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2020/07/17

梅崎春生 砂時計 20

 

     20

 

 栗山佐介他三名の一行が、カレー粉対策協議会場を離れ、佐介の納屋住宅に到着したのは、もう午後十一時を過ぎていた。

 協議会場から納屋までの暗い道、牛島康之は暗闇からの再度の襲撃をおそれ、眼を皿にして四辺に気をくばり、背丈をぬすんでこそこそと歩いた。彼の右手は相変らず乃木七郎の服の裾をしっかりとつかんでいた。それは乃木の逃亡をおそれるというよりは、不明者の襲撃にそなえて人楯(ひとだて)とするつもりであったらしい。その証拠に牛島は、乃木七郎の服をつかむだけでなく、身体をぴったりと七郎にくっつけ、背を押すようにして歩いていたのだ。背中をぐんぐん押され、地下足袋をぬかるみにピチャピチャ鳴らしながら、乃木七郎は迷惑そうにつぶやいた。

「どうしてこの人はこんなに俺を押しまくるんだろうなあ……ほんとに頭が痛いや……一体ここは何処なんだろう」

 小さなくぐり戸をくぐる時、乃木七郎は頭を鴨居にぶっつけて、ヒヤッと言うような悲鳴を立てた。乃木七郎の頭は、先ほど皆我ランコに机の脚で三つ殴られ、捕えられたあとも三つ四つ殴られ、一面コブだらけになっていた。その乃木七郎を牛島が不機嫌に叱りつけた。

「へんな声を出すんじゃねえ。首をしめられた鶏じゃあるまいし」

 曽我ランコが最後にくぐって、くぐり戸の扉をしめた。佐介はびっこをひきながら納屋に上り、手探りで電燈のスイッチをひねった。夜が遅いので電圧が正常に復し、その燈も夕刻よりぐんと明るい光を放った。入口からはみ出た黄色い光の輪の中で、牛島は眼をパチクリさせながら、まだ乃木七郎の上衣の裾をぎりぎりと握りしめていた。佐介はそれを見た。

「まだ摑んでいるのかい」電熱器やコップのたぐいを、足で隅の方に片寄せながら、佐介は呆れたような声を出した。コップや茶碗の耳をつまむことにおいて、佐介の足指は実に器用に働いた。「牛さんは実際なにかを摑みたがるんだな。摑んでいないと不安なのかな、さっきは僕の肱(ひじ)を摑み通しだったしさ。もういい加減放してやんなさいよ」

「そうよ。放したって逃げやしないわよ」土間の板壁の釘から雑巾をとり、それで脚を拭きながら曽我ランコが口をそえた。「逃げるきづかいはないわ。だってあたし、力いっぱい、殴ってやったんだもの」

 乃木七郎はぼんやりと淀んだ眼で、その曽我ランコの顔を見た。牛島は不承々々上衣から掌を外(はず)し、乃木七郎の背中をどんと突いた。乃木七郎はふらふらと前のめりになって、土間に足を踏み入れた。

「さあ、地下足袋を脱ぐんだ。その泥ズボンもだ」牛島は忌々(いまいま)しげに命令した。「逃げようなんて不心得を起したら、ほんとに承知しねえぞ!」

 曽我ランコは部屋に上った。つづいて乃木七郎。最後に牛島康之が仏頂面(ぶっちょうづら)で、肩を交互にぎくしゃくとひねりながら、のそのそと上って来た。

「栗さん。お前はやせっぽちのくせに、案外力(りき)があるな」

 牛島は自分の四角な顎に手をかけて、左右にがくがくと動かしながら佐介を見た。「横っ面ぶんなぐられて、あぶなく顎が外(はず)れるところだったぜ」

「僕だってひどい目にあったよ」佐介はズボンをたくし上げて右膝を露出した。そのあおじろい膝頭の部分々々を、彼は痛そうに指の先で次々に押して行った。「くらがりの中で、ここをあんたに手荒く蹴り上げられたんだ。また軽いネンザを起したらしい」

 乃木七郎は泥だらけのズボンを、地下足袋といっしょに入口で脱がせられたので、下着だけの素足となり、その裸の膝をきちんと揃え、供待ちの従者のように畳の上にかしこまっていた。乃木の脚は佐介のそれとちがって、北海産の毛蟹(けがに)みたいに一面剛毛が密生していた。佐介はそれを見ると、あわてて自分のズボンをずりおろした。乃木七郎はきょとんと顔を上げ、首をかたむけた。

「あ、あの音は何でございましょうか」

 自分が囚われの身であることだけはおぼろげながら判ってきたらしく、乃木七郎の語調はていねいとなり、ものやさしくなった。道ひとつ隔てた板塀のかなたで、金属と金属とぶつかり合うガシャガシャ音が、永遠の業苦(ごうく)の如く響いている。

「しらばっくれるな!」

 牛島が背後から怒鳴りつけた。乃木七郎は反射的に頸(くび)をちぢめた。曽我ランコは窓框(まどかまち)によりかかり、失望したようなつめたい視線で、乃木の顔や脚をじっと見おろしていた。畳に坐らないのは、泥だらけのスラックスのせいであった。彼女は乾いた声になって言った。[やぶちゃん注:「窓框」この場合は窓枠の下の部分。下框(したかまち)のこと。]

「男って、案外だらしないのね。三つ四つ殴っただけで、もうへなへなになってしまうんだ。がっかりしちゃうわ」

「かんたんに片づけなさんな」曽我ランコの腰のあたりを牛島はにらみつけた。「だらしないのも時たまいるが、そうじゃないのも沢山いる!」

「ねえ君」佐介は乃木七郎と膝を突き合わせて坐り、その顔をのぞきこんだ。「あのガシャガシャ音、何の音か忘れたのかい。憶い出してごらん。よく考えると、憶い出せるよ。そら、もう頭の入口まで来てるだろう。それに、この匂い!」

「はあ、何かにおいますな」乃木七郎はにぶい表情で首をかしげ、鼻翼をピコピコと動かした。「はて、これは何のにおいだったかな。とにかくおいしそうなにおいですね」

 朦朧(もうろう)たる記憶を手探りするかのように、乃木七郎は右掌を頭に持って行った。しかし頭に触れるやいなや、彼は痛そうに顔をしかめて掌を元に戻した。佐介は乃木の頭を見た。

「なるほど。ずいぶん凸凹になっているな。痛いだろう」佐介は部屋のあちこちを見回した。「なにか油薬でも――」

「バターでも塗ってやれ」牛島は乃木のそばに大あぐらをかいた。「それともカレー粉でもつけてやるか。ひりひりして、コブなんかたちまち蒸発するだろう」

「冷やすといいのよ。冷やすと記憶が戻ってくるかも知れないわ」曽我ランコは佐介の方に掌をつき出した。「タオルない? あたしが濡らしてきて上げる」

「へえ。ご親切なことだね」

「ついでにあたし、身体を拭いてくるわ。スラックスの泥も」曽我ランコはタオルを受取って肩にかけた。「その他にも、記憶を取り戻す方法を、いろいろ研究するといいと思うのよ。早いとここの男の、このX氏の頭のネジを元に戻して、修羅吉の首根っこを押えつけなきゃ、胸が収まらないわ。そうでしょ。井戸はどこ?」

「入口を出て直ぐ右っ側だ」佐介は乃木に向き直った。「ふん。X氏か。一体君は何という名前だね?」

 乃木七郎はふたたび首を斜めにして、唇をかすかに動かした。が、それは声にはならなかった。曽我ランコはそれを尻目にかけて、納屋を出て行った。やがて井戸のポンプを押す音がした。

「自分の名前まで忘れたんじゃあ仕方がないな」牛島が舌打ちをした。「これじゃ全然使いものにもなりゃしない。一体これは治るかね?」

「さあ、僕にもよく判らないが」佐介が答えた。「多分一時的なもんだと思う。しかし本などを読むと、十年も二十年も記憶を取り戻せないで、そのまま別の人物として生活していた例もあるらしいね。このX氏がどちらに該当するか」

 乃木七郎は無感動な表情でそれを聞いている。佐介はつづけた。

「僕の勤め先にもね。少々呆(ぼ)けたのがいる。これはちょっと治らない」

「白川研究所にか」牛島が語気荒くさえぎった。「一体お前さんは誰のことを言っているんだ――」

「ごめん、ごめん。あんたのことを指してるわけじゃないんだよ。勤め先がちがうんだ。別口の方のやつだよ。養老院の方なんだ。やはり齢をとると、呆けてくるのがいるんだねえ。まあこういうのは極く自然な呆け方なんだけどね」

「水を一杯下さい」乃木七郎がぽつんと言った。「咽喉が乾きました」

「水ぐらい自分で行って飲め!」そして牛島は直ぐに思い直した。「いや、俺が汲んできてやろう。夜陰にまぎれて逃走されてはかなわんからな。そのコップをよこせ」

 電熱器のそばにころがった合成樹脂のコップを、佐介は牛島にひょいと手渡した。牛島は受取って立ち上り、そそくさと土間に降りた。土間に降り立ったまま、牛島は動かなくなった。視線もひとところに固定して動かなくなった。井戸端の石畳の上に、曽我ランコは上半身を裸にして立っていた。濡れたタオルを右の乳房の上にあてて立っていた。納屋からの直接の光は届かなかったが、間接の光が彼女の胸や肩の輪郭を、ほの白く浮き立たせていた。曽我ランコは突然納屋の方に顔をねじ向け、するどい声で言った。

「誰?」

 牛島はあわてて首をひっこめ、足音を忍ばせて元に戻ってきた。困ったような笑い方をしながらささやいた。

「今、裸になってるからダメだ」そして声を更にひそめて、「あの女、いったい何者だね。お前さんの何かか?」

「そんなんじゃない」佐介はそっけなく首を振った。「僕もよく知らない。カレー粉会議で顔を合わせるだけだよ。僕は調査係だし、彼女は連絡係だ」

「そうか。どうも俺はあんな女が苦手だな。熊井照子の方がよっぽど俺の趣味に合う。第一荒っぽ過ぎらあね。男の頭を棒でぶん殴ったりしてさ。俺はああいう型の女は、ほんとに大嫌いだよ」

「わたしも嫌いでございます」乃木七郎が賛意を表した。

「つけ上るな!」牛島が乃木を即座にきめつけた。「誰もお前の意見なんか聞いてやしねえ」

「この人がぶん殴られた当人だから、意見を表明する権利ぐらいはあるよ。嫌いになるのも無理はない」佐介がとりなした。「つまりこの人はね、記憶を喪失したことによって、すべての責任から解放されたんだよ。いくらこのX君を責めたってムダなんだ。彼は責められる地点からはるか離れてしまった。もう別の地点に移ってしまったんだ。前場所から持ち越したのは、頭のコブだけさ。もっともこの人が移動出来たのは、自分によってじゃない。他力だね。殴打という物理的原因によって、この人は前場所の絆(きずな)から、完全に解放されたんだ。その解放が何時まで続くか、僕にも判らないけれどもさ」

「ありがとうございます」乃木七郎はにこにこしながら頭を下げた。「感謝いたします」

「しょうがねえなあ」牛島は怒るかわりに嘆息した。「ぬけぬけとお礼なんか言ってやがる。箸にも棒にもかからねえ。こんな奴が出て来ると、まったくはた迷惑だ」

「何が迷惑だね?」

「だってさ、俺たちはお互い同土で、ちゃんと一応のつながりだの連絡だのがあるだろう。因果関係やそんなものに結ばれている。そのまんなかに、こういう何も持たない奴がヌッと現われたんじゃあ、折角の連絡がそこらでズタズタに途切れたり、結滞したりしちゃうじゃねえかよ。こいつのおかげで、何かがバラバラになってしまった。人騒がせな奴だ。もっともそれはこいつのせいじゃなく、あの竹づっぽの責任かも知れないが」

「竹づっぽ?」

「そら、あの女のことさ。身体がすぽっとして、ちょいと竹の筒みたいだろう」戸外のポンプの方向を、牛島は小指で差しながら声を低めた。「でも、裸を見たら、案外いい胸の形をしていたな」

「全然の裸体か?」佐介はちょっと膝を乗り出すようにして聞いた。「はっきり見えた?」

「腰から上だけだ。そう膝を乗り出すんじゃない」牛島がたしなめた。「もう今はズボンも脱いだかも知れねえけどな。さっきは胸だけだったよ。ああいうのをさし乳というんだろうな。いい型のオッパイだった」

 ポンプが外でギイコギイコ鳴った。三人の男性は何となく一斉にそちらに顔を向けた。ちょっとした沈黙が来た。その瞬間、佐介は自分の眼が、牛島の眼になるのを感じた。牛島の眼が佐介を代行して、くらがりの曽我ランコの裸の皮膚をじっと見詰めている。ある刺戟が佐介の背筋をはしり抜けた。彼はかるく身慄(みぶる)いをしながら、顔を元に戻した。乃木七郎がかすれた声で言った。

「わたしは咽喉(のど)がカラカラです」

「でもね、僕たちはお互い同士できっちりと結び合ってるというけどもね」佐介は乃木の訴えを黙殺して、牛島に話しかけた。「そうでもないと僕は思うんだよ。つながっていると思い込んでいるだけで、つながっているという証拠はない。だって、つなぎ合わせるための釘やカスガイ、そんなものを僕たちは見ることは出来ないもの。たとえばあんたと僕の間にもさ。つまり僕たちはだ、自分たち全体が木造建築やブロック建築のつもりでいて、実のところは積木のお城じゃないのかねえ。ちょっとゆすぶると、床の上にくずれてバラバラになってしまう。そういう点でさ、健康なのはこのX君で、X君以外の人間がむしろ不健康なんだよ」

「また理屈をこね始めたな」牛島は不機嫌に言った。「すると気違いの方が俺たちより正常だと言うのか」

「この人は広大無辺の空白に入ったおかげで、そういうもろもろの錯覚から、一挙に逃れることが出来たんだ。おのずから逃れてしまったわけだね。非常に健全な状態だよ」

「水!」乃木七郎は右手で咽喉をかきむしった。「いくら広大無辺なブランクでも、水ぐらい飲ませないと可哀そうだね」佐介は思い切ったように立ち上りながら乃木をうながした。「さあ、井戸端に連れてってやるよ」

「俺も行こう」牛島もごそごそと立ち上って、言い訳がましく言った。「逃げられると元も子もなくなるからな」

 つづいて立ち上った乃木七郎の上衣を、牛島の手がふたたび摑(つか)んだ。佐介もつられて乃木の上衣を摑んだ。二台の貨車を率(ひ)き従えた機関車のように、乃木七郎はのろのろと畳の上を行進して土間に降りた。その足音で井戸端から曽我ランコがきっと顔を振り向けた。彼女はすでにブラウスを着け、髪を紐(ひも)できりりと束ねていた。入口の黄色い光線の輪の中に、三人の男の顔が突然ずらずらと現われ出た。その顔は三つとも光を背にしているくせに、どういう訳か、そろってまぶしそうな眼付きをしていた。その顔のひとつがやがてがっかりしたような声を出した。

「こいつが水を飲みたいと言うんでね」

「ついでに頭に水をザアザアかけて、冷やしてやるといいわよ」曽我ランコはタオルをしぼりながら、にくにくしげに言った。「痛い痛いと思ったら、あたしの胸、痣(あざ)が出来てたのよ。憎いわねえ」

「その石を投げたのは、あるいはこいつかも知れねえぞ」牛島は乃木の頸(くび)を背後から押えて、ポンプの流出孔に顔をあてがった。そして佐介がポンプをギイコギイコと押した。「さあ、飲みたいだけ飲みな」

 水が束になってほとばしり出て、乃木七郎の顔を水だらけにした。乃木七郎の口は底の抜けた瓶のように、際限なく水を吸い込み、そののどぼとけは不規則に、また嬉しげに、ごくごくと上下した。いい加減のところで牛島は手を伸ばし、乃木の顔の向きをねじ曲げたので、今度は水の束は乃木の頭髪に殺到した。水は髪の泥をふくんで濁りながら、石畳にざあざあと流れ落ちた。

「さあ、もういいだろう」牛島が乃木の襟首を引っぱった。濡れた頭に曽我ランコがタオルをふわりとかぶせた。乃木は眼をぱちぱちさせながら、タオルでそこら一帯を拭き回した。牛島が訊(たず)ねた。「どうだ。何か憶い出したか?」

 乃木七郎はタオルの手をちょっと休め、首を静かにふった。牛島は激しく舌打ちをした。

「もうこのおっさんはダメだな」

「なにかショックを与えると回復するかも知れないわね」ぞろぞろと納屋に戻ってきた時、曽我ランコが乃木を見ながら発言した。「なにかそんな注射薬か何かがあるんじゃない?」

「注射もあるし、電気ショックもある」佐介が答えた。

「分裂症なんかに効果があるらしいよ」

「ここでやれないか?」と牛島。

「やれないね。注射器もないし、電気器具もないもの。でも、牛さんは先刻から、しきりにこいつを回復させようとあせっているが、この人の記憶が元に戻ったって、そして修羅吉五郎の陰謀がバクロされたって、それはあんたと何の関係もないじゃないか。もともとあんたは局外者なんだからさ。それによってあんたは別に得をするわけでもあるまい」

「そりゃそうだが」牛島はちょっと言葉につまった。「でもこいつが記憶をなくして、ポカンとなっているのを、俺は放って置けないんだ。それは天の理、人の理に反することだからな。折り目正しい俺の性格からして、どうしても黙って放って置くわけには行かない」

 牛島は乃木をにらみつけるようにした。乃木七郎はきちんと正坐し、裸の膝に両掌をのせ、頰をゆるめてにこにこと笑っていた。空気の如く透明にわらっていた。それはこの納屋にいる誰よりも充足し、幸福そうに見えたのだ。嫉妬に似たいらだたしさが瞬間牛島をおそった。牛島はいきなり立ち上り、足音荒く乃木の背に回った。乃木七郎は笑いを消さないまま、反射的に首をすくめた。

「注射も電気も出来ないなら」牛島は声を押えつけた。

「思い切りゆすぶってやったらどうだろう」

 そして彼は両掌を乃木の両耳にぴたりとあてがった。そしてカクテルシェーカーでも振るように、乃木の頭を前後左右にやや乱暴に、またリズミカルにゆすぶり始めた。佐介と曽我ランコは興味ありげに乃木の顔に視線を集めた。乃木の濡れた頭髪は、そのゆさぶりにしたがって、細かい水滴を前後左右に弾(はじ)き飛ばした。その微細な飛沫の中で、乃木七郎は相変らずにこにこと笑っていた。曽我ランコが思い詰めたような声を出した。

「まだ笑ってるわ」

 牛島はゆさぶりの手を休め、腕を二三度屈伸させた。少少くたびれてきたのだ。乃木七郎はここちよげに顔を掌でぶるんとこすり上げ、おもむろに牛島をふり返った。

「ありがとうございました。おかげさまで、さっぱり致しました」

「何か憶い出したか」牛島がたたみかけた。「何を憶い出した?」

「いいえ。なんにも」

「ああ、何ということだ」牛島はすっかり絶望して、両方の拳固で自分の頭を強く連打した。「まるでのれんに腕押しじゃねえか。ダメだ。こいつはもうおしまいだ」

「おしまいじゃなかろう。始まりなんだ」佐介が訂正した。

「この人にとっては、これがおそらく始まりなんだよ」

「今度はくすぐってみたらどう?」曽我ランコが提案した。「殴られて記憶がなくなったんだから、くすぐると元に戻るかも知れないわよ」

「やってみるか」牛島は掌にぎしぎしと唾をつけた。「じゃ、君たち二人で、こいつの手をしっかり押えて呉れ。そうすればくすぐり易い」

 乃木七郎はあおむけに寝かされ、右手は佐介に、左手は曽我ランコに、それぞれ畳の上にぴたりと押えつけられた。その姿勢になるまでに、乃木はいささかの抵抗や反抗の気配も示さなかった。牛島は乃木の胴体に馬乗りになり、両手の指をトレーニングとして忙しく屈伸させた。乃木七郎はあおむけのままにこにこしていた。

「いいか。やるぞ!」

 牛島の両手はパッと動き、乃木七郎の両腋(りょうわき)の下に飛びついた。牛島の両手の指は、乃木の腋(わき)の下のくぼんだところから肋骨(ろっこつ)にかけて、縦横無尽に躍り回った。乃木七郎は大きな声を立ててわらい出した。しかし佐介も曽我ランコも、乃木の両腕を押えるのに、力をこめる必要はまったくなかった。乃木が腕をもがこうとは全然しなかったからだ。――乃木七郎は両手両足をゆるやかに伸ばし、腋の下をすっかり開放して、牛島のくすぐりたいままに任せながら、大笑いに笑っていた。天上の神々の如くに明るく、ここちよげに笑っていた。やがて牛島の額から汗がべっとりと滲(にじ)み出てきた。陰鬱なカレー器械のガシャガシャ音と、くったくなげな健康な乃木七郎の笑い声は、しばらく狭い納屋の中で入り乱れて響き合った。突然その笑いが佐介に伝染した。佐介は乃木の腕から掌を離し、自らの腹を押えるようにして、声を忍んでクックッと笑い始めた。

[やぶちゃん注:「ぎしぎしと唾をつけた」という表現がやや不思議に感じられ、方言ではないかと調べて見たが、見当たらない。「ぎしぎし」の意味の内で「隙間のないほど詰まっていくさま」の意を採ったものであろうか。]

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