東西(とざい)東西(とーざい)――このところご覧に入れまするは「心 東富坂下の段」――東西(とーざい)東(とー)…………
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。
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私はしばらく其處に坐つたまゝ書見をしました。宅の中がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身體に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇(あが)つたやうですが、空はまだ冷たい鉛のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に擔いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配(こうはい)が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐるのと、放水(みづはき)がよくないのとで、往來はどろどろでした。ことに細い石橋を渡つて柳町(やなぎちやう)の通りへ出る間が非道(ひど)かつたのです。足駄(あした)でも長靴でも無暗に步く譯には行きません。誰でも路の眞中に自然と細長く泥が搔き分けられた所を、後生大事に辿つて行かなければなりません。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸其處迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました。
私は柳町の通りへ出ました。然し何處へ行つて好(い)いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がしました。私は飛泥(はね)の上がるのも構はずに、糠(ぬか)る海(み)の中を自暴(やけ)にどし/\步きました。それから直ぐ宅へ歸つて來ました。
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回より。太字は私が附した)
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私はリンク先で施した地理学的注のオリジナル性には今も強い自信を持っている。未読の方は、是非読まれたい。