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2020/07/21

梅崎春生 砂時計 24・25

 

     24

 

 二両連結の電車が、がたごとと小さな駅に入ってきて停止した。各扉からばらばらと人がはき出された。前の車両から四十がらみのでっぷり肥った食堂経営者、後の車両から色眼鏡をかけた三十四五の女高利貸がプラットホームに降り立ち、その二人は同時に相手を認め合って、あいさつを交した。

「久しぶりのいい天気ですな」

「ほんとに」女高利貸はちょっとしなをつくって答えた。

「ごみごみした町中に住んでると、時たまの郊外風景は、とても新鮮に感じられますわねえ」

 二人は並んで改札口を出た。

 五分経つと、次の電車が入ってきた。

 前の車両から四十四五の痩せた菓子製造業者が降り、後の車両から三十前後の体格のいい運送業者が降りてきた。

 運送屋が菓子製造業者を呼びとめて、にこにことあいさつをした。「やあ、いい天気だねえ」

 菓子製造業者が近くの林や樹立(こだ)ちを指差した。「どうだい。樹々の緑が眼に沁みわたるようじゃないか」

「まったくですな」運送屋が相槌を打った。「仕事でトラックで走り回ってる時は、郊外なんか道ががたがたで、なんだいと思うけれどもね」

「人生とはそんなものだよ」

 菓子製造業者が先に、それにつづいて運送屋が改札口を出た。

 五分経って、また次の電車が入ってきた。

 後尾の車両から、某大学教授と黒須院長がのそのそと、プラットホームに降りてきた。教授も院長に劣らず、つやつやと血色のいい顔をしていた。

「いつ来ても郊外はいいなあ」教授は院長をかえりみた。「人間も五十になると、自然の美しさがしみじみ判ってくるよ。君もなんだねえ、しょっちゅうこんな環境の中にいると、いくらか詩人的な心境にもなるだろう」

「そうでもありませんよ」院長は自分の頭をつるりと撫でた。「時たまやってくる人は、すぐに詩人になるらしいが、常住ここにいると、いろんなことがありましてねえ」

「そりゃそうかも知れないな」

 教授は鼻眼鏡をちょいとずり上げ、威儀を正して改札口を通り抜けた。院長がそれにつづいた。院長の切符を受取ると、若い改札係ははさみをカチャカチャ鳴らしながら、詰所に戻って行った。院長は細長くて四角な包みを左に持ち換え、教授に追いついて肩をならべた。教授が訊ねた。

「ええと、今月は何人死んだかね?」

「残念ながら一人も」黒須院長はひょいと首をすくめて、恐縮の風情(ふぜい)を見せた。「先々月八十歳の林爺さんが、風呂場のタイルで辷って死んで以来、まだ誰も死んで呉れないです。どういうわけですか。わたしとしても、いろいろ心を砕いてはいるんですが――」

「心を砕いたって仕方がない」教授は渋い顔になった。

「そういう精神主義ではダメだ。在院者の回転率を高めるには、高めるだけの具体的措置を取らねばならん。君も就任以来、割に成績を上げたが、近頃はすこしたるんで来たんじゃないか」

「たるんでいるわけじゃありませんが」院長は弱ったような声を出した。「それに関連して、先生に御相談したいことがありまして」

「なんだね?」

「ち、ちかごろ在院者の一部に」院長はぎょろぎょろ周囲を見回した。「不逞(ふてい)の思想を持った奴が発生しまして――」

「不逞の思想?」

「つ、つまり、この連中の言動を観察していると、アカじゃなかろうかと思われる節がある」院長はせかせかとウィスキーの箱入り包みを右に持ちかえた。「連中と言っても、まだ少数ですが、放って置くとこれがだんだん拡がって、取りかえしのつかぬようなことにもなりかねない。わたしとしても、今後いろいろ手を打ってみるつもりですが、なにしろアカの対策というのは初めてのことなので、何か有効な措置があれば、先生の御意見を伺いたいと思いまして」

「アカが発生した?」教授はますます渋い顔になり、はき出すように言った。「それは大変だ」

「わたしも思い悩んでいるのです」院長は教授に身をすり寄せた。そのとたんにウィスキー箱が、教授の脇腹をぐいとこづいたので、教授は思わずギュッというような声を立てた。院長はあわててあやまった。「どうも失礼」

「痛いじゃないか」教授は唇をへの字に曲げた。「その包みは何だね?」

「へへ、ウィスキーです」院長は包みをまた左へ持ちかえた。「今日の午餐会(ごさんかい)に出そうと思いまして」

「ウィスキーで僕たちをごまかそうとするんじゃあるまいな」教授は疑わしげに眼を光らせた。

「いや、いや、かりそめにもそんなこと」院長はたいこもち的な動作で、ふたたび右掌で自分の禿頭をつるりと撫で上げた。「そんなことをわたしがたくらむわけがないですよ。和(なご)やかな月例午餐会を持ちたい、その誠心誠意だけです」

「泥鰌(どじょう)を殺すには酒を用いるからな」教授は皮肉な口をきいた。「院長は近頃在院者に同情を持ち始めたんじゃないか」

「飛んでもない」院長はあわてて掌を振った。「とんでもないことですよ。先生」

 空は晴れていたけれども、赤土道はまだじとじととぬかるんでいた。ツバメが一羽、樹立ちの梢をかすめ、また道すれすれに飛んだ。その道の彼方に、やがて、夕陽養老院の屋根互やバルコニーが見えてきた。そ。のバルコニーにつづく院長室の扉のノブを、今しも食堂主の厚味のある掌が、ひねってぐいと押したところであった。

「おや。まだ誰も来ていない」食堂主はのっしのっしと院長室に足を踏み入れた。「するとわしたちが先着かな」

「黒須院長もいないのかしら」光線よけの色眼鏡を外(はず)しながら、女高利貸が言った。「バルコニーに出てみない?」

「甲斐爺たちじゃないようだよ」その院長室の書類戸棚の中で、双生の胎児のようにちぢこまってよりそっていた二人の中で、煙爺がすこしあおざめてニラ爺にささやいた。

「女の声だよ」

「弱ったなあ」くらがりの中で、額から冷汗を滲(にじ)ませながら、ニラ爺はささやき返した。「木見婆さんかな」

「木見婆じゃないよ。声が若いよ」煙爺がささやいた。

「思い切って、飛び出して逃げるか」

「ねえ。バルコニーに出てみない」女高利貸がふたたび言った。「いい眺めよ」

「わしはここでいいですよ」食堂主はソファーにどっかと腰をおろした。「近頃また肥ってきたもんだから、ちょっと歩くとすぐにくたびれる。それに、御婦人の前でなんだが、この季節にはとかく股(また)ずれの傾向がありましてねえ」

「院長の声でもないらしいよ」煙爺はささやいた。「どうする。飛び出すか」

「ここに入って」とニラ爺。「もう一時間経ったかねえ」

「まだ三十分ぐらいだよ」

「すると今飛び出すと、百円取られるぜ」

「そうだねえ。百円取られるのもシャクだねえ」

「ほんまに俺、近頃取られてばかりいるのや」ニラ爺は悲しげにささやいた。「甲斐爺にも、おれ、二百円からの借金があるのや」

「しかし、ここに止ってると、海坊主が戻って来るかも知れないよ」

「そうやねえ。弱ったねえ」

「進退谷(きわ)まったねえ。どうする?」

 その時、院長室の扉のノブが、ふたたびゴトゴトと鳴った。二人の爺さんは暗闇の中で、それぞれの姿勢でギュッと身体を固くした。扉が勢いよく開かれて、運送屋と菓子屋が入ってきた。そしてソファーの食堂主とあいさつを交した。

「やあ」

「やあ、やあ」

「また誰か入ってきたよ」煙爺が絶望的な声でささやいた。「二人のようだよ。困ったねえ」

「こんなとこに隠れたのはかるはずみやったねえ」ニラ爺は身体を小刻みに慄わせ、涙を瞼に滲ませていた。「どうしてこんなことを思い付いたか」

「思い付いたのはお前じゃないか」煙爺は小さな声できめつけた。「お前が思い付かなきゃ、こんなことになるわけないよ」

「お前だって賛成したやないか。あの時」ニラ爺もあおざめたまま小声で言い返した。「お前さえ反対すりゃ、こんなことにならん」

「ああ、院長と博士がやってくるわよ」バルコニーの上で女高利貸がかん高い声で叫んだ。「院長の禿頭が、日光の反射でピカピカと光っている。まるで新しい銅貨みたいよ」

「どれ、どれ」

 一番年若な運送屋が、元気のいい足どりでバルコニーに出て行った。野菜畠にはさまれた砂利道を、今院長と教授が何か語らいながら、玄関の方に歩いてくる。無帽の黒須院長の頭は、その角度によってキラリと日光を弾(はじ)き、またどんよりと曇ったりした。運送屋は両掌をメガホンの形にして、バルコニーから大声を出した。

「院長に博士。遅いぞう。かけ足イ!」

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

「さて」牛島康之がまぶしそうに空を見上げながら言った。「今日はどうしようかな。栗さん。お前はどうする。研究所に出勤するか?」

「しないよ」佐介も小手をかざして空を眺めた。「今日は養老院勤務だ」

「ああ、お前さんは隔日勤務だったな」牛島は忌々(いまいま)しげに爆音の方に顔を向けた。「じゃあ俺は、ロケ先に出かけることにするか。いい天気だからな。どうも今日の研究所出勤はヤバイような気がする」

 空にはヘリコプターが一台、地上百米の高度を、不恰好なかたちで、爆音を立ててのろのろと動いていた。曽我ランコも乃木七郎もそれを見上げていた。高度が低いので、操縦者のかおかたちも眺められた。乃木七郎は卓上ピアノを両手で胸にかかえていた。いや、かかえさせられていた。その乃木七郎が言った。

「あんなところから、地上の人間どもを見おろすと、さだめし愉快でしょうねえ」

「こいつはどうする?」牛島は乃木を顎でしゃくった。

「ロケ先に連れて行くわけにも行かないし」

「僕があずかるよ」佐介は答えた。「身柄を託されているのは僕だ。あんたじゃない」

[やぶちゃん注:以下、行空けが明らかに二行分ある。

 

 

 焼け残り地区の木造ペンキ塗りの二階建て。そのてっぺんの飾り屋根の中から、明るい空気をななめに切って、つばめがしきりに出たり入ったりしていた。階上の白川研究所に、今日出勤しているのは、熊井照子と玉虫老人だけであった。須貝も牛島も、佐介も鴨志田も、その姿を見せていなかった。だから熊井照子は『所報』原稿整理の仕事をほったらかして、ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』に没頭していたし、玉虫老人もスクラップつくりをさぼって、入れ歯を外してそれの掃除に専念していた。陽光の惰気が部屋に満ちあふれていた。熊井照子はふっと頁から眼を放して、不安げに部屋中を見回した。

「どうしたのかしら」彼女はいぶかしげに玉虫老人に話しかけた。「もう十一時だというのに、誰も出てこないなんて、なにか凶(わる)いことでもおこったのかしら」

 王虫老人は返事をしなかった。老人は両眼をやや眇(すがめ)にして、義歯(いれば)の代赭色(たいしゃいろ)の人造歯ぐきを、小さなブラシでごしごしと熱心にみがいていた。熊井照子は腹立たしげに舌打ちをして呟(つぶ)いた。

「耳遠の爺さんにはかなわない。馬の耳に念仏だわ」

 その時、壁の鳩時計から鳩が飛び出して、調子のいい声でつづけざまに十一声啼いた。老人はふとブラシの手を休めて時計を見上げ、落着かぬげにきょときょとと周囲を見た。

「どうしたんですかな。熊井さん」老人は心配そうな声を出した。「十一時だというのに、まだ誰も出勤して来ませんな。はて、何か凶(わる)いことでもおこったのか」

 熊井照子はふんと言った顔付きで、返事をしなかった。そして机の下に手を入れて、ごそごそと靴下の具合を直した。スカートがめくれて、膝頭からすべすべした股のあたりまでがのぞけたので、玉虫老人の眼は急に一回り大きくなって、ものめずらしげに、熊井照子の手の動きや脚のかたちを眺め始めた。その視線に気付くと、彼女はあわててスカートをおろし、玉虫老人をにらみつけた。老人は首をすくめ、眼を元の大きさにして立ち上り、義歯掃除で汚れた水をとっ換えに、コップをささげ持ってとことこと部屋を出て行った。階段を降りる足音がした。階下の土地事務所ではソファーの上に、昨日と同じく中年の客が一人、紅茶をすすりながらしずかに煙草をくゆらしていた。玉虫老人の足音を聞きつけると、急に眼をするどくして、階段の方に顔を向けた。玉虫老人は無表情な顔で客の前を横切り、洗面所に水をあけ、ふたたびコップに新しい水を充たした。その背後からソファーの客が、低い押しつけるような声で、老人に話しかけた。

「爺さん。階上(うえ)の連中はどうしたんだね。今日はまだ姿を見せないようだが」

 老人は返事をしなかった。相変らず表情のない顔で、新しい水をささげ持ち、とことこと部屋を横切り、そしてその姿は階段の登り口に消えた。足音が階段を登って行った。

「あの爺。かなつんぼか」

 なんとなく得体(えたい)の知れないその客は、舌をタンと鳴らして立ち上った。ちょっと小首をかしげ、事務員たちの不審げな視線の中を、土地会社の赤塗り電話台の方へつかつかと歩み寄った。受話器をとり上げた。

[やぶちゃん注:ここで以前に須貝が疑った如く、階下の客の男は、実は白川研究所を見張っていることが判然とする。

 次は一行空け。]

 

 なんとなく得体の知れない人物たちは、ここだけでなく、あちこちの部屋の中にも、街頭にも、映両館にも、パチンコ屋にもいた。何と得体の知れない人物が近頃殖えてきたことだろう。きっとなにかが狂っているせいにちがいない。そいつらはうじょうじょと、駅の待合室にも、競輪場にも、公園の花壇にも、上水路の堤にも動いていた。上水の堤のは二人連れで、両者とも一見紳士風で、片方の紳士は胸に二眼のカメラを提(さ)げ、口にはチューインガムをしきりに嚙んでいたし、も一人の紳士は鳥打帽子をかぶり、小型の胴乱を肩にかけていた。二人は肩をならべて、至極緩慢に歩いていた。胴乱紳士は時に小腰をかがめて、ありふれた雑草の葉をむしって、胴乱の中に大事そうに収めたりした。カメラ紳士の方は蓋をあけてファインダーをのぞき込み、上水路や土堤の樹々を写す真似などをしていた。上水路の幅は十米ぐらいで、その両岸から急斜面に堤がせり上っていた。道は堤の上に、すなわち水路をはさんで平行していた。斜面にはところどころ立札が立ち、『この流れは都民の上水道になる水ですから塵埃(じんあい)その他を投げ込まないで下さい。水道局』と書いてある。流れは碾茶羊羹(ひきちゃようかん)の色のようにねっとりと濁り、木の葉や屑を乗せてかなりの早さで動いていた。対岸の三十米ほど前方を、三人の男女がぶらぶらと歩いていた。その一人の栗山佐介の眼は、斜面に生えたさまざまの灌木(かんぼく)の、葉の形や枝ぶりなどをうろうろと物色していた。曽我ランコは佐介と肩を並べ、乃木七郎はすこし先を歩いていた。乃木は卓上ピアノを脇に抱き、吟遊詩人のように胸を張って、意気揚々と漫歩していた。「あれが接骨木(にわとこ)かな。ストップ」佐介は号令をかけた。乃木七郎は立ち止った。佐介はポケットかられいのメモ用手帳を取り出した。対岸の後方でも二人の紳士が同時に立ち止り、それぞれ写真のファインダーをあけたり、雑草の葉っぱを採集したりした。佐介は手帳に眼を近づけた。渋川接骨院の薬用植物図鑑からのメモがそこにある。「ええと、葉は対生し羽状複葉と。小葉は披針形にして縁辺に鋸歯(のこぎりば)を有すか。どうもあれらしいな」

[やぶちゃん注:さても、この最後のロケーションの「上水路の堤」「この流れは都民の上水道になる水ですから塵埃その他を投げ込まないで下さい。水道局」の注意書きのあるところというのは、東京に詳しい方なら場所が比定出来るのではないかと思う(栗山佐介の住所のそばとなる)。識者の御教授を乞うものである。

「うじょうじょ」のオノマトペイアは「うじゃうじゃ」と同じ。

「碾茶羊羹の色」鶯色。

「灌木」低木。概ね、通常成人の背の高さよりも低いものを称する。

「披針形」(ひしんけい)は先の尖った平たく細長い形(笹の葉のようなもの)の植物の葉の形について言う語。]

 

     25

 

 木見婆は大きな岡持を重そうにぶら下げて、調理室から廊下に出た。中央階段に足をかけたとたん、背後から呼びかける声がした。松木爺が両手をだらりと垂らして、階段の脇に立っている。

「木見婆さん。ニラ爺はどこにいるか、あんた知らんかね」

「知らないよ」木見婆は眼をきらりと光らせ、つっかかるように答えた。「あたしゃニラ爺さんの番人じゃないよ」「そんなにつんけんしなくてもいいじゃないか」松木爺は気勢をそがれて、にやりと笑った。「なにもあんたを番人だとは言ってない。知ってるか、知ってないか、ちょいと訊ねてみただけだよ」

「だからあたしゃ、知らないと答えたんだよ」木見婆は不興げに水洟(みずばな)をしゅんとすすった。「あたしゃもう行くよ。忙しいんだから」

「ニラ爺のやつ、どこに雲隠れしたのかなあ」松木爺は横目で岡持の方を見た。「何だね、それ。おいしそうな匂いがするが」

「あんたと関係ないわ。これ院長先生の食事!」

「へえ。院長はいっぺんにそんなに沢山食べるのか。ちょいと拝見」

 松木爺は岡持へ手を伸ばそうとした。木見婆ははっと肥軀[やぶちゃん注:「ひく」。]をひいて、眼の色をたちまち険(けわ)しくした。

「よしてよ。ほんとに近頃の爺さんたちは、意地きたないったらありゃしない」

「なに。俺が意地きたない?」松木爺もむっとして眼を剝(む)いた。「なにもつまみ食いさせろとは、俺は言ってないぞ。見せろと言ってるだけだぞ」

「見せるのもおことわり!」

「何を言ってる!」松木爺は眼をつり上げた。「こう見えてもこの松木第五郎はだな、ニラ爺みたいな意地きたなとは違うぞ」

 木見婆はぎょっと身体を固くして、一歩二歩後退した。松木爺はおっかぶせるように言葉をついだ。

「昨晩あんたはニラ爺に、いろんな食べ物を呉れたらしいじゃないか。御奇特なことだ。へへ、俺は何もかも知ってるぞ」

 木見婆はぶよぶよした顔を硬化させたまま、黙って更(さら)に一歩後退した。それに応ずるように松木爺は大股に一歩踏み出した。

「俺はニラ爺とは違うから、何も呉れとは言わん!」松木爺は肩をそびやかして高圧的に出た。「その岡持の中を見せなさい!」

「厭らし!」

 木見婆はふてくされて、岡持をがたんと階段の上に置き、そっぽを向いて舌打ちをした。松木爺は手を伸ばして岡持のふたをがたがたとあけた。

「おや、四つ五つ六つ。ウナギが六人前に、オムレツが六人前」松木爺はじろりと木見婆をにらんだ。「吸物も六人前。いくら海坊主が大食いでも、吸物六人前も飲むわけがないぞ。うわばみじゃあるまいし」

「お客さんの分も一緒だよ」木見婆は上眼使いに松木爺を見て、切なげな声を出した。「ニラ爺さん、何をべらべらしゃべったの?」

「いや、べらべらというほどじゃないが」松木爺は語調をやや柔かにした。「お客というのは、誰だね。お客は五人か?」

「経営者の方たち。経営者会議なのよ」木見婆は声をひそめた。「このこと、誰にも言わないでね。院側の行事のことをあんたたちにしゃべると、あたしゃあとで院長先生からこっぴどく叱られるからさ。お願い!」

「ふん。経営者会議か」松木爺は満足げにうなずいた。

「なるほどな。今日が会議か」

「他人に絶対に言わないでよ」と、木見婆はねんを押した。「ねえ。ニラ爺さんは、どんなことをしゃべったの。どんなことをよ」

「早く二階に行かないと、料理がさめてしまうよ」松木爺は質問をはぐらかした。「ふん。ウナギにオムレッが六人前、か」

「ニラ爺がしゃべったのは、あんだにだけ?」木見婆は顔をくしゃくしゃにして、岡持の柄を握った。「あんたにだけでしょうね」

「うん。ううん」松木爺はあいまいに首を動かした。「それについては、後刻じっくりと相談しよう」

「あんただけでしょうね」木見婆はおどおどとくり返した。「あたし、夜の八時まで、調理室にいるわ。さっきのこと、ほんとに誰にもしゃべらないでね。きっとよ」

 木見婆はそして頰肉と額肉とを接近させ、眼を埋没させるような顔をして見せ、くるりとむこうを向き、手すりにすがりながら、力なく階段を登り始めた。力なげに見えたのは背後からだけで、木見婆は一歩ごとに歯ぎしりしながら、

「ニラ爺の奴。ニラ爺のやつ!」

 とにくにくしげに呟(つぶや)いていた。その後ろ姿が踊り場に消えると、松木爺は身をひるがえして廊下を小走りにあるき、東寮の曲り角まで来た。その曲り角で、松木爺は向うから曲ってきた森爺と、あやうく正面から鉢あわせをするところであった。

「あぶないじゃないか」森爺がたたらを踏みながら口をとがらせてなじった。ニラ爺たちの姿をまだ発見出来ないものだから、森爺は少しいらだっていたのだ。「廊下の角を曲る時は走っちゃいけないと、かねがね注意されてることじゃないか」

「ごめん、ごめん」常に似合わず松木爺は素直にあやまった。「つい気が急(せ)いていたもんで」

「松爺さん」傍から甲斐爺が思いあまったように口を入れた。「ニラ爺さんの所在を知らないか」

「ニラ爺?」松木爺は二人の顔をじろじろと見くらべた。

「ニラ爺じゃなければ、煙爺でもいいんだ」森爺が言葉をそえた。一体あいつら、どこに隠れやがったのか。影も形も見当らぬ」

「かくれんぼをやってるのか」松木爺はすっかり呆れ果て、かつ腹も立てた。「何たることだ。ニラ爺のやつ!」

「まったく、何たることだ」

 おしっこを怺(こら)える小児のように、森爺は両足で忙しく地だんだを踏んだ。

 木見婆は岡持を両手で提(さ)げ、院長室の扉を脚でほとほとノックした。室内から黒須院長の声がした。

「はいれ!」

 木見婆は岡持を床に置き、扉のノブを回した。院長卓を囲んで、食堂主、高利貸、菓子屋、教授、運送屋が、順々に、それぞれの姿勢で椅子に腰をおろしていた。院長はわざとらしく機嫌のいい声を出した。

「グラス六つ、持って来たか?」

「持って参りました」木見婆は岡持を卓のそばに運んだ。「料理は半分だけで、あとは直ぐ持って参ります」

「あとはゆっくりでいいよ」と院長はやさしく答えた。「料理は念入りにこさえたろうね」

「まさかあたしん店の残飯じゃあるまいな」食堂主が冗談を飛ばした。「わたしんちのなら、食い飽きてるよ」

「あれはみんな在院者に回してありますよ」一座の笑い声の中で、黒須院長は自分の額をポンと叩いた。「これは木見婆さんが腕によりをかけた、当院特別製の料理ですよ。木見婆さん。ウナギも焼いたね」

「はい」

 木見婆は皿や椀を次々に卓上に並べ始めた。その器物のカチャカチャ音が、板戸のすき間を通して、書類戸棚の中にも入ってきた。ごちゃごちゃに積まれた古書類や記録の束の中に、埃をかぶってちぢこまっている煙爺が、そっとニラ爺の耳たぶに口を寄せてささやいた。

「ウナギだってよ」

「そうらしいねえ」ニラ爺の腹がグルグルと鳴った。「おれ、おなかがすこし空いてきた」

「おれもだ」

 そして二老人はくらがりの中で、鼻をぴこぴことうごかした。板戸のすき間や節穴から、おいしそうな食べ物の匂いが、埃くさい空気の中に流れ入ってきたのだ。皿を並べ終ると、木見婆は院長の指示通りウィスキーの栓をぬいて、各自のグラスを充たして回りながら、柄にもない愛想を言った。

「こんなお婆さんのお酌ではお気に召しますまいがねえ」

「そりゃやはり若い女の方がいいね」運送屋が真面目な顔でグラスに后をつけた。「第一酒の味がちがうやね」

「じゃ若い女性でも雇い入れますかな」院長もグラスを手にしながら、すかさず口を入れた。「高峰秀子か島崎雪子みたいな美しいのをね。おい、木見婆さん。栗山書記はどこにいる?」

「栗山さんはまだ出勤して来られません」

「なに。まだ出勤して来ない?」院長の眉根がぐいとふくらんだ。「昨夜の呼出電報にも応じないし、今日も大切な会議だというのに、まだ出て来ない。一体何をしているんだろう。勤労意欲がないのかな。もしそうだとすれば、あいつはクビにするより他はないぞ」

「栗山書記って、あの頭の大きい、おかしげな男?」女高利貸がウナギをもごもご頰張りながら訊ねた。

「そうです。あんなのを雇い入れたのは、全くわたしの失敗だった」院長は演技的な大きな舌打ちをした。「いっそあれをクビにして、若い女秘書を雇い入れたいもんですな。皆さん、如何(いかが)でしょうか。女秘書は、隔日勤務でなく、常勤ですが、なにしろ女子のことですから、人件費という点では、あまり変りがないと思いますが」

「まあそれも、こちらでよく考えてみよう」と教授が渋い声で言った。「今日は俵医師はどうした?」

「只今当区は狂犬予防週間で」院長が答えた。「どうしても手が外(はず)せないと言って来ました」

「狂犬週間なら本業だから仕方がないが」菓子屋もグラスを舐(な)めた。「副業のこちらもあまりおろそかにして貰いたくないな」

「良く言い聞かせて置きましょう」そして院長は木見婆に目くばせをした。「木見婆さん。あの書棚から、会議録綴りを持ってきなさい。そしてあんたはもう下ってよろしい。適当な頃に次の料理を持ってくるように」

『書棚』という言葉が発音された時、書類戸棚の中の二老人はぎくっと身体をふるわせ、お互いを楯(たて)とするようにひしひしと寄りそい合った。しかし幸いにもそれは別の書棚のことであった。その書棚から会議録綴りをとり出し、院長の前に置くと、木見婆はぼたりと一礼して院長室を出て行った。

「なるほど。あの婆さんじゃ色気が全くないな」足音が遠のくと、食堂主が肥った身体をゆるがせて、にやにやと笑った。「院長もまだ独身だし、若い女秘書を欲しがる気持もよく判るよ。時に、この間の写真はどうしたい?」

「へ、へ、へ」と院長は照れくさげに笑った。「あれはちゃんとしまってありますよ」

「さあ、食べながらでもいいから、そろそろ会議を始めてはどうだね」教授が腕時計をちらと見て発言した。「僕は午後人に逢う予定があるんだ」

「ではそうしますか」院長はグラスを置いて、うかがうように一座を見回した。「では、今日の会議は、愉快に飲み食い、談笑裡にすすめたいと思います。栗山書記未参のため、記録はわたしがとることにしましょう。願わくは次回の経営者会議は、美しい女秘書によって記録される、そういうことになりたいもんですなあ。わっはっはあ」

[やぶちゃん注:ここで俵医師は老人たちが疑った通り、驚くべきことに医師ではなく、獣医であったことが明かされる。

「ぼたり」のオノマトペイアはママ。]

 

「なに。経営者たちが集まっている?」滝川爺がぐいと膝を乗り出した。「院長室にか。どうしてそれが判った?」「木見婆をつかまえたんだ、階段のところで」松木爺は得意げに一座を見回した。「あの婆、大きな岡持ぶら提げてやがった。そこをつかまえて、俺はうまいこと誘導尋問をしてやったんだ」

「何人集まっている?」柿本爺が訊ねた。

「院長も入れて六人らしい。実際に見たわけじゃないが、岡持の中の料理は六人前だったから。いくら経営者でも、一人で二人前食べることはなかろう」

 滝川爺はごそごそと立ち上って窓辺に行き、院長室のガラス窓を見上げた。いい天気だというのにその窓は固くとざされていた。

「会議は会議として」長老の遊佐爺が発言した。「ニラ爺はどうした。どこにいた?」

「それが見付からないんだよ」松木爺は面目なさそうに頭を垂れた。「ニラ爺は、煙爺、甲斐爺、森爺たちと、かくれんぼをやっているらしいんだ。オニの森爺と甲斐爺が、嘆いていたよ。影もかたちも見えないって」

「なに。かくれんぼだと?」遊佐爺は常にない犬声を立てて、白い眉毛をびくびく動かした。「昨晩あんなに言い聞かせてやったのに、もうかくれんぼだなんて、全く仕方のない爺さんだな。もすこし性根があるとにらんでいたが、わしの見込み違いだったかな。朽木は雕(ほ)るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず。ニラ爺はついに糞土の牆であったかな」

「一体どこにもぐり込んだか」ニラ爺を発見出来なかった責めをごまかすように、松木爺は聞えよがしにひとりごとを言った。「森爺の話では、風呂場、便所にもいないし、豚小屋までしらべたけれど、いなかったらしい。平常はもそもそしてるくせに、かくれんぼなんかになると、うまく立ち回る。なにしろ困った爺さんだ」

「ふん。会議をやっているか」うるさ型の柿本爺が奥歯をかみしめながら、考え深そうに発言した。「遊佐爺さん。経営者が集会しているということだが、昨夜のあんたの発言のように、いろいろ山積した諸問題を、院長を抜きにして、いきなり経営者にぶっつけてみたらどうか。案外その方が解決が早いかも知れんぞ」

「いや、いや。それは問題だぞ」遊佐爺が答えた。「院長を抜きにして直接経営者と談合するということは、院長の懇請によって、こちらは一応撤回した。そういうことになっている。そのバランスを一挙にぶちこわすのは、まずいとわしは思う。やはりこういうことはフェアプレイで行こう」

「フェアプレイと言ったって」柿本爺が唇を曲げて抗議した。「それは両方とも紳士である場合にこそ成立するものだ。院長が果たして紳士であるかどうか――」

「判らんぞ」と窓辺の滝川爺が引き取った。「院長はおれたちにはうまいことを言うが、かげでは何を企んでいるか、判ったものではないぞ」

「そりゃそうかも知れないが」遊佐爺は一座を手で制した。「しかし一応相手を信頼しないことには、会見だの交渉だのは成立しない。だから今日、それをいっぺんにぶちこわしては、むしろわしらは不利な立場におち入ることになると思う。それにだな、いきなり経営者にぶつかっても、経営者たちがどんなことを考えているか、わしたちは判っていないから、やはり慎重に、一歩々々やっていく方がいい。せいてはことを仕損ずるとはこのことだ」

「あそこで今どんな話をしているか」滝川爺が窓から院長室の方を指差した。「そっと聞いてみたいもんだな。そうすれば、連中が何を考えているか、ハッキリ判るんだがな」

「遊佐爺さん。わしはあんたの考え方は、どうしても甘いと思う」柿本爺は直言した。「長老のあんたがそんなに甘いから、ニラ爺のような脱落者が出てくるんだ。一体ニラ爺はどこに行きゃがったんだろう」

「ほんまに弱ったねえ」

 書類戸棚の中に窮屈に閉じこめられ、身動きも出来ない状態で、ニラ爺が悲しげにささやいた。「この連中、しばらくこの部屋から、出て行きそうにもないねえ。おれ、泣きたくなってきた」

「泣いたら外に聞えるぞ」煙爺があわててニラ爺の股をつねった。「泣きたくなっただって。おれの方がよっぽど泣き出したいよ。お前のおかげで、こんなところに閉じこめられてさ」

「おれ、オシッコもしたくなったのや」ニラ爺は音を立てないように手を動かして、下腹を押えた。「どこかに便所ないか」

「戸棚の中に便所があってたまるか」煙爺が小さな声で叱りつけた。「オシッコなんてものは、その気になれば、一時間や二時間我慢出来ないわけはない。お互いに日本男児じゃないか。頼むから、辛抱してくれ。な、頼む」

[やぶちゃん注:「朽木は雕(ほ)るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず」「朽木糞牆(きゅうぼくふんしょう)」「朽木糞土」「朽木之材(きゅうぼくのざい)」などと四字熟語でも言う。怠け者の譬え。手の施しようのない対象や、役に立たない無用な物を比喩するもの。掲げられたそれは逐語的には「腐った木には、到底、彫刻出来ないし、腐って崩れた土塀は、最早、上塗りが不能であるように、怠け者は教育し難いことを謂う。「朽木」は「枯れて腐った木」、「糞土の牆」は「腐ってぼろぼろになった土塀」の意。出典は「論語」の「公冶長(こうやちょう)」の以下である。

   *

宰予晝寢、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可杇也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聽其言而信其行、今吾於人也、聽其言而觀其行、於予與改是。

(宰予(さいよ)、晝、寝(い)ぬ。子曰く、「朽木(きうぼく)は雕(ゑ)るべからず、糞土の牆(かき)は杇(ぬ)るべからず。予に於いてか何ぞ誅(せ)めん。」と。子曰く、「始め吾(われ)人に於けるや、其の言を聽きて其の行(かう)を信ず。今、吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を觀る。予に於てか是れ改たむ」と。)

   *

少し語注すると、「宰予」は宰我(予は名、我は字(あざな))。魯の生まれで孔門十哲の一人として弁舌が巧みであったが、ここで見るように「論語」ではたびたび孔子から叱責を受けているトリック・スターである。「晝寢ぬ」は勉強をせずに昼寝をしていたのである。「誅めん」反語。「朽木糞牆たるお前に対しては何を叱って意味があろうか、いや、処置なしだ」の意。それ以下は畳みかけて言ったもので、そういう宰予の為体(ていたらく)を例に「当初、私は人の言説を聴いて素直にその行動もそれに従うものと信じたものだった。しかし今は、他者の言説を聞いた時には、同時にその行動を観察するようになった。それはまさに宰予、お前のお蔭でかく改めたのである」の意。二重の叱咤がきつい。]

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