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2020/07/23

三州奇談續編卷之八 阿尾の石劍

[やぶちゃん注:遂に最終巻に突入する。]

 

 三州奇談後編 卷 八

 

    阿尾の石劍

 氷見の西北阿尾(あを)の古城は、往昔菊池伊豆守住館(ぢゆうかん)の地にして、海岸猶今殘壘(ざんるい)巍然(ぎぜん)たり。左は灘(なだ)に折れ、右は間島(ましま)になだれて、後ろに藪波(やぶなみ)の里あり。彼(か)の「萬葉集」にも詠ずる所となり、海中阿武島(あぶがしま)・唐島(からしま)左右に見ゆ。唐島は國君光高(みつたか)公の、「大和にはあらぬ唐島」と讀ませ給ひし高詠あり。本より有磯の浦波(うらなみ)萬里(ばんり)の遠きを狹(せば)めて、佐渡が島宮崎の端よりあら波のよせ來(きた)れば、眺望詞(ことば)も及ばず。眼涯(がんがい)豈(あに)極まりあらんや。此磯は本(も)と「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし「有磯の渡り」にして、「大崎」や「有磯の渡り」と云ひし。「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語、今は「尾ヶ崎」といふ。渡りは此地とて、猶海中に石路(いしのみち)髣髴と見ゆ。今も猶血氣の人、勇める馬を試みに打渡すに、輙(たやす)く唐島に行き渡る。其間一里許ならん。海苔(のり)生ひ海雲(もづく)亂れて、左右の深さ千仭(せんじん)とにや。近頃も二丈に及ぶ海松(みる)を引上げたり。是「千年木(せんねんぼく)」と云ふものゝよし、根莖(ねくき)十(とお)かゝへなり。今其木を切りて姿(すがた)といふ村に殘れり。菊池の古城は海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し、切岸(きりぎし)絕壁眼(め)くるめきて見上(みあ)ぐべからず。上を少し下りて石上(せきしやう)に松あり。稀に鷹の巢をなすことありとかや。急なる所(ところ)繩を下(おろ)して量るに、十六丈餘となり。

[やぶちゃん注:「阿尾」富山県氷見市阿尾(グーグル・マップ・データ航空写真)。私の好きな場所。高校時代、ここから通う綺麗な女の子がいたのをふっと思い出した。

「古城」富山湾に面した独立丘陵の岬である城ケ崎に築かれた戦国時代の山城。ウィキの「阿尾城」によれば、『能登へ向かう街道と海上交通をおさえる要衝に位置し、戦国末期の城主として肥後菊池氏の末裔である菊池武勝・安信親子が知られる』。『菊池武勝は上杉謙信に従った後、織田信長と結び、越中入りした佐々成政配下として活躍した。信長死後は成政と対立した前田利家方につき、佐々成政に攻められるも前田勢の加勢により撃退している』。『菊池氏は前田方についた後も阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの』、慶長元(一五九六)年に『当主が没すると』、『阿尾城もまもなく廃城となった』。『なお、菊池氏が前田方についた』天正一三(一五八五)年に『阿尾城に入った前田方の武将のひとりが傾奇者』(かぶきもの)『として知られる前田慶次郎である。城主だったとする見方もあるものの、実際に城にとどまったのは』五月から七月頃までの僅か三ヶ月ほどだ『と考えられている』。また、『氷見市教育委員会が行った発掘調査の結果』では、『明確な城郭遺構は確認されなかった。ただし、伝二の丸・伝三の丸地区で』十五世紀から十六世紀の『遺物が出土しており、ここを中心に城として機能していたと』は『考えられている』とある。より詳しくは、写真も豊富なこちらをお薦めする。

「往昔」今までも何度も(全十二箇所)も出てくる語句であるが、読みは確定し難い。音は「わうじやく(おうじゃく)」であるが、当て訓で「そのかみ」或いは「むかし」とも読めるからである。私は一貫して「そのかみ」と読むことにしている。

「菊池伊豆守」前注に出た菊池武勝(享禄三(一五三〇)年~慶長一一(一六〇六)年)。肥後菊池氏の末裔。越中国射水郡阿尾城主。ウィキの「菊池武勝」によれば(先とダブるが、ほぼそのまま引いた)、『別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、入道後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守(自称)。子は安信。また陸奥国は糠部郡・鶴ヶ崎順法寺城、田名部館城主だった菊池正義は弟』。永禄四(一五六一)年頃、『阿尾城主として上杉謙信に仕える。謙信の死後は織田信長に属し』、天正八(一五八〇)年三月十六日には、『信長より屋代十郎左衛門尉・菊池右衛門入道宛てに知行を安堵する朱印状が与えられて』おり、翌年二月、『信長は征服途中にあった越中の一職支配権を佐々成政に与え、武勝はその与力と』なっている。「本能寺の変」後、『佐々成政が』、『羽柴秀吉や同じ信長子飼いでありながら秀吉と同調姿勢を取るようになった前田利家と不仲になると、武勝は秀吉・利家側に付くことを選択』、天正十三年五月には、『前田勢を阿尾城に迎え入れた。この際、入城した前田勢の』一『人に傾奇者として知られる前田慶次がいた』。その後の同年七月には『阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの、ほどなく武勝は山城国柴野へ退去し、嫡子安信も』慶長元(一五九六)年に『没すると、その子大学が相続したものの』、『代って新知』千五百石に代えられ、『以降、菊池氏は代々加賀藩に仕えた』、また、『阿尾城は安信が亡くなってほどなく廃城となったものと考えられる』とある。

「壘」外敵を防ぐために築造した構造物。

「巍然」山や構造物が高く聳え立っているさま。

「灘」ここは波や潮流の荒い水域の謂いではなく、沿岸水域面を指している。

「間島」島嶼名ではなく、地名。氷見市間島(グーグル・マップ・データ)。

「藪波の里」現在の氷見市薮田(グーグル・マップ・データ)の旧地名と推定される。阿尾城北の後背地で、北西に延び、南東部分は海岸に接している。

『「萬葉集」にも詠ずる所となり』巻第十八の大伴家持の一首(四一三八番)、

   墾田(こんでん)の地を檢察する事に
   緣りて、礪波郡(となみのこほり)の
   主帳(しゆつやう)多治比部北里(た
   ぢひべのきたさと)が家に宿る。時に、
   忽ちに風雨起こりて、辭去するを得ず
   して作れる歌一首

 荊波(やぶなみ)の里に宿借り春雨に

    隱(こも)り障(つつ)むと

          妹(いも)に告げつや

  二月(きさらぎ)十八日、
  守(かみ)大伴宿禰(おほ
  とものすくね)家持の作。

前書の「墾田の地」は口分田(「大化の改新」後に「班田収授法」によって人民に正式に支給された規定の田畑)以外に開墾を許可した地区のこと。国守の采配でそれを設けることが許されていた。「主帳」郡官職の四等官で書記役。一首は同行した男たちに戯れに言ったもの。後書のそれは天平勝宝二年二月十八日。但し、この「荊波(やぶなみ)」(「藪波」でもよい)の地の比定は、この阿尾の「藪波の里」(現在の薮田)以外に、富山県小矢部市浅地薮波(グーグル・マップ・データ)をも比定候補地とする。しかし、主帳の名の中の「北里」や、「忽ちに風雨起こりて、辞去するを得ず」というのは、藪田の地がよりロケーションとしては相応しいように私は思う。

「阿武島」現在の虻ガ島(あぶがしま:グーグル・マップ・データ)。阿尾からは直線で七キロ以上離れる島嶼。富山県最大の島で無人島。氷見市姿の東の沖合い一・八キロ沖合にある。海産無脊椎動物が非常に多く見られ、また、寒流と暖流の影響を受けるため、冷帯系植物と温帯系植物が共生植生し、固有種もいる。私は残念ながら機会(高校時代の生物部の採集合宿で行く機会があったが、私は演劇部と掛け持ちしており、合宿が重なったことから参加しなかった)を逸して渡ったことがない。

「唐島」複数回、既出既注。氷見市街直近の島。

「光高公」加賀藩第三代藩主前田光高(元和元(一六一六)年~正保二(一六四五)年)。第二代藩主利常の長男。母は第二代将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)。正室は第三代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘大姫。徳川家康・浅井長政・お市の方の外曾孫であり、藩祖前田利家の嫡孫。満二十九歳で急死したが、これは、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺説や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる。

「大和にはあらぬ唐島」は徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。

「佐渡が島宮崎」不詳。私は佐渡が好きで三度も行き、全島を周回しているが、「宮崎」という地名・岬名は知らない。小佐渡の最南端の沢崎(グーグル・マップ・データ)の誤りではないろうか。

『「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし』不詳。一つは、巻十八の「京(みやこ)に向かはむ時に、貴人(うまひと)を見、及(また)、美人(うまひと)に相(あ)ひて飮宴(うたげ)する日の爲に、懷(おもひ)を述べて、儲(ま)けて作れる歌二首」と前書する天平感宝元(七四九)年閏五月二十八日に詠まれたものの第一首(四一二〇番)、

 見まく欲(ほ)り

    思ひしなへに

   蘰(かづら)懸け

     かぐはし君を

      相ひ見つるかも

であるが、これは上京のための、事前作成歌であって、阿尾のロケーションとは関係がないから違う。今一つは、巻十七の天平一九(七四七)年四月二十六日に大伴家持が詠んだ賦を真似た長歌(三九九一番)、

   *

  布勢の水海(みづうみ)に遊覽せる賦一首

    この海は射水郡の舊江(ふるえ)に
    あり

物部(もののふ)の 八十伴(やそともの)の緖(を)の 思ふどち 心遣(や)らむと 馬並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 澁谿(しぶたに)の 崎(さき)徘徊(たもとほ)り 松田江の 長濱過ぎて 宇奈比川(うなひかは) 淸き瀨ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)の海に 舟浮(う)け据ゑて 沖邊(おきへ)漕ぎ 邊(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群騷(むらさは)き 島𢌞(しまま)には 木末(こぬれ)花咲き 許多(ここばく)も 見の淸(さや)けきか 玉匣(たまくしげ) 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通ひ いや每年(としのは)に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

の「延ふ蔦の」である。ここは一日、原十二町潟に遊んだ折りの詠であるから、阿尾には近い。但し、「延ふ蔦の」は比喩であって実景ではない(「二上山にいやさかに這い伸びて決して切れぬ蔦葛(つたかづら)の如く、これから先もずっと別れることなく、かくもここに通い続けて、毎年、ここで遊ぼうではないか」)。しかも「蔦」であって「葛かづら」ではない。しかし、そもそもが「蔦」「葛」「蘰」は「かづら」と同訓するように総て「つるくさ」であって一緒である。私はこの長歌を指しているのではないかと思う。他に適切な一首があるとせば、是非、御教授あられたい。

「大崎」確認出来ない。なお、虻ガ島の近くの海岸に大境(おおざかい:グーグル・マップ・データ)がある。六つもの文化層を持つ縄文中期から中世にかけての複合遺跡である大境洞窟住居跡で知られる。ここも私のとても好きな場所である。

『「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語』信じ難い。「あおのわたり」が「おーさき」に音転訛するとは思えない。いや、こんなものは簡単に阿尾のある岬が有意に「大」きく三「崎」として突き出ているという形状からの異名としてよいではないか?

『今は「尾ヶ崎」といふ』確認出来ない。今も「阿尾」は「阿尾」である。私はこの地名が好きだ。

「唐島に行き渡る。其間一里許ならん」阿尾から直線で唐島は一・六キロメートルしかない。ということは、この起点は阿尾のもっと北の藪田か小杉ということになる。しかし、この場合は直線渡渉ではなく、海岸線を渡って行くのでなければ騎馬では実際には絶対に無理である。そこで旧海岸線(現在の氷見市街の北西部は埋め立てで有意に張り出している)を想定して浜辺を実測してみると、確かに阿尾の先端から唐島までは確かに一里ほどになるのである。

「海苔(のり)」狭義には、岩海苔(いわのり/いのり)とも呼ばれ、分類学上では紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属 Porphyra に属するグループに属する一群の総称。板海苔に加工されるものが殆んどである。但し、この言葉は古くは今少し広義の食用海藻類にも使われていた形跡もあるので、緑色植物門緑藻亜門アオサ藻綱アオサ目アオサ科のアオサ属 Ulva やアオノリ属 Enteromorpha、また、かつてアオサ目に分類され、アオサの別名とさえされていた「海苔の佃煮」の原料にするアオサ藻綱ヒビミドロ目ヒトエグサ Monostroma nitidum 等も含めて考えてよい。前者は冬から春に生育し、概ね食用となるが、中には処理を誤って生食すると有毒な種もあるので注意が必要である。詳しい博物誌は寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うみのも 海藻」の項及び私の注を参照されたい。有毒性のそれはその「おごのり 於期菜」の項で私が注してあるので、気になる方は、是非、読まれたい。既に死亡例があるのである。

「海雲」褐藻綱ナガマツモ目 Chordariales のモズク科 Spermatochnaceae やナガマツモ科Chordariaceae に属する海藻類の総称であるが、本邦で食用として流通している「モズク」はナガマツモ科に属するオキナワモズク Cladosiphon okamuranus とイシモズク Sphaerotrichia divaricata が九割以上を占めている。しかし、私にとっては一九八〇年代までは正しくモズク科の標準和名モズク Nemacystus decipiens が「モズク」であったように思われ、当時、今はなき大船の沖縄料理店「むんじゅる」でオキナワモズクを初めて食した際には、私は『このモズクでないモズクに少し似た太い別種の海藻を、食品名としてこのように命名したのか』と、長く思い込んでいたものである。また、これほどオキナワモズクが「モズク」として席捲するとも思っていなかった(私は沖縄を愛すること、人後に落ちないつもりである。が、モズクに関して言えば、あのオキナワモズクを「モズク」と呼称することについては、私の味覚や食感記憶が今でも強い違和感を覚えさせるのである)。イシモズクもいやに黒々して歯応えも硬過ぎる気がして、やはり「モズク」と呼称したくないのが、正直な気持ちである。但し、現在、沖縄に於いて、全国への流通量が少なくなっていた真正のモズク Nemacystus decipiens(奇異なことに「オキナワムズク」を「モズク」と呼称するようになってしまい、本来の真正モズクであるこちらはイトモズクとかキヌモズクとか呼ばれるようになってしまったのは著しく不当である!)の養殖が行われており、商品として沖縄産でありながら『おや? これはオキナワモズクではないぞ? 「モズク」だぞ!』と感じさせるものが出回るようになったのは嬉しい限りである(それがまた沖縄産であることも快哉を叫びたい)。一般にはモズク Nemacystus decipiens 等が同じ褐藻綱のホンダワラ(ヒバマタ目ホンダワラ Sargassum fulvellum)等に付着することから「藻に付く」となって語源となったされるが、実は我々の知る上記のオキナワモズク・イシモズクは他の藻に絡みつかず、岩石に着生する。なお、他にモズク科フトモズク Tinocladia crassa やニセモズク科ニセモズク Acrothrix pacifica 等が類似種としてある。なお、モズク Nemacystus decipiens の学名の属名は、ギリシャ語の「Nema」(「糸」の意)と「cystus」(「嚢」)の合成で、種小名「decipiens」は「虚偽の・欺瞞の」という意味である。言い得て妙ではある。但し、麦水がモズクをちゃんと種として認識していたかどうかは怪しい。広義の潮下帯以下に植生する海藻の異名としてこの「海雲」を使用した可能性の方が高いと考える。

「千仭」単位としての一仭は八尺或いは七尺から、二千百二十メートルから二千四百二十四メートルとなるが、ここは無論、非常に深い意である。因みに、通常の大陸棚は海岸から水深が約二百メートルのところを指すが、富山湾ではこの大陸棚の幅が狭く、少し沖合に出ただけで急激に深くなる。沖合二~三キロメートルで既に水深が八百メートルほどになり、最深部では千二百メートルにも達する。但し、海図を調べたところ、阿尾の半島周辺部分は深くても二十メートルから五十メートル前後である。

「二丈」六メートル六センチ。

「海松」現行はこれや「水松」は、緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile を指すが、無論、これは小さなミル(それでも成体個体は四十センチメートルにはなる)ではあり得ず、既に想像されている通り、これは所謂、広義の「珊瑚」類のことを指している。恐らくは

通称総称でウミマツ(海松)と現在も呼ばれるところの刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間

ではないかと考えられる。当初は樹木状で有意に長いという点から、

ツノサンゴ目ウミカラマツ科ムチカラマツ Cirripathes anguina

を同定候補としようと思ったが、いっかな、「二丈」で「根莖十かゝへ」は、これ、大き過ぎて話にならない。まあ、孰れも今までもありがちだった誇張表現として許せば、ムチカラマツの群れが生えている場合は、その仮根の塊り部分は相応に大きくはなる。しかし、沢山、枝状になっているという記載がない以上、そう解釈するのにはやや無理があるようにも読める。それでもこれが最有力候補としてよいし、後に出る麦水の実見した「石劔」はまさにこれであると私は思っている。

他に

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科 Ostreoidea に属するカキの仲間

には、驚くほど管状に生育して直立する個体があることは知っているが、こんなに大きなものはいない。

次に、海中に形成された牡蠣群の死骸の殻で出来た驚くべき大きさ(数十メートルでもあり得る)の山を「蠔山」(ごうざん:蠔は牡蠣(カキ)に同じい)と呼ぶが、こんな高木状には、まず、ならない。但し、その蠔山の一部が損壊してそのような感じで崩れたとなれば、こうなるかも知れぬ。が、しかし、蠔山は想像を絶するほどに非常に堅固なもので、そんなに簡単に都合よい形に外れたりは、恐らく、しない。

或いは大型のクジラやサメ類或いはイルカ類の死骸のその脊椎骨

などをも考えたが、それらの場合、海中に一度落ちて、何らかの生物が表面に繁殖でもしない限り、それらはバラバラになってしまって、樹木状にはならない。

翻って、或いは

それらの肋骨や顎骨ならあり得るかも知れぬ

が、しかし、老練の漁師ならばそれと必ず見抜けるはずであるから不審である。

まず以ってこの奇体な「千年木」に対する私の推理はここまでである。もっと相応しい比定物があるとせば、是非、御教授戴きたい。

「姿(すがた)といふ村」富山県氷見市姿(グーグル・マップ・データ)。虻ガ島が沖に位置する。

「菊池の古城」阿尾城のこと。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、「海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し」というのが、腑に落ちる。

「十六丈餘」約四十八メートル半。阿尾城跡の現在の最高標高は四十メートルほどである。]

 

 安永八の今年、此所に網して石劍を得たり。漁人役所に訟(うつた)ふることを憚りて、他の海へ投捨(なげす)つるに、又かゝり來(きた)ること三度なり。因(ちな)みありて菊池の古城を慕ふに似たり。依りて終(つひ)に鄕首(がうしゆ)加納(かなう)某へ持來(もちきた)る。則ち此主(このあるじ)予に示さる。是を見るに長さ一尺ばかり、鍔(つば)・鞘(さや)石間(いしのあひだ)に顯はれたり。石・貝色々に廻(めぐ)り、刀を包みて又一箇の劍(つるぎ)の如く、又亂木(らんぼく)にも類(るゐ)せり。かたヘの人いふ。

「此刀眞(まこと)に鬼を追ふに宜(よろ)しきなるべし」

と。實(げ)にも左(さ)に覺ゆる。いかなる時にか海中に入りけん。

「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」

といふ人もあり。何の緣にか今歸り來(きた)るや。元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐるに事よく似て、人の用ひざるも又(また)時(とき)なり。今(いま)靜平上(せいへいじやう)に一箇の紛失物なし。何れへ向ひ誰を皷動(こどう)して奇特(きどく)を求むべき道なく、慾僧邪士(よくそうじやし)も思ひを止(や)めて、石は石となりて無用の寳(たから)を尊(たつと)むことなし。我れ爰に於て濱邊を見んと過ぐるに、灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり。是は別卷に記す。時を思うて止まず。無用の石劔何ぞそれ來るや何ぞそれ來るや。

[やぶちゃん注:最後の部分は底本では「無用の石劔何ぞそれ來るや」に踊り字「〱」で、セオリー通りならば、動詞のみを繰り返して、「無用の石劔何ぞそれ來るや來るや」となるのだが、どうもパンチがない。敢えてかくした。

「安永八の今年」一七八〇年。これはすこぶる興味深い叙述である。堀麦水は享保三(一七一八)年金沢生まれで、天明三(一七八三)年没であることが判っている。正編のみを載せる所持する堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(「江戸怪異綺想文芸大系」高田衛監修・第五巻)には「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるとするが、これは正編のそれであろう。即ち、麦水は「三州奇談」正編完成後、実に八年以上をかけて、本続編を書き継いできたことが判る。他にも実録物をガンガン書いているのだから、相当なパワーである。まあ、この年で二十九だから、やる気満々だったわけだな。でも三年後には亡くなっているのだな。老少不定。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛……

「石劍を得たり。漁人役所に訟ふることを憚りて、他の海へ投捨つ」実際の刀剣類であるなら、実際には使用不能であったとしても、武家のものである可能性があるわけで、これは当然、漁師が持っていてはいけないし、藩に届けなくてはならない。そうすれば、大変な手間(保護保存)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。

「鄕首」恐らくは複数の村を束ねる郷(ごう)の代表者のことであろう。

「加納某」これは無論、人の姓であるが、例えば、阿尾から南に接する間島の内陸に接して、現在、富山県氷見市加納(グーグル・マップ・データ)がある。

「鬼」「き」と読んでおきたい。邪鬼。

『「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」といふ人もあり』とわざわざ記しているのは、麦水にはとてもそんな風には見えなかったという示唆である。

「元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐる」三種の神器(他に「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」)の一つで天皇の持つ武力の象徴とされる、素戔嗚が八岐大蛇を退治した際に大蛇の尾から見出だした天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:別名倭武尊の東征での窮地を救ったエピソードから「草薙剣」とも呼ぶ)は、素戔嗚によって高天原の天照大神に献上された後、天孫降臨に際して他の神器とともに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に託され、地上に降った。崇神天皇の御代に、草薙剣の形代(かたしろ:レプリカ)が造られ、形代は宮中に残され、本来の神剣は笠縫宮を経由して伊勢神宮に移されたとされる。景行天皇の御代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は東征する倭武尊にこの神剣を託すが、彼の死後、本剣は神宮に戻ることなく、宮簀媛(みやずひめ:倭武尊の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたとされ、これが熱田神宮の起源となり、現在も同宮の御神体として秘物として祀られている。一方、形代の方の剣は「壇ノ浦の戦い」における安徳天皇入水により関門海峡に沈み、失われてしまう。結局、後鳥羽天皇は三種の神器がないままに即位している。平氏滅亡によって神鏡と勾玉は確保されたが、神剣は欠損したままとなったのである。その後、朝廷は伊勢神宮から朝廷に献上された剣を「草薙剣」と措定し、南北朝時代には北朝陣営・南朝陣営ともに神剣を含む三種の神器の所持を主張して正統性を争うこととなり、この混乱は後小松天皇に於ける「南北朝合一」(「明徳の和約」)まで続いた。なお現在、形代として措定された神剣は宮中に祭られている(以上はウィキの「天叢雲剣」他に拠った)。この最後の部分を言っているのであろう。

「又時なり」時間と人とその対象物との不可知の関係性からの巡り合わせである。

「靜平上」太平であるこの地上。

「一箇の紛失物なし」ただの一つも必要であるべき一箇のこの剣に相当する対象物が紛失しているという事実はどこにもない。

「何れへ向ひ誰を皷動して奇特を求むべき道なく」何処の誰と言って突き動かして音を立て有難い恵みをこの剣に求めるという正道を述べる教えや遺言(いげん)もなく。

「慾僧邪士も思ひを止めて」法を外れた売僧(まいす)や邪悪な道術を使う輩も誰(た)れ一人としてそれを求めんとする希求(けぐ)をやめてしまっており。

「灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり」ここ、全く意味が判らない。識者の御教授を乞う。「灰俵」は灰を詰め込んだ俵で、見掛け倒しの中身のない、或いは、価値のないものの謂いか? 「黑魚」はメジナ(棘鰭上目スズキ目スズキ亜目メジナ科メジナ属メジナ Girella punctata)か。その大きなメジナ(成魚では四十センチメートルを超える)の腹を裂いて、その胃の中にある四匹の「子魚」が出てくることか。しかし、メジナは魚食性ではないから違う。「クロウオ」の異名を現在持つものに、超巨大(最大二メートル)になる深海魚の棘鰭上目カサゴ目ギンダラ亜目ギンダラ科アブラボウズ属アブラボウズ Erilepis zonifer がおり、彼は肉食性で小魚を捕食するのでぴったりだが、残念なことに日本海側には棲息しないようだ。とすれば、悪食で知られ小魚も食い、老成すると、巨大(最大七十センチメートル)になるだけでなく、横縞がぼけて全体に黒ずんで見えるところのスズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii ととってよかろう。

「是は別卷に記す」「三州奇談續編」は本巻を以って終わっている。麦水の「三州奇談續編」は未完成で終わったものか。没年とさっきの「安永八の今年」が逆に不吉に作用してしまった。]

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