梅崎春生 砂時計 6
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人間は何時なんどき、どういう急激な病気で、あるいはどういう不慮な事故で、死んでしまうか判らないものだ。判らないからこそ人間は安んじて生きている。しかし、じりじりと長い時間をかけて死んで行くのと、ぽっくりと頓死するのと、どちらが当人にとって幸福か。私などは今のところ、どちらかと言えば、後者の方が望ましいような気がするが、しかしこういうことはやはり当面して見ないと判らない。それでは、残される者にとってはどちらが望ましいか、これもその時の条件や環境、それらの復雑な組み合わせによって異なるのだろう。今から十数年も前のことになるが、東京の某郊外にある山川病院長山川医学博士は、友人に誘われて、生れて初めて海釣りに行き、一尺ほどの魚をやっと釣り上げたとたん、心臓麻痺をおこして舟中で急死した。六十三になっても、初めて魚を釣り上げたことは、相当にショックだったにちがいない。とかく初めての経験というやつは、新鮮で快適な半面に、非常におそろしいものを含んでいる。
山川博士は腕は確かで人望もあり、病院も割に繁昌していたが、博士の派手好きと浪費癖のために、財産は遺族にほとんど残らなかったそうだ。二階建ての大きな病院も没後人手に渡ってしまった。そしてそれは病院ではなくなってたちまち養老院に変身した。現在も養老院で、正式には『夕陽(せきよう)養老院』と呼ばれている。老人だから夕陽というわけなのだろう。ここに入っている老人は、開院以来爺さんばかりである。婆さんは入所する資格がない。どうして婆さんを入れないか。婆さんだと長生きをする。統計上そうなっている。長生きをされると回転率が悪くなるからだ、という噂も一部には流布されている。院内の爺さんたちも大体そう思っているらしい。夕陽養老院は私立の養老院だから、もちろん無料ではない。入所の当初に金を払わねばならぬ。戦前にはその額が八百円だったが、戦後は物価の昂騰(こうとう)につれて、現在では十万円にまではね上った。十万円さえ払い込めば、あとは死ぬまでただで世話をしてくれるわけだ。そして入所の資格年齢は六十歳以上ということになっている。資格年齢を下げると、その分だけ生きられてかなわないからだろう。
現在の夕陽養老院長は黒須玄一と言って、身の丈六尺近くもある壮漢だ。歳は四十五六だが、周囲の房毛だけのこして、てっぺんはすっかり禿げ上っている。色は浅黒く、眉毛がふとぶとと濃い。それに三寸ぐらいの長さの剛(こわ)い顎鬚(あごひげ)をたくわえている。眼光もけいけいとして、人を射すくめるような光を放つ。射すくめると言うより、咎めだてをするような、と言った方がいいかも知れない。いつも紺地の詰襟服を好んで着用し、院内をのっしのっしと巡視して回る。短軀にして倭小(わいしょう)なのが多い爺さんたちの中で、黒須院長の巨軀は大へんに目立つのだ。そして黒須院長は自らのことを『信念の人』と呼んでいる。時にはそれに『鉄の如き』という形容詞をつけることもある。そういう心臓ぶりが、院内のある種の爺さんたちの趣味にはなはだしく合わないのである。この逞(たくま)しい黒須玄一院長は、しかしこの養老院の経営者ではない。つまり彼は雇われ院長に過ぎないのだ。数名から成りたつ経営者団によって、一年ほど前黒須玄一はここの院長に任命された。そしてこの一年間彼は院内の改革(爺さんたちにとっては迷惑な話であったが)に努力して、かなりの成功をおさめた。そこで経営者たちからの覚えもめでたく、月給も初めにくらべると二倍になったという話だ。そんなことにおいても院長をこころよく思っていない向きが確かにある。黒須院長が咎めだてをするような眼相になったのも、そこに一因があるらしいのだ。
今、夕陽養老院に収容されている爺さんの総数は九十九名である。九十九名が二階建てコの字型の建物の各部屋に、それぞれ分散して入っている。住居は一人あたり最低三畳を確保するという約束だったが、黒須院長が就任以来、何とかかとか口実をつけて、一人あたりを二畳に減らしてしまった。すなわち六畳間には三人というわけだ。収容人員も六十六名から九十九名に増加した。二畳というと一坪という勘定になるが、人一人が生きて行くのにたった一坪とは、いくらなんでも狭過ぎるだろう。爺さんたちが不平を言うのもムリはない。
爺さんたちは皆、当初にまとまった金額を納入する能力を持っていたわけだから、世の並の放浪者や極貧者とはすこし違う。子供夫婦とそりが合わないとか、世の荒波にもみくちゃにされて生きて行くのがイヤになったとか、理由はそれぞれあるが、最後の平穏な生活を求めて入所してきたことにおいては、皆一致している。その平穏な生活の形式を、白蟻が材木をすこしずつ食い破るように、黒須院長が一年にわたってじりじりと食い破ってきたわけだ。爺さんたちがそれで黙っておさまる筈がない。
こうして梅雨に入る前後から、爺さんたちの動静はすこしずつざわめき始め、黒須院長の眼はますますたけだけしい光を増して来た。そしてニラ爺の退院問題をきっかけとして、在院者と院長との衝突が始まったのだ。
午後一時二十分。
黒須院長は詰襟服のボタンをきちんとかけ、顎鬚をしごきながら、正面玄関のバルコニーの上に佇立(ちょりつ)し、空をじっと見上げていた。空の色はまるでポタージュのようにねっとりと重苦しい。今にも雨が降(お)ちて来そうだ。黒須院長はかねてからこのバルコニーに佇(た)って、悠然と空を眺めるのが大好きであった。こういう姿勢をとると、いかにも『信念の人』らしく見える。その点において彼はこの場所を愛好していた。しかし今日は単にポーズをとるためにここに立っているのでもなければ、空模様を心配しているのでもなかった。彼は空を眺めながら、ニラ爺の処分のことについてあれこれと考えていたのだ。午前中黒須院長は威儀を正し、街の自転車屋に出かけ、リヤカーの売値をたしかめてきた。自転車屋の主の言によると、新品で一台一万円から一万二千円ぐらいするという。それは黒須院長の予想より五割がた高かった。
「うん」やがて顎鬚をぐいとしごき、黒須院長は決然たる口調でひとりごとを言った。院長はバルコニーに出ると、とかくひとりごとを言う癖があった。「これはやっぱり韮山(にらやま)に負担させよう。もともとこれはあいつの過失だ。過失を放っておくと癖になる。おいぼれを増長させると全くきりがない。負担をこばめば、もちろん即時退院処分だ!」
黒須院長は眼玉をぎろりと光らせ、空から地上に視線を移した。この建物の前庭は、黒須院長の就任当時は、一面の芝生と花壇で、爺さんたちの好い日向ぼこの場所になっていたが、今は彼の改革方策にしたがって芝は全部引っ剝がされ、掘りくりかえされてすっかり畠になっている。前庭のみならず、構内の空地という空地は残らず畠になってしまった。一千二百坪のこの夕陽養老院は、建物と畠からなっていると言っても過言ではない。トマト、胡瓜(きゅうり)、いんげん、茄子(なす)、さつま芋、ねぎ、さまざまの種類の野菜がところ狭しと生い繁っている。そのあぜに点々と、数名の爺さんがそれぞれの姿勢で、虫をつまんで潰(つぶ)したり、病葉(わくらば)などを摘み切ったり、いろいろと世話をやいている。その姿を今このバルコニーからも眺めることが出来る。もちろんこれは任意の労働でなく、黒須院長が発案した輪番制の強制労働だ。〈適当な労働は長寿の秘訣〉黒須院長は満足げに畠や爺さんたちを見おろしながら、またひとりごとを言った。
「うん。初めてにしては割に良く出来たな。これもひとえに俺の企図が良かったせいだ。だからして、収穫の四分の一は俺が頂戴する権利があるな。いや、四分の一とは控え目すぎる。三分の一と行こう。それにしても、あの韮山爺のやつ!」
太い眉をびくびくと動かして、黒須院長は腹立たしげに舌打ちをした。黒須院長をして舌打ちさせた事件は、数日前のことだ。その日の午後、早実りのトマトを総員労働で採取したところ、予想外の収穫高で、院内消費を差引いてもなおリヤカー一台分が余った。そこで黒須院長はこれを売却することに決定した。ただちに夕陽養老院備品のリヤカーに搭載(とうさい)し、五十円という報酬でこれを行商して回る希望者をつのって見ると、予想に反して誰も希望して出て来ない。報酬が少なすぎると言うのだ。黒須院長は内心腹を立てたが、面に出すわけにも行かず、止むなく今度は七十円に値上げしたところ、やっと韮山爺さんが一歩進み出て来たというわけだ。韮山爺さんは院内ではニラ爺と呼ばれ、年齢も満で七十三歳で、ここでは古顔の一人に数えられている。頭は禿げて腰も曲り、年齢のせいか頭もすこし
ぼけていて、とかく珍奇な振舞いが多い。訪ねてくる身よりもなく、おそらく煙草銭かせぎに希望して出たのであろう。黒須院長はちょっと心配して訊(たず)ねてみた。
「大丈夫か?」
「大丈夫でやんす」
ニラ爺はもごもごと口の中でそう発音した。当人が大丈夫だということだし、他の爺にたのめば七十円ではイヤだと言うだろうし、結局ニラ爺行商の件を容認したのだが、それが黒須院長近来の大失敗だったわけだ。
午後三時半、ニラ爺はトマト満載のリヤカーをえいえいと引っぱって、裏門から出発した。そして帰院して来たのは、もう夜中の二時過ぎで、ニラ爺は極度の疲労のために雑巾(ぞうきん)のようにしおたれていた。しかもリヤカーは引かずに手ぶらでだ。あんまり張り切りすぎて、遠くまで行商して歩いたので、ついに道に迷い、それでこんなに遅くなったのだと言う。いろいろ心配して(リヤカーやトマトのことなどを)寝ずに待っていた黒須院長は、半分怒鳴るようにして訊ねた。
「リヤカーはどうしたんだ」
「へえ」ニラ爺の体躯はおそれおののき、一回り小さくなったようであった。「電車の踏切りで、電車と衝突しまして」
「なに?」里一須院長はぎろりと目を剝(む)いた。「衝突だと。衝突と言うのはだな、大体同じ質量のものがぶつかり合うことだ。それを電車とリヤカーが衝突だなぞと――」
「へえ」ニラ爺は面目なさそうにますます小さくなった。
「そいじゃ、はね飛ばされましてん」
「なにい。はね飛ばされたあ?」黒須院長は椅子からすっくと立ち上った。「どの電車線の、どの踏切りだ」
「へえ。Q電鉄です。運転手のやつがカンカンに怒りまして――」
ニラ爺はくどくどと弁解を始めたが、黒須院長はそれにほとんど耳をかさず、動物園の熊のように部屋をどしどしと歩き回ってばかりいた。そして夜が明けるのを待ちかねて早速Q電鉄にかけ合いに行ったが、電鉄側では、当方の手落ちではなくそちらの過失だ、と冷淡につっぱねる。一時間余りもねばってみたが、向うでは頑強にそう主張する。電鉄側には証人がいるらしいが、こちらはニラ爺の言葉だけで、それを裏づけるものが何もないのだ。しかもニラ爺は老齢で頭がぼけているし、正式に争っても勝ち目はなさそうであった。そこで黒須院長はかんかんにふくれて、とりあえず現場に急行した。問題のリヤカーは第十三号踏切りのそばの溝の中に泥まみれになり、横だおしにころがっていた。こわれて使用出来ないことは、さわってみるまでもなく、一目でわかった。
(リヤカーははね飛ばされて、ニラ爺には異状がないかわりに――)バルコニーから地上をにらみ回すようにしながら黒須院長は考えた。(ニラ爺がはね飛ばされて、リヤカーが無事であった方が、どんなに良かっただろう。そうすれば明目にでもニラ爺の後釜(あとがま)に新入院者が十万円持って入ってくる。今のままじゃリヤカーの損害だけでも一万二千円だ)
そして黒須院長はくるりと回れ右をして、バルコニーにつづく院長室にのっしのっしと歩み入った。こめかみの血管が怒張して青くふくれ上っていた。
(それにあいつらは、リヤカーのことについては毫(ごう)も反省の色は見せず、行商手当の七十円を早く払えと言いやがる。今どきの老人は全くなっておらん。義務のことは忘れて、権利ばかり主張する。なんという嘆かわしいことか!)
あいつらと言うのは、当のニラ爺と、ニラ爺と同室の松爺と滝爺の。ことであった。松爺と滝爺は、同室のニラ爺の窮状に同情して、そして黒須院長にたてつく気になったのだろう。黒須院長は部屋のすみの卓に行き、大やかんからコップに麦茶をなみなみとついだ。なまぬるい麦茶は一気に院長ののどを胃の方に流れ落ちた。濡れた顎鬚を詰襟服の袖口でぬぐいながら、黒須院長はまたひとりごとを言った。
「ひょっとかすると、あいつら、アカじゃなかろうか」
思わず自ら発言した『アカ』という言葉のひびきに、黒須院長はぎょっと脅(おび)えた様子で、おどおどとあたりを見回した。しかしその脅えの色はすぐに顔から消えて、咎めだてするようなたけだけしい光が、ふたたび眼によみがえってきた。黒須院長は院長卓の頑丈な回転椅子にどっかと腰をおろし、宙をにらんでじっと眼を据(す)えた。
このリノリューム張りの院長室は、山川医院時代は診察室だったという話だが、黒須が院長になって以来、彼はいろいろ新しく調度類を購人し、重厚にして威圧的な雰囲気をつくり上げることに成功した。だから院内の爺さんたちは、前の院長時代は気軽に院長室に出入り出来たが、今はお白洲(しらす)に出るみたいでどうも具合が悪い、とこぼす者が多い。黒須院長が購人した調度類は、並外(はず)れて巨大なものばかりなのだ。院長が使用する扇は仕舞用の舞扇だし、卓上の灰皿ときたら直径一尺にちかかった。これら巨大なものの組み合わせが、高圧的な雰囲気をかもし出すのに大いに役立っている。黒須院長はその大型の回転椅子の上で、厚味のある胸をぐいと反らした。
(明目の午後は月例の経営者会議があることだし――)黒須院長は右掌で禿げた顱頂部(ろちょうぶ)をしずかに撫でさすりながら考えた。あたかも経営者たちの気持を撫でおさめるかのように。――院長にこわいものがあるとすれば、すなわちこの経営者会議がそれであった。雇われている閲係上、院長はどうしても彼等に頭が上らないわけであった。(それまでにどうしてもリヤカー事件を始末して置かねばならん。俺の黒星となると大変だからなあ)
黒須院長はぬっと立ち上った。そして大戸棚の上から硯箱(すずりばこ)をおろして、また院長卓に戻ってきた。硯箱も大きくて、ちょいとしたスーツケースほどの体積をもっていた。黒須院長は卓上に紙をのべ、おもむろに硯箱のふたをとった。それから眼を閉じてふかぶかと深呼吸をした。筆で字を書く前にそうするのは、院長の少年時代からの習慣だ。その習慣は院長の父親から仕込まれたものであった。だから黒須院長は今でも、眼を閉じて深呼吸をする度に、あの厳格だった父親のことを思い出す。父親は地方の中学の書道の教師で、不遇の生涯をおくって死んだ。黒須院長は眼を閉じたまま、やや感傷的な声でつぶやいた。
「お父さん。……お父さん」
父親は院長ほど大きな体軀は持っていなかった。むしろ目本人としては小さい部類に属していた。その小男から、どうしてこんな大男が生れたか、院長自身も知らない。父親は教師の故もあって大へん厳格な性格で、院長は少年時代毎朝四時にたたき起され、習字を徹底的にやらされた。黒須院長が現在能筆家であるのも、ひとえに幼少時代のこの訓練のためである。その頃、その地方の新聞社で、年に一回小学生の書道大会というのをやっていて、出来の良い順に、天、地、人、五客、秀逸、入選、という等級をつける。院長も父親に命じられて毎年これに出品するのだが、もしも、天、地、人、に入らないで、五客にでも落ちようものなら、父親はかんかんに怒って院長を荒繩でしばり上げ、物置に放り込んでしまうのだ。そしてその日一日は、泣いてもわめいても、飯ひとつぶも食べさして貰えなかったものだ。たしかにあのスパルタ式教育が、今の自分の土性骨(どしょうぼね)をつくり上げた、と眼をつぶったまま院長は考える。
「……お父さん」
父親は背は低かったが、頭だけは今の院長と同じく、てっぺんがきれいに禿げ上っていた。ある夜すこし酔っぱらって、いきなり立ち上った瞬間、その禿頭を電燈の球に打ちあてたのだ。その頃の電球は今のと異って、その尖端に短いするどいガラスの針が突き出ていた。内部を真空にする技術が進歩していなかったから、電球製造中にどうしてもこういう針が出来てしまうのだ。不運にも父親の禿頭にそのガラスの針が突きささって、父親は大げさな悲鳴を上げた。そして禿頭には小さな孔があき、薄い血がそこから滲(にじ)み出てきた。電燈のあかりに照らされたその血の色を黒須院長は昨目のことのように思い出すことが出来る。そして院長の父親は、その傷口からバイキンが入り、バイキンはやがて全身に囲り、その頃はペニシリンもなかったから、二週間目にとうとう死んでしまったのだ。死ぬ前の日に父親は院長を枕もとに呼びよせ、『如何なる場合でも信念をもって生きよ』という遺言をのこした。それ以来黒須院長は、父親のその遺言を拳々服膺(けんけんふくよう)し、信念をもって今まで生き抜いて来た。もっとも近頃の黒須院長の『信念をもって生きる』ということは、『自分に都合よく生きる』ということとほとんど同義語になってしまってはいたが。――
「よし!」黒須院長は力強くつぶやいて、眼をかっと見開いた。そして筆にたっぷり墨を含ませて、紙におろした。さすがは能筆をほこるだけあって、墨痕りんり、筆は生けるものの如く自在に紙上をおどった。
『告示
院生韮山伝七は去る六月×目、本院備品のリヤカー
を破損せしめ、使用不能にいたらしめたり。これひ
とえに本人の不注意に因するものなるによって、向
う一月以内に 事務局に 一万二千円を納入弁償すべ
し。弁償不能の場合には、院長の権限をもって退院
を命ずることあるべし。右告示す。
夕陽養老院長 黒須玄一』
[やぶちゃん注:署名の「黒須」が底本では「黒頂」となっているが、誤植と断じ、訂した。]
そして黒須院長は筆をとめ、ちょっと考え込む顔付きになった。ふたたび筆をとって余白につけ加えた。
『以後本院の建物備品を、故意と不注意たるを問わ
ず破損破壊せるものは、この事例に即して処分する
ものとす。 院長㊞』
黒須院長はしずかに筆を置き、院長卓の引出しから告示用の院長印を取り出した。これもれいによって途方もなく巨大なハンコで、電気アイロンぐらいの大きさがあった。それに朱肉をまぶし、自分の署名の下にべたりと押しつけた。そして院長は満足そうに顎鬚をしごきながらにやりと笑った。
「先ずは、これでよしと」
リヤカー破損の件を明目の会議で披露することは、いと辛い限りであるが、しかし直ちにこういう処置をとったと報告すれば、経営者たちも不満には思うまい。いや、不満どころか、よろこぶに違いないのだ。経営者たちが望んでいるのは、在院老人の回転率の早さであり、すなわちそれによる入院料十万円の間断なき流入である。端的に言えば、爺さんたちが続々死亡してくれることを希望しているわけだ。爺さんが一人死ぬと、すぐ都内某大学付属病院に遺骸を持って行く。病院ではこれを解剖(かいぼう)の実習に使用し、あとは火葬してちゃんと骨壺に入れて戻して呉れる。それだけでなく、別に三千円という金までつけて呉れるのだ。それに都の方からも三千円という葬儀料がとどく。そういう副産物すらあるのだから、爺さんたちの死が待望されないわけがない。院内爺さんの誰かが死ぬと、この世に残された爺さん仲間は、それぞれのへそくりの中から香奠(こうでん)を出す。一人々々の額は少くても、数十人分とまとまると、ちょいとした金額になるのだ。この香奠は、夕陽養老院歴代院長のほまちになるという不文律があった。一人五十円出すとしても、総数九十何名だから、五千円近くになる。一月に平均四人死ぬとして、院長のほまちは月約二万円となるのだ。副収入としては相当な金額だ。そして香奠返しにはビスケット一袋ぐらいで済ませることになっている。――この度の退院処置というのは、前例にないことであるが、院内から消滅するという点では、退院も死亡の一種と見なしていいだろう。解剖料という副産物は入らないとしても、経営者たちがよろこばない筈がないのである。
「重畳(ちょうじょう)。重畳」
黒須院長は書き上げた告示を手にして、回転椅子から勢いよく立ち上った。在院老人数を六十六名から九十九名と五割増しにすることによって、れいの羽根運動からの援助金も一躍五割増しになった。実を言うと、有料養老院は募金の補助を受ける資格はないのだが、そこはそれ渡りをつけて、うまくごまかしてあるのだ。その点においても、経営者たちの黒須院長に対する信任はあつい。今度の退院制度を確立することによって、ますます信任が深まって行くことであろう。
(しかし、こういう制度を確立することにおいて、あのおいぼれどもが黙っているかどうか)
院長室の扉を押して廊下に出ようとする時、黒須院長の脳裡をちらとかすめた危惧(きぐ)はそのことであった。院長は唇をきっとむすび、眉をびくびく動かしながら、廊下をまっすぐ階段の方にあるいた。掲示板は階下玄関の右側にあるのである。院長はやや足音を荒くして、階段を降り始めた。
(うん。なんとか言って来ても、頑としてはねかえしてやる。あいつら、齢をくっているだけで本質的には烏合(うごう)の衆なのだ)古ぼけた階段は黒須院長の靴の下でぎいぎいとにぎやかに悲鳴を上げた。その複雑な摩擦音は、しかし黒須院長の心情を鼓舞し元気づけるというより、何故かむしろ気持をひるませ潰(つい)えさせたようであった。院長の足どりは急に弱くなった。(いや、やはり正面衝突するのはまずい。押しつめられてくると、あいつら何をやり出すか知れたもんじゃない。懐柔策をとる方がいいかも知れん。そうだ。やはり懐柔と恫喝(どうかつ)、その二本立てで行こう。両方をうまくあやなして行くなんて、院長商売もはたで見るほどラクじゃないな)
階段を降り切ったところで、黒須院長はややぎょっとしたように立ち止り、手にした告示を背にかくすようにした。前方五米ばかりの場所に、瘦せた滝爺が立っていたからである。滝爺というのは本名を滝川十三郎と言って、以前は某新聞社の記者だったとのことだが、割に理屈っぽい口やかましい老人であった。滝爺は廊下にひっそりと立ち、どんぐり眼でじっと黒須院長を見詰めていた。告示を背に回した自らの弱味を恥じて、その反動で黒須院長は横柄な声を出した。
「何か用か?」
「院長」滝爺も押しつぶしたような声を出した。「おれたちは一度院長とじっくり話し合いたいことがあるんだ」
「何か用か?」黒須院長は同じ問いをくり返した。在院老人の大部分は黒須玄一のことを、院長さん、院長さま、あるいは院長先生と呼ぶ。この滝爺は黒須のことを、院長、と呼び捨てにする少数者の一人であった。「用というのはニラ爺のことか?」
「うん。それもある」滝爺は追い詰めるように一歩進み出た。「しかし、それだけじゃない。いろいろ問題があるんだ。今日、院長は時間が空いてるか?」
「うん」黒須院長は相手を咎めるように眼を険(けわ)しくさせた。「昼間は事務でいそがしい。夜分なら三十分ぐらい時間を割(さ)こう」
「夜分でもいいよ」
そして滝爺は何かつけ加えようとしたらしいが、思い直したように口をつぐみ、回れ右をすると、肩をそびやかして玄関から前庭へ出て行った。黒須院長は滝爺の姿が見えなくなるのを待って、始めて掲示板に近づいた。
(おれ、と言わずに、おれたち、と復数で来たな)告示をがさがさと拡げ、鋲(びょう)でその四隅をとめながら院長は考えた。なにか不安な感情が湧いて来そうだったので、院長は直ちにうんと下腹に力を入れて、それを押しつぶした。鋲を親指でぎりぎりと押しながら、黒須院長は呪文(じゅもん)のように呟(つぶや)いた。
「懐柔と恫喝。懐柔と恫喝。ええい。なにくそっ!」
[やぶちゃん注:「仕舞用の扇」「仕舞」とは、能・芝居・舞踊などで、舞ったり、演技したりすること。或いは特に、能の略式演奏の一つで。囃子 (はやし) を伴わず、面も装束もつけず、シテ一人が紋服・袴 (はかま) ・扇だけで、謡だけを伴奏に能の特定の一部分を舞うものを指す。ここは後者ととっておく。
「顱頂」頭の頂(いただ)き。
「五客」「ごきゃく」と読み、俳句などの選に於いて、「天」・「地」・「人」の「三光」の次に位する五つの優れた作品を指す。
「その頃の電球は今のと異って、その尖端に短いするどいガラスの針が突き出ていた」takeshi_kanazaw氏のブログ「写録番外編」の「昔の電球の光はいい・・・」の下方の二枚の写真を見られたい。
「拳々服膺」心に銘記し、常に忘れないでいること。「礼記(らいき)」の「中庸」が原拠。「服膺」は「胸につけて離さない」の意。
「ほまち」は「帆待ち」で、本来は、江戸時代に、運賃積み船の船乗りが契約以外の荷物の運送で内密の私的収入を得ることや、その収入金を言った。そこから転じて「外持」「私持」などとも当て字して、「臨時に入る個人的な収入」・「個人的に秘かに蓄えたへそくり」の意となったものである。
「れいの羽根運動」「赤い羽根共同募金運動」のこと。現行のその公式記載に、『共同募金及び共同募金会に関する基本的な事項が、社会福祉法に規定されて』おり、この『運動は、都道府県を単位にして行われ』、『各都道府県内で共同募金としてお寄せいただいたご寄付は、同じ都道府県内で、子どもたち、高齢者、障がい者などを支援するさまざまな福祉活動や、災害時支援に役立てられ』、『共同募金運動を推進するための組織として、都道府県ごとに、県内の各界を代表する役員で構成された共同募金会があり』、『都道府県共同募金会には、助成先を決定する「配分委員会」が市民参加により設置されており、助成団体や金額が決められ』ているとある。
「恫喝」「恫愒」とも書く。嚇(おど)して怯(おび)えさせること。]