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2020/07/31

今日の先生――「奥さん、御孃さんを私に下さい」――「下さい、是非下さい」「私の妻(つま)として是非下さい」――「急に貰ひたいのだ」――『云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でない』

○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

 長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。
 奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。
 下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]

奥さん「□□や。膳をお下げして。」

 奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。
 先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。
 火種を差し出す奥さん。
 火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。
 妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。

先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」

奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」

 かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。

奥さん「(同じく)何故です?」

先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」

奥さん「(同じく)何ですか?」

 奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。

先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」

奥さん「ええ、そうですね。」

先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」

奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」

先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」

奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」

先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]

 奥さん、思いも寄らないという表情で。

奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」

 

○茶の間。(続き。基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」

奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」

 後を待っている。間。

先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」

 それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。

先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」

奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」

先生 「急にもらいくたくなったのです!」

 奥さん、笑ひ出す。笑いながら、

奥さん「よく考えたのですか?」

先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」

 茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

今の先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」

 奥さんのバスト・ショット。

奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」

 ここも、茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。『親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だ』と言いました。『本人の意向さへたしかめるに及ばない』と明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」

先生 「ご親類は兎に角、ご当人にはあらかじめ話をして承諾を得るのが筋では、ありませんか?」

奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」

 見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。

   *

(昨日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回の終りと、今日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月31日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十九回のシークエンスを繋げて、オリジナルにシナリオ化した)

   *

 自分の室へ歸つた私は、事のあまりに譯もなく進行したのを考へて、却つて變な氣持になりました。果して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭の底に這ひ込んで來た位です。けれども大體の上に於て、私の未來の運命は、是(これ)で定められたのだといふ觀念が私の凡てを新たにしました。

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脫(と)つて「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。(本日分から。太字は私が附した)

   *

……先生……確かに……
あなたの未来の運命は……
これで定められたのでした……
……おぞましく孤独な運命として…………

   *

最終シークエンスに注意せよ! 「又」である。この「又」は勿論、あの先生にとって忘れられぬ屈辱のおぞましい記憶である「第(八十七)回」の雨上がりの道でKと御嬢さんとKに遭遇してしまった場所と――同じ場所――であるということを意味しているのである。そうして、こここそが、私が円環の中心であり、ゼロ座標であると目している地点でもあるのである。

 

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