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2020/07/12

梅崎春生 砂時計 12

 

     12

 

 小さなくくり戸を窮屈にくぐり、まっくろに湿った地面を四五歩あるくと、そこにその家の離れの入口があった。離れといっても、納屋(なや)を改造して畳を敷いただけのもので、床を低く、屋根はトタンで葺(ふ)かれていた。雨声がそのトタンの上でかすかに鳴っている。手さぐりでその入口まで来た時、牛島はやっと佐介の肱(ひじ)を自分の掌から解放した。

「暗いな」

 放した掌の各指をいたわるように屈伸させ、牛島は顔を左右に動かして、分厚(ぶあつ)な闇を嗅ぐようにした。たてつけの悪い扉を、佐介は力をこめてガタピシと押しあけた。

「いま電燈をつけるよ」

 佐介は土間に靴を脱ぎ、ふたたび手探りで部屋の中に入って行った。牛島は表の闇に棒杭のように立ち、まだ闇にむかって鼻翼をびくびくうごめかしていた。そして呟(つぶ)いた。

「うん。相当ににおうもんだな」

 ねっとりとただよい流れるものは、まさしくカレー粉のにおいであった。道ひとつ隔てた向うの板塀のかなたから、湿った空気をゆるがして、ガシャ、ガシャ、ガシャと金属と金属がぶつかり合う音が、間断なくひびいてくる。それも一つや二つの金属ではなく、何十という固いものが一斉に衝突し合う音である。鉄の靴を穿(は)いた数十の人造人間が、大きな鉄板の上で早足行進をしている。そういう単純な幻想が、その時ふと牛島をとらえた。牛島はそれにおびえて二三歩闇の中をあとしざりした。スイッチをひねる音と同時に、電燈の光が納屋からサッと流れ出た。光に額をひっぱたかれて牛島は眼をパチパチさせた。

「まあ上れよ」部屋の中から佐介が言った。

 牛島は身ぶるいをひとつして土間に足を踏み入れ、おもむろにビニールの頰かむりを外(はず)し、次にレインコートを脱いで、粗(あら)い板壁の釘に並べてぶら下げた。裾からぼたぼたと滴が土間に落ちる。佐介はそれを気にして、罐詰の空き罐をそこに据えた。水滴はチピ、チピ、チピと罐の底にはねた。佐介の眼は、ぶら下げられたレインコートの、裾のかぎ裂きを見ていた。

「やはり――」身体を起しながら佐介はうす笑いと共に言った。「ロケーション先には行かなかったんだね」

「行かなかったよ。なぜ?」

「いや、なんでもない」

 牛島は靴を足から引き剝がし、ついでに濡れた双の靴下もべらべらと剝ぎ取った。裸の足の裏の皮膚は、一面になま白く、気味悪いようにふやけていた。牛島は忌々しげに舌打ちしながら、靴下を束ねて力まかせにしぼり上げた。青黒いしずくがそこからたらたらと土間に垂れ落ちた。しぼり上げた靴下はそのまま並んで釘にぶら下げられた。粗板壁にはパチンコ台みたいに無数に釘が打ちつけられていて、まだ遊んでいる釘もたくさんあった。

「あれが、その音かい?」

 ガシャガシャ音の方向を顎(あご)でしゃくりながら、牛島はのそのそと部屋に入ってきた。部屋といっても、柔道場で使用するような縁無し畳が六枚敷いてあるだけで、押入れもないから、壁際には寝具や行李(こうり)類がはだかのまま積み上げられている。部屋の真中には、小机が一つ置かれていた。机の上には小さく折り畳まれた紙片がぽつんと乗っていた。

「そうなんだよ。ここでは僕は被害者なんだ。大した被害者なんだよ」片づけようとした卓上ピアノを畳の上に戻し、佐介は不審そうに紙片をつまみ上げながら言った。

「研究所では一応、加害者の立場に立っているんだけどね」

「きっぱり加害者とも言えないぜ」牛島は机の前に大あぐらをかき、手刀で頸筋をトントンと叩いた。「加害者、加害者といい気になっているうちに、いつの間にか被害者の方に回っているかも知れないよ」

 つまみ上げた紙片は電報であった。佐介はそれをがさがさと拡げて読んだ。

 

 『コンバンザイインシヤトカイケンス」キロクノヒ
 ツヨウアリ」スグライシヨセヨ」クロスゲンイチ』

 

「ムリを言ってるよ」佐介は電報をぐしゃぐしゃに丸めながら呟いた。「隔日務という初めからの約束じゃないか。それをこんな雨の夜に、カレー粉会議もあるというのに――」

「何をぶつくさ言ってるんだ」牛島は佐介をじろりと見上げた。駅で侍ちぼうけを食わされた不機嫌な後味が、まだその牛島の頰骨に残っていた。「今丸めたのは、何だい。脅迫状か?」

「脅迫状じゃない。電報だよ」佐介はそっけなく答えた。

「あんたとは関係ないことだ」

「どれ」

 牛島の右手が突然カメレオンの舌のように素早く伸びて、次の瞬間電報は牛島の掌におさまっていた。佐介はあわててそれを取り返そうとしたが、牛島はそうさせないために、蟹(かに)のようにぐっと肩肱(ひじ)を張り、がさがさと拡げて大急ぎで黙読した。

(こいつも強引(ごういん)で身勝手だが――)電報を取り返すことをあきらめ、卓上ピアノを畳から行李の上に移しながら、佐介は考えた。(黒須玄一というのも、まったく強引で身勝手な人物だな。あれじゃ俺も爺さんたちに同情するよ。あそこでは俺は傍観者であろうと思っていたんだが、その立場もれいによってひっくり返るかなあ)

「何だい、一体、こりゃあ」電文の意味を判じかねるらしく、牛島は首をかたむけた。「クロスゲンイチてえのは、誰のことだい?」

「僕の別口(べつくち)の勤め先の大将だよ。それの呼出し電報だ」

「別口とはうめえ世渡りを考えたもんだな。二枚鑑札というわけか。で、今夜行くのか?」

「行かないよ。カレー粉対策協議会があるんだもの」佐介も疲れたように小机の前に横坐りになり、ふくらんだ皮鞄を引き寄せた。「さあ。早いとこ食事を済ませて、出かけなくちゃあ」

「そんな身勝手な言い草があるか」牛島は眉の根をぐっとふくらまし、ドスでも引っこ抜くような格好で、ポケットからウィスキーの瓶をぐいと引出した。「お前さんはおれと待ち合わせる約束をして、平気な顔で一時間も遅刻した。その上その俺を置きざりにして、カレー会議には定刻に出席するつもりか!」

「そういうわけじゃないけれど」佐介は困って鞄の上で指をもじもじ動かした。「会議というものは大切だからねえ」

「じゃあ俺との待ち合わせは、大切でないのか」牛島の眉の根はさらにふくらみ、かすかにくろずんだ。それは憤怒というよりも、善良なる魂の孤独、とでも言ったものを感じさせた。「それじゃあ俺の立つ瀬はないじゃないか。ちったあ人の身にもなって考えろ」

「ではどうすればいいんだね?」

「とにかくコップを二つ持ってこい」牛島はおごそかな声で命令した。「一切はそれからの話だ」

 佐介はちょっとためらい、そして立ち上った。部屋の隅の棚に行き、飯用の茶碗と合成樹脂のコップを持って、机の前に戻ってきた。コップの方にはところどころ白い練歯磨が付着している。それもかまわず牛島は両方の器(うつわ)にウィスキーをとくとくと注ぎ、茶碗の方を抜け目なく自分の前に引き寄せた。そして佐介の鞄を顎でしゃくった。素直に器を持ってきたことによって、牛島の怒りとやるせなさは、やや和(なご)んできたようであった。

「プレスハムとトマトを出せよ。ハム三十匁とはケチな買い方をしたもんだな。そんなことじゃとても大人物にはなれないぞ」そして牛島は茶碗を唇に持って行き、ごくりと一口飲んだ。「ついでにパンも切れや。とにかく俺はものすごく腹が減っているんだ。富岳軒のカレーライスは、まったく盛りが悪いからなあ。あれじゃあ夕方までは保たない」

「カレーライスは厭だよ」鞄の中から包みを引きずり出しながら佐介が答えた。「だから会議をやるんだ」

「なるほどな。これじゃ厭にもなるだろうな」牛島はあらためて鼻をびくびく動かし、かなたのガシャガシャ音に耳をかたむけた。「しかし俺なら会議などは開かずに、俺一人で部屋を引越すな。その方がカンタンだし、さっぱりするじゃないか。なにもこんな小屋に踏みとどまって、カレーライスが嫌いになる手はねえだろう」

「船のネズミらしいことを言うね」佐介もコップを后唇に持って行った。「引越しのことは僕も考えた。何度引越ししようと思ったか知れやしない。その度に僕は僕を叱りつけた。自分のひるむ心を叱りつけた。ここで逃げ出すくらいなら、人間を止めにした方がいいんだ。ここが僕のぎりぎりのところなんだ!」

「何がぎりぎりだね?」佐介の語気におどろいたように牛島は眼をパチパチさせた。「俺にゃさっぱり判らねえ。早く引越して、カレーライスが好きになった方が、トクだと思うがなあ。なんなら俺が良い部屋を世話してやろうか」

「いいよ。この小屋に踏みとどまるよ」佐介はそっけなくハムをつまんで口の中に投げ込んだ。牛島もその真似をした。佐介は電熱器のスイッチを入れた。うずまき状のニクロム線は見る見る赤く熱してきた。「踏みとどまって会議をひらき、カレー粉と戦うんだ。脅迫状が来たってひるまない」

「あっ、そうだ。脅迫状と言えば――」怒りが突然よみがえってきたらしく、牛島は茶碗をぐいとあおり、熟れたトマトにぐいと嚙みついた。「お前、電車の中で、堂々と、あの手紙をひろげて読んでたじゃないか。あれほど俺がこんこんと言い聞かせたのに、そんな無茶をする。早くあの手紙を出せ。そしてその電熱器で燃しちゃえ」

「しかしこれは」内ポケットから封筒を取り出しながら佐介は弁解した。「研究所関係じゃないかも知れないんだよ」

「何でもいいから、燃すんだ!」牛島はいきり立った。酔いが牛島の感情を過多にさせていた。「危険なものを平気で持ってあるくかと思えば、片方では人に待ちぼけをくわせてケロリとしている。一時間、ああ、一時間、どんな思いで俺が待っていたか、お前にゃ判らないだろう。よし。お前は俺としばらくつき合い、カレー会議には一時間遅刻しろ!」

「そんなムチャな――」

「ムチャでない!」牛島はまたウィスキーを茶碗に充たしながら叱咜(しった)した。「俺にはその権利がある。お前は先刻俺から、一時間という時間を、まんまと盗み取った。盗まれたものは盗み返す権利がある。今度は俺がお前から、まるまる一時間を強奪(ごうだつ)するぞ。いや、利息がついて、一時間二十分だ。針金でしばり上げても、俺はお前を一時間二十分遅刻させるんだ」

「ああ、判ったよ」

 佐介は情なさそうに封筒をひろげ、ふわりと電熱器の上に乗せた。それを見て牛島は反射的に、さっきの電報をその上にかぶせた。重ねられた紙片は黒く焦げて反(そ)りかえり、ボッと焰を放って燃え上った。

「あんたは他人のことになると、引越しゃいいだろうなんて、無責任なことを言うが、自分のことになるとヤケに頑張るんだね」割箸のさきで黒く焦げた紙片をはらい落しながら、佐介は低い声で言った。「僕だってここで、カレー工場主の修羅吉五郎から、カレーの旨(うま)さを盗み取られたんだよ。判るだろう」

「判るよ」牛島はにぶい眼付きでうなずいた。「だから引越せばいいではないか」

「そういうわけには行かないよ。引越しという手は、ちょっと見には本手のようだが、つきつめるとやはり筋違いの手なんだ。ねえ、このにおいをかぎ、あのガシャガシャ音に耳をかたむけてごらん」

 からっぽの胃袋にしみこんだウィスキーは、ひどく回りが早く、牛島の顔色は粘土色からもう赤土色に変化していた。言葉も舌たるくなっている。牛島は顔を上げ、大きく深呼吸をし、音の方向に耳をかたむけた。単調な金属性の反復音は、永久に止むことなき重さとねばっこさをもって、夜の空気をずしんずしんとゆるがしてくる。牛島の視線はその時、行李の上の卓上ピアノの赤さに偶然にとまっていた。

「ねえ。このにおいとこの音、いくら逃げ出したって、形を変えてかならず僕らを追っかけてくるよ。どこまでも、どこまでも」

「あの卓上ピアノな」牛島は行李の上を指してぼんやりした声を出した。「あれ、たしかハムがデパートで買ったやつだと思うんだが、どんないきさつでお前さんがそれをウロチョロと持ち歩いたんだい?」

「ゆずって貰ったんだ」

「なぜ? お前さんが叩くためにか」

「いや、楽しみのない爺さんたちに寄贈しようと思ったんだよ」

「爺さんたち?」牛島は、いぶかしげに眼をぎろりと光らせた。「それでハムは、直ぐに手放したのかね?」

 佐介はうなずいて見せた。酔いのために佐介もいくらかあかい顔色になっていた。

「畜生。やっぱりハムの奴は、俺のあとをつけて来たんだな。ピアノを買いに来たんだなぞと言いおって。これも須貝のさしがねにきまっている。よし、皆がそういう気持なら、俺にも俺の考えがあるぞ」そして牛島は手を上げて、佐介の顔をまっすぐ指差した。「お前もきゃつらと同腹か?」

「冗談じゃない」と佐介は掌をくにゃくにゃとふった。「僕だってあの時、一緒にハム嬢につけられたんだよ。ハム嬢につけられ、さっきはあんたにつけられてさ、そしてそんなことを言われたんじゃあ、僕も立つ瀬がない」

「そうか?」牛島はなおも疑わしげな眼で佐介を直視した。「お前さん、俺に関して、須貝から何か秘密命令でも受けてやしねえだろうな。U十八号とか何とかさ」

「ううん。飛んでもない。U十八号なんて、本当のところ全然初耳だ」

「そうか。それならいいが」牛島は少し安堵(あんど)の色を見せて、ふたたびトマトにかじりついた。液汁が畳にぼたぼたとしたたった。牛島はあぐらの片足を立て、蹠(あしうら)で不器用にそれを拭きながら、押しつけるような声を出した。「俺は今日の昼間、お前さんと別れ、ひとりになってデパートの屋上にのぼり、いろんなことを考えた。あらゆる角度から、現在の研究所の情勢、そこに置かれている俺たちの位置について、黙々と検討してみた。高層建築の屋上というやつは、たしかに人間の神経をするどくし、思考力を増進させるもんだな。思考力だけでなく、推理力もだ」

「推理力だけでなく、カンもだろう」

「そうだ。カンも大いに働いた」牛島はあぐらの両足を擢(かい)のようにこいで、身体をぐいぐいと前に乗り出し、キラリと眼を光らせた。「その俺のするどい推理力とカンに賭けて言うが、A金庫の鍵型をとった犯人は、いや、犯人と言うとカドが立つな、鍵型をとった謎の人物は、いいか、性根を据えて答えるんだよ、あれは、お前さんだろう。お前さんだな!」

 

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