梅崎春生 砂時計 8
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夕陽養老院の建物は、二階建てでコの字の形をしていた。前身の病院時代には、ペンキも年に一回ぐらいは塗りかえられ、庭には芝生や花壇があり、鶏がそこらを歩いたりして、いかにも高級病舎らしい整頓ぶりを見せていたが、現在では鶏のかわりに豚が飼われ、芝生はすっかり畠となり、建物のペンキもぼろぼろに剝げ落ちて、折柄の雨にしっとりと錆色(さびいろ)に濡れている。バルコニーや院長室のある正面は、南向きでその幅もせまい。そこから後方に伸びる二棟の建物は、それぞれの位置によって、東寮、西寮と呼ばれている。韮山爺さんの居室は、その東寮の階下の一番どんづまりの位置にあった。つまりここを通り越すと、もうあとは便所と浴室しかないわけだ。あまり良い部屋ではなかったが、年に一回くじ引きで決めるのだから、文句は言えないのである。しかし、その年一回のくじ引きの期日を、もう一ヵ月も過ぎているのに、まだ院長側から何の音沙汰もないのだ。両三度かけあってみたのだが、近いうちにおこなう予定だという返事だけで、なにか黒須院長の態度はあいまいであった。
「そこがどうもおかしいと思うんだ」同室の松木爺さんが口をとがらせて、ぐるりと一座を見回した。うすぐらい六畳の部屋には、七八人の老人たちがそれぞれの姿勢で、壁に背中をへばりつかせて、車座をつくっていた。部屋の空気はこわばって、重苦しく緊張していた。
「去年までは毎年、チャンとした期日に、チャンと部屋替えのくじ引きがあったな。しかもそのくじは、俺たちの代表者がこしらえたんだから、不正も情実もなかった。つまり民主的に運営されていたわけだ。ところが今年はどうだ。あの海坊主(黒須院長はかげではこう呼ばれていた)は勝手に期日を引き延ばし、かけあってみてもごまかし口ばかりきく。きっとまた何かたくらんでやがると思うんだ」
「そうさな」長老の遊佐爺が白鬚を撫でながら発言した。「ひょっとするとくじ引きを廃止して、部屋割りの権限を自分の手に収めようとたくらんでるのかも知れんな。わしはそう見当をつけている。あいつがやりそうなことだ」
「そんなことになったら大変だ」小机を前にして臨時の書記役をつとめているどんぐり眼の滝川爺が、ペンの柄でこつんと机をたたいて、口を入れた。「そうすればあいつは部屋割りを、論功行賞風にやるに違いない。すると俺なんかは、平素からよく思われていないから、いつまでたってもどんづまりの部屋だぞ」
「俺も」
「俺もだ」
「わしも」
「わしもだ」
一座の老人たちは、いっせいに眉を吊り上げて、異口同音にそう唱和した。とかく口がうるさく行動的であるために、この老人たちは院長側にはよく思われていなかったのだ。唱和しなかったのは、韮山爺だけだ。韮山爺は部屋のすみの一番うすぐらい場所に、きちんと膝を折ってうなだれていた。なにかそれは祈っているような姿勢に見えた。
「よし」遊佐爺が重々しくうなずいた。「じゃあ、滝爺さん、それも抗議の一条に加えてくれ」
滝爺はペンを持ち直して、机上の紙に力をこめてガシガシと次のように書きつけた。
『部屋割りくじ引きを早速行うこと。くじは例年通
り在院者代表によって作製さるるものとす』
「それに拡張工事のことだな」遊佐[やぶちゃん注:ルビがない。通常は「ゆさ」「ゆざ」。前者で読む。]爺はぐるりと一座をにらみ回すようにした。遊佐爺は夕陽養老院きっての年長者で、満七十八歳になるが、まだ体力も頑丈だし、声音もはっきりとしている。せんだってまでは八十歳というのがいたが、浴室のタイルでつるりとすべり、後頭部を打って死んでしまった。そこで遊佐爺が長老格に昇進したわけだ。若い頃は船乗りだったということだから、潮風に身体をきたえ上げたのだろう。「居住区は一人三畳宛(あ)てという約束を無視し、ごまかしにごまかしを重ねて、海坊主はわしたちを二畳にまで追い込んだ。それはごまかされたわしたちもだらしがなかった。これ以上だらしがないと、だんだん二畳が一畳半、一畳半が一畳と、追いつめてくるに相違ないと、わしらはにらんでいる」
「その通りだ」
「と言って、元通りの三畳を確保するために、在院者の三分の一に出て行け、と言うことは出来ない。一度入院したものを放り出すことは絶対に出来ん!」そして遊佐爺は韮山爺の方をちらと見た。すこし声を張り上げたのは、韮山爺に元気をつけるためのゼスチュアだと知れた。
しかし韮山爺はさっきと同じ姿勢で、うなだれたまま黙って窓ガラスの方に横目をつかっていた。ガラスの上には、どこから忍び入ったのか、一匹の大きなナメクジが鈍色(にびいろ)[やぶちゃん注:濃い灰色。]の筋を引いて、ひっそりと這い回っている。韮山爺の眼は放心したようにそれを見ていた。さきほど玄関の告示を見た時の衝撃が、まだ韮山爺の胸に残っていて、何も考える力もなく、また一座の会話もほとんど耳に入らない風であった。韮山爺はナメクジの胴体が微妙に蠕動(ぜんどう)するのを眺めながら、お念仏のようにつぶやいた。「一万二千円。ああ、一万二千円」
「そうだ!」別の爺さんが勢(きお)い立った声を出した。「追い出すことはでけん。寮舎増築を要求せよ!」
「滝爺さん。それも書いてくれ」遊佐爺は目くばせをした。「それから食事の問題だ」
食事、という言葉を発音した時、一座の老人たちにかすかなどよめきが起った。院内生活において食事がどんなに重大な行事であるか、そのどよめきはそのことをハッキリ示していた。遊佐爺は効果を確かめるようにちょっと間を置いて、重々しく言葉をついだ。
「ひとことにして言えば、黒須院長が就任して以来、食事の質が低下したというわけではないが、たいへん不均衡になってきた傾向がある。それに以前とくらべて、鮮度も落ちてきたようだな。とにかくわしたちはカロリーさえ摂(と)ればいいのじゃない。老人には老人としての嗜好(しこう)があるんだ。朝には朝らしい食事、夕方には夕方らしい食事。わしらが欲しいのはそれだ。ところが海坊主は、わしらの嗜好を完全に無視しとる」
「そうだ。その通りだ」一座は異口同音に賛成した。「朝から刺身やテンプラを出すのはまあいいが、夕食に味噌汁一杯とタクアンだけとは、一体なにごとか」
「一昨日の朝のマグロ刺身は、たしかにあれは腐っていた」松木爺が口をとがらせた。「たしかにあいつは腐っておった。豚にやったら豚も食わなかったぞ」
「テンプラだって、身が半分千切れたようなのが出る」と別の声が言った。「第一これだけの大世帯に、栄養士が一人もいないなんて、違法じゃないか」
朝からテンプラが出たり、夕方にろくなおかずが出なかったり、そんな変則な状態になってきたのは、つい三ヵ月ほど前からのことだ。野菜は院内の畠のやつを使うから新鮮だけれども、動物性食品になるとどうも鮮度が怪しいのだ。どうしてそんなことになるのか、在院者は調理場に立入禁止ということになっているので、さっぱりその原因がつかめないのだが、毎日の間題であるだけに、不平はようやく在院者全体に瀰漫(びまん)[やぶちゃん注:一面に広がり満ちること。蔓延(はびこ)ること。]しつつあった。
「よろしい」遊佐爺は断を下した。「調理場の一般開放。これを要求の一つに加えよう」
「いや。それじゃ手ぬるい」松木爺が膝を乗り出した。
「開放だけじゃなく、材料仕入れや調理方法に、こちらの発言権を認めさせた方がいいぞ。なんなら料理係をクビにして、俺たちが輪番制でやってもいいくらいだ」
一座はがやがやとどよめいて、松木爺の発言に対する検討が始まった。雨は相変らずしとしとと窓ガラスを濡らし、室内の空気をしめっぽくさせていた。韮山爺はさっきと同じ姿勢で、やはり横目でナメクジをにらんでいた。ナメクジはぬめぬめした筋をガラスに残して、じりじりと上方に移動していた。(ああ。一万二千円)韮山爺は泣くような気持で思った。(向う一ヵ月に一万二千円をつくらねば、俺はここから追い出される。追い出されたら、もう行くところはない。行くところがなければ、死ぬほかはない。しかし俺が死んでも、誰も悲しんではくれないだろう。死んだら死骸は無縁仏として埋められるだろう。無縁仏のお墓は、たいていじめじめしたところにあるものだから、大きなナメクジなんかが沢山這っているに違いない)韮山爺はぶるっと大きく身ぶるいをして、ナメクジから眼を放した。一座の談義はやっとまとまったところらしく、滝川爺がふたたびペンを握って、机上の紙に何か書き込んでいた。その時廊下の方から、小走りに走る乱れた足音が聞えた。つづいて小さな叫び声も。――滝川爺はペンを置き、中腰になって廊下に面する窓をあけ、大声で怒鳴りつけた。
「重大な会議をやっているんだから、遊びごとはよそでやってくれ。いい歳をしてなんだ。うるさいぞ!」
足音はぱたりと鳴りをひそめ、そして脅(おび)えたようにぼとぼとと向うの方に遠ざかって行った。滝川爺は舌打ちをしながら、ぴしゃりと窓をしめた。
「ほんとにしようのない爺さんどもだ。暇さえあれば、鬼ごっこやかくれんぼばかりして、子供じゃあるまいし」
一座の爺さんたちは顔を見合わせ、うなずき合いながら賛意を示した。その時の彼等の表情には、総じて優越の色があふれているように見えた。少くとも鬼ごっこよりも会議の方が高級だと言わんばかりに。
夕陽養老院の在院者は、必ずしもこの一座の老人たちのように、口うるさいいっこく者ばかりではなかった。いろんな型の老人がいた。勝負ごとに凝(こ)って他のことには全然関心を示さない爺さんもいるし、新興宗教に帰依(きえ)しているのや、また食べることだけがたのしみというのもいた。またすっかり童心にかえって、子供のように無邪気に遊ぶ爺さんのグループもいた。その連中がさっきから廊下で鬼ごっこをやって、会議の邪魔をし、滝川爺さんのかんしゃく玉を破裂させたわけなのだ。
韮山爺はその滝川爺の顔をそっとぬすみ見ながら思った。(ああ、ほんとのことを言えば、俺もこんなとげとげした会議より、鬼ごっこに仲間入りしたいんだがなあ)
「海坊主が就任して以来――」その時柿本爺がぎくしゃくと坐り直して口を切った。この爺さんはわりに無口な方だが、いったん口を開けば相当なうるさ型であった。「その感化を受けて、事務員や料理係の木見婆[やぶちゃん注:「きみばば」。「きみ」が姓。]までがわしらに横柄になってきた。これも何とかして貰わんけりゃならん」
「そうだ。それは元兇の海坊主に反省を求める必要がある」
「実際あの海坊主は、バカでかい小道具にかこまれて、威張りくさってやがるなあ。院長室のあの硯箱のでかいこと。まるでオマルみたいじゃないか」
「そう言えば、わしがこの間神経痛で寝たとき、俵(たわら)に診察して貰ったが、あの医者の聴診器もふつうのより一回り大きかったぞ。あれも海坊主の影響かな?」
俵というのは、週に二回院外から通ってくる、小柄で中年の医者のことだ。診察もぞんざいだし、注射のしかたも下手だというわけで、ここではあまり評判がかんばしくなかった。
「うん。あの聴診器も全く大きい」と別の声が嘆息した。
「まるで牛か馬を聴診するみたいだなあ」
「もしかすると、あいつは人間の医者じゃなく、獣医じゃあるまいか」滝川爺が小机から上半身を乗り出し、たまりかねたように口を開いた。「この間おれが腹痛で寝た時、来診してきて、先ず最初に指でおれの鼻をさわったよ。このおれを、犬と間違えたんじゃないか。どうもそうらしいぞ」
ぎょっとしたような沈黙が来た。滝川爺のただならぬ発言が、各自の胸にぐんとこたえたのらしい。皆は姿勢を硬くし、なにか探るような眼付きで、お互いの顔をじろじろと眺め合った。韮山爺も同様に惨めになり、犬か猫なみに下落したような気分になって、無意識裡に左手を妙な形に曲げ、伸びた爪で窓ガラスをガリガリと引っ搔いた。
「猫みたいなことをするんじゃない!」滝川爺がそれを聞きとがめて叱りつけた。「ふん。万一あいつが獣医だとすれば、この俺たちは人間並みに取り扱われていないということになるな」
「そう言えばわしもあの医者から、咽喉(のど)をくすぐられたことがある」
「それは重大な間題だ」遊佐爺も落着かぬ風(ふう)に顎鬚(あごひげ)つまんで引っぱった。「それは至急に調査する必要がある。もし俵医師が獣医だったら、これはもう人権の間題だな」
「それも抗議に加えるかね?」と滝川爺はペンを持ち直した。
「いや。それは待ちなさい」遊佐爺は長老らしく静かにそれを手で制した。「事実をはっきり確かめてからにしよう。うっかりしてホンモノの医者だったら、逆手をとられてしまうからな。しかしこんなに皆で話し合うと、いろんなことがはっきりしてくる。たいへんいいことだ。初めての会合としては、まず成功の部類だな」
「院長とはいつ会見するんだね」
「さっき玄関のところで俺は海坊主と会った。そして会見を申し込んだのだ」滝川爺はペンを置き、どんぐり眼で一座を見回して、一語々々はっきりと発言した。「すると海坊主が言うには、昼間は事務でいそがしいから、今夜なら逢おうと言う。それも三十分だけだと言うのだ」
「それは横柄に出たもんだな」松木爺が言った。「なんであいつが忙しいものか。ま、しかし、夜なら夜でもよろしい。わしたちは論理を正しくし、ごまかされないようにして、今夜こそ海坊主の首ねっこをしかと押えてやる必要がある」
「そうカンタンに行くかねえ」ややひるんだ声がすみでした。「なにしろ相手は、鉄の如き信念を持ってるそうだぞ」
「大丈夫だ。大休大丈夫だと思う」遊佐爺がかわって自信あり気(げ)におっかぶせた。「わしの七十八年の経験によると、ああいう男は案外に弱いものだ。たとえばあいつの眼を見ると、まるで人を咎(とが)めだてするみたいな眼だ。心の中にひどい弱味を持っていればこそ、そんな眼付きをするのだ。弱味がなければ、もっと平静な眼色になる筈だな。それにあの巨大な灰皿やハンコ」遊佐爺は手でその形をなぞって見せた。「あれもごまかしのハッタリだ。あいつの気持か身体の中に、なにか小さな、倭小(わいしょう)なものがあるに違いない。だからこそバカでかいものを持ち出して、そこらをごまかしてしまおうとしているんだ。今まではあいつが攻勢に出ていたから、さしてボロを出さずに済んだが、今度こちらが攻撃側に立てば、きっとボロを出すに違いないのだ」
「それはちょっと楽天的に過ぎないか」柿本爺が唇を歪(ゆが)めて異議をとなえた。「相手は海坊主個人ではない。海坊主の背後に、またもろもろの大坊主が立っている」
「だからわしらは徐々にやるんだ」
「海坊主があんな挑戦的な告示を出したのは、相当な成算があるからだと俺は思う」柿本爺も負けていなかった。
「これは相当に綿密な作戦計画を立てないと、ひどい目にあう公算が大きいぞ」
「だからわしらは、徐々に、確実にやって行くんだ」遊佐爺もやや声を荒くした。「一歩々々やって行くんだ。そうだ。滝爺さん。昼間はいそがしいと、あいつは言ったんだな。先ず手始めに、それがホントかウソか、ひとつ隠密(おんみつ)を出してみようじゃないか」そして遊佐爺は眼を上げて、一座の一人々々の顔をおもむろに眺め、やがてその視線は韮山爺のところでぴたりと止った。遊佐爺は声をやわらげて呼びかけた。「ニラ爺さん。御苦労でもちょっと二階に行って、院長が何をしているか、そっと見て来てくれんか。相手に気付かれないように、そっとだよ。お前さんは身体が小さいし、足音もあまり立てないから、丁度よかろう」
「へ。わしが?」韮山爺はきょとんと顔を上げた。「わしが何をやるんで?」
「院長の様子を探ってくるんだよ」滝川爺がいらだたしげに口をそえた。「今なにをやっているか、そっと見てくるんだ。しっかりせえよ、ほんとに」
「ヘヘ」
韮山爺は困ったような笑い方をして、それでもしぶしぶと立ち上った。長い間の正座で足がしびれたらしく、ひょこひょことびっこを引いて扉口まで歩いた。皆の表情はヘんにつめたくなって、その動作を眺めている。扉のところで韮山爺はまた照れたような無意味な笑い方をした。
「へ、ヘヘ」
韮山爺の姿が扉のむこうに消え、そして足音が廊下を遠ざかった時、遊佐爺は大きく呼吸をして口をひらいた。緊張した長談義のため、一座の面(おもて)にはかくし切れぬ疲労の色がただよっている。
「当然のことだがこの会議は、今回のニラ爺事件が中心になるべき筈だ。ところが当のニラ爺は、今わざと席を外(はず)して貰ったが、態度がぐずぐずしていて、何を考えているのか一向にハッキリしない。わしらと一緒に立ち上って戦う気持があるのかないのか。一体わしらはこういうニラ爺をどう取り扱うべきや――」
「こんなに重大な、自分に深い関係がある会議中、ニラ爺は何をしていたか」柿本爺が痛憤にたえぬという顔付きで、窓ガラスを指さした。「おれたちの話は全然聞かず、あの窓ガラスのナメクジばかりを眺めていたぞ!」
みんなの視線のまっただなかで、ナメクジはのろのろとその針路を変えた。
韮山爺は廊下を曲った。曲り角に置かれた大きな屑籠のかげに、さっき滝川爺から怒鳴りつけられた甲斐爺が、こっそりしゃがんでいた。韮山爺はそれを見て立ち止った。
「一体何をしてんだね、そんなところで?」
「しーっ」甲斐爺は唇に指を立てて、小さな声で言った。
「かくれんぼだよ」
韮山爺は前後左右を見回して、自分も大急ぎで横っ飛びして甲斐爺のそばにしゃがみこんだ。そして同じく小さな声でささやきかけた。
「雨が降ると、外で遊べなくて、つまらないねえ」
「そうだねえ。天気の方がどれだけいいか判らないねえ」
「しんどい会議で、おれ、ほんとに、くさくさしたよ」
「皆集まって、一体何を話し合ってんだね」
「おれにもよく判らんけど、院長の悪口を皆して言ってたよ」
「そうかい。あっ、そうそう。あんた、この間のリヤカーのことで、何か大へんな掲示が出てんだってねえ」
「ああ。それでおれも弱ってるのや」韮山爺は泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにした。「こんどの院長はごついねえ。先の院長はとても良かったけどなあ」
「ほんとにそうだねえ。こんどの院長になって、芝生の遊び場所もなくなったしねえ。で、もう会議は終ったのかい。会議が終ったんなら、おれ、あそこの風呂場の風呂桶の中にかくれてやろうと思っているんだ」
「まだやってるよ。滝爺さんも遊佐爺さんも、目を吊り上げて議論してるよ」
「ああ、あの爺さんたち、こわいねえ」甲斐爺は溜息をついた。「なんであんなにトゲトゲしく生きてるのかねえ。どうせ遠からず死ぬんだから、たのしく遊べばいいのにさ」
「ほんとにねえ。怒ってばかりいると、心臓にも悪いよ」
「心臓だけじゃなく、胃腸にも悪いよ。あんまり怒ると、消化が悪くなるってさ」
「そうだろうねえ。怒ってると言えば、院長の海坊主だって――」
「しーっ」甲斐爺は唇に指をあてて、ぎゅっと身体を小さくした。韮山爺も手足を極度に寄せてちぢこまった。二階から階段をおりてくる足音が聞えたのだ。古ぼけた階段は足音と共にぎいぎいと鳴った。韮山爺は甲斐爺の耳元にささやいた。
「鬼かな?」
それは鬼ではなかった。階段を降り切って廊下に姿をぬっとあらわしたのは、詰襟姿の黒須院長であった。黒須院長は右手に洋傘をわしづかみにし、左手には一枚の頼信紙をヒラヒラさせながら、まっすぐにこちらに歩いてくる。その頼信紙には
『コンバンザイインシヤトカイケンス」キロクノヒ
ツヨウアリ」スグライシヨセヨ」クロスゲンイチ』
と院長の筆跡で記されていたが、もちろん屑籠のかげの二老人の眼にそれが見える筈がない。黒須院長はいつもより眼をたけだけしく光らせ、なにものかに突っかかるような姿勢で、どしどしと廊下を踏んでくる。二人の爺さんはすっかり脅え、双生の胎児のようによりそって手足をちぢめ、ふるえ上った。屑籠のかげの二老人の存在についに気付かず、黒須院長はその前を通り過ぎた。
(今夜の会見に、あいつらは何人ぐらいで押しかけてくるか?)黒須院長は奥歯をかみしめて思った。(どのみち交渉は今夜だけでは片づくまい。何日も何日もかかるだろう。交渉の経過を記録して置き、そして相手の失言をつかまえて、ぎゅうぎゅうの目に合わせてやるぞ)
手にした頼信紙は、近頃やとい入れた臨時の書記兼秘書の男にあてたものである。専任の秘書を持ちたいとは、院長年来の希望だったが、予算がどうしてもそれを許さず、やっと近頃中途はんぱな男を臨時にやとうとこまでこぎつけた。黒須院長の宿願はやっと半分達せられたわけだが、もちろん院長自身はそれに満足していなかった。黒須院長は玄関に立ちどまり、頼信紙を四角に折ってポケットに入れ、洋傘をおもむろにひらきながらつぶやいた。
「こんど退院制度を確立することが出来たら、専任秘書を一人要求することにしよう。秘書はやはり若い女がいいな。高峰秀子か島崎雪子みたいな美人を、どこからか探してくることにしよう」
院長室において美人秘書にかしずかれている自分の姿を、黒須院長はうっとりと空想し、険悪な表情を大幅に和ませた。黒須院長は映画はほとんど見ない。しかし映画館前のスチールや街のポスターなどで、それらの女優の名や顔を覚え込んでいたのだ。玄関を踏み出した黒須院長の傘に、雨がじとじととかぶさってきた。玉砂利(じゃり)をしいた道の両側の菜園の、胡瓜(きゅうり)やいんげんの葉も青々と濡れている。院長は傘を前方にやや傾けるようにして、門に向ってとっとっとあるいた。玉砂利が靴の下でじゃりじゃりと音を立てた。廊下の曲り角から顔を半分ずつ出して、二人の爺さんがその院長の後ろ姿を見送っている。
[やぶちゃん注:「島崎雪子」(昭和六(一九三一)年~平成二六(二〇一四)年)は日本の元女優でシャンソン歌手。本名は土屋とし子。東京都出身。大田原高等女学校(現在の栃木県立大田原女子高等学校)卒業。判り易い言い方をすると、かの名作黒澤明の「七人の侍」(昭和二九(一九五四)年・東宝)で土屋嘉男演ずる百姓利吉(りきち)の、人身御供にされた女房(役名なし)役で出ている。――野武士の山寨(さんさい)を菊千代らが襲うシークエンスで、彼らが火を放った際、火に気づいて叫ぼうとするが、急に唇を嚙むとまたそっと座って、妙に引き攣った凄味のある笑みを浮かべて幽鬼のようにふらりと出てくる。と、眼前に現れた夫利吉を見て驚き、焼け崩れる山寨の中に走り戻って姿を消すのが――彼女である。出番シーンは非常に少なく台詞もないが、オープニング・タイトル・ロールの出演者のクレジットでは「七人の侍」のヒロインとも言うべき志乃役の津島恵子とともに、三船敏郎・志村喬の次いで、二番目に二人併記で示されてある。グーグル画像検索「島崎雪子」をリンクさせておく。]
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