梅崎春生 砂時計 28
28
東寮階下のどんづまりの部屋では、各爺さんがそれぞれ昼食を済ませ、それぞれ食後のいこいをとっていた。長老の遊佐爺は肱(ひじ)まくらでかるい午睡をとっていたし、滝川爺と柿本爺は手製の将棋盤で将棋をさしていた。松木爺は輪番制の畠仕事をさぼって、鋏(はさみ)でチョキチョキと足の爪を切っていた。午後の陽光はこの部屋にもななめに射し入っている。やがて松木爺は爪をすっかり切り終え、鋏を投げ出して大きな欠伸(あくび)をした。
「さて」欠伸を閉じて松木爺はひとりごとめかして言った。「も一度ニラ爺でも探しに出かけるかな」
誰もそれに返事をしなかった。松木爺はふらふらと立ち上った。
木見婆は空の岡持を提(さ)げて、ふらふらと中央大階段を降りてきた。すると廊下の向うからふらふらと歩いてくる甲斐爺、森爺の姿を認めたので、木見婆はぎくっと身体を緊張させ、急ぎ足になってその両爺に近づいて行った。
「まだ見付からないのかい?」木見婆は早口で訊ねた。
「まだ?」
「まだなんだよ」甲斐爺がしょんぼりと答えた。一体どこにかくれやがったのか。木見婆さんは心当りないか」
「あるわけないよ」そして木見婆は声を強めた。「もし見付けたらね、何はさしおいてもあたしのとこに飛んで来るようにと、そう伝言してお呉れよ。ほんとに大事な用事があるんだからさ。きっとよ」
「わかったよ」と森爺が答えた。「そのかわり、あんたが見付けたら、直ぐに知らしとくれよな。その岡持は何だい?」
「院長室で今会議をやってんだよ。それに料理を運ぶのさ」
「どんな料理?」と両爺は眼をかがやかせ唾をのみこみながら訊ねた。
「それは焼魚とか、きんとんとか」と、木見婆は答えた。「茶碗むしとか、いろいろさ」
「残飯費運搬費の値下げ、院内菜園のことなんかは、経営の本筋から言えば、末の末のことだ」気取った手付きで茶碗むしの蓋を取りながら教授が重々しく言った。「経営方法の大宗は、在院者を次々回転させるにある。電車会社の経営と同じだ。降りる人があってこそ、次々に人が乗ってくるのだ。乗りっぱなしにされては、経営が成り立たないよ。だから我々も枝葉末節を論ずることをやめて、大宗を論じなくてはならん。近時の当院の不振も、死ぬべき人が死んで呉れないという点に最大の原因がある。如何にして在院者の回転率を高めるべきか」[やぶちゃん注:「大宗」は「たいそう」は「物事の初め・おおもと」或いは「大部分・おおかた」の意。]
「そうだ。そうだ」と食堂主が賛意を表した。「わたしんちでも、卓に坐りっぱなしで、一日中かかってゆっくり食べられては、やり切れんものな」
「どうして近頃」と運送屋が小首をかたむけた。「皆死ななくなったんだろうなあ」
「やり方も悪いんだよ」と菓子屋。「院長の怠慢だ」
「いっそのこと」女金貸が手を上げて言った。「院長の責任制ということにしたらどう?」
「責任制?」
「割当制のことよ」女金貸は院長の方に向き直った。「今在院者は、九十九人、だったわね」
「そうです」
「すると、一ヵ月に三人死ぬ」と女金貸は指を折って数えた。「全部入れ替わるのに、三十三ヵ月、すなわち二年と九ヵ月かかるわけね。四人だと、ええ、約二十五ヵ月か」
「そう」教授がうなずいた。「二年と一月だ。商売柄だけあって、計算は正確だね」
「一ヵ月三人というところでどう?」女金貸は一座を見回した。「一ヵ月三人を院長の責任額にするのよ。三人に足りない場合は、院長の月給から比例して相当額を差し引く。三人以上死んだ場合は、もちろんその分だけ院長に手当を出す。そうすれば院長も仕事に励みが出るでしょう」
「それはいい考えだ」と運送屋が卓をたたいて賛成した。
「三人死ぬと、新入りが三人で三十万円か。適当なところだね。院長、一月に三人殺すのは、わけないだろうね」
「飛んでもない」院長はまっかになり、眉をびくびく動かして掌を振った。「一月三人もわたしが殺すなんて、そんな無茶な、非常識な――」
「殺すというから具合が悪い」教授がたしなめた。「死なしめて上げるんだよ。さっきも院長は言ったではないか。老人は死ぬために生きているって。つまり老朽物質を、無に帰させるわけだね」
「そ、それはそうですが――」
「死なしめて上げるって、精神的にこいねがっているだけではダメだ」教授はあかくなった額をゴシゴシと搔(か)いた。「こういうことは組織的に、計画的にやらんといけないな。行き当りばったりじゃ困る」
「そうよ」女金貸が勢い込んだ声を出した。「この間の風呂のタイル張りの件だって、行き当りばったりよ。辷って死んだのは、たった一人じゃないの。あのタイルの張り替えはいくらかかったの?」
「六万円です」と院長が帳簿を開きながら答えた。「そして直ちに林爺さんが辷って死んで呉れたので新入者が十万円持って入ってきました。すなわち差引き四万円……」
「ちょいと待った」運送屋が口を入れた。「その算術はおかしいぞ。死んだ林爺さんは満八十歳だったな。するとタイルで辷らないでも、いずれ何かの原因で遠からず死ぬべき状態にあったわけだ。それをかんたんに引き算で片付けようなんて――」
「しかし」院長は禿頭をふり立てて抗弁した。「今までのところは一人ですが、これから先、タイルが張ってある限り、何人もが辷って後頭部を打つでしょう。それをこいねがってわたしは、石鹸だけは爺さんたちに潤沢(じゅんたく)に配給してある」
「そう都合よく行くものか。鼠だって捕鼠器に一匹かかれば、あとは用心してかからなくなるよ。ましてこれは人間だ」
「六万円とは金をかけ過ぎたよ」と菓子屋。「ひっくりかえすには、廊下や階段に臘(ろう)[やぶちゃん注:漢字はママ。「蠟」の誤字か誤植。後も同じ。]を塗りたくった方が、はるかに安上りで効果的だったんじゃないか」
「しかし院長たるわたくしが、深夜ごそごそと床に臘を塗り回っている現場を、爺さんたちに見られたら具合が悪いですよ」と院長は言った。「それに廊下や階段に塗りたくって、爺さんたちでなく、あなた方が引っくり返ったらどうします?」
「そいつはごめんだ。桑原、桑原」食堂主は首をちぢめた。「わたしや近頃血圧が高いんだよ。頭を打ったらそれっきりだ」
「そうでしょう」院長は鼻翼をふくらませた。「わたしだって辷り転びたくない」
「黄変米の方はどうなってる?」教授が質問した。「継続して投与しているかね?」
「僕が毎月納入していますよ」と、菓子屋が引き取った。「菓子製造の加工用原料として払い下げを受けたやつの、その相当量を当院用に回しています」
「回ってきた分を、院長はチャンと飯にたき込んでいるか?」
「たき込んではいますがね」院長は瓶をとり上げ、各自のグラスに次々に充たしてやった。「あんまり多量に混入すると、ぼそぼそ飯になって、在院者は食べ残すし、それに黄色く色が染まるんでねえ。強化米などとごまかしてはいますが」
「その程度じゃ在院者に大した実害は与えないな」教授が軽蔑したような声を出した。「その程度なら一般国民も食べているよ。すでに現政府は、黄変米騒ぎのほとぼりがさめたのを見はからって、こっそりと毒米を配給ルートに乗せ始めてるよ。僕んとこの大学の消費生活協同組合が、配給外米をだね、どうもおかしいてんで専門家に頼んで検査して貰ったんだ。するとそれからイスランジャ菌がうじゃうじゃと検出されたんだ」
「その組合って、何をするところです?」
「学内食堂を経営しているんだよ」教授はグラスを手にした。「学生、職員の数干名がそこを利用しているんだぜ」
「ひどいな」
「ひどいもんですねえ」
「ひどいわね」
面々は異口同音に、政府のやり方に対して、怨嗟(えんさ)の声を上げた。
「だから僕の家では」と教授は落着きはらった。「外米配給は一切辞退しているんだ」
「外米はまだ相当滞貨しているんですか?」
「相当あるようだね」と教授。「せんだって食糧衛生局長が、非公開の会議の席上でだがね、現在外米の滞貨は二十万トンに達しているが、なんとか早く配給ルートにのせて片付けてしまいたいと、語ったそうだ。二十万トンとは相当な量だよ」
「僕んとこにも毎月一定量」と菓子屋が説明した。「加工用原料として配給がある」
「全部を加工用原料に払い下げればいいのにね」
「加工用原料としての払い下げ価格は、たいへん安いんだよ」と教授。「全部を加工用に払い下げれば、食糧管理特別会計にたちまち五十億円の穴があくんだ。それじゃあ配給操作にもさしつかえるしねえ。だから政府は国民の目をごまかして、毒米を配給ルートに乗せたがっているし、また実際に乗せているんだよ」
「あんたその払い下げ米を」女金貸が菓子屋に顔を向けた。「タダで当院に納入してるの?」
「タダじゃないさ」菓子屋は困感したように見る見る渋面をつくった。「僕も商売人だがね。でも当院納入の分には、利益はほとんど見ていないです」
「いかほどで買ってるの」女金貸は院長に顔をねじ向けた。
「支払いは金じゃなくて、物々交換です」院長は帳簿を開いた。「ええと、払い下げ米三升につき、配給内地米一升という割です」
「それは暴利だ」食堂主と運送屋が一斉に叫んだので、菓子屋はいささか狼狽した。「払い下げ米はタダ同様だろ?」
「タダ同様じゃありませんよ」菓子屋は顔をぱっとあかくして必死に弁解した。「ちゃんとしかるべき値段を払っていますよ。しかし、諸君がそうおっしゃるなら、交換比率を改定してもよろしい。その用意はあります」
「あたりまえだよ」食堂主がきめつけた。「今までにあんたは相当儲(もう)けたな」
「儲けやしないよ」菓子屋はひらひらと掌を振った。「あんたんちの残飯と同じ程度だよ」
「皆さんがそんなに自分のことだけしかお考えにならないから」と院長は女金貸の方を掌で指した。「こちらから融資を受けねばならんということになり、また実際に融資を受けている。嘆かわしいことですな」
「金利はいくらだ」と運送屋が訊ねた。「まさか十一(トイチ)じゃあるまいな」
「おほほほほ」女金貸は手の甲で后をおおい、途方もなくいい声でわらった。「十一だなんて、そんなにわたしがむさぼるわけがないじゃないの。もう内輪揉(も)めは止しましょうよ。そんなこと、枝葉末節だわよ。ねえ先生」
「今日俵医師は出席しないのか」女金貸のながしめを受けとめて、教授が話題を転じた。「在院者の回転方法に関して、僕は俵医師の意見を聞きたいと思っていたのだが」
「先ほど申しました通り、当区の狂犬予防週間で」と院長が答えた。「そちらの仕事をやっているのです」
「今日のような大切な会議には」と運送屋が言った。「欠席されては困りますねえ。獣医だからそういうことになる。この際俵医師をクビにして、まっとうな人間の医者を雇うことにしたらどうですか」
「そうだよ」と食堂主が賛成した。「獣医は雇い賃が安い。しかし、安かろう悪かろうでは、かえって当院の損になる」
「俵医師を雇ったのは僕だがね」と教授がきらりと眼を光らせた。「獣医をえらんだのは、単に費用が安く上るからではない。君たちは人間医と獣医の心構えの差異を知っているか。人間医は人間の命を最高価値のものとして取りあつかう。ところが獣医はだね。たとえばここに一匹千円の犬がいて、それが病気になったとする。その病気を治すのに、千五百円の注射が必要だとする。その場合、獣医は決してその千五百円の注射液を使用しないものだよ。判るかね」
「なるほどねえ」と女金貸が相槌(あいづち)を打った。「注射液の方がその犬よりも、五百円がた高価な物質ってわけね」
「そうだ。まったく当院向きだ」教授は莞爾(かんじ)としてうなずいた。「それにしても俵医師の本日欠席はけしからんな」
「当区はとても狂犬が多いのです。都内随一の狂犬発生区なのです」と院長が説明した。「さきほど駅から当院までの道ばたに、犬が何匹もうろうろしていたでしょう。あれが全部野犬なのですよ」
『そいつはいけねえ』菓子屋が言った。「野放し犬が一番恐いんだ」
「在院者で誰か嚙まれた?」と女金貸。
「いや、まだ誰も」と院長。「どういうわけか当区の野犬は、爺さんには嚙みつかないようですな。旨くないからでしょう。嚙みつかれるのはたいてい働き盛りの男女です」
「もし嚙みづかれて、それが狂犬だったら、どうなるの?」
「発病したらもうたすからんね」と教授が説明した。「狂犬の唾液の中の狂犬病ビールスが、かみ傷から人体に入り、神経にとりついて脳の中に入りこみ、どんどん殖えて脳の細胞をメチャメチャに食い荒してしまう。それでかんたんに一巻の終りだ」
「怖いわねえ」女金貸はぞっと身を慄わせた。「帰りが怖いわ」
「狂犬のことはそれくらいにして」と教授は腕時計をちらと見た。「さっきの院長の責任制の間題だね、一ヵ月三人を割当てるという説が出たが、皆さんどうですか?」
「三人なんか飛んでもない!」院長は大声を立てて中腰になった。「三人なんか無茶ですよ。そんなに死ぬもんですか。当院の今までの歴史をしらべても、終戦前後の食糧悪事情の頃をのぞいては、月三人ということは絶対にありませんでしたよ」
「終戦前後はぞろぞろ死んだんだろ」と運送屋。「では、今にしても、やり方ひとつによっては、殺せない筈はない」
「そんなことをおっしゃるくらいなら」院長は興奮して卓をどんと叩いた。「当院に火をつけて、九十九名の爺さんもろとも、まる焼きにしたらどうですか。建物が古いから、火の回りは早いですよ。ただし、その炎上の責任はわたしは負いませんぞ」
「そりゃ無茶だよ。建物まで燃しては元も子もない。燃やしたいのは中身だけだよ」と運送屋が言い返した。「それにおれたちは、九十九人をいっぺんに死んで貰いたいとは言っていない。いっぺんにではなくて、順々に死んで貰いたいんだ。院長。一ヵ月三人。じたばたせずに引き受けたらどうだね」
「三人は無理です」院長は頑張った。「どうしても三人を押しつけるなら、わたしとしても辞職の他はない。辞めさせていただきます」
「じゃあ辞めて貰って」と運送屋は一座を見回した。「他に後釜を探しますか」
「どうぞお勝手に」院長はおどすように声をするどくした。「わたしが辞めると、後任の院長が来る。しかし世の中にはそうそう人物のいるわけがないから、今まで通りうまく行くと思ったら大間違いですよ。それに、ふつうの人間なら、院長と名がつけば、在院者の方を大切に考えるでしょうからねえ。わたしはいつでも院長の椅子を投げ出して、よろこんで後任と交替します。後悔なさらないように。黒須玄一みたいに都合のいい院長はいなかった。そうあとで考えても、もう遅いですよ」
「よし判った」教授がうなずき、にやりと笑った。「なかなかやるもんだねえ。どこかの首相みたいだ」
「わたしは信念をもってやっているのです」
「それじゃ院長さん」女金貸が院長にやわらかく言った。
「院長さんは一ヵ月に何人なら引き受けると言うの?」
「ええ、それはですねえ」院長は腕を組んで禿頭をかたむけた。「ええ、一ヵ月に一人というとこで、どうでしょう?」
「一人?」食堂主が眼を剝(う)いた。「するとこんな大きな所帯で、月々の収入がわずか十万円か」
「正式にはそうですが」院長は答えた。「他に羽根運動からの援助もありますし、菜園収穫物売却などの別途収入もありますので、最低の運営には差支えないと思います」
「一T人とは言いも言ったもんだ」運送屋が舌打ちをした。「全部入れ替わるのに、九十九ヵ月か。ああ、おれは気が遠くなる」
「一人を責任額にして、実はそれ以上毎月殺して、手当をごっそり稼ぐつもりだろう」と菓子屋。「ずるいぞ」
「あたしたちだって、ずいぶん犠牲をはらってるのにねえ」と女金貸。「院長だけがいい目を見るという法はないわ」
「院長」きんとんをもぐもぐ嚙みながら教授が言った。
「いくらかけ引きとは言え、皆の発言の通り、一ヵ月一人は無茶だよ。承服出来ないよ。では、我々もいくらか譲歩するから、君も大幅に歩み寄れ。な、一ヵ月二人半ではどうだね。そこらで妥協して手を打とうじゃないか」
[やぶちゃん注:「黄変米」ウィキの「黄変米」より引く(一部、私が補足した)。『黄変米(おうへんまい)とは、人体に有害な毒素を生成するカビが繁殖して黄色や橙色に変色した米のこと』。主に菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱 Eurotiomycetes ユーロチウム目 Eurotiales マユハキタケ科属アオカビ(ペニシリウム)属 (Penicillium) の『カビが原因となる。カビ自体は有害なわけではないが、カビが作り出す生成物が肝機能障害や腎臓障害を引き起こす毒素となる。カビ毒をマイコトキシン』(Mycotoxin)『と総称するが、総じて高温に強く』、『分解が困難なため』、『加熱殺菌によりカビ自体を死滅させても』、『毒素は無毒化されずに残存してしまう。黄変米はカビの拡散を防ぐためと毒素分解の必要性から高温で焼却して廃棄するのが最善の処理方法である』(とあるが、多くのアオカビ(ペニシリウム)属の種はマイコトキシンを産生しないため、これらが直接に重篤な食中毒の原因になることは殆どない。但し、アオカビが生えた食品では、他の有害なカビの増殖も進んでいると考えるべきではある。例外は次注参照)。『日本では戦後の食糧難の時代に外国から大量の米が輸入され、国民への配給が行われていた』が、昭和二六(一九五一)年十二月にビルマ(現在のミャンマー)より『輸入された6,700トンの米を横浜検疫所が調査したところ』、翌年の一月に約三分の一が『黄変米である事が判明し、倉庫からの移動禁止処分が取られた』。『すぐに厚生省(現厚生労働省)の食品衛生調査会で審議され、黄変米が1%以上混入している輸入米は配給には回さない事が決められた。基準を超えた米はやむを得ず倉庫内に保管されたが、その後も輸入米から続々と黄変米が見つかり』、『在庫が増え続けた。配給米の管理を行っていた農林省(現農林水産省)は処分に困り、黄変米の危険性は科学的に解明されていないという詭弁を用いて、当初の1%未満という基準を3%未満に緩和し』、『配給に回す計画を立てた。この計画が外部に漏れ、朝日新聞が』昭和二九(一九五四)年七月に『スクープしたことで世論の批判がおき、黄変米の配給停止を求める市民運動などが活発化することになる。在野の研究者も黄変米の危険性を指摘したが、政府は配給を強行し、配給に回されなかった米についても味噌、醤油、酒、煎餅などの加工材料として倉庫から出荷しようとした』。『この直後に厚生省の主導で黄変米特別研究会が組織され、農林省食料研究所の角田廣博士、東京大学医学部の浦口健二助教授などが黄変米の研究を開始した。研究会では、角田や浦口などの努力により極めて短期間に黄変米の高い毒性が解明される事になった』。『研究会の成果と、世論の強い反発のため』、『黄変米の配給は継続できなくなり、同年の』十『月には黄変米の配給が断念された。このため、黄変米の在庫は増え続ける一方となり、窮地に陥った政府は』昭和三一(一九五六)年二月、『明確な安全性の根拠が無いまま、黄変米を再精米し、表面のカビを削り落として配給を行う政策を再度発表』した。『だが、黄変米の在庫は減る事が無く』、『長期にわたって倉庫に保管され続けることになり、結局は再精米の上で家畜の飼料など食用以外の用途として』実に十『年間に』亙って『処分されたといわれている』。『なお、特別研究会に参加した角田は黄変米が発見された当初より』、『職を辞する覚悟で農林省に強硬に抗議した事が知られており、はじめの時点で1%基準が策定されたのも彼の尽力によるものが大きい。彼の努力が無ければ』、『黄変米の配給問題は誰にも知られずに闇に葬られていた可能性が高いと言われている』。『第二次世界大戦の影響で若い男性はすべて戦争に駆り出され』、『農村の労働力は枯渇していた。また、肥料をはじめとする農業資材も極度に不足していた。この状況で、復員兵や満州などからの帰還者が大量に日本国内に流入したため未曾有の食糧不足が発生した。当時の状況においては外国からの輸入物資に頼るほかに道は無かったが、肝心の外貨は底を突き、度重なる空襲によって生産設備は灰燼に帰していたので外貨の獲得手段も無かった』。『政府は少ない外貨を効率的に使用し、食料と復興のための必要物資を調達しなければならなかった。このため、外国で米を調達する際には価格優先で低品質のものを選択する以外なく、輸送船も荷物を安く運べさえすれば良いという選択肢を取らざるを得なかった。結果的に、輸送中に米にカビが生え』、『黄変米となってしまった。貴重な外貨で手に入れた物資だっただけに捨てる事もできず、新たに輸入するにはまた外貨が必要となるので、何とかして当初の目的どおりに使用しようと考えた為に発生した事件であ』った、とある(太字下線は私が本篇に語られる内容が事実であることを示すために附した)。
「イスランジャ菌」上のウィキの「黄変米」では、『黄変米の原因となる主要なカビ』として以下の菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科属アオカビ(ペニシリウム)属の三種が挙げられてある(一部に私が補足を加えた)。
・ペニシリウム・シトレオビライデ Penicillium citreo-viride(「シトレオビリデ」とも表記される。当初は「ペニシリウム・トキシカリウム」(Penicillium toxicariume)と名付けられていた。毒素としてマイコトキシンの一種シトレオビリジン Citreoviridin という神経毒を生成し、呼吸困難・痙攣を引き起こす)
・ペニシリウム・シトリヌム Penicillium citrinum(「シトリナム」とも表記される。毒素としてマイコトキシンの一種シトリニン citrinin を生成し、腎機能障害・腎臓癌を引き起こす)
・ペニシリウム・イスランディクム Penicillium islandicum(「イスランジウム」「イスランジクム」「イスランジカム」とも表記される。毒素として孰れもマイコトキシンの一種であるシクロクロロチン Cyclochlorotine(イスランジトキシン islanditoxin とも呼ぶ)・ルテオスカイリン Luteoskyrin を生成し、肝機能障害・肝硬変・肝臓癌を引き起こす)
さても、この最後のペニシリウム・イスランディクム Penicillium islandicum こそが俗名を「イスランジア黄変米菌」と呼ぶのである。「株式会社リンクス」のサイト「食品の二次汚染対策相談室」(同社藤川氏担当)の「ペニシリウム(Penicillium)属」を参照されたい。さらに、『日本植物病理学会報』(第二十号・昭和三一(一九五六)年発行・PDF)の『昭和30年度関西部会 於 神戸大学姫路分校 昭和30年10月16, 17日』とある中の、「139」ページ右の、堀道紀氏と山本功男氏の講演要旨『(46) Peuicillium tardum の寄生に因る黄変米について』の中に『イスランジヤ黄変米』という表記が見出せる。以上の記載には「日本マイコトキシン学会」公式サイトのこちらも参照して正確を期した。ある種の現代作家は平気でいい加減な架空の病気や、都市伝説染みた病原体・細菌・ウイルスをまともな文脈の中に登場させて平気な顔している無責任なケースがあるが、梅崎春生はちゃんと調べ上げて記していることが判る。
「十一(トイチ)」十日で一割という金利(利息)を取ることを指すが、現在では十日に二割や三割といった暴利を貪る高利貸全般を対象に「といち」または「といち金融」と呼んでいる。
「当区はとても狂犬が多いのです。都内随一の狂犬発生区なのです」これは何かの資料を調べれば、夕陽養老院及びその他のロケーションをかなり絞ることが出来るのだが、当時の東京都の行政区別の狂犬病発生数を見出すことは出来なかった。しかし「東京都福祉保健局」公式サイト内の「日本における狂犬病の発生状況」に載る「全国及び東京での犬の狂犬病発生数」を見ると、
昭和二八(一九五三)年 【全国】176頭 【東京都】128頭
昭和二九(一九五四)年 【全国】 98頭 【東京都】 47頭
昭和三〇(一九五五)年 【全国】 23頭 【東京都】 3頭
とある。なお、昭和三二(一九五七)年以降、ヒトでは全国的に発生はない(外地罹患帰国発症事例は除く)。
「狂犬病ビールス」狂犬病の病原体は第五群(一本鎖RNA -鎖)モノネガウイルス目 Mononegavirales ラブドウイルス科 Rhabdoviridae リッサウイルス属狂犬病ウイルス (Genotype 1)Rabies virus を病原体とするウイルス性の人獣共通感染症で、ワクチン接種を受けずに発病した場合、ほぼ確実に死に至る。確立した治療法はない。咬傷部から侵入した狂犬病ウイルスは、神経系を介して脳神経組織に到達して発症する。その感染の速さは、日に数ミリから数十ミリと言われており、従って咬傷を受けた部位が脳や中枢神経系から遠位であれば、咬傷後のワクチン接種処置の時間が稼げると言える。脳組織に近い傷ほど潜伏期間は短く、二週間程度で、遠位部では時に数ヶ月以上、事例の中には二年後という記録もあるという(ここはウィキの「狂犬病」他に拠った)。]