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2020/07/12

梅崎春生 砂時計 9

 

     9

 

 熊井照子は窓枠(わく)にあやうく小鏡をもたせかけ、それをのぞき込みながら、いらいらした手つきで化粧の乱れをととのえていた。窓ガラスはこまかい雨滴をたくさんとどめて曇っている。栗山佐介は赤い卓上ピアノを包装紙でくるみ、それに紐(ひも)をかけようとしていた。鍵盤は紐でおされるたびに、グルルン、グルルンと不機嫌な音を立てた。熊井照子は指で眼の下をおさえ、いらだたしくつぶやいた。

「いやんなっちゃうわ。ここんとこに隈(くま)が出来てる」

 そして熊井は顔を半分ずらして、鏡面のなかの佐介の背中に話しかけた。

「ねえ。ビールでも飲みに行かない。頭がくさくさして、やり切れないのよ」

「主任にあんなことを言われたからか」佐介は紐にかけた手を休め、鳩時計をあおぎ見た。時計は三時十六分のところで、長針と短針がピタリと重なっていた。「さてね、実は四時に人と逢う約束があるんだ」

「逢う相手は牛島さんでしょ」熊井は小鏡をつかみ、それを乱暴に自分の机の引出しにしまい込んだ。「牛島さんなんか、すっぽかせばいいのよ」

 佐介はふり返って、かすれた声を出した。

「よく判るもんだね」

「そりゃ判るわよ。デパートで別れる時、打ち合わせたんでしょ。動作ですぐに判るわよ」

 佐介は紐を結び終え、レインコートの袖に手を通した。鞄と卓上ピアノを重ねて横抱きにした。そしてなにかためしてみるように軽く足踏みをした。

「すこし僕も疲れた」佐介は足踏みを中止して、今度は右足だけを屈伸した。「雨が降ると、右足がとても具合悪くなるんだ。そのせいで身休も疲れるし――」

「お爺さんみたいな口をきくのね。神経痛?」

「いや」佐介はものうげに壁に背をもたせ、熊井の帰り仕度をぼんやりと眺めていた。「高いところから、落っこちたんだ。それ以来、空気がしめってくると、右の膝がしくしくしてくる」

「軍隊で?」

「そんな昔のことじゃない。ずっと近くだ」

 そして佐介は首をうしろに曲げて、音のない欠伸(あくび)をした。その色艶のない口腔と舌の色を、熊井はすばやい視線で見た。熊井はレインコートのフードを頭に乗せながら、そこから視線をそむけた。

「そう言えばほんとにあなたは疲れているようね。見れば判るわ。顔かたちがすっかり変るんだもの」

「どう変る?」

「眼がだいいち変よ」

「どんなに変だ?」佐介は光のない眼で熊井を見据えるようにした。

「眼玉がかさかさに乾いてるわ。まるで干葡萄(ほしぶどう)みたい。あたし、あなたのそんな眼、嫌いよ」

 熊井はつけつけと口をきいた。彼女も同じく疲れていた。それにこの一室に、第三者がいず、熊井と佐介の二人だけのことは、今までに一度もなかったことだ。そのことが熊井から気がねを取り除き、慣れ慣れしい気持にさせたのだろう。そして熊井は指をまっすぐに立てて、佐介の顔を見た。「その表情よ。何かむごたらしいことでもやりそうな顔!」

「ずいぶんハッキリ言うもんだね」佐介は気がなさそうにまた小さな欠伸をした。「昨夜はサクラ碁会所で碁を打ち、それから近所のある会合に出席して、床に入ったのが午前二時。そして今朝、菅医師を訪間するために、五時に起きた。三時間しか眠っていないのだ」

「睡眠時間のことを言ってるんじゃありませんよ。あんたの顔のことよ」

「うん。だからさ、くたびれて来ると無理が利(き)かなくなるんだ。無理が利かないと、地(じ)の顔が出てくる。もっともムリをしているのは僕だけじゃなく、みんながムリをしている」

「どんなムり[やぶちゃん注:ママ。底本の誤植かも知れぬ。]よ?」

「そら、人と逢ったり、しゃべったりさ、人を眺めたり、眺められたりさ、そんなのがみんなムリなのさ。顔だってムリに笑ったりしかめたり、つまりお互いにつながって生きていることを懸命に証拠立てようとしている。ところが本当はつながってやしないんだな。皆なにか、かんちがいしているんだ。パズル絵みたいに組み合わさっているだけなんだ。ひっくり返せば、皆ばらばらになってしまう。そうなりゃ眼玉だってみんな干葡萄だね」

「へんなこと考えてんのね」熊井は眉をひそめて窓の方に眼をやった。雨はまだ止みそうな気配はなかった。「それじゃあ、あんただってムリをしてるわけじゃないの」

「そうだよ。ムリをしている。困ったものだよ。だからもうムリは止しにして、一番確実なところから、もう一度やり直そうかと思っているんだ」

「あたしは?」

「ハムさんも相当ムリをしているね」佐介はしごく投げやりな口のきき方をした。「人を尾行して喜んだりしてさ。自分の意志で、自分の力で、そして尾行に成功したと喜んでいるんだろう。はかないことだね」

「ふん」熊井は鼻でせせらわらった。「尾行されたから怒ってんのね」

「怒ってなんかいないよ」

 佐介は突然眼をやや大きく見開いて、熊井の全身をしげしげと眺めた。今までハムか何か、そんな物体に見えていた熊井の存在が、急に人間の女らしい感じをたたえてくるように見えたからだ。それはあるいはここが雨に降りこめられて、一種の密室になっているせいかも知れない。佐介は自分の中に、かすかに動く動物的な欲情を自覚した。それに感応したように熊井の体は一歩退いた。

「もう出かけましょう」熊井は白茶けたような顔で部屋中をぐるりと見回した。「どこかに鴨志田さんの傘がある筈よ。どうせ鴨さんはもう出て来ないんだから、貰ってってもいいわよ」

 洋傘はたくさんの埃をのせて、鴨志田の机の下の床にころがっていた。佐介が机の脚でそれをはたくと、薄ぐろい埃がパッパッとしめった空気の中に飛び散った。

「ねえ。ビール飲まない。あたし咽喉(のど)がからからなのよ」

 口内のねばりをそのまま感じさせる口調で熊井が言った。「ひとりでは、ちょっとビヤホールに入りにくいのよ」

「うん」傘を小さく開閉して埃をはらいながら、佐介は生返事をした。

「どうしても牛島さんと逢うの?」きめつけるように熊井は言った。「あんたは先刻、人間はお互いにつながってない、組み合わさってるだけだ、と言ったじゃないの。牛島さんとの組み合わせも、ついでに無視したらどう?」

「うん。でもね、うっかり組み合わせを無視したりずらしたりすると、そのズレが他の部分まで次々に波及して行くんだ。たかがパズル絵なんだけどね、そこんとこがむずかしいんだよ。僕はいっぺん、そこんところを計算間違いして」佐介はちょっと言葉を詰めた。「いや、計算間違いというより、つながっていると誤解したんだな。――」

 佐介はそれきりでふいに黙りこんだ。熊井が次をうながした。

「それで?」

「それで、ビール飲みに行くとするか」佐介は不器用に話を外(そ)らした。「四時に逢うと約束したけれども、あれから二時間半の間に、ずいぶん情勢が変ったからな。牛さんと逢う意味もなくなってきた」

「ふん、二人して何か陰謀をたくらむつもりだったのね」

「陰謀じゃないよ。組み合わさったままでは窮屈だから、そいつをすこし変えてやろうかと思ったんだ。それだけだよ」

「じゃやはり陰謀じゃないの」

「陰謀じゃないさ。陰謀というのは、二人か二人以上でやるものだろう。ところがこれは僕一人だ」

「あら、ずいぶん悪党ぶったせりふね」熊井はわざとらしいイヤな笑い声を立てた。「どうしてそんなことをたくらむのさ」

「興味があるからさ。それ以外に面白いことはないもの。どうせ僕ははみ出ているんだ。そこらをゆすぶって、もぐり込むより他に手はないんだ」佐介は洋傘の埃をすっかり払い落し、ふたたび鞄と卓上ピアノを横抱きにした。もう体内の欲望はすっかり消え去っていた。「さあ。出かけるか」

 佐介が先に立って扉を押し、附段を降り始めた。狭い階段なので卓上ピアノの角が壁にこすれてギチギチといやな音を立てた。熊井は鍵をかけるために少し遅れた。階下の土地事務所は客の姿はなく、事務員が三人ぼそぼそと私語していたが、佐介の足音でいっせいに顔をこちらに向けた。この階段を上り下りする度に、佐介は彼等の視線でしごかれるような気がする。どういう意味にしろ、眺められるということは、いい気持のものでなかった。無意識裡に佐介は鞄を前に回し、防禦的な姿勢をとりながら、この古い建物の軒に出た。雨がやわらかに佐介の頰にしぶいた。窮屈に傘をひろげかけた時、町並の彼方の白濁した空から、鈍重な遠雷のひびきがつたわってきた。それは初めは低く、それからしだいに重いものをころがすような響きとなり、そのまましばらく連続して鳴動した。それは佐介に突然、あの夜闇の中を陸橋に近づいてくる牛車のひびきを、まざまざと憶い出させた。にぶい戦慄が佐介の身内をつらぬいた。海藻を満載した幻の牛車は、白濁の空を押しわけて陰鬱な鳴動とともにじわじわとこちらに近づいてくる。……

「ああ」佐介は思わず低くうめいた。「おれはいつもここに戻ってくる。離れよう離れようと思っても、おれはいつの間にかここに引き戻されてしまう」

 遠雷がもたらす不快な空気の震動のなかで、佐介は瞼の裡にあの牛の顔をありありと思いうかべた。牛は意志も感情も持たない眼で、じっと前路の闇をむなしく見据えていた。その記憶が佐介の眼筋にひとつの刺戟としてつたわり、彼は眼を大きく見開いて、その焦点を雨に煙る町並の上に固定した。(こんな具合か)記憶に肩すかしをくわせるためには、これ以外の方法はなかったのだ。街は街自体の性格をすっかりうしない、無意味で雑多な堆積に見えてくる。しかし佐介の眼は彼の意に反して、外見的には牛の眼には全然似ていなかった。緊張によるかるい斜眼(すがめ)にかぶさって、瞼が神経的にぴりぴりと痙攣(けいれん)しているだけであった。佐介はぴくりと身体をふるわせて、背後をふりむいた。

「おまちどおさま」熊井がフードの加減を直しながらそこに佇(た)っていた。フードの中で熊井の顔はふだんよりもまん丸く見えた。「どうしたのさ、へんな顔をして」

「何でもないんだ」

 熊井は佐介の肩を押すようにして、傘の下に入ってきた。そのままよりそった形で、二人は濡れた街の風景のなかに歩み入った。

「何でもないんだ」佐介は同じ言葉をくりかえした。「疲れているだけの話なんだ。それにしても、君の顔はほんとにまん丸いんだね」

「そのピアノ、あたしが持ちましょか」殺風景な部屋を離れ、雨衣ごしに身体を接して歩くことだけで、熊井の感情は単純に生き生きと動いた。「持ちにくいでしょう」

「いいよ」

「このピアノね、千円でいいわ。考えてみると、あんたにまるまるおっかぶせては、気の毒だもの」

「四百円分だけ同情するのかね」佐介はそっけない口調で言った。「同情はごめんだね。同情というほどイヤな言葉はない」

「だってあんたも先刻、同情という言葉を使ったわ」

「あの時、ほんとにうっかりしてたんだ。取消すよ。僕は今疲れていて、他人に同情する余裕はない」傘の柄をにぎる佐介の右手に、熊井の左掌がかるく触れた。「実を言えば、これを君から買い取ったことも、今少々後悔してる位だ」

「あら、そんならムリに買い取って貰いたくないわ。デパートに持ってけば、引取ってくれるんだから」

 また西の方から遠雷の音がつたわってきた。それは前のよりはいくらか弱かった。

「さて」と佐介がつぶやいた。「牛さんのことはどうするかな」

「すっぽかしなさいよ。あんな助平」

「そう簡単にも行かないんだよ。これも仕事の一つだから」

「ああ、さっき主任が言ってたの、それね。L十三号」

「ふん。君はすこし気が付きすぎる。しかも、その気の付き方の根元にあるのは、好奇心だけだ。いつか君はきっと自分の好奇心から復讐されるよ」声をおとして、「もっとも女なんて、皆そんなものだけどね。好奇心なんて、生きて行くことのテコや、行動することのテコには、絶対にならないものだよ」

「バカにしてるわね」

 熊井の指がつと動いて、傘の柄の佐介の手の甲をきつくつねり上げた。佐介はかすかに悲鳴をあげて、卓上ピアノを取り落そうとした。

「それじゃ、あんたは、一体何で生きてるのよ。いつもふらふら、ふらふらしている癖に」

 

 午後四時、駅の改札口からすこし離れた柱の下に、牛島康之は立っていた。着ているビニールのレインコートは濡れて額にへばりついていた。ふだんなら外であきないする筈の新聞売子たちが、雨のため駅の構内にたむろしていて、そこら一面が人波でごちゃごちゃに混雑している。牛島康之は柱の下にじっと立っていた。人間にはいろんな型があるが、牛島の下駄に似た四角な風貌は、『待つ』という動作においていかにもピッタリと似合っていた。いかにも人を待っているという感じで、牛島康之は棒杭(ぼうぐい)のように佇(た)っていた。

 一杯のビールが、熊井照子の頰をぽっと赤くさせ、栗山佐介の顔をやや生き生きさせていた。もう眼玉も干葡萄の感じはなくなり、唇もわりによく動いていた。時刻外れなので、ビヤホールの中もそう混んでいない。二人はシュロの鉢植えのかげでなく、見通しのまんなかのテーブルに腰をおろしていた。ああいう職業に従事していると、かえって逆の心理がはたらいて、そんな席を選んでしまうものだ。全然他人から見られない場所か、あるいは全然見通しの場所。中途半端な場所はかえって具合が悪かった。素通しの盲点みたいな席に腰かけて、二人は一杯ずつのビールを飲みほした。二杯目の券を買いに熊井が立ったあと、佐介は顎杖をつき、しばらく時計をにらんでいた。時計の針は四時二分過ぎをさしていた。佐介の隣の椅子には、鞄と卓上ピアノの包み、それに洋傘がたてかけてある。洋傘からの水が床に不規則な水たまりになってひろがっていた。包装紙もすこし濡れて破れ、卓上ピアノの赤塗りの地肌がのぞいている。デパートヘ返品するという件も、うやむやになってしまったものらしい。店内のラジオが大きな音を立てて鳴っていたが、ビヤホールのまばらな客も給仕人も、誰もそれを聞いていなかった。趣味講座『猫の飼い方』。声は空気をひっかき回すだけの役割を果たしていた。熊井照子が席に戻ってきて、二杯のビールが運ばれた。

「戦後になって、外米がぞくぞくと入ってくるようになってきた」ビールの泡を舌で舐(な)めて、佐介が含み声でそう言った。「ところが外米は、品種や栽培法の関係上、バサバサしている。そこで料理に工夫をこらして味をおぎなうと言うことになるね。たとえばどんな料理が外米に適するか」

「カレーライスやヤキメシね」熊井が口をはさんだ。一杯のビールが熊井の発音を軽くしていた。料理は女の専門だという自負の感じもあった。

「そうだよ」佐介はうなずいた。「だから戦後カレー粉の需要がぐんとふえた。外米の関係と、それにカレーライスというやつは、家庭料理の中でも安上りの料理に属するな。だからカレー粉は夏でも冬でも需要が絶えない。需要がふえると、生産もふえる。今までのカレー工場は拡張するし、また新規の工場もあちこちに出来てきたんだ。つまり外米の輸入にともなって、カレー粉の原料も続々と輸入されるということになった」

「そうね。カレーの木は日本にはないものね」

「そう知ったかぶりをするんじゃない」佐介は軽くたしなめた。「カレーの木は日本にはないが、外国にもないんだ。世界中のどこにもそんな木はないんだ。あのカレー粉というやつは、たくさんの木根草皮[やぶちゃん注:「もっこんそうひ」と音読みしている模様である。]を粉にして混合したもんだよ」

「木根草皮ということはないでしょ」熊井が揚げ足をとった。「草根木皮なら判るけど」

「そうだ。言いそこないだ。たとえばどういうものが入っているかと言うと、辛味としてはコショウ、ショウガ、唐辛子、カルダモン。香料としてはウイキョウ、肉桂、クミン、フェネグリーク、ナツメッグ、月桂樹」佐介は胸のポケットから、そそくさと小さな皮手帳を取り出し、頁を開いた。「ここにいろいろ書いてあるだろう。着色にはターメリックだ。つまり鬱金(うこん)だね。これは印度産。オールスパイス、これも日本に出来ない。世界で出来るのはジャマイカ島だけだ。カレー粉の原料の九割までは外国産で、日本で出来るのはわずか一割というわけだ。上等のカレー粉になると、三十何種類という草根木皮が使われるが、近頃出来[やぶちゃん注:「しゅったい」。]の町工場などではそんなに使ってやしない。せいぜい十二、三種類だね」

「よく調べ上げたもんねえ」

 熊井は嘆声を発して、手帳の頁をのぞきこんだ。頁にはたくさんの片仮名の名前が、ずらずらと並んでいた。

「どうしてそんなに調べたの。町工場でも開くつもりなの?」

「それはあとで言う。もともとカレー粉というやつは、インド人種の中のタルミ族が使い始めたものなんだ。なにしろ印度は暑い。暑いから食欲がおとろえる。だから刺戟性のもので食欲を刺戟することになるんだ。カレー粉というものは、大へん刺戟の強いものだね。そこから問題が出て来たんだ」

 駅西口の改札口の近くで、『待ち男』の牛島康之は円柱にもたれ、二本目の莨(たばこ)をふかしていた。時計は四時十五分をさしていた。彼は少しずつじりじりし始めていた。改札口の改札係は、次々出てくる人波をさばくためにアクロバティックな手の動かし方をしていた。さばいてもさばいても、流れてくる人波は絶えなかった。その時駅の内からあふれてくる人波の中に、ひときわ背の高い禿(は)げ頭の男の姿が見えた。夕陽養老院の黒須院長であった。黒須院長は洋傘をわしづかみにして、もまれるように改札口を出てきた。院長の禿げ頭はじっとりと汗ばんでいた。

(さあ。何か旨(うま)いものでも食べよう)

電報を打ちに出たついでに、ふっと気が向いて、院長はこの盛り場に出る気持になったのだ。久しぶり街を歩く若い女も眺めたかったし(女秘書の空想で院長はかなり情緒を刺戟されていた)、今夜の会見にそなえて栄養物を摂っておく必要もあった。栄養を摂らなきゃ耐久力も出ない。それに相手は大勢なのだ。黒須院長はあたりをへいげいしながら、『待ち男』牛島のそばをのっしのっしと通り過ぎた。牛島は莨をぐいとふみ消しながら、またいらいらと電気時計を見上げた。

「その工場はだね、今年の初めまで、キャラメル工場だったんだ。ところがそいつが大資本に圧迫されて、とたんに潰れてしまった。そしてカレー粉工場になってしまったんだ」佐介は熊井を見詰めながら、熱心な口調になった。牛島のことはもう忘れてしまっていた。「キャラメル工場ならまあ我慢出来るけど、カレーは困るな。修羅印(しゅらじるし)カレーと言うんだが、なんだか名前からして辛味が利いてるようだろ。だから売行きもいいらしく、近頃では三部制か何かにして徹夜作業をやっているんだ。運び込んだ原料を粉にするのに、どういう方法をとるか、原料が原料であぶらっ濃いのが多いから、製粉機やミキサーは使えない。キネでつくんだ」

「お餅みたいにして?」

「いや、人力でつくわけじゃなく、機械は機械だけどね、やはり形式としてはウスとキネだ。何十というウスと何十というキネが、間断なく、ガシャ、ガシャ、ガシャと落下する。その音がたいへんなものだ。夜なんか一町[やぶちゃん注:約一〇九メートル。]四方にひびきわたるね」

「あんたの家、その工場の近くにあるの?」

「その工場が、僕の家の近くにあるんだ」と佐介は訂正した。「塀ひとつ隔てたと言っていいくらいの近さにあるんだ。音は音として、それでいいとしよう。こんどはにおいだ。工場の設備が悪いために、そこら中がカレー粉で汚染されている。風向き次第でその粉は遠くまで流れて行く。毎日々々カレー粉を吸わされている人間が、一体どうなるか。どういう変化をおこすか。僕が今目の昼飯の注文で、カレーライスがイヤだと言ったら、仲間はずれをすると君は非難がましい口をきいたね。これでイヤなわけが判っただろう。だからあまりお節介はやかない方がいいんだよ」

「お節介じゃないわ。親切心で言ったのよ」

「そして僕らは集まった。僕らというのは、工場近くに住んでる連中のことだ」酔いが饒舌にさせているのを意識しながら、佐介はその流れに任せていた。しゃべることはこころよくもあった。「集まっていろいろ相談した。そして工場主の修羅吉五郎に交渉を始めることになったのだ。僕の役割は各種の調査ということになった。だからいろいろ調べ上げたのさ」

 佐介は手帳をぽんと叩いて、ポケットにしまい込み、ジョッキの半分をごくごくと飲みほした。

「昨夜の会合というのもそうさ。そう須貝に報告したらいいだろう」

「ふん、なぜ?」

「あそこじゃあ原則的に、お互いがお互いを見張るという仕組みになってるんだ。人間の組み合わせとしては、一番単純な組み合わせだね。それであの須貝主任は、いっぱしうまくやってるつもりなんだ。もう彼も少しヤキが回ったね。L十三号だってそうさ。ああ、そうだ。牛さんはどうしたかな?」佐介はまた時計を見た。「もう三十分の遅刻だ」

「あたし、報告なんかしないわ」熊井は間接に監視の事実を認めた。「でも、研究所の仕事にはあまり熱心でないくせに、カレーのことになるとやけに熱心なのね」

「だってカレーのことは重大だもの。おかげで、カレーライスという旨い食べ物を僕は嫌いになったわけだろう。しかもそれは他力によってだよ。他の力によって、僕はカレーライスという快楽を奪い去られたんだ。奪われたものは奪い返さねばならない。そう僕は僕自身に、近頃くれぐれもそう言い聞かせているんだ」

 佐介は苦しそうな笑いをうかべ、本当に自分に言い聞かせるような含み声になった。

「そこを黙っていると、僕はまたダメになってしまう。ダメになったきり回復出来なくなってしまう。人間なんてそんなものだというところに落っこちてしまう。今だって半分落っこちているんだ」

「あなたなんか、研究所の仕事をやめるといいのよ」母性的な衝動が熊井を動かした。「あんな悪党仕事はあなたには向かないわ」

「ふふん」我に返ったように顔を上げて、佐介はつめたい声を出した。「悪党仕事? 君だって平気な顔で勤めてるじゃないか」

「あたしは直接仕事にタッチしてないもの。雑用だけだから」

「へえ。そいつはずいぶん都合のいい論理だね」佐介は頰にうす笑いをうかべた。それはあの須貝主任の悪党めかした笑い方にどことなく似ていた。「なにが悪で、なにが善か。そこをはっきりさせないと、君の忠告はなり立たないんだよ。よくそういうごまかしの場所に、安心して坐って居れるな」

「あんただって、ごまかしじゃないの。カレーライスが嫌いになったからって、カレー粉を分析して何になるのさ」

 熊井はいらだたしげに卓の下で足踏みをした。電気時計をまた見上げながら、牛島はいらいらと足踏みをしてつぶやいた。

「もう三十分以上待たせたな、これ以上待たせると、俺はほんとに怒り出すぞ。ほんとにあいつ、何をしてやがるんだろう」

 そしてこの辛抱強い待ち男は、せかせかと鞄をひらき、中から針と糸を出して、レインコートの裾をつまみ上げた。裾の一部分が、さっき木馬の釘にひっかけて、かぎ裂きになっていた。牛島は柱の下にしゃがみ込んで、そこをつくろい始めたが、地がビニールなので、どうもうまく行かないらしかった。佐介は残りのビールを一気に飲みほした。熊井のそれはすでに空になっていた。

「さあ、出かけるか」佐介は言った。「じゃあこの卓上ピアノの代金を払うよ」

「千円でいいわ」

「ムリしなくてもいいんだよ」

 そう言いながら佐介は千円札一枚を取り出し、卓の上に乗せた。卓にこぼれたビールにそれはきたならしくベタリと貼りついた。佐介はあわてて小指と親指でそれをつまみ上げた。

「千円でいいのかい?」

 つまんだ指を離して、惨めな表情で牛島は立ち上った。針と糸を鞄にしまい込み、かなたに見える横町の方を眺めながら呟いた。

「すこし腹もへってきたな、どうも富岳軒のライスカレーは盛りが悪い。二つぐらい食わないと、腹にこたえないな。嘆かわしいことだ」

 牛島が眺めているその食い物屋横町の三軒目の鰻(うなぎ)屋に、黒須院長はどっしりと腰をおろして、さっきから大串(おほぐし)の鰻をせっせと食べていた。鰻はしたたるばかりのあぶらを乗せ、院長の口腔の中をねとねとにした。黒須院長は飯を口に運び、そしてまた大串を横ぐわえにして、満足げに鰻の身をしごきとった。院長の居はねっとりと艶を持ち、その眼は単純なよろこびにあふれていた。少くともこの瞬間だけは、黒須院長は完全にニラ爺たちのことを忘れ果てていた。忘れ果てて鰻に没頭していた。

[やぶちゃん注:本章で遂に連関が不明であった「1」の自殺未遂のシークエンスがここで連結され、あの男が栗山佐介であったということが明らかにされる。また、唐突に映像的に黒須院長と牛島の街頭で行き違うカット・バックやモンタージュのシークエンスをことさらに挿入して描くところからも映像的面白さを狙った以外に、話柄中の別の関連性の可能性の示唆をも示しているのではないかという感じが濃厚に伝わってくるではないか。ここで、黒須が雇っている書記というのは実はこの佐介なのではあるまいかという推理が働くからである。週に三日しか出社義務がない佐介が、残りの日を「都内某団体の書記」をしているという自身の告知とが上手く当て嵌まってくるように見られるからである。

 なお、底本の解説で中村真一郎氏もこの最後の部分の面白さを、『フランスの現代作家たちが多く試みている「同時性」の手法なども、彼は面白がって、殆んどパロディー風に、あるいは漫画風に活用させてみせている』。『第九章の終りで、作者が「熊井はいらだたしげに卓の下で足踏みをした。電気時計をまた見上げながら、牛島はいらいらと足踏みをしてつぶやいた」と続けて書いているが、熊井という女はビヤホールでメートルをあげているのだし、彼女にからまれている佐介という男に待ちぼけをくわされて、牛島は駅の構内で苛立っているわけである。二つの異った場面が、その同時性によって、相つぐセンテンスに結合させられている。こういうやり方は養老院の騒動の場面になると、殆んど映画のカット・バックのように頻用されて、滑稽な効果をあげているのである』と特に挙げて評価しておられる。

「フェネグリーク」マメ目マメ科マメ亜科フェヌグリーク属Trigonella foenum-graecum。英語名「fenugreek」。ハーブ・香辛料の一種でもある、マメ亜科の一年草植物。地中海地方原産。古くから中近東・アフリカ・インドで栽培された。日本には享保年間に持ち込まれたことがあるが、農作物として栽培されることはなかった。英名の fenugreek は大雑把に言って古いラテン語「faenum graecum」(ギリシアの馬草(まぐさ))に由来し、この古語がやや変化して現在の種小名ともなっている。本邦では「フェネグリーク」の音写もよく使われる。詳しくは参照したウィキの「フェヌグリーク」を見られたい。

「タルミ族」これは「タミル族」のこと。主に南インドのタミル・ナードゥ州やスリランカの北部・東部に住み、タミル語を話すドラヴィダ系民族で、誤植や誤記ではなく、梅崎春生がわざと悪戯から、かくした可能性も排除出来ない(後で実際に洒落出る。そうした傾向は彼の中にある)。カレーの語源には諸説あるが、タミル語で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である。]

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