下田子地区には藤の古木が多い。田子浦藤波(たこうらふじなみ)神社(グーグル・マップ・データ。八世紀末頃に創建されたと伝わる古社で、しかも大伴家持の部下が家持に授かった太刀を祀ったのが始まりとされる家持所縁の神社である)のそれが推定樹齢二百年で、幹周り一メートル八センチ、根周り囲二メートル七十七センチ、樹高二十八メートルもある巨大な藤の木(山藤(マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属ヤマフジ Wisteria brachybotrys)系)である。参照した「氷見市」公式サイト内の「大伴家持がこよなく愛でた氷見のフジ」を見られたい。
「謠(うたひ)にも又聞えたり」謡曲「藤」作者不詳(江戸初期の作か)で、江戸中期の十五世観世宗家観世元章(もとあきら)が改作したもの。まさにこの「多祜の浦」が舞台で藤の花の精を扱った複式夢幻能である。解説と詞章は小原隆夫氏のサイト内のこちらがよい。
「往昔(そのかみ)」は私の当て訓。雰囲気を大事にしたいと思い、選んだ。
「白藤山光照寺」浄土真宗本願寺派。富山県氷見市朝日本町のここ(グーグル・マップ・データ)。開基は慶信(加賀国守護冨樫泰家の弟冨樫武道の次男武行)で、正応元(一二八八)年、本願寺如信上人に帰依して発心出家し、正応三(一二九〇)年に加賀国木越(きごし)村(現在の石川県金沢市木越)に一宇を建立して光照寺の号を上人より賜わった。後年、この旧田子村に移転し、更に安永九(一七八〇)年に慶岸が現在地に移転したもの。藤棚はあるが、山門のそばでないし、この当時のものではない。因みに山号をどう読むか、かなり執拗に調べたが、遂に判らぬ。「はくとうさん」と読んでおく。
「鳥石」前話「二上の鳥石」参照。
「今十餘町海退(しりぞ)き」六掛けで一キロ余りとなるが、現在の海岸線からこの寺までは五百メートル余りしかない。但し、原十二町潟の最奥部は現在の海岸線から四キロメートル以上貫入していた。多くの資料は縄文後期頃には海と分離し、淡水化したとするが、現行のような潮止水門のようなものがあったとは思われないので、広義の汽水でいいのではなかろうかという気はする。
「澤國(たくこく)」沼沢の多い湿潤な国。
「雪の島」「万葉集」巻第十九の天平勝宝三年正月三日(ユリウス暦七五一年二月七日)に雪の降りの激しい日、家持の館で催された宴での、歌謡を詠む芸能者の女性が詠んだ(四二三二番)、
遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふ
のをとめ)の歌一首
雪の嶋巖(いは)に植ゑたるなでしこは
千世(ちよ)に咲かぬか
君が挿頭(かざし)に
であるが、この「島」は本当の島ではない。前の四二三一番歌の前書に、宴席の余興に家持邸の庭に雪を積み上げて重畳する岩の形を創り上げ、そこに巧みに草木の花を彩りとして飾ったものなのである。されば、この同定自体が実は無効なのである。しかし、これについて個人サイト「万葉のふるさと氷見」の「氷見弁で読む万葉集(巻19)」の本歌の解説に、「氷見市史」第四巻の付録にある「憲令要略」に、この「雪の島」とは「唐島」らしい、と書かれているとある。「唐島」は氷見市沖にある小島の無人島で、氷見市丸の内にある光禅寺が全島を所有し、弁天堂や観音堂がある。光禅寺を創建した明峰素哲が唐の大火を消し鎮め、その返礼に唐から島を贈られたという言い伝えから、「唐島」と呼ばれる。地質的には石灰質砂岩から成る(ここはウィキの「唐島」に拠った)。シチュエーションからも、歌柄からも、正直、それはないよと言いたい。なお、「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」(PDF)の裏表紙には、十二町潟には一つぽつんと島があった、として「布施の丸山」の写真が載る。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「西田國泰寺の前山の尾」「西田」は不審。高岡市太田にある臨済宗摩頂山国泰寺。但し、この中央附近の丘陵となるものの、ここは縄文海進まで遡らないと、十二町潟ではないから、どう考えても、誤りである。
「後條」次の「布施の白龍」以下、「卷之八」でもこの辺りが語られることを指す。]
されば奇說を求めて、春日(しゆんじつ)も旭光西山に隱るゝ迄徘徊するに、半說をも得ず。昏(ひぐれ)に及びて歸るに、金澤の城下に通ふ商人(あきんど)四五輩、棒(あふこ)の端重たげに休らひ居たるに、杖の下を狐過行(すぎゆ)きしを、
「あれやいかに」
と云ふに、氷見(ひみ)の商人更に驚かず、
「此邊(このあたり)は狐多くして狗(いぬ)に類(るゐ)す。何共(なんとも)せざる事なり」
と云ふ程に、
「いかにや委しく語り給へ」
と、破籠(わりこ)の殘酒など打廻(うちめぐ)らして懇ろに問ふに、
「さらば息休めに長物語(ながものがたり)一つ申さん」
とて、一人の老夫語りしは、
[やぶちゃん注:「半說」聴きかじりの話の断片。
「棒(あふこ)」「近世奇談全集」に『おゝこ』とルビするのを参考にしてかく読んだ。「近世奇談全集」は一部にルビが振られていて重宝するのだが、残念ながら、歴史的仮名遣の誤りが甚だ多いという難点があるのである(因みに、同書の編校訂者は何んとまあ、田山花袋と柳田國男なんだけどね)。「あふこ」は現代仮名遣「おうこ」で、漢字は「枴」、天秤棒のことである。彼らは「ぼてぶり」(棒手売)なのである。
「何共せざる事なり」どうってことはない日常的なことさ。
「いかにや委しく語り給へ」この台詞は麦水。
「破籠」弁当。]
「田子(たご)村の與藏が後ろの山の穴に、久しく住みたる老狐あり。近き頃の事なり。近隣の惡若者ども、いかにしてか此老狐を引捕(ひきとら)へて、棒を以て打つ。老狐既に死に至(いたら)んとするに、與藏傍に見るに哀れ堪へ難く、走り寄りて命を詑(わ)び、棒を押(おさ)へて狐を迯(にげ)さしむ。漸(やうや)くに老狐穴に入ることを得たり。與藏猶痛(いた)はり、我が喰(くら)ふ食(しよく)を分ちて穴の中に投げ入れ、憐むこと大(おほい)に過ぎたり。あたりの人與藏を諫めて、
『何とて心弱きことをするぞ。狐は必ず弱みに付く物なれば、打擲(ちやうちやく)したる若者には付かずして必ず汝に付くべし。早く心を正しくせよ。早(はや)何(なん)とやら目付き惡しく、足の根に爪たてる樣(やう)に見ゆるぞ』
と云へば、與藏淚を流し、
『我れも其咄しは聞き知りたることなれど、狐の痛めらるゝを身にかへて不便(ふびん)に思ふ故(ゆゑ)斯(かく)の如し。是も早や野狐(やこ)の所爲(しわざ)にや、心うかうかとする樣(やう)なり。手つき足つき能く試みられよ』
と、友達に見て貰ふなど、甚だ心にかけけれども、さして本氣を失ひしとも思はれず。翌日に至りければ、馬の糞(くそ)を紙に包み、手に載せて見れども、矢張馬の糞にして喰ふべき心も起らず。されども與藏、邊りの人におどされて心中常ならず。所用もやめて、野狐の付きたる氣になりて、一間所(ひとまところ)へ入り、自ら戶を閉ぢなどして心を定む。いか樣(さま)此頃津幡(つばた)の驛の人足、早打籠(はやうちかご)舁(か)きし戾りの六人連れ、野鍛冶(のかぢ)が狸の皮を脊に懸けて戾るを、
『妖物(ばけもの)よ』
と打擲して、今は騷動に及び居(を)ると聞えたり。
『是等(これら)人の方(はう)强ければ、狐の方指扣(さしひか)へることにや』
と、朝夕狐の付かんことを侍居(まちをり)けるに、三日目の夜、雨しめやかに灯(ともしび)も細く、亥の刻過ぐる頃[やぶちゃん注:午後十時過ぎ。]、
『しらしら』
と老狐家に飛入(とびい)りしかば、與藏大聲揚げて、
『よれや人々今狐が付くぞや』
と申しけるに、彼の狐靜めて申すは、
『必ず大聲して人を呼び給ふな。我れ餘り其元(そこもと)の用心し給ふ故「付かぬ」と申す云譯(いひわけ)に來りたり。靜(しづか)に聞き給へ』
とて、夢ともなく現(うつつ)ともなく語りけるは、
『此邊の狐は化けることに不自由なり。我れ能々(よくよく)の老狐なればこそ現に來(きたり)て詞(ことば)を出だすなり。其許(そこもと)の恩を受けながら、其許の餘り用心して世用(せよう)をも捨て給ふが痛はしさに告げ申すなり。狐の付くことはあることながら、夫(それ)は多く氣(き)やみのうち、又は病氣より自ら迎ふる類(たぐひ)なり。畢竟(ひつきやう)付く方(はう)われらが損なり。抑(そもそ)も我等が類ひは人に付くの存念(ぞんねん)更になし。人に付けば又狗にも取らるゝなり。自然(しぜん)と狗は人の爲(ため)をなす天性(てんしやう)なり。人に付かねば狗見付けて追ふといへども、暫く退(しりぞ)けば犬の心たゆみて戾る。强ひて追ひ極めず。此邊の狐とても犬と同じことに人家の食を喰ひ申せば、自(みづか)ら人に仇(あだ)する心止みて、化け樣(やう)も忘れたる如し。一躰(いつたい)昔は人の精を吸ひて美女にも變じ、天子攝家の高位にも近づきしと聞きしが、今は中々人魂(じんこん)薄うして、精を吸ひても、狐の方に德あることなし。民間にては良々(やや)もすれば惡疾(あくしつ)・下疳(げかん)の精を吸ひて苦しむこと甚だ多し。依りて我等は初めより化け樣を忘れて、常獸(つねのけもの)と同じことに暮すなり。罰・利生(りしやう)あるの狐は狐のみに非ず、物の狐に依りたるなり。此邊の狐何の罰・利生をかなさん。穴賢(あなかしこ)捨置(すてお)きて、前の如く常の所用をなし給へ』
と云ひしが、忽ち見えず。夢覺(ゆめさめ)たるが如し。
與藏是より心慥(たしか)にて、常の事を勤めしとぞ。
今宵(こよひ)氷見に宿り給はゞ、軒下・屋の棟に狐住むなるべし。必ず驚き給ふな」
と一椀の酒の恩にめでゝ懇に物語せしなり。
[やぶちゃん注:「田子(たご)村の與藏が後ろの山」この中央附近の田子地区の西側の丘陵であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「命を詑(わ)び」命乞いをして彼らに狐に代わって詫びを入れ。但し、この漢字は誤りで、「詫」「侘」でなくてはおかしい。「詑」は「欺く・偽る」の意である。
「付く」憑く。
「足の根に爪たてる樣に見ゆるぞ」狐のように獣っぽく関節を曲げて爪を地面に立てるように見えるぞ!
「狐の痛めらるゝを身にかへて不便に思ふ故斯の如し。是も早や野狐の所爲(しわざ)にや」「哀れに思って、施しを与えてやるといった行動をとったこと自体が、既に野狐に誑かされていたのかも知れない」と自覚しているのである。
「心うかうかとする」気がゆるんで注意が行き届かない。何となくぼんやりする。気分が妙に浮き立ってしまって心が落ち着かぬさま。
「矢張馬の糞にして喰ふべき心も起らず」狐狸に騙されて馬糞を饅頭だと思って食う話は定番。
「所用」用事。用件。
「津幡」石川県河北郡津幡町(グーグル・マップ・データ)。
「早打籠舁きし戾りの六人連れ」早く籠で人を目的地に送るために、交替要員或いは前引きのための六人組み。
「野鍛冶が狸の皮」野鍛冶とは、包丁や・農具・山林仕事などに用いる刃物などの製作や修理を担ってきた渡りの鍛冶屋。ここはそうした野鍛冶がよく背に着けている狸革を駕籠舁きたちが身に着けていたというのであろう。何となく彼らの粗野なアウトロー感がよく出る。
「『妖物(ばけもの)よ』と打擲して、今は騷動に及び居ると聞えたり」ここがちょっと不審。私はそうした連中が与蔵に狐が憑いているかも知れぬという話を聴いて、彼の家に押し入り、暴行を加えたという意味で採っている。ただそれだと、「今は騷動に及び居ると聞えたり」という部分がなんとなくいらない感じがする。「騷動に及びけりとも聞えたり」(騒動となったようだとも聴いたりした)ぐらいならいいか。
「是等人の方强ければ、狐の方指扣へることにや」前の暴行事件を受けてのこと(どうせなら狐が本当に憑いたなら、そうした連中をも退散させ得るであろうというニュアンス)と私は採っている。何か別な解釈があると思われる方は、是非、御教授あられたい。
「しらしら」白くその狐の形がはっきり見えるさま。
「世用」ここは渡世の仕事の意。
「氣(き)やみ」気病みで、精神病のこと。
「病氣」心因性でない内因性・外因性疾患のこと。
「人に付けば又狗にも取らるゝなり」。狐が人間に憑依すると、基本、人間に忠実で、敏感なる犬は、必ずそれを知って襲ってくるものである。人間は逃げ足が遅いから、すぐ捕まってしまう。狐のままならさっと逃げられるという含みがあって以下の「人に付かねば狗見付けて追ふといへども、暫く退けば犬の心たゆみて戾る」に続いているのであろう。
「强ひて追ひ極めず」主語は犬。
「昔は人の精を吸ひて美女にも變じ、天子攝家の高位にも近づきし」鳥羽上皇の寵を得たという伝説上の美女で、その正体は異国(天竺・中国)で悪行を重ねて遂に日本に飛来したとされる金毛九尾の狐。陰陽師に見破られて那須の殺生石になったとする、九尾狐「玉藻の前」のことを念頭に置いて述べている。
「人魂(じんこん)」崇高にして強力な精力・精神力。
「下疳(げかん)」性病(性感染症)の一種。性行為で伝染する伝染性潰瘍を形成する症状を指す。通常、潰瘍は陰部に生じる。原因病原体により「軟性下疳」・「硬性下疳」=「梅毒」・両者の混合による「混合下疳」に分ける。
「物の狐」よく判らぬ。物の怪としての狐の意か。]
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