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2020/07/13

梅崎春生 砂時計 13

 

     13

 

 東寮のどん詰りの部屋で、ニラ爺の指圧の親指が、遊佐爺の背中に最後の一押しを加えた時、階上の院長室では、黒須院長が告示文の筆をおき、巨大なハンコをぺたりと押し終えたところであった。

 楷書の各字のはしばしが躍るようにはね上っているのは、黒須院長の胸の怒りであり、感情の乱れのゆえであった。ハンコを投じ、じっと自分の字に見入った院長ののど元に、やがてにがい侮いと恥じがじわじわとこみあげてきた。

「ああ、こんなに書体が乱れるとは、まだまだわしも精神修養が足りない」回転椅子をぎいと鳴らしながら院長はつぶやいた。「この告示文は、とても人前には出せん。書き直すとするか」

「ああ、いい気持だった」遊佐爺はがさがさと起き直り、衣服の乱れをととのえた。「今夜の指圧は、とてもよく利(き)いた。これで元気が出てきたぞ。ニラ爺さん。指圧代はツケにしといてくれや」

「この前の分も、前々の分もまだ貰ってないで」ニラ爺は疲れたような情ない声を出した。「煙草代にも不自由――」

「今ここに持ち合わせがない。部屋に戻ったら払う!」そして遊佐爺は、窓ぎわに立つ見張り爺に声をかけた。「院長室はどうだね」

「異状なし」

「動き回る気配なし」

 見張り爺の声が、直ちに戻ってきた。

「よし。それではそろそろ、行動を開始するかな」遊佐爺は重々しくしわぶいて、部屋の中をぐるりと見回した。「いきなり会見に出かけるよりも、先ず使者を一人出して、通告させた方が、重みがついてよかろうと思うが、どうだな」

「うん。それがいいな」滝川爺が同感の意を表した。「俺が行こうか」

「いや、滝爺さんよりも――」遊佐爺の視線はふたたび部屋中をひと回りした。なにごとかを予感したかのように、ニラ爺は肩をすくめて躰(からだ)を小さくした。その動作がかえってニラ爺の存在を遊佐爺に教えたようなものであった。遊佐爺は言葉をついだ。「ニラ爺さんの方がよかろう。かんたんな仕事だから、ニラ爺さんにも結構つとまるだろう」

「へっ」ニラ爺は更(さら)に身体を縮めた。

「ニラ爺さん」と遊佐爺は呼びかけた。「たびたび御苦労だが、院長室におもむいて、今から一同会見したいと思うが、都合はどうだと、海坊主に訊(たず)ねてくれ。そら、お駄賃に、煙草を一本やる。ピースだぞ」

「へっ」ニラ爺は煙草を受取り、火をつけて旨(うま)そうに吸い込んだ。

「都合はどうだ、などとはなまぬるい」部屋のすみからウルサ型の柿本爺が異議をとなえた。「会見に行くから用意をととのえておけ、そう言うのが本筋だ」

「そうだ。そうだ」松木爺が賛成した。「茶菓の用意ぐらい、向うにととのえさせるべきだ。なにしろ重要会談だからな」

「海坊主は相当なしたたか者だから、会見日時の変更を申し出るかも知れない」そして柿本爺はニラ爺を見据えるようにした。「ニラ爺さん。会見の目取りを明日にしてくれとか何とか、海坊主が言い出したら、絶対にダメだと答えるんだよ。即刻会見だ。判ったな。向うにそれを承知させるまでは、戻って来てはいけないぞ。さ、元気を出して、直ぐ出かけなさい。なに、相手を海坊主と思うから怕(こわ)いような気分になるんだ。影法師だと思えば何でもない。影法師と思うんだよ、影法師と!」

「へえ、影法師」

「そうだ。影法師だ」遊佐爺が口をそえた。「影法師で、でくの棒だ。恐れずひるまず、堂々と出かけなさい」

「へっ」ニラ爺は煙草をごしごしともみ消し、吸いがらを耳に大切そうにはさんだ。困惑したような立ち上り方をした。

「しっかりやってくるんだよ。首尾よく使命を果たしたら、またピースを一本上げるからな」

「へえ」入口のところでニラ爺は立ちどまり、一同をふり返って、何か言おうとしたが、そのまま諦(あきら)めたように顔をゆがめて、その姿は廊下に消えた。

「使う。使う」廊下をぼとぼとと足をひきずって歩きながらニラ爺はつぶやいた。「偵察には出されるし、使者には出されるし、ついでに指圧もさせられて、そのお代はツケとくるしなあ。もしこの俺が雑巾だとすれば、とっくの昔にすり切れてるわ」

「どうもニラ爺の奴はたよりないなあ」足音がすっかり遠ざかって消えた時、滝川爺が嘆息して言った。「一体あいつは何を考えているんだろう。俺たちが動かなきゃ、あいつは追い出されてしまうのになあ」

「ほんとにたよりない」松木爺が相槌(あいづち)を打った。「筋金というものが全然入っていない。まるで人生の落伍者だ」

「今夜の交渉委員にニラ爺を加えるのは」と滝川爺。「わしは反対だ。あんなのを加えたって、何の役にも立たんぞ」

「まあ、いいさ」と遊佐爺がなだめ役に回った。「だんだんやっているうちに、少しずつシャンとしてくるさ。交渉委員にも入れて、空気に馴れさせた方がいい。おい、見張り爺さん、まだ院長室に到着した気配はないか」

 ニラ爺は手すりにすがって、階段を力なく登っていた。疲れのせいでもあったが、黒須院長に会って話すことを考えると、とたんに足から力が抜けてしまう。手すりは湿気と脂(あぶら)でじとじとしていた。ニラ爺はそれにすがって、やっと二階の床面を踏んだ。遊佐爺が見張りにまた声をかけた。

「まだか」

 黒須院長は院長卓に頰杖をつき、視線を宙にぼんやりと浮かせていた。さっき大串の鰻(うなぎ)を詰めこみ過ぎたので、その満腹感がしきりにねむけを誘ってくるようであった。告示文を書き直すのも面倒くさかった。その時、扉をコツコツと叩く音がしたので、黒須院長はハツと頰杖を外し、大急ぎで威儀をととのえた。

「栗山書記か?」と院長はいかめしい声を出した。「電報を見たか。入れ」

 扉の外からぼそぼその答えが聞えた。それは栗山佐介書記の声ではなかった。院長はさらに声を大きくした。

「誰だ。入れ」

 ノブがゆっくりと回り、扉が半開きにされて、そこからニュッとニラ爺の顔がのぞきこんだ。ニラ爺は顔だけのぞかせて、身体の方はおどおどと逃げ腰のかまえになっている。

「なんだ。ニラ爺さんか」拍子が抜けたように院長は言った。「何か用事か。入っておいで」

 ニラ爺は身を横にして部屋に入り、扉をしずかにしめた。扉をしめたとたんに、ニラ爺の度胸はやや定まった。扉をしめた以上は、使命を果たさねば東寮に戻れない。ニラ爺は勇気を出してつかつかと院長卓まで歩いた。椅子にちょこんと腰をおろし、卓をはさんで院長とむかい合った。東寮の階下の部屋で、見張り爺が叫んだ。

「今入って行ったらしい。窓に影が動いたぞ」

「院長室まで行くのに」松木爺がにがにがしげにはき出した。「一体何分(なんぷん)かかるんだ。這って行くんじゃあるまいし」

 ニラ爺は耳からピースの吸いさしを外し、気持をはげますために口の中で、影法師、影法師、とつぶやいてみた。そのニラ爺の一挙一動を、黒壕院長は眼をするどくして、黙って観察している。ニラ爺は勇気をふるって、わざと乱暴な言葉使いをした。

「院長。マッチを貸して呉れ」

(怒るな。怒るな。怒ると失敗するぞ)黒須院長は心の中で念じながら、唇を真一文字に閉じ、手元のマッチをぽいと放り投げた。それはさっきの鰻屋の広告マッチで、鰻が三匹にょろにょろ這(は)っている絵が印刷してあった。(ニラ爺はきゃつ等の手先だ。慎重に、慎重に!)

 ニラ爺はマッチを手にして、吸いさしに点火した。緊張のため手がふるえている。ゆたゆたと煙をはきながら、院長と同じやり方で、ニラ爺はぽいとマッチを投げ戻した。そしてその時初めて、ニラ爺は卓上に拡げられた告示文を見た。そのはねおどるような文字の羅列と朱色の院長印を見た時、ニラ爺はもう目がくらくらして、思わず大声を出した。

「院長!」ニラ爺は防禦と威嚇(いかく)をかねて、やせた肩をぐいとそびやかした。「院長はどうあっても、この俺を、ここから追い出すつもりか」

 告示文をさしはさんで、巨軀魁偉(きょくかいい)の黒須院長と小軀矮身(わいしん)のニラ爺は、一瞬緊張してじっとにらみ合った。

「そのつもりでない」三十秒ばかりの沈黙の後、黒須院長は意識的にすご味をきかせて、ゆっくりと発言した。「わたしの要求するところはリヤカー弁償金の支払いだ。一万二千円さえ納めてくれれば、誰も出て行けとは言わないのだ」

「一万二千円!」ニラ爺の声はふるえて、そのまま絶句した。

「そうだ」黒須院長は重々しくうなずいた。「一万二千円だ」

 ニラ爺の無理にそびやかした肩が、見る見るうちになだらかになり、膝に乗せた双の掌がぶるぶるふるえ出した。悲哀と絶望がニラ爺をうちのめした。ニラ爺の眼にあふれてくる粘密度のうすい涙の色を黒須院長は冷静な視線で観察していた。涙はとうとう筋になって、皺(しわ)くちゃの頰をすべり落ちた。

「用事はそれだけかね?」院長もやや心を動かされたらしく、語調をやわらかにした。

 その声でニラ爺ははっと本来の使命を思い出し、掌でごしごしと頰の涙をぬぐいとった。

「今直ぐに、遊佐爺さんたちが、ここに会見にやってくるよ。用意をととのえなさい」

「なに?」院長はちょっと戸惑った。「ニラ爺さんはそれをわざわざ注進に来たのかね?」

「そうだよ」

「そりゃ有難う」黒須院長はそれを、ニラ爺の親切心とかんちがいして、ニコニコしながら声を更(さら)にやさしくした。

「用意はあらかたととのっているよ。あとは栗山書記の到来だけだ」

「お茶にお菓子、そんなものを用意しとけって、松木爺さんが言っとったよ」

「なに?」いったんゆるめた頰の筋肉を黒須院長はぐっと引きしめた。「お前さんはあいつらのお使いでやって来たのか?」

「そうだよ」ニラ爺は手にしたピースの吸いさしを、巨大な灰皿の中に投げこんだ。吸いさしはさっきの涙で濡れ、火もすっかり消えて、吸えなくなっていた。

 黒須院長は牛のようなうなり声を発した。そして探るようなきびしい視線でニラ爺を見た。ニラ爺も影法師、影法師と念じながら、勇気を出して見返した。やがて院長が口を開いた。それは堅い、押しつけるような声であった。

「栗山書記が来てから、会談を開く。それまでは会談に応じられないと、そう皆につたえておけ」

「それじゃあ困るのや」押されてはならじと、ニラ爺はなだらかな肩を、テコでも入れたようにぐっとそびやかした。「それでは俺はみんなのところに戻れん」

 そのままの姿勢で一分間ほど、大きな壮者と小さな老者は、黙ってお互いの顔を見詰め合っていた。その一分の間に、黒須院長の胸の中で、あるたくらみがハッキリと結実した。院長の表情はとたんに老獪(ろうかい)なゆるみ方をした。

「なあ、ニラ爺さん」

 院長は猫撫で声で呼びかけ、詰襟服のポケットから煙草を出し、身ぶりでそれをニラ爺にすすめた。ニラ爺は手を出さず、警戒の色をとかなかった。やむなく院長は一本引き抜き、自分でそれを吸いつけた。

「ここを追い出されたくないというあんたの気持は、わたしにも良く判っている。それにリヤカー破壊は、あんたの悪意ではなく、過失じゃな」

「そうだよ」

「その点においてだね」院長はわざとらしく目尻を細くした。「情状酌量の余地があるということを、わたしは明日の経営者会議において、経営者たちに力説しようかと思っているんだ。幸いにその説が通ったならば、あんたは退院しないですむわけだ」

 ニラ爺さんはきょとんとした顔で院長を見た。

「この告示文も――」院長は告示文をがさがさと畳みながら「それまでは掲示しないことにしよう。そして階下の告示文は破り捨てることにする」

「へえ」ニラ爺はわけも判らないまま、かすかに頭を下げた。

「さっき見たが――」院長の声はますますやさしくなった。「階下の掲示に、小学生みたいないたずら書きのあとがあったな。無邪気な爺さんもあればあったものだ。はっはっはあ」

 院長は高笑いをしながら、ふたたび煙草の箱をぬっと突き出した。ニラ爺はつられたように一本引抜き、ちょっと押しいただいた。院長は素早くマッチをすり、腰を浮かせてニラ爺の方にさし出した。

「年をとると、皆童心にかえる。大へんいいことだなあ」ますます好機嫌な表情に院長はなった。「時に訊ねるが、あの、海坊主、というのはどういう意味だね?」

「へえ」ニラ爺の顔はとたんに困惑の色をたたえた。「ヘヘ、ヘヘヘ」

「な、どういう意味か、あんた知っとるだろう」

「そ、そこにいるやないか」

「どこに?」ぎょっとしたように院長はあたりを見回した。

「そ、そこだよ」ニラ爺は院長を真正面から指差した。「そこに坐ってるやないか」

「わ、わたしのことか!」

 院長のこめかみの血管がたちまち怒張した。しかし院長の表情は、おどろくべき自制力によって、依然たるやわらぎを保持していたのだ。青筋を立てたまま院長はニコニコ笑っていたのだ。

「そうか。わたしのことか。なるほどな、海坊主とはよく

言ったもんだ。ハ、ハ、ハ」

「ヒ、ヒ、ヒ」とニラ爺も笑いの合唱に加わった。

「ついでに聞くが、書いたのは誰だね?」

 ニラ爺は突然笑いをおさめて、ふたたび警戒の色を取り戻した。そして煙草をごしごしともみ消した。沈黙が来た。

「ニラ爺さんは、沖禎介――」すこし経ってやや沈痛な調子で院長が切り出した。「沖禎介、横川省三という人を知っているだろう」

「ロシヤ軍に、殺された、人だろう」ニラ爺は記憶を探りながら、とぎれとぎれに答えた。「わしはその頃、たしか小学生、だった」

「そうだ」院長は大きくうなずいた。「このおふた方は日本帝国のために、ロシヤ軍の後方に潜入して敵情を探られたのだ。その結果、チチハル付近にて不幸にもとらえられ、明治三十七年二月、ハルビンにおいて銃殺をうけられた。自分をむなしくして国に殉死(じゅんし)せられた、まことに立派な人たちだ」

「へえ」

「もし今も生きていられれば、是非ともこの夕陽養老院に御入院下さいと、お願いしたくなるような見事な人たちだ」そして院長は急に声をひそめた。「この夕陽養老院にも、ごく少数ではあるが、たとえばパルチザンみたいな悪い考えをもった爺さんがいる。わたしが追い出したく思っているのは、あんたみたいな善良な爺さんではなくて、むしろこの人たちなのだ。判るね」

「へえ」怪訝(けげん)そうにニラ爺は顔を上げた。

「だからこそわたしは、明日の会議において、あんたの無罪を主張するつもりなのだ。わたしに任せなさい」院長は自分の厚い胸をどんとたたいた。胸板はたのもしげな音を立てて鳴った。「そのかわりにあんたは、夕陽養老院のために挺身して、沖、横川になって貰いたいのだ。なってくれれば、もちろん在院は保証するし、毎日の煙草代ぐらいは支給するよ」

「まだ動く気配はないか」松木爺がいらいらした声で言った。

「まだそのままだ」と見張り爺。

「一体何をしてやがるんだろう」

「うまくまるめこまれてるんじゃなかろうか」

「きっと頑張っているんじゃよ」遊佐爺が弁護役に回った。「承知させるまでは戻ってきちゃいかんと、柿本さんが釘をさしただろう。だからニラ爺さん、必死に頑張っているんだろう。人間というものは、わしの七十八年の経験によると、その気になればシャンと性根が入るものだ。どれどれ、わしが今度は見張りに立とう」

 遊佐爺は立ち上ってウンと腰を伸ばし、窓ぎわに歩み寄った。しとしとと降る雨のかなたに、院長室の曇りガラスの窓が煙っている。その乳色の窓に、動くものの影はなかった。

「へえ……オキ……ヨコガワ」

 ニラ爺はとぎれとぎれにつぶやいた。そのニラ爺の顔を、犬の調練士のような緊張した視線で、黒須院長は見守っていた。

「そうだ。沖、横川だ。正義殉国の士だ」院長はそそのかすように語調を強めた。「あの、海坊主、と落書きしたのは、誰だね」

「へえ」苦悶と昏迷の影がニラ爺の顔を一瞬よぎった。

「へえ、あ、あれは、松木、爺さん」

「もひとつの、なんとか横暴、というやつは?」と院長はたたみかけた。

「遊、遊佐爺さんです」

「よろしい」莞爾(かんじ)たる微笑がほのぼのと院長の面(おもて)にのぼってきた。院長は満足げに顎鬚をしごき、声を低くした。「今から情報蒐集(しゅうしゅう)、秘密探知の要領、それをこちらに伝達する要領を教えて上げよう。椅子を持って、こちらに回ってきなさい。くれぐれもこのことは秘密にしておかねばいけないよ」

 ニラ爺さんの顔は、仲間を裏切ることの緊張のために、一面に汗の玉がふき出ていた。言われた通り椅子をかかえて、大きな院長卓をよたよたと回った。幸いに回ったのは窓ぎわの方ではなかったので、曇りガラスに影をうつさずにすんだのだ。

「まだそのままか?」待ちくたびれて柿本爺がうんざりした声を出した。「ニラに任して置いたら果てしがない。そろそろ勢ぞろいして出かけようじゃないか」

「まあ待ちなさい」窓ガラスに頰を押しつけたまま遊佐爺が言った。「これはニラ爺さんの初の大仕事だぞ。大仕事であるだけに、わしは完遂させてやりたいと思う。完遂するのとそうでないのとは、今後のニラ爺の仕事の自信にも、大いに関係してくるからな。もう少し待ってやろうじゃないか」

 院長室では院長とニラ爺が、大きな顔と小さな顔、脂(あぶら)ぎった顔としなびた顔を突き合わせるようにして、しきりに密談にふけっていた。もっともしゃべっているのは院長の方だけで、ニラ爺はほとんど口をきいていなかった。ニラ爺は苦しそうに、また迷惑そうに、しきりに貧乏ゆすりをしながら、放心した視線をあちこちに動かしていた。

[やぶちゃん注:「沖禎介」(おきていすけ 明治七(一八七四)年~明治三七(一九〇四)年)は明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事していたが、明治三四(一九〇一)年に中国に渡り、北京の日本語学校東文学社の教師となり、明治三六(一九〇三)年には自ら文明学社を設立した。明治三七(一九〇四)年、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑された。処刑に際して当初は絞首刑が予定されていたが、彼らの態度が立派だったため、現地の司令官がロシア皇帝ニコライⅡ世に請願して銃殺刑に変更されたとされている(以上は概ねウィキの「沖禎介」に拠った)。

「横川省三」(よこかわしょうぞう 元治二(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)は明治期の新聞記者・スパイ。南部盛岡藩出身。初名は勇治で、勇次のペン・ネームで活動することもあった。旧姓は三田村・山田(兵役逃れの目的で「徴兵養子」となったため)。若い頃には自由民権運動に加わり、「加波山事件」(明治一七(一八八四)年九月に発覚した、民権運動を厳しく弾圧した栃木県令三島通庸らに対する爆殺暗殺未遂事件。事前に発覚)により投獄された。また、明治二〇(一八八七)年には「保安条例」施行に伴い、自由民権運動家伊東圭介(後に衆議院議員)とともに皇居周囲三里以内からの追放を命ぜられている。その後、『朝日新聞』記者として、海軍軍人郡司成忠の千島列島探検隊に同行した特派員や、日清戦争の従軍記者などで活動をしたが、その後は記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。日露戦争開戦に際しては、北京公使館の内田康哉(やすや)清国公使に招かれ、青木宣純陸軍大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、沖禎介とともに特殊工作に従事した。ロシア軍の東清鉄道(ロシア帝国が満洲に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河(すいふんが)へと続く本線及びハルビンから南下して大連・旅順へと続く支線からなる。ロシアは先の日清戦争直後の日本による遼東半島領有を三国干渉で阻止した見返りとして一八九六年に清の李鴻章から満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた)爆破任務のため沖とともにラマ僧に変装して満州に潜伏したが、チチハルにて捕縛され、ハルピンで沖とともに銃殺刑に処された(以上も概ねウィキの「横川省三」に拠った)。]

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