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2020/07/26

三州奇談續編卷之八 山王の愛兒

 

    山王の愛兒

 滑川西口瀨羽(せは)町と云ふに、山王の神社あり。祭禮には神輿出で、人崇め、神靈あること限りなし。目のあたり神靈種々を見る、算(かぞ)へ盡すべからず。

[やぶちゃん注:「滑川西口瀨羽町」現在の滑川市瀬羽町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は、宿場や物資の集産地としての宿方と、漁業や物資の船積みの浦方に分かれており、北陸街道沿いに西から東へとメイン・ストリートが形成されて非常に栄えていたという。

「山王の神社」滑川市加島町にある加積雪嶋神社(かずみゆきしまじんじゃ)の江戸時代の呼称。創建は不詳。古くは社域も広大で社家・社僧が奉祀した大社であったとされる。先に出た同じ滑川の櫟原(いちはら)神社(ここ。滑川市神明町)を「東の宮」と呼称するのに対して、当社を「西の宮」と通称する。国司として越中に赴任した大友家持も度々当社に参詣し、源義経が奥州へ下る際には武運を祈願して拝殿に沓を残したという。江戸時代も山王社と称して前田家の崇敬も篤く、幣帛・諸器物などの寄進を受けている。]

 

 然るに明和七年六月廿九日と七月朔日の兩夜、不思議の神燈ありき。此社は拜殿の奧に障子あり。此外は石階にして、六尺許去りて本殿の階ヘ上る。然るに夜五時頃に至り、朗(ほがら)かなる灯火ありて、障子の内にかくる立合せの二間(にけん)前なる所に、三角に照り輝く。拜殿中の備へ物。高麗狗(こまいぬ)甚だ明かに見え、繪馬も見分くベき程なり。夜九つ頃に灯沈みて見えず。如斯(かくのごとき)の事兩夜なり。

[やぶちゃん注:「明和七年六月廿九日と七月朔日」この記載は或いは麦水の記載ミスかも知れない。何故なら、この年は六月が閏月で閏六月があるからで、普通は閏を外しては表現しないからである。但し、閏が落ちただけだとすると、怪異出来が連続した二日に亙って発生したことになって話としては腑への落ち具合がすっきりする。明和七年閏六月は小の月で二十九日で終わり、翌日が七月一日だからである。明和七年閏六月二十九日はグレゴリオ暦一七七〇年八月二十日で、同七月一日は八月二十一日に相当する。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「夜九つ」午前零時。]

 

 諸人怪しみ、

「此火は何なるぞ」

と打擧(うちこぞ)り見る。役人某なる人來り窺ひ、若しくは

「隣家の灯火の漏れ來(きた)るにや」

と、近隣を制し火を消さしむるに、灯明(とうみやう)變ること更になし。

 火は西の方より來りかゝり、暫くして下へ引入り消ゆ。初めは竹の子の如く四五寸許なり。暫くして二三寸許となり、一時許にして一寸許となり、將棊(しやうぎ)の駒の如くになれば、下ヘ落ちてなし。又暫くして西の方よりかゝり來ること前の如し。

 此役人なる人怪みて後ろへ廻(まは)り窺ふに、闇(くら)うして火光(くわくわう)なし。前に廻れば又本(もと)の如く、障子に移りて明らかにかゝれり。

 二夜にして近隣神靈を恐れ、又火災を恐れて、櫟原(いちはら)の神主吉尾(よしを)氏を招じて、幣(ぬさ)を捧げて神樂(かぐら)を奏す。爰に納受ありけん、火消えて再び出でず。

 神主も役人も予が親友なれば、悉く聞けり。此靈火何と云ふ事を知らず。尤も此通は鬼火多し。眼目山立川寺(がんもくざんりゆうせんじ)へは龍女が献ずる灯、必ず七月の間に、此邊(このあたり)加茂川を上る。

[やぶちゃん注:プラズマや雷球ではこのようにはなるまい。しかも二日続けてである。されば、この怪火現象は私には説明がつかない。

「吉尾氏」不詳。

「眼目山立川寺」富山県中新川郡上市町眼目にある曹洞宗の名刹

「加茂川」富山県魚津市を流れる鴨川(地図中央を西に流れる川。別名「神明川」、古くは河口付近では「鬼江川(おんねがわ)」とも呼ばれていた)があるが、立川寺と位置が全く合わない。同寺直近を下るのは上市川であるから、その誤りではなろうか?]

 

 又近き頃蓬澤(よもぎざは)と云ふ所に、山缺(か)けたりしに、缺口(かけぐち)に夜々火光あり。光り二三十步を照すべし。每夜の事なれば、見に集(あつま)る人多し。奉行所へ聞えなぱ里の費(つひ)へならんと、里民談じて夜中火光の所へ印しに竹をさし置き、翌日に至りて掘出(ほりいだ)し見るに、三尺計なる丸き石なり。靑紫にして斑紋あり。火光の出づべき樣(やう)なし。打破りて捨て、後再ぴ火光なしと聞えし。

[やぶちゃん注:「蓬澤」中新川郡上市町蓬沢であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「奉行所へ聞えなぱ里の費へならん」このような山間部の不審火は大きな山火事となる可能性が頗る高いから、当然、早急に藩に届け出なくてはならない。しかし、そうすれば、以前に述べた通り、大変な手間(常時監視と現場保全)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。なお、この怪光(石)現象は私は原因を想起出来ない。所謂、地殻内の圧力によるプラズマ発生ともされる地震光かとも考えたが、ここでは実際にその光が二、三十歩を照らすほどの明るさであるというのはそれと附合しないと思う。識者の御教授を乞う。]

 

 されば

「此等の内にや」

と、色々宮殿の火をためすに、中々さにも非ず。火の色は黃にして常の灯なり。靑き妖火の類(たぐひ)とは見えず。只神靈の然らしむることゝ覺ゆ。此神の靈は度々(たびたび)にして常の如し。堂再建の時も、近所の老人の枕上に立ちて、再興を乞ひ給ふこと幾人もありし。夢裡(ゆめうち)の裝束(さうぞく)かたり合ひて見るに、皆同じ事なり。再興終りて拜殿の屋根をこけらに葺(ふ)く。然るに誤ちて屋根より落つる大工ありし。然るに恙なし。屋根より落ちなば、本殿の石の階(きざはし)に打たれて甚だ痛むべきなるに、此大工落ちたる時、下に赤衣(しやくえ)の袴着て烏帽子(えぼし)召したる人出で、抱きて社殿の内に入れらるゝと覺ゆ。故に痛まず。何ぞ屋根より落つるとて、四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]も違ふ拜殿の中へ臥するの理(ことわり)あらん。眞に冥慮とぞ見えし。【大工には非ず、手傳(てつだひ)の息子なり。越前屋惣五郞と云ふ者の子なり。】故に大工の親一跡(いつせき)を賣りて、御戶帳(みとちやう)を拵へ、其日に寄進すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:この割注は注目すべきところで、父の手伝いにきたうら若い青年或いはちょっと年嵩の少年(父の正式な弟子になっていないから若いと考えるべき)なのである。本話の以下の神霊の愛童の性質の本筋と繋がるのである。

「越前屋惣五郞」不詳。

「一跡」後継ぎに譲るべき全財産。身代。まあ、ここは、その時に実際に持っていた金を総て、といった謂いであろう。

「御戶帳」「御斗帳」とも書く。仏像などを安置する厨子などの上に懸ける覆い。金襴・錦など美しい高級な布で作られる物が多い。斗(ます)を伏せたような形をしていることからかく呼ぶ。]

 

 又其後漁人の夢に告げて、

「鮹(たこ)の頭を備ヘよ」

となり。其頃鮹來(きた)ることなし。然れども告げに任せ、鰯網(いはしあみ)をかへて鮹網を入るゝに、大(おほい)に鮹を得たり。

 早速此頭(あたま)に米を添へて献供(けんぐ)すと聞ゆ。

 安永の頃も、神輿又一つ新しく出來(しゆつたい)せしに、此人足(にんそく)の内に親(おや)死して十日許なる者交(まぢは)り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大(おほい)に疵(きず)付きしことあり。靈罰も又いちじるし。

 小兒を愛し給ふこと、諸社にすぐれて甚し。不思議にも小兒集り、此拜殿を荒し遊ぶこと、いかなる雨風(あめかぜ)の日といへども絕えず。雪二三丈に及ぶ日も、小兒二三人は必ず來り遊ぶなり。然して戶の鍵をはづし、神供をあらす。然れども是を叱れば、叱る人に祟りて、小兒には咎めなし。故に役人なる人は格別、下僕などは小兒を追ふことならず。只大いに一威を恐る。一年(ひととせ)小兒御神躰を盜み出(いだ)し、大皷(たいこ)をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る。近隣の人大いに恐れ、小兒を叱り御神躰を本(もと)の所へ納む。其夜の夢に、

「汝等いかなれば構ふこと斯(かく)の如きぞや。神慮終日小兒と遊びて樂(たのし)むに、汝が爲に興(きよう)盡きたり。然れども是本(も)と神忠に出づ、故に祟りをなさず。重ねて如斯(かくのごとき)の事あらぱ大(おほい)に罰せん」

とありし。小兒へは一向咎(とがめ)なし。御本躰の失ひたるも多し。小兒の業(わざ)なる時は咎めなし。御本躰は一尺許の木像なり。【一說に、弘法大師作正觀音(しやうくわんのん)共(とも)云ふ。然れ共衣冠正しく見ゆ。神躰實(じつ)なり。】初めは二十一躰ありしよし。今は八躰ならではなし。然れども賞罰同じ事なり。

 此(この)靈威にして此和柔(なごやか)なるの理(ことわり)計り難し。實(げ)に小兒を好き給ふと見ゆ。布袋和尙は川渡りにもあたまをいたゞき、地藏菩薩は賽(さい)の河原に石積みて鬼に詑び給ふも、慈悲計りにはあらじ。元來天性(てんせい)小兒好きより事發(おこ)ると覺ゆ。

 菅相丞(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末(すゑ)通らば人程有難きものはあらじ」

と宣ひ、貞德法師はふり袖着て交り、長頭丸(ちやうづまる)の童(わら)べ好(ず)き聞えし。

 然るに儒者先生殿のみ小兒の遊びを叱り廻(まは)し、作り馴れたる澁面(じふめん)にかたいぢなるを仕似(しに)せとす。是れ此門の「店(たな)の出しそこなひ」にて、不はやり思ひ知らるゝなり。只々此神の和光、人近き咄(はな)しを聞くに付けて、尊(たつと)さ優(まさ)りし心地して、予が唐好(からずき)の癖も、少しは薄らぎ覺えしも又神思(しんし)にや。

[やぶちゃん注:「備へよ」はママ。「供へよ」。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「親死して十日許なる者交り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大に疵付きしことあり。靈罰も又いちじるし」ここは単に死穢を嫌ったもの。

「一年小兒御神躰を盜み出し、大皷をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る」底本は「大皷をたゝきつれ、」であるが、どうもおかしいのでかく読点を特異的に挿入した。「つれ」はその悪童の「連れ」の意で採ったのである。一貫して小児は複数形ではないが、複数でやったほが賑やかでよいではないか。太鼓を担うのも杖で二人の方が叩き易かろう。

「神躰實(じつ)なり」二行割注のため、よく見えない。「寳」のように見える。但し、「近世奇談全集」は『實』であり、神体が宝なのは当たり前だから、ここは御神体が鏡などのシンボルではなく、実際の像であることを言っていると採った。

「布袋和尚は川渡りにもあたまをいたゞき」よく意味が判らぬ。子どもらを面白がらせるために蛸坊主のようにしてという意味か。伝説の仏僧布袋和尚(唐末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされ、本邦では専ら七福神の一人として知られる)は、沢山の子ども(十八人とも)を引き連れていたと言われており、小難しい説法をせず、笑顔で子どもたちと遊んだとも伝えるので、ここに例として出すのは腑には落ちはする。

「菅相丞」菅原道真。(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末通らば人程有難きものはあらじ」出典未詳。

「貞德法師」江戸前期の俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳。彼は別号にここに出る「長頭丸(ちょうずまる)」や保童坊があり、子供好きであったとされる。

「仕似(しに)せとす」必ずそれをトレード・マークとする。

「此門」儒家。

「店の出しそこなひ」当然あるべき態度としては誤った行為であること。

「不はやり」「不流行(ふばや)り」か。「評判が悪い悪しき姿勢」であることを言うのであろう。只々

「和光」「和光同塵」の略。元は「老子」の第四章にある「和其光、同其塵」からで、「光をやわらげて塵(ちり)に交わる」の意にして、「自分の学徳・才能を包み隠して俗世間と普通に交わること」を言う。仏語に転じて、仏・菩薩 が本来の威光を和らげ、塵に穢(けが)れた現世に仮の身を現わし、衆生を救うことをも指す。

「人近き」民に親しむ。

「予が唐好(からずき)の癖」麦水は和学より漢文学がお好き。

「神思」本邦の神の御心を無意識のうちに受けた精神の在り様(よう)。 ]

 

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