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2020/07/18

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 四

 

       

 

 元禄十年の夏、去来は「贈晋渉川先生書」なる一文を草して其角に贈った。其角はこれを自己の撰集たる『末若葉(うらわかば)』の巻尾に掲げたが、去来の説に対しては何も答えなかった。しかるに風国(ふうこく)が『末若葉』と同年に出した『菊の香』を見ると、「贈晋渉川先生書」の外に「贈其角先生書」を録し、後者を「去来が正文」と称している。両者の趣意はほぼ同じものであるが、「贈其角先生書」の方が長くもあり、委曲を尽してもいるように思う。文末の日付は『末若葉』にある方が後になっているから、先ず風国のいわゆる正文を草し、これによって「贈晋渉川先生書」を作ったのかも知れない。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。

「贈晋渉川先生書」「晋渉川(しようせん)先生に贈るの書」。「渉川」は其角の号の一つ。

「末若葉」同年刊。「早稲田大学古典総合データベース」のこちらで原本を見ることができ、去来のそれはここここ但し、其角はこの原書簡にかなりの手を加えて、上手く自身の発句集の跋文に仕立て上げてしまっているのである。其角はやはり一癖二癖ある千両役者である。

「風国」伊藤風国(?~元禄一四(一七〇一)年)は蕉門俳人で京の医師。通称、玄恕(げんじょ)。俳諧選集「初蟬(はつせみ)」を元禄九年九月に出版したが、これが杜撰だと許六に非難されたことがある。芭蕉の作品集の最初の書である元禄十一年刊の「泊船集」の編者として蕉風の伝承に貢献した功労者でもある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」の彼の記載を参考にさせて戴いた)。

「菊の香」前注で出た先行して刊行した「初蟬」の誤りを訂正したもの。同年の九月の自序である。許六の批判に応じたものであろう。

「贈其角先生書」今泉準一氏の論文「芭蕉の其角評価」(『明治大学教養論集』第二五一号所収・PDF)の第四章で、同文の『去来が生前の芭蕉に其角の作風が芭蕉の作風と異なることを芭蕉に質問し、芭蕉がこれに答えた言が載っている』とされ、その当該部分が活字化されているので参照されたい。また、以前に紹介した、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)も大いに参考になる。特に「三 其角――不易を知る人――」では、「贈晋渉川先生書」と「贈其角先生書」とを比較して示されている部分は必読である。]

 

 去来は芭蕉が『奥の細道』の旅を了(お)えて洛に入った頃を以て、蕉門の俳諧一変の機と見ている。『ひさご』『猿蓑』の時代がそれで、去来自身もこの際に当って「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」ほぼその趣を得た。その後に起った新風は即ち『炭俵』『続猿蓑』である。――去来はこれを冒頭にして、俳諧の不易流行の必ずしも二致あるにあらざるを論じ、「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし。たまたま一時の流行に秀たるものは、たゞ己が口質(こうしつ)の時に逢(あう)のみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむ事あたはず」という見解を述べた。去来が其角の句に慊焉(けんえん)たる所以のものは、不易の句をよくせざるがためではない、むしろ流行の句において近来趣を失っている点にある、というのである。

[やぶちゃん注:「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」去来の「贈晋子其角書」の冒頭部分(但し、「末若葉」では其角によって省略されている)。幸い、先の藤井美保子氏の論文に載るので、漢字を正字化して示すと(読みは私が振った)、

   *

故翁奥羽の行脚より都へ越(こし)給ひける比(ころ)、當門の俳諧一變す。我が輩、笈を幻住庵に荷ひ、棒を落柹舍に受けて、略(ほぼ)そのおもむきを得たり。『ひさご』『さるみの』是也。其後又一つの新風を起こさる。『炭俵』『続猿』是也。

   *

「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし」これも「贈晋子其角書」の以上の冒頭に直に続く部分(但し、「末若葉」では其角によって大幅に省略されている。先の原本画像と比較されたい)。同じく藤井氏のそれを参考に、同前の仕儀で示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

去来問曰(とひていはく)、「師の風雅見及(みおよぶ)處、『次韻』にあらたまり、『みなし栗』にうつりてこのかた、しばしば変じて門人、その流行に浴せん事を思へり。我是を聞けり、句に千載不易のすがた有(あり)、一時流行のすがた兩端有(あり)。此(これ)を兩端におしへ[やぶちゃん注:ママ。]給へども、その本(もと)一なり。一なるは共に風雅の誠をとればなり。不易の句を知らざれば本立(たち)がたく流行の句を學び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易を知る人は、往(ゆ)くとしておしうつらずといふ事なし。

   *

なお、藤井氏は「次韻」の箇所に注されて、『延宝九年』(一六八一年)『一月に京都信徳らの『七百五十韻』を継いで千句万尾させたもの』で、『連中は芭蕉・其角・才麿・揚水。俳諧革新をすすめた高い評価の選集。のちの蕉風には遠いが「贈晋子其角書」に「師の風雅見及ぶところ次韻にあらたまり」とある』とある。

「口質」くちぐせ。

「慊焉」「慊」には「満足」と「不満足」との二様の意があるため、「あきたらず思うさま。不満足なさま」と、正反対の(但し、多くは多く下に打消の語を伴って結果して前者同様の意に用いる)「満足に思うさま」の意がある。ここは無論、最初の意でよい。]

 

 其角はこれに答えなかったが、許六が横から出て「贈落柿舎去来書」を草し、其角のために弁ずると同時に、許六一流の俳論を持出した。去来は直に「答許子問難弁」を作り、つぶさに許六の説くところに答えている。これも元禄十年中の事である。その論旨に至っては一々ここに引用している遑(いとま)がないが、芭蕉歿後四年足らずにして、已に有力なる蕉門作家の間にかくの如き意見の対立を見たのであった。

[やぶちゃん注:「贈落柿舎去来書」(「落柿舍去來に贈るの書」)とと「答許子問難弁」(「許子が問難に答ふるの辯」)は既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇として載る。早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読める。メインの一部の現代語訳が橘佐為氏のブログのこちらにある。]

 

 子規居士はこの問題に関し、「俳諧無門関」において次のように述べたことがある。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。「俳諧無門関」は正岡子規の俳句研究の一篇だが、私は未見。執筆年も不明。]

 

蕉門の迦葉(かしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、道に入るいづれか深く、説をなすいづれか正しき。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心実相無相微妙の法門は芭蕉これを去来に付嘱する時、其角別に変幻自在縦横無尽非雅非俗奇妙の俳門を立てて一世を風靡す。去来より見る、其角は外道(げどう)なり。其角より見る、去来は我見に執す。去来は不易に得て東に進む、其角は流行に得て西に走る。いよいよ進みいよいよ走り、しかして顧れば他の我を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こといよいよ遠きを見る。かつ道(い)へ、那辺(なへん)かこれ風馬牛(ふうばぎゅう)相会する処[やぶちゃん注:「あいかいするところ」。]。

[やぶちゃん注:「風馬牛」本来は「馬や牛の雌雄が、互いに慕い合っても、会うことができないほど遠く隔たっていること」を謂い、転じて「互いに無関係であること。また、そういう態度をとること」を言う出典は「春秋左伝」僖公(きこう)四年の『風馬牛相 (あひ) 及ばず』に拠る。「風」は「発情して雌雄が相手を求める」の意である。]

 

 其角と去来とはその立場を異にし、また進路を異にする。所詮合致すべきものではない。これを同一の傘下に包容するのは、芭蕉の如き大人物の力を俟(ま)たなければならぬ。道を信ずること篤き去来が断々乎として「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」といい放つ以上、両者手を携えて進むことは困難である。芭蕉歿後の俳諧は、外観的には必ずしも衰退を示さなかったかも知れない。ただ芭蕉在時の如き幅を失ったことは、この其角、去来対立の一事を以て見ても、容易に推察し得べき事柄である。

[やぶちゃん注:「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」調べたところ、やはり許六の「俳諧問答」の中の「答許子問難辨」の、その「四」の一節である。私の所持する橫澤三郞校注岩波文庫版(一九五四年刊)は当時発見された善本である「專宗寺本」底本で、少し異なる。【 】は二行割注。

   *

來書曰、かれに及ぶ又門弟も見えず。
去來曰、是おそらく阿兄の過論ならんか。
 角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上
 にいたゞかん。角が句のひきゝを以て論ぜバ、
 我かれを脚下に見ん。况や俊哲の人をや。【予
 亢(アヤマツ)て此ㇾをいふにあらず。同門
 の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄
 もその一人なり。】

   *

編者による頭注があり、「ひきゝ」の部分は従来、同書の底本に用いられていた寛政一二(一八〇〇)年冬十二月板行の蕪村の門の月居序の五冊本では、『いやしき』となっているとある。]

 

 当世の俳諧に慊焉たるだけ、去来の芭蕉に対する思慕の情は一層切なるものがあったに相違ない。

   翁の身まかり給ひし明る年の春
   義仲寺(ぎちゅうじ)へ詣て

 石塔もはや苔づくや春の雨       去来

というのは元禄八年の事であろう。

   芭蕉翁の奥の細道を拝してその
   書写の奥に書付けける

 ぬれつ干つ旅やつもりて袖の露     去来

[やぶちゃん注:「干つ」は「ほしつ」。]

 これは何時(いつ)の句か明(あきらか)でないが、「袖の露」の一語にはやはり追慕の情が籠っているように思われる。

   三回忌

 夢うつゝ三度は袖のしぐれかな     去来

   木曾塚にて

 船馬にまた泣よるや神無月       同

 「船馬」の句は元禄十六年の『幾人水主(いくたりかこ)』に出ている。芭蕉歿後年を重ねた門弟たちが、十月十二日となればあるいは馬に乗り、あるいは船によって栗津の義仲寺に集って来る、その情想いやるべきものがある。「はや苔つく」と去来の歎じた石塔も、更に古びを加えたことであろう。「船馬に」の上五字も、「また泣よるや」の中七字も、重々しいところに去来の面目が現れている。

   故翁の霊を祭りて

 里人も一門なみや魂まつり       去来

[やぶちゃん注:座五は「たままつり」。]

 この句は元禄十一年の『続有磯海』にある。毎年の忌日は固より、盂蘭盆(うらぼん)の来るごとに師翁の霊を祭ったものと見える。句作らぬ里人をも、一門の俳人並にして霊祭をするというのは、去来の去来たる所以であろう。

 芭蕉と去来との間に最も忘れがたい形見をとどめた嵯峨の落柿舎はどうなったか。元禄八年の『笈日記』に

   落柿舎

 放すかと問るゝ家や冬ごもり      去来

[やぶちゃん注:中七は「とはるるいへや」。「笈日記」(おひにつき(おいにっき))は支考編。]

という句があり、同九年の『小文庫(こぶんこ)』には、

   芽立より二葉にしげる柿の実と申侍りしは
   いつの年にや有けむ彼落柿舎もうちこぼす
   よし発句に聞えたり

 やがて散る柿の紅葉も寐間の跡     去来

[やぶちゃん注:「芽立」は「めだち」、座五「柿の実」は「かきのさね」と読む。「彼」は「かの」。]

ともある。「放すか」は手放すかの意であろう。師翁仮寐の迹であるから、永久にこれを存したいというのも一面の人情であるが、その人已に亡し、何を以てかこれをとどめむ、というのもまた一面の人情である。去来のような性格の人にあっては、あるいはこの思出の地に住するに堪えなかったかも知れない。

 「芽立より二葉にしげる」というのは丈艸の句である。従ってここに「うちこぼすよし」を発句で告げ来った者は丈艸であろうと思う。『丈艸発句集』に

   落柿舎すたれける頃

 渋柿はかみのかたさよ明屋敷      丈艸

とあるのがそれに当るのであろうか。かつて師翁もとどまり、自分も起臥した寝間の跡に、やがて散るべき柿の紅葉を想像する。そこに無限の感慨を蔵している。この前書の文章から考えると、落柿舎はこの時已に去来の有でなかったに相違ない。

 元禄十一年の『梟日記(ふくろうにっき)』に支考が長崎で去来に逢ったことを記して、

[やぶちゃん注:以下引用は全体が二字下げ。前後を一行空けた。「梟日記」は支考編。但し、宵曲は「元禄十一年」とするが、元禄十二年刊の誤り。]

 

牡年(ぼねん)魯町(ろちょう)は骨肉の間にして卯七(うしち)素行(そこう)はそのゆかりの人にてぞおはしける、この外の人も人つどひて丈艸はいかに髪や長からん、正秀(まさひで)はいかにたちつけ著る秋やきぬらん、野明(やめい)はいかに、野童(やどう)はいかに、為有(ためあり)が梅ぼしの花は野夫にして野ならず、落柿舎の秋は腰張(こしばり)へげて月影いるゝ槙(まき)の戸にやあらんと是をとひかれをいぶかしむほどに

[やぶちゃん注:「牡年」久米牡年(くめぼねん 明暦四・万治元(一六五八)年~享保一二(一七二七)年)肥前長崎の人。去来や以下の魯町の実弟。通称は七郎左衛門。長崎町年寄。「有磯海」以前は「暮年」、それ以後は「牡年」の号を用いた。「あら野」・「有磯海」・「韻塞」・「渡鳥集」などに入句する(以下、概ね伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」に拠った)。

「魯町」向井魯町(?~享保一二(一七二七)年)。肥前長崎の人。去来の弟で牡年の兄。通称は小源太。儒学者で長崎聖堂の大学頭(だいがくのかみ)であり、また江戸幕府長崎奉行所の書物改役(あらためやく)も務めた。「有磯海」・「猿蓑」・「己が光」などに入句。去来との兄弟愛は去来の作品にもよく表われている。

「卯七」箕田卯七(みのだうしち ?~享保一二(一七二七)年)。肥前長崎の人。通称は八平次。去来の義理の従兄弟。江戸幕府の唐人屋敷頭(とうじんやしきがしら)を勤めた。去来の追善集「十日菊」を編纂、「有磯海」などに入集する。去来との共著「渡鳥集」がある。

「素行」久米素行(くめそこう ?~享保一七(一七三二)年)。長崎の人。久米調内。去来の門人で長崎為替取次役人であった。

「丈艸」内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)。蕉門十哲の一人。尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれたが、内藤家は没落し、彼は武士を捨てて遁世、近江松本に棲んだ。元禄二年、元犬山藩士でもあった仙洞御所に勤める史邦(ふみくに:本「去来」の次の次で独立して語られる)を通じて去来経由で蕉門に入ったものと考えられている。 後に膳所義仲寺境内の無名庵に住み、芭蕉の近江滞在中は芭蕉の身辺で充実した時を過ごした。詩禅一致の道をひた向きに求めながらも、芭蕉の死後、自らの死までの十年の間、ひたすら、師の追善に生涯を捧げて世を去った。享年四十三。本「去来」の次に独立して語られる。

「正秀」水田正秀(みずたまさひで ?~享保八(一七二三)年)。近江生まれで大津膳所の湖南蕉門の有力な一人。通称、孫右衛門。藩士或いは町人であったとも言われ、後に医者となった。初めは尚白に師事したが、元禄三年秋に蕉門に入った。彼は膳所義仲寺に於ける芭蕉のパトロンでもあった。

「たちつけ」「裁ち着け」で袴の一種。膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもので、旅行の際などに用いる。「たっつけばかま」のこと。

「野明」坂井野明(?~正徳三(一七一三)年)。博多黒田家の浪人。姓は奥西とも。去来と親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えたもので、「鳳仭(ほうじん)」とも称した。

「野童」(~元禄一四(一七〇一)年)。仙洞御所の役人。京都蕉門の一人。元禄十四年の夏、御所で落雷に打たれて亡くなった。「猿蓑」・「有磯海」などに入集。

「為有(ためあり)が梅ぼしの花」意味不詳。「為有」という人物も判らぬ。識者の御教授を乞う。

「野夫」「やぶ」。匹夫野人。

「野ならず」「やならず」と読んでおく。肝心の前部分が判らぬので、ここも意味が判らぬ。

「落柿舎の秋は腰張(こしばり)へげて月影いるゝ槙(まき)の戸にやあらん」「枕草子」に引かれて人口に膾炙する白居易の知られた七律「香爐峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」(香爐峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す)の第四句「香爐峰雪撥簾看」(香爐峰の雪は簾を撥(かか)げて看る)を諧謔したもの。建物の「腰」とは壁の中間部分から下を指し、壁の下の部分に、上とは異なる仕上げ材を張ることを「腰張り」と称する。「槙」は「真木」で、ここは「良質の木」、木材として優れた杉や檜の類い。「落柿舎の秋は、障子を閉めて、壁の腰張りだけを剝ぎ取って、そこから月の光を室内に通わせる、槇(まき)で出来た扉(とぼそ)も閉じて感じるもの」の謂いであろう。月本体は見ぬのを風雅とするのである。]

 

といい、

 そくさいの数にとはれむ嵯峨の柿    去来

   返し

 柿ぬしの野分かゝへて旅ねかな     支考

という応酬を録している。これではまだ落柿舎は依然たるもののようであるが、その間の消息はよくわからない。去来自身も「嵯峨にひとつのふる家侍る」といい、芭蕉も「処々頽破す」と認めている位だから、落柿舎なるものは早晩何とかせねばならぬ頽齢にあったものかとも考えられる。

[やぶちゃん注:去来と芭蕉の引用はとっくに既出既注。

「そくさい」息災。

「野分」(のわき)は「野の草を風が強く吹き分ける」の意で、秋から冬にかけて吹く暴風。特に二百十日・二百二十日前後に吹く大風。]

 

 去来の句にはまた順礼の途に上ったらしいものが散見する。『笈日記』に

   此夏回国の時みのにて申侍る

 夏かけて真瓜も見えず暑かな      去来

[やぶちゃん注:「真瓜」は「まくは」でスミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa のこと。座五は「あつさかな」。]

とあるのが最も早いようであるが、三年後の『猿舞師(さるまわし)』には「所々順礼して美濃の国に至る」とあり、句も「美濃かけて真桑も見えず暑かな」と改められている。『猿舞師』と同年の『淡路嶋(あわじしま)』

 卯の花に笈弦さむし初瀬山       去来

[やぶちゃん注:「笈弦」は「おひずる」であるが、漢字表記は「笈摺」が正しい。巡礼が着物の上に着る単(ひとえ)の袖なしを指す。羽織に似ており、笈によって背が擦(す)れるのを防ぐために着るものとされるが、構成が左・右・中の三つの部分から成っており、両親のある者は左右が赤地で中央は白地、親のない者は左右が白地で中央に赤地の布を用いるという習慣があった。「おゆずる」とも呼ぶ。

「初瀬山」(はつせやま)は現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある山(五四八メートル。グーグル・マップ・データ航空写真)。長谷寺の北西。歌枕。古くは「はつせ」と読んだ。

「猿舞師」種文編。元禄十一年刊。

「淡路嶋」諷竹編。]

 

とあり、元禄十四年の『そこの花』にも

 順礼も仕舞ふや襟に鮓の飯       去来

[やぶちゃん注:「襟」は「えり」。「鮓」は「すし」。

「そこの花」万子編。元禄十四年刊。]

というのがある。こういう撰集に取入れられる句は、必ずしもその年のものに限られているわけではないから、この順礼は思うに同一の場合であろう。『喪(も)の名残(なごり)』(元禄十年)にある

   美濃近江の堺寐物語の茶店にて

 夏の日にねものがたりや棒まくら    去来

という句もあるいは同じ時の作であるかも知れない。去来順礼の事は専門研究家に俟つより仕方がないが、とにかくこういう事実のあったことだけは、如上(じょじょう)の句によって立証することが出来る。もし『笈日記』の出た元禄八年の事と仮定するならば、芭蕉を喪(うしな)った翌年であることに注意すべきであろう。

[やぶちゃん注:「喪の名残」北枝編。

「堺」さかい。国境(くざかい)。

「寐物語」「ねものがたり」。ここ明らかに「美濃」と「近江」の国「堺」の「茶店」に泊まった夜の寝物語という設定であるが、当時は宿駅以外の宿泊は禁じられており、しかも街道の茶店などは人を泊めることは禁ぜられていた。しかし、当然の如く、よんどころない理由で茶店などに一泊を求め、内々にそうしたことを茶店などが許したケースが頻繁にあったようである。例えば、私の「耳囊 卷之九 不思議の尼懺解(さんげ)物語の事」を読まれたい。

「棒まくら」「竹夫人(ちくふじん)」のことであろう。竹で作られた筒状の抱き枕のこと。]

 

 元禄十四年七月、風国が亡くなった。

   悼風国

 朝夕に語らふものを袖の露       去来

という句が『そこの花』にある。去来の俳壇における地位は押しも押されもせぬものであったが、自家勢力の扶植(ふしょく)につとめなかった彼は、門葉を擁する一事になると、其角は勿論、嵐雪にも遠く及ばなかった。風国は去来の甥の一人であるが、同時に有力な俳諧の弟子でもある。最初の芭蕉句集である『泊船集』を編んだ外に、『初蟬』『菊の香』等の撰者として、風国の名は去来門下の随一に算えらるべきであろう。芭蕉が難波で最後の病牀に就いた時、北野の南に一軒の家を借り、養生所に宛てるつもりで心構[やぶちゃん注:「こころがまえ」。]したのは風国であった。「朝夕に」の句は句として大したものでなく、かつて嵐蘭を悼んだ

 千貫のつるぎ埋けり苔の露       去来

[やぶちゃん注:「埋けり」は「うめけり」。]

の如き力は発揮されていないけれども、それだけにまた風国に対する親しさが現れている。朝夕に語らうべき風国を喪ったことは、去来に取って大なる寂寞(せきばく)であったに相違ない。

[やぶちゃん注:「扶植」勢力などを、植えつけ、拡大すること。

「北野」京都の汎称地名。北野天満宮や、現在も北野を冠した町名が多くある。この付近(グーグル・マップ・データ)。]

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