梅崎春生 砂時計 11
11
黒須院長が玉砂利をぎしぎしと踏み、夕陽養老院の門を入ってきた時、あたりはもうすっかり暗くなっていた。両側の野菜畠におちる雨声は、したしく院長の耳をくすぐり、院長は胸を張って勢いよく玄関に歩を進めた。二階建ての寮舎の窓々にはすでに燈が入り、それが自分の帰来を歓迎しているかの如く、院長には感じられた。久しぶりで旨(うま)いものに満腹したせいもあって、院長の気持は平穏に和(なご)み、幸福ですらあった。院長は傘をたたんで水を切り、はずみをつけて玄関に飛び上った。
しかし院長の気持の平穏は、玄関に足を踏み入れたとたんに、がしゃがしゃにかき乱されたのだ。玄関脇の掲示板の院長告示の上に、誰が書いたのか赤インクの筆太文字で、
『院長横暴!』
『海坊主!』
と、なぐり書きがしてあったからだ。それを見た瞬間、黒須院長の太い眉毛は見る見るつり上った。多量の憤怒と少量の困惑を顔いっぱいにみなぎらせ、院長はその文字にむかって仁王立ちになり、威嚇(いかく)的に双のこぶしをふり上げた。洋傘の尖端も宙を切って、雫を遠くまではね飛ばした。
「ああ、何たる不祥事(ふしょうじ)だ!」院長は告示にむかってかみつくように怒鳴った。「こんな悪質なイタズラをやったのは、一体何奴だ!」
その時、かなたの東寮の廊下の曲り角からのぞいていた二つの首が、その怒声におびえたようにスッと引っ込み、そして足音が乱れてばたばたと遠ざかって行く。黒須院長はぎょっとしたようにそちらに顔をふり向けたが、もちろんその時は廊下は素通しで、天井からうすぐらい電燈がぶら下っているだけで、何者の姿も認められなかった。曲り角まで疾走して足音の主を確かめたい衝動が、一瞬黒須院長をそそのかしたが、院長の威厳ということを考えて、彼はやっと踏みとどまった。
「東寮のやつらだな」院長はふりあげたこぶしをおろしながら、腹立たしげに呟(つぶ)いた。「東寮にはタチの悪い奴が多い。あの不逞(ふてい)のやから奴!」
足音は東寮の廊下をかけ抜け、どんづまりの部屋に一気にかけこんだ。その部屋には十人ばかりの爺さんたちが、坐ったり寝そべったり、それぞれの姿勢で屯(たむ)ろしていたが、かけこんだ二人の見張り爺に一斉に視線をふり向けた。見張り爺は二人とも呼吸をぜいぜいはずませて亢奮していた。
「帰って来たか?」
「戻って来たか?」
異口同音の質問に、見張り爺はそれぞれあえぎながら口早やに報告した。
「今戻って来たぞ」
「告示を見て、えらく怒っとったぞ」
「大きな声を出してゲンコツを振り上げたぞ」
「振り上げたとたんに、傘なんかすっ飛んでしまったぞ」
見張り爺たちは院長の手振り身振りを真似しながら、口角から泡をとばして説明をつづけた。
「よし。もう判った」
部屋のまんなかに寝そべっていた遊佐爺が、掌をふって重々しく発言を制した。今まで手を休めていたニラ爺が、我にかえったように遊佐爺の背に指をあて、ぐいぐいと指圧を再開した。ニラ爺は指圧が上手で、一回四十円の料金で院内営業をやっている。遊佐爺なんかもその上得意の一人であった。
「院長が激怒したということはよく判った。御苦労だったな」遊佐爺は気持よさそうに指圧療法を受けながら、見張り爺たちの労をねぎらった。「先ず作戦は当った。怒らせて気持を動揺させることに、先ず我々は成功したようだな。向うは気持が大いに乱れ、こちらはしごく平静な気持とくれば、今夜の会談は戦わずしてもう半分はこちらが勝ったようなものだ。そうか。海坊主は頭をふり立てて怒ったか」
「愉快。愉快」松木爺が掌をパチパチたたいて叫んだ。
「俺たちは先ず先取得点をあげたぞ!」
「まだよろこぶのは早い」うるさ型の柿本爺が松木爺をじろりとにらんで、にがにがしげにたしなめた。「今頃から有頂天になると、それこそ向うの思う壺だ。そんな単純な、一筋繩で行くような相手か!」
玄関脇の掲示板の前で、今や黒須院長は眼を閉じ、下腹に両掌をあてて、しきりに腹式呼吸をこころみていた。空気が束になって大きく鼻孔に吸い込まれ、また束になって大きくはき出される。院長の身体はさながら巨大な一個のふいごとなり、ふいごになることによって院長は怒りをしずめ、気持の平衡を取り戻そうと努力していた。黒須院長かっと眼を見開いた。
「これは同一人の字ではないな」『院長横暴!』と『海坊主!』の字体をしさいに見くらべながら、黒須院長はつぶやいた。憤怒はしだいにおさまり、闘志に変りつつあった。そう言えば二つの文言の字体は同じではなかった。院長はさらに眼を告示に近づけた。「ふん。同一人でないとすれば、このイタズラは二人以上の人間によってなされたことになる。これが一人ならば、発作的な行動と考えられるが、二人以上とくればこれは明かに計画的だ。院長に対する挑戦と考える他はない」
黒須院長はがっしりと腕を組んだ。そして素早く首を動かして東寮廊下の方をふり向いたが、やはり廊下はがらんとして、誰の姿も見当らなかった。院長はそこでまた顔を元に戻して、ふたたび告示をにらみつけた。
「このイタズラの犯人は、赤インクを持ち筆を持っている。抜き打ちの室内検査をやれば、きっと犯人はあがるだろうが、それには人手が足りないな。それにしても犯人は一体何奴(なにやつ)か?」腕をとき顎鬚(あごひげ)をしごきながら、黒須院長は首をかたむけた。「院長横暴、というのは意味は判るが、この、海坊主、というのはどういう意味だろう?」
剛(こわ)い顎鬚をざらざらしごき、黒須院長はしばらく考え込んでいたが、とうとう判らなかったらしく、あきらめたように廊下のすみに行き、洋傘をひろい上げた。そして急に眼をするどくして、左右の廊下を見回し、また掲示板の前に戻ってきた。この告示をこのままにして置くか、それとも引き剝ぐか、黒須院長は迷っていた。そのままにして置くことはイタズラの容認を示し、引き剝ぐことはある意味では敗北を意味するわけであった。院長は手を掲示板へ伸ばそうとして、また引っ込め、あらためて告示の末尾に眼をむけた。
『以後本院の建物備品を、故意と不注意たるを問わ
ず破損破壊せるものは、この事例に即して処分する
ものとす。 院長㊞』
(こんなイタズラをしたやつも、もちろん破損破壊の条項に適合する)傘を床にぎりぎりと突き立てながら黒須院長は考えた。(そうすればこのイタズラの犯人は、ニラ爺の例に即して、退院処分にしなけりゃならん。もちろんこの犯人は、滝爺松爺一味にきまっているが、どうやってその証拠をおさめたものか)
院長は傘を脇差しのように腰にかまえ、のっしのっしと階段をのぼり始めた。(こういうことはあまりやりたくないけれども、万(ばん)やむを得ないなら、在院老人の中から素姓(すじょう)や素質のいいのを二三選んで、秘密スパイに任命するか。そうすれば犯人は直ぐに挙がるだろう)
階段を登り切ると、黒須院長は院長室の扉を押し、電燈のスイッチを上げた。大きな電気スタンドに燈がともった。院長はすぐに回転椅子に腰をおろさず、動物園の熊のように室の中を行ったり来たりし始めた。かなた東寮廊下のどんづまりの部屋のガラス窓から、見張り爺の顔がこちらを見上げていた。
「そら。院長室に燈がついたぞ」見張り爺が一座に報告をした。「海坊主はしきりに部屋の中を歩き回っているらしい」
指圧師ニラ爺と指圧されている遊佐爺をのぞく全員は、たちまちどやどやと立ち上って、窓辺にそれぞれ取りついた。院長室の窓は曇りガラスだが、その乳色にうるむ窓の光を、ひとつの影が規則正しくさえぎって動いていた。それはその輪郭からしても院長の影にちがいなかった。腹這いになったまま遊佐爺が鎌首をもたげて聞いた。
「歩き回っているか?」
「歩き回っている。歩き回っている」と松木爺が答えた。
「よっぽどムシャクシャしているらしいぞ。愉快。愉快」
窓辺にとりついた全員は、頭微鏡をのぞく生物学者の熱情と、女湯をのぞく痴漢の好奇心をあわせもち、胸をどきどきさせながら、院長室の窓を見上げていた。その時影は突然大きく不規則に動き、そしてふっと曇りガラスの面から消え去ってしまった。松木爺が遊佐爺に報告した。
「動き回るのを止めたぞ」
黒須院長は動き回ることをやめ、大戸棚の上から硯箱をおろして、回転椅子にふかぶかと腰をおろした。卓上に紙をのべ、眼を閉じて深呼吸を開始した。あのムナクソの悪い告示文を剝(は)ぎ取り、ふたたび同文の告示文を貼りつけるつもりである。閉じた院長の瞼の裡(うち)に、父親の影像がぼんやりうかび上ってきた。父親の顔はきびしく、院長を叱りつけるようであった。
「お父さん。……お父さん」院長はお祈りでもするように呟いた。「お父さんの遺言のまま、僕は信念をもって生きています」
黒須院長は眼をかっと見開いた。そしておもむろに硯箱のふたをとり、大きな墨をわしづかみにして、しずかにすり始めた。墨のにおいが院長の鼻もとにただよってきた。