梅崎春生 砂時計 21
21
夜更(ふ)けの夕陽養老院の中央階段を、在院者代表の八老人は二列縦隊となり、両側の手すりにすがりながら、黙々として降りて来た。階段の上り降りは年齢の関係上、手すりにすがってやるのが、当院一般のしきたりになっている。だから手すりには長年の老人たちの脂(あぶら)がしみ込んで、ねとねとと黝(くろ)ずんでいた。降り切った一行は、言葉を発するのももの憂いらしく、お互いに眼くばせのようなことをし合ったまま、ぞろぞろと東寮のどんづまりの部屋の方に歩き出した。歩き出さないのはニラ爺だけであった。ニラ爺は皆の眼を盗み、階段のかげにちょこちょこと隠れ込んだ。
「くたびれたあ、ほんとにへとへとや」廊下を遠ざかってゆく七老人の後ろ姿を、情なさそうに見送りながらニラ爺はつぶやいた。「院長も院長だが、あの爺さんたちも爺さんたちや。実際みんな詰まらんことによく頑張るなあ。仲間に入れられて、おれ、ほんとに迷惑するわ」
「ほんとに迷惑だったなあ」院長室で黒須院長は鰻(うなぎ)のマッチで一服つけながら、回転椅子をギイと鳴らして木見婆の方に向き直った。「もっともこんなに遅くなったのは、まるまるわたしの責任じゃない。爺さんたちがあまりにもワカラズヤだもんだから、ついついこんなに会見が長引いた。わたしもくたびれたが、立会いのあんたも相当にくたびれただろう。まったくもの判りの悪いあの爺たちには、流石(さすが)のわたしも手を焼いたよ。はっはっはあ」
木見婆は籐椅子にもたれたまま、別に笑いに和することもせず、ぶわぶわ顔をかすかに動かしただけであった。木見婆はくたびれてもいたけれども、会見の長談義に退屈してすっかり眠気をもよおしていたのだ。(もう話し合いも終ったんだから、早く戻してくれればいいのに)と木見婆は考えた。
「明日は月例の経営者会議の日だ」木見婆のそんな気持を察することなく、黒須院長は、ゆうゆうと足を組み、大きな煙の輪をふき上げた。「だから、いつものように、特別献立(こんだて)を六食分、用意して呉れ。あの連中ときたら口は奢(おご)っているし、それにそろってうるさ型と来ているから、材料や味つけに手抜かりなく、しかるべく頼むよ」
「はい」木見婆はぽたりとうなずいた。
「わたしは今日ウナギを食ったが、割に旨(うま)かった。明日の特別食にもウナギを一串(ひとくし)つけるといいな。いや、御苦労だった。それじゃ今夜はこれで引取ってよろしい。今夜の仕事は特別だし、それに臨時だったから、夜勤料は特別に二倍につけて上げる」院長は老獪(ろうかい)に眼を細め、恩着せがましい声を出した。「今日あんたが立会人をやらせられたのも、原因はあの栗山佐介書記が怠慢したからだ。電報がとっくについている時刻なのに、まだもって登院して来ない。明かに栗山の怠慢だ。だからあんたの特別夜勤料は、栗山の日給から差引くことにしよう。そうすればこの院長たるわたしは、全然ふところが痛まず損得なしと言うことになる。わっはっはあ」
「御用はそれだけでございますか」籐椅子をギイと鳴らして木見婆は立ち上った。「それではこれで帰らしていただきます」
「夜は更(ふ)けたし、それに夜道は辷るから、用心するんだよ」黒須院長ものそりと立ち上り、窓ぎわに歩み寄って外部の様子をうかがった。「雨はもう止んだようだな」
「止んだようでございます」
木見婆は院長の幅広い背中に一礼して、扉の外にそっと辷り出た。院長は曇りガラスの窓を音のしないように押しあけた。コの字型の建物の屋根の稜線(りょうせん)のかなたに暗い空がひろがり、時折音響を伴なわぬ稲妻が、かなたのかなたで小さくひらめいては消滅した。院長は頭をめぐらせて今度は中庭を見おろした。中庭も鬱然たる闇に沈み、それをめぐる部屋々々の燈も消えていたが、ただ一部屋だけ、東寮どんづまりのれいの部屋だけが燈をあかあかともし、その光は窓ガラスを通して、中庭の一部をぼうと明るく浮き出していた。院長の眉の根はとたんにぐいとふくらみ、眼もふたたびあのたけだけしい光を取り戻した。その窓ガラスにその時ちらと動くひとつの人影が見えた。院長はあわてて院長室の窓を閉じた。
(うん。懐柔と恫喝(どうかつ)。今日わしは確乎たる信念をもってやったつもりだが、思いのほか成果は上らなかったようだ)
奥歯をぎりぎりと嚙み合わせながら、院長は室を斜めに横切り、隅の大きなソファーにごろりと横になった。憤怒と悔恨が院長の分厚い胸の中で波立ち騒いだ。
(残念ながら今夜は、あいつ等にも相当点数を稼がれた。今度からは細心に計画を立てて、敵に乗ずる隙をあたえないようにしよう。たしかにあいつらはアカの戦術を用いている。歴史ある当養老院に赤色分子が入りこむなんて、言語道断だ。芽のうちに摘み取らねば、どういうことになるか判らんぞ。よし。ニラ爺を督励(とくれい)して、きゃつ等一人々々の思想傾向、読書傾向を調査させよう。しかし、ニラ爺にそれが勤まるかどうか、実際あの爺はたよりないからなあ。勤まらなきゃ、やはりリヤカー破損の名目で、追い出すより他はないなあ)
木見婆も手すりにすがり、中央階段をぼとりぼとりと降りていた。丁度(ちょうど)降り切ったところを、横あいからいきなりぐいと腕を摑(つか)まれ、木見婆はびっくりして棒立ちとなり、ヒイッと呼吸(いき)を引いた。腕を摑んだのはニラ爺であった。木見婆をびっくりさせたことに満足したらしく、ニラ爺は眼を細めてにやにやと笑っていた。
「びっくりさせるじゃないか」木見婆はつっけんどんに言って腕を振り離そうとした。しかしニラ爺の握力は案外に強く、振り離すことが出来なかった。「なんだい。あたしに何の用事があるんだい」
「お互いに今夜は辛かったねえ」ニラ爺は顔を皺(しわ)だらけにした。「つまらん会議で、おれ、ほんとに退屈したよ、おれもちょっと居眠りしたが、木見婆さんも盛んに居眠りしてたねえ」
「つまらないことを言わないでよ」木見婆は腕を振り離すことはあきらめ、ニラ爺の顔を正面から見詰めた。「あたし、もう家に帰らなきゃ。夜遅いんだよ。一体何の用事だい」
「おれ、さっきからここに隠れて、あんたが降りてくるのを待ってたのや」ニラ爺は木見婆の腕を摑んだまま廊下を歩き出した。「おれ、実を言うと、お腹がすっかり空いたのや。それにくたびれたもんで、甘いものが滅法欲しくなった」「甘いもの?」引きずられるようにして歩きながら木見婆が言った。「甘いものなら先刻、しこたま食べたじゃないか。白砂糖をどっさりさ」
「あれだけじゃ足らん」
「足りないことないよ。あたしが見てたら、つまんでは砥め、つまんでは砥め、一合ぐらいは砥めてしまったじゃないか」
「なんや、あんたはあの時、泣き真似をしてたのか。達者な婆さんやなあ」ニラ爺はふたたびにやにやと頰をゆるめた。「あんたが呉れんと言うのなら、おれ海坊主に直接かけ合ってくる。かけ合いの次第によっては、おれ、何をしゃべり出すかわからんぜ」
「あたしをおどすつもりなの?」
「何もおどすつもりじゃないが、なりゆきではそんなことになるかも知れんと言うことや」まわりくどい言い方をしながら、ニラ爺は手の握力を強めたり弱めたりした。そして二人は食堂の調理場の扉の前で立ち止った。
「魚心あれば水心あり。古人はほんまにええことを言うたなあ」
「厭らし!」
木見婆は口の中でつぶやき、諦めたように調理場の扉の鍵をはずした。ニラ爺は摑んだ掌を離して、あたりを油断なく見回し、木見婆のあとにつづいて、すばやく調理場の中に飛び込んだ。そして扉をそっとしめた。
「おとなしそうに見せかけて、あんたという爺さんは、ほんとに悪だね」かるく舌打ちして木見婆が言った。「あたしみたいなか弱い女性を脅迫して、なにが面白いのさ」
「か弱い女性だなんて、可愛いことを言うねえ」
ニラ爺は相好(そうごう)をくずして、人差指で木見婆の頰をチョイとつついた。木見婆の頰はぶよぶよだし、ニラ爺の指は筋張って脂がぬけているので、その動作や接触も、若い日の如くにはスムーズに行かなかった。しかしとにかくそうしたことによって、二人のすでに硬化した情緒はいくらかほぐれ、かすかに揺れ動いたかのように見えた。
「あんたがか弱い女性なら、おれだってか弱い男性や。か弱い女性とか弱い男性。か弱い同士で団結しようじゃないか。団結すればこの世に恐いものはないぜ」
「一体何が欲しいのさ」
「そうだねえ」ニラ爺は唇のはしに唾をためながら、調理場をぐるぐると見回した。目移りがするらしく、ニラ爺の視線はきょときょとと落着かなかった。「そうやなあ。何から食べようかなあ。おれ、ほんとに迷ってしまうなあ」
「早くしなさいってば!」木見婆はいらだたしげに言った。「迷うことなんか、ないじゃないの。ほんとに食い意地が張ってんのねえ。さっさと食べたいものを言えばいいじゃないの。夜も遅いんだよ。あたし、早く家に帰らなくちゃ困るんだよ。さあ。何が食べたいのさ。さっさと言わなきゃ、あたしもう帰っちゃうよ!」
「俺、今晩、泊めて貰うぜ」ぐったりと畳の上に腹這いになりながら、牛島康之は怒ったような声を出した。「こんなにくたびれて、これ以上歩けるか」
しかし牛島は怒っているのではなく、疲れ果てているのであった。さんざん歩き回り、デパートでは木馬に乗り、駅では待たせられ、協議会では組打ちをやり、またせっせとくすぐり、今や牛島は完全にくたびれていた。乃木七郎も牛島の真似をして畳に腹這いになった。彼も大笑いに笑った挙句、すっかりくたくたに笑い疲れていたのだ。佐介は板壁に背をもたせ、両足を投げ出していた。彼ももちろん睡眠不足や組打ちなどのために徹底的にくたびれていた。疲労が彼の顔をうすぐろく隈(くま)どっていた。元気なのは曽我ランコだけであった。曽我ランコの顔は、夜が更(ふ)けるにしたがって、ますます生き生きと冴えてきた。
「ほんとに笑いくたびれました」乃木七郎は頰杖をついたまま、佐介の顔を上目で見た。「わたしも今晩、ここに泊らせていただきます」
「あたり前だ」牛島がきめつけた。「帰ろうたってお前、帰る家も覚えてないじゃないか。一人前の口をきくな!」
佐介はのろのろと立ち上った。納屋の隅に積まれた夜具の中から、毛布を一枚ひっぱり出し、それを牛島の背に投げてやった。牛島は座蒲団に手を伸ばし、ぐるぐると丸めて枕の形にして、頭をごろりとあてがった。そして大きなあくびをした。乃木も真似をしてごろんと横になった。
「このままこの二人を、野放しで寝かせるつもり?」曽我ランコが言った。「このままじゃあぶないわよ。皆が眠ってしまったら、その隙に逃げ出すかも知れないもの」
「大丈夫だろう」佐介は小さくあくびをした。「たいてい大丈夫だよ。僕も牛さんもくたびれているから、不寝番に立つ気力はない。それとも曽我君が立って呉れるかい」
「イヤよ!」曽我ランコはそっけなく拒絶した。「いい方法があるわ。このX氏に催眠薬をむりやりに服(の)ませたらどう? そうしたら明朝まで眠りつづけると思うんだけど」
「催眠薬、あったかな?」佐介は小机の方に蟹(かに)のように横這いをした。引出しをごそごそと探した。「あった、あった。少し残っていた。服用させてみるか。しかしもし、X君が服みたくないと言えば、ムリに服ませるわけにも行かないだろうな。基本的人権というものがあるし」
「あんた、服む?」曽我ランコは乃木七郎を上からきっと見据え、猫撫で声で言った。「眠り薬よ。これを服むと天国に行ったみたいにぐっすり眠れるのよ」
「服ませていただきましょう」ためらうことなく乃木七郎は答えた。「粒ですか。粉ですか? わたしは天国が大好きです」
「服んで呉れるか」と佐介がほっとしたように言った。「君の保管は僕の責任になっているんだ。曽我君。水をコップに頼む」
曽我ランコはコップを手にして、いそいそと納屋を出て行った。佐介は積み夜具から蒲団を一枚引っぱり出した。ランコはいそいそと戻ってきた。蒲団を投げてやるはずみに、佐介の足が行李に触れ、行李の上の赤い卓上ピアノは乱雑な鳴動音を立てながら、畳の上にころがり落ちた。乃木七郎はびっくりしたように首を立てた。牛島は微動だにしなかった。彼はすでにかすかにいびきをかき、完全なる眠りに入っていた。
「もう眠ったのかい」佐介は卓上ピアノを拾い上げた。
「早いもんだね。まったく健康児童だ」
「はい。水」
皆我ランコは乃木にコップを手渡した。佐介は片手でピアノを摑み、片手に薬を持って、乃本の枕もとにあぐらをかいた。乃木はごそごそと身体を起した。
「薬を服む前にだね」佐介は言った。「このピアノをひいてみなさい」
乃木は佐介の顔を見た。そして指を鍵盤に近づけたが、指はそのまま困ったように宙にためらった。佐介はその指の動きをじっと眺めていた。
「もう、いいよ」佐介はピアノを引っこめた。「さあ、催眠薬」
「何なの、それ?」曽我ランコが訊ねた。「何の真似?」
「いや、この人が過去において、音楽に関係があったかどうか、ちょっとためしてみたんだ」
「止しなさいよ。バカバカしい」曽我ランコは失笑した。
「それよりかその卓上ピアノを、この人の足にくくりつけとくのよ。そうすれば万一催眠薬が覚めて、逃げ出そうとしても、音がするでしょう。すぐに感づかれて、逃げ出せ
なくなるわ」
「それもいい考えだ」佐介は乃木七郎の掌の上に、白い錠剤を二粒乗せてやった。「嚙まない方がいいよ。嚙むとにがいよ」
「いただきます」
乃木七郎は錠剤をひょいと口の中に放り込み、ゴクゴクと水と共に呑み込んだ。そしてけろりとした表情で頭を下げ、そのままごろりと横になった。佐介の手がかけ蒲団の具合を直してやった。
「おやすみなさい」
乃木七郎は眼をつむった。
佐介と曽我ランコは、その乃木の顔をじっと監視していた。沈黙のまま、五分間ほど経った。乃木七郎の呼吸はようやく深く、緩慢となり、眠りの翳(かげ)が顔一面にじわじわとひろがってきた。二人は顔を見合わせた。曽我ランコは卓上ピアノを手元にそっと引寄せながら、ささやくような声で言った。
「厄介な人間の身柄を引き受けたもんね。あなた、あの時、率先(そっせん)して手を挙げたけれど、どういう気持だったの。好きこのんでこんな貧乏くじを引かなくてもいいじゃないの。それとも、この男がそれほど僧かった?」
「憎かったんじゃない」佐介はどもった。「に、にくいんじゃない。なにか興味があったんだよ。興味が」