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2020/07/07

三州奇談續編卷之六 怪飜銷ㇾ怪 / 三州奇談續編卷之六~了

 

    怪飜銷ㇾ怪

 七尾の大野氏なる人は、元祿の頃の主人を俳名長久といふ。「續虛栗」集を撰びし人なり。好事代々を傳ふ。

[やぶちゃん注:標題は「くわい、かへりて、くわいをけす」。意味は本文で明白。

「大野」「長久」「加能郷土辞彙」に、『オホノチヨウキュウ 大野長久 七尾の俳人。細流軒と號し、初め貞室の門から出で、後に晩山の風を慕ひ、元祿十三年』(一七〇〇年)『勤文と相携へて京に上つた。此の時長久年六十餘にして欅炭を刊行した。この外實虛栗の著があるとも傳へられる。元祿十五年正月二十日歿。追善集に三年草がある』とある。「欅炭」は「けやきずみ」であろう。しかし其角編「續虛栗(ぞくみなしぐり)」と同名の撰集を書いたというのはちょっと解せない。其角の知られたそれは貞享四(一六八七)年刊で、同時代に別派にあって同書名で集を出すであろうか? 「加能郷土辞彙」の記載は恐らく本篇によるもので、実際にそれが現存している書き方ではない。【202079日追記】いつもお世話になるT氏よりメールを頂戴し、そこで余談(以下の「麩屋町」の追記内容が主体)とされた上で、『「七尾の大野氏」が大野屋を名乗っていたならば、「石川県鹿島郡誌」の「七尾町」の〇町奉行と町年寄の項1093コマ~1116コマ)に、

・大野屋五郎右衛門【享保十八年~延享四年】

・大野屋平右衛門【明和九年~安永二年、天明二年~】、

とあり、また、「○所口町惣肝煎役」にも

・大野屋五郎右衛門【寛永二年より】

とあり、「〇東地子町肝煎役」に、

・大野屋八右衛門【弘化二年六月】

「〇所口各町肝煎」の名の項には「豆腐町肝煎」に、

・大野屋五郎右衛門【文化六、七年】

とあります。なお、同書の七尾町の「〇口碑等による町の由來(西部)」の「〇生駒町」には、

「元、豆腐町と稱し由來素封家の多き町なり。之れ町の中央なりし爲めならんか、鉾山祭禮には殷盛を極めしと云ふ」

とあります。されば、当主大野屋が代々「右衛門」を名乗って、「所口町の有力者の一人」であったと考えられます』と御教授戴いた。]

 

 去れば安永六年の秋の事とかや。此家居に怪しき灯出づる。或時は影の如き人躰(じんてい)の者不圖(ふと)出で、やしきを見るよし沙汰す。隣町の麩屋町といふに、傘を張りて世を渡る和倉屋某なるもの、密ひそか)に來り告げて曰く。

「御心得のため申候。怪しき灯をともしたる人(ひと)影の如く出で、屋敷の中を通ること慥に見うけ候、御氣を付けらるべし。兎角祈禱にても成され候か、御經にても讀(よま)せられ候が然るべく候はん」

と、懇ろに申して歸る。

[やぶちゃん注:「安永六年」一七七七年。

「麩屋町」不詳。「近世奇談全集」はここを『豆腐屋町』とするのであるが、こちらは前にも出たが、これも如何せん残念乍ら不詳である。【202079日削除・追記】いつもお世話になるT氏よりメールを頂戴した。それによれば、これは「豆腐町」で現在の七尾市生駒町(グーグル・マップ・データ)であるという御指摘であった。国立国会図書館デジタルコレクションの「石川県鹿島郡誌」の「第壹章 七尾町」の「七尾町區劃」に『生駒町(イコマチヨウ)(豆腐町(トウフマチ))』とあり、「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫」蔵の文政二(一八一九)年に描かれた「所口町繪圖」に(右下が北であるので注意)中央の川左手(左岸・北西)一帯総てが「豆腐町」と記されてある。]

 

 然りし後三四日して、宵の間の事とにや。此家の婢女脊戶庭の藏の前に行きしが、忽ち

「あつ」

と云ひて絕氣せり。此聲に驚き、家内の人々駈出で見たりしに、下女はうつぶきに倒れ臥して居る程に、呼生(よびい)けて藥など與へ、水注ぎ抔(など)して、漸く息出でければ、

「是は何事ぞ」

と云ふに、只

「甚だ恐し」

とて顏色(がんしよく)なし。

「先づ先づ積みたる薪の中を見給ふべし、未ださきに見たる妖物(ばけもの)はかゞみて居(を)るべし」

と申す程に、人々先づ

「何とありしぞ」

と問ふに、下女おづおづ申すは、

「慥(たしか)に四角なる提灯の如き火、土の上一尺計(ばかり)を行き申すと覺え申候と、顏の靑く四角なる人、より向き向きして此薪(たきぎ)積みたる中へ這入候。今も猶ちらちらと目に懸(かか)る樣なり」[やぶちゃん注:「覺え申候と、顏の靑く四角なる人」の部分は「と覺え申候。と、顏の靑く四角なる人」とした方が躓かない。]

と、聲かすり恐しげに申すにより、下仕(しもづか)への男ども積みたる薪を除(の)け、家内の隅々迄普(あま)ねく探し尋ぬるに、何れも目に障る物更になし。

 依りて皆々家に入りて休み、下女をも養生さする。

 是より大野氏の家、妖物屋敷と沙汰廣がり、いよいよ

「怪しき火出づるは一定(いちじやう)」

と、あたりの人々も恐れしに、其隣の楓居(ふうきよ)なる人來りて告げて曰く、

「此躰(このてい)にては傘張の異見にも隨はるべしと思へども、先づ無用なり。祈禱・經陀羅尼(だらに)は生きて居る内の用とも思はれず、必ず止めて然るべし。彼(かの)各(おのおの)其(その)望みあり。緣ありて住みたしと思ふものには住ましめてよからん。猶因(ちな)みうとく隔てがちにて彼にさからへばこそ、每夕は出(いづ)るなり。快く遊ばしめて、互に樂しみてこそおもしろけれ。思ふに此家居火災の後にして、古きものにてもなし。彼れが據る處少なかるべし。幸ひ近き山上に古城の古墳多ければ、石或は木古(ふ)りたる物を取寄せて、庭を木闇(こぐら)く陰氣を滿たしめて、彼を迎へて然るべし」

と敎へしに、あるじ大野氏も同心して、畠山古城の跡の石、十三塚の草木など、人を多く遣ひて引き寄せしに、先づ畠山の家老溫井備前が屋敷跡にありし大石を引きて水鉢とし、古木朽木、塚じるしの苔よき石など、滿てる迄庭に引取りて、隨分家居を古めかしけるに、是いかなる理(ことわり)にや叶ひけん、其後怪灯の出づること少しもなく、傘張等が目にも入らず、近隣にも安堵し、世上にも妖物屋鋪の沙汰はふつゝと云ひ止みてけり。

[やぶちゃん注:「畠山古城の跡」これは七尾城跡のことを指している。さすれば、ここの「近き山上に古城の古墳多ければ」と言っていることから、この大野の屋敷は七尾城跡に近いわけである。されば、「麩町」を含めてこの中央附近(グーグル・マップ・データ)の七尾城跡の麓の孰れかの町屋がロケーションであることが判明するのである。

「十三塚」不詳。

「溫井備前」七尾城主畠山氏家臣の温井実正(ぬくいさねまさ 生没年未詳)。天正一〇(一五八二)年六月の「本能寺の変」で信長が横死したことが能登石動山の衆徒らに伝わり、実正らがともに反乱を起こしたが、佐久間盛政と前田利家がこれを鎮圧している。]

 

 是又妖を防ぐの一奇術にこそ。尤も心高き哉(かな)。

 思ふに慶長の年、切支丹徒類の邪惡の家門悉く吟味の所、高山南坊(みなみのはう)・内藤飛驒守など、終(つひ)に改宗を肯(うけが)はず。彼(か)の南蠻國よりは手を種々に入れて日本を伺はんとし、或は漢人に變じ、僧徒に眞似(まね)びて、我國に惡種を殘さん、傾(かたぶ)けんと、日々に隙(すき)を伺ふ最中なり。

[やぶちゃん注:「慶長の年、切支丹徒類の邪惡の家門悉く吟味の所」所謂、「二十六聖人の殉教」、豊臣秀吉の命令によって二十六人のカトリック信者が長崎で磔の刑に処されたのは慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)のことである。

「高山南坊」戦国時代のキリシタン大名高山右近(天文二一(一五五二)年:摂津~慶長一九(一六一四)年:マニラ)の茶人としての号。摂津高槻城主。名は長房又は友祥(ともよし)。洗礼名はジュスト。荒木村重の臣として織田信長に抗したが、イエズス会宣教師オルガンチノの勧めで降伏して信長の部将となった。「本能寺の変」後は秀吉に協力し、「山崎の戦い」で功をたて、明石に封じられた。天正一五(一五八七)年の禁教令発布の際、その信仰を理由に除封・追放された。その後、前田利家に招かれて三万石を与えられたが、慶長一九(一六一四)年の江戸幕府の禁教令に触れ、国外追放となり、マニラに流された。到着後ほどなくして没した。生前、千利休に師事し、茶人南坊 (みなみのほう) 等伯としても名高い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「内藤飛驒守」キリシタン武将内藤如安(?~寛永三(一六二六)年)。松永久秀の弟甚介と丹波八木城主内藤氏の娘との間に生まれた内藤忠俊。永禄八(一五六五)年に京で受洗しジョアン(如安)と称した。足利義昭に仕えたが、その没落後は小西行長の家臣となり、小西如庵という名でも知られる。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して出陣、後に行長の命を受けて明国への講和使節に選ばれ、文禄三(一五九四)年から翌年にかけて北京に使いし、明と講和を交渉した。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」で行長が処刑されると、浪人となったが、高山右近の援助で加賀前田氏の客将となった。しかし、同十九年、幕府のキリシタン禁制により、右近や妹の内藤ジュリアら家族とともにマニラに追放され、同地で病没した(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

 然るに關東如何(いかに)評議決しけん、自若として懼(おそ)れず。

「南洋歸法のもの、彼の國に因みあるなるべし」

とて、さしも日本にて知勇と稱せし、軍陣老練の彌(いよいよ)高き高山右近將監(しやうげん)長房入道南坊、强力(がうりき)勇英能く城門の柱をあげて其下の埃を快く掃くなど聞えし、奧州岩槻の城主内藤飛驒守、此兩人を先きとして、柴山・森等の者凡そ百八人、悉く舟に乘せて、間宮權兵衞をして切支丹屬國呂宋(るそん)の島ヘ送らしめて、惜(をし)む色も又恐るゝ色も見えず。尤も佛家の一方に身を減す程の人、理あるに似て物の用に立たず、見明(みあき)らめられし裁件(さいけん)にこそ。慶長十八年に長谷川氏を以て陸路を送り遣はされ、間宮權兵衞船路を承りて、同年九月の頃おくり屆けて歸帆せしとなり。

「是南洋の衆を增すにして、此者地の理を說かば、襲兵勇英するどくして、近きに日本に攻め入るの災ひとやならん」

と危ぶ者多かりし。

「暫くはまた日本も守禦(しゆぎよ)の勤めにや」

と云合ひしに、結句翌年大阪に亂を起さしめて、國變にかゝるほどの物騷(ものさはぎ)を發せしむるに至る。

 然るに怪しき哉、奇なる哉。此後其沙汰寂として鎭まり、切支丹のこと又云出(いひいだ)す者もなく、南洋再び日本を伺ふことを止めてけり。

 今日に至りて國の安全、論ぜずして億兆の人の見る所なり。妙々此理に良々(やや)合ふに似たりとせんや。

 其事は天地懸隔の大小といへども、又是述べずんば奇とすべからず。詩に云はずや。

 高山仰止、景行行止、雖ㇾ不ㇾ能ㇾ至、然心鄕往之。

[やぶちゃん注:「奧州岩槻の城主内藤飛驒守」不審。彼は岩槻城主であったことはない。

「柴山」柴山権兵衛。「加能郷土辞彙」に『加賀藩に仕へ、知行五百石。慶長十九年三月七日高山南坊・内藤徳庵』(如安の別号)『等と共に切支丹の徒たるを以て京師へ送られ、板倉伊賀守に遞し』(「ていし」。送られ)、『九月廿四日阿媽港』(マカオ)『に放逐された』とある。

「森」不詳。

「間宮權兵衞」高山右近らを途中から長崎まで護送した幕府使番間宮権左衛門伊治(「これはる」か)。

「裁件」決裁の一件。

「長谷川氏」徳川家康の側近の一人長谷川藤広(永禄一〇(一五六七)年~元和三(一六一七)年)。慶長一一(一六〇六)年に長崎奉行となり、キリシタン取締・外国貿易管理などに当たり、同十二年に家康がキリシタン禁制を打ち出すと肥前各地の取締りに当たり、同十四年、高山右近や宣教師を澳門(マカオ)・マニラに追放した。同年には有馬晴信とともにポルトガル船を攻撃して自爆させてもいる。同十九年、堺政所職と小豆島の代官も兼ねていた。次いで「大坂の陣」に従軍、翌年には堺代官を兼ね、戦火で荒廃した堺の復興と長崎と堺を結ぶ瀬戸内海輸送路の一元的掌握に努めた。

「高山仰止、景行行止、雖ㇾ不ㇾ能ㇾ至、然心鄕往之」「史記」の「孔子世家第十七」の末尾中にある。

   *

太史公曰、「「詩」有之、『高山仰止、景行行止。』。雖不能至、然心鄕往之。余讀孔氏書、想見其爲人。適魯、觀仲尼廟堂車服禮器、諸生以時習禮其家、余祗囘留之不能去云。天下君王至於賢人衆矣、當時則榮、沒則已焉。孔子布衣、傳十餘世、學者宗之。自天子王侯、中國言六藝者折中於夫子。可謂至聖矣。」。

(太史公曰く、「詩に之れ有り、『高き山を仰ぎ、景(おほひ)なる行(みち)を行く。』と。至ること能はずと雖も、然も、心、之れに鄕(むか)ひ往(ゆ)く。余、孔氏の書を讀み、其の人と爲(な)りを想ひ見る。魯に適(ゆ)き、仲尼の廟堂・車服・禮器を觀て、諸生が其の家で禮を時(つね)に習す。余、祗囘(ぎかい[やぶちゃん注:低回。])し、之れに留まり、去ること能はず。云ふ、天下の君王、賢人に至るは衆(おほ)く、當時、則ち、榮へども、没して、則ち、已(や)む。孔子は布衣(ほい)[やぶちゃん注:平民の着物。転じて「無位無官の者」を謂う。]にて、十餘世に傳ふ。學者これを宗(さう)とす。天子より王侯まで、中國六藝(りくげい)を言ふは、夫子(ふうし)に折中す[やぶちゃん注:照らし合わせる。]。『至聖』と謂ふべきなり。」と。

   *

 本篇を以って「三州奇談續編卷之六」は終わっている。]

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