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2020/07/09

梅崎春生 砂時計 5

 

     5

 

 午後一時二十分。

 白川研究所主任格の須貝は、二階の窓ぎわに椅子を据え、それにまたがって道路をぼんやりと見おろしていた。嘱託名義の玉虫老人は自席で、小さな歯ブラシとコップの水で、外した入れ歯の掃除に専念している。入れ歯は老人の顔かたちからするとやや大き目に見えた。その入れ歯の人造歯ぐきは、肉色というよりも毒々しい代緒色(たいしゃいろ)で、須貝は時々横目でそれをにらみながら、いまいましげに、舌打ちをした。この玉虫老人の目課である入れ歯掃除を、須貝主任は好んでいなかった。(なにも勤務先で入れ歯掃除をしなくてもいいではないか)老人の机上のコップの水は、入れ歯の残滓(ざんし)でうす濁りしていた。女事務員の熊井はこの部屋にいなかった。部屋にいるのは須貝と玉虫だけであった。

 窓から見おろす五間道路は、やはり舗装ががたがたで、剝(は)げたり穴があいたりしていた。かなたの電信柱のわきにリヤカーが乱雑にならべ立ててある。そこらあたりに栗山佐介の姿が見えた。佐介は鞄を前に両腕で抱くようにして、ゆっくりゆっくりこちらへ近づいてくる。(ああ、やっと戻って来たな。それにしてもあの鞄の持ちかたはどうだ。まるで蟹(かに)のフンドシにそっくりじゃないか)須貝は舌打ちをするかわりに、歯の奥をチュウと吸った。(しかし、どうもあいつは得体の知れないところがあるな。一体あいつは何を考えてやがるんだろう)そして須貝は立ち上り、椅子をそこらにがたがたと片づけ、机の間をすりぬけるようにして自席へ戻ってきた。やがて玉虫老人は入れ歯掃除を完了し、口中にコクンと挿入した。こけていた頰が元通りふくらんで、老人は十歳ばかり若返った。コップの水を捨てに階下に降りる老人と、その時下からのぼってきた佐介とは、狭いリノリュームの階段でぶっつかった。

「た、だ、い、ま」

 佐介はそう声には出さず、口だけその形にして見せた。どうせ玉虫老人は耳が遠いのだから、声を出すだけ損だからであった。そして二人は、あやうくコップの水をこぼしそうになりながら、窮屈にすれちがった。佐介はそのまま重い足をはげますようにして、とんとんと階段をかけ上り、研守所に入ってきた。今度は声を出して言った。

「ただいま」

「やあ」須貝は何食わぬ顔で、机の上に両脚を投げ出して、回転椅子の背に安楽そうに頭をもたせていた。靴はぬいでいるので、派手な色柄の靴下が『司法研究』の上に乗っかっている。この研究所の男たちの中で、須貝はもっとも年長のくせに派手好きで、身だしなみも一番よかった。

「ねえ、君。その鞄の持ち方だけは止めたがいいね」

「なぜですか」佐介は丸抱きにした鞄を自分の机に放った。

「なぜかというと、そんなかかえ方をすると、よっぽど大切なものが、その鞄の中に入っているように見られるのだ。そうだろう?」須貝は机上の靴下の親指をぴょこぴょこと動かした。「どこに行ってたんだね?」

「デパートです」

「うん。デパートは広告攻勢でずいぶん賑わっているだろうな。おかげで中小商店は上ったりだ。誰かと一緒に行ったのかい?」

 佐介はあいまいに首を横にふった。そういう質問にはひとまず否定しておく方が安全だからだ。

「何を買ってきたんだね?」須貝は佐介の手にあるものを見た。

「本です」

「ああ、探偵小説か」

 須貝は片頰だけでにやりと笑った。その悪党らしい笑い方が須貝にはたいへん得意らしい。須貝にしても牛島にしても、もともとよろしくない職業に従事しているのだか、ことさらすごんだり秘密めかしたりする必要はないのに、時折こんな悪党的ポーズをとりたがるのは何故だろう。それは彼等が本質的には善良であり、お人好しだという証拠なのかも知れない。悪の職業に従事していても、その全部の人間が悪のかたまりというわけではなかろう。人は時に善意をもって悪事をはたらく。

「さっきはずいぶんハム嬢にしめ上げられたな。ムり[やぶちゃん注:ママ。]もないよ。探偵小説なんてものは、人生と同じで、終末に至るまでのたのしみなんだからな。途中を省略して、いきなり一巻の終りをつきつけられちゃあ、誰だって怒るよ」

「そうです」

「僕たちだって、自分が何時頃どういう死に方をするか、五年後に脳溢血で死ぬか、十年後に原爆でやられるか、あるいは一週間後に崖から落っこちてくたばるか、それが判ってしまえば、もう生きていることの意味がなくなってしまう。知らないうちが花なのよ、というわけだな。だから君の行為は、『殺人準備完了』において、ハム嬢の読むことの生命を絶ったというわけだ。残酷な所業というべきだよ。で、何を買って来た。ミッキー・スピレインか?」

 佐介はだまって須貝の顔を見た。

「そうか。スピレインか」

 卓上の電話のベルが鳴った。須貝は受話器をとり上げた。玉虫老人が歯ブラシをさしたからのコップをぶら下げて、とことこ入って来た。

「僕の前任者のヘビさんという人は」がちゃりと受話器をおろした須貝に佐介は問いかけた。「ホームから突き落されて死んだんですか?」

「そんなことも牛島が話したのか?」須貝は片頰で笑い、満足げに足の親指をピコピコと動かした。「君は今日昼過ぎ、外出した。するとつづいて、牛島も出た。牛島は角のべーカリーで君に追いついた。そこで君らは肩を並べて、デパートまでしきりに話しこみながら歩いたな」

 佐介は無感動な顔付きで聞いている。

「そして君らはデパートの入口のところで別れた。君は昇降機で三階にのぼり、書籍部でスピレインの『裁くのは俺だ』を買い、百五十円を支払った。そうだね?」

「そうです」

「それからまっすぐここに戻ってきたにしては、すこし時間がかかり過ぎた。どこかにちょっと寄り道したな。コーヒーでも飲んだか?」

「コーヒーは飲まなかったですね」そして佐介は鼻を鳴らした。「氷宇治です」

「氷宇治とはまたしゃれたものを!」須貝は気取った声を出した。「一方牛島は階段を一歩々々踏んで、屋上までのぼりつめた。屋上で二十分ばかりあちこちの景色を見回していたが、やがて子供の遊び場に行き、お金を出すとガチャガチャと動く木馬があるだろう。あの子供用のさ。それに大の男の牛島が十円はらってまたがり、年甲斐もなくガッチャガッチャガッチャと揺られた。よっぽど面白かったと見え、また三十円出して、三回分ガッチャガッチャガッチャと揺られた。それから木馬から降りるはずみに、レインコートの裾を釘にひっかけて、かぎ裂(ざ)きをつくった」

「あとをつけたのはハム嬢ですか?」

「そうだ」安楽な姿勢のまま須貝は得意そうに莨(たばこ)に火をつけた。「こんな仕事に今日初めて使ってみたが、なかなかしっかりしているな。電話での報告ぶりも要領を得ていた。あの女は使えるよ。ただし訓練すればの話だがね」

「今日は単に――」やや皮肉な口調で佐介は訊ねた。「訓練だけに使ったんですかね?」

「ふふん」あいまいに須貝は笑った。「どうだい。熊井嬢はどうやら君に気があるらしいな。あんなボーンレスハムみたいな女は、僕の数十年の経験からすると、むちむちと弾力があって、なかなか味がいいもんだよ。君なんか若いから判るまいが、結局女なんてものは、面相より実質だ。実質をねらった方がトクだよ」

 佐介はがさがさと包装をとき、小さなノシを貼りつけた小型本を乱暴にハムの机の上に放った。玉虫老人は小さな帳面をひろげ、それにかぶさるようにして何か書き込んでいる。外国人がやるように人差指を逆に曲げて、須貝がおいでおいでをした。佐介は須貝の卓に近づき、そこらの空いた椅子に腰をおろした。須貝はおもむろに尋開した。

「ヘビが突き落されたとはさっき牛島から聞いたんだね。そうだろう?」

「さて」佐介は小首をかたむけて答えをはぐらかした。

「ごまかしちゃいけないよ」老獪(ろうかい)な眼で須貝は佐介を見た。「さっき君は、僕にウソをついた。デパートに一人で行ったとウソをついた。ウソをつくことは大変いいことだ。ただしそれは外に対しての話だよ。仲間うちでウソをつくなんて、もっての外だと思わないか。デパートに行くまでの会話に、ヘビの話が出たんだろう?」

「そうです」

「ふん。牛島がヘビの話をしたとすれば、どんな関連においてそんな話が出たか、大体想像がつくな。ふふん」

「やはりヘビさんは突き落されたんですね」

「そりゃ僕にも判らん」須貝の眉はちょっと曇り、声も低くなった。「酔っぱらって誤って落っこちたのか。あのホームにはちゃんとした柵があって、誤って落っこちるわけはないと僕も思う。残るのは、自殺と、他殺だ。警察では自殺となったが、まあ僕には判らないけれども、自殺する原因はなかったと思う。現在の快楽に執着する方の型だったからな。残るのは他殺だ。すると誰がヘビを殺したか。僕に判るのは、ヘビを殺したのは僕でないということだけだ。つまり、僕以外の誰かだな」

 須貝は莨(たばこ)をごしごしともみ消した。

「それで当研究所はヘビ君の後任として君を雇った。たくさんの志望者から君をえらんだのは、別に君の手腕を買ったわけじゃない。面接だけでは手腕のほどは判らんからな。ただ僕は、人間に対する君の考え方が面白かったから、点を入れたんだ。しかし人間観だけでは仕事は出来ない。この研究所に来て、君はいくつ仕事を仕上げた?」

「今朝の菅医師を入れて、二件です」

「たった二件か」須貝はわざとらしく渋面(じゅうめん)をつくった。「もっとも近頃、当研究所の仕事は不活発になっている。惰気満々だ。末期的症状にちかい。だから君だけを責めるわけには行かないが」

「そうです」

「ヘビ君の死後、どうも調子が良くない。研究所内でもいろんな故障が出たのは、君も見た通りだ。二週間ほど前、小型計算器がいつの間にかなくなったが、あの犯人もまだ出て来ない。大損害だ。鴨志田も出張期間を三日も過ぎているのに、まだ関西から戻って来ない。これも何か間違いでもあったんじゃなかろうかと思う。またさっきも、A金庫の鍵型をとられたらしい形跡があった。誰かが殺されたり、何かが盗まれたり、型をとられたり、いろんなことが起きる。それぞれの事件が起るのは、それぞれの犯人がいるからだよ。やる奴がいるから、事件が起きるのだ。どこかに犯人がいる」

「そう。あなた以外にね」

「そうだ。君も時にはいいことを言うな。原則として僕以外の者を、誰一人として信用しない。しないことにしているんだ」須貝は机上から足をひっこめ、回転椅子をギイと鳴らして佐介の方に向き直った。「角のべーカリーからデパートまで、牛島はどんな話をした?」

 佐介は無表情に沈黙していた。二人は顔を見合わせたまま、一分開ほど過ぎた。とうとう須貝が根負けして口を開いた。

「言わないな。ここでは言えないようなことを話し合ったのか」

「いや、何を話し合ったのか、今考えていたところです。どうも近頃記憶力が悪くなって――」

「放射能のせいだとくるんだろう。わるい冗談だ。しかしまあ信用してやろう」須貝は椅子ごと一尺ばかりぐいと佐介に近づいた。「僕は君を当研究所に入れた責任者だ。だから君の身のふり方についても、最後まで責任をとるつもりだから、君も僕を信頼してほしい。判るね」

 佐介は表情をくずさず、うなずいた。

「まったく君の顔は埴輪(はにわ)の顔にそっくりだな。もすこし表情が動かせんのか」

「動かせるけれども、動かさないのです」

「なぜ?」

「その方がトクだし、それに僕もあなたと同じく、僕以外のものを原則的に――」

「信用しないか」須貝は今度は両頰でにやにやと笑った。佐介もつられて笑い出しそうになったが自制した。「まあ、それもよろしかろう。若いくせに見事な覚悟だ」

「ああ、そうだ」佐介はすこし大きな声を出した。「道ばたの犬に水をはきかけた子供がいたっけ」

 須貝はきょとんとした顔で佐介を見た。そして黒板の『今週の標語』の方を顎でしゃくった。

「そら、『この世に弱味なき人間なし』だ。僕にだって弱味はある。僕も弱いあわれな人間だ。そして弱味があるのは個人だけでなく、個人の集まり、団体、機関、みんなそれぞれ弱味を蔵しているな、当研究所も例外でない。ところで弱味というやつは、こちらが攻勢に出ている場合は割に気にならないが、守勢になってくるとひしひしと身にしみてくる。自分がまるで弱味だらけになったような気がしてくるものだ」

 そして須貝は警戒するように四周(あたり)を見回した。玉虫老人はさっきと同じ姿勢で手帳にかぶさっている。須貝は視線を佐介に戻して声をひそめた。

「一昨日書面で連絡があったが、白川所長の病気がまた悪くなった。もう長いことはなかろうと言うんだ。しかしまだこれは秘密だよ。誰にも言っちゃいけない」

「所長に万一のことがあると、ここはどうなるんです」

「そりゃもちろん解散だろうな」

 その時階段をこつこつのぼってくる足音がした。二人は入口の方を見た。

「ハムかな?」

 若い電報配達手が入口に姿をあらわした。佐介は椅子をはなれ、四つ折りの電報を受取った。研究所宛てになっている。須貝はそれを受取ってひらいた。須貝の眼は急に緊張して、同じところを三度四度いそがしく往復した。

「ふん」

 須貝は押しつぶされたような奇妙な表情になり、それを佐介に見せようか見せまいかとためらった揚句、結局手渡した。佐介は電文を読んだ。

 

 マツイマコトハジサツデナイゾ
 ワタシガチヤントシツテイル

 

 このふざけたような電文を、佐介は二度くり返して低く音読した。

「これはなんですか」佐介は眼をぱちぱちさせながら、電報を須貝に戻した。「マツイマコトというのは?」

「ヘビ君の本名だ」須貝はうたがわしそうな眼で佐介を見た。「君は自分の前任者の名前も知らないのか」

「知らないですね。関係ないから」

「一体どいつがこんな電報をよこしゃがったんだろう」[やぶちゃん注:「よこしゃがったんだろう」はママ。普通なら、「よこしやがったんだろう」である。]

 須貝はまた電文を読み直し、ひっくりかえして裏をしらべ、今度は窓の方にかざして透して見た。さしたる発見もなかったらしく、いきなりくしゃくしゃに丸めると、それを大型の灰皿の上に乗せた。佐介がマッチをすった。

「ヘビ君のことが話題に出たかと思ったら、もうこんな電報が到来した」須貝は若干恐怖にあおざめているようであった。「だから兇(わる)い昔話はしちゃいけないんだ。僕は小さい時よくお婆さんからそう言われた」

 くしゃくしゃの電報は灰皿の中でじりじりと煙をふき出し、それからパッと焰になって、やがてくろぐろと燃え尽きた。紙のときの形のままの黒い灰を、須貝は鉄の丸文鎮でおさえつけてコナゴナにした。

「ふん。ふふん」不快さをふりはらうように、須貝は唇を曲げてわらった。「マツイマコトハジサツデナイゾ、か。七七七五の都々逸(どどいつ)調と来やがる。三味線にも乗りゃしねえ。まったく悪質な厭がらせだな。こんなことをやるやつは、素人じゃない。きっと僕たちの同業者だろうな。職業道徳も地におちたもんだ。業者間でお互いの弱味をつくようになっちゃあ、もうおしまいだな」

「同業者だとすると、いずれこれをネタに恐喝に来るでしょう」

「来るかも知れん」須貝は憮然(ぶぜん)として腕を組んだ。「内憂外患こもごもいたるか。そろそろ第二会社の設計も必要となってきたな」

「第二会社?」

「そうだ」須貝は腕を解いて、背後のA金庫の扉をパンパンと叩いた。「所長がくたばっても、この金庫の中の資料は、まだまだ活用出来る。むざむざと散佚(さんいつ)させるのはもったいない話だ。ところがこれを活用出来るのは、僕たちだけだろう」

「そうです」

「須貝社会研究所、か」須貝は電報のことはすっかり忘れ果てたように、天井を向いて酔ったように瞳をかがやかせた。その表情は少年のように純真で無邪気であった。「ここの資料をそっくり無償でいただき、須貝研究所というのを設立する。場所もここでは困るな。もすこし都心に進出して、盛大なかまえとする。いや、あまり盛大にやると、目をつけられるおそれがあるから、やはりこぢんまりと行くか。所長用の自家用車、所員用の自動車、二台は欲しいもんだな。うん、いや、所員用には自転車がよかろう。自転車でたくさんだ。自転車は足の運動にもなるし」

「そうですな」

「なんだ」須員は夢からさめたように視線を佐介に戻した。「あ、君か。そうだ。さっき言ったように、君を当所に入れた責任者は僕だ。だから君の身のふり方についても、いろいろと考えている。どうだね。もし須貝研究所が設立されることになったら、君も所員にならないか。やはり少しでも気心が知れている方が、僕の方も都合がいいからな」

 佐介は黙って窓の方を眺めていた。壁の鳩時計から鳩が飛び出して、二声啼いた。二時だ。するととたんに玉虫老人がごそごそとあたりを片づけ、帰り仕度を始めた。老人はたいへん耳が遠い筈だが、時計の音だけは、はっきりと聞き分けるらしい。老人の勤務時間は午前十時から午後二時までということになっているのだ。道をはさんだかなたの屋根瓦(がわら)すれすれに、白い腹をこすりつけるようにしてつばめが飛ぶ。佐介の沈黙を須貝は拒否ととったらしく、すこし猫撫で声になった。

「いや。君の将来は僕が保証するよ。君はまだ二件しか成績を上げていない、それは目下の悪条件のためだと思う。須貝研究川においては、不自由はさせない」

「やはり」小さな虫でも眺める眼付きで佐介は言った。

「そこでも見習い所員ですか」

「うん、いや」須貝はちょっと狼狽した。「ええ。君をだな、今見習い扱いにしているのは、これはつまり僕の親心だよ。何故かというと、今研究所は君も知っている通り、あまりいい状態にない。そんなことはないと思うが、もし万一、総員サツにあげられた場合にはだね、所員でも見習いの方だと、罪がぐっと軽くなる。おそらく無罪だね。将来ある君の履歴にキズがついては気の毒だから、そこで見習いということにしてあるんだ。須貝研究所ではもちろん見習いでなく正式所員だ。勤務も隔日でなく、月火水木、いや月月火水木金金だ。猛勤務だぞ、君だって隔日勤務じゃはり合いがなかろう。月、水、金とここに勤め、あとの火、木、土は何をしているんだね。うちで寝ころがってでもいるのかい?」

「ほかの所で働いています」

「へえ、よくそんなハンパな仕事が都合よく見つかるもんだなあ。会社か?」

「いえ。都内某団体の書記です」

「へえ。都内某団体とは大きく出たな」須貝はきらりと眼を光らせた。「まさかうちと同業の団体じゃあるまいな」

「ちがいますよ」

「そうか。新研究所が出来たら、そこは辞めてしまうんだな。ああ、そうだ。ハム嬢も入れてやろう。あれは使えそうだ」

「へえ。お先にごめんなさい」

 帰り仕度をととのえた玉虫老人が、ぺこんと頭を下げて部屋を出て行った。それを見送りながら、佐介は訊(たず)ねた。

「牛島君は?」

「ありゃあダメだ」須貝は顔をしかめて掌をひらひらと振った。もうすっかり佐介に心を許したような態度だが、それが須貝の本音か演技かは、まだ佐介にはわからない。「あいつはだね、腕はあるが、惜しいかな徳がない。平気で仲間を裏切るやつだ。僕はせんからあいつのことをそう思っている」

 そして須貝はものものしく周囲に気をくばり、声を低めて言った。

「あいつ、先刻、鍵型をとったのは俺じゃねえと、妙な弁解のしかたをしおった。あれが第一怪しい。とらないのなら、あらためて弁解する必要はないじゃないか。ひょっとしたら、鍵型をとったのは、あいつかも知れん。いや、あいつに違いない。だからごまかすために、粘土粉をカビだなんぞと言いくるめたんだな。もうなにか蠢動(しゅうどう)し始めているぞ」

 須貝は回転椅子の上で姿勢を正し、無理にいかめしい表情をつくった。

「君に新しい任務を与える。いいか。牛島康之の身辺ならびに言動に対する監視。もちろんこれは秘密裡に行い、相手をして感づかしめてはならぬ。他の受持ちの仕事に出来るだけ優先して、これにかかって貰いたいな。ええと、この仕事をL十三号と名付けることにする」

「歩合は?」と佐介は即座に反問した。

 須貝がそれに答えようとした時、足音が階段をこつこつとのぼってきたので、二人は会話をやめて同時にそちらを見た。大きなつつみを重そうにかかえたハムが入口に姿をあらわした。

「なあんだ。ハム嬢か」気技けがしたように須貝が言った。「何だい。手にかかえたものは?」

「卓上ピアノよ」ハムはつつみを自分の席においた。そして机上の『裁くのは俺だ』をとり上げた。「まあ、嬉しい。ミッキー・スピレインね。前から読みたい読みたいと思ってたのよ。まあ、ちっちゃい可愛いノシまでつけて」

 ハムは手にした本に頰ずりしながら、佐介の方を見てしなをつくった。須貝がにがにがしそうに口を出した。

「もう栗山君には言っちまったよ。芝居はストップ」

「まあ、ひどい」ハムはしなを中止して口をとがらせた。

「その卓上ピアノはどうしたんだい。牛島はどうした?」

「牛島さんに見つかってしまったのよ」ハムはしょげた顔つきになった。「あれから牛さんが屋上から降り始めたのよ。だからあたしも尾行して行くと、七階から六階、六階から五階と、まるでお上(のぼ)りさんみたいに、一々陳列をぶらぶら見物して歩くのよ」

「牛島らしいや」と須貝が笑った。

「そして五階のピアノ売場の前に立って、大きなグランドピアノを五分間ぐらいにらんでいたの。今考えると、牛さんはもう尾行に気がついていて、ピアノの肌はピカピカしていて、よくうつるでしょう。だからそれを鏡がわりにして、背後の様子を探ってたんじゃないかと思うんだけど」

「そうかも知れんな。あいつも抜け目ないからな」

「あたし、遠くからそれを見張ってたんだけれど、牛さんがピアノ売場からひょいといなくなったの。あたし、びっくりしてさ、すぐそのグランドピアノまで飛んで行ったの。しかし牛さんの姿は見えない。まかれたかなと思って、あちこち見回していると、ピアノの下から手がにゅっと出て、あたしの足首をギュッとつかんだのよ。あたしびっくりして、キャッと飛び上ったわ。牛さんはピアノの下にもぐり込んでかくれてたのよ」

「ピアノの下とは考えたな」

「ごそごそ這い出して来て、怕(こわ)い顔で何しにここにきたんだと聞くから、ピアノ買おうかと思って来たと答えると、お前みたいな女にピアノを買う金がある筈はないと言うの。だから、金がないから、卓上ピアノにするって答えたら、卓上ピアノは玩具売場だと言うでしょう。そしてあたしの腕をつかんで、無理矢理に玩具売場にひっぱって行ったの。だから、あたし、仕方がないから、卓上ピアノをひとつ買ったのよ」

「いくらした?」須貝が心配そうに訊ねた。

「千四百円」ハムは涼しい顔でガサガサと包装紙を剝(む)きながら言った。「もちろんこれは研究所費から出るんでしょうね、仕事の上で買ったんだから」

「どれ、こちらに寄越しな」須貝は渋面をつくって、手を伸ばした。赤塗りの卓上ピアノはニスのにおいをただよわせながら、須貝の机の上に運ばれた。「千四百円とは高いもんだねえ。も少し安いのはなかったのかい」

「五百円ぐらいからあったけれど、そんな安物、いくらなんでも恥かしくって買えやしないわ」

 須貝はますます表情を渋くして、白いピアノの鍵のひとつを、中指で不器用にポン、ポンとたたいた。その音は佐介にふと鳩時計の鳩の音を連想させた。佐介は何気なく言った。

「玉虫老人は、あの人は耳が遠いということですが、実はよく聞えるんじゃないかしら」

 須貝はぎょっと眼を見開いて、佐介の方を見た。

「なぜ?」

「いや、何となくそういう感じがしたんです」

[やぶちゃん注:「放射能のせい」本篇は昭和二九(一九五四)年八月号から開始しているが、その五ヶ月前の同年三月一日、当時アメリカの信託統治領であったビキニ環礁でのアメリカ軍によって水爆実験「キャッスル作戦」(Operation Castle)の一つブラボー実験(Castle Bravo)が行われた。当時の和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)のカツオ漁船第五福龍丸はアメリカが設定した危険水域外で操業していたにも拘わらず、多量の放射性降下物(「死の灰」)を浴び、無線長だった久保山愛吉氏は約半年後の本篇始めの初出の翌月九月の二十三日に満四十歳で亡くなった。この時、船員とともに被曝したマグロが築地市場の地下三メートルに埋められたが、実は当時の厚生省が認めた被災船は第五福龍丸以外に実に八百五十六隻もあり(これも以外にもあった可能性が濃厚であるが、アメリカを憚って被害の実態は今も実はよくわかっていないのである)、全国で捨てられたマグロは四百五十七トンにも及んだという。まさに当時は築地界隈だけでなく、全国的に「被曝マグロ」の風評被害が起きる大騒動となっていたのである。本篇初出の前月である同年七月三日発行の『別冊文藝春秋』第四十号記念特別号に載った山之口貘の詩「鮪に鰯」(私の電子化)を読まれよ。

「須貝研究所というのを設立する。場所もここでは困るな。もすこし都心に進出して、盛大なかまえとする」とあるということは、白川研究所は都心にはないということが判る。ウィキの「都心」によれば、昭和三三(一九五八)年までは『千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区を『都心6区』と呼んだ』とある。取り敢えずそれに従うと、その辺縁の豊島区・荒川区・墨田区・江東区・品川区・目黒区・渋谷区・中野区となる。単なる印象であるが渋谷区・目黒区・品川区辺りの可能性が強いか。]

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