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2020/07/25

先生のおぞましい索敵が始まる

Kの告白のあった日の晩飯の席と、それに続くその夜のシークエンス――

 奥さんは私に
「何うかしたのか」
と聞きました。私は
「少し心持が惡い」
と答へました。實際私は心持が惡かつたのです。
 すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに「心持が惡い」とは答へません。
「たゞ口が利きたくないからだ」
と云ひました。御孃さんは
「何故口が利きたくないのか」
と追窮しました。
 私は其時ふと重たい瞼を上げてKの顏を見ました。私には『Kが何と答へるだらうか』といふ好奇心があつたのです。
 Kの唇は例のやうに少し顫へてゐました。それが知らない人から見ると、丸で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。
 御孃さんは笑ひながら
「又何か六づかしい事を考へてゐるのだらう」
と云ひました。
 Kの顏は心持薄赤くなりました。

 其晩私は何時もより早く床へ入りました。
 私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奥さんは十時頃蕎麥湯を持つて來て吳れました。然し私の室はもう眞暗でした。奥さんは
「おやおや」
と云つて、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈(ランプ)の光がKの机から斜にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。
 奥さんは枕元に坐つて、
「大方風邪を引いたのだらうから身體を暖ためるが可(い)い」
と云つて、湯呑を顏の傍へ突き付けるのです。私は已を得ず、どろ/\した蕎麥湯を奥さんの見てゐる前で飮んだのです。

 私は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです。
 私は突然
『Kが今隣りの室で何をしてゐるだらう』
と思ひ出しました。私は半ば無意識に
「おい」と聲を掛けました。
すると向ふでも
「おい」
と返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私は
「まだ寢ないのか」
と襖ごしに聞きました。
「もう寐る」
といふ簡單な挨拶がありました。
「何をしてゐるのだ」
と私は重ねて問ひました。
 今度はKの答がありません。
 其代り五六分經つたと思ふ頃に、押入を「がらり」と開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。
 私は
「もう何時か」
と又尋ねました。Kは
「一時二十分(ふん)だ」
と答へました。
 やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中(うちぢゆう)が眞暗なうちに、しんと靜まりました。

 然し私の眼は其暗いなかで愈冴えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な狀態で、
「おい」
とKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、
「おい」
と答へました。私は
「今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何うだ」
と、とう/\此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは卽坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度「おい」と呼ばれて、二度「おい」と答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。
「左右だなあ」
と低い聲で澁つてゐます。私は又『はつ』
と思はせられました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十二回からであるが、太字下線は私が附し、また、鍵括弧や改行を用いて場面を想起し易く加工した。以下も同じ仕儀を施した

   *

 Kの生返事は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色を決して見せませんでした。
 尤も機會もなかつたのです。奥さんと御孃さんが揃つて一日宅を空けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私はそれを能く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。
 其結果始めは向ふから來るのを待つ積で、暗に用意をしてゐた私が、折があつたら此方で口を切らうと決心するやうになつたのです。

 同時に私は默つて家のものゝ樣子を觀察して見ました。
 然し奥さんの態度にも御孃さんの素振にも、別に平生と變つた點はありませんでした。

 Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私丈に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥(たしか)でした。
 さう考へた時私は少し安心しました。
 それで
『無理に機會を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて吳れるものを取り逃さないやうにする方が好からう』
と思つて、例の問題にはしばらく手を着けずにそつとして置く事にしました。

 斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮の滿干(みちひ)と同じやうに、色々の高低(たかひく)があつたのです。
 私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へました。
 奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、
『二人の心が果して其處に現はれてゐる通なのだらうか』
と疑つても見ました。
 さうして
『人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るものだらうか』
と考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼(あ)あも取りした揚句、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六づかしく云へば、「落ち付く」などゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。

 其内學校がまた始まりました。
 私達は時間の同じ日には連れ立つて宅を出ます。都合が可ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。
 外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。
 けれども腹の中では、各自(てんでん)に各自の事を勝手に考へてゐたに違ひありません。
 ある日私は突然往來でKに肉薄しました。
 私が第一に聞いたのは、此間の自白が私丈に限られてゐるか、又は奥さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。
『私の是から取るべき態度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならない』
と、私は思つたのです。
 すると彼は
「外の人にはまだ誰にも打ち明けてゐない」
と明言しました。
 私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。
 私はKの私より橫着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覺があつたのです。
 けれども一方では又妙に彼を信じてゐました
 學資の事で養家(やうか)を三年も欺むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。
 だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。

 私は又彼に向つて、
「彼の戀を何う取り扱かふ積か」
と尋ねました。
「それが單なる自白に過ぎないのか、又は其自白についで、實際的の效果をも收める氣なのか」
と問ふたのです。
 然るに彼は其處になると、何にも答へません。
 默つて下を向いて步き出します。
 私は彼に
「隱し立をして吳れるな、凡て思つた通りを話して吳れ」
と賴みました。
 彼は
「何もお前に隱す必要はない」[やぶちゃん注:「お前」は原文では「私」。]
と判然(はつきり)斷言しました。
 然し私の知らうとする點には、一言の返事も與へないのです。
 私も往來だからわざ/\立ち留まつて底迄突ま留める譯に行きません。ついそれなりに爲(し)てしまひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十三回全)

   *

緻密な観察に見えるそれが強迫神経症漱石の投影で関係妄想的に手もなく不安増殖してゆくさまが見て取れる。

この冷酷無惨な索敵行動の言い訳(言い訳にならない言い訳)の中で最も私が「酷(むご)い」と感ずるのは、

『彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。』

という先生の述懐である。

自分に全幅の信頼を置いている相手を――それを当方は完全なる敵として認知している以上――抹殺することは――頗る容易である――

   *

なお、本作の中で時間が細かく分まで示されるのはここだけである。私は漱石の病跡学的観点から見て、Kが自殺した時刻を漱石はこの――午前一時二十分であったと睨んでいる――

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