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2020/07/17

三州奇談續編卷之七 布施の白龍

 

    布施の白龍

 氷見は古(いにしへ)の大郡(だいぐん)の名、今に國府をし「氷見の庄古國府(ふるこふ)」と書く。上古は「火見」と云ひし。海上火光の靈あるに依りしと聞きしが、中頃火災に忌むことありて、「氷見」と改むと云ふ。尙又「郡内」の稱あり。古き山人は今に氷見に出づるを「郡内(ぐんない)へ行く」と稱(とな)ふ。されば有磯海(ありそうみ)を前に抱へ、布勢の湖(うみ)を後ろに湛ふ。布勢湖(ふせのうみ)は、凡一二里丸山と云ふに、中納言家持の勝遊の樓の跡と云ふあり。今は式内の神布施明神ましくて、宮柱古び、藁のやね纔(わづか)に舊(きう)を思ふ媒(なかだち)となれり。里俗云ひ傳へて、

「爰にて栗三本を見れば下に金(かね)を埋(うづ)めあり」

と云ふ。一說には此宮を「御影(みかげ)の神社」と云ひ、布施の神社は地(ち)沒して定かならずとも云ふ。向ひに「三社が崎」あり。扨は古代神主爰に多かりしと知る。古墳も又多し。「十三塚」・「十三入江」とも云ふ。其古墳雅(みやび)なるを知らず。「萬葉」布施の詠歌多し、算(かぞ)へ云ふベからず。「雪島」と云ふに撫子(なでしこ)をよみ合せたるも見ゆ。今や世人唐島(からしま)をさして「雪の島」とすれども、是れは非ならん。思ふに「いくぼ」・「ゆやまの池」及び三社の端(はし)などのうちと思はる。今は布施の湖、多く桑田となり減じて、其景悉く失して國用の富饒(ふぜう)の地となる。故に景秀でたるに非ず。依りて今唐島の絕景なるに付すれども、必ずさにあらじ。けふ此丸山に登りて遠望するに、氷見の地橫たはり、濱松は左右に連(つらな)り、此上を蜑(あま)の釣舟或は沖の白帆など打越えて見ゆるさま、繪も及ぶべからず。况や目の下の靑田悉く布施の湖ならんには望景絕勝ならざらんや。或人云ふ、

「中頃飯久保(いくぼ)に狩野中務(かのうなかつかさ)が籠りし頃は海なり。飯久保大手先を「南條(なんぜう)の浮橋(うきはし)」と云ひ、今(いま)田となれども、大雨洪水の折は浮(うき)ありくと云ふ。猶又近く此百年以前迄、此山入悉く湖なりしと云ふ。されば千年以前の家持卿、國府に在住ながら、此丸山に遊覽の別莊を置きて、都より美人下向の事ども「萬葉集」に委し。絕景察すべし。

[やぶちゃん注:「氷見の庄古國府(ふるこふ)」現在、富山県高岡市伏木古国府(グーグル・マップ・データ)がある。因みに、江戸時代以前に「射水郡」を二つに分けて「中郡」と「氷見郡」と俗称したが、江戸初期の加賀藩政下に於いて「射水郡」から一度、「氷見郡」として分離されたものの、延宝二(一六七三)年には再び「氷見郡」は「射水郡」に吸収されている。本書の成立は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃であるから、加賀藩の行政上は「射水郡」であるものの、旧来の「氷見郡」時代の土地呼称を人々は使っていたに違いない。さすれば、「氷見の庄」は腑に落ちるのである。因みに、この「かたかご幼稚園」を北に下った伏木小学校前の向かいの東角のボロ屋に私は鎌倉から移って一年ほど暮らした(当時、中学一年)。グーグル・ストリートビューのこの車庫と化している建物と空地の後ろ部分である。その後、そこから東に少し行った「赤坂光泉」(ここは当時は銭湯だった)を古国府側に入ったところの三棟合わせて建てられた住宅の一番奥(現存していた。グーグル・マップ・データ航空写真)に移り、それから二年弱で前に述べた二上山麓の矢田新町に建てた新居に移ったのだった。なお、私の一番の親友は今もこの古国府に住んでいる……ああ……ひどく哀しく懐かしい……

『上古は「火見」と云ひし』氷見市観光協会と氷見市観光交流課の作成になる「きときと ひみどつとこむ」の氷見市の公式見解に、諸説あるが、として、
・古代、蝦夷防備の狼煙を監視する場所で、狼煙の火を見るところだから火見と言った。
・海をへだてて、立山連峰の万年雪が見えるところだから氷見と言った。
・海の漁り火が見えるところだから火見と言った。
・海が干し上がって、陸地になったところだから干海 (ひみ)と読んだ。
を挙げてある。ちなみに「きときと」とは富山弁で新鮮なことを意味する。

「丸山」、前の「多湖老狐」に注したが、再掲しておくと、「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」PDF)の裏表紙には、十二町潟には一つぽつんと島があった、として「布施の丸山」の写真が載る。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、「中納言家持の勝遊の樓の跡」というのはどうか? ここは当時、十二町潟の中の孤島であったはずである。そこに別荘を建てたというのは、私は少し眉唾であるように思われる。但し、ここに「式内の神布施明神ましくて」とある通り、布勢神社(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイト「玄松子の記録」の同神社に、『古文献によると、当社に関する社名は、布勢社、諏訪社、御影社などの相違が見られる。現在、御影社は、境内社として大伴家持を祀り、本社では、大彦命を祀る。ともに、当地へ赴任してきた開拓者としての立場。諏訪社に関しても、出雲から信濃への途上に当地へやって来たものだろう』と分析され、以下に出る「御影(みかげ)の神社」についても、『境内社の御影社は、本殿の後方に鎮座。大伴家持は、越中国守に赴任し、当地「布勢の水海」を愛したという』。昭和六〇(一九八五)年の「大伴家持千二百年祭」の折りに、『御影社は新築され、旧社殿は、右端に残されている。御影社は、文献によっては見影社、水影社とも書かれるが、「水影社」という表記は、布勢の水海にちなんだものだろうか』と述べておられる。麦水が布勢神社と御影社を混同しているのは、この当時、既に後者が廃頽していたことを意味するように思われる。さらに、「社頭案内」の電子化に「布勢の円山」は『今から約』千三百『年前は、ここから見える田園一帯は「布勢水海」と呼ばれる大きな水海でした。大伴家持は』七四六年から七五一年まで『越中の国守として越中国府(現在の伏木)に住んでいました。大伴家持は、布勢水海をこよなく愛し、遠く都から訪ねてきた友人らと舟遊びをし、美しい風景を数多く歌に詠んでいます』。

 布勢の海の沖つ白波あり通(がよ)ひ

    いや每年(としのは)に

      見つつ偲(しの)はむ

(以上は「万葉集」巻第十七の長い賦(三九九一番。こばやしてつ氏のサイト「ゆかりの地☆探訪 ~すさまじきもの~」の「布勢の海(富山県氷見市)」を参照されたい)に添えた短歌(三九九二番)

『(布勢の水海の沖に立ちさわぐ白波の美しい景色を、 こうしていつも通ってきて、毎年眺めることとしよう)』とあり、「境内案内」の「布勢の円山」の電子化には、『布勢の円山は、水田の中に島のように盛り上がっているので、どこから見ても丸く見える。周囲約三百メートル、高さ約二十メートル、そこから の眺めはありし日の布勢水海を思いめぐらすのに最適である』。『祭神は、四道将軍の一人として北陸道の鎮撫にあたったという大彦命で、布勢一族が祖先神をまつったものと伝えられている』。『この社の後ろに境内社として「御影社」があり』、『大伴家持をまつっている』。『布勢神社境内にある石碑は万葉にかかわる碑として、県内最古のものといわれる享和二年(一八〇二)の古碑(山本有香撰文)と明治三十三年、大伴家持の千百年祭が行われ、地元の有志によって建てられた大伴家持卿之碑(重野安繹撰文)が向かい合っている』とあり、同じく「万葉の歌碑と御影社」には、

 明日の日の布勢の浦みの藤波に

    けだし來鳴かず散らしてむかも

(巻第十八の四〇四三番。一本には初句を「ほととぎす」とする)

『この歌は、天平二十年(七四八)三月二十四日、奈良の都から使者として越中に来た田辺福麿の歓迎宴の席上、国守大伴家持が「明日はまず越中の名所布勢の水海へ案内しましょう」と福麿を誘ったのに対して、福麿との間にとりかわされた歌のなかの一首』で、『福麿が』、

 藤波の咲き行く見ればほととぎす

       鳴くべき時に近づきにけり

(同四〇四二番。五首詠んだうちの最後のもの)

『とよんだのに対して家持が「明日眺めようという布勢の海べの波のように咲き匂う藤の花に、ほととぎすが来て鳴かないで、せっかくの花をむなしく散らしてしまうのではなかろうかと気がかりです」と答えたもの』で、『藤波とほととぎすによって布勢の水海の季節感を美しく歌いあげている』とある。これらの歌は国府の館での詠。先の古国府の勝興寺附近にあったのである。

「爰にて栗三本を見れば下に金(かね)を埋(うづ)めあり」以下に古墳が多いことが記されてあり、埋蔵金伝説には古墳がつきものであるから腑に落ちる。

「三社が崎」不詳。原十二町潟の奥の岬か。

「古墳も又多し」「北村さんちの遺跡めぐり」のマップ参照。サイト「北村さんちの遺跡めぐり」にはここから五回に亙って詳細に氷見市の古墳の解説がある。但し、氷見市上田子の北の柳田の知られた柳田布尾山古墳を除いて、殆どは十二町潟の北或いは北西に展開している。原十二町潟の範囲を考えると腑に落ちる。

「十三塚」現在、脇方(わきがた)十三塚古墳群があり、この氷見市脇方には旧地名に「十三塚」がある。

「十三入江」不詳。個人サイト「万葉のふるさと氷見」の「氷見の遺跡・古墳」を見ると、万尾川(もおがわ)及び仏生寺川流域にある広域の古墳群を総称するのに「十三谷」という呼称が存在するようである。

「雅(みやび)なるを知らず」豪華なものは知らない、の謂いか。

『「萬葉」布施の詠歌多し、算(かぞ)へ云ふベからず』中西進氏の講談社文庫「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年刊)によれば、「布勢」で、題を含めると十五を数え、歌に詠まれたものは九首を数える。

『「雪島」と云ふに撫子(なでしこ)をよみ合せたるも見ゆ。今や世人唐島(からしま)をさして「雪の島」とすれども、是れは非ならん』既出既注。前の「多湖老狐」の「雪の島」の私の注を参照。唐島説は私も否定する。というより、そこで述べた通り、これは島の固有名詞ではない。従って以下の麦水の同定考証も無効である。

「いくぼ」富山県氷見市飯久保(いくぼ)。ここは原十二町潟の最奥部に当たる。

「ゆやまの池」不詳。富山県氷見市森寺には湯山城跡があるが、ここ(グーグル・マップ・データ)は内陸の山間部で阿尾(あお)から海が貫入していたとしても、十二町潟とは有意に離れており、おかしい。

「三社の端(はし)」不詳。先の「三社が崎」の端という謂いではあろう。

「富饒(ふぜう)」現代仮名遣「ふじょう」。富んで豊かなこと。特に本邦では米をはじめとした穀類や農作物に対して言う。

「故に景秀でたるに非ず」麦水はしかし、ここでは、なかなか正鵠を射ている。確かに今の景色は絵にかいたように素晴らしいけれども、かつて、ここに広大な幻の十二町潟が広がっていた万葉の時代を想起するがよい、でなくては万葉人たちのしみじみとした感懐は、これ、到底、味わえぬと示唆しているものと私は読む。

「狩野中務(かのうなかつかさ)」先の飯久保には飯久保城跡がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。ウィキの「飯久保城」によれば(そこでは「いいくぼ」と読んでいるが、現在の地名でも「いくぼ」である)、『富山県氷見市南部を支配していた狩野氏の居城。越中国鞍骨山城、越中国惣領砦も狩野氏の持ち城だったと云われており、以前は鞍骨山城が狩野氏の居城であったとされていたが、近年ではその立地から飯久保城が居城であり鞍骨山城はその詰城だったのではないかと考えられている。もしくは当初は山間部の鞍骨山城に拠っていたが、勢力を強めて徐々に平野部へと進出した過程で飯久保城が築かれ、これを拠点としたとも考えられよう。また戦国時代の一時期には越中国池田城城主三善一守が拠っていたと云うが、正確な時期は不明』。『狩野氏は元々は加賀国の在地領主であった。鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてこれに拠っており、中先代の乱では宮方として活躍している。その後は加賀国守護富樫氏の家臣であったが』、長享二(一四八八)年に『発生した加賀一向一揆によって当主の富樫政親が敗死。加賀国の支配権は富樫氏から一向一揆勢力へと移行した。狩野氏はこの難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと云う。飯久保城の正確な築城年代は不明だが、これ以降であろう』。『狩野氏は越中国守護代神保氏の配下であった様だが、その動向を窺うべき史料は少なく、不明な点が多い』。永禄年間(一五五八年~一五六九年)には狩野中務丞良政の名が見え、『良政は富山城主神保長職に人質を差し出して臣従していたことが知られる』。永禄四(一五六一)年には『一族の宣久が飯久保城の近くに在る光久寺に対して寺領を寄進し』、『租税を免除している(『光久寺古文書』)。また上杉謙信や佐々成政に仕えている事から、神保氏の中でも越中国守山城主神保氏重、氏張系統の家臣団に組み込まれていた様である。狩野右京入道道州は、神保家没落後上杉家に臣従し、子の狩野秀治は上杉景勝に仕え重用されている』。天正一三(一五八五)年八月に『豊臣秀吉が越中へと攻め込んで成政が降伏した(富山の役)後、狩野氏は没落して飯久保城を離れたと云う。その後飯久保城の名が史料から見えなくなり、また前田氏が領する事でその戦略的利用価値を失ったと考えられる事から、さほど時を置かずして廃城になったと思われる』とある。

「大手先」本丸の正面出入り口「大手口」に当たる部分。パソコンの会社組織の作成に成る「史跡 飯久保城跡」にある「枡形虎口」(写真豊富で解説も詳しい。但し、一番上の現地案内板の左の図は南北が逆になっているので注意)から降りた平地附近であろう。現在も田圃で北を仏生寺川が流れるが、往古は原十二町潟の入り江がここまで伸びていたものと思われ、北の丘陵部にかけて以下の浮橋があったものと考えられる。

「南條(なんぜう)の浮橋」「浮橋」水上に筏や多くの舟を浮かべ、その上に板を渡した橋で、江戸時代までは特異なものではなく、各地で見られた。舟橋(ふなはし)。とも呼ぶ。「神通巨川」の「舟橋川」の注に出した、「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」を見られたい。「南條」という地名は見出せない。

「家持卿、國府に在住ながら、此丸山に遊覽の別莊を置きて」麦水はよほどこの孤島の丸山に家持の別荘を建てずんば止まずである。されば、少なくとも「万葉集」所収のその十五の前書出現の歌や賦及び詠み込まれた九首総てを読み、解釈したが、それらは布勢(後の十二町潟)の水際に遊んだ、遊ぼう、舟を浮かべた、浮かべよう、そこの美景を見ずにはおられない、という内容ばかりであって、どこにも「布勢の海」「布勢の浦」「布勢」に島があるとは記されておらず、当然の如く「丸山」などという地名も出現しない。狭い孤島「丸山」島に別荘を作ったなどとも、そこに人々を招待したなどとも一言も書いてないし、それを匂わせる部分もない。この拘りは何? って感じ。或いは彼は既にただの干拓地になってしまっていた田舎さびたポンコツの歌枕の地を「万葉」の名所にして売り出そうとでもどっかの誰かさんみたように思ったものか? とすれば、今も昔も変わらんわい、という気はしてくるのである。

 

 其後のことにやあらん。「白女(シラメ)」と聞えし遊君の歌人下向のことありしに、此地の何某いかなる宿緣にや、一夜(ひとよ)相見えん約ありけるに、いつしか事間違ひて、人の誘ふことありて、遊女白女頓(やが)て都に登りしを、此人望(のぞみ)を失ふ事限りなく、明暮恨みて伸び上りのびあがり是を望むに、自(おのづか)ら長竿郞(ながかんらう)の如し。終に人の交りを絕し、此湖に入りて、執念凝りて白龍と化すと、古き物語に聞えし。其地は今や岡野に變し、布勢の湖も十が一にも狹まりたれば、何れの土中か測り難し。然れども地下は必ず龍窟と覺えて、雪島と指すべきあたり龍氣あること顯然たり。近く安永の初め、此續き「六渡寺(ろくどじ)の渡し」と云ふ通りに、白く長きもの住みて久しく去らず。折々川口にも遡(さかのぼ)り遊びし躰(てい)なり。渡(わたし)の舟より是を見るに、水底(みなそこ)に居る時は水悉く白し。折々は脊を顯す、白く丸く只雪の如し。脊のみ見えて首尾を出(いだ)さず。或人稀に首を見るに「四角なりし」と云ふ。浦傳ひに遊泳して日を經て隱る。然るに誰云ふともなく、

「白男(しらを)白男」

とよぶ。思ふに是(これ)白女か[やぶちゃん注:「が」か。]夫にして、雪島の地下の主(ぬし)是ならん。湖中狹まりたりといへども、國恩撫育(ぶいく)民(たみ)に濕(うるほ)へば、猥(みだ)りに地を沒し作毛を損ひ難(がた)く、折々近き海畔(かいはん)に遊泳して、又雪の島の地中に歸り住むこと眞然(しんぜん)たり。誰が名付くともなく、世人の「白男」と云たるは、誠に天然の妙と覺えたり。されば「六渡寺の渡り」と云ふは、則ち伏木の浦口にして、雪解(ゆきげ)の流(ながれ)の頃は、「シガ」と云ふ物張りて舟を塞(ふさ)ぐ。是又氣あるが如し。慶長の年、「靈鬼」なる男此渡りを通りて、龍氣を閲(けみ)せしこと「中外傳」に見えたり。思ひ合すに是ならん。古へは「伏木」を「伏鬼」と書くと聞く。又故ありと覺ゆ。是等の事など問合(とひあは)せて、舟を氷見に還しぬ。

[やぶちゃん注:「白女(シラメ)」不詳。珍しい底本のルビ。

「遊君の歌人」歌を詠み、気が向けば体も鬻(ひさ)いだであろう女性芸能者。恐らくはこの伝説は、前の「多湖老狐」に出た「万葉集」巻第十九の四二三二番を詠んだ「遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)」がルーツであろう。しかし、「一夜(ひとよ)相見えん約ありけるに、いつしか事間違ひて、人の誘ふことありて、遊女白女頓(やが)て都に登りしを、此人望(のぞみ)を失ふ事限りなく」って何よ? 端折り過ぎいーの、圧縮し過ぎいーの、解凍不能のカチンコチンやないけ?

「長竿郞(ながかんらう)」憧(あくが)れ出ずる魂が長々と伸ばした釣り竿のような状態になった情けない野郎の意か。全然、同情が湧かぬわい。

「雪島と指すべきあたり」だからね! そんな島は、ない、ちが!!

「安永の初め」一七七二年が元年。一七八一年までの十年。

『此續き「六渡寺(ろくどじ)の渡し」と云ふ通り』既注既注。射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称。現地の駅名標などでは「ろくどうじ」(現代仮名遣)が正しい。伏木の小矢部川対岸の庄川河口である。但し、「此續き」と言っているが、続きっちゃ続きだけど、氷見市街からだって実測十キロメートルは離れてますからね。元の十二町潟だった干拓地の下に埋まった白龍が何だってわざわざ十キロ以上も離れた、無関係なこんな場所まで出張って来てまで、姿を現わさにゃならんがいね? わけわからんちが!

「渡(わたし)」こここそ、実は何を隠そう、かの有名な「勧進帳」の原型、「義経記」の「如意の渡し」ぞ!

「眞然たり」とは全く思いません!

「シガ」河氷の一種。厳冬期に気温と川の水温が適度に低くなると、水面に無数のシャーベット状の氷が現われ、その氷が、そのまま川の流れに乗って流れる現象をかく呼ぶ。河川の流下断面積を減少させるため、用水路の取水障害を発生させることがある。日本での発生地域として、福島県と茨城県を流れる久慈川上流部の矢祭町から大子町袋田付近にかけての約十五キロメートルの区間が挙げられるが、これは世界的に見ても、比較的、低緯度の地域で発生する流氷現象である。学術的には「晶氷」「氷晶」と表現する。なお、「氷花」或いは「氷華」と表記する例も見られるが、これらは漢字の当て字である。古来には川底の石の表面に氷ができ、それが浮かび上がる現象と言われてきたが、これは発生原因を正しく表したものではない。発生の初期段階においては、川の水温が摂氏零度近くまで下がると、水面付近にある厚さ数ミリメートルの熱境界水層で水が局所的に冷却されて氷となり、川面を流れ始める。その状態がさらに進むと、川全体が過冷却となり、水面から露出する石の周囲や川岸・川底に氷が形成されることもあるが、大半は水面由来のものである。また、北海道などの寒冷地では水面上への降雪によって生じる。この降雪によって生じた晶氷は比較的柔らかい(以上はウィキの「シガ」に拠った)。なお、小学館「日本国語大辞典」にも方言として載るが、語源は記されていない。

「是又氣あるが如し」「この現象もまた、白龍の気が、かく不思議なことを成しているかのようにも見える」と言うのであろう。

「慶長の年」一五九三年から一六一五年。

「靈鬼」「れいき」か「りやうき」か。分からん。こないな名前、附けよるは、偏奇なやっちゃな、知らんわ、もう。

「中外傳」既出既注であるが、再掲しておく。さりげない自著の宣伝。「慶長中外傳」は本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。

『古へは「伏木」を「伏鬼」と書くと聞く』伏木に六年いたが、こないないくそるような話は聴いたことがないっちゃ!

「白男」はあ……大量発生したミズクラゲ(鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia aurita)でないの?……

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