柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 三
三
『猿蓑』が出版された元禄四年も、芭蕉はなお多くの時を京洛(けいらく)附近の地に過しつつあった。特に四月十八日から五月四日まで、半月余の日子(にっし[やぶちゃん注:日数に同じい。])を落柿舎に送ったことは、芭蕉と去来との交渉を討(たず)ねる上において、最も重要な資料になっている。
はじめ芭蕉が嵯峨に遊んで落柿舎に到った時は、凡兆も一緒であったが、日暮になって京ヘ帰った。「予は猶しばらくとゞむべきよしにて」というのは、けだし最初から去来の計画だったのであろう。舎中の一間を芭蕉の居間と定め、「机一、硯、文庫、白氏文集、本朝一人一首、世継物語、源氏物語、土佐日記、松葉集を置、唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子をもり、名酒一壺盃そへたり」という心遣いを示した。加うるに「夜のふすま調菜の物ども京より持来てまづしからず」という有様であったから、芭蕉をして「我貧賤をわすれて清閑をたのしむ」の感あらしめたのも偶然ではなかったのである。
[やぶちゃん注:以上の引用は芭蕉の「嵯峨日記」の冒頭、元禄四(一六九一)年四月十八日の記載である。「予」は芭蕉であるので注意。正字で全文を示す(「新潮日本古典集成」の「芭蕉文集」を参考に漢字を恣意的に正字化して示した)。
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元祿四辛未(しんび)卯月十八日、嵯峨に遊びて去來が落柿舍に至る。凡兆、共に來たりて、暮に及びて京に歸る。予はなほ暫く留(とど)むべき由にて、障子つづくり、葎(むぐら)引きかなぐり[やぶちゃん注:雑草を引き抜いて。]、舍中の片隅一間(ひとま)なるところ、臥所(ふしど)と定む。机一つ、硯・文庫、「白氏文集(はくしもんじふ)」・「本朝一人一首」・「世繼物語」・「源氏物語」・「土佐日記」・「松葉集」を置く。ならびに唐(から)の蒔繪(まきゑ)書きたる五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一壺(いつこ)、盃(さかづき)を添へたり。夜の衾(ふすま)・調菜(てうさい)[やぶちゃん注:副食品の素材材料。]の物ども、京より持ち來たりて乏しからず。わが貧賤をわすれて、淸閑に樂しむ。
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「本朝一人一首」は林鵞峰(はやしがほう)編の漢詩集で寛文五(一六六五)年跋で同年板行。「世繼物語」は「栄花物語」と「大鏡」の異名。「松葉集」は宗恵編で万治三(一六五八)年板行の「松葉名所和歌集」のこと。「菓子」は果物や餅菓子といったものを広く指す。]
当時の落柿舎の模様については、去来は「嵯峨にひとつのふる家侍る」といったのみで、多くを語っておらぬが、芭蕉の記すところに従えば、「落柿舎はむかしのあるじの作れるまゝにして処々類破す。なかなかに作りみがゞれたる昔のさまよりも、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫せし梁[やぶちゃん注:「うつばり」。]画る[やぶちゃん注:「ゑがける」。]壁も風に破れ雨にぬれて、奇石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたる」云々とあって、昔は相当立派なものだったことが想像される。そういう家の頽破に赴いた一間に、寂然として坐っているのは、幻住庵ともまた違った趣があって、いたく芭蕉の閑情に適したものであろう。来た翌日臨川寺に詣で、小督(こごう)やしきと称する処を訪ねたりとしたのと、曾良が訪ねて来た日、「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ)をのぼる」とある位のもので、余は全く落柿舎に籠って清閑の気分に浸っていたらしい。客もなく、去来も来ず、雨が降って寂しい日などは、芭蕉一流の含蓄の多い「むだ書」[やぶちゃん注:「むだがき」。]をして遊んだのであった。子規居士はこの嵯峨滞在当時の芭蕉を評して、「この頃の俳句を見るに、全く覇気を脱し円満老熟す。されば人を驚かすの意匠もなく、一通りの事を詠み出でたる如く見ゆれど、境[やぶちゃん注:「きやう」。]と合ひ分(ぶん)に安んずる芭蕉の心情は藹然(あいぜん)としてその中にあらはるるを覚ゆ」といっているが、『嵯峨日記』一巻を世にとどめたについては、芭蕉をして清閑を満喫せしめた去来の功を首(はじめ)に置かねばならぬ。但(ただし)去来の句は『嵯峨日記』には殆ど見えていない。僅に途上所見として語った
つかみあふ子供のたけや麦ばたけ 去来
が録されているのみである。
[やぶちゃん注:「嵯峨にひとつのふる家侍る」は去来の書いた俳文「落柿舎の記」の冒頭。短いので全文電子化する。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年第七高等学校国語科編「俳諧文選 附・俳句連句選」に載るものを視認した。読みは小学館「日本古典全集」の「近世俳句俳文集」所収のものを参考に歴史的仮名遣で添えた。「友どち」のみ、「近世俳句俳文集」で底本の『友だち』とあるのを訂した。句の「柿」はママ。
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落柹舍ノ記 去來
嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柹の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持ち來らず、代(しろ)がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥(わうしやう)が志(こころざし)にもはぢよ、もし鳶(とび)烏(からす)にとられなば、天(あめ)の帝(みかど)のめぐみにもゝれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月(はづき)の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより、商人(あきうど)の來り、立木(たちき)に買ひ求めんと、一貫文さし出(いだ)し悅びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ聲、よすがら落ちもやまず。明くれば商人の見舞來たり、梢つくづくと打詠め、我(われ)むかふ髮(がみ)の比(ころ)より、白髮(しらが)生(お)ふるまで、此事を業(わざ)とし侍れど、かくばかり落ちぬる柹を見ず。きのふの價(あたひ)、かへしくれたびてんやとわぶ。いと便(びん)なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友どちの許(もと)へ消息(せうそこ)送るとて、みづから落柹舍の去來と書はじめけり。
柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山
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元禄二(一六八九)年の稿。但し、去来が洛西の嵯峨にこの別荘の持ったのは貞享三(一六八六)年のことであった。少し語注する。
・「代(しろ)がゆる」「代」は「代金」の意で、「金に換える」の意。
・「このみ」「木の実」柿の実。それを留守居の者が収穫して私の所に持って来るということもしないというのである。
・「屋敷もる人」は「屋敷守る人」で留守居の管理人。
・「王祥が志」とは「晋書」(唐の房玄齢らの撰)の「巻三十三 列傳第三」の「王祥」に「有丹奈結實、母命守之、每風雨、祥輒抱樹而泣。其篤孝純至如此。」(丹奈(たんな)有り、實を結ぶ。母、命じて之れを守らしむ。風雨の每(ごと)に、祥、輒(すなは)ち樹を抱きて泣く。其の篤孝、純至なること、此くのごとし。)とある。「丹奈」は唐梨、紅林檎の類。
・「一貫文」一両の四分の一。
・「むかふ髮の頃」前髪にしていた幼少の頃。
・「侘ぶ」しょんぼりとしている。
・「便なければ」気の毒に感じたので。
・「ゆるしやりぬ」許して金を返してやった。
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「芭蕉の記すところに……」以下は「嵯峨日記」より。まず、元禄四(一六九一)年四月二十日。前に同じく「新潮日本古典集成」を参考に恣意的に漢字を正字化した。
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二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(うこうに)來たる。
去來京より來たる。途中の吟とて語る。
つかみあふ子共の長(たけ)や麥畠
落柿舍は、昔のあるじの作れるままにして、ところどころ頽破す。なかなかに、作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫り物せし梁(うつばり)、 畫(ゑが)ける壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石・怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるに、竹緣(たけえん)の前に柚(ゆ)の木一もと、花かんばしければ、
柚の花や昔しのばん料理の間(ま)
ほととぎす大竹藪をもる月夜
尼羽紅
又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山
去來兄の室より、菓子・調菜の物など送らる。
今宵は羽紅夫婦をとどめて、蚊帳一はりに上下(かみしも)五人こぞり臥したれば、夜も寢(い)ねがたうて、夜半(よなか)過ぎよりおのおの起き出でて、晝の菓子・盃(さかづき)など取り出でて、曉近きまで話し明かす。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に臥したるに、二疊の蚊帳に四國の人臥たり。「思ふ事よつにして夢もまた四種(よぐさ)」と、書き捨てたる事どもなど、言ひ出だして笑ひぬ。明くれば羽紅・凡兆、京に歸る。去來、なほとどまる。
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・「羽紅尼」「凡兆」で見た通り、凡兆の妻。
・「昔のあるじ」元の持ち主は豪商であった。
・「尼羽紅」「又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山」この前書は以下の句の作者であることを示すものであるので注意されたい。
・「去來兄の室」去来の長兄で医師であった向井元端(げんたん)の妻多賀(たが)。
より、菓子・調菜の物など送らる。
・「去年の夏」芭蕉は前年の元禄三年夏にも京に上っていた。
・「四國」「しこく」であるが、四つの別々な国の出の人の意。具体的には伊賀国の芭蕉・肥前国の去来・尾張国の丈草・加賀国の凡兆。
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「来た翌日臨川寺に詣で、小督(こごう)やしきと称する処を訪ねたりとした」「嵯峨日記」四月十九日の条。
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十九日 午(うま)の半ば、臨川寺(りんせんじ)に詣づ。大井川前に流て、嵐山(あらしやま)右高く、松の尾里に續けり。虛空藏(こくうぞう)に詣づる人行きかひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷(こがうやしき)といふ有り。すべて上下(かみしも)の嵯峨に三ところ有り、いづれか確かならむ。かの仲國(なかくに)が駒をとめたる所とて、駒留(こまどめ)の橋といふ、こあたりにはべれば、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪(やぶ)の内にあり。しるしに櫻を植たり。かしこくも錦繡綾羅(きんしうりようら)の上に起き臥して、 つひに藪中(そうちゆう)に塵芥(ちりあくた)となれり。昭君村(せうくんそん)の柳、巫女廟(ふぢよべう)の花の昔も思ひやらる。
憂き節や竹の子となる人の果て
嵐山藪の茂りや風の筋
斜日に及びて落柿舍に歸る。凡兆、京より來たり、去來、京に歸る。宵より臥す。
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・「牛の半ば」正午過ぎ頃。
・「臨川寺」亀山天皇の離宮を禅寺とした臨済宗霊亀山臨川寺。夢窓国師の開基で景勝の地。落柿舎の東南一キロメートルほどの位置(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある。
・「大井川」渡月橋付近での名。ここから上流は保津川、下流は桂川と呼ぶ。
・「松の尾の里」嵐山南麓の現在の松室北松尾(まつむろきたまつお)。
・「虛空藏」行基の開基と伝える真言宗智福山法輪寺の本尊。桂川の落柿舎の対岸にある。
・「小督屋敷」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために退けられて嵐山に隠棲した屋敷。この頃既に嵯峨中に三ヶ所もあったというほど、既に遺跡は定かではなかったのである。現在、法輪寺の対岸に「小督塚」があるが、そこがその一つ。但し、ここでの芭蕉のそれは先の松尾で違う。
・「仲國」源仲国。「平家物語」によれば、高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされる。その際に馬を繋いだ場所が「駒留の橋」(渡月橋の下流直近にあった小橋とされるが、不詳。現在の小督塚とは渡月橋で対称位置の別な場所である。芭蕉の謂いから当時、既にこの橋はなかった模様である)。芭蕉はこの辺りが本当の小督屋敷跡らしい推察している。なお、仲国は宇多源氏で、源実朝と一緒に義時と誤認されて鶴岡八幡宮社頭で公暁に殺害された源仲章の兄である。
・「錦繡綾羅」錦の刺繡を施した織物と、高級な綾絹や薄絹で、高級で豪華な褥(しとね)のことであるが、ここは天皇に侍しての宮中の華麗なる生活を追懐したもの。
・「昭君村」「巫女廟」「白氏文集」の「峽中(けふちゆう)の石上(せきしやう)に題す」の詩の起・承句による。
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題峽中石上 白居易
巫女廟花紅似粉
昭君村柳翠於眉
誠知老去風情少
見此爭無一句詩
巫女廟(ふぢよべう)の花 紅きこと 粉(こ)に似て
昭君村の柳 眉(まゆ)よりも翠(みどり)なり
誠に知る 老い去れば 風情 少なけれど
此れを見れば 爭(いかで)か 一句の詩 無からん
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・「巫女廟」楚の懐王が夢の中で見た巫山(ふざん)の女神を祀った廟。
・「昭君村」とは漢の悲劇の美女王昭君の生まれた村の意。彼女は紀元前三三年、元帝の命により、匈奴の呼韓邪単于 (こかんやぜんう) に嫁し、寧胡閼(ねいこえん)氏と称した。単于の没後、再嫁したが、漢土を慕いながら、遂に生涯を胡地に送った。
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『曾良が訪ねて来た日、「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬をのぼる」』「嵯峨日記」五月二日の条。
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二日
曾良來りてよし野の花を訪ねて、熊野に詣で侍る由(よし)。
武江(ぶかう)舊友・門人の話、彼かれこれ取りまぜて談ず。
熊野路や分つつ入れば夏の海 曾良
大峰(おほみね)やよしのの奧を花の果て
夕陽(せきやう)にかかりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて[やぶちゃん注:ママ。]戶難瀨(となせ)をのぼる。雨降り出でて、暮に及びて歸る。
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・「武江」武蔵国。江戸。
・「大峰」この句も曾良のもの。吉野の奥の修験道場のメッカ。
・「戶難瀨」渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所で歌枕。
*
「むだ書」「嵯峨日記」の四月二十二日の条前半に(後半は略したので注意)、
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二十二日
朝の間、雨、降る。今日は人もなく、さびしきままに、むだ書きしてあそぶ。その言葉、
[やぶちゃん注:以下、参考本では二字下げ。前後を一行空けた。]
喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飮み者は樂しみをあるじとす。
「さびしさなくば憂(う)からまし」と西上人(さいしやうにん)[やぶちゃん注:西行。]のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。
また、詠める、
山里にこは又誰(たれ)を呼子鳥(よぶこどり)
ひとり住まむと思ひしものを
ひとり住むほど、おもしろきはなし。
長嘯隱士の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂、此言葉を常にあはれぶ。予もまた、
憂き我をさびしがらせよ閑古鳥(かんこどり)
とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。
*
・「喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飮み者は樂しみをあるじとす」「荘子」の「雑篇」の「漁父」篇に出る、「飮酒以樂爲主、處喪以哀爲主」(酒を飮むものは樂しみを以つて主(あるじ)と爲(し)、喪に處(よ)るものは哀しみを以つて主と爲(す))に基づく。
・「さびしさなくば憂からまし」西行の「山家集」の、
とふひとも思ひ絕えたる山里の
さびしさなくば住み憂からまし
を指す。
・「山里にこは又誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを」これは西行の「山家集」所収の、
山里に誰をまたこは呼子鳥ひとりのみこそ住まむと思ふに
の記憶違い。
・「長嘯隱士」武将で俳人の木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号「長嘯子」の略。「去来 二」に既出既注。以下の引用は彼の「挙白集」に、『やがてここを半日とす。客はそのしづかなることを得れば、我そのしづかなるを失ふに似たれど、思ふどちの語らひは、いかで空(むな)しからん』の前半の絶対性を示したもの。
・「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」「ある寺にひとり居て言ひし句なり」三重県長島町にある大智院で、元禄二年九月、「奥の細道」を終えて大垣から伊勢参宮に向かう途中で止宿した際の詠の意。但し、その時の初案は、
伊勢の國長島大智院に信宿ス
うきわれをさびしがらせよ秋の寺
で、この時、かく改案したものである。
*
「境と合ひ分に安んずる」今の落柿舎での風致自然に完全に一体となり、自身の「分」(ぶん)を正確に摑み得て泰然自若としている。
「藹然(あいぜん)」気持ちが穏やかで和らいださま。]
芭蕉が東武に帰った後の撰集にも、去来の名は大概見えているが、特に力を用いたと思われるほどのものはない。同じような状態が続いているうちに、元禄七年になって芭蕉は最後の大旅行の途に上った。伊賀から奈良を経て大阪へ出るまでの随行は支考、惟然等で、去来はあまり関係がなかったが、一たび難波(なにわ)に病むの報を得るや、直に馳せてこれに赴いた。
芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときゝて
伏見より夜舟さし下す
舟にねて荷物の影や冬ごもり 去来
の句はその際の実感である。去来が芭蕉の病床に侍したのは十月七日からで、暫時もその側を離れなかった。かつて芭蕉が去来を訪れた時、「誰れ誰れの人は吾を親のごとくし侍るに、吾老(おい)て子のごとくする事侍らず」といったのを聞いて、去来は少からず感激した。自分は世務(せいむ)に累せられて何ほどの事も出来ぬのに、この一言は深く胆に銘じて覚えたから、せめてこの度は御側を離れまいと思う、といったよしが支考の『笈日記』に見えている。これは去来の篤実なる性格を語ると共に、芭蕉との心契の尋常ならざるを窺うべきものであろう。
[やぶちゃん注:「世務に累せられて」世俗のあれやこれやの雑事の関わり合いを受けてしまって。この部分、原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)の十月七日の条で読める。]
芭蕉最後の病床における去来は、寔(まこと)に芭蕉のいわゆる俳諧の西国奉行たるに恥じぬものであった。
凩の空見なほすや鶴の声 去来
と詠み、
病中のあまりすゝるや冬ごもり 去来
と詠み、種々に心を砕いたが、芭蕉は「旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の一句を形見として、天外に去ってしまった。
『去来発句集』には「病中の」を改めて「白粥(しらがゆ)の」とし、「翁の病中」なる前書を置いているが、「病中のあまり」では何の事かわからぬ点もあるから、後に修正したのかも知れない。去来の句はもう一つ
忘れ得ぬ空も十夜の泪(なみだ)かな 去来
というのが伝わっているが、師を喪(うしな)った大なる悲愁は、到底かかる句のよく悉(つく)す所ではなかったろうと思われる。
[やぶちゃん注:「凩の」の句は其角の「芭蕉翁終焉記」(リンク先は私のPDF縦書版)によれば、芭蕉が「旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る」と詠んだ元禄七(一六九四)年十月八日の後、「各(おのおの)はかなく覺えて」皆して詠んだ「賀會祈禱の句」の二句目に出る。
「病中の」の句は、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『十月十一日夜――芭蕉が大坂南御堂前花屋仁左衛門方裏座敷で没する前夜』(芭蕉は翌十二日申の刻(午後四時頃)に亡くなった)『のことであるが、集まった門人たちに芭蕉が夜伽の句を要請したときの一句である。病床に臥す師翁の食べ残しを啜りながら、ひっそりと冬籠りをしていると、さまざまの思いにかられることだ、といった句意であろう。「あまりすゝるや」に師を案ずる心が十分に籠められている』とされ、さらに、「浪化日記」所載の『元禄七年十一月筆(十二月四日受)浪化宛去米書簡には上五「病人の」とある』とされ、宵曲の言うように「去来句集」には『「翁の病中」という前書があり、上五も「白粥の」となっている』とある。藤井紫影氏の校になる「名家俳句集」(昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊)の「去來發句集」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ)を見られたい。
「忘れ得ぬ」の句は、前注リンク先では、
傷亡師終焉
わすれ得ぬ空も十夜の泪かな
と前書する。]
芭蕉が亡くなった翌年、浪化の手によって『有磯海(ありそうみ)』『となみ山』が上梓された。浪化は元禄七年にはじめて芭蕉に面したので、場所は落柿舎であったというから、去来との交渉はその前からあったものであろう。浪化は芭蕉生前から撰集の志があり、芭蕉は『浪化集』という名にしたらよかろうといったとも伝えられている。『となみ山』は芭蕉追懐の情の著しいもので、『枯尾花』に漏れた追悼の発句、芭蕉に因ある歌仙の類を収めているが、特に其角の筆に成る『刀奈美山引』は、其角、嵐雪、桃鄙、去来の四人が落柿舎に一泊した模様を叙したものとして注目に値する。落柿舎の名がしばしば現れるのは、一面において去来の立場の有力なことを語るものに外ならぬ。
[やぶちゃん注:「刀奈美山引」は「となみやまのいん」と読み、元禄八年の春の初め頃に書かれたもので、浪化編に成る上記の二冊の撰集の板行を祝したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの「芭蕉翁全集」(佐々醒雪・巌谷小波校。大正五(一九一六)年博文館刊)のここで「となみ山」とともに視認出来る。]
『有磯海』『となみ山』は浪化の撰となっており、去来は
ありそ海集撰たまひける時、入句ども
書あつめまいらせけるにそへて祝ス
鷲の子や野分にふとる有そ海 去来
賀刀奈美山撰集
凩や剱を振ふ礪波山 同
の両句を巻末に記しているまでのようであるが、実際は去来の斡旋に成ったものであること、疑うべくもない。其角が『となみ山』の中に
元禄猪頭勇進之日 其角
去来丈
演説し給ヘ
と書いたのも、この意味において看過すべからざるものである。「猪頭勇進」は元禄八年の亥年にかけたまでであるが、芭蕉歿後の俳壇における去来の活動を期待しているらしい様子は、この短い文句からも想像出来る。
[やぶちゃん注:去来のそれは前注で示した「芭蕉翁全集」のここで、其角のそれはここ。「撰」は「えらび」、「賀刀奈美山撰集」は「『砺波山』撰集を賀す」、「元禄猪頭勇進之日」は「元禄猪頭(ちよとう)勇進(ゆうしん)の日」と読む。]
『有磯海』『となみ山』にある去来の句は、さのみ多いというわけではないが、粒は揃っている。
早稲干や人見え初る山のあし 去来
[やぶちゃん注:上五は「わせぼしや」、「初る」は「そむる」。]
酒もりとなくて酒のむほしむかへ 同
臥処かや小萩にもるゝ鹿の角 同
[やぶちゃん注:上五は「ふしどかや」。「小萩」は「こはぎ」。]
明月や向への柿やでかさるゝ 去来
しぐるゝやもみの小袖を吹かへし 同
朝霜や人参つんで墓まゐり 同
応々といへどたゝくや雪のかど 同
[やぶちゃん注:上五は「おうおうと」。家の中から十人は応えているのであるが、雪に吸い込まれてか、それは訪ねてきた人物の耳に入らず、相変わらずその人は戸を叩いているという情景である。「去来抄」の「同門評」に、
*
應々といへどたゝくや雪のかど 去來
丈艸曰、此句不易にして流行のたゞ中を得たり。支考曰、いかにしてかく安き筋よりハ入らるゝや。正秀曰、たゞ先師の聞たまハざるを恨るのミ。曲翠曰、句の善悪をいハず、當時作セん人を覺えず。其角曰、眞ノ雪門也。許六曰、尤好句也。いまだ十分ならず。露川曰、五文字妙也。去來曰、人々の評又おのおの其位よりいづ。此句ハ先師遷化の冬の句也。その比同門の人々も難しと、おもへり。今ハ自他ともに此場にとゞまらず。
*
と全員がそれぞれに褒めている。しかし、ここまで言われると、それほどでもなかろうに、と言いたくなる私がいる。なお、以上からこの句の成立が芭蕉の亡くなった直後の、元禄七年冬であることが判る。なお、堀切氏の前掲書によれば、初案は、
たゝかれてあくる間しれや雪の門
で、再案は、
あくる間を扣(たた)きつゞけや雪の門
で、実はともに「小倉百人一首」で知られた右大将道綱母(藤原道綱の母)の一首で「拾遺和歌集」巻第十四の「恋」に載る、
歎きつつひとりぬる夜の明くる間は
いかに久しきものとかは知る
から『発想されたものであるが、成案』『では、その本歌の痕跡を全くとどめないまでに推敲されている』とあり、『元禄八年正月二十九日付許六宛去来書簡に』も『「此句のさびのつきたるやうにぞんじられて、此(これ)を自讃仕(つかまつり)候。」とも記している』とある。しかし、正直、推敲過程を知ると、ますます駄句じゃなかろうかと私などは思う。少なくとも「寂び」とする境地の根っこが甚だ浅い諧謔に過ぎなかったという底意が見えてしまうように私には思われるのである。]
瘦はてゝ香にさく梅の思ひかな 同
五六本よりてしだるゝ柳かな 同
花見にもたゝせぬ里の犬の声 同
元禄七年久しく絶たりける祭の
おこなはれけるを拝て
酔顔に葵こぼるゝ匂ひかな 同
[やぶちゃん注:「祭」賀茂祭(かものまつり)、所謂、「葵祭」のこと。かの祭りは、実は中世の戦乱期に中絶してしまっていた。その旧儀を再興しようとする朝廷と神社(賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ:通称・上賀茂神社)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:通称・下鴨神社))側の動きを幕府が認めるところとなり、元禄七(一六九四)年四月、百数十年ぶりに祭りが行なわれたのであった。上五は「ゑひがほに」。]
水札なくや懸浪したる岩の上 同
[やぶちゃん注:「水札」は「けり」で、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus。「計里」「鳧」とも書く。全長約三十五センチメートルで背面は灰褐色、腹は白色で、飛ぶと、翼と尾に鮮やかな黒白の模様が出る。擬傷行為が巧みなことで知られる。アジア東北部に分布し、本邦では近畿以北の限られた地域でのみ繁殖している。ここは河原、それもかなり流れの速い岩場の景である。姿と鳴き声はYouTubeのroido frow氏の「ケリの鳴き声」で視聴されたい。「懸浪」は「かけなみ」。]
紀の藤代を通ける比、此処に三郎重家の
末今にありと聞およびぬれば、道より少
山ぞひに尋入侍しに、門ついぢ押廻シ飼
たる馬みがきたる矢の根たてかざりてい
みじきもののふ也、又庭にいにしヘの弓
懸松とて古木など侍りけり
藤代やこひしき門(も)ンに立すゞみ 同
[やぶちゃん注:座五は「たちすずみ」と読む。
「藤代」現在の和歌山県海南市藤白(グーグル・マップ・データ)。歌枕の宝庫。
「三郎重家」源義経に従って源平合戦の諸戦で活躍し、衣川館で義経と最期をともにした鈴木重家(久寿三(一一五六)年~文治五(一一八九)年)。ウィキの「鈴木重家」によれば、『紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主である鈴木重家は、平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子。弟に弓の名手と伝わる亀井重清がいる。『義経記』には義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか、『源平盛衰記』にも義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる』。『重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり、『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ、治承・寿永の乱では義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた』。『しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て』、『長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意し』、文治五(一一八九)年、『奥州に向かった。その奥州下りの途中に一度捕らえられて、頼朝の前に引かれた時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し』、『功を論じた』。『重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕い』、『わずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている』。『重家の次男・重次の直系は藤白鈴木氏として続いた。この一族からは雑賀党鈴木氏や、江梨鈴木氏などが出て各地で栄え、系譜は現在に続いている。伊予土居氏の祖・土居清行は重家の長男とされ、河野氏に預けられて土居氏を称したと伝わる。重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため鈴木山重染寺を建てたと云われる』。『重家は衣川館で自害せずに現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承もある。その子孫とされる鈴木氏の住宅「鈴木家住宅」は国の重要文化財に指定されている。他に、平泉を脱した後、義経の命により岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある』とある。また、ウィキの「藤代鈴木氏」によれば、『鈴木重家の死後、紀伊国に残った次男・重次が跡を継いだ。重次は承久の乱で朝廷方として参加して』正嘉二(一二五八)年八月に六十四歳で『没し、南北朝時代には鈴木重恒が後醍醐天皇の南朝に属した』。明徳三(一三九二)年には『鈴木重義が山名義理』(やまなよしただ/よしまさ)『に従って大内義弘と戦い戦死し、戦国時代には石山合戦で顕如に味方し』、『神領を失った。大坂の陣では鈴木重興が徳川方として参戦して浅野氏から諸役免除を賜わり、後に浅野幸長から』六『石の寄進を受けた』。昭和一七(一九四二)年に『最後の当主・鈴木重吉が病気で急死し、藤白神社神主家の鈴木氏は断絶した』とある。]
「朝霜」の句は丈艸の「朝霜や茶湯(ちやとう)の後のくすり鍋」の句に答えたものである。芭蕉の歿後、丈艸は無名庵におって、健康もすぐれぬような状態にあった。この応酬の間にも、去来と丈艸は自(おのずか)ら相通ずるものを持っている。
「しぐるゝや」の句は、正秀(まさひで)が評して去来一生の句屑だといった。去来は自ら弁じて「しぐれもて来る嵐の路上に紅(もみ)の小袖吹かへしたるけしきは、紅葉吹おろす山おろしの風と詠(よみ)たるうへの俳諧なるべしと作し侍るまでなり」といっている。「紅葉吹おろす山おろしの風」は『新古今集』にある源信明の歌、「ほのぼのとあり明の月の月影に紅葉ふきおろす山おろしの風」である。同じく寂しい中に艶(えん)なところのある趣であるが、時雨の路上に紅の小袖の吹き返さるる様は、正に俳諧の擅場(せんじょう)であろう。人を描かずに小袖だけ描いた手法の巧よりも、われわれはこの種の句が持つ気稟(きひん)の高さに留意したい。
「応々と」の句は去来の作として、最も人口に膾炙したものの一である。同門の人、もこれに対する賞讃の辞を惜まなかったらしい。一見大まかなようであって、しかも微妙なものを捉えている。「応々と」の一語に去来らしい響が籠っているのも、この句を重厚ならしむる一因であろう。
「五六本」の句は眼前見たままの景色に過ぎぬ。ただ「よりてしだるゝ」の中七字に一種の力があって、庸人(ようじん)の企及を許さぬような感じがする。
[やぶちゃん注:「庸人」凡庸な人。一般の人。
「企及」肩を並べること。匹敵すること。]
「酔顔に」の句はやはり気稟の高さを見るべきものである。久しく絶えていた葵祭が元禄七年に再興されたということは、いずれ何かに出ているのであろうが、手近の歳時記などには記されていない。京都の住人たる去来は、固より多大の感激を以てこの祭の復興を眺めたであろう。去来の句は其角の如く時代風俗に忠なるものではないが、時としてこういうものが介在している。この辺凡兆などとは大分違うようである。
「藤代や」の句は前書がなかったら、多少曲解者を生ずる虞(おそれ)があるかも知れない。「家に譲りの太刀はかん」といい、「鎧著てつかれためさん」といい、「笋の時よりしるし弓の竹」といい、「しら木の弓に弦はらん」といい、「弓矢を捨て十余年」といい、「伏見の城の捨郭」というが如き去来の一面は、この藤代の句にも現れている。もう少し立入っていえば、句よりも前書の方に現れているのであるが、いずれにせよ「家に譲りの太刀はかん」以下の句の作者でなければ、三郎重家の裔(すえ)の住居を「こひしき門ごとして、そこに立涼むことはなかったに相違ない。
[やぶちゃん注:宵曲の「藤代や」の褒め方はあたかも御大層な画題を附したサルバドール・ダリの絵がどこかその画題に名前負けしている(ダリのタッチはキリコなどに比べたら遙かに繊細で見事ではあるが)感じとよく似ているように私は思う。]