大和本草卷之十三 魚之下 鴟尾(しやちほこ) (シャチ)
【外】
鴟尾 事物紀原云唐會要海中有魚虬尾似鴟激
浪則降雨遂作其像於屋以厭火災云云今以尾
為之蘇鶚演義曰蚩海獸也蚩尾水精能辟火災
可置之堂殿今人多作鴟字又俗間呼爲鴟吻墨
客揮犀注為獸○蚩尾或海魚トシ或海獸トス海
魚ニ。シヤチホコアリ此魚日本ニテハ伊勢海ニアリ西州
ニハマレ也全體黑色也或ネスミイロナリ又黒トンバウト
云此魚性剛ニシテヨク海鰌ヲツキテ追フクジラ恐レ
テ逃ク一切ノ魚ヲ食ス牙齒スルトナリ大サ五七尺
ヨリ三四間ニイタル油多シ皮ニ牡蠣生ス群遊ス今
城門樓閣寺院ノ棟ノ端ニ瓦ニテツクリ立ツ卽此魚
ナリ又魚虎ヲシヤチホコト訓スルハ非ナリ本草ニ云處ニ
不合元升翁曰シヤチホコハ竜頭魚ナルヘシ
○やぶちゃんの書き下し文
【外】
鴟尾(しやちほこ) 「事物紀原」に云はく、『「唐の會要〔くわいよう〕〕」に、海中に、魚、有り。虬〔(きう)〕。尾、鴟〔(しび)〕に似、浪に激すれば、則ち、雨を降らす。遂に其の像を屋〔(や)〕に作る。以つて火災を厭(まじな)ふ』と云云(うんぬん)。今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る。「蘇鶚演義」に曰はく、『蚩〔(し)〕は海獸なり。蚩尾〔(しび)〕は水の精。能く火災を辟〔(さ)〕く。これを堂・殿に置くべし。今人、多く「鴟」の字と作〔(な)〕す。又、俗間、呼びて「鴟吻〔(しふん)〕」と爲す』〔と〕。「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」の注に『獸』と為す。
○蚩尾、或いは海魚とし、或いは海獸とす。海魚に「しやちほこ」あり。此の魚、日本にては伊勢〔の〕海にあり。西州には、まれなり。全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり。又、「黒とんばう」と云ふ。此の魚、性、剛〔(かう)〕にして。よく海鰌(くじら)を、つきて、追ふ。くじら、恐れて逃〔(に)〕ぐ。一切の魚を食す。牙齒〔(がし)〕するどなり。大いさ、五、七尺より三、四間にいたる。油、多し。皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず。群遊す。今、城門・樓閣・寺院の棟〔(むね)〕の端に、瓦にてつくり、立つ〔は〕、卽ち此の魚なり。又、「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず。元升(げんしやう)翁曰はく、「『しやちほこ』は竜頭魚なるべし」〔と〕。
[やぶちゃん注:想像上の「鯱(しゃち)」は、姿は魚、頭は虎、尾鰭は常に空を向いていて、背中に幾重もの鋭い棘を有するとされる幻獣であり、また、ここに記された通り、それを模したところの主に火災を避けるための呪的形象として屋根に使用される装飾の一種である。一字で「鯱(しゃちほこ)」とも読み、「鯱鉾」とも書かれる。寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」では「魚虎(しやちほこ)」と記されてある(リンク先は私の電子化注)。通常、大棟(おおむね)の両端に取り付け、鬼瓦と同様に守り神とされ、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すとされる(「鴟尾(しび)」も同じであるが、特にあれは幻獣ではなく、中国で同様の呪的役割として、魚が水面から飛び上がって尾を水面上に出した姿を具象化したものであって、屋根の上面が水面を表わし、水面下にある建物は燃えないとの言い伝えから「火除け」として用いられたものと考えられている)。ウィキの「鯱」によれば、鯱は『本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入れて使用したことで普及したといわれている』。『現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがある』。『瓦・木・石・金属などで作られる。城の天守や主要な櫓や櫓門などにはよく、陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが上げられる。城郭建築に用いられている銅板張木造鯱のもので最大の現存例は松江城天守(高さ2.08メートル)のものといわれて』おり、『青銅製(鋳造)のものでは、高知城天守のものがある』。『粘土製の鯱瓦は、重量軽減や乾燥時のひび割れを避けるために中を空洞にして作られているため、非常に壊れやすい。棟から突起した心棒と呼ばれる棒に突き刺し、補強材を付けて固定される』。『木造の鯱は、木製の仏像を造る原理に木を組み合わせて、ある程度の形を造っておき、防水のため、外側に銅板などを貼り付けて細かい細工なども施す。粘土製と同じく心棒に差し込み』、『補強材を付けて固定される』。『金色の鯱のことを特に金鯱という。金鯱には陶器製の鯱瓦に漆を塗り、金箔を貼り付けたものが多かった。一般の金箔押鯱瓦は、岡山城天守に創建当初載せられたものなどがある』。『特異なものでは木造の鯱に銅板の代わりに金板を貼り付けたものが上げられることがある。構造は銅板張りの木造鯱と同じ』で、『現在の名古屋城大天守に上げられているものがそれである。同じ仕様のものは、徳川大坂城天守や江戸城天守などに使用された』とある。
しかし、本条は読み進めれば判る通り、益軒は実在する、
哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca
に同定しており、博物学的に正しい。但し、福岡から殆んど離れなかった益軒が実物を見た可能性はゼロに等しい。シャチと言えば、私は今でも鮮やかに覚えている、少年時代の漫画学習百科の「海のふしぎ」の巻に、サングラスをかけた小さなシャチが、おだやかな顔をしたクジラを襲っているイラストを……。ちょっとした参考書にも、シャチは攻撃的で、自分よりも大きなシロナガスクジラ(鯨偶蹄目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)を襲ったり、凶暴なホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)等と闘い、そこから「海のギャング」と呼ばれる、と書かれていたものだ。英名も「Killer whale」、学名の Orcinus orca も「冥府の魔物」という意味でもある。しかし実際には、肉食性ではあるが、他のクジラやイルカに比べ、同種間にあっては攻撃的ではないし、多くの水族館でショーの対象となって、人間との相性も悪くない(私は、芸はさせないが、子供たちと交感(セラピー)するバンクーバーのオルカが極めて自然で印象的だった)。背面黒、腹面白、両目上方にアイパッチ(eye patch)と呼ぶ白紋があるお洒落な姿、ブリーチング(breaching:海面に激しく体を打ちつけるジャンピング)やスパイ・ホッピング(spy hopping:頭部を海面に出して索敵・警戒するような仕草)、数十頭の集団で生活する社会性、エコロケーション(echolocation:反響定位)による相互連絡やチーム・ワークによる狩猟、じゃれ合う遊戯行動等、少しばかりちっぽけな彼等がシャチの分際で人間の目に付き過ぎたせいかもしれないな。本項の叙述もそんな感じだ。『出るシャチはブリーチング』というわけか。
「事物紀原」中国の類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事、現行本は十巻千七百六十五事。宋の高丞撰。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類して名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。当該部分は「卷八」の以下(「中國哲學書電子化計劃」より引き、漢字の一部表記を変更した。また、早稲田大学図書館古典総合データベースにあるこちらの寛文四(一六六四)年刊の訓点附版本(PDF)を参考に、不完全ではあるが、句読点や鍵括弧を附して読み易くした 。リンク先のそれは送り仮名も振られているので、対照すると完全訓読出来る。問題はどこが各書籍の引用なのかが不明なだけである)。
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「唐會要」曰、漢栢梁殿災。越巫言、海中有魚、虬尾似鴟。激浪則降雨。遂作其像於屋、以厭火災。王叡「炙轂子」、栢梁災越巫獻術、取鴟魚尾置於殿屋、以厭勝之。今瓦爲之。「蘇鶚演義」曰、漢武作栢梁殿。上疏者曰、蚩尾水之精能辟火災。可置之堂殿。今人多作鴟字、顔之推亦、作鴟。劉孝孫「事始」、作蚩尾。又俗間呼爲鴟吻。如鴟鳶。遂以此呼之後。因有作此鴟者。王子年「拾遺記」曰、鯀治水無功。自沉羽淵化爲玄魚。海人於羽山下修玄魚祠、四時致祭。嘗見瀺灂出水。長百丈、噴水激浪、必雨降。「漢書」越巫請以鴟魚尾。厭火災、今鴟尾卽此魚尾也。按王嘉晉人。晉去漢未逺當時、已作鴟字。蘇鶚之說亦、未爲允也。吳處厚「靑箱雜記」曰、海有魚虬尾、似鴟。用以噴浪、則降雨。漢栢梁臺災。越巫上厭勝之法。起建章宫、設鴟魚之像於屋脊、以厭火災。卽今世鴟吻是也。
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「唐の會要」「唐會要」(とうかいよう)は中国の北宋の王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が撰して、太祖の建隆二(九六一)年に完成した、現存最古の会要(一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した歴史書の一種)である。ウィキの「唐合会要」によれば、『本書は、蘇冕』(そべん)「会要」と崔鉉(さいげん)らが撰した「続会要」の『続編として作られ、専ら唐一代の政治・経済・文化等の各項目の制度沿革を記録しており』、「通典」(つてん:唐の杜佑(とゆう)が記した中国史上初めての形式が完備された法制度関係書で、黄帝と有虞氏(舜)の時代から、唐の玄宗の天宝晩期の法令制度の制度沿革に至るまでを記録し、その中でも唐代を最も詳しく述べてある)などの『典籍と多くの類似点を有している。しかしながら、唐代の制度に関する記載は、更に詳細であり』、「旧唐書」(くとうじょ)中に『大量の史料が存在する。例えば、「音楽志」・「天文志」などは』、皆、『本書から採られて』いるため、『本書の記載に誤りがあれば』、「旧唐書」もまた『同じ誤りを犯している』という具合である。『なお且つ本書は』「旧唐書」・「新唐書」『未収の史実を』も『記載しており』、「大唐起居注」・「大唐実録」が既に『亡佚した今、部分的な内容であっても、多く本書に保存されて』あって貴重なのである。『原本は流伝の過程の中で残缺し、現行本は清代乾隆年間に整理された本の重印で』、全書百巻・五百十四目で『あるが、少なからざる条目下には「雑録」が有り、門類に分けられていないため、査読に』は『不便である。別に張忱石の』「唐会要人名索引」が『あり、検索に便である』とある。引用部は同書の「巻四十四」の「雜災變」の一節。中文ウィキソース「維基文庫」のここから引く。一部の漢字表記を変更し、文の開始位置も変えた。
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開元十五年七月四日。雷震興教門兩鴟吻。欄檻及柱災。
蘇氏駁曰。東海有魚。虯尾似鴟。因以爲名。以噴浪則降雨。漢柏梁災。越巫上厭勝之法。乃大起建章宮。遂設鴟魚之像於屋脊。畫藻井之文於梁上。用厭火祥也。今呼爲鴟吻。豈不誤矣哉。
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「虬〔きう〕」龍の子どもで二本の角を持つとされる。みづち(蛟)。
「鴟〔(しび)〕」実在する鳥ではトビ・フクロウ・ミミズクなどを指し、怪鳥の意もある。
「浪に激すれば」波濤の高まりに怒ると。
「屋〔(や)〕」屋根。
「厭(まじな)ふ」「咒(まじな)ふ」「呪(まじな)ふ」に同じ。
「今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る」現在は尾の部分だけを形象する。されば、ここの部分に関しては「鯱鉾」よりも「鴟尾」を解説しているとする方が相応しい。
「蘇鶚演義」唐の蘇鶚の撰になる本草書「蘇氏演義」。引用は「巻上」の以下。「漢籍リポジトリ」の同書から引いた。一部の漢字表記を変更し、句読点や鍵括弧を推定で附した。
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蚩者、海獸也。漢武帝作柏梁殿。有上䟽者云、「蚩尾、水之精、能辟火災、可置之堂殿。」。今人多作鴟字。見其吻如䲭鳶、遂呼之爲䲭吻。顏之推亦、作此䲭。劉孝孫「事始」作此。蚩尾、既是水獸、作蚩尤之蚩是也。蚩尤銅頭鐵額、牛角牛耳、獸之形也。作䲭鳶字、卽少意義。
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「蚩〔(し)〕」この漢字自体は、本来は「這い歩く虫」の意で海棲動物の意味はない。但し、上で述べられるように、中国神話に登場する狂暴な神に蚩尤(しゆう:黄帝時代の諸侯とも臣ともされるが、獣身で銅の頭に鉄の額を持つとか、四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとも伝えるモンスターである。黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦って敗死したともされる)がいるので、それとの関連を想像すると、何となくこの漢字もありかも、という気はしてくる。
「蚩尾〔(しび)〕」「鴟尾」の別表記で使用される。
「鴟吻〔(しふん)〕」小学館「日本国語大辞典」にも「鴟尾」に同じとする
「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」宋の彭乗(ほうじょう)の撰になる随筆。日中数種の全電子化テクストを用いて「獣」「獸」「兽」で調べたが、孰れもヒットしない。不審。
「日本にては伊勢〔の〕海にあり」ウィキの「シャチ」によれば、『日本では北海道の根室海峡から北方四島にかけてや、和歌山県太地町にて度々目撃されている』とあるから、伊勢というのは腑に落ちる。
「全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり」聞き書きで、実見していないので、この誤りは仕方あるまい。ウィキの「シャチ」によれば、『背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を小さく見せたりする効果があると言われている。大きな背びれを持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。背びれの根元にサドルパッチ』(saddle patch)『と呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる』とある。
「黒とんばう」黒蜻蛉であろうが、違和感がない異名である。「シャチ」よりずっといい。
「五、七尺より三、四間」一メートル八十二センチから七メートル二十七センチ。シャチはマイルカ科 Delphinidae の中では最大種で、平均で体長は♂で5.8~6.7メートル、♀で4.9~5.8メートル。
「油、多し」Q&Aサイトの「シャチは食べられるか」という質問への答えに、『国内では座礁したシャチを食べた事があったかもしれません。積極的に食用目的で獲った事はあまりないと思います』。『しかし壱岐では高松鯨という塩鯨があったそうです。タカマツとはシャチの事です』。『戦後~1970年代ごろまでは油脂採取目的で乱獲し、定住型シャチがいたとしたら』、『絶滅したのではとも言われてます』。『日本では一部を除き』、『殆どいなくなってしまった』ともある。また、『アイヌは他のイルカや鯨を漁の対象としても』、『シャチは神鯨として』、『決して』捕『ったり』、『食べたりする事は有りませんでした』。『インドネシアのランバタ島ではシャチを獲っていたと思います。ですが漁師は自分では食べずに交易品にして』いたもの『と思います』とあった。
「皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず」これは中型以上のクジラ類に一般に普通に見られる現象で、この附着が各個体の識別にも利用されている。
『「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず』これは当然である。「本草綱目」のそれは全く別種の記載だからである。「鳞之四」の以下を読まれたい。
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魚虎【「拾遺」。】
釋名 土奴魚【「臨海記」。】。
集解 藏器曰、『生南海。頭如虎、背皮如猬有刺、着人如蛇咬。亦有變爲虎者。』。時珍曰、『按、「倦游録」云、「海中泡魚大如斗、身有刺如猬、能化爲豪猪。」。此卽魚虎也。』。「述異記」云、『老則變爲鮫魚。』。
氣味 有毒。
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概ね、魚類愛好家なら、即、お判りの通り、「本草綱目」の記すこの「魚虎」は、虎や蝟(ハリネズミ)が化生したという叙述はブットビだが、それを勝手に比喩として転ずるなら、背部の刺の描写は、まず、カサゴ亜目オニオコゼ科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus などを筆頭としたカサゴ目の毒刺を有するグループであることが見て取れる。
「元升翁」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)であろう。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の『次男は俳人の向井去来』である。
「竜頭魚」現行では条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori の異名で、こう書いて「さより」と読ませるらしいが、これまた、ちょっと私にはピンとこない。元は中国の「通雅」(明の方以智(ほういち)撰の語学書)由来のようだ。しかし思うに「龍頭」(りゅうず:梵鐘の最上部の環状を成している部分の名称。ニ個の獣頭からなり、口唇の部分で梵鐘の上蓋に接している)って、如何にも鴟尾っぽくねえか?!]
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