柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 二
二
元禄四年芭蕉が去来の落柿舎に滞在した時は、丈艸も訪問者の一人であった『嵯峨日記』四月二十六日の条に「史邦丈艸見ㇾ問」とあり、次の詩及(および)句が記してある。
[やぶちゃん注:「元禄四年」一六九一年。
「四月二十六日」二十五日の誤り。
「史邦丈艸見ㇾ問」「史邦・丈艸、問(と)はる」。]
題落柿舎 丈艸
深対峨峰伴鳥魚
就荒喜似野人居
枝頭今欠赤虬卵
青葉分題堪学書
尋小督墳
強攪怨情出深宮
一輪秋月野村風
昔季僅得求琴韵
何処孤墳竹樹中
芽出しより二葉に茂る柿の実 丈艸
[やぶちゃん注:漢詩・発句の間は一行空けた。漢詩は実は訓点附き(ここでは各句末に句点まで打たれてある)であるが、向後は白文で示す。五月蠅くなるだけで、しかも一部で記される読みが現代仮名遣という気持ちの悪いもので、凡そ完全には電子化する気が起きないものだからである。今まで通り、以下に正字正仮名で一応本文のそれに概ね沿いながら訓読文を附す。但し、恣意的に正字とし、歴史的仮名遣を用い、句点は排除し、一部に字空けを施す。
落柹舍に題す 丈艸
深く峨峰(がほう)に對し 鳥魚(てうぎよ)を伴ふ
荒(くわう)に就き 野人の居に似たるを喜ぶ
枝頭(しとう) 今 缺く 赤虬(せききう)の卵(らん)
靑葉(せいえふ) 題を分かちて 書を學ぶに堪(た)へたり
小督(こがう)の墳(つか)を尋ぬ
强(た)つて怨情(ゑんじやう)を攪(みだ)して 深宮を出づ
一輪の秋月(しうげつ) 野村(やそん)の風
昔季(せきねん) 僅かに琴韵(きんいん)を求め得たり
何處(いづこ)ぞ 孤墳(こふん) 竹樹(ちくじゆ)の中(うち)
芽出(めだ)しより二葉(ふたば)に茂る柹の實(さね) 丈艸
「落柹舍に題す」の語注。
・「峨峰」嵯峨の峰々。
・「鳥魚を伴ふ」鳥が楽しく囀り鳴き、魚が気儘に泳ぎ回っている。
・「荒」落柿舎への野道は荒れるに任せて。
・「野人」野夫(やぶ)。田舎の農夫。本来なら持ち主の去来を形容するが、ここはそれを芭蕉に置き換えている。
・「枝頭 今 缺く 赤虬の卵」枝先に今は柿の実はなっていないけれど。「赤虬」「虬」(きゅう)は「虯」(きゅう)の俗字で、本来は蛟(みづち=龍)の子の中で二本の角のある虯龍のこと。「赤い虯龍の卵」から転じて「赤く熟した柿の実」の異名である。]
・「靑葉 題を分かちて 書を學ぶに堪へたり」青々としたその若葉は、種々の詩歌を詠んで書きつけるに相応しい。木の葉に詩歌を記す故事は多い。
「小督の墳を尋ぬ」の語注。
・「小督」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために宮中から退けられて嵐山嵯峨野に隠棲し、そこに果てたと伝え、当時、既に複数の「小督塚」と伝えるものがあった。それは「去来 三」で詳しく考証して注したので見られたい。
・「强つて」已む無く。無理矢理。「出づ」を修飾する語。清盛の横暴によって帝への慕情を「已む無く」断ち切って身を引いたことを言う。
・「一輪の秋月 野村の風」隠棲した嵯峨野の荒涼寂寞をシンボライズする。
・「昔季 僅かに琴韵を求め得たり」「琴韵」は琴の調べで、ここは「平家物語」で、源仲国が高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされるエピソードを受けた、謡曲「小督」に基づくもので、琴の音を頼りに仲国が小督を探し当てて対面する部分を裁ち入れたもの。]
丈草の句、
芽出しより二葉に茂る柹の實
「二葉」は実際の柿の実から芽を出した小さな二葉を以って「茂る」と見立て、秋の赤き実の壮観を匂わせたもの。タルコフスキイの「惑星ソラリス」の終わり近くの印象的な窓辺の容器からの発芽のシーンを私は図らずも想起した。]
本によってはこの「芽出しより」の句を史邦の作とし、「途中の吟」という前書のある「ほとゝぎすなくや榎[やぶちゃん注:「えのき」。]も梅さくら」の句を丈艸としているそうである。「ほとゝぎす」の句は『己(おの)が光』にも丈艸として出ているから、あるいはその方が正しいのかも知れぬ。同時に来た二人の訪問者の句が、記さるるに当って混雑するなどということは、決してあるまじき次第ではない。同じく二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合(つけあい)あり、四句目に丈艸の「人のくむうち釣瓶(つるべ)まつなり」というのがある。誰も一句しかないところに丈艸だけ二度出るのは妙だから、発句を史邦とすれば工合がいいようであるが、『一葉集』の方で見ると、「人のくむうち」は凡兆になっている。いよいよ出でてわからない。『丈艸発句集』には「芽出しより」も「ほとゝぎす」も両方入っているが、前者を『嵯峨日記』に拠り、後者を『己が光』に拠ったとすれば、それまでの話である。『去来発句集』の前書には「芽立より二葉にしげる柿の実と丈艸申されしも」云、ということが見えるから、丈艸としても差支ないかと思う。但いずれにしてもこの両句は丈艸のために重きをなすほどのものではない。
[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五(一六九二)年刊。
「同じく」「嵯峨日記」『二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合あり』
「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションのここと次のここで確かに丈草とする。以下に五句附合部分を電子化しておく。
*
廿六日
芽出しより二葉に茂る柿の實 丈草
はたけの塵にかゝる卯の花 芭蕉
蝸牛たのもしげなき角ふりて 去來
人のくむうちを釣瓶まつなり 丈草
有明に三度飛脚の行やらん 乙州
*]
丈艸の漢詩は相当作品があるらしいが、この二首の如きも嵯峨を背景としているだけに、特に看過しがたいものがある。小督の塚は芭蕉も落柿舎へ来た翌日に弔っている。「墓は三軒屋の鄰、藪の中にあり。しるしに桜を植たり。かしこくも錦繡綾羅の上に起ふして、終に藪中の塵芥となれり。昭君村の柳、巫女廟の花のむかしもおもひやらる」といい、「うきふしや竹の子となる人の果」と詠んだのが、「昔季僅得求琴豹。何処孤墳竹樹中」に当るわけである。
[やぶちゃん注:以上は「去来 三」の私の注を参照されたい。]
芭蕉の遺語として伝えられたものの中に、次のようなことがあった。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]
正秀(まさひで)問[やぶちゃん注:「とふ」。]、古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す、一集一作者にかやうの事例(ためし)あるにや、翁曰[やぶちゃん注:「いはく」。]貫之の好(このめ)ることばと見えたり、かやうの事は今の人はきらふべきを、昔はきらはずと見えたり、もろこしの詩にも左様の例あるにや、いつぞや丈艸の物語に、杜子美(としび)に専ら其(その)事あり、近き詩人の于鱗(うりん)とやらんの詩におほく有事とて、其詩も聞つれどわすれたり。
或禅僧詩の事を尋られしに、翁曰、詩の事は隠士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人も名をしれるなり。かれ常に云、詩は隠者の詩、風雅にてよろしとなり。
[やぶちゃん注:「俳諧一葉集」(大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊)を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「遺語之部」のここに前者が(左の「541」ページ後ろから七行目)、ここに後者があった(左の「605」ページの前から四行目)。
「古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す」正秀の謂いには誤りがあり、最初のそれは、
亭子院歌合に
櫻散る木(こ)の下(した)風は寒からで
空に知られぬ雪ぞ降りける
で貫之の歌ではあるが、「古今和歌集」ではなく、「拾遺和歌集」の「巻第一 春」に所収するものである(六四番)。以下は「古今和歌集」。
春の歌とて、よめる 貫之
三輪山をしかも隱すか春霞
人に知られぬ花や咲くらむ
(「巻第二 春歌下」・九四番)
冬の歌とて、よめる 紀 貫之
雪降れば冬ごもりせる草も木も
春に知られぬ花ぞ咲きける
(「巻第六 冬歌」・三二三番)
因みに、この遺語は芥川龍之介が「芭蕉雜記」の「十一 海彼岸の文學」に順序を逆にして引いている。その解析は驚くべく緻密なものである。リンク先の私の古い電子テクストを是非読まれたい。宵曲は或いはそれを知っていて、しかもやや嫉妬染みて紹介しなかったものかも知れない。]
元禄人の漢詩に対する造詣は、固より今人の揣摩(しま)を許さぬ。杜詩を愛して最後まで頭陀(ずだ)に入れていたという芭蕉が、特に二人の説を挙げて答えているのは、頗る注目に値する。元禄の俳諧はその初期に当り、漢詩によって新生面を開いたと見るべき点がある。素堂は『虚栗』以前からの作家であり、漢詩趣味の人として自他共に許しているのみならず、芭蕉よりやや年長であるから、その説を引くのに不思議はない。年少の門下たる丈艸の説を特に引いているのは、漢詩に対する造詣の自ら他に異るものがあったためであろう。丈艸は俳諧に志すことが遅かったから、其角以下の諸作家の如く、形の上に現れた漢詩趣味はむしろ稀薄であるが、それは前に述べた禅臭の乏しいのと同じく、造詣の露出せざる点において、丈艸の風格の重厚なる所以を語るものでなければならぬ。
[やぶちゃん注:「揣摩」「揣」も「摩」もともに「おしはかる」の意で、他人のことなどをあれこれと推量すること。]
『猿蓑』以後における丈艸の句にはどんなものがあるか、少しく諸書から抄出して見ることにする。
はね釣瓶蛇の行衛や杜若 丈艸
[やぶちゃん注:「はねつるべへびのゆくへやかきつばた」。カット・バックで面白いが、ちょっと贅沢に対象を詰め込み過ぎていて、感興を引き出すのが「行衛や」だけで今一つパンチに乏しくなってしまった憾みがある。]
辻堂に梟立込月夜かな 同
[やぶちゃん注:中七は「ふくろたちこむ」。月皓々たる中に、それを避けて梟が辻堂にぎっしりと籠っているのである。明暗を逆手にとった佳句である。]
草庵の火燵の下や古狸 同
[やぶちゃん注:「火燵」は「こたつ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『貞享五』(一六八八)『年八月、丈草が病気を理由に遁世したあと、参禅の師玉堂和尚に所縁を求めて居を定めた京都深草の庵でのことであろう』と注されておられる。]
しら浜や犬吠かゝるけふの月 同
[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『元禄六』(一六九三)『年の、仲秋』『八月十五夜の月』(「けふの月」でその日を特に指すことが出来る)を『惟然・洒堂たちと淀川に』『賞した折の句』とある。]
藁焚ば灰によごるゝ竈馬かな 同
[やぶちゃん注:上五は「わらたけば」、「竈馬」は「いとど」。これはもう真正の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis でなくてはならない。かすかな赤いグラーデションが見える。好きな句である。]
くろみ立沖の時雨や幾所 同
[やぶちゃん注:上五は「くろみだつ」、座五は「いくところ」。広角レンズで琵琶湖の沖を撮る。よく見ると、そこにところどころ黝(くろ)ずんだところが、幽かにぼやけるように動いて見える。それが動いてゆく時雨の驟雨のそれなのだ、というランドマークにダイナミズムを与えた丈草の名句に一つである。宵曲も後で述べるように、この「藤の実」所収の句形が素晴らしい。「炭俵」の「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」ではレンズが望遠で画面中の動的対象が一つに絞られて、完全に興が殺がれる。]
朝霜や聾の門の鉢ひらき 同
[やぶちゃん注:中七は「つんぼのかどの」。「鉢ひらき」は「鉢開き」で「鉢坊主」のこと。所謂、托鉢して金品を乞い歩く僧を言う。]
ほそぼそと塵焚門の燕かな 同
[やぶちゃん注:中七は「ちりたくかどの」。モノクロームに焚く火のたまさかに燃え上がる赤と、ツバメの喉と額の紅がさっとかすめて、部分彩色される。素敵な句だ。]
野馬のゆすり起すや盲蛇 同
[やぶちゃん注:「野馬」は「かげろふ」と読む。座五は「めくらへび」。「陽炎」を「野馬」と表記するのは「荘子」の「逍遙遊篇」に基づくもの。岩波文庫(一九七〇年刊)の金屋治訳注の注によれば、『郭注に「野馬とは游気なり」とあり、成玄英の疏』『は「青春の時、陽気発動し、遙かに藪沢の中を望めばなおなお奔馬の如し。故に野馬という。」と説明する』とある。「盲蛇」は未だ寝坊の、冬眠から覚めぬ地中の蛇を言ったものであろう。「野馬」という当て字が非常に上手く機能して心理上の画像を豊かにしている。]
うかうかと来ては花見の留守居かな 同
人事の句が少いのは『猿蓑』已に然りであった。その後においてもこの傾向に変りはない。「うかうかと来ては」の句がその点でやや珍しいものであるが、花見そのものでなしに、「花見の留守居」であるところはやはり丈艸である。この句には丈艸一流の滑稽趣味の存することを見逃し難い。
[やぶちゃん注:堀切実氏の前掲書では、『春の日和につられて、うかうかと親しい人の家を訪ねたら、ちょうど一家そろって花見に出かけようとするところ、つい留守居を頼まれて引き受けてしまい、そのまま一日中その家に過ごすことになってしまったというのである。これはしくじったという気持もあろうが、まあ、これも一興よと留守居を楽しむ気分が中心であろう。隠棲の身とて、家族もなく、俗用もない気楽な丈草の立場が軽妙で剽逸な味わいとなって表われている』とされた上で、「留守居」について語注され、『留守番をすること。①花見に出かけたあとの留守番、②花見をしながらの留守番、の両解があり、西村真砂子氏は、江戸幕府職名の一「留守居役」にひっかけて、気取った言い方をしたもので、②の解がふさわしいとする』とある。私も花も何もない留守居では淋しい。一本(ひともと)の小さな桜の木を留守居宅の庭に配したい。さればこそ、「花見の留守居かな」がモノクロームから天然色に代わる。]
ほそぼそと芥を焚く門の燕も悪くない。藁灰に汚れる竈馬に目をとめた点にも、その微細な観察を窺い得るが、就中(なかんずく)元禄俳諧の骨髄を捉えたものは、「くろみ立沖の時雨」の一句であろう。眺めやる沖の方は時雨が降っているために、幾所も黒み立っている。空も波も暗い。そういう海上の光景がひしひしと身に迫って来る。去来にも「いそがしや沖の時雨の真帆片帆」という句があり、句としては働いているけれども、この丈艸の句のような蒼勁(そうけい)な力がない。自然に迫るものを欠いている点で竟(つい)に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さねばなるまいと思う。『炭俵』には「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」となっているが、「くろみ立」の方が調子が強い。「行どころ」は「幾所」に如かぬようである。
[やぶちゃん注:宵曲の、去来の句との比較も含めて、全面的に支持するものである。
「蒼勁」筆跡や文章が枯れていて、しかも力強いさま。
「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)」すは「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]
大はらや蝶の出てまふ朧月 丈艸
[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、「北の山」(句空編・元禄五(一六九二)年刊)の句形、
大はらや蝶のでゝまふ朧月
で本句を示され、『朧月の夜、大原の里を逍遥していると、ほのかな明かりの中に白い蝶がひらひらと舞っているのが眼に映った、というのである。洛北の大原は『平家物語』や謡曲の『大原御幸』で知られる歴史的由緒のあるところ、朧夜に浮かび出た蝶は、あるいはこの地に隠棲した建礼門院の精霊の幻覚であるのかもしれない。「でゝ舞ふ」には、あたかも能舞台にシテが登場してくるときのような趣も感にられよう。句は、そうしたよ〝実〟と〝虚〟の入り交じった夢幻的な世界を一幅の画のようにとらえているのである。そニに作者の詩情が見事に形象化されているわけである。蝶は夜飛ばないものとされるが、作者の眼には確かにそれが蝶と映ったのであろう』と評釈され、語注されて、「大はら」は『洛北(京那府愛宕郡)の大原の地名とみる説と洛西(同乙訓郡)の大原(大原野)とみる説がある。前者は『平家物語』濯頂巻の「大原御幸」や謡曲『大原御幸』で知られ、建礼門院の庵室であった寂光院や三千院がある。また後者とみる説は地形的な点を考慮に入れた見解である。両者ともに「朧の清水」なる名所をもっている』とあり、「蝶」には、『春の季題。蝶は夜間飛ばないものという非難があるが、たとえ蛾などの虫であったにしても、作者はそれを蝶として詠んだものとすれば、それはそれで差し支えあるまい』とされる(「朧月」も春の季題である)。さらに、『出典とした『北の山』以外は中七「出て」とあり、これを「イデテ」と読む説もあるが、『北の山』の句形に従って、「デテ」と読むべきである。また去来の「丈草が誄」(『本朝文選』巻六・『幻の庵』所収)によれば、去来が知友の句を集めて深川の芭蕉に送ったところ、芭蕉が丈草のこの句について「この僧なつかしといへ」と返書に記して寄こしたと伝えられる。なお、出典としてあげた『幻の庵』』(魯九編・宝永元(一七〇四)年自跋)『では、去来の追悼詞(「丈草ガ誄」と同文)中に出ている句である。元禄四年春、加賀から上洛した句空とともに大原に遊吟した折の作と推定される』とある。なお、夕刻陽が陰ってからでも飛翔する蝶はいる。渡りをする蝶は早朝暗い時間から飛び始める。実際、摂餌もパートナー探し(紫外線が必要)も出来ず、夜行性の他の動物に捕食されるリスクも高まるから、夜に蝶が飛んでメリットはないから、殆どの蝶は飛ばないことは事実である。しかし、文芸、特に和歌や発句に博物学的な正確さを要求するようになるのは、実際には近代以降の喧騒に過ぎず、堀切氏の言うように、丈草には見えたのだという〈詩的幻想〉で何ら問題ない。寧ろ、「これはあり得ない」と切り捨てる馬鹿に付き合ったり、これこれの種が朧月夜のこの時間帯なら飛ぶのでその種であると学名を記して鼻白ませる者を相手にする必要など、ない。但し、私はこれを以って丈草の代表句の一つに数えるのには、やや躊躇するものである。]
雨乞の雨気こはがるかり著かな 同
[やぶちゃん注:「あまごひの あまけこはがる かりぎかな」。堀切氏は前掲書で、『それぞれに装いをした村人たちがそろって神社に集まり、雨乞いの祈願をしているが、その中には衣裳が借着であるために、黒雲が出てきて雨の降りそうな空に内心気が気でない者もいるようだ、というのである。人情のかかしみを道破したところに、俳意が働いている』と評釈しておられる。]
蘆の穂や顔撫揚る夢ごゝろ 同
[やぶちゃん注:中七は「かほなぜあぐる」。堀切氏の前掲書評釈には、『舟旅をしているときのことであろう。舟が芦間を分けて進むとき、風にそよぐ岸辺の芦が舟端に仮睡していた自分の顔をすっと撫で上げたのを、半睡半醒の夢ごこちのうちに感じたというのである。前書がなく、表現が不十分なのが欠点であるが、いかにも世を捨てて自在な境地にあった丈草らしい一句といえよう』とある。]
水風呂の下や案山子の身の終 同
[やぶちゃん注:「水風呂」は「すいふろ」。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶 の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「案山子」は「かがし」と濁っている(語源・表記については江副水城氏のブログ「日本語の語源〜目から鱗の語源ブログ〜」の「【かかし】の語源」が目から鱗、必読!)。座五は「みのをはり」。]
榾の火やあかつき方の五六尺 同
[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。囲炉裏や竈で焚く薪(たきぎ)。掘り起こした木の根や樹木の切れ端。「ほた」と清音でも発音する。堀切氏前掲書に、『山家などに旅寝でもした折の吟であろう。暁方の寒さに起き出して炉に投げ入れた榾の火が、暁闇の中でぱあっと五、六尺の高さにも燃え上がったという光景である。冷え込んだ室内の空気の中に、勢いよく真っ赤に上がる榾の炎が強烈な印象で眼に映じたのである』とされ、『草庵独居の炉辺のさまとみる説もある』とある。]
「大はら」の句は丈艸の句として人口に膾炙したものの一である。去来の「丈草ガ誄」の中に「先師深川に帰り給ふ比、此辺の句ども、書あつめまいらせけるうち、大原や蝶の出て舞ふおぼろ月などいへる句、二つ三つ書入侍りしに、風雅のやゝ上達せる事を評し、此僧なつかしといへとは、我方への伝へなり」とあるのを見れば、当時から評判だったものに相違ない。後世のものではあるが『俳諧白雄夜話』はこの句について次のような話を伝えている。
[やぶちゃん注:『去来の「丈草ガ誄」』榛原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで全文が正字正仮名で電子化されてある(因みに、このサイトには源義経の「腰越狀」や芥川龍之介の詩「相聞」など、私のサイトへのリンクが附されたものがある)。
「俳諧白雄夜話」天保四(一八三三)年刊。ここ(「国文学研究資料館」の画像データベース。左頁の後ろから三行目「一大はらのおほろ月」と次のページにかけて)。
以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]
大原や蝶の出てまふ朧月
丈艸の句也、蕉翁の曰、蝶の舞さまいかゞあらんやと聞給ひしに、さく夜大原を通りてまさに此姿を見侍りぬと、翁曰、しかるうへは秀逸たるべし、誠に大原なるべしとぞ頌歎[やぶちゃん注:「しようたん」。]浅からずありしと。
蝶が果して夜飛ぶか否かについては、芭蕉も先ず疑ったが、丈艸が実際そういう景色を見たというのを聞いて、それならよろしい、といったのである。丈艸は譃をいうような人とも思われぬ。近代科学の洗礼を受けた人たちは勿論、芭蕉以上にこの蝶の実在性を疑っている。夜飛ぶとすれば蛾に相違ないというのであるが、朧月夜に蛾の飛ぶというのも、何だか少しそぐわぬところがある。丈艸は『白雄夜話』にある通り、実際大原においてこういう光景に接し、特殊な興味を感じてこの句を作ったのではあるまいか。近代人の一人たる北原白秋氏の歌集にも、月夜の蝶を詠じたものがあるからである。
ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる
現(うつつ)なき月夜の蝶の翅(はね)たゝき藤豆の花の上に揺れてをる
この二首は丈艸の句よりも遥に写生的であるだけに、自然観察における実在性を疑う余地はあるまいと思う。自然界の現象の中にぱ、われわれのような見聞の乏しい者の速断を許さぬものがしばしばある。月夜を飛ぶ蝶にも何か理由があるのかもわからない。
[やぶちゃん注:以上の白秋の二首は詩歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年アルス刊)の中の「月下の蝶」と標題した二首(のみ)であるが、
ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる
現うつつなき月夜の蝶の翅たたき藤豆の花の上に搖れてをる
とある。しかし、残念なことに、同詩歌集の序の中で一部の決定稿の推敲過程を並べて見せている中に、前者の原作として、
ふと見つけて淚こぼるる月讀の光に白い蛾が飛んでゐる
を示してしまっている。即ち、白秋の見た実景は「蝶」ではなく、「蛾」であったことが明らかとなっているのである。さすれば、二首目それも実は蛾である可能性がいやさかに高くなるのである。まんまと宵曲は騙されたわけであった。]
但この「大はら」の句は、古来有名な割に、丈艸としては最高峰に立つ作ではないようである。人口に膾炙する所以はその辺にあるのであろうが、美しい代りに迫力には乏しい。蝶が夜飛ぶという特色ある景色も、大原に対する詠歎的な気持に覆われた憾(うらみ)がある。
「雨乞」の句、「水風呂」の句にはまた例の滑稽趣味がある。滑稽としてはあくどいものではないが、いささか理が詰んでいるため、上乗のものとは目し難い。この点ではむしろ前にあった「草庵の火燵の下や古狸」の句を推すべきであろう。これらの句は見方によっては滑稽ではないかも知れない。但丈艸の滑稽趣味ということを念頭に置いて見る時、これらの句も一応留目する必要がありそうに思う。それほど彼の滑稽は淡いのである。
「榾の火」の句は佳作とするに躊躇せぬ。「くろみ立」の句とは多少種類を異にするけれども、元禄俳諧の骨髄を捉えている点に変りはない。こういう句の人に迫る力を、文字で説明するのは困難である。「大はらや」の句などと併せ誦すれば、丈艸の面目の彼にあらずしてこれに存することは何人も認めざるを得ぬであろう。芥川氏は丈艸を説くに当って、二度とも「大はらや」及「榾の火」の二句を挙げていた。丈艸の句の幅を示すためには、固より両者を示さなければなるまい。ただ丈艸の真骨頂は、有名なる「大はら」よりも、比較的有名ならざる「榾の火」によく現れていることを語れば足るのである。
[やぶちゃん注:「一」で述べた芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(正確には初出は『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』)と「澄江堂雜記」の「丈草の事」を指す。]