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2020/07/19

梅崎春生 砂時計 22

 

     22

 

 深夜の廊下をニラ爺は足音をぬすんで、東寮の方に曲り込んだ。身体よりは大き目の薄地のカーキ色の上衣、その双のポケットはずっしりとふくらみ、襯衣(シャツ)の中にも何か押し込んでいると見え、上衣の腹のあたりがむっくりとかさばっていた。

(追い出される心配はなくなったし、木見婆の弱味はおさえたし、今日は何という佳い日だろう)

 さっき木見婆からせびり上げた、コップ一杯の味付用の味醂(みりん)、その酔いがほのぼのと身体中に回り、かつニラ爺の気持を浮き浮きと高揚させていた。味醂(みりん)にしろ何にしろ、酒精(アルコール)分の飲料を口にしたことは、ここ久しぶりのことであった。ニラ爺はふくらんだ上衣の腹を、たしかめるように両掌で押えて見た。

(もうあれから相当時間が経ったから、爺さんたちはとっくに解散して、それぞれ部屋に引き取り、ぐうぐう眠ってるだろう。松木爺さんたちも眠っているといいな。眠っているとこの獲物を見付けられずに済む。もし起きておれば、分け前をよこせと、あの爺さんたちは言うだろう。実際当院の爺さんたちは、意地きたないのが多いからな)

 自分の意地きたなさをすっかり棚にあげて、ニラ爺はそんなことを考えた。しかしニラ爺のその考えは、たいへんに情況を甘く見過ぎたうらみがあった。松木爺はおろか、七老人はいまだ解散することなく、どんづまりの部屋に車座をつくっていたのだ。車座の中央には当院禁制の電熱器が置かれ、その上に薬罐(やかん)がしゅんしゅんと湯気をふき上げていた。爺さんたちはお茶を入れて飲んでいた。茶は松木爺の提供によるもので、割かた上質の煎茶(せんちゃ)であった。

「さあ、夜も遅いから、今日はこれで解散することにしよう」遊佐爺は舌を鳴らしながら残りの茶を飲みほし、重々しげに一座を見回した。「今日の会見は皆の努力によって、一応終了したが、必ずしも成功だとはいえなかった。残念ながら海坊主にも相当点数を稼がれた。しかし会見は今日一ぺんこっきりというわけではないからして、ますますわしたちは団結して、ことに当らねばならん。いや、みんな御苦労さんでした」

「御苦労さんでした」

「御苦労さんでした」

 爺さんたちがこもごも唱和し、めいめい腰を浮かしかけた時、たてつけの悪い入口の扉がガタゴトと押し開かれた。皆の視線は一斉にそこに集まった。扉のすき間からニラ爺の禿頭がぬっとのぞいた。ニラ爺はたちまちどぎまぎして、顔をさっとあかくし、思わず逃げ腰となった。松木爺が怒鳴った。

「ニラ爺!」

 ニラ爺はますますへどもどしながら、扉にすがるようにして、尻を後方に引いた。腰を曲げることによって、上衣のふくらみを皆の眼からかくそうとしたのだ。松木爺がふたたび叱声を上げた。

「ニラ爺。今まで、どこに行ってたんだ!」

 ニラ爺はそのままの姿勢で黙っていた。顔のあかさは急に引いて、額はむしろ蒼味を帯びてきた。松木爺は三度たたみかけた。

「どこに行ってたんだと言うのに!」

「便所や!」ニラ爺はせっぱつまって言い返した。「便所に行くのは俺の自由や」

「便所だけにそんな時間がかかるのか」松木爺はかさにかかった。「お前さん、痔(じ)でも悪いのか。俺はお前さんとこの一年同室したが、そんな話はついぞ聞かなかったぞ!」

「ニラ爺さん」遊佐爺が松木爺を制して、重々しくニラ爺をさしまねいた。「ここに上って来なさい」

 ニラ爺は本当にせっぱ詰まった。扉にすがった双の手がぶるぶるとふるえ出した。道佐爺が重ねて命令した。

「上って来なさい!」

「上るよ」ニラ爺はとたんにふて腐れて、腰をすっくと伸ばした。そしてのそのそと部屋に上って来た。「上ればいいんだろう。ここはおれの部屋や」

「ニラ爺さん。お前、ポケットに何を入れてるんだ」滝川爺が疑わしげに眼を光らせた。電燈の真下でポケットのふくらみはかくすべくもなかったのだ。「出して見い」

「こ、これは私物や」ニラ爺はどもって、きょときょとと一座を不安げに見回した。「私物にまで他人の干渉は受けん」

「お前、便所に行ったと言ってたが」松木爺がまた口を出した。「便所に私物をかくしてたのか」

 ニラ爺は額をあおくして松木爺をにらみつけた。返事はしなかった。それがますます一座の疑惑を深めた。道佐爺はたまりかねたようにごそごそと乗り出し、自分の膝をニラ爺の膝にぴったりとくっつけた。おごそかな声で言った。

「ニラ爺さん。わしの顔を見なさい。まっすぐにわしを見なさい」

 ニラ爺はいよいよふて腐れて、遊佐爺に向って顎(あご)を突き出した。

「おや?」遊佐爺は語気をするどくした。「何かアルコール性のにおいがするぞ。お前、酒を飲んだな」

「酒じゃない。味醂や」ニラ爺は度胸を定めて居直った。

「味醂(みりん)を飲んじゃあかんのか?」

「飲んでいけないとは、わしは言いません。飲んでもいいがだ、どこでその味琳を手に入れたのか」遊佐爺は教えさとす口調になった。「お前さんはさっきわしを指圧した時、近頃煙草銭にもこと欠いてると言ったではないか。煙草銭にもこと欠いてるお前さんが、味醂(みりん)を買えるわけがないではないか。お前さんの行動は疑惑に包まれている。この際一切を開陳して、みんなの疑惑を晴らせ。先ずそのポケットのものを出して見せなさい」

 ニラ爺はポケットのものを出すかわりに、降伏する兵士のように、眼をつむって黙って両手をさし上げた。遊佐爺は自ら手を下すことなぐ、松木爺の方を向いて命令した。

「松爺さん。お前が引っぱり出しなさい」

 松木爺はいそいそと膝行(しっこう)して、ニラ爺の背後に回った。ポケットから次々に紙包みやセロハン包みを引っぱり出した。それらは皆食べ物であった。煮豆。味醂干し。南京豆。せんべい。ニッケ玉。ジャムの瓶詰。それにセロハン包みのカンピョウなどが、最後に引っぱり出された。ニラ爺は観念したように両手を上げたまま、微動だにしなかった。一座の視線は疑惑と驚異にみちて、畳に並べられた品々にそそがれた。遊佐爺が言った。

「それだけか」

「ポケットはこれだけのようだ」

 松木爺はニラ爺のポケットを両側からぱんぱんと叩いた。ニラ爺は眼を開いて両手を静かにおろした。そのニラ爺の挙動をにらんでいた柿本爺が、語気するどく発言した。

「ヘソのあたりが妙にふくれ上っているぞ」

 ニラ爺はとたんに絶望落胆して、ふたたび両手をたかだかとさし上げた。松木爺の手がニラ爺の上衣をまくり、シャツの釦(ボタン)を外した。そこからも紙袋が二つ引っぱり出された。松木爺はその口をのぞいた。

「これは白砂糖。こっちの方は、黒砂糖だ」松木爺は誇らしげに一座に報告し、ニラ爺を横あいからにらみつけた。

「便所に行ったなんて言いやがって、一体どこからこれをくすねて来た」

「くすねて来たんじゃない!」ニラ爺はやけっぱちになって怒鳴り返した。「人聞きの悪いことを言うな!」

「では、どこから手に入れたんだ?」

 ニラ爺は歯を食いしばり、発言を拒否する気配を見せた。その様子を見ていた道佐爺がしずかに発言した。

「松爺さんも、柿爺さんもしばらく黙っていなさい」そして遊佐爺はニラ爺の肩にやさしく手をかけた。「なあ、ニラ爺さん。あんたがその品々を持っていることを、わしたちは責めているんじゃない。物を所有するということは、各人の自由だ。その自由は尊ばれねばならん。しかしだな、ニラ爺さん、現在わしたちは在院者代表として、院内改革の闘いに立ち上っているのだ。あんたも光栄ある代表者の一人だ。代表者であるからには、公私両面において、その進退をハッキリさせて置く義務がある。な、そうだろう。あんたがこれらの品々を持つのはいいが、どこから手に入れたかということは、一応説明する義務があるだろう。そうしないと自(おのずか)ら、くすねて来たんじゃないか、という疑惑も生じるわけだ。それじゃあんたも困るだろう」

「くすねて来たんじゃない」ニラ爺は力なく言った。「貰ったんや」

「誰から貰った?」

 ニラ爺はふたたび歯を食いしばった。松木爺がたまりかねたように、横あいから口を出した。

「まさか海坊主から貰ったんじゃあるまいな」

 ニラ爺はギクリと身体を慄わせ、眼の色をかえて、松木爺をにらみつけた。

「う、海坊主から貰うわけないやないか。松爺はおれの人格を侮辱するつもりか!」

「そう、そう、海坊主から貰うわけがない。松木爺はすこし口を慎(つつし)みなさい」道佐爺はやさしくニラ爺の肩をゆすぶった。「誰から貰った?」

 ニラ爺は口をもごもごさせた。言おうか言うまいか、瞬間ニラ爺の心は千々(ちぢ)に乱れた。その瞬間をとらえて、遊佐爺がおびやかすような声を出した。

「言わないと、くすねたものと断定するぞ!」

「木、木見婆や」ニラ爺は悲痛な声でどもった。「木見婆さんがおれに呉れたんや」

「なに、木見婆?」道佐爺はニラ爺をきっと見据(す)え、検事みたいな声を出した。「いかなるいきさつで、木見婆はこれらの品々を、お前に呉れたのか。ニラ爺はこれを説明せよ!」

 

「僕が何故死のうと思ったのか、そこだけが僕の記憶からポッカリと脱落しているんだ。今でも判らない」

 積み夜具に背をふかぶかともたせかけ、栗山佐介は沈痛な声で言った。

「何故僕は死ぬつもりになったんだろう」

 牛島康之は座蒲団を枕にし、毛布を抱きしめるようにして、大きないびきを立てていた。乃木七郎は顎まで夏蒲団を引き上げ、あおむけに行儀よく眠っていた。乃木七郎の左足首は帯でくくられ、その帯のもひとつの端には赤い卓上ピアノがくくりつけてあった。曽我ランコは板壁によりかかり、腕を組んで、その二人の寝姿を眺めていた。スラックスに包まれた両脚は、きちんとそろって、畳の上にまっすぐ伸びていた。佐介は眼を伏せて、スラックスからはみ出たランコの白い足の甲や、つちふまずや足指を、ぼんやりと見ていた。

「僕は東京を食い詰めた。しかし食い詰めたこと自体は、自殺の原因にはならない。だって僕は若いんだもの。若ささえあれば、どんなにやってでも生きて行ける」

「そうね」曽我ランコが相槌(あいづち)を打った。

「食い詰めて僕は田舎落ちすることになった。田舎に別にあてはなかったけれども、僕の友人がいてね、困ったらやってこい、半月や一月は食わせてやる、そう言って呉れてたもんだから、僕は行く決心になった。僕は駅を降りてそいつの家にとことこと歩いて行った。北小路、とそいつの名は言うんだが、北小路家はその地方の豪家で、庭も広く、梅の木や栗の木がたくさん生えていた。門をくぐって玄関まで、五十米以上もあったような気がするね。そこが石で畳んだ坂道でね、そこをえっちらおっちら登りながら、僕は突然イヤな予感がした。北小路のやつ、ああは言ったが、僕の顔を見たとたんに、イヤな顔をするんじゃないか、半月はおろか、一日だって泊めるのを迷惑がるんじゃないか。ちらとそんな予感がしたんだ。予感というより、確信と言った方が近いかも知れない」

 そして佐介は黙った。曽我ランコは自分の足を佐介から眺められていることを意識して、足指をピコピコと動かした。足指は肉体から独立して、なまめかしく動いた。

「それで、やっぱり迷惑がられたの?」

「いや、そうでもなかった。が、僕の方でへんに遠慮しちゃったんだ。北小路は僕に、上れ上れ、としきりにすすめたが、僕はへんにひねくれて、かたくなになって、玄関先で帰ると言い張ったんだ。ほんとは一月ばかり厄介になるつもりだったんだがね、ふしぎな力が僕を駆(か)って、僕を玄関先だけで辞退させた。今直ぐ東京に戻るんだと、僕はもう喧嘩腰で言い張ったような気がする。そこで北小路も負けて、弁当をつくって呉れた。大急ぎでつくったもんだから、かんたんな弁当だね。赤ん坊の頭ほどもある塩味の握り飯、それにタクアンの五六片だ。僕はそれを貰い、そそくさと駅に引き返した。待合室でポケットウィスキーを飲み、その握り飯を食べた。食べ終ると待合室を出、線路沿いの土堤をあるいて、陸橋まで来たのだ。間もなく二十一時五十九分着の普通列車がやってくる。僕はそれをあらかじめ知っていた。それをじっと待っていた――。やがてかなたの闇に、突然ギラギラとヘッドライトが現われた。僕はもう夢中で陸橋にぶらりとぶら下り、そしてそのまま手を離した。僕は線路に落ちたのだ」

「轢(ひ)かれたの?」

「轢かれたら、僕が今君の前にいるわけがない」と佐介は真面目な顔で言った。「轢かれなかったのだ。なにかの手違いで、汽車は僕の身体の上を通過しなかった。僕は枕木に膝を打ちつけただけで、それでおめおめと土堤を這い上ったんだ」

 佐介は手を伸ばして、ズボンをたくし上げ、右膝を露出した。青白い膝蓋[やぶちゃん注:「しつがい」。]を撫でさすった。

「その時から、この膝の具合があまり良くない。僕の身体の中でここが唯一の弱味となったな。この世に弱味なき人間なし。今夜の格闘でも、牛島からここを蹴上げられた。敵というやつは、必ず弱味をねらって来るものだ」

「それで」曽我ランコはちょっとうんざりした。「死にそこなったわけね」

 佐介はうなずいた。

「僕は当日のことを、ほとんど何でも覚えている。北小路家のたたずまい、待合室にいた人々の顔やその会話の内容、陸橋を渡ってきた牛車の音、牛の眼の色、何でもありありと頭にこびりついている。ところが、自分が何故死のうと思ったのか、死のうと決心したのか、そこだけが僕の記憶から完全に脱落しているんだ。自殺を試みたからには、その理由がなくちゃいけないだろう。その理由が、今いくら記憶をひっかき回しても、出て来ないんだ」

「変なのねえ」曽我ランコは眉をひそめた。「そんなこと、あるかしら」

「あるんだね」佐介はまたランコの足指に視線をうつした。「イヤなもの、腐敗したものをたべると、胃はどうするか。嘔吐(おうと)というやり方で、これを排除してしまう。目にゴミが入ったら、目はどうするか。涙をさかんに出すことによって、異物を流し出してしまう。そんな具合に僕の死のうとした気持や動機が、あまりにも耐えられないものだったために、僕の記憶が自動的にそれを排除し、追放してしまったんじゃないかしら、傷口から膿(うみ)と共にトゲを排出するようにさ。近頃そんなことも考えるんだ。しかし、記憶に耐え切れないような、どんな切ない動機や原因が、その時の僕にあったんだろう。その耐え切れないやつを、記憶からしめ出すことによって、その日からやっと僕は生きてきた。死にそこなって、生きて来た。いや、死にそこなったというより、僕はその時やはり死んだのだ。死んだと言っていいだろう。人を自殺におもむかせるほどの重大な素因を、すっかり排除し脱落させてしまったんだからね。生きてると自慢するだけの資格は僕にないよ。つまり人として感動する権利を、僕はなにものかによってすっかり取り上げられてしまった。取り上げられたというより、返上したと言った方がいい。時に君の足指は、よく動くもんだね。白雪姫の小人みたいだ」

「イヤな眼!」曽我ランコはすばやく足を引っこめた。「眼がかさかさに乾いているのね。まるで今にも残酷なことをやり出すみたい」

「疲れてるんだ」見るものがなくなったものだから、佐介は小さなあくびをして、視線をうろうろさせた。「ああ、僕はずい分長い間疲れている」

「自殺の気持の記憶は」足先を掌でつつみ込むようにしながら、ランコは訊ねた。「今全然ないというわけね」

「そうだね。あるとすれば、漠然とした憎悪の感じだけだ。それが膜のように僕の記憶にかぶさっている。それも、僕が誰かを憎んでるのか、誰かが僕を憎んでいるのか、全然ハッキリしないんだ。ただそこらの中核に、憎しみみたいなものがあったということだけが、漠然と残っているんだが、それだけじゃ仕様がないやね」佐介は乃木七郎の寝姿を顎でさした。「このおっさんは、いつ記憶が回復するか知らないが、あるいは僕も、ある日のある時、ふっとそれが戻ってくるかも知れない。戻ってくるかも知れないし永久に戻って来ないかも知れない。そのどちらが僕に有利なのか、幸福なのか、判らないけれどもね、その点はこのおっさんも同じだ」

「金魚をつかまえろ」その時牛島が寝言を言いながら、ごろりと寝返りをうった。佐介とランコは顔を見合わせた。「金魚を三匹だぞ」

「ノメクタ。ニエコヨ」夕陽養老院院長室備えつけの大型ソファーの上で、黒須院長は突然大声でハッキリと寝言を言った。院長は肱(ひじ)掛けを枕とし、くの字型の窮屈な姿勢で眠っていた。よだれが顎鬚を一筋光らせ、詰襟服の第一ボタンでとまっていた。院長は小学校時代の習字の夢をみていた。彼は右手をふわふわと宙に浮かせ、くにゃくにゃと動かしながら、寝言を続行した。「レルキヤ。ヒセハホ。……」

「ふ、ふ、ふ」寝床の中でニラ爺は低く笑っていた。ニラ爺も覚めているのではなく、眠っていた。眠りながらニラ爺はわらっていた。木見婆からの折角の獲物を、道佐爺たちによって全部没収され、以後かくの如き不正を働かないと誓わされ、ふんだりけったりの目に合わされたにも拘らず、ニラ爺は無邪気に眠り笑いをしていた。眠っている時のニラ爺の顔は、起きている時のそれにくらべて、五つ六つ若返って見えた。ニラ爺のとなりには松木爺が、松木爺のとなりには滝川爺が、それぞれの寝床にぐっすり眠っていた。その東寮どんづまりの六畳間に、ニラ爺の含み笑いの声だけが陰にこもって響いた。「ふ、ふ、ふ」

「ああ、疲れた。昨夜もほとんど眠っていないんだ」佐介は首をうしろに曲げて、音のないあくびをした。一層積み夜具にぐんなりと背をもたせながら、ふかぶかと眼を閉じた。「それに膝も痛い。明朝、骨接(ほねつ)ぎに行こう。曽我君。君もいっしょに行かないか。サクラ通りをずっと行ったところに、上手な接骨医がいるんだ。爺さんだけれどもね、骨折だけじゃなく、ネンザや打ち身、そんなやつをうまくなおすんだよ。僕はいつも右膝の具合が悪くなると、そこにかけつける。曽我君、オッパイの具合はどうだね?」

「ずきずき痛いわ」曽我ランコは佐介を横目で見ながら、左掌で乳房を押えた。「その骨接ぎ、こんなのもやって呉れるの?」

「やって呉れるさ、打ち身だもの」佐介は眼を閉じたまま物憂(ものう)げに言った。「僕はどうもあいつ等が怪しいと思うんだ。こんなX君なんか、ほんとは問題じゃないよ」

「あいつ等?」

「ほら、あのジャンパーを着た男さ、それに赤スカートの」佐介の語調はしだいに舌たるく、あいまいになってきた。「あいつ等、対策協議会をリードしているようだが、どうもそのリードの仕方が怪しいな。今日の投石騒動だって、あいつ等は戸袋のかげにかくれて、初めから安全地帯にいて、何も傷つかなかった。偶然にしては出来過ぎている。何かあるんじゃないか」

「何が?」

 佐介は返事をしなかった。そのままの姿勢で一瞬の間に、佐介は眠りの世界に入っていた。やがて曽我ランコは板壁から背を引き離し、音のしないようにそっと立ち上った。土間へ降りた。

「あたし、もう帰るわ」

 少数のものを除いて、夜はほとんどの人間、ほとんどの物体を眠らせつつあった。その少数のもののひとつに、カレー工場の器械があった。数多(あまた)のウスとキネとをそなえたその大きな器械は、永遠の刑罰を受けた巨人のように、悲しげな音を立てながら、ガッシャ、ガッシャ、ガッシャと動いていた。寝しずまった周囲の中で、その周囲から憎悪されることによって、その音は孤独に自暴自棄に響きわたった。

[やぶちゃん注:「味醂」にルビがあったり、なかったりはママ。

「ノメクタ。ニエコヨ」「院長は小学校時代の習字の夢をみていた。彼は右手をふわふわと宙に浮かせ、くにゃくにゃと動かしながら、寝言を続行した」「レルキヤ。ヒセハホ」国立国会図書館デジタルコレクションの大塚治六著「硬毛兩様 書方の指導書 尋一」(大正一五(一九二六)年東洋図書刊)の「敎材解說並に指導法」の中に「第一 ノメクタ」「第二 ニエコヨ」「第三 フラソツ」「第四 レルキヤ」「第五 ヒセハホ」「第六 アカイモミヂ」等とある。ここに出るそれぞれは、「ノメクタ」が『斜畫の用筆法と右向の點の打方との二つを授ける』とあり、以下、「ニエコヨ」は『橫畫の用筆法とコとヨの曲り角の用筆法を授く』、「レルキヤ」は『勾』(かぎ)『と竪畫との用筆法を授ける』、「ヒセハホ」は『ヒセの第二畫の曲り角の用筆法を會得させる』とあった。なるほど! と一人合点した。

「一層積み夜具」消波ブロックの施工で「一層積み」「多層積み」があるが、私は蒲団にこうした謂い方をしたことがないのでちょっと不審で、何らかの誤記か誤植かと思ったが、既に牛島と乃木に使い、一枚しかない一つの蒲団を一度(「一層」)折りたたんだ(でないと「背をもたせ」られない)ものを指していると読んでおく。]

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