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2020/07/12

梅崎春生 砂時計 10

 

    10

 

 追加の鰻大串一本と、そえものの奈良漬をすっかり食べ終ると、さすがに黒須院長も腹いっぱいになったらしく、大きくひとつ背伸びをし、それから熱い茶をすすりながら、満足げにあたりを見回した。せまい店内に、客は黒須院長だけであったが、外の小路には人通りが繁く、洋傘と洋傘はぶつかり合い、中にはのれんの隙間から店内をのぞきこみ、そのまま行き過ぎて行く男女などもあった。向いのパチンコ屋からはひっきりなしに、玉の弾ける音、ざらざらと流れ出る音が、にぎやかに聞えてくる。黒須院長は茶碗を持ちかえて、調理場の方におもむろに首を動かした。調理場の横に畳敷きの小部屋があって、そこに一人の小さな老婆が先刻から、向うむきにひっそりと坐っている。針仕事かなにかをしているらしい。表のにぎやかさにことさら背を向けた風情(ふぜい)で、そのかたくなに曲った背中を眺めながら、黒須院長はふと考えた。(つまり、老人というやつは、死ぬために生きているんだな)その着想は黒須院長をすっかり満足させた。院長はつま楊枝を横ぐわえにして、一瞬目を凝(こ)らし、老婆の背中にしげしげと見入った。(子供が生きているのは、大人になるためと同じ如くにだ。死ぬために生きているのなら、我々壮者は出来るだけ手を尽して、彼等を死なしめて上げるべく努力しなければならん。それが我々の責務であり、親切と言うものだ)院長は老婆の背中に、在院老人たちの顔をずらずらと思いうかべながら、重々しくうなずき、そして詰襟服のポケットを探って奥に声をかけた。

「代はここに置いとくよ」

卓の上に紙幣や硬貨をならべ終え、店名入りの広告マッチをポケットにしまうと、黒須院長は勢いよく立ち上った。のれんを禿げ頭でわけ、洋傘をぐいとひらいた。それをパチンコ屋から出てきたものとカン違いをした景品買いの女が、黒須院長によりそうように近づいてきたが、院長にひとにらみされて、あわてて軒下に退散した。院長が改札口の近くまでやって来た時、牛島康之は円柱の下に佇(た)っていなかった。その場所には小さな新聞売台が置かれ、頭髪を長くした青年が二人元気のいい声で『アカハタ』の呼び売りをしている。牛島康之は既にそこからずっと離れた別の柱のかげに移動し、時々顔をちらちらのぞかせて、改札目付近を監視していた。この敏感なネズミのような『侍ち男』は、佐介の遅刻になにか不吉な異変みたいなものを感じ、いくらかおどおどしているらしかった。電気時計は五時五分前を指している。牛島は柱のかげに頭をひっこめ、弱々しく舌打ちをして呟いた。

「畜生。五時までにやって来なけりゃ、もう待っててやらねえぞ」

 黒須院長は洋傘を小脇にかかえたまま、『アカハタ』売台に眼をとめ、雑踏の中でちょっと立ち止り、その方を見据えるようにした。青年たちはなおも声をからして熱心に叫んでいる。でも熱心に叫んでいる割合には、『アカハタ』の売れ行きは良くないようだったし、ただ叫ぶために叫んでいると見えなくもなかった。院長の大きな軀(からだ)は人波に押されて、再びゆるゆると動き出した。(ふん、『アカハタ』か)脚をのろのろと動かしながら、視線は『アカハタ』売台に固定させ、院長は舌なめずりしつつ考えていた。唇にはまだ鰻の味が残っていた。(あいつら、滝川や松木、それに道佐爺なども、ほんとにアカの一味かも知れんな。アカであったら、どうしたらよかろう?)院長はしかしアカに関しての知識はほとんど持っていなかった。書道教師の父親から、院長は少年時代に、アカは疫痢(えきり)やコレラより恐いものだと、呉々も教えこまれていた。院長はあざらしのようにぶるんと顔を振って、視線を『アカハタ』青年から引っ剝がし、肩をぐんとそびやかして恐怖を追っぱらった。そしてそのまま音もなく、改札口に吸い込まれた。改札係の両手は相変らず派手な動き方をして、あふれる人波を次々にさばいている。かなたの円柱のかげから、また牛島が形式的に顔を出して、背伸びをした。

「もう来ねえつもりかな?」しかし牛島の眼はとたんに緊張して、爪先立つだけでは足らず、両腕で柱を抱いてよじ登ろうとする格好になった。そして忌々(いまいま)しげにつぶやいた。「あの野郎、今頃になってのそのそと来やがる。まるまる一時間の遅刻じゃないか。それにありゃなんて格好だ。お上りさんじゃあるまいし」

『アカハタ』売台のすこし手前のところで、栗山佐介は立ち止り、あたりをきょろきょろ見回していた。卓上ピアノと鞄を重ねて胸に抱き、洋傘の曲り柄は二の腕に辛うじてかかり、不安定にふらふらとぶら下っていた。その窮屈な野暮ったい格好で、佐介はしきりに牛島康之を求めて四周(あたり)を見回していた。佐介のその視線を避けて、牛島はすばやく顔をひっこめ、柱のかげにしゃがみこんで莨(たばこ)に火をつけた。(どうもあいつはおかしいぞ)煙を吸い込みながら牛島はいつも考えることを考えた。(平気で人を待たせて、今頃きょろきょろしてやがる。ほんとにあいつはバカか、それとも何かたくらんでやがるのか――)莨はしめって味が悪かった。莨だけでなく、駅舎内部の空気は、乗降客の雨衣や傘からたちのぼる湿気で、むっと濁っていた。佐介は電気時計を見上げた。その瞬間鴨志田の洋傘は、たまりかねたように腕から外(はず)れて、コンクリートの床にぐしゃりと辷(すべ)り落ちた。佐介があわてて腰を曲げようとした時、包装紙がやぶれてほとんどむき出しになった卓上ピアノは、コロロンと不随意な鳴り方をした。

(もうどこかに行っちゃったんだろう。なにしろ一時間の遅刻だからな)今度は胸の荷物に洋傘をいっしょくたにかかえ込み、佐介はきょろきょろするのをやめ、のそのそと切符売場の方に歩き出した。研究所勤務に彼は定期券を使用していない。隔日の通勤だから、定期ではむしろ損になるのだ。牛島は莨をふみにじり、柱のかげから飛び出し、膝を曲げるような奇妙な歩き方で(背丈を低くして人波に顔を没するためにだ)そのあとを追った。そして佐介のすぐあとに並び、手もとをのぞき込みながら同じ方角の切符を買い求めたのに、佐介はそれに全然気がつかないでいた。気がつかないまま背中を押されるようにして、窮屈に改札口を通り技けた。改札を通過した群衆は、それぞれ目的の線のホームに、ひしめき合いながら大束になって分れてゆく。そのひとつの束の流れに乗り、五分後に佐介がやっとQ電鉄のホームに到着した。そのホームにも人はあふれ、スピーカーの鼻にかかった声が、高い天蓋に反響している。やがて二番線ホームに三両連結の準急電車が、しずしずと徐行しながら入ってきた。電車は反対の扉から少量の乗客をはき出し、それからこちら側の扉をひらいた。ホームの上の群衆は自然の法則にしたがって、下水溝に流れ入る塵埃のように、各扉にずるずると引っかかりながら次々吸い込まれて行く。その流れにまきこまれて、足を動かした覚えはないのに、まるでエスカレーターに乗ったかのように、佐介の体もいつの間にか電車の中に搬入されていた。ほとんど身動きも出来ない姿勢で、前後左右からしめつけられていた。発車のベルが鳴り、扉が一斉にギイとしまると、湿ったもののにおいがむっと高まってきた。ゴム引きのにおいや毛織物のにおい、皮革や金属の発するにおい、呼吸や滓(かす)や分泌物や、それらをひっくるめた人間という生きもののにおい……。

(とにかく、ここには、人間が多過ぎるんだ。ここだけでなく、どこもかしこも――)ピアノの角で肋骨(ろっこつ)をぎりぎり押されながら、佐介はぼんやりとそんなことを考えていた。ビールの酔いがまだ気持をだるくしていて、牛島のことなんかすっかり忘れ果てていた。(あまり多過ぎるということのために、人間は人間でなくなろうとしているのだ。人間以外のものになろうとしている。ただはめこまれるだけの木(もく)ネジになりかかっている。昔はよかった。昔は人がすくなかった。だから人間は完全人間として生きることが出来た。たとえば他人に対しても、自然に対しても、病気に対しても、人間は人間らしく生きていた。今はちがう。今は自然は人間にとってもう自然ではないし、病気ももう病気でなくなろうとしているのだ。自然は建物や乗物や爆弾にかわってしまった。いろんなものが人間をおきざりにして、変ったり進んだりしてしまったんだ。人間はたちまち遅れて、おろおろ立ち止って人間であることをやめてしまうか、オートマティックに部品として生き残るか、それ以外に手はなくなった。生き甲斐の『甲斐』が人間から失われてしまって、雑多な日常にダニのようにくっついていることだけで精いっぱいで、それで生きていると思い込んでいる。ダニも病んでいるし、吸いつくその本体も病んでいる。それに病んでいる自覚もないし、自分が不幸であることも知らないのだ)車体は速力を増して左右に動揺し始めた。佐介は人の頭の間から、窓外の景色をとぎれとぎれに眺めていた。(自分が幸福であることを知らない連中に、お前は幸福だと知らせてやることよりも、自分が不幸であることを知らない連中に、お前は本当は不幸なんだぞと知らせてやることの方が、よっぽどイミがあるのじゃなかろうか。つまり人を幸福にすることよりも、人を不幸にすることの方が……)車内にじとじととこもったもののにおいの中に、その瞬間佐介の鼻はふと微かなカレーのにおいをかぎ当てた。佐介は眉をひそめて思考を中止し、鼻をくんくんと鳴らしながら顔を動かした。カレーのにおいはたしかに直ぐ近くでただよい動いているようであった。(俺の洋服やレインコートの地にまでしみ込んだカレー粉が、前後左右から押しつけられて、じわじわと滲(にじ)み出て来るのかも知れないな)佐介は右手を混み合いの圧迫からスポッと引きぬき、袖口あたりをそっと嗅いでみた。それからその手を不自然に曲げて、少しずつ荷物と胸の間に差込んだ。その人差し指が胸の内ポケットの中のがさがさしたものに触れた。そこらで線路が大きく曲るらしく、乗客の重味が一斉に片側にかかり、佐介の右掌は卓上ピアノと胸の間にぐぐっと万力(まんりき)のようにしめつけられた。佐介は声にならない悲鳴を上げ、力のおもむくまま全身をうしろのものに押しつけた。

「イテテテ」

 佐介のすぐ背後にうまい具合にはさまっていた牛島康之は、佐介の肩で顔面をしたたか圧迫され、たえかねて小さな悲鳴を上げた。この実直な尾行者は、電車の内でも膝を半ば曲げ、背丈を四五寸ばかり倹約していたのだ。車内全部に声ある悲鳴、声なき悲鳴を充満させて、車体のひしぎはやっと正常に立ち戻った。人々は束の間を稼ぐように、大きく息を吸い、またいそがしく息をはき出した。牛島は憤然と足を伸ばし、本来の背丈になり、押しつけられた四角な顔を腹だたしそうに掌で撫で回した。佐介は内ポケットのがさがさをつまんで、右手をそこから一気に引っこ抜いた。つまみ上げたものはれいの無記名の脅迫状であった。佐介は窮屈そうにその裏表をしらべ、顔の前に持って行き、鼻を鳴らしてそのにおいをかいだ。牛島はそっと爪先立ち、肩越しにそれをのぞき込んだ。

(あれほど言って置いたのに、まだ平気で持ち回ってやがる!)牛島は眼を三角につり上げて、佐介の後頭部をにらみつけた。(万一この電車がテンプクして、乗客全員死亡ということになってみろ。貴様の屍体のポケットのその手紙から、貴様の仕事がばれ、ついでに白川研究所の仕事がばれ、そしてこの俺までが迷惑することになるじゃねえか。あ、そうか、全員死亡とすると、俺まで死んじまうわけになるか)もちろんこの声なき叱声は、佐介の耳には入らなかった。においを嗅ぎ終ると、佐介はちょっと首をかしげ、今度は封筒の下辺を口にぐわえ、指で中身の使僕を引っぱり出そうとこころみた。満員電車の中だから、なかなかその作業は難渋を極めた。

「えへ、えヘヘ」

 封筒の一端をくわえたまま、突然后の端からだらしない笑いを洩(も)らしながら、佐介はやっとペラペラの便箋を引っぱり出した。そんな危険な便箋を人前で引っぱり出させまいと、牛島が指を鈎の手に曲げて、背後から佐介の脇の下をこちょこちょとくすぐったのだ。

「えヘヘヘ」

 佐介は身もだえしながら、便箋をまた鼻の下に持って行った。そして宙でそれをがさがさと拡げた。佐介は笑いを収めた。くすぐりを牛島が中止したからだ。便箋をおおっぴらに拡げた以上、これ以上くすぐって佐介に気付かれると、周囲から同類と見なされる危険があったのだ。夕方の満員電車の乏しい光線の中で、佐介はふたたびその文言を、わざとらしい活字体のペン字の文章を黙読した。

 

 『今の調査を打ち切れ。打ち切らねばお前の身は危
 険である。右警告す』

 

 佐介と腹背を接して、牛島はむっとした表情で、太い頸(くび)を可能なだけ横にねじ向けていた。そっぽ向くことで無関係者の感じを出そうと試みていた。しかし牛島の配慮にかかわらず、佐介の周囲の乗客たちは、押し合いへし合いすることだけで手いっぱいで、誰ひとりとしてそのピラピラの便箋に関心を示してはいないようであった。佐介は読み終ると、またそれを鼻の頭に持って行った。さっきただよったカレーのにおいは至極かすかなものであったし、それに鼻が慣れてバカになったせいもあって、においの本体がこれかどうかもう見極めがつかなくなっていた。

(一体この手紙の発信者は――)便箋を苦労して封筒の中に戻しながら佐介は考えた。(白川研究所の事件の関係者かそれとも修羅印カレー粉関係か?)研究所気付で来たのだから、研究所関係とも考えられるが、しかしカレー粉問題も急迫していて、その方面からの警告かとも考えられる。さっきどこからともなくカレー粉のにおいがしたのも怪しい。この手紙から発したものとすれば、カレー粉関係だろうと推定出来るが、今のところはまだハッキリしない。しかしいずれにしても、彼の調査活動を封じようとしていることだけは、確かであった。佐介はふくらんだ封筒を二つに折り、車休の動揺の隙をねらって、やっと元の内ポケットに戻すことに成功した。そして佐介はまたぼんやりした眼付きになって、人の頭と頭の間から窓外に眼を放った。濡れた窓ガラスの向うに、黒い屋根や白い道が滲んだまま、うしろへうしろへかけ抜けてゆく。

(とにかくどこかに敵がいる。目に見えない敵がいるのだ)佐介はぎっしりと自分を取り巻く乗客の頭を見回しながら、やや悲壮な気持でそんなことをかんがえた。満員電車に乗ったりすし詰めの映画館に入ったりする時、いつも佐介は感傷的になり、孤独的になる傾向があった。準急電車はちょっとスピードをゆるめ、駅をひとつすっ飛ばし、また森々と速力を上げた。(目に見える敵、目に見えない敵から、じりじりと包囲されているようだ。そう思うこの俺も、他の誰かにとっては目に見えない敵であり、また別の誰かには目に見える敵になっている。俺たちがもしお互いにつながり合っているとすれば、そういう関係においてつながっているのだ)

 しきりに周囲を見回していた佐介の眼は(周囲と言っても背後までは首が回らなかったが)、突然こみ上げてくる憎悪と苦痛をふくんでキラリと光った。またしても車体が片側に傾いて、周囲からぎゅうとしめ上げられたのだ。胸にはさんだ卓上ピアノの木質部が、グリグリグリというような音を発したようなので、佐介は必死にそれをかばいながら、思わず小さくうめき声を立てた。(ああ、皆してこの俺を、俺と卓上ピアノを、不法にもぎゅうぎゅうしめつける)その佐介の背に接して、牛島は歯を食いしばり、額から汗をふき出しながら、声なき怒声を立てていた。(畜生め、皆でよってたかってこの俺を、ぎゅうぎゅうぎゅうとしめ上げる。俺をペチャンコに押しつぶす気か!)

 この二人だけでなく、車内のいたるところで、うめき声や悲鳴が不規則にあがっていた。乗客の一人々々が、周囲をぎゅうぎゅう押しまくることによって、周囲からぎゅうぎゅう押しまくられていた。すべての乗客は、被害者であると同時に、加害者でもあった。力学の法則によって彼等は余儀なく加害者となり、その結果としてお互いからぎゅうぎゅうしめ上げられていた。しめ上げられて呪詛(じゅそ)のうめきを発していた。準急電車はそれらの呪詛のうめきを満載して、雨の中をごうごうと走りつづけた。

 

 下車駅に近づいても、佐介はまだ牛島が同車していることに気がついていなかった。それは牛島のかくれ方が巧妙だったせいではなく、佐介がとかく他のことに気を取られて、窓外などをぼんやり眺めていたからだ。停車のたびに乗客の数はすこしずつ滅少し、人々は自分の周囲に空間を取り戻し、今やカーブにさしかかっても相䦧(あいせめ)ぐことなく、立ったものは吊皮とともに、腰かけたものは座席とともに、先ずはゆるやかに揺れていた。平安と言うより虚脱にちかいものが、そこらにうっすらとただよっている。電車は十三号踏切を越えてから徐行にうつり、駅に入ってがたぴしと停車した。佐介は扉から狭い歩廊に降り立った。天蓋のない歩廊には雨がしぶいていた。牛島は別の扉から降りた。空の暗さをうつしてあたりはややうす暗くなっている。駅員詰所の板壁の賃上闘争のポスターを横目で見ながら、佐介は改札口を通り抜けた。それから五六人つづき、すこし遅れて一番最後に牛島が通った。板裏草履をつっかけた改札係は、牛島の風貌や風体から私服刑事かなにかとカン違いしたらしく、ちょいと目礼みたいなことをし、切符を受取らないでとことこと詰所に入っていった。牛島はそのことでやや気をよくして、頰をにやにやとゆるめながら、軒下に立ち止って、鞄の中からビニールの布をとり出した。レインコートの釦(ボタン)をきちんとかけ、ビニールの布で頭を包むと、まるでそれは古下駄の台を頭にした案山子(かかし)みたいに見えた。その格好で牛島は佐介の方を見た。佐介はかなた踏切の遮断機(しゃだんき)の前に立ち止っている。洋傘をひろげて肩にかつぎ、持ちにくそうに大きな荷物を胸にかかえている。

「あれはたしかにハムに無理矢理に買わせた卓上ピアノのようだが――」佐介の姿を遠くから眺めながら、牛島はいぶかしげにつぶやいた。「一体それをどうして今あいつがかかえてるんだろう。少しへんだな。もしかするとあいつとハムは、俺なんかの目の届かないところで、情を通じ合っているのかも知れんぞ」

 筋違いの嫉妬が一瞬むらむらと牛島の胸を灼(や)いた。今日の昼、定規の角で、スカートの上から熊井の尻にいたずらをした。そのぶりぶりしたなやましい感触を牛島はありありと思い出していたのだ。その牛島のビニール布をあおって、そばの線路を準急電車が轟(ごう)と通り過ぎ、遮断機はするすると上った。ごちゃごちゃにたまっていた人間や自転車や小型自動車などが、両側から一斉に動き、線路上に入り乱れた。そこに混った佐介の姿を見定めて、牛島は駅の軒下から雨の中に足を踏み出した。雨滴がつめたく牛島の頰にあたった。

 踏切をわたったところから始まるサクラ商店街は、雨天にもかかわらず、まだ夕方の買物客が行ったり来たりしていた。佐介は肉屋に寄りプレスハムを三十匁[やぶちゃん注:百十二・五グラム。]、八百屋でトマトを三個、パン屋に立ち寄ってパンを一斤買い求めた。いつも買い慣れているらしく、佐介はてきぱきと品物を受取り、てきぱきと代金を支払った。最後のパン屋で、パンを直ぐ食べられるように切って貰う間、店の棚にずらずらと並べられた修羅印カレー粉の罐を、佐介はしばらく眼を吊り上げるようにしてにらみつけていた。佐介が店に立ち寄る度に、牛島もその店の五、六軒手前で立ち止り、電柱のかげや理髪店の看板のかげにかくれて、不機嫌な顔で佐介を監視していた。この奇妙な尾行男は、もう自分が何のために尾行しているのか、自分でもよく判らなくなっていた。尾行するために尾行する。尾行欲を満足させるために尾行する、そうとでも考える他はないようなやけっぱちな状態になっていたのだ。傘を持たないので雨はようしゃなくビニールの隙間から牛島の顔を濡らした。

「もういい加減にこの俺に気がついたらどうだ」オート三輪のかげから、パン屋の佐介をじっと監視しながら、牛島は情なさそうにぼやいて、鼻をくすんと鳴らした。「気がついてくれなきゃ、風邪をひいちまうじゃないか。こんな抜け作のあとをつける気をおこすなんて、少々俺もヤキが回ったな。よし、こうなれば、あいつ、六時から会合があると言いおったが、それが何の会合か、是が非でも突きとめてやるぞ!」

 牛島は職業的情熱をふるい起すように、力をこめて二三度足踏みをした。水のしみ入った靴の中で、濡れた靴下がその度にぐしゃぐしゃと音を立てた。やがて佐介はパンとトマトとハムを鞄の中にぎゅうぎゅう押し込み、パン屋をよちよちと出て来た。いろんなものを詰めこんだので、ぺしゃんこの皮鞄は見違えるようにふくらみ、しかも中身がやわらかい食料品なので、なおのこと持ちにくそうに見えた。持ちにくいことのために傘の方がおろそかになり、とかく通行人の傘とぶつかっては雫(しずく)を飛ばすので、まるで酔っぱらいかチンドン屋のように、佐介は右へ行ったり左に寄ったりして歩いた。(雨はイヤだな、膝は痛むし)傘のぶつかり合いに辛抱出来なくなったように、佐介は人気(ひとけ)のない横町に折れ込みながら考えた。(雨が降ると、カレー粉のにおいも強くなる。今頃は俺の部屋も、カレーのにおいがぷんぷんこもっていることだろう。あれはきっと、カレー粉が雨のために遠くまで行かず、近所にばかり沈澱(ちんでん)してしまうせいに違いない)佐介は昨夜のカレー粉対策協議会の会合のことを思いうかべた。昨夜は十五人ばかりの男女があつまり、午前二時頃まで話し合ったのだ。言説はさまざまにわかれた。工場に忍び入ってカレー原料に砂をぶっかけろ。ウスとキネをぶっこわせ。そんな最強硬派から準強硬派、中間派、軟弱派といろいろあったが、それは手段方法のちがいだけで、身辺からカレー粉を排除しようという点ではすべて一致していた。佐介はここでは灰色派ということになっていた。灰色派は佐介ひとりであった。(灰色派か)佐介は傘をかたむけてサクラ碁会所の前に立ち止った。サクラ碁会所は雨のためにガラス戸をたてていた。三組の客が盤をはさんでいる。道路に一番近い盤面を佐介はじっとのぞきこんだ。肥った席亭が大儀そうに頸(くび)を回して、その佐介の顔をガラス越しにじろりと見た。そして身ぶりで、上ってこないか、と誘った。佐介は首をふり、まだ夕食前だと知らせるなめに、ふくらんだ鞄を動かして見せた。席亭にはその仕草の意味が判らなかった。席亭はあいまいな顔付きになって盤面に視線を戻した。そして石をつまみ上げてパチリと打った。(碁はいいな)あちこちの石の形に見入りながら佐介は思った。(この世とちがって碁は平面だし、単純でいて変化があるし――)横町に折れる曲り角のゴミ箱のそばに、牛島は濡れそぼって立ち、うらめしげに佐介の方を眺めている。席亭の相手が石を置いた。佐介は首をかたむけ、すっかり石の形に心をうばわれていた。遠くから雷の音が聞えてきた。五分ほど時間が経った。牛島は低いうなり声を立てた。さすが辛抱づよいこの待ち男も、ついにたまりかねて顔を振り、ぶるんと雨滴をはらい、はずみをつけてつかつかと横町に踏み入ってきた。一心に盤面に見入っている佐介の肱(ひじ)を、うしろからがっしとつかんだ。佐介は頓狂な声を上げてふり返った。

[やぶちゃん注:ここで「Q電鉄」「準急」「十三号踏切」と出るので、鉄道ファンならこれが何線でどこの駅か瞬時に同定出来るのであろうが、不幸にして私はその任には当たれない。識者の御教授を乞うものである。

「席亭」碁会所の主人。]

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