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2020/07/15

三州奇談續編卷之七 二上の鳥石

 

[やぶちゃん注:本章は途中に「万葉集」から万葉仮名とその右にカタカナでルビが振られてある一首が出る。そこだけは前後を一行空けて特殊な電子化とした。その際、底本の一部のルビが不審なため、現行の「万葉集」の読み及び「近世奇談全集」のルビを参考にし、一部を補ってある。]

 

    二上の鳥石

 二上山(ふたがみさん)養老寺は、古へ三千坊と云ふ地なり。今纔(わづか)に三院を殘す。されば寺古く山秀で、眞に殊勝の靈場なり。

[やぶちゃん注:標題は「ふたがみのてうせき」と読んでおく。

「二上山養老寺」「二上山」(ふたがみやま)は富山県高岡市と氷見市に跨がる標高二七四メートルの山(グーグル・マップ・データ。以下、無表示リンクは同じ。国土地理院図でピーク確認)で、この山自体が本来は御神体である。「二上山養老寺」は養老元(七一七)年に行基の開基と伝えられる(歴史学的には疑問がある)古刹で、射水(いみず)神社(現在の二上山南麓にある二神射水神社(射水神社元宮)。本社射水神社は神仏分離令を受けて現在地である高岡城本丸跡に射水神社として明治八(一八七五)年の遷座した)の別当寺として往時は講堂・鐘楼・堂塔他、四十九院など、寺数は実に三千八百坊もあったとも伝えられている。戦国時代に一度荒廃し、天正年間(ユリウス暦一五七三年~グレゴリオ暦一五九三年)にも社殿が焼失したが、江戸時代に入って加賀藩の祈祷所として復興した。ウィキの「射水神社」によれば、慶長一五(一六一〇)年、旧射水神社に『加賀藩初代藩主前田利長により御供田が寄進され、同時に越中』四郡からの知識米(初穂米)の『徴収が許された。この徴収には二上山所属の山伏があたり、大国様のように袋を担いだ彼らは「ガンマンブロ」と通称されて、泣く子も黙るほど民衆に恐れられた、と』いう。なお、『この徴収制度はかなり古くからあった慣習を、加賀藩が復活させたものと考えられている』とする研究者がいる。明治期になると、明治元(一八六八)年の国教政策により、『神仏分離令が出され』、『金沢藩においては』、明治二(一八六九)年七月に『二上山養老寺の知識米取立て指止め令が出された。但し、これは、『この年が大凶作であったため』、『貧農の難渋を少しでも和らげるため』に『発せられたもので、寺院の抑圧を直接の目的とはしていなかったが、神仏分離令により僧徒が神社へ関与することを禁じていたため、これを機に江戸時代初期から続いていた知識米の』『徴収は自然消滅し、山伏の大部分は四散して壮大を誇った別当寺は見る影も無く荒廃』し、『養老寺は金光院と慈尊院の』二『坊が細々と法燈を継ぐ状況となったと言う。この様な状況の中で二上山大権現は射水神社と改称し、社僧は還俗して神職となった』。後に金光院・慈尊院も廃れた。慈尊院の現本堂庫裡はつい最近の平成二〇(二〇〇八)年の再建である。因みに、私はこの山の東の麓の伏木で中学(伏木中学校)・高校(伏木高校)時代を過ごし、その内の後半は二上山南東山裾の伏木矢田新町に居住したため、二上山は私の生物探勝のフィールド・ワークの場でもあり、よく道なき道を探索したものである。自然の中のモリアオガエルの泡状の卵塊や、サンショウウオの白い二球の卵塊を見たのもここの「矢田の堤」(グーグル・マップ・データ航空写真)であった(国土地理院図では池があるが、グーグル・アースで見ても現在は干上がって消失している模様である)。懐かしい思い出の地である。なお、二上山については、より詳しくは高岡市の二上山公式ガイドブックPDF)がよい。]

 

 每歲祭禮には二上權現の神輿(しんよ)神杉(しんさん)に向ふ。此時社僧出迎ひて御輿(みこし)に挨拶あり。其躰(てい)古雅甚だし。

「實(げ)に千年の往事を見る」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「神杉」サイト「玄松子の記録」の「二神射水神社」に、「境内案内」が電子化されており、そこに富山県指定無形民俗文化財『二上射水神社の築山行事』とあり、『古代信仰では、神は天上にあり、祭に際して降臨を願うものとされた。この行事は毎年四月二十三日二上射水神社の春祭に行なわれる。境内の三本杉と呼ばれる大杉の前に、社殿に向って築かれる臨時の祭壇は、幅四間、奥行三間、上下二段になっており、上段中央に唐破風の簡素な祠が置かれ、その前に日吉、二上大神、院内社三神の御霊代である御幣が立てられる。屋根の上には斧をかざした天狗が立ち下段には甲冑に身を固めた四天王の藁人形が置かれ、祭壇のまわりは造花で飾られる』。『祭礼の前日の夕刻、頭屋にあたる山森氏(御幣ドン)と神主が二上山頂にある奥の御前の日吉社から御幣に神を迎える。一夜自宅でお護りし』、『翌日築山に移す。院内社は祭の当日迎えられる』。『祭儀は、午後二時から行なわれ』、『社殿で例大祭の儀式が済むと三基の神輿が巡行する。ゲンダイジンを露払いに、御幣ドン、神主が続き』、『その後』、『院内社、二上大神、日吉社の神輿が続く、途中で院内社の神輿だけが一旦鳥居の外に出て、戻って二上大神と日吉社の間に割って入る。これを「院内わりこみ」という。その後、築山の前と天の真名井の前で祝詞が奏上され、本殿の前に戻って儀式が終る。祭儀が終ると築山はただちに解体され片付けられる。遅れると神様が荒れるという』。『この行事は、天上から臨時の祭壇に神を迎える古代信仰を本義を良く残している。又動かぬ築山がやがて動く曳山へと発展していったと考えられており 高岡御車山の原初形態を知る上でも貴重である。又社殿の神事と古代信仰の築山神事の二重の神事を同日に行なっている点も興味深い』とあり、この『境内の三本杉と呼ばれる大杉』がそれであろう。グーグル・マップ・データのサイド・パネルのこの写真がその祭壇である(背後に杉も見える)。私は残念ながら、この祭事は見たことがない。]

 

 奥の院は一里ばかり上にあり。道(みち)手を立てたる如く、二の腰に惡王子(あくわうじ)の社あり。此社には人身御供(ひとみごくう)舊例なりしを、一僧是を鎭めて代りに施米を以てす。今に射水郡は人代(ひとしろ)として是れを納む。山僧來り、

「カンマンホロ」

と號(とな)へて器を家に投げ込むに、家々此器に米を滿(みた)しめて出(いだ)す。是れ常例なり。此王子其昔はいかなる神靈やありけん、いぶかし。

[やぶちゃん注:「奥の院」不詳。現在の二上山山頂の日吉社のことであろう。ここの手前にある以下に出る「惡王子の社」は別名を「奥の御前」と称するからである。

「二の腰」山を登る際に乗っ越して行く手前のピークの謂いであろう。

「惡王子の社」先に示した高岡市の二上山公式ガイドブックPDF)の「悪王子伝説 封じ込められた荒神」によれば、『昔、二上山には悪神が住み、人々を支配していた。ふもとのまないた橋の上に、毎月、18132328日の5回、15歳以上の娘を人身御供として差し出さねばならなかった。これを怠ったら、二上の神の分身である悪王子が、五穀を大凶作にしてしまう』。『天皇がこれを聞き、僧の行基を遣わした。行基は、二上山の山中にこもり、一心に法華経を唱えた。ついに、妖怪は大蛇の姿をあらわ』し、『行基は、これを悪王子の宮に封じ込め、神として祀った。そして、これまでの人身御供に代えて、初穂知識をお供えしることとした』。『悪王子社は、前の御前と呼ばれる地にあり、今でもその回りを7回半は知り抜けると、大蛇が姿を見せるという』とある。「まないた橋」を探ってみると、何んと、Mistic氏のブログ「It is there. ~ スピチュアル大好き ~」の「二上射水神社 悪王子社の荒神が求めた人身御供の受け渡し場所 俎板橋(まないた橋)」によって、その橋の一部(石片)が富山県高岡市荻布(おぎの)にある天満宮の中に保存されていることが判った。そこで電子化されている「俎板(まないた)橋の由来」を引用させて戴く。『昔、二上山には悪神が住み人々を支配していた。神は越中の各地から一年に六十人にのぼる若い娘を求めた。この哀れな娘達を人身御供として奉置したのがこの俎(まないた)橋である。神はその見返りとして順調な天候と五穀の豊穣を約束したという。この悪神は今二上山・前の御前「悪王子社」に封じ込められている』。『さて、この石橋は明治以前までは高岡と伏木、新湊を結ぶ旧街道の荻布地内』の『通称「がめ田川」に架けられていたが、後に荻布天満社の前の川に移設され、更に昭和四十年当社新築の際ここに移し、永く郷土伝説の遺産として保存するものである』とある。この記載から、現在の小矢部川と庄川の中間を流れていた川に架橋されていたものと読める。

「カンマンホロ」先の「二上山養老寺」の注の引用の「ガンマンブロ」であろう。語源は不詳。「ブロ」は「ふくろ」で「干満囊」或いは「願萬囊」辺りか。]

 

 本社の駒犬を見るに、木朽ち面(おもて)缺けて、實(げ)にも千年以上の木工と見ゆ。

[やぶちゃん注:遷座した射水神社にも同社は明治三三(一九〇〇)年の高岡大火で類焼しているから残っていないか。]

 且つ望中又限なし。能登の岬を遙に望み、越の立山を屛風の如く引廻したる如くに望む。折節は富士も見ゆると云ふ。海色深蒼、眼をいたむ迄なり。

[やぶちゃん注:二上山からは、天気が良ければ、能登半島の先端も立山連峰もよく見えるが、いや、いくら何でも富士山は見えんちゃ、麦水さん!]

 此二山の本社は高嶺(たかね)竹多し。他山は木曾て無く石只亂々たり。續いて古城あり、是又樹なし。谷々(たにだに)石多く鳥の像かたち)に似たり。觜(くちばし)のあるもあり。𤲿紋(ぐわもん)なるもあり。

[やぶちゃん注:「此二山の本社」日吉社と悪王子社のことか。しかし「本社」という謂いは悪王子社にはちょっと使わないとも思うのだが。

「古城」現在の二上山公園内にある守山城。旧越中国射水郡守山、現在の富山県高岡市東海老坂(ひがしえびさか)にあった山城。ウィキの「守山城(越中国)」によれば、『守山城はまた、二上城、海老坂城ともいう。越中平野を一望に見下ろし、山高く道険しく前方は小矢部川、後方は氷見の湖水に挟まれた要害であり、築城時期は明らかではないが』、「南北朝末期の建徳二/応安四(一三七一)年、『南党の桃井直常が石動山天平寺の宗徒と示し合わせて、越中守護・斯波義将の本城・守山を攻め落とした」と書かれているため』、『相当古いと考えられる』。『斯波氏が越中守護の頃、この城を拠点(守護所)として反抗勢力と対していた。斯波氏と桃井氏がこの城を奪いまた奪い返されるなどの抗争を繰り広げた。のち、越中守護職は畠山氏に移るが、畠山氏もこの城を拠点とし、守護代の神保氏が城を支配した。神保氏の居城であった放生津城の詰城としての役割があった』。永正一六(一五一九)年、『越後国の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗した』。永禄一一(一五六八)年三月には、『越後国の上杉謙信(長尾為景の子)は大軍を率いて越中へ侵攻し、守山城を攻撃している。当時の守山城主で織田家と婚姻関係にある神保氏張』(じんぼううじはる)『は、謙信に降伏して配下となっていた神保氏当主の神保長職』(ながもと)『と対立していた。この時は謙信の本国・越後で本庄繁長の乱が起きたため、謙信は守山城攻めを中止し、引き上げている』。『この後、神保氏張もまた上杉氏の配下となったが、謙信没後の』「御館の乱」(おたてのらん:天正六(一五七八)年)三月十三日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継を巡って、ともに謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎及び景虎に加担した山内上杉家元当主上杉憲政らは敗死した)による『混乱で、上杉氏は越中での勢力を大幅に失って』、『代わって織田信長の勢力が及んだ。神保氏張も再度織田の傘下となり、織田家臣で越中を任された佐々成政の与力として仕え、子息の婚姻関係により佐々氏の一門格となった』。天正一三(一五八五)年、』『豊臣秀吉と対立した佐々成政に対し、秀吉に属す前田利家の軍勢が、上杉景勝と呼応し』、『東西から越中に来襲した。氏張も佐々方として転戦した。阿尾城の菊池武勝が豊臣方(前田方)に寝返ったため、氏張はこれを攻めるために出陣したが、その隙に守山城で家臣が謀反を起こし、留守を守っていた父の神保氏重が討たれて城は乗っ取られた。氏張は軍を返して鎮圧したため、城は再び佐々方のものとなったが、前田軍が来襲し、守山城は攻め落とされた。敗北した佐々氏が没落すると』、『佐々一門扱いの神保氏張も連座して領地を失い、守山城を含む越中三郡(礪波・射水・婦負)は前田氏のものとなった』。『豊臣秀吉は先の城攻めを賞賛し、利家の嫡子である前田利長に守山城を与えた』。文禄四(一五九五)年には「蒲生騒動」(文禄四年から慶長三(一五九八)年まで続いた会津若松九十二万石の領主蒲生家のお家騒動)に伴う領地替えによって、『残る一郡(新川)も前田領とされ、上杉家の越中衆(土肥氏・舟見氏・吉江氏など)から青山吉次らが諸城を受け取』った。慶長三(一五九八)年、『家督と加賀を譲られた利長は尾山城(金沢城)に移』り、『前田家家臣(一族)の前田長種が守将となったが』、『前田家二代目(嫡男)と一家臣(城代)ではその家臣の数も違ったのであろう、守山城下は寂れたとも伝わる』「関ヶ原の戦い」の後、『富山城も再建され、守山にあった寺などが移』っている、とある。なお、実は二上山とはツイン・ピークスの意である。ところが、一方の峰を削って守山城が作られたために、現在ではそうは見えなくなっているということを言い添えておこう。]

 

 此城國君一年移して關野へ引き給ふ、今の高岡なり。

[やぶちゃん注:「關野」「今の高岡なり」個人ブログ「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の「【吉田神道高岡関野神社】によって歪曲された高岡市の歴史⇒【財政破綻】に繋がる高岡市の偏向した歴史観!!」に、加賀藩記録「三壺聞書」(加賀藩士山田四郎右衛門が三つの壺に書き貯めた記録を纏めたものとされる)に、『豊臣秀吉から聚楽第を拝領して江戸に差し廻されていた聚楽第の解体材料を金沢に運び、尾山城の築城に利用した様に記載されており、その城が火災で焼けた為に富山城に移ったが、慶長』一四(一六〇九)年三月十八日に『富山城も焼けた為に、越中関野に城を建てる為に一時期、魚津に移り、その間に金沢の【愛宕波着寺】の僧「空照」を招聘して地鎮祭を行って「関野」を【高岡】と命名し、慶長』十四年八月十六日に『竣工の祝いを盛大に行ったと云う』とあり、また、『「高岡市」の元の名前が平安時代の地誌の「和名類聚抄巻 二」に記載されており、古くは「越中国第百 射水郡」の内に、【塞口】と在り、「越登賀三州史」には』「關野ヶ原 在射水郡關野、又、志貴野とも舊記にあり今の舊號成り」とし、「越中旧記」には「今ノ高岡ハ塞野 狹野 サルヲ關野ト書キタルハ壽永ノ頃ナリ 其ノ後 上關(カミセキ) 下關(シモセキ) 狹野ト分レタリ 塞野ト云ハ此邊ハ『和名抄』ニ出タル塞口ノ鄕ニアル野ナル故 名ツケタル者也」と『記す。又、旧記には』「關野を高岳と被改 後改 高岡」と『在り、当初は「高岳」と称したと云う』とあった。「和名類聚抄」は原本(国立国会図書館デジタルコレクション)に当たったところ、巻七の「國郡部第十二 越中國第百」の「射水郡」の最後に「塞口」として「セキクチ」とルビが振られてある。]

 

 近年軍學に名ある者來りて、此山嶺を踏遍(たふへん)して[やぶちゃん注:あまねく踏破して。]醫家【民五なる人】に尋ねて曰く、

「此二上山高岡の城に近くして要害よからずと云ふ說あり。然れば國君利長卿名將の御名ある事明(あき)らけし。又命ぜられたる長如庵(ちやうのじよあん)・高山南坊(みなみのはう)、是れ此器の秀才の人と聞けり。然るに此沙汰は如何。」

 軍學士答へて曰く。

「皆謂れあり。尤も此山上、高岡の城に近くして害ならざるには非ず。然れ共是れ茶臼山と稱すべき地なり。茶臼山とは、『御引なさる』と云ふ隱し詞にして、故に城邊の要地を何國にても斯く號(とな)ふ。是敵に取切らるべきの地に非ず。味方の山なり。城落ちて此山に籠るとも、山落ちて城に籠るべからず。殊に山氣必ず城中を助くる者を籠められたるならん。守護の神主(しんしゆ)あり」

と云ひし。

[やぶちゃん注:「踏遍して」遍(あまね)く踏破して。

「民五」「黑川の婆子」に既出の人物である。そこでも『高岡の醫師』とあった。

「長如庵」複数回既出既注の、戦国から江戸初期にかけての武将で、織田家の家臣、後に前田家の家臣となった長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)のこと。「如庵」は彼の戒名。ウィキの「長連龍」を見られたい。

「高山南坊」戦国時代のキリシタン大名高山右近(天文二一(一五五二)年:摂津~慶長一九(一六一四)年:マニラ)の茶人としての号。「怪飜銷ㇾ怪」で既注。

「高岡の城」旧越中国射水郡関野、現在の富山県高岡市古城にあった平城の高岡城。守山城の南南東四キロメートル半。ウィキの「高岡城」によれば、慶長一〇(一六〇五)年六月二十八日、富山城に隠居した初代加賀藩主前田利長は、その四年後の慶長十四年に、『富山城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半』が焼失してしまい、『利長は魚津城に移り、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野』(現在の高岡の旧名、前注参照)『に築城の許可を貰』った。『利長は築城の方針に伴うため、資材調達を小塚秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を取り、同時に城下町の造成も始めた。縄張(設計)は当時の前田家の客将だった高山右近とされている』。同年九月十三日、『利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉から賜った豊臣秀次失脚に伴』って『破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられる。しかし』、慶長一九(一六一四)年五月二十日、利長は死去(享年五十三)し、『隠居城として使われたのはごく短期間であった。その翌年の』元和元(一六一五)年には『一国一城令により』、「大坂夏の陣」からの利常の『凱旋を待って』、『高岡城は廃城となった』。『その代わり』、『加賀国に小松城を築くことが』許されている。但し、廃城時期についてはもっと後の寛永一五(一六三八)年と『する異説もある』。『しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持された。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様であった。街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため』、『町屋(定塚町)を移転して目隠しにしたといわれる。また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や』、『周囲に堀を備える利長の墓所自体も』、『高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられている。なお、江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で記しているものがある』(「ふるおしろ」と読む。「高岡市立博物館」公式サイト内で「高岡古御城之図」(裏書「高岡古御城之圖 文政四年高岡火災之節御城之御塩藏夲少し燒失に付爲見分相添たるの圖取いたし候由之津田宇兵衞より内々借り寫し置文政四年冬寫之」(「高岡古御城の圖」。文政四(一八二一)年、高岡火災の節、御城の御塩藏(おしほぐら)等、少し燒失に付き、見分爲(な)し相ひ添へたるの圖、取りいたし候。之の由(よし)津田宇兵衞より内々借り寫し置く。文政四年冬、之れを寫す)が見られる。当該ページに『このホームページ内の内容、画像の二次利用は固くお断りします』とあるのに憤然としたので、判読はリンク先の解説を参考しながらも全く独自に判読した)。『城内におかれた米蔵等は』、文政四(一八二一)年の「高岡大火」の『際にほぼ全焼したが、その後』、『再建され』、『明治に射水郡議事堂が建設されるまであったという』とある。

「荼臼山とは、『御引なさる』と云ふ隱し詞」「茶を臼(うす)で挽(ひ)く」に本城を攻め追い立てられた際に臨時に「お引きなさる」、一時的に退(ひ)いて移る「山」城に掛けたもの。]

 

 されば高岡の知己井波屋某にして、櫻を彫りたる硯箱を見き。某曰く、

『是先年金澤へ行きし「一の谷の硯箱」と同樣にして、後(うしろ)藤(ふじ)の浮彫、本(も)と國君の城中より出(いで)し器なり』

と云ふ。

[やぶちゃん注:MOA美術館の「岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 出品目録」PDF)の中に「一の谷蒔絵嵌装硯箱」(江戸時代 十七〜十八世紀)と記すものが載っている。]

 

 爰に一話あり。

 文祿・慶長[やぶちゃん注:一五九三年から一六一五年。]の程の頃ならん。此山に城猶殘りて、二上養老寺別院も所々荒れながら殘りし頃とにや。

 高岡邊に武道具を好むの商人(あきんど)ありしが、折々二上の山中より小柄・小刀・鐙(あぶみ)・金具など拾ひ來りて、少しの價に賣る山人(さんじん)多かりしかば、此商人も欲心に迷ひ、一日(いちじつ)山上して爰彼所(ここかしこ)尋ねしに、鹿を追ふ獵師の山を見ざるが如く、終(つひ)に道を忘れて谷々に入る。

 遙(はるか)に遠く尋ね入りて、打仰向(うちあふむ)きて側(かたはら)を見れば、石上(いしがみ)に一人の異人臥居(ふしゐ)たりしが、

「むつく」

と起きて叱(しつ)して云ふ。

「汝何者なれば領地を侵し來(きた)る。早々に去れ」

と云ふ。

 此商人是を見るに、靑き素袍(すはう)髮伸びて女の如く、杖にすがりし有樣なり。

[やぶちゃん注:「素袍」「素襖」(すあを(すおう))に同じ。日本男性の伝統的衣服の一種で、室町時代に発生した単 (ひとえ) 仕立ての直垂(ひたたれ)。庶民が着用したが、江戸時代には平士・陪臣の礼服になった。しかし、この男、奈良時代の霊のくせに当時の現代服を着てるっうのは、おかしかないかい?]

 

 商人怪みて、

「爰は誰殿(だれどの)の領地にて候や、あなたは何と申す御方に候や」

と云ふ。異人曰く、

「爰は則ち越中守家持(やかもち)卿の領地なり。斯く申す我は家臣澁田惠美惡(しぶたのえみさか)と云ふ者なり。鷲を養ひて羽を取りて國用に充つ。其外世替れども武器を守護す。汝早く去らずんば鷲に追はしむべし」

と云ふ。

 其人猶怪みてあたりを見るに、彼異人杖を揮(ふる)ひて

「ホウホウ」

と號(よ)ぶに、邊りの石中草間(せきちゆうさうかん)に悉く鷲・熊鷹ども顯れて引裂(ひきさか)んず勢ひなり。

 此商人大(おほい)に恐れ、

「曾て聞く、同國立山には『善知鳥(うとう)』の謠(うたひ)にかゝる事を聞きし。夫(それ)は鳥獸を殺せし報いのよし。我は更に殺生せし覺えもなきに。俄(にはか)に山の狹(せば)む躰(てい)、若(も)し爰は衆合地獄に候か」

と問ふに、元來惡鳥どもなれぱ更に聞入れず、愈々群(むらが)り出で飛掛(とびかか)り、黑金・赤金と云ひつべきの觜を鳴らし、金めつきの羽(はね)叩き、赤銅(しやくどう)の爪を硏立(とぎた)て、眼(まなこ)を摑(つか)み肉を食はんと、すさまじき躰(てい)なれば、彼の道具好(だうぐずき)の親仁(おやぢ)大に恐れ、迯(にげ)んとすれど立得ず。叫ばんとすれども聲枯れながら、

「鴛鴦(をしどり)の殺せし罪はなきにや」

と、漸(やうや)く谷をころび落ちて麓の村に迯來(にげきた)り、爾々(しかじか)の躰(てい)咄(はな)しければ、村の者ども驚きて、夜明ければ此親仁を先に立て、再び山上して谷々を探しけるに、夫(それ)と思ふ所へも出でず、又異人もなし。

 然共亂石は皆鳥の形(かた)ちにて、何れも觜出來(いでき)て、斑紋必ず鳥なりしと云ふ。

 今も多く鳥形(とりがた)の石あり。

 思ふに「萬葉集」十六越中守中納言家持。

 

 渋溪乃二上山爾鷲曾子產蹟云指利爾毛

 君之御爲爾鷲曾子產跡云

  渋溪乃(シブタニノ)

  二上山爾(フタガミヤマニ)

  鷲曾子產蹟云(ワシソコムトイフ)

  指利爾毛(サシハニモ)

  君之御爲爾(キミガミタメニ)

  鷲曾子產跡云(ワシソコムトイフ)

 

かゝる歌も見え侍れば所以あるにや。澁谷も今は崩れて、澁田と云ふと聞く。

 蝦坂(ゑびざか)と云ふ地にも知る人ありて悉く聞くに、蝦坂先五兵衞の頃逞しき狗(いぬ)を飼ひしに、山畔(やまくろ)の畠ヘ行く下人と連立(つれだ)ち行きしに、鷲來りて三十間許(ばかり)宙に引立(ひつたて)て行く。

 家來ども大いに恐れ、

「主人祕藏の犬なり、免(ゆる)し下されよ」

と詑びければ、鷲捨て去り、犬も恙なかりき。

 其外

「鷲に異あること數多(あまた)なり」

と聞えしかば、我も此物語り床(ゆか)しくて、圖なるもの、觜のある像のもの二石を懷にして下山し、家づとゝなし、彼の谷を思ひ出すなり。

[やぶちゃん注:「越中守家持」大伴家持(養老二(七一八)年頃~延暦四(七八五)年)万葉末期の代表歌人で官人。大伴旅人(たびと)の子。少年時の神亀四(七二七)年頃、父に伴われて大宰府で生活し、天平二(七三〇)年に帰京した。七三七年頃に内舎人(うどねり)となり、天平一七(七四五)年には従五位下を受けた。翌年三月、宮内少輔(くないのしょうふ)となり、同七月、越中守となって赴任した。天平勝宝三(七五一)年、少納言となり、帰京。七五四年、兵部少輔。さらに兵部大輔・右中弁を歴任したが、天平宝字二(七五八)年に因幡守に降格された。以後、信部大輔(しんぶたいふ)・薩摩守・大宰少弐などを歴任。長い地方生活を経て、宝亀元(七七〇)年六月、民部少輔、同九月に左中弁兼中務(ちゅうむ)大輔、同十月には二十一年振りに正五位下に昇叙した。諸官を歴任して天応元(七八一)年四月、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、延暦四(七八五)年四月、中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使(みちのくのあんさつし)鎮守府将軍と記されて、同年八月に没している。没時も恐らく任地であった多賀城(現在の宮城県多賀城市)にあったものと思われている。享年は六十八または六十九とも言われる。名門大伴家の家名を挽回しようとしたが、却って政争に巻き込まれることが多く、官人としては晩年に至るまで不遇であり、死後も謀反事件に連座して大同元(八〇六)年まで官籍から除名されていた。作品は「万葉集」中最も多く、長歌四十六首、短歌四百二十五首(合作一首を含む)、旋頭歌一首の計四百七十二首に上る。ほかに漢詩一首と詩の序文形式の書簡文などがある。作歌活動は、天平四(七三二)年頃から因幡守として赴任した翌年の七五九年までの二十八年間に亙るが、現行では三期に区分されている。第一期は七四六年に越中守となるまでの習作時代で、恋愛歌や自然詠が中心をなす。のちに妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を始め、笠女郎(かさのいらつめ)・紀女郎(きのいらつめ)らとの多彩な女性関係と、早くも後年の優美繊細な自然把握が見られる。第二期は越中守時代の五年間で、期間は短いものの、望郷の念を底に秘めつつ、異境の風物に接し、下僚大伴池主(いけぬし)との親密な交遊を通して、さらには国守としての自覚に立って、精神的に最も充実した多作の時代であった。第三期は帰京後から因幡守となるまでで、作品数は少なく、宴歌が多いが、万葉の叙情の深まった極致ともいうべき独自の歌境を樹立している。「万葉集」編纂に大きく関与し、第三期の兵部少輔時代の防人歌(さきもりうた)の収集も彼の功績である。長い万葉和歌史を自覚的に受け止めて学ぶとともに、これを進め、比類のない優美にして繊細な歌境を開拓した。この美意識及び自然観照の態度などが、平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「澁田惠美惡(しぶたのえみさか)」読みは「近世奇談全集」に従った。但し、不詳。少なくとも当該ロケーションの二上山麓の家持所縁の地に六年間も住み、中高に国語や古文の授業でも家持がしばしば取り上げられたのであるが、こんな奇談も、こんな家持の家臣の話も全く聴いたことがない。ネット検索でも掛かってこない。識者の御教授を乞うものである。

「鷲」タカ目タカ亜目タカ上科タカ科 Accipitridae に属する種群の中でも比較的大きめの種を指す総体通称。本邦産ではオジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・オオワシ(オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)などに該当する。

「熊鷹」タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis。日本はクマタカの最北の分布域であり、北海道から九州に留鳥として棲息し、森林生態系の頂点にいる。そのことから、「森の王者」とも呼ばれる。

「立山には『善知鳥』の謠にかゝる事を聞きし」ウィキの「善知鳥」によれば、謡曲「善知鳥」は『能の演目のひとつ。ウトウという鳥を殺して生計を立てていた猟師が死後亡霊となり、生前の殺生を悔い、そうしなくては生きていけなかったわが身の悲しさを嘆く話。人生の悲哀と地獄の苦しみを描き出す哀しく激しい作品となっている。四番目物(五番立てと呼ばれる正式な演能の際に四番目に上演される曲で、亡霊などが主役になるもの)で、喜多流では「烏頭」と呼ばれる。また、地唄にもこの能を基にした曲があり、地唄舞の演目としても知られる』。『旅の僧侶が立山にさしかかったとき、猟師の亡霊が現れ、現世に残した妻と子のところに蓑笠を届けて、仏壇にあげるように頼む。僧侶は承諾するが、この話を妻子に信用させるために何か証拠の品を渡すように言い、猟師は生前着ていた着物の片袖を渡す。僧侶が陸奥国の外の浜にある猟師の家を訪ね、妻子に片袖を見せると二人はただ泣くばかり。僧侶が蓑笠を仏壇にあげて経を唱えると、猟師の亡霊が現れ、地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆く。ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用して声真似をして雛鳥を捕獲していたため、地獄で鬼と化したウトウに苦しめられ続けていると話し、僧侶に助けを求める』。『立山は古くから山岳信仰の場として修験者を集め、その荒々しい地形を地獄に見立てた立山信仰で有名だった。これが「立山地獄説話」として語られ、平安時代末期には貴族社会にも知れ渡り』、十二『世紀の『地獄草紙』などに見られる「鶏地獄」』(とりじごく/けいじごく:「起世経」の「地獄品(じごくぼん)」が説く十六小地獄の一つ。鳥獣を虐(いじ)め、爭いを好んだ者が死後に堕ちるとされる。猛き炎が身に満ちた大きな鶏(にわとり)がおり、亡者はこれに追われて蹴り踏み潰され、その体はずたずたに切り裂かれて耐え難い苦痛を味わうとされる。「地獄草紙」では、異様に巨大な鶏が、炎の翼を広げて火炎を吐き出すさまがシンボリックに描かれてある)『のモチーフや津軽地方の「珍鳥説話」、「片袖幽霊譚」などを組み合わせて、室町時代に「善知鳥」という演目が作られた』。『また、ウトウという海鳥は、親鳥が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子の鳥が「やすかた」と鳴いて居場所を知らせると言われ、それを利用して猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわるという言い伝えがあり、そのために捕獲の際には蓑笠が必要とされた』。『富山県立山の地獄谷が発祥地といわれ、長野県塩尻市に善知鳥峠、青森県青森市に善知鳥神社がある。出羽国でも仙北郡美郷町千屋、秋田市(旧雄和町)平尾鳥などにも「善知鳥」の地名がある』とある。「善知鳥安方(うとうやすかた)」とは昔、奥州外ケ浜(現在の青森県内)、特に津軽郡安潟浦にいたと伝えられる妖鳥の名。一説に允恭天皇の時、罪を得て奥州卒都が浜(外ケ浜)に下った中納言烏頭安潟と、その子の霊の化した鳥とも伝える。能の「善知鳥」の詳しい詞章と解説は小原隆夫氏のサイト内のこちらがよい。なお、「善知鳥」は実在するチドリ目ウミスズメ科ウトウ属ウトウ Cerorhinca monocerata の標準和名である。ウィキの「ウトウ」によれば、「鵜(う)」(カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae のウ類でウミウ Phalacrocorax capillatusやカワウ halacrocorax carbo)とは全く無関係で、『アイヌ語で「突起」という意味がある』。なお、「うとう」は『「ウト・ウ」ではなく「ウトー」と発音する』。『北日本沿岸からカリフォルニア州までの北太平洋沿岸に広く分布する。日本でも北海道の天売島、大黒島、渡島小島、岩手県の椿島、宮城県の足島などで繁殖する。天売島は』約百万羽が『繁殖するといわれ、世界最大の繁殖地となっている。足島は日本での繁殖地の南限とされ』、『「陸前江ノ島のウミネコおよびウトウ繁殖地」として、「天売島海鳥繁殖地」とともに国の天然記念物に指定されている』。『体長は』三十八センチメートル『ほどで、ハトよりも大きい』。『頭から胸、背にかけて灰黒色の羽毛に覆われるが、腹は白い。くちばしはやや大きく橙色である。夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができ、目とくちばしの後ろにも眉毛とひげのような白い飾り羽が現れて独特の風貌となるが、冬羽ではくちばしの突起と飾り羽がなくなる』とある。

「衆合地獄」八大地獄の第三。殺生・偸盗・邪淫を犯した者の落ちる所。牛頭(ごず)・馬頭(めず)に追い立てられて、罪人が山に入ると、山や大石が両側から迫って押し潰されるなどの苦を受けるという地獄。「石割(いしわり)地獄」とも呼ぶ。

「鴛鴦(をしどり)の殺せし罪はなきにや」「鴛鴦(をしどり)の殺せし罪」は「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」でお判り戴けるはずである。そこの注では私が原拠を詳しく複数挙げて電子化してあるので、是非、見られたい。ここで、この商人は、「雄のオシドリの殺生だけでなく、思いもかけぬ雌のオシドリの自死をも齎した救い難い業(ごう)は毫(ごう)も私にはありませぬに!!!」と叫んでいるのである。即ち、ここは特に後の、オシドリの雌の自害という――不可抗力の間接的な――殺生の罪さえも私にはないと弁解しているのである。まあ、本当にそうかは判らぬが、彼が二上山に狩猟目的で入ったのではないことは確かだから、まあ、許してやろう(と渋田恵美悪も思ったのであろう)。

「鳥形の石」「亂石は皆鳥の形(かた)ちにて、何れも觜出來て、斑紋必ず鳥なりしと云ふ」「今も多くあり」恐らくは以下に出る「万葉集」の歌に掛けているのであろう。二上山には鷲鷹石(しゅうようせき)というのがあると、「北日本新聞社」公式サイト内の「とやまおはなし蔵」にはあるようだ(有料会員手続きをとらない読めない)が、どうも雰囲気からして、本篇をもとにしているようである。が、しかし、私はまさにその谷の近くに数年住み、その谷も最奥まで詰めて、二上山山頂を徒歩で極めたことさえもあった(半日かかった)が、そんな鳥型の石や鳥の嘴形の石や鷹の羽のような斑(まだら)模様を持った石がゴマンとあると言う話なんざ、見たことも聴いたこともないがいぜ!?!

『「萬葉集」十六越中守中納言家持……』は「万葉集」巻第十六の「越中國(こしのみなかのくに)の歌四首の二つ目にある旋頭歌(三八八二番。旋頭歌は奈良時代に於ける和歌の一形式の一つで「古事記」・「日本書紀」・「万葉集」などに見られ、五・七・七を二度繰り返した六句からなり、上三句と下三句とで詠み手の立場が異なる歌が多い。呼称は頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことに由来する。元は五七七の「片歌」を二人で唱和又は問答・相聞したことから発生したと考えられている)で、講談社文庫の中西進氏の「万葉集(四)」では『二上山麓の民謡』とされる。

   *

 澁谿(しぶたに)の

  二上山(ふたがみやま)に

   鷲(わし)そ子産(こむ)といふ

 翳(さしは)にも

  君がみために

   鷲そ子産といふ

   *

中西氏の通釈は『澁谿の二上山に鷲が子を産むという。翳になりと使って下さいと、君の御ために鷲は子を産むという』とされ、「澁谿」には『富山県高岡。その西部に二上山』とされるのだが、これはおかしい。この「澁谿」というのは当時の有磯海の、現在の岩崎の鼻を越えた、雨晴(あまはらし)の海岸から細く二上山方向へ入り込んだ谷である、現在の高岡市渋谷(しぶや)辺りの旧名であろうと私は思う。因みに後に出る本書執筆当時の地名「澁田」では見当たらない。「翳」は『貴人にかざす長柄のうちわ』とある。「さしば」とも呼び、鳥の羽や絹を張った団扇形のものに長い柄をつけた遮蔽具。貴人の外出時や天皇が即位・朝賀などで高御座(たかみくら)に出る際に従者が差し出して顔をお隠し申し上げるのに用いたものである。

「蝦坂」現在の富山県高岡市東海老坂(とうかいえびざか)

「蝦坂先五兵衞の頃」どうもおかしい。村の有力者が村名を名乗るのはまあいいとしても、どうも「蝦坂先五兵衞(えびざかせんごへゑ)」は如何にも言い難いじゃあないか(実は「近世奇談全集」では『えびざかせん』とルビが振ってはあるのだが)。これは「蝦坂」の「先」(さき)の「五兵衞」の代の謂いであろう。本文も「えびざかのさきのごへゑ」と読んでおきたい。

「山畔(やまくろ)」山麓の少し小高くなった所。先の地図でお判りの通り、東海老坂地区は二上山の西方部で、西の丘陵部の山間にある氷見に抜ける間道沿い(現在は国道一六〇号が貫通)の山村である。

「三十間」約五十四メートル半。

「床(ゆか)しくて」「ゆかし」は動詞「行く」の形容詞化したもので、本来は「心が惹かれ、そこに行ってみたい」が原義。「床」は当て字である。ここは「奥深さがあって心が惹きつけられる感じがして」の意味である。

「圖なるもの、觜のある像のもの二石を懷にして下山し、家づとゝなし、彼の谷を思ひ出すなり」「ゆかしくて」も含め、珍しく麦水はいたく感傷的なことを言っている。「圖なるもの」というのは石の模様が描いた図のようなものということか。ともかくも、旅の記念に模様のある石と鳥の嘴の突き出たような石を土産に持って帰ったというのだから、やっぱり二上山にはそんな石がごろごろしているということか。もう、きっと行くことはないだろうが、万一、行ったら、二上山で探してみたい、誰か、探してみてくれないか?…………]

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