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2020/07/22

梅崎春生 砂時計 27

 

     27

 

 流れは相変らず碾茶色(ひきちゃいろ)にねっとりと濁り、塵芥や木片をのせて、かなりの早さで下流へ下流へと動いていた。その上水路の堤の急斜面を、栗山佐介は腰をひくくかがめ、斜面の立木の枝や草をつかみながら、用心深く降り始めた。昨夜半まで降りつづいた雨のために、草や地面はまだ濡れていた。濡れて辷りやすくなっていた。靴が辷るので、いい足場をえらぶ必要があった。

「大丈夫?」堤の上から曽我ランコが声をかけた。「靴を脱いだらどうなの。辷るとまた膝をいためるわよ」

「大丈夫だよ」佐介は堤上を見上げてわらった。「軍隊じゃもっともっと、危いことをやった」

 曽我ランコから四五間[やぶちゃん注:約七・三〇~八・一〇メートル。]離れた場所に、乃木七郎は立っていた。小腰をかがめては石を拾い、ちょいと小首をかしげ、対岸に生えたアカシヤの木にねらいをつけた。石は乃木七郎の手を離れて勢いよく飛んだ。石はアカシヤの幹にあやまたずに命中し、急斜面を水路にむかってころころところがり落ちた。小さな水しぶきをあげて石はたちまち見えなくなった。

「ふん。何だっけなあ。ええ。何だったかなあ」

 乃木七郎は、ひどい頭痛をこらえるような表情になり、左手に抱いた卓上ピアノをいらだたしげにゆすぶった。石を握ってねらいをつける、その手や肩や身体全体の感じ、それがうしなわれた記憶の中から、しきりに彼に何かを呼びかけて来ようとするのだ。もう一歩踏み込むと何もかも判りそうなのだが、その一歩がどうしても踏み込めない。事実頭の芯もしんしんと痛み始めていた。乃木七郎は再び腰をかがめて石を拾い、双の眼玉を中心に寄せて、ふたたび対岸のアカシヤにねらいをつけた。栗山佐介はあぶなっかしい腰つきで、斜面の四分の一ほどを降りた。

「大丈夫? 辷るとたいへんよ」

 曽我ランコはそう言いながら、そこらから棒きれを拾い、板裏草履をぬいではだしになった。はだしのまま棒を支えにして、彼女自らも佐介を追って斜面をそろそろと降り始めた。乃木七郎の石がまた空気をするどく切って、対岸に飛んだ。石はアカシヤの幹に見事にぶっつかり、カーンといい音を立てた。草を摑(つか)んだ不安定な姿勢で栗山佐介は顔を上げ、アカシヤの方に視線をむけてつぶやいた。

「いいコントロールだな。あんな奴にねらわれちゃたまらない」

「辷りやすいわねえ」用心深くのろのろと下方に移動しながら、曽我ランコがあぶなげな声を出した。「はだしでもツルツルするんだから、靴穿(は)きは用心した方がいいわよ」

「靴よりはだしの方が辷るんだ」佐介はやや不機嫌な声を出し、曽我ランコを見上げた。用事もないのにあぶない斜面を降りてくるランコに、なにか忌々(いまいま)しさを感じたのだ。それに乃木七郎をひとりに放置しておくことの不用心さもあった。「ダメだよ。君は降りて来ちゃいけないったら。辷り落ちたらどうするんだ。ここに落っこちたら、もう絶対にたすからないよ」

「あたしは大丈夫よ」曽我ランコは不安定な姿勢でせせらわらった。「わたしは小さい頃から、冒険ごっこが大好きだったんだもの」

 石が又しても対岸へ飛んだ。五十米ほど上流にかかった木橋を、二人の男が急ぎ足で渡り終え、土堤上の小径(こみち)をこちらに近づきつつあった。一人の男はカメラを肩から提げていたが、もはや口にチューインガムは嚙んでいなかった。もう一人の男は小型胴乱を小脇にかかえ、どういうつもりか鳥打帽子を前後さかさまにかぶっていた。

 曽我ランコはさらに下方に移動して、栗山佐介の地点に近づいた。佐介はさっきと同じ姿勢で、しかし何かまぶしげな眼付きになって、そのランコの姿をぼんやり見上げていた。姿勢の不安定さのために、彼女の若々しい肉体の輸郭が、スラックスの線に露わに出ていたのだ。佐介のその視線に気付くと、曽我ランコは急にとがめる眼つきになった。

「何見てるの。接骨木(にわとこ)はとらないの?」

「とるよ。今一休みしているところだ」佐介はあわてて視線を水路の方に向けた。接骨木は佐介の地点から更に三米ばかり下方に、その枝をひろげていた。そこに至る斜面は、今まで降りてきた斜面より、ずっと急になっている。その急斜のかたむきを佐介は眼で計って見た。

「さあ。降りるとすればここからかな」

「ずいぶん急ね」佐介の地点まで降りてきた曽我ランコは、その急斜をたしかめて二の足を踏んだらしかった。

「あたし、ここにつかまって、この棒を出したげるから、それにつかまって降りたらどう?」

「そうしようかな」

 佐介は亀のように斜面に貼りついた。ランコは右掌で紅葉の細い根っこを握りしめ、左手につかんだ棒ぎれを佐介の方にぐっとさし伸ばした。佐介はその棒の端をつかみ、あぶなげな足どりを斜面に踏み入れた。靴がずるずると五寸ばかりすべった。佐介は棒をつかむ掌に、ぐっと力を入れた。曽我ランコも顔を紅潮させ、ふといぶかしげな顔になって、土堤道をななめにふり仰いだ。いそがしく乱れた足音が聞えたからだ。乃木七郎は悠然と五つ目の石を拾い上げた。その背に二人の男の足音が殺到した。

「さあ、逃げるんだ」

 カメラ男がはあはあと呼吸をはずませ、そう言いながら乃木七郎の右手に自分の腕をからませた。

「早く。早く。あいつらが登って来ないうちに!」

 胴乱男が乃木の左方に回って、同じく腕をからませようとした。ところが乃木の左腕は卓上ピアノを抱いているので、白い鍵盤はけたたましい音を立てて、ジャランジャランと鳴りわたった。斜面の中途で曽我ランコが金切声を立てた。

「何、何をしてるの!」

「はあ」

 乃木七郎は間の抜けた声で返事をして、きょとんとした顔で斜面を見おろし、そして二人の男の顔を見回した。自分にどんな事態が起りつつあるのか、もちろん彼に理解出来なかっかのだ。胴乱男はいらだたしげに乃木七郎の肩をこづいた。

「さあ、早く。そんなもの、捨てちまうんだ!」

 肩をこづいた手で、胴乱男はいきなり卓上ピアノを乃木の左腕からはたき落した。ピアノはガシャンと地面に落ちた。カメラ男の靴がそれを蹴飛ばした。ピアノは大小高低の音をさまざまに響かせながら、斜面をにぎにぎしくころがり落ちた。

「待てえ!」曽我ランコがありったけの声で叫んだ。「泥棒。泥――棒!」

 卓上ピアノはその曽我ランコをめがけて奔転(ほんてん)した。ランコは佐介をつないだ棒きれを突き離し、奔転するものを辛うじて受けとめた。受けとめたというより、身体全体でせきとめた。栗山佐介は離された棒きれと共に、一気に三米の急斜をすべり落ち、これも辛うじて目指す接骨木の幹に必死にしがみついた。佐介の眼は恐怖と衝動で青味を帯びてきらきら光り、毛穴からふき出した冷汗と脂で、顔中はべっとりと濡れていた。ねとねとと濁った水路の急流が、佐介の眼下を音もなくうねっている。

「ああ」佐介はかすれた声でうめいた。「ああ、おれはいつもこんな具合になっちまう。惨(みじ)めで貧乏たらしい役割を、いつもおれはこんな具合に引受けてしまう」

 曽我ランコはがむしゃらな勢いで、草をつかみ木の根をつかみ、斜面を這い登っていた。堤上の小径を、乃木七郎を中にして、二人の男は足をぴょんぴょんとはね上げて、彼方に遁走しつつあった。得体(えたい)の知れない二人男の熱意にくらべると、乃木七郎はそれほど疾走の意志を持たないので、歩調がちぐはぐで、見た目の割にはスピードは出ていなかった。小学校の秋季運動会の父兄有志の三人四脚みたいな具合に、この三人編成の一団はぎくしゃくと動いていた。それでも曽我ランコが堤上に這い登った時、彼等の姿はもはや現場から六七十米の彼方にあった。人気のない堤の上を、並木に見えかくれしながら、一団は不格好にがたぴしと遠ざかって行く。

「待てえっ!」

 曽我ランコは板裏草履をつっかけ、走り出そうとしたが、すでに及ばぬとあきらめたらしく、口惜しげにじだんだを踏んだ。板裏草腹の裏で砂利がぐりぐりと鳴った。その曽我ランコの姿を、水際の接骨木にしがみついたまま、栗山佐介は眼を大きく見開いて見上げていた。恐怖の一瞬が過ぎ、佐介の耳にはしゅんしゅんとはげしい耳鳴りが始まっていた。まっさおな空と目の光を背景にして、堤上にじだんだを踏む曽我ランコの黒い輪郭の動きは、なにか嘔(は)き出したくなるような醜悪な感じをただよわせていた。堤上の小径から横に切れたらしく、一団三人の後ろ姿はその時ふっとランコの視野から消滅した。ランコは足踏みを中止し、ブラウスの袖で瞼を拭いながら、栗山佐介を見おろした。天井にとりついた弱々しげな冬の蝉のように、佐介の身体はしなやかな接骨木の幹にとまっていた。そのたよりない姿を、曽我ランコは笑いに似た影を頰に貼りつかせ、しばらく見おろしていた。佐介も黙ってしがみついたまま、耳鳴りを耳に聞きながら、じっと身動きをしないでいた。

「上っておいで」

 やがて曽我ランコが、非常にやさしい、ほとんど猫撫で声にちかい声で呼びかけた。佐介はそれに応じるようにもぞもぞと左手を動かした。ランコは喜悦をこめた厭らしい声で繰り返した。

「ひとりで、上っておいで。ひとりでよ」

 

 気温はじりじりと上昇しつつあった。

 森爺と甲斐爺は相変らずつながって、巣を失った蟻のように、院内のあちこちにふらふらと歩いていた。ニラ爺たちが見当らぬので、昼飯を食う気にもならないのであった。調理室で木見婆はぶよぶよと肥った顔に汗を滲(にじ)ませて、何かぶつぶつと呟きながら、調理に手をつけたり、半開きの扉の方をじろりとにらんだりしていた。

 風通しの悪い湿った院長室の書類戸棚の中では、ニラ爺と煙爺が玉の汗を顔いっぱいに吹き出して、ぎゅっとちぢこまっていた。ニラ爺の玉の汗は、暑さのためというよりも、尿意をこらえる努力によるものであった。折しも節穴から黒須院長のがらがら声が流れ込んできた。

「今日は暑いですなあ。失礼して上衣を脱(と)らせていただきます」院長は五つの釦(ボタン)を外して、詰襟服をぐいと脱ぎ、ちぢみのシャツだけになった。そして仕舞扇で胸元をばたばたあおぎ立てながら、皆を見回した。「どうです。皆さんもお脱ぎになってはいかがですか。お互いに胸襟を開いて語り合いましょうや」

「そうだな、そうするか」

 と菓子屋がそそくさと上衣をとった。つづいてデブの食堂主。逞(たくま)しい運送屋。最後に女金貸がボレロを脱いだ。白い肉付きのいい女金貸の左腕には、大きな種痘のあとが三つずつ二列縦隊にならんでついている。上衣をとらないのは教授だけであった。教授は鼻眼鏡をかけ、蝶ネクタイをきちんとしめて澄ましこんでいた。暑いのは気温の上昇のためだけでなく、ウィスキーのせいもあったのだろう。六人が六人とも頰や額をあかく染め、中には眼がとろんとなりかかっているのもいた。オムレツ付け合わせのジャガ芋の最後の一片を、ぽいと口に放り込んで味わいながら、食堂主がひとりごとを言った。

「ふん。あのムクムク婆さん、なかなか料理が巧者なもんだな」

「そうですか」院長はいい気持で答えた。「そうでしょう」

「あの婆さん、古いのかね?」

「いや、勤め始めて二年ばかりですが、腕も確かだし、それに実直一点ばりで、わたしどもも大変重宝していますよ」

「わたしんちのコックよりもうまいかも知れんぞ」食堂主はフォークの背をべろりと嘗(な)めて、お世辞を使った。「ところでどうです。わたしんちの料理は、在院者たちに評判いいかね?」

「まあまあと言うところでしょうな」そして院長は憂わしげに眉をひそめた。「残飯そのものの味より別に、困ったことがあるんですよ」

「何だね?」

「一口に言えば、鮮度の問題です。冬の間はまだまだよろしいが、こんなに気候があたたかくなって来るとね」院長は手で空気を引っかき回すようにした。「食堂さんから朝の残飯残肴(ざんこう)が当院に運搬されてくる。それを翌目の朝まで保たしておくことは、もう気温が許さないのです。だからそれを夕食にあてる他はない。同じ事情で食堂さんの晩の残飯残看は、当院では翌朝の食卓にあらわれるということになる。それで昨日も在院者の一部が、わたしに不平を言ってきた。朝には朝飯らしい食事、夕には夕方らしい食事を食わせろってね」

「何と返事した?」

「うまくごまかして、突っぱねましたがね。すると昨朝に出したテンプラ、あれが揚げ立てじゃなかったとか、身が千切れていたとか、そんなことをてんでに言い出してきた」

「わたしんちのお客の食い残しだから仕方がない」食堂主が頰をぷうとふくらませた。「それは在院者として、ゼイタクというもんだ」

「残飯残肴を食わせられていることを、在院者たちがそろそろかんづいて来たんではないか」教授が口をはさんだ。「どういう搬入方法をとってるのかね?」

「それは俺んとこで請負(うけお)ってるんですよ」運送屋が引取った。「オート三輪で運ぶんですがね、荷台は完全被覆だから、内部は全然のぞけないようになっている」

「そのオート三輪は、直接調理場の中まで入れるようになっているんです」院長が説明を補足した。「調理室はわたしの命令で、在院者は一切オフ・リミットになっている。だから残看積みおろしの現場を、在院者は絶対に見ることは出来ない。積みおろしだけでなく調理の現状もです」

「積みおろしの現状を見ないでも、食事の内容によって、在院者がそろそろかんづくということもあり得るな」

「そうです。そうです」院長は大きくうなずいて、グラスをとり上げた。「そこがわたしの立場の辛いところです」

「院内の食事内容に」女金貸が訊ねた。「残飯残肴は何割ぐらい占めてるの?」

「約半分です。あとは院内菜園からの収穫と、若干の購入品です」そして院長は食堂主に顔をねじ向けた。「ところでこの席上で食堂さんに御相談があるのですが」

「何だね?」

「この二ヵ月、当院の財政運営の上において、残念ながら若干の赤字を出しておる。それをわたしだけの責任のように皆さんはおっしゃるが、心外なことだと思うのです。赤字打開にはこの際皆さんの協力をも是非懇請したい。まずさしあたって、食堂さんの残飯残肴の購入価格ですが――」

「高いとでもいうのか?」食堂主はきらりと眼を光らせた。「あれが相場なんだぜ」

「相場であるかも知れませんが」院長はぐっと丹田に力を入れた。「この危機を乗り切るために、も少し安くしていただきたいと思う。なにしろ食料費というものは、当院経常費の大きな部分をしめているのですから、ちょっと負けていただいただけで、ぐんと違うと思うのです。わたしはなにも在院者の味方をして、そう言っておるのではない。わたしは信念をもって言っている。食堂さん、あなたも経営者の一人でしょう。残飯を安く入れてそれで当院が黒字になれば、黒字になったことによってあなたもトクすることになるでしょう」

「それも道理だ」先ほどから眼をとろんとさせて聞いていた菓子屋が、卓をぽんと叩いた。「うまい手を考えたな」

 教授と女金貸は互いに顔を見合わせて、賛意を表する如くうなずきあった。その一座の空気を察知して、食堂主はややいきり立った。

「院長は、わ、わたしんちばかりに皺(しわ)寄せをしてくるが、そいじゃ運送屋はどうなんだ?」

「お、おれは全然実費だよ」いきなり飛び火してきたので運送屋は目を白黒させた。「おれなんか残飯運搬で、全然儲(もう)けていないんだよ。犠牲的サービスだ。ガソリン代に毛の生えた程度しか受取っていない」

「その生えた毛を剃(そ)り落していただきたいものですな」

 と院長は強気に出た。経営不振の責任を分散させることによってのみ、院長の地位は保たれる。黒須院長はとっさにそう判断したのだ。教授と女金貸はふたたび顔を見合わせ、うなずきあった。それを見て運送屋は頑張るは非と判断したらしく、直ぐに折れて出た。

「じゃいいよ。おれ、ガソリン代だけに負けとくよ。光栄ある夕陽養老院の仕事だものなあ」

 菓子屋が手をパチパチとたたいた。食堂主は渋い顔をつくり、むっと頰をふくらませた。女金貸がその食堂主にむかって、なぐさめるように言った。

「残飯なんかタダみたいなもんじゃないの。在院者たちが食べて呉れるおかげで、処理費がまるまるたすかる勘定じゃなくって?」

「そうでもねえですよ」食堂主は渋面のまま答えた。「歿飯残肴というと、豚のエサにしかならないように人は思っているが、なに、そんなもんじゃない。豚が食うのは塵芥です。わたしんちみたいな高級食堂の残りものは、豚なんかには勿体(もったい)ないし、また当院なんかにも勿体ないぐらいですよ。あたしんちの残肴で、もりもり栄養をとって長生きされては困る、という心配もあるほどだ」

「そのかわり鮮度が落ちていますからな」院長がわらいながら言った。「どんなに高級な料理でも、古くなると味が落ちるし、栄養もなくなる」

「そうだな。それでは暫定処置として」教授が重々しく勧告した。「今頃から夏場にわたって、値段を下げることにしたらどうだね。食堂さんも、栄養や味が落ちるとあれば、仕方ないだろう」

「そんなものですかね」食堂主は面白くなさそうに答えた。「じゃ暫定的にわたしが譲歩しましょう」

 院長は大急ぎで会議録を開き、喜色を面上にみなぎらせて、残肴購入費ならびに運搬費の値下げを書き込んだ。食堂主はその院長の手付きを横目で見ながら、はき出すように言った。

「おれたちも犠牲的協力に出たんだから、院長も今いっそう経済を引きしめてもらいたいもんだな」

「さっきの報告で」運送屋が口を出した。「備品のリヤカーが破損したとのことだったが、どうして破損したんだね。気がゆるんで粗略に取り扱ったんじゃないか」

「ええ、それは」と院長は口ごもった。

「リヤカーなんてものは、よっぽどのことがなけりゃ破損しないもんだよ。おれんとこのように仕事の激しい運送屋でも、そんなことはめったにない」

「破損というのは」と女金貸。「どの程度なの?」

「なんなら俺んとこで」と運送屋。「実費で修繕してやってもいいよ」

「全壊です」と院長は腹を据(す)えて答えた。「修繕の余地はありません」

「修繕の余地がない?」食堂主が険(けわ)しい声を出した。一体どうしたんだ」

「本当のことを申し上げますが、これはわたしの手落ちでした」院長は恐縮と謹慎の意をこめて、禿頭をちょっと下げた。「当院に、韮山(にらやま)伝七という、すこしばかり頭の呆けたバカ爺さんがおりまして……」

「おい、お前のことを話してるぞ」書類戸棚の中で煙爺が、ニラ爺の脇腹を小突いてささやいた。「院長の声だぞ」ニラ爺は返事をしなかった。眼をかっと見開き、緊張して節穴をにらみつけていた。オシッコはまさに出そうだし、自分のことが話題に上っているし、緊張せざるを得ないのであった。黒須院長の説明が滔々(とうとう)と続いている。その一句々々を耳に収めながら、ニラ爺の顔はあかくなったりあおくなったり、歯を食いしばったりこめかみをビクビクさせたり、いろんな変化をした。

「沖禎介、横川省三の名前を出して、わたしはついにニラ爺を説得した」院長は得々として面々を見回した。「ニラ爺は欣然(きんぜん)としてその役目を引き受けることになりました」

「頭の呆けたバカ爺さんだと言ったが」食堂主が質問した。「そのバカ爺さんに、そんな重大な役目がつとまるかね?」

「つとまらなきゃ、ちょんとクビです。何とか名目をつけて追い出すだけです」

「院長は先刻、園内の栽培物は結局在院者の口に入るんだ、と言明しましたな」運送屋が意地悪い口調で言った。「ところが今の説明では、外部に売り出してるじゃないか」

「院内需要を充たした残りですよ」

「売上代金はちゃんと会計に繰入(くりい)れてあるだろうね」

「ええ、そ、それはもちろん」院長はどもった。「そうするつもりです」

つもりだって?」運送屋が声を高くした。「じゃ、まだやっていないのか、まさか自分のふところに……」

 その時扉が外側からほとほとと叩かれたので、運送屋は口をつぐんだ。院長が大声を出した。

「誰だ、はいれ」

 扉が開かれて、岡持を提げた木見婆がのそのそと入ってきた。彼女は無表情に卓に近づき、岡持の蓋(ふた)をあけ、皿小鉢のたぐいを並べ始めた。院長が声をかけた。

「木見婆さん。あんたの料理は皆さんのお賞(ほ)めにあずかったよ」

「うん。なかなか旨(うま)かった」

「鰻(うなぎ)なんか」と女金貸が言った。「とくに旨かったわよ。本職はだしだわ」

「ありがとうございます」と木見婆は白髪頭を下げた。

「鰻はまだ残ってるかね?」院長が訊ねた。「残ってたら、白焼きにして五人分、折詰めを頼むよ」

「かしこまりました」

「それからちょっと」と院長は声をすこし低くした。「ニラ爺さんにちょっと院長室に来るように伝えて呉れ」

「ニラ爺さん?」木見婆はぎくりとして、手にした小鉢を取り落しそうになった。

「そうだ。ニラ爺さんだ。ちょっと訊ねたいことがあるのだ」木見婆の態度に気付かず院長はつづけた。「他の爺さんに気取られないように、そっとだよ。そっと耳打ちするんだよ」

「お前のことを呼んでるぜ」煙爺がじゃけんにニラ爺の脇腹をこづき、とげとげしくささやいた。「お前、スパイだったのか?」

「スパイやない!」ニラ爺は顔を蒼白にしてささやきかえした。「院長が勝手に決めてるだけや」

「ほんとか?」

 ニラ爺は唇を嚙んだまま返事をしなかった。皿小鉢を並べ終って空の岡持をとり上げた木見婆に、院長は重ねて念を押した。

「いいか。そっとだよ。ことに遊佐爺や滝爺に気付かれないようにするんだよ。おや、木見婆さん、顔色がすこし悪いようだな。寝不足か」

「寝不足でございます」木見婆は答えた。「他に用事はございませんか」

「お前、出ないでいいのか?」煙爺がふたたびささやいた。「お前、呼び出されているんだぞ」

「出ない!」ニラ爺はささやき返した。「おれ、ここでおしっこをする。もう我慢出来ん」

「ちょっと待て!」

 煙爺はあわててごそごそと身体を動かして、ニラ爺との間隔を拡げた。ニラ爺は眼を据(す)えた。

[やぶちゃん注:「アカシヤ」これは真正のマメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia ではなく(真正のアカシア類は温暖な気候でないと生育が難しく、本邦では関東以北では栽培が困難であるものが多いからである)、所謂、「ニセアカシア」、マメ科マメ亜科ハリエンジュ属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia であると思われる。「ニセアカシア」=ハリエンジュは北アメリカ原産であるが、本邦には明治六(一八七三)年に移入され、街路樹・公園樹や砂防・土止めに植栽されているが、広範に野生化もしており、しかも面倒なことに輸入された「ハリエンジュ」(ニセアカシア)を当時は「アカシア」と称していたことから、現在でも根強く混同されているからである。例えば、「アカシアはちみつ」として販売されている蜂蜜は「ニセアカシア」(ハリエンジュ)の蜜なのである(以上は主にウィキの「ニセアカシア」に拠った)。]

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