今日――「いびつな圓」を歩く先生――そうして――永久に復活しなかった〈「先生」の「自然」〉…………
私の步いた距離は此三區に跨がつて、いびつな圓を描いたとも云はれるでせうが、私は此長い散步の間殆どKの事を考へなかつたのです。今其時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見ても一向分りません。たゞ不思議に思ふ丈です。私の心がKを忘れ得る位(くらゐ)、一方(はう)に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたのですから。
Kに對する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄關から坐敷へ通る時、卽ち例のごとく彼の室を拔けやうとした瞬間でした。彼は何時もの通り机に向つて書見をしてゐました。彼は何時もの通り書物から眼を放して、私を見ました。然し彼は何時もの通り今歸つたのかとは云ひませんでした。彼は「病氣はもう癒(い)いのか、醫者へでも行つたのか」と聞きました。私は其刹那に、彼の前に手を突いて、詑(あや)まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人曠野(くわうや)の眞中(まんなか)にでも立つてゐたならば、私は屹度(きつと)良心の命令に從つて、其塲で彼に謝罪したらうと思ひます。然し奧には人がゐます。私の自然はすぐ其處で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです。
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月1日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百回より)
……その通りです……先生……
……あなたの『自然はすぐ其處で食ひ留められてしま』い……
『さうして』……『悲しい事に』……
『永久に復活しなかつた』のです…………