三州奇談續編卷之七 黑川の婆子
黑川の婆子
越の黑川は射水郡(ゐみづのこほり)にして、往昔(むかし)太閤秀吉公佐々成政を征伐の時宿陣ありし地となり。今や松古(ふ)り杉老いて幽陰湖に似たり。橫十町長さ一里に及ぶと云ふ。いかなる故にや、「女堤(をんなつつみ)」と云ひて蛇の主(ぬし)ありと稱すること久し。
[やぶちゃん注:標題は「くろかはのばし」と読んでおく。「子」は単に「人」の意であろう。
「越の黑川」村名で射水郡内となると、「黑河」であろう。「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫」蔵の「射水郡黒川領三十三首塚図」に『内題の左に朱書附記「但享保八年マテハ砺波郡領之由ナリ」。別紙の左端に書写識語「文政十年亥春本家原元善ニ借受写置虫損依而天保六年未五月再写之/原長郷」』とあり、『越中射水郡黒河村(現・小杉町黒河)』とある。原絵図はこちら(左が東なので注意)で、村の南西(右上)に複数の「女池」を見出せ、その北(下方)には「鬼沢堤」というのも見出せる。一方、「今昔マップ」で明治末期のこの付近を見ると、この旧「女池」(群)が現在の県民公園太閤山の「中堤」に当たることが判る(ここも黒河地区内である。
「幽陰湖に似たり」奥深く隠れて、暗く静かな様子は、ただの池沼群ながら、あたかも幽邃な湖(みずうみ)のような感じである、という謂い。先の「射水郡黒川領三十三首塚図」を見るに、これらの池沼から黒河村に流れが下っており、広域のかなりの池沼群であることが判る。ここで「橫十町長さ一里」と、この池沼群の大まかな東西幅は一・〇九キロメートル、南北三・九キロにも及ぶとあるのも、強ち誇張でない事実であることも判る。
「太閤秀吉公佐々成政を征伐の時」ウィキの「佐々成政」にある、天正一三(一五八五)年に秀吉が「小牧・長久手の戦い」の後も未だに反抗を続ける佐々成政を討伐するため』に『自ら越中に乗り出し、富山城を』十『万の大軍で包囲し、成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの』、『越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収された。ただし、引き続き郡内の諸城には、青山氏(前田家)・舟見氏(上杉家)らが遺臣の蜂起に備え駐留し』、『富山城も破却』され、『成政も在国を許されず』に『妻子と共に大坂に移住させられた。以後しばらくは御伽衆として秀吉に仕え』、天正一五(一五八七)年には『羽柴の名字を与えられている』という一件を指す。その前後はリンク先を参照されたい。]
安永七年[やぶちゃん注:一七七八年。]の冬、此村に貧賤の家に老婆住みて、
「告(つげ)あり」
とて人の病を直す。人一度(ひとたび)此婆子に對して病を告ぐれぱ、婆子諾(だく)して側に入り、菰(こも)をかぶりて暫くして出で、
「一廻(ひとめぐ)りの藥を進ず」
と云ふに藥なし。只信心にして藥を吞むと思へば必ず功あり。
「七日に至りて功なくば又來(きた)るべし」
と云ふ。病者家に歸りて七曰藥を服する心となり、善性をなすと思ひ暮せば必ず驗(しるし)あり。未だ癒えざれば又往きて藥を乞ふに、多く病直れり。
故に近鄕傳へ聞きて藥を貰ふ者群集す。價を取ることなし。米穀も又受けず。
初めは村の者繩を張りて、三錢を取りて人を入れしに、此事小杉の奉行所より制して、今は其事なし。
春に至りては十里廿里に聞き傳へて、藥を受くる者日每に何千人を以て算(かぞ)ふ。故に
「衆人紛(まぎら)はし」
とて、符紙[やぶちゃん注:「ふし」と読んでおく。御札の類。]を切りて與へ印しとす。
「『南無阿彌陀佛』と云(いふ)ことなり」
と沙汰すれども、其實(じつ)知れず。符を受くる人に乞ひて見れば、
「ム」・「ヿ」・「十」
等の字多し。一字づつ切りたるものにて。「ヿ」の字の札多し。何と讀むなることを知らず。稀に
「『シロ』などの字もあり」
と云ふ。
一日(いちじつ)病の癒えたる人ありて、米貳斗五升を賜はる。使(つかひ)の者(もの)道にて一斗を盜みて、一斗五升を持參る。
婆子の曰く、
「我は一粒も受けず、取去るべし。此米は一斗を道に預け來れり。貳斗五升として本人に戾せ」
と云ふ。
彼の男大いに恐れ去る。
又或家より病癒ゆる歡(よろこび)として、大いなる三重の重に赤飯を入れて贈る。婆子の曰く、
「志(こころざし)過分なり。受けたるに同じ」
とて、内一握り喰(く)ひて其重を返へす。使の者
「何卒爰に置きて又食(しよく)し給へ」
と云ふ。婆子肯(うけが)はず。使の者云ふ。
「左候はゞ遠方を來る人多し、其來(きた)る人に施したし。爰に殘し給へ。曰も暮に及べり」
とて、家の内に殘し去りしに、其夜盜人(ぬすびと)入りて重ながら盜み去る。
婆子翌日是を聞けども、忘れたるが如く又咎めず。
是何等の理(ことわり)ぞ。彼婆子平生(へいぜい)の食は、朝每に煎粉(いりこ)[やぶちゃん注:玄米・糯米・小麦などを粉にしたもの。]をなして、人と話の間も是を喰ふ。別に食なし。
土地の人も評色々にして、妖とし又賣主(まいす)[やぶちゃん注:「賣僧」(売僧)と同じで、人を騙す者の蔑称。]とす。
されども人の信じ來ること彌々(いよいよ)多し。
只に「鮑君(はうくん)の母」か、「草鞋(さうあい)大王の妻」かと疑ふ。
[やぶちゃん注:「鮑君」鮑勛(ほうくん ?~226年)は後漢末期から三国時代の魏にかけての政治家。「鮑勲」とも表記される。前漢の司隷校尉鮑宣の九世の孫。ウィキの「鮑君」によれば、二一二年、『父の功績によって、曹操に召され』、『丞相掾』(じょうしょうじょう:君主を補佐する最高職の第三等官)『となった』。二一七年、『曹操の嫡子の曹丕が太子に立てられると、鮑勛は太子中庶子』(太子付きの侍従)『に任じられた。鮑勛は誰に対しても公正な態度で接したため、太子中庶子であった間は曹丕の思い通りにもならなかった。魏郡に赴任した際は、曹丕の正妻である郭夫人の弟が犯した死刑相当の罪を免除するよう、曹丕から懇願されても』、『独断で赦すことはしなかったため、恨みをもたれるようになったという』。二二〇年、『曹操が死去して曹丕が後を継ぐと、駙馬都尉・侍中を兼任した。曹丕(文帝)が即位した後は「狩猟などの遊びは後回しにされて、まずは内政を整えるべきであります」と常に上奏した。このため』、『曹丕は鮑勛を煙たがり、上奏文を即座に破り捨てることまでするようになったという』。二二三年、『司馬懿・陳羣の上奏によって御史中丞』(御史太夫の補佐役で官の不正を取り締まった)『に任命された』。二二五年、『曹丕が呉を討とうとすると、鮑勛は「呉と蜀は山川を頼みとしているため簡単に討つことはできません。今遠征を行ったとしても、敵の連中に利するだけに終わるでしょう」と諌めた。しかし曹丕はさらに腹を立て、鮑勛を左遷し』、『治書執法とした』。『曹丕が寿春から帰還したとき、鮑勛は陳留太守の孫邕』(そんよう)『が設営途中の陣営堡塁を横切った罪を見逃したことがあった。孫邕を追及しようとしていた軍営令史の劉曜が罪を犯すと、鮑勛は劉曜の免職を上奏した。すると劉曜は、鮑勛が孫邕の罪を見逃したことを密かに上奏したという。これに対し曹丕は、鮑勛を逮捕して廷尉に引き渡すよう命じた。廷尉の高柔は、鮑勛の罪は懲役』五『年との判断を示したが、三官は法律によれば罰金で済むことだと主張したという。しかし、曹丕は激怒し』、『三官以下を逮捕してしまった。その後も』、諸臣が『鮑勛の父の功績を持ち出し』て『弁護したが、曹丕は許そうとせず、ついに』『鮑勛を処刑させた』。『鮑勛は父と同様によく施しをしたため、彼が刑死した際には家に財産がほとんどなかった。また、鮑勛の死の』二十日後に『曹丕が病死したため、鮑勛を悼まない者はいなかったという』とある高潔な官僚であった。
「草鞋大王の妻」実は以前にも「三州奇談卷之一 敷地の馬塚」で出、そこでは「近世奇談全集」のルビや国書刊行会本とから「とひがみだいわう」と読んだが、今回の音読みも「近世奇談全集」のルビに従った。多様な読みがあるのを示したく思っただけである。なお、これはお馴染みの仁王門の左右に配される仁王のことを指す。祈願する人がその前に草鞋をぶら下げたところからの古い別名である。「とびがみ」の方は当て読みで「飛神」、即ち、他の地から飛来して新たにその土地で祀られるようなった神を指す語である。]
爰に好事の者ありて、
「此婆子を七百兩に買ひて都會に出でん」
と云ふ。然れども郡方(こほりがた)の法令ありて、此事も止(とど)めり。
二月の末に至りては評惡しといへども、病人日每に四五百人は必ず來(きた)る。評の惡しきは只食事なり。
「器に顏を入れて喰(くら)ふ。狸の入替(いれかは)りたるなり」
と云ふ。然れども其實知れず。婆子曰く、
「信ありて我(わが)詞(ことば)を用ひなば、海内(かいだい)いかな難病なり共(とも)癒さずと云ふことなし」
と云ふ。
爰に高岡に一人の博徒あり。金盡きて詮方なし。依りて婆子に逢ひて曰く、
「我が手の中に虫ありて、今夜も賽(さい)を取らざれば臥すこと能はず。金銀錢殘らず虛(むな)し。是も又直る理あらんや。」
婆子曰く、
「信(しん)に依(よ)らん」[やぶちゃん注:信ずればこそ。]
と肯(うけが)ひて符を與ふ。
「七日に來るべし」
となり。
彼の奕徒(ばくと)歸りて奕場(ばくちば)に向ふに、其夜より少し運(うん)利(き)きて少し利を得たり。七日の間皆少し宛(づつ)利を得たり。
奕徒大いに勇みて、八日目に奕場に臨む。
腕中(うでのうち)鬼(き)あるが如く、運間違ひて負けたり。
怒りて其夜又出づるに、悉く打負けて空囊(くうなう)[やぶちゃん注:空(から)の財布。]本(もと)の如し。
奕突徒大いに恐れて、又婆子が許に來りぬ。
符を出(いだ)す。婆子叱(しつ)して曰く、
「吁(ああ)蕩子(たうし)、七日と約して來らず、三日を徒(いたづ)らに過ぐ。汝に何の益する者かあらん、速に去れ」
と。白髮立ちて眼光我(われ)を射る。爰(ここ)も黑川・黑塚相似たれば、「鬼一口」の勢(いきほひ)に、奕徒大いに恐れて足に任せて逃げ歸ると云ふ。此末如何(いかに)とかならん。
[やぶちゃん注:『黑川・黑塚相似たれば、「鬼一口」の勢に』黒川から黒塚を連想してその鬼婆をダブらせ、さらに「伊勢物語」の「芥川」の「鬼一口」をダメ押しで添え、この婆さんの眼光鋭きを見事に映像化した。さればぞ、絵図にあった「鬼沢堤」もここに響いてくるようではないか。]
去れば高岡の醫師【民五と云人。】予に語りて云ふ。
「潜かに思ふに、此婆子は水都(すいづ)[やぶちゃん注:異界としての水界。]の者の助けを得。我能く人の云ふを聞くに、婆子一日(いちにち)に兩度
『垢離(こり)を取る』
と稱して、彼女(かのをんな)堤の水に入る。頭見えぬ程沈むこと度々なり。晝も病人數人(すにん)に對して後(のち)は、井水(ゐのみづ)を汲みて頭(かしら)を洗ふ。頭に水を備(そな)へざれば、病人を見難しと見ゆ。水獺(かはうそ)か、龍蛇か、必ず此池のことゝ覺えたり。曾て古入咄(はな)しすることあり。此三四十年も以前婆子に夫ありし時、或冬一人の尼來りて宿を乞ふ。夫の云ふ
『我貧なり。與ふべき米なし。』
尼の云ふ、
『貪分我にあり、苦しからず』
とて終(つひ)に宿る。洗濯をなし縫針をなす。我用(わがよう)自由を得、外人をも又助く。是より月每に來りて三四日居ては歸る。終に此夫密通すると沙汰ありき。然るに隣人此尼を咎めて所を追ふ。夫(その)隣人を責めて
『何故』
と問ふ。隣人の曰く。
『此尼出所慥(たしか)ならず。必ず歸りには此池へ入る妖物(ばけもの)なり。汝疑はゞ試みよ』
と云ふ故に、宿に歸りて是をためすに、何の替りたることなし。只一日の内に兩度程見えぬことあり。依りて
『遠方へ出づる』
と旅用意などして立出で、隣家の二階に上りて尼を能く窺ふに、此尼家を立出で步むに、二三町[やぶちゃん注:約二一八~三二七メートル。]步むは人なり。夫(それ)よりしては一道(ひとすぢ)の白氣(びやくき)となり、彼女(かのをんな)堤へ飛込む躰(てい)に見ゆ。是に依りて此夫大(おほい)に恐れ、近付(ちかづき)の佛寺へ賴みて祈禱をなし、經文・符文(ふもん)を取りて家に張る。是より尼再び來らず、終に面影もなかりしが、一兩年の内に夫は死せしと聞きし。今や三十餘年を經て、其家に此變を聞く。扨は婆子に屬(つ)く物は此池の主ならんか。後(のち)を見給へ。」
[やぶちゃん注:「我用(わがよう)自由を得、外人をも又助く」ちょっと前半の意味が判然としない。自分のしようとすることを実に自由にこなし、その他にも近隣の人々の手伝いなどもした、か。ただ、この部分、妻である現在の「婆子」の様子が全く語られていないのは、どうもこの昔話そのものが怪しげである。
「屬(つ)く」「近世奇談全集」のルビに拠った。「憑く」。
「後(のち)を見給へ」「油断ならぬから、今から後の婆さんにはよく注意して観察しておくがよろしかろう」というこの高岡の医師の忠告。]