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2020/08/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 一笑 二 / 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々~電子化注完遂

 

       

 

 一笑がこの世にとどめたものは『西の雲』所載の百句、これに生前死後の諸集に散見するものを併せると、三百句以上に達する。各句についても特に絶唱と目すべきほどのものは見当らぬようであるが、これは時代を考慮してかからねばならぬ問題であろう。

 芭蕉を中心とするいわゆる正風(しょうふう)の作品は、天和(てんな)から貞享(じょうきょう)、貞享から元禄と進むに従って、著しい進歩の迹を示した。『虚栗(みなしぐり)』『続虚栗』『曠野(あらの)』の内容は明(あきらか)にこれを証している。『西の雲』に収められた一笑の句は、その作句年代を詳(つまびらか)にせぬが――「今宵月狐に昼と鼾(いびく)らん」の一句を除けば『加賀染』に現れたような虚栗調からは、已に脱却し得たものと見て差支ない。同時に『曠野』の諸句ほど雅馴になりきらぬところがある。『続虚栗』は一笑の句を一も採録しておらぬから、彼の句を続虚栗調と見ることは、いささか妥当でないかも知れぬが、『虚栗』の後『曠野』の前の句風に属すと見るべきであろう。『続虚栗』の句が中間的であるように、一笑の句も多くは中間的である。

[やぶちゃん注:「正風」ここでのそれは蕉門による「蕉風」の言い換え。蕉門俳人は自分たちの俳風を「正風」と称したが、これは自己の風を天下の正風と誇示する幾分、厭らしい使い方と心得る。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「蕉風」の語は、堀麦水の「蕉門一夜口授」(安永二(一七七三)年刊)以来、一般的に用いられるようになった(但し、堀自身は蕉門風の句柄ではない)。歴史的にみると、芭蕉の俳風は、延宝以前は貞門・談林と変らず、俳諧七部集の流れを見るなら、貞享元(一六八四)年刊の「冬の日」(荷兮(かけい)編)で確立され、元禄四(一六九一)年刊の「猿蓑」(凡兆・去来編)に於いて「さび」の境地が円熟・深化し、晩年の元禄七年の「炭俵」(志太野坡・小泉孤屋・池田利牛編)で「軽(かる)み」へと変化した。蕉風の理念の中心は「さび」・「しをり」・「ほそみ」である。また、連句については、貞門の物付 (ものづけ) ,談林の心付 (こころづけ) から飛躍的に進歩して「匂ひ」・「響き」・「うつり」という微妙な風韻や気合いの呼応を重んじた。こうした内面的なものを重視する傾向から、発句における切字 (きれじ) 等の形式的制約には比較的、自由寛大である、とある。

「天和」一六八一年~一六八四年。

「貞享」一六八四年~一六八八年。

「元禄」一六八八年から芭蕉が没する元禄七(一六九四)年までとする。既に見てきた通り、芭蕉没後は蕉門内で急速に分解が進んでしまったからである。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「曠野」元禄二年刊。荷兮編。俳諧七部集の第三。

「今宵月狐に昼と鼾(いびく)らん」正直、この句、理解し得るように、解釈は出来ない。識者の御教授を乞うものである。

「加賀染」天和元(一六八一)年刊。杉野長之編。

「虚栗」天和三年刊。其角編。]

 

 唯黒し霞の中の夕煙         一笑

 梅が香にもとゆひ捨るあしたかな   同

[やぶちゃん注:「捨る」は「すつる」であろう。誰ぞの出家を詠んだものか。]

 つむ物にして芹の花珍しき      同

[やぶちゃん注:「芹」は「せり」。]

 花の雨笠あふのけて著て出む     同

[やぶちゃん注:座五「きていでむ」であろう。]

 舞下る時聞あはすひばりかな     同

[やぶちゃん注:上五は「まひおりる」、中七は「ときききあはす」。この二つが混然となって「ひばりかな」に繋がるところが、いかにも雲雀の高々と上がったのが、急転直下、素早く下り翔ぶ動を描いて好ましい。]

 闇の夜に柄杓重たき蛙かな      同

[やぶちゃん注:「柄杓」は「ひしやく」。]

 蚊の声の鼻へ鳴入寝ざめかな     同

 朝日まで露もちとほす薄かな     同

[やぶちゃん注:このスカルプティング・イン・タイムも素敵である。]

 雪の昏たそや蔀にあたる人      同

[やぶちゃん注:「昏」は「くれ」、「蔀」は「しとみ」。この場合は「蔀戸(しとみど)」で、町屋の商家などの前面に嵌め込む店仕舞いする時の横戸。二枚又は三枚からなり、左右の柱の溝に嵌め込む。一笑は茶葉商いの商人であった。]

 これらの句にはどこか醇化(じゅんか)しきれぬものを持っている。これを『続虚栗』の諸句と対比すれば、自ら共通するものを発見し得るであろう。闇の晩に取上げた柄杓が重いので、どうしたのかと思ったら、中に蛙が入っていたというようなことは、必ずしも拵えた趣向ではないかも知れない。しかしこの句を読んで、それだけの解釈を得るまでには、或程度の時間を要する。そこに醇化しきれぬ何者かがあるのである。『曠野』にある

 ゆふやみの唐網にいる蛙かな     一笑

[やぶちゃん注:「唐網」は「たうあみ」。「投網(とあみ)」の別称。円錐形の袋状の網の裾に錘(もり)を付けたものを、魚のいる水面に投げ広げ、被せて引き上げる漁法、或いは、その網。この語が選ばれることによって、ロケーションと動きが出、そのベクトルに引かれて「蛙」(かはづ)の鳴き声さえも響いてくると言える。]

の句になると、その価値如何は第二として、作者の現さむとするところは明に句の上に出ている。寝覚の鼻へ蚊が鳴入るという事実も、決して巧んだものではないかも知れない。しかし単に寝覚の鼻へ蚊が寄るといわずに、「蚊の声の鼻へ鳴入」といったのは、表現の上にいささか自然ならぬものがあるような気がする。

 雨のくれ傘のぐるりに鳴蚊かな    二水

[やぶちゃん注:「鳴」は「なく」。]

という『曠野』の句は、一笑の句より複雑な事柄であるにかかわらず、現し得たものはかえって単純に見える。これらは個人の伎倆よりも、時代の点から考うべき問題であろうと思う。

[やぶちゃん注:「醇化」不純な部分を捨てて純粋にすること。「純化」に同じい。]

 

 やすらかに風のごとくの柳かな    一笑

 さしあたり親の恩みる燕かな     同

[やぶちゃん注:「雀孝行」の説話から餌を欲しがるツバメの子を皮肉ったもの。ウィキの「ツバメ」によれば、『昔、燕と雀は姉妹であった。あるとき親の死に目に際して、雀はなりふり構わず駆けつけたので間に合った。しかし燕は紅をさしたりして着飾っていたので』、『親の死に目に間に合わなかった。以来、神様は親孝行の雀には五穀を食べて暮らせるようにしたが、燕には虫しか食べられないようにした』という話である。餌を咥えてくる親の「恩」をただ「見る」のであって、報いるのではない。餌を求める鳴き声は「ありがたがっている」ように見えなくもない、だから「さしあたり」なのであろう。]

 人の欲はしにも居らぬ涼みかな    同

[やぶちゃん注:ロケーションが判らぬが、いかにも肌が接しそうで、むんむんべたべたする感じが面白く出ている。]

 謳はぬはさすが親子の碪かな     同

[やぶちゃん注:上五は「うたはぬは」、「碪」は「きぬた」。砧叩きを親子でしているのであるが、唄わずして、その音が正確な拍子で続いて聴こえ、「流石!」と思わせる丁々発止なのであろう。]

 すねものよ庵の戸明て冬の月     同

[やぶちゃん注:中七は「いほのとあけて」であろう。]

 これらの句には元禄以後の句と共通するような弛緩的傾向が認められる。一方において『曠野』に到達せぬ一笑が、この種の俗情を詠ずる点において、元禄を飛超えている観があるのはどうしたものか。その点一考を要するものがあるにはあるが、句として多く論ずるに足らぬことはいうまでもない。

 右に挙げた十数句の如きものは、いずれの方角から見ても、俳人としての一笑の価値を重からしむるに足らぬものであろう。けれども一笑は他の一面において、次のような作品を残している。

 なまなまと雪残りけり藪の奥     一笑

[やぶちゃん注:いい句だ。]

 よるの藤手燭に蜘の哀なり      同

[やぶちゃん注:「蜘」は「くも」。これも私好み。]

 栗の木やわか葉ながらの花盛     同

 白雨や屋根の小草の起あがり     同

[やぶちゃん注:「白雨」は「ゆふだち」。これもモーション・フレームがいい。]

   旅行

 白雨に湯漬乞はゞやうつの山     同

[やぶちゃん注:「湯漬」は「ゆづけ」。]

 広庭や踊のあとに蔵立む       同

[やぶちゃん注:座五は「くらたてむ」か。説明的でつまらぬ。]

 渋柿の木の間ながらや玉祭      同

[やぶちゃん注:こうしたナメの構図は個人的に好きだ。]

 蜻蛉の薄に下る夕日かな       同

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼう」。]

 こがらしの里はかさほすしぐれかな  一笑

 門口や夕日さし込(こむ)村しぐれ  同

 これらの句の中には後の元禄作家と角逐し得べきものが多少ある。藪の奥に鮮に白く残っている雪を、「なまなまと」の五文字で現したのは、適切な表現であるのみならず、新な官覚[やぶちゃん注:ママ。]でもある。この場合「なまなまと」という俗語以上に、この雪の感じを現す言葉がありそうにも思われない。

 「よるの藤」の句は表現よりも趣を採るべきものであろう。夜の藤に対して燭を秉(と)る、その手燭にスーッと蜘蛛の下るのを認めた点は、慥に特色ある観察である。「哀なり」の一語は、この特異な光景に対し、全局を結ぶに足らぬ憾(うらみ)はあるが、時代の上から情状酌量しなければならぬ。

 その他「白雨や」の句、「渋柿の木の間ながらや」の句、「こがらしの里はかさほす」の句、 「門口や」の句、いずれも句法緊密であり、自然の趣も得ている。元禄盛時の句中に置いても、遜色あるものではないと思われる。

[やぶちゃん注:「角逐」「かくちく」で「角」は「争そう・競う」、「逐」は「追い払う」の意で、「互いに争うこと・競(せ)り合うこと」を意味する。]

 

 一笑にはまた人事的な軽い興味の句がある。

 春雨や女の鏡かりて見る       一笑

 恥しや今朝わきふさぐ更衣      同

 大つゞみ夢にうちけむ夜の汗     同

 「春雨」の句は即興を詠じたまでのものであろう。「更衣」の句は元服した場合の更衣である。明治の半以後に生れたわれわれはこの経験を持合せておらぬけれども、筒袖(つつそで)をやめて袂(たもと)の著物になった時には、多少「恥しや」に似た気持があった。こういう興味は天明期の作家の好んで覘(ねら)うところであるが、一笑は比較的自然にこの趣を捉えている。

 「大つゞみ」の句は三句の中で最も複雑である。目が覚めると全身に汗をかいている。そういえば自分は夢の中で、大鼓を打っていたような気がする。力をこめて一心に大鼓を打った、その夢がさめてしとどに汗を覚える、というのは如何にもありそうな事実である。恐らく一笑は平生大鼓を嗜(たしな)んだ結果、こういう夢を見たのであろう。能に因縁のないわれわれは、仮に夢で鼓を打つという趣向を案じ得たとしても、それによって汗になるということに想到し得ない。この句の如きは俳句に詠まれた夢の中でも、やや異色あるものに属する。

 笠ぬげて何にてもなきかゝしかな   一笑

 一笑にこの句のあることは『西の雲』によってはじめて知り得たのであるが、どういうものかこれと同調同想の句がいくつもある。

 笠ぬげておもしろもなきかゝしかな  舎羅

   訪河尾主人

 笠ぬいで面目もなきかゝしかな    風草

 笠とれて面目もなき案山子かな    蕪村

 三句の中では舎羅が一番早いが、それも元禄十五年の『初便』に出ているのだから、一笑の句からいえば後塵を拝したことになる。案山子に笠はつきものであるにしても、どうしてこんなに同想同調が繰返されたものか、全くわからない。風草、蕪村の二句に比すると、舎羅の句は擬人的色彩が乏しいように思ったが、一笑の句は更に淡泊である。しかしこの句が出て来た以上、何人も一笑が先鞭を著けた功を認めなければなるまいと思う。

[やぶちゃん注:「舎羅」榎本舎羅(しゃら 生没年不詳)は大坂蕉門重鎮の一人であった槐本之道(えのもとしどう)の紹介で入った蕉門俳人。大坂生まれ。後に剃髪した。撰集「麻の実」や「荒小田」の編でも知られる。ウィキの「舎羅」によれば、『貧困と風雅とに名を得たと言われた』。『芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。去来は、「人々にかかる汚れを耻給へば、座臥のたすけとなるもの呑舟と舎羅也、これは之道が貧しくして有ながら彼が門人ならば他ならずとて、召して介抱の便とし給ふ」(「枯尾華」)と書いている』とある。

「風草」各務支考が率いた庄内美濃派の最初の重鎮新出風草(生没年未詳。読みは「にいでふうそう」か)「河尾主人」は不詳。]

 

 一笑の句には前書附のものが少い。その中に悼句が二句ある。

   楚常追悼

 うそらしやまだ頃のたままつり    一笑

[やぶちゃん注:「頃の」は「このごろの」と読む。]

   追善に

 何茂る屎(しし)の古跡あだし草   同

 楚常は鶴来(つるぎ)の人、元禄元年七月二日、二十六歳を以て歿した。これを悼んだ一笑も、同じ年の十一月にあとを追って逝(ゆ)いたのである。一笑の娘は何時亡くなったのかわからぬが、この句意から推して、幼くして世を去ったものと考えられる。この句によって一笑に娘のあったことを知り、それが親に先(さきだ)って死んでいることを思うと、二百年前の話ながら甚だ寂しい感じがする。

[やぶちゃん注:宵曲も述べている通り、この幼くして亡くなったらしい自身の娘への悼亡の句は曰く言い難い悲しみが伝わってくる。

 

 『西の雲』に収められた一笑の句は、歿後他の撰集に採録されたものが極めて少い。僅に左の数句あるのみである。

 春の雪雨がちに見ゆる哀なり  一笑(いつを昔)

 わりなくも尻を吹する涼かな  同(己が光)

[やぶちゃん注:「吹する」は「ふかする」、「涼」は「すずみ」。]

 曙の薄夕日の野菊かな     同

 花蝶に子ども礫の親なしや   同(吐綬雞)

[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「吐綬雞」「俳諧吐綬雞」(とじゅけい)は秋風編で元禄三年刊。この一句、私には絢爛な総天然色の映像の中に、礫を擲(なげう)つ淋しい少年の姿がはっきりと浮かんで見える。]

 ただ一笑の亡くなる前年(貞享四年)に出た『孤松集』は、一笑の句を採録すること実に二百に近く、空前絶後の盛観を呈している。『西の雲』所収のものも数句算えることが出来るが、句は平板単調に失し、殆ど見るべきものがない。

 夜気清し蚓のもろ音卯木垣      一笑

[やぶちゃん注:「蚓」は「みみづ」、「卯木垣」は「うつぎがき」。「もろ音」は「諸音(もろね)」多くの鳴き声であろう。或いはウツギの垣根の向こう側からもこちら側からもの意でもよい。ミミズの鳴き声はケラのそれの誤認であるが(ケラが地中でも鳴くことによる)、ごく近代まで結構、ミミズが鳴くと信じている人がいたものである。]

 砂園や石竹ふとる猫の糞       同

 夕だちやしらぬ子の泣軒の下     一笑

 夕顔の雨溜ふとき軒端かな      同

[やぶちゃん注:「雨溜」は「あまだれ」。]

 ゆふ顔に馬の顔出す軒端かな     同

 ひとつ屋に諷うたふや秋のくれ    同

[やぶちゃん注:「諷」は「うたひ」。]

 遠かたに鼻かむ秋の寝覚かな     同

 月四更芭蕉うごかぬ寺井かな     同

の如きものが、やや佳なる部に属する程度であるのは人をして失望せしめる。この種の作品が多量に伝わったことは、一笑に取って幸か不幸かわからず、また伝わったにしても永く人に記憶さるべき性質のものでないと思う。

 『孤松集』の撰者は江左尚白(えさしょうはく)である。尚白はこの集に一笑の句を多く取入れたのみならず、後年の『忘梅(わすれうめ)』の中にも

 蕣の種とる時のつぼみかな      一笑

[やぶちゃん注:「蕣」は「あさがほ」。]

 虫啼て御湯殿帰り静なり       同

[やぶちゃん注:「御湯殿」これは近世に大名などの湯あみに奉仕する女を指す。そうした第三者的な詠吟であろうか。]

の如く、他に所見のない一笑の句を採録しているところを見ると、両者の間には何か特別な交渉があったのかも知れぬ。

 歿後の諸集に加えられた句にも、特に佳句を以て目すべきものは少いが、そのうち若干をここに挙げて置こう。

 まだ鳴か暁過の江の蛙       一笑(卯辰集)

 吹たびに蝶の居なほる柳かな    同(雀の森)

 行ぬけて家珍しやさくら麻     同(いつを昔・卯辰集)

[やぶちゃん注:「さくら麻」辞書を見ると、麻の一種で花の色から、或いは種子を蒔く時期からともされるが、いうが実体は不詳。俳諧では夏の季題とされた、とある。句意不明。]

 斎に来て菴一日の清水かな     同(曠野)

[やぶちゃん注:「斎」は「とき」。狭義には僧が午前中にとるただ一度の食事を指すが、実際にはそれは不可能で、「非時(ひじ)」と称して午後以降も食事を摂った。ここは広義の法要・仏事に出す食事のことであろう。「菴」は「いほ」で、その遁世者の細やかな賄いとして清水を貰ったことを言うのであろう。]

 秋の夜やすることなくてねいられず 同(色杉原)

   神無月の比句空庵をとひて

 里道や落葉落葉のたまり水     同(柞原集)

[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「句空」は既出既注。これは佳句である。]

 火とぼして幾日になりぬ冬椿    同(曠野)

 珍しき日よりにとほる枯野かな   同(北の山)

 いそがしや野分の空の夜這星    同(曠野・其袋)

[やぶちゃん注:「野分」は「のわき」、座五は「よばひぼし」で流れ星の異名。「いそがそや」は面白いが、雅趣としては劣る。]

 『曠野』には加賀の一笑と津嶋の一笑とが交錯して出るので煩(わずら)わしいが、肩書のないのはここに省いた。尾張で成った集だけに、肩書のない方は津嶋の一笑と解し得る理由があるからである。

 これらの句がどうして『西の雲』に洩れ、また何によって諸書に採録されたものか、その辺のことはわからぬが、「里道や」の句、「火とぼして」の句、「いそがしや」の句などは、一笑の句として伝うるに足るものと思われる。冬椿の花を「火とぼして幾日になりぬ」といったあたり、技巧的にも侮(あなど)るべからざるものを持っていたことは明(あきらか)である。

 一笑は金沢片町の住、通称茶屋新七といった売茶業者だそうである。彼を天下に有名にしたものが『奥の細道』の一節であることは前にもいった。一笑に籍(か)すに更に数年の寿を以てしたならば、『猿蓑』を中心とする元禄の盛時に際会し、多くの名吟を遺したかも知れぬ。親しく芭蕉の風格に接し、その鉗鎚(けんつい)を受けたとすれば、彼の句も固(もと)より如上(にょじょう)の域にとどまらなかったであろう。彼が待ちこがれた芭蕉を一目見ることも出来ず、『西の雲』の一句を形見として館(かん)を捐(す)てたのは一代の不幸であった。けれども芭蕉が一笑を哭(こく)するの涙は、単に彼の墓碣(ぼけつ)に濺(そそ)がれたのみならず、「塚も動け」の一句となって永く天地の間に存しており、追悼集たる『西の雲』にも多くの人の温い情が感ぜられる。一笑は決して不幸な人ではなかった。その点は彼自身も恐らく異存ないことと信ずる。

[やぶちゃん注:私は一笑が――好きである――。

「鉗鎚」「鉗」は「金鋏(かねばさみ)」、「鎚」は「金槌」の意で、本来は、禅宗で師僧が弟子を厳格に鍛えて教え導くことを喩えて言う語。

「館を捐てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。

「墓碣」「碣」は「円形の石」で、墓の標(しる)しに立てる墓石のこと。

 以上を以って「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々」は終わっている。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 一笑 一

 

[やぶちゃん注:小杉一笑(承応二(一六五三)年~元禄元(一六八八)年十二月六日)は蕉門の俳人で加賀金沢の茶葉商人。通称は茶屋新七(清七とも)。高瀬梅盛(ばいせい)の門人であったが、芭蕉に傾倒し、特に貞享四(一六八七)年に蕉門の江左尚白(こうさしょうはく慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年:姓は「えさ」とも。近江の医師。原不卜(ふぼく)らに学び、貞享二(一六八五)年、三上千那とともに松尾芭蕉に入門。近江蕉門の古老として活躍したが、後には離脱した。本姓は塩川)が撰した「孤松(ひとつまつ)」(近江大津で刊行)には実に百九十余句が収録された。彼は芭蕉が最も注目した若手俳人で、恐らく「孤松」刊行前には蕉門に入門しているものと思われる。享年三十六歳。芭蕉に対面するのを心待ちにしていたが、遂に逢うことなく、亡くなった。芭蕉は彼の死を知らぬままに、元禄二年三月二十七日に「奥の細道」の旅に出、彼もまた、金沢で文の遣り取りのみであった愛弟子一笑に逢うことを最も楽しみにしていたのであったが、金沢に着いて、彼が対面したのは、一笑の墓だったのである。彼の句は他に「俳諧時勢粧」(いまようすがた・松江重頼(維舟)編・寛文一二(一六七二)年成立)・「山下水」(梅盛編・寛文一二(一六七二)年刊)・「大井川集」(重頼編・延宝二(一六七四)年)・「俳枕」(高野幽山編・山口素堂序・延宝八(一六八〇)年刊)・「名取河」(重頼編・延宝八(一六八〇)刊)・「阿羅野」(山本荷兮編・元禄二(一六八九)年刊の芭蕉俳諧七部集の一つ。但し、一笑死後の刊行)などに続々と句が採られている。特に先に挙げた「孤松」によって、上方でもその名が広く知られるようになった。追善集は兄丿松(べっしょう)編の「西の雲」で、芭蕉の本句を始めとして諸家の追悼句及び一笑の作百四句を収めている。墓は石川県金沢市野町にある浄土真宗大谷派願念寺境内に一笑塚(グーグル・マップ・データ)としてある。サイド・パネルの画像も見られたい。]

 

     一  笑

 

       

 

 芭蕉が「奥の細道」旅行の帰途、北陸道を辿って金沢に入ったのは七月十五日、あたかも盂蘭盆(うらぼん)の日であった。ここにおいて一笑が墓を弔(とむら)い、有名な秋風の一句をとどめたことは『奥の細道』の本文に次のように出ている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

一笑と云ものは此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知(しる)人も侍しに去年(こぞ)の冬早世したりとて、其兄追善を催すに

  塚も動け我泣声はあきのかぜ

[やぶちゃん注:芭蕉の金沢到着から七日目の七月二十二日、小杉家菩提寺の金沢市野町(のまち)にある浄土真宗大谷派願念寺に於いて、兄の小杉丿松によって一笑追善供養が催され、本句はその席で詠まれたものである。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』も是非、参照されたい。]

 

 一笑という俳人は元禄に二人ある。加賀金沢の小杉一笑、尾張津嶋の若山一笑である。芭蕉の悼んだ一笑が前者であることはいうまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「若山一笑」(生没年未詳)尾張津島の人。貞門の俳人として寛文時代から活躍。「あら野」に入句している。なお、他に大阪(難波)にいた伊賀時代からの旧友の俳人保川一笑もいるようである(私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――燕子花かたるも旅のひとつかな 芭蕉』を参照されたい)。]

 

 一笑ははじめ高瀬梅盛門で、後に蕉門に入ったのだといわれている。延宝八年の『白根草(そらねぐさ)』には、名前が載っているだけで句は見えぬが、天和元年の『加賀染(かがぞめ)』には

 餝レり蓬萊既伊勢海老の山近ク    一笑

[やぶちゃん注:「餝レり蓬萊」は「かざれりはうらい」、「既伊勢海老の」は「すでにいせえびの」で孰れも確信犯の字余り。「蓬萊」は中国で東方の海上にあって仙人が住む不老不死の地とされる霊山であるが、この蓬萊山を象った飾りを正月の祝儀物として用いた。その飾台を「蓬萊台」。飾りを「蓬萊飾り」と称する。蓬萊飾りは三方の上に一面に白米を敷きつめ、中央に松・竹・梅を立てて、それを中心に橙(だいだい)・蜜柑・橘(たちばな)・勝ち栗・ほんだわら(海藻のホンダワラ)・柿(干し柿)・昆布・海老を盛り、縁起物に広く使われるユズリハの葉やウラジロ(シダ)を飾る。これに鶴亀や尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の造り物を添えることもある。京坂では正月の床の間飾として据え置いたが、江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」とも称し、年始の客には、まず、これを出し、客も少しだけこれを受けて、一礼して、また元の場所に据える習慣があった。ミニチュアをクロース・アップして面白い。]

 引息や霧間の稲妻がん首より     同

[やぶちゃん注:上五は「ひくいきや」。この句、句意が摑めぬ。識者の御教授を乞う。ただ、以下の其角の「重労の床にうち臥シ」「息もさだまらず、この願のみちぬべき程には其身いかゞあらんなど気づかひける」という謂い、三十六の若さで亡くなっていることに「引く息」をゼイゼイとする、病的な吸気の様子ととるならば、彼は或いは重度の喘息か、労咳、結核だったのではあるまいか? そうすると、この一句、凄絶なワン・ショットとして私の胸を撲つのであるが。]

   見かよひし人の追善に

 あのやうにかづきを著たか卒都婆の雪 同

の如きものがある。蕉門に入ったのは何時(いつ)頃かわからぬが、混沌たる過渡期を経た一人であることは、ほぼこの句によって察することが出来る。蕉門に入ったといっても、芭蕉に親炙(しんしゃ)する機会もなく、ただ「此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍し」という程度だったのであろう。

 芭蕉が生前相見るの機を得なかった一笑に対し、「塚も動け」というような強い言葉を以て哀悼の情を表したのは、長途の旅次親しくその墓を掃ったためではあるが、芭蕉をしてかく叫ばしめた所以のものは、おおよそ二つあるように思う。其角が『雑談集』に記すところは左の通りである。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに、年有て重労の床にうち臥シければ、命のきはもおもひとりたるに、父の十三回にあたりて歌仙の俳諧を十三巻、孝養にとて思ひ立けるを、人々とゞめて息もさだまらず、この願のみちぬべき程には其身いかゞあらんなど気づかひけるに、死スとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば早筆とるもかなはず成にけるを、呼(かたいき)に成ても[やぶちゃん注:「なりても」。]猶やまず、八巻ことなく満ン足して、これを我肌にかけてこそ、さらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて

 心から雪うつくしや西の雲      一笑

  臨終正念と聞えけり。翌年の秋翁も越の白根をはるかにへてノ松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし。

 

 芭蕉が「奥の細道」の長途に上ることは、恐らく前々からの計画で、帰りに北陸に遊ぶこともほぼ予定されていたのであろう。金沢の一笑はこの消息を耳にして、胸の躍るを禁じ得なかったに相違ない。「お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに」という一事を以ても、如何にその情の切だったかがわかる。しかるに一笑はその後病牀に呻吟(しんぎん)する身となり、芭蕉が江戸を発足する前年、元禄元年十一月六日に、三十六歳を一期(いちご)としてこの世を去ってしまった。もう一年早かったら、親しく語るべかりし未見の弟子の墓を、芭蕉は来り弔ったのである。一たび芭蕉に見(まみ)えむと欲して、その志を果さなかった諸国の門葉(もんよう)は、固より少からぬことと思うが、一笑の場合は当然相見るべき順序であり、両方そのつもりでいたにかかわらず、師の筇(つえ)を曳くのを待ちかねて、年若な弟子の方が先ず歿したのであるから、芭蕉も塚に対して愴然(そうぜん)たらざるを得なかったであろう。「塚も動け」の一句には慥(たしか)に芭蕉のこういう情が籠っている。

 第二は俳諧に対する執著である。これも単なる数寄でなく、亡父十三回忌の孝養という意味も大に考慮しなければならぬが、重苦の病牀に十三巻の俳諧を成就せんとして、片息になってもなお棄てず、漸く八巻だけ満尾(まんび)し、これを肌に掛けて死ねば何の思い残すところもない、といったあたり、百世の下、人を打たずんば已まぬ槪(がい)がある。芭蕉も難波に客死するに当り、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の一句を得、「はた生死の転変を前におきながら発句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠めて年もやゝ半百に過ぎたれば、いねては朝雲烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へる、たゞちに今の身の上に覚え侍るなり」と語ったと『笈日記』は伝えている。自ら「此一筋に繋る」と称した俳諧をさえ、竟に妄執と観ぜざるを得なかった芭蕉は、俳諧に執する一笑の最期をどう見たか。

[やぶちゃん注:各務支考の「笈日記」のそれは、私の抜萃「前後日記」(PDF縦書版)の十月八日の条を読まれたい。

「満尾」連歌や連句等の一巻を完了すること。

「槪」ここは自分の意志を貫いて困難に負けないことの意。]

 

 「心から雪うつくしや西の雲」という一笑の辞世には勿論西方浄土の意を寓しているが、それは真の安心であったか、あるいは妄執の然らしむるところであったか、芭蕉には自ら一箇の見解がなければならぬ。いずれにしても「塚も動け」の一句は、この俳諧の殉教者にとって、何者にもまさる供養であったことと思われる。

 『奥の細道』の文と句とは一笑を天下に伝えることになった。一笑の名は生前においてさのみ人の知るところとならず、その句も多くは歿後の俳書に散見するものの如くであるが、特に注目すべきものは元禄四年刊の『西の雲』である。この書はその題名によって知らるる通り、一笑追善のために編まれたもので、水傍蓮子の序がその由来を悉(つく)しているから、左にこれを引用して置こう。

[やぶちゃん注:「西の雲」は「石川県立図書館」公式サイト内の、こちらで上巻が、こちらで下巻(写本)が総て画像で読める。

「水傍蓮子」不詳。如何にもなペン・ネームではある。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

なき跡の名残は有か中に[やぶちゃん注:「あるがなかに」。]、書捨し筆のまたなくあはれを、見ぬ遠方の人に伝へもて行、句のよしあしは好々に[やぶちゃん注:「よくよくに」。]うなつきあふて、とるもすつるも此道の情ならすや。されは笑子の風吟、四季哀傷のこまやかなるを、都鄙の撰者の梓に刻み、世にひろめらるゝも多し。尚好士の佳句を求めえては、又みつからの折にふれおかし[やぶちゃん注:ママ。]とおもふ、しけきをはふきて百句、身の後のかた見にもならんかしと念シし時[やぶちゃん注:「ねんじしとき」。]、病にふし志を果さす、余生猶頼みかたくやありけん。

 辞世 心から雪うつくしや西の雲

行年三十六、元禄初辰霜月六日かしけたる沙[やぶちゃん注:「かしげたるすな」。]草の塚に身は先立て消ぬ。聞人あはれかりて泣クめる。明ケの秋風羅の翁行脚の次手(ついで)に訪ひ来ます。ぬしは去(い)にし冬世をはやうすと語る。あはれ年月我を待しとなん。生(いき)て世にいまさは、越の月をも共に見はやとは何おもひけんと、なくなく墓にまふて追善の句をなし、廻向の袖しほり給へり。遠近の人つとひ来り、席をならし、各追悼廿余句終りぬ。且巻くをよりよりに寄す。兄(このかみ)ノ松あなかちになけきて此集をつゝり、なき人の本意に手向るならし。

 

 「風羅の翁」は芭蕉である。この文章で見ると、一笑の訃報は芭蕉の許に到らなかったものらしい。金沢に一笑と相見ることを予期して、遥々北陸の旅を続けて来たとすれば、「あはれ年月我を待しとなん。生て世にいまさば越の月をも共に見ばやとは何おもひけん」という歎きも尤もであり、「塚も動け」という叫びも一層切実になるわけである。

 一笑の墓に詣でた時は、随行の曾良も一緒であった。

   供して詣でけるに、やさしき竹の
   墓のしるしとてなびき添たるも
   あはれまさりぬ

 玉よそふ墓のかざしや竹の露     曾良

 この墓の竹については一笑の兄のノ松にも句がある。

   しるしの竹人の折とり侍りしを
   植添て

 折人は去て泣らん竹のつゆ      ノ松

 しるしに植えた竹を誰かが折ったため、あとからまた植添えたというようなことがあったらしい。一笑墓前の句は芭蕉の「塚も動け」に圧倒されて、他は一向聞えておらぬが、この竹の二句は、墓畔の様子を多少伝えている点で面白いと思う。

 追悼の句は芭蕉、曾良のを併せて三十句近くある。すべて秋の句ばかりなのは、芭蕉の来過を機としたというよりも、たまたま孟蘭盆に当っていたためであろう。

 盆なりとむしりける哉塚の草    桑門句空

 槿やはさみ揃て手向ぐさ      秋之坊

[やぶちゃん注:「槿」は「あさがほ」。「揃て」は「そろへて」。「手向ぐさ」は「たむけぐさ」で一語。]

 いたましや木槿あやなす塚の垣   牧 童

[やぶちゃん注:「木槿」は「むくげ」。]

 秋風や掃除御坊を先にたて     遠 里

 夕顔をひとつ残して手向けり    ノ松嫡子松水

等の如く、実際墓参の時の句らしいものも幾つかまじっている。松水の句は肉親の甥の作である点が特に注目に値する。(其角が『雑談集[やぶちゃん注:「ぞうだんしゅう」。]』に引いた一笑追悼の句は、『西の雲』から抜萃したものと思っていたが、必ずしもそうでない。牧童(ぼくどう)、乙州(おとくに)の句は全然異っている上に、「つれ泣に鳴て果すや秋の蟬」という雲口の句も、「つれ啼に我は泣すや蟬のから」となっている。『西の雲』以外に一笑追悼句があったのかも知れぬが、何に拠ったものかわからない)

[やぶちゃん注:「句空」(生没年不詳)は加賀金沢の人。正徳二(一七一二)年刊行の「布ゆかた」の序に、当時六十五、六歳とあるのが、最後でこの年以後、消息は不明。元禄元(一六八八)年(四十一、二歳か)京都の知恩院で剃髪し、金沢卯辰山の麓に隠棲した。同二年、芭蕉が「奥の細道」の旅で金沢を訪れた際に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部もの選集を刊行しているが、俳壇的野心は全くなかった。芭蕉に対する敬愛の念は深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「秋之坊」(生没年未詳)金沢蕉門。やはり「奥の細道」での金沢にて、現地で入門した。加賀藩士であったが、後に武士を捨てて、剃髪、「秋之坊」と称して隠棲した。

「牧童」立花牧童(生没年未詳)も金沢蕉門で入門も前に同じい。研屋彦三郎の名乗りで判る通り、刀研ぎを生業(なりわい)として加賀藩御用を勤めた。蕉門十哲の一人立花北枝は牧童の弟である。

「遠里」不詳。

「雑談集」其角著。元禄五(一九九二)年刊。

「乙州」川井乙州(生没年未詳)。姓は「河合」とも。近江蕉門。姉の智月、妻の荷月も、ともに芭蕉の弟子であった。芭蕉の遺稿「笈の小文」を編集・出版した人物でもある。

「雲口」小野雲口。金沢蕉門。町人。「奥の細道曾良随行日記」に登場しており、案内する場所が商業拠点であるところを見ると、商人の可能性が高い。]

 

 『西の雲』は上下二巻に分れており、下巻は普通の撰集と別に変ったところもないが、上巻には前記の追悼句をはじめ、一笑の遺句百句(実際は百四句ある)その他を収めている。彼が最後まで心血を注いだという俳諧八巻はどうなったか、一笑の加わった俳諧は一つも見えず、またそれについて何も記されていない。以下少しく『西の雲』その他の俳書について、一笑の世に遺した句を点検して見ようかと思う。

 

金玉ねぢぶくさ卷之二 靈鬼(れいき)人を喰らふ /金玉ねぢぶくさ卷之二~了

 

   靈鬼(れいき)人を喰らふ

 高野山は三國ぶさうのめい山にて、山の像(かたち)八葉(よう)に闢(ひら)け、八つの峯、峙(そばだ)ち、寺は都卒(とそつ)の内院を表(へう)して、四十九院を、うつせり。大師、慈尊(じそん)の出世(しゆつ〔せい〕)を待〔まち〕て、奧院(おくのいん)に入場したまひ、佛法不退轉の靈地なり。僧侶三派(は)有〔あり〕て、「學侶」・「行人(げうにん)」・「聖(ひじり)」となづけ、大衆(〔だい〕しゆ)三段に分〔わか〕ち、上通・中通・下通とし、上に三つの靈峯あり。ようりう山(さん)・魔尼(まに)山・天岳(てんぢく)山といふ。是九品(ほん)の淨刹(じやうせつ)を學ぶ。世の淸悟發明の道人、皆、淨地(ぜう〔ち〕)を求めて此山に住山(ぢうせん)す。

[やぶちゃん注:「ぶさう」「無双」。

「めい山」「名山」。

「八葉(よう)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「えふ」が正しい。

「八つの峯」今来峰(いまきみね)・宝珠峰(ほうしゅみね)・鉢伏山(はちぶせやま)・弁天岳(べんてんだけ)・姑射山(こやさん)・転軸山(てんじくさん)・楊柳山(ようりゅうさん)・摩尼山(まにさん)と呼ばれる八つの峰(最後の三つを高野三山と呼ぶ)。標高は孰れも千メートル前後。

「都卒」兜卒(率)天。のこと。欲界の六欲天の第四天で、須彌山の頂上二十四万由旬の高所にある天で、歓楽に満たされており、天寿四千歳で、この天の一昼夜は人界の四百年に当たるという。現在は彌勒菩薩が説法をして修行している場所とされる。

「内院」兜率天には七宝の宮殿があって、無量の諸天が住しているが、これには内外の二院があり、外院は天衆の欲楽処にして、内院は弥勒菩薩の修行道場とする。弥勒は釈迦が亡くなって五十六億七千万年後、初めて如来となって総ての衆生を救いに来る(これが本文に出る「出世」)とされる。

「大師」弘法大師空海。

「慈尊」弥勒菩薩の別名。

「奧院」ここに現在も空海は生きて弥勒の下生(げしょう)を待っているとされる。

「學侶」以下、三つの集団を「高野三方(こうやさんかた)」と呼ぶ。平安時代から江戸時代まで高野山を構成した、職能の異なる三派の総称である。学侶方は密教に関する学問の研究及び祈禱を行った集団で代表寺院は青巌寺であった。

「行人(げうにん)」ルビはママ。「ぎやうにん」が正しい。行人方(ぎょうにんかた)は寺院の管理や法会に於ける進行・運営といった実務を行った集団で、僧兵としての役割も重要な職掌で、実行行動の中核を担った。代表寺院は興山寺であった。

「聖(ひじり)」聖方(ひじりかた)は全国を行脚して高野山に対する信仰・勧進を行った集団で、同時に高野山への納骨や納髪・納爪を勧めた。彼らの全国に亙った勧進行脚が各地に伝わる空海による治水・開湯・開山の伝説を生む重要なファクターとなった。代表寺院は大徳院であった(以上の三項は主にウィキの「高野三方」に拠った)。

「大衆」大寺の僧侶集団を大衆(だいしゅ)と呼び、その成員の一人一人を「大衆の徒」という意味で「衆徒」と呼ぶ。

「上通・中通・下通」「三段」に分〔わか〕ち、九品九生(くぼんくじょう)の上・中・下品に合わせたもので、段といっても階級区別というわけではないように思われる。浄土に行くにしてもそれぞれの様態に諸因果によって区別があるようなもので、実際には恐らく修行の程度や修法の理解・受得のレベルで分けられたものであろう(無論、それは結局は、差別的階級化を引き起こすものとは思うが)。森本一彦氏の論文「前近代における僧侶の移動――金剛峯寺諸院家析負輯を中心に――」(『比較家族史研究』・第三十一号・二〇〇七年三月発行・PDF)の「3 高野山の人口」の中に、『行人方について、上通寺院には衆監が6名、集議24名、中下通寺院は中臈250名がいると記されているが、これは各寺院の住職クラスの上層僧侶であると考えられる。それ以外に、大衆500名、非衆僧50名、児小姓侍奴僕300名ほどがいると記されており、行人方だけで1,130名はいたことになる。行人方寺院以外の寺院(学侶方寺院、聖方寺院など)が551か寺あるので、少なくとも2,000名はいたのではないかと考えられる。それに行人方にかかわる商家が300軒あったとする。商家1軒に5名とすれば、商人1,500名が住んでいたと考えられる。以上のように、寺院関係者が3,000名と商人が1,500名ほどであることから、天保年間には高野山全体で4,500名〜5,000名は居住していたのではないかと考えられる』(以上のデータは天保一〇(一八三九)年の「紀伊續風土記」(同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成したものである)の「高野山之部」の「總分方卷之二 總論」に拠るもの)とある。総人口もさることながら、『中下通寺院』併称しているのは、画然たる階級分化がないことを意味しているように思われる。

「ようりう山(さん)」先に注した楊柳山。

「魔尼(まに)山」「魔」はママ。同じく摩尼山。

「天岳(てんぢく)山」「岳」はママ。国書刊行会本も不審に思ったらしく、ルビの下にママ注記を附してある。同じく転軸山。当初、漫然と「天竺山」の誤りかなどと勝手に思っていたが、この「転軸」の方が密教っぽくて腑に落ちた。]

 

 中比、學侶下通の寺僧(じさう)、南藏院(なんざういん)の深覺房(じんかく〔ばう〕)とかや申せしは、さのみ、螢雪の功をつみたる學者にもあらねど、たゞしぜんと心法〔しんぱふ〕おさまり、人我(〔じん〕が)を離れたる道人成りしが、ある時、くま野へ參詣のこゝろざしおこり、もとより我寺はひん地(ち)なれば、一僕(〔いち〕ぼく)に留守を謂付置(いひ〔つけ〕おい)て、三衣〔さんえ〕ぶくろに道のもうけをおさめ、たゞ一人、寺を立出〔たちいで〕つゝ、熊埜の方へおもむかれしに、其日は、はやく宿を求めて、一夜を民屋のかりねに明〔あか〕し、翌日は、こゝろしづかに日出て、宿を立〔たち〕、とまりさだめず、急ぐべき道にもあらねば、たゞ足にまかせて行〔ゆき〕侍りしに、此〔この〕近年こそ、久しく天下泰平にして、野の末、山の奧まで、人の行かよはぬ所もなく、おのづから、道もひらけ、いつとなく、人家立〔たち〕つゞきて、山路にふみ迷(まよ)ふべきちまたもなく、狐狼・惡獸のおそれもあらねど、そのころは、いまだ兵亂(へうらん)ののち、久しからずして、端々〔はしばし〕には、盜賊、はいくわいし、殊に高野より、くま野への道は、其間〔そのあひだ〕、山坂のみにして、田畠(〔た〕はた)すくなし。農民の栖(すみか)もまれに、徃來(わうらい)なければ、人をとゞむるはたごやも、なし。日、既に山の端(は)に入〔いり〕ぬれど、行先に人家も見へず、過來(〔すぎ〕こ)し跡の村里は、遠し。

 

Reiki1

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」の挿絵(一幅独立)をトリミングした。後も同じである。奥に本文には実見されない獣(恐らくは狼)が描かれてある。]

 

「いかゞはせん。」

と、あんじ煩(わづら)ひしが、

「よしや。沙門の身は、かゝる所に、こゝろをとゞめぬこそ、修行なれ。」

とて、道の邊〔べ〕の木の根をまくらとし、三衣ぶくろをおろして、暫く、まどみしが、山あいのあらし、はげしく身にしみ、こゝろぼそく覺へて、ねられぬまゝに、

「かゝる山中には、たけき獸(けだもの)ありて、若(もし)こよひ、我を喰(くら)ひなば、ふせぐべきたよりなふして、終(つい)にくひころされぬべし。今少〔いますこし〕、先に、やどをもとむべき人家もや、あらんか。」

と、又、おきて、袋を首にかけ、たどりつゝ行〔ゆけ〕ば、折ふし、九月末つかた、月なき夜の足もとは、くらし、道は、せまふして、巖(いわほ)そば立〔だち〕、雨になだれて、木の根あらはれ、ゆんでの方は峨々たる峯、そびへ、めては數(す)千丈、ふか谷底〔だにぞこ〕と見へて、流るゝ水の音、かすかにきこへたり。

[やぶちゃん注:「中頃」現在時制よりそう遠くない昔を指す時に用いる語である。

「南藏院」ブロンズ製の世界最大級の寝釈迦「釈迦涅槃像」で知られる、現在は高野山別格総本山として福岡県糟屋郡篠栗町(ささぐりまち)大字篠栗にある篠栗四国総本寺南蔵院(グーグル・マップ・データ)は、元は高野山にあった。天保六(一八三五)年に開かれた篠栗四国霊場が、明治時代の廃仏毀釈の煽りを受けて、霊場廃止命令が下ったが、地元の信者らが存続の陳情や嘆願を三十年に亙って続けた結果、明治三二(一八九九)年になって高野山の千手谷(現在の「千手院谷」の付近か。グーグル・マップ・データ)にあった南蔵院を招致することが許され、総ての旧札所を南蔵院の境内地とすることで、霊場の存続が認められたのであった。

「深覺房」不詳。この坊名は人気があり、平安中期の僧で歌人の藤原師輔の子や、安土桃山時代の真言僧木食応其(もくじきおうご)らが名乗っている。

「しぜんと」自発の意。

「心法」心や精神を修練する法。

「おさまり」ママ。習得し。

「人我」僧として捨てるべき凡夫に我欲。

「ひん地」「品地」か。下通の僧として与えられた品格を持った境内地の謂いか。

「三衣ぶくろ」三衣(既出既注)や、タブの途中の身の回りの必需品(「道のもうけ」(表記はママ))を入れた旅行用の頭陀袋(ずだぶくろ)。最初の挿絵の横になった深覚の背後に見えるのがそれで、頭を載せているのは坐禅などに用いる座蒲(ざぶ)か。但し、彼は真言宗なので(座蒲は主に禅宗で用いる)、或いは頭陀袋から三衣を包んだ包みを出して枕替わりにしていたものかも知れない。

「そのころは、いまだ兵亂(へうらん)ののち、久しからずして」時制は江戸のごく初期という設定か。

「はいくわい」「徘徊」。

「見へず」ママ。

「こゝろをとゞめぬ」気にしない。

「まどみしが」ママ。「江戸文庫」版も同じ。「まどろみしが」の脱字であろう。

、山あいのあらしはげしく身にしみ、こゝろぼそく覺へて、ねられぬまゝに、

「なふして」ママ。「なくして」。

「終(つい)に」ルビはママ。

「せまふして」ママ。「狹く(→う)して」。

「ゆんで」「弓手」。左手。

「めて」「矢手・馬手」。右手。

「ふか谷底」で一語「深谷底」ととった。

「きこへ」ママ。]

 

 やうやう、二時〔ふたとき〕ばかりして、峠と覺しき所へ出〔いで〕たれば、矢手(め〔て〕)のかた、四丁斗〔ばかり〕が程に、かすかにとぼし火の影、見ゆ。

『さればこそ、人家はあるなれ。』

と、嬉(うれ)しくおもひ、彼〔かの〕火を目當(〔め〕あて)に、谷へおり、峯にのぼり、道もなき、茨〔いばら〕・さゝ原を分(わけ)て、彼〔かの〕所に至り見れば、住(すみ)あらしたる一つ家(や)の、軒〔のき〕かたぶき、扉(とぼそ)やぶれて、とぼし火の影さへもるにてぞ有ける。

 深覺、戶をたゝきて、

「くま野道者(〔だう〕じや)、日に行〔ゆき〕くれ、宿を求(もとめ)かねて、火の影を目當にたづね來れり。一夜をあかさせて給はり候へかし。」

と申せば、内より、あるじ、不審(しん)を立〔たて〕、

「此山中に、人間のたづね來〔きた〕るべき道、なし。殊に、月なき夜の暗(くら)き闇路(やみぢ)をしのぎ來たるものは、さだめて、鬼神變化(きじんへんげ)のたぐいにてあるらん。然らば、目に物、見せん。」

とて、鐵炮(てつぱう)に、二つ、玉こみ、火繩さしはさみ、火ぶたを切〔きつ〕て待〔まち〕かけたり。

 深覺(じんかく)、

「まつたく、さやうの者にてなし。高野ぼうしの、くま野へさんけいすとて、日に行〔ゆき〕くれ、道を失ひ、燈(とぼしび)の影を便〔たより〕に、是〔これ〕まで、まよひ來れる。」

次第、ありのまゝに語れば、あるじ、

「さては。さやうにましますか。さぞ、つかれおはすらん、見ぐるしながら、御宿まいらせ度〔たく〕侍れども、こよひは我家に亡者あつて、くま野道者は火の踏合(ふみあい)憚(はゞかり)あり、まへなる古家(こや)に休(やす)みおはしませ。」

とて、則(すなはち)、戶をあけ、莚(むしろ)・こも、取出〔とりいだ〕し、

「是成〔これなり〕とも、夜風をふせぐ便〔たより〕にしたまへ。」

とて、あたへければ、深覺、申されけるは、

「かゝる折ふし、出家の此所へたづね來〔きた〕るは、さだめて過世(すぐ〔せ〕)の結緣(けちゑん)にてぞおはすらん。權現(ごんげん)へ、火の不淨は、くるしからず。一夜〔ひとよ〕の宿をかし、もうじやへのつい善にしたまへ。」

と申せば、あるじ、悦び、内へ、いざなひ入〔いれ〕て、

「誠(まこと)に、今宵はふしぎのちぐうなり。我身は此山中に住〔すみ〕、不斷、鹿(しゝ)・さるを取〔とり〕て、世を渡るわざとする身さへ、かやうのくらき夜は、山路を遠慮し侍りぬ。殊に、あないもしろしめされぬ御僧(〔おん〕そう)の、道にまよひて來り給ふは、さりぬべき、えにしこそ。」

とて、さまざま、もてなし、さて其うへにて語りけるは、

「今宵のもうじやは、我ために妻(つま)にて侍りしもの。古歲(こぞ)の初秋(はつ〔あき〕)のころより、こゝち、わづらひ、初(はじめ)の程は、さのみ、打ふしてなやむ程にも侍らざりしが、日數ふるにしたがひ、おもり行〔ゆき〕けれども、かゝる深山(みやま)の鄙(ひな)の住居(すまひ)、たのむべきいしやとてもなく、あたゆべき藥もなければ、たゞ其まゝに打捨(〔うち〕すて)おきしより、次第に食(しよく)もくらはず、形(かた)ち、おとろへて、過〔すぎ〕し夏のころより、殊外〔ことのほか〕、病ひ、おもり、今はの極(きわ)とて親子兄弟よび集めし事、たびだびに及べり。此二、三日いぜんにも、正氣(〔しやう〕き)とり失ひ、今を限りと見へしかば、一門・親族、集りて、既に末期(まつご)の水まであたへしかども、定業(でうごう)ならざるにや、又、性根(しやうね)つき、此ごろは、結句、食もすゝみ、心地も凉しく見へしかば、親るいもあんどして、きのふ、みなみな、返りぬ。

 しかるに、今宵、終に、しやばの緣つきて、かく相果(あいはて)申〔まうす〕うへは歎くべきにあらず。

 然〔しかれ〕ども、此方〔こなた〕より、しらせざる内は、親類も、とひ來〔きた〕るべからず。是より一里ばかり麓の在所(ざい〔しよ〕)に、親兄弟、皆、住〔すみ〕侍り。何とぞ、こよひの内に告(つげ)しらせ度〔たく〕さふらへば、我〔われ〕、かしこに行〔ゆき〕て歸らん程、留守し給はれかし。」

と申せば、

「それこそ、いとやすき間〔ま〕の御事、さうさう告(つげ)來りたまへ。」

 あるじ、悦び、火なわに火をつけ、鐵炮、うちかたげて、出行〔いでゆき〕ぬ。

[やぶちゃん注:「二時」四時間。ここまで経緯から考えて、夜半をとうに過ぎている。所謂、怪異出来の丑三つ時に近かろう。

「四丁」約四百三十六メートル。

「たぐい」ママ。「たぐひ」が正しい。

「くま野道者は火の踏合(ふみあい)憚(はゞかり)あり」よく判らぬが、神道や仏教と集合した修験道では、神聖にして清浄なる火に対する、不浄なる火の厳然たる禁忌があって、その火にあたる(「踏合」はそうした喩えであろう)こと自体を忌むのであろう。しかも、この屋の主人は殺生をこととする猟師であり、しかも妻の遺体がその傍にあるという、ハイブリッドな不浄の時空間であって、そこにある火はまさに不浄極まりないものと賤しい猟師自身でさえも慮ったのであると考える。Kousyou氏のブログ「Call of History ―歴史の呼び声―」の「火と穢(ケガレ)」にある、『火を起こす行為そのものに罪やケガレがあるわけではないが、『不浄なものを焼いた火、あるいは不浄な場所にあったり不浄な人間の触れた火は、逆に不浄な存在へと変わる』(山本「穢と大祓」P76)という。神事の火を隔離する、葬家の火を忌む、出産前後の妊産婦は別邸で食事の煮炊きする、などの別火の風習や、他者と同じ火で煮炊きしたものを食べる合火という行為を穢れた状態にあるとされる人と行ったことで穢れが伝染するとされる風習などがあった』とあるのが証左となろう。

「結緣(けちゑん)」ルビはママ。「けちえん」でよい。

「權現」熊野権現。

「もうじや」ママ。「亡者」の歴史的仮名遣は「まうじや」が正しい。以下総て同じ。

「ふしぎのちぐう」「不思議の知遇」。

「しろしめされぬ」ご存知でない。

「えにし」「緣(えにし)」。

「古歲(こぞ)」去年(こぞ)に同じい。

「過〔すぎ〕し夏のころ」先に深覚が熊野参詣に旅立ったのを「九月末つかた」とあったから、既に今は新暦では十月下旬か、十一月上旬辺りで初冬の時期となろう。

「相果(あいはて)」ルビはママ。

「火なわ」ママ。]

 

 扨(さて)、深覺房、勝手(かつて)を見れば、下女(げぢよ)とおぼしきもの、乳(ち)ぶさの子をいだきて、かまどのまへに、ふしぬ。亡者は納戶(なんど)の角(すみ)に、前にむしろにてあめる二枚屛風を引廻(〔ひき〕まは)し、其上に、とぼし火、ほそく、かゝげたり。

「さなきだに、女(め)は、五障三從(〔ご〕しやう〔さん〕じう)の罪、ふかし。況(いはんや)、かゝる深山の奧に住〔すん〕で、つねに佛〔ほとけ〕とも法(ほう)とも聞(きく)事なければ、一しほ、ぐちの闇ふかく、殊に、つれそひし妻は、せつしやうを營んで渡世とする。邪見の家にかまどを經て、さぞや、ざいしやうも深く、未來は無間奈利(むけんないり)の底にや、しづみぬらん。」

と不便(〔ふ〕びん)にて、「光明眞言(くわうめうしんごん)」・「寶鏡印陀羅尼(ほうけうゐんだらに)」など、どくじゆして、亡者にたむけ、側(そば)なる中敷居(〔なか〕しきい)をまくらにさゝへ、暫く、まどろみければ、何やらん、物の鳴(なる)音に目をさまし、其邊り、見まはせば、彼(かの)むしろ屛風にかけたる手拭(〔て〕ぬぐい)を、あなたより引〔ひく〕ていにぞ、見へける。

 然〔しかれ〕ども、心法、おさまりて、終に、一生、物に動じたる事なく、おそろしいといふ事をしらぬほうしなれば、枕も、もたげず、

『さだめて、鼠などのくはへて引〔ひく〕ならん。』

と思ひ居(い)たりしに、終に、あなたへ引落しければ、いかさま、不審はれず。

 立〔たち〕て、やうすを見れば、なわ、切れて、くわんのふた、あき、もうじやのからだ、眼(まなこ)をひらき、やせおとろへたる㒵(かほ)、額(ひたい)に角〔つの〕立〔たて〕、口をあけ、齒をあらはし、誠に物すざまじきありさま、もし、外の人、是を見ば、たへ入〔いり〕ぬべき程なり。

[やぶちゃん注:「乳(ち)ぶさの子」乳飲み子。

「納戶」本来は衣服・調度品などを収納する部屋で、中世以降、屋内の物置部屋を指したが、寝室・産室にも用いた。ここは山賤(やまがつ)の家なれば、広義の寝室の謂いであろう。挿絵でも独立した納戸部屋は描かれていない。

「あめる」「編める」。

「二枚屛風」挿絵参照。

「さなきだに」そうでなくてさえ。

「女(め)は、五障三從(〔ご〕しやう〔さん〕じう)の罪、ふかし」「五障三從」読みは「ごしやうさんじゆう」でよい。これはweb版「新纂 浄土宗大辞典」のこちらによれば、『仏教が展開するなかで現れた、女性観を示す語。五障は女性の資質や能力上、女性には達成できないと主張される五つの事柄のことで、梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏にはなれないことを指し、『中阿含経』二八所収の『瞿曇弥(くどんみ)経』、『増一阿含経』三八、『五分律』二九、『法華経』提婆達多品などに見られる。三従は、『超日明三昧経』下に「少くは父母に制せらる。出でて嫁ぐは夫に制せらる。自由を得ず。長大なるは子に難ぜらる」(正蔵一五・五四一中)と論じるように、女性の生涯を年少・結婚後・年を重ねた後の三期に区分した上で、女性は生涯にわたり』、『家族内にあって従属的であるとすることを指す。これらの女性観は、バラモン教に基づく『マヌ法典』の所説にみられる、人間は生まれつき女性より男性のほうが資質や能力に優れ、女性は男性に従属するものという古代インドの人間観や当時のインド社会の実情が影響したものと考えられる。その一方で』、『釈尊は女性の出家を認め、さらには仏教が目指す境地の達成は「生まれ」によって左右されるものではなく「行為」によることを説いている(『スッタニパータ』一三六、六五〇)。法然は、「念仏で往生がかなうとは聞いているが、(阿弥陀仏は)自分のような五障の身をもお見捨てにならないということであるなら、詳しく教えてほしい」(趣意)との問いに対し、(阿弥陀仏は)臨終の時諸の聖衆とともに来たりて必ず迎接したまう故に悪業として障』(さはり)『うるものなく、魔縁として妨ぐる事なし。男女貴賤を簡えらばず、善人悪人をも分たず、心を至して弥陀を念ずるに生まれずという事なし」(『十二箇条問答』聖典四・四三九~四〇)と答え、選択本願念仏によるところの極楽往生は、男女をはじめ、念仏を申す機の如何に左右されることはないと明示している。なお三従は、『礼記』など儒教においても説かれる』とある。仏教では長い間、「変生男子(へんじょうなんし)説」が広く信じられ、女性は如何なる修行や布施を行っても、一度、男に生まれ変わらなければ、極楽往生は出来ないという女性差別が蔓延していた。

「法(ほう)」ルビはママ。仏の教えたる真の「正法(しやうぼふ)」。

「ぐち」「愚痴」。仏語。愚かなこと。無知によって惑わされ、総ての事象に関して、その真理を見ることが出来ない愚かな心の状態を指す。

「かまどを經て」「竈を經て」。殺生の夫に従って生活してきて。

「ざいしやう」「罪障」。

「無間奈利(むけんないり)」無間地獄。「奈利」は「地獄」の漢訳の別称。「地獄」は元来はサンスクリットの「ナラカ」「ニラヤ」の訳で、「地下にある牢獄」を意味し、それを漢音写して「奈落」「泥犂(ないり)」などと訳した。

「光明眞言(くわうめうしんごん)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「くわうみやうしんごん」が正しい。密教で用いる真言の一つで、正しくは「不空大灌頂光眞言」(現代仮名遣「ふくうだいかんぢょうこうしんごん」。これを唱えると、一切の罪障が除かれ、福徳が得られるという。

「寶鏡印陀羅尼(ほうけうゐんだらに)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「ほうきやういんだらに」が正しい。但し、正しくは「寶篋印陀羅尼」で、正確には「一切如來心祕密全身舍利寶篋印陀羅尼經」で、「全ての如来の教えの真髄を記した呪文」といったような意である。因みに宝篋印塔とは、本来は、この経を納めた供養塔の謂いである。

「どくじゆ」「讀誦」。

「中敷居(〔なか〕しきい)」ルビはママ。「しきい」は「しきゐ」が正しい。ここは絵にある二枚屏風のことを指す。

「手拭(〔て〕ぬぐい)」ルビはママ。「ぬぐひ」でなくてはおかしい。

「引〔ひく〕てい」「引く體(てい)」。引き込もうとする様子。

「見へける」ママ。「見えける」でよい。

「おそろしい」ママ。当時、既に口語表現でこうも書いたことが判る。

「なわ」ママ。「繩(なは)」。立棺桶の蓋を結んでいた繩。

「たへ入〔いり〕ぬべき」ママ。「絕え入りぬべき」。気絶・卒倒してしまうであろう。]

 


Reiki2

 [やぶちゃん注:こちらは、一部、汚損と判断される箇所を清拭した。]

 

 然〔しか〕れども、深覺、一念も動ぜず、業障(ごうしやう)に引〔ひか〕れて、臨終にさまざまの惡さうをあらはすは、よのつねなれば、平生(〔へい〕ぜい)、此者の造罪(ざうざい)の程を、おもひやり、一しほ、不便にて、しばらく、經をよみ、廻向〔えかう〕して、眼(まなこ)をなでふさげ、棺のふたをし、又、枕をさゝへ、まどろみしに、宵に、しらぬ山路をふみ、迷ひし勞(つか)れ出〔いで〕てや、おぼへず、ね入〔いり〕ける處に、勝手のかたと覺しくて、女の聲にて、

「わつ。」

と、さけびけるに、目をさまし、枕元を見れば、棺は、こけて、亡者は、なし。

『いか成〔なる〕わざならん。』

と、勝手(かつて)を見れば、彼〔かの〕もうじや、宵に、かまどのまへにふし居たる、下女と、おさな子との首を、喰切(くい〔きり〕)、さゆうの手に引さげ、口より下は朱(あけ)に染つて、また、深覺に、つかみかゝる。

 深覺、彼〔かの〕屏風を以て、

「迷悟三界城悟故十方空本來無東西何處有南北(めいご〔さんがい〕じやうごご〔じつはう〕くう〔ほんらい〕む〔とうざい〕がしよう〔なんぼく〕)。」

と、二つ、三つ、續(つゞけ)て討〔うち〕ければ、もうじやのからだ、忽(たちまち)、あつ鬼(き)さつて、たおれ、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「惡さう」「惡相」。

「おぼへず」ママ。「おぼえず」でよい。

「こけて」ひっくり返って。

「さゆう」ママ。歴史的仮名遣は「さいう」。

「屏風を以て」屏風を警策代わりにしたのである。

「迷悟三界城悟故十方空本來無東西何處有南北(めいご〔さんがい〕じやうごご〔じつぱう〕くう〔ほんらい〕む〔とうざい〕がしよう〔なんぼく〕)」これは江戸時代の臨済宗妙心寺派の学僧無著道忠(むじゃくどうちゅう 承応二(一六五三)年~ 延享元(一七四五)年:俗姓は熊田氏。但馬国(兵庫県)出身)の作った偈。

   *

 迷故三界城

 悟故十方空

 本來無東西

 何處有南北

  迷ふが故(ゆゑ)に 三界は城なり

  悟るが故に 十方は空なり

  本來 東西 無く

  何處(いづくん)ぞ 南北 有らんや

   *

特に訳す必要もあるまい。因みに、この偈は四国遍路の必須アイテムである菅笠に「同行二人」と「ユ」と発音する梵字(弥勒菩薩と弘法大師を表わすとされる)とともに書かれてあることで知られる。

「たおれ」ママ。「斃(たふ)れ」が正しい。]

 

 深覺、おそろしながら、二つの首とともに本〔もと〕の棺へおさめて、あるじの歸るを待居〔まちゐ〕ければ、しばらくあつて、戶を、あわたゞしく、たゝきぬ。うちより、

「誰(たそ)。」

と問〔とへ〕ば、てい主の聲にて、

「たゞ今、歸り侍りぬ。はやく、戶をあけて給はれ。」

と、聲、ふるひて、さけびぬ。深覺、

「さては。」

と、戶をあけて、

「自然(しぜん)、道にて、ふしぎの事にあひ給はずや。」

と問〔とひ〕れければ、てい主、申〔まうす〕やう、

「されば。われら獵師を家業として、一生、此山中に夜をあかし、月なき夜、猪(しゝ)・狼をおふて、いか成〔なる〕谷・峯に入〔いり〕ても、終に、おそろしき事を、しらず。然るに今宵、一〔いち〕もんどもの家を出〔いで〕て、半分、道歸りし比〔ころ〕より、頻(しきり)におそろしく覺へて、跡より、何やらん、物のおふ樣〔やう〕に思はれ、いまだ、ちりけ、元の寒さ、なをらず。」

と、顏は、なの葉のごとく、いろをうしなひ、冷あせをながして語りければ、深覺、

「成程。其(その)はづの事。内にも、留守の間〔ま〕に、ふしぎなる事、侍り。納戶へ行〔ゆき〕て、御身のつれ合(あい)、もうじやのありさまを、見たまへ。」

と、あれば、てい主、いよいよ恐れ、

「内には、如何やうの事か候や、語りきかせて給はれ。」

と、いへば、

「語るまでもなし。今、亡者のありさまを見て、やうすを、しられよ。」

と、無理に手を取〔とり〕て、なんどの内へ、つれ行〔ゆけ〕ば、聲をふるはせ、おそれわなゝき、

「ぜひともに、やうすを聞せて給はれ。さなきにおいては、我、もうじやを得〔え〕見る事、あたはじ。」

と、臥(ふし)まろびて、立〔たた〕ざりければ、深覺、申されけるは、

「もうじやは、數(す)年、御身の皆老同穴(かいらうどうけつ)の閨(ねや)の内に、撫摩懷抱(ぶまくわいほう)のちぎりをこめし恩愛(おんあい)の妻、其うへ、三密(〔さん〕みつ)淸淨の出家は、身外(しんげ)に被甲護身(ひかうごしん)の印明(いんめう)備(そなは)り、たとへ、剱(つるぎ)をふみ、火の中へ入〔いり〕ても、身に刀火(とうくわ)のおそれなく、胸に阿字(〔あ〕じ)の一刀(〔いつ〕とう)を具足して、生死(しやうじ)煩惱の大じやをだにも切れば、如何成(いかなる)鬼神(きじん)・惡鬼も三衣をおそれぬといふ事、なし。」

とて、衣の袖を覆ひ、手を取〔とり〕て引立〔ひつたて〕、もうじやのありさまを見せければ、ていしゆ、泪(なみだ)をながし、

「誠に、さんげには重罪も、めつするとかや。聖人(しやうにん)の御慈悲、一〔いつ〕に此罪業(〔ざい〕ごう)をたすけ給はれ。我、一念の邪淫に心みだれ、是成〔これなる〕下女を愛せしより、本妻の女、嫉妬の思ひに胸をこがし、明(あけ)くれ、ねたましくおもひし折ふし、ゐん果のなせる所、下女が腹に此子を※1※2(くわいにん)して、古歲(こぞ)の夏、ぶじに平(へい)さんせしゆへ、本さいのしんゐ、いよいよ盛(さかん)になり、飮食(いんしい)も喉(のど)に通らず、妬死(ねたみじに)に、今宵、りん終に及びしが、終に一念の惡鬼と成り、現(げん)に因果をあらはし侍りぬ。我、かゝるふしぎを見て、未來の程、おもひやられ、あさましく候也。[やぶちゃん注:「※1」=「月」+(「懐」-「忄」)。「※2」=「月」+(「妊」-「女」)。]

 是のみにかぎらず、一〔ひとつ〕、生物〔いきもの〕の命を取〔とり〕し殺生(せつしやう)のかずかず、惡業(あくごう)をおもへば、たかき事、五嶽に並び、罪障をかへり見れば、深き事、四瀆(〔し〕とく)に過〔すぎ〕たり。今、是を見て、後世〔ごぜ〕のおそれに身の、毛(け)、よだち、一念発起いたし候間〔さふらふあひだ〕、髮を剃〔そり〕、御弟子となされ、未來を助け給はれ。」

と、泪とともに歎(なげき)しかば、深覺も哀(あはれ)を催し、親族の來〔きた〕るを待〔まち〕て、右の趣(おもむき)を申〔まうし〕きかせ、師弟の契りをなし、くま埜よりの下向に、此道心を、ともなひ歸り、皆人、其故をとへども、語られず。

 此ほうし、つねに、師をたつとみ、一生、大せつに常隨(ぜうずい)給仕して、道心けんごに作善(さ〔ぜん〕)の功をつみしかば、「一念あみだ佛卽滅無量罪」の功力(くりき)によつて、さ程の重罪を消滅し、りん終には、めでたきわうじやうを、とげ侍りぬ。

 誠に佛種(〔ぶつ〕しゆ)は緣より生(しやう)ずるとかや、あり難かりける結焉(けちゑん)にぞおぼへ侍りぬ。

 

 

金玉ねぢぶくさ二之終

[やぶちゃん注:「おさめて」ママ。二人の遺体には、寝ているように、夜具などを掛けておいたものであろう。

「自然(しぜん)」副詞。ひょっとして。

「ちりけ元」「ちりけ」は「身柱」「天柱」と書き、これで「首筋の辺り」を指す。

「なをらず」ママ。「なほらず」が正しい。

「なの葉」菜っ葉。

のごとく、いろをうしなひ、冷あせをながして語りければ、深覺、

「つれ合(あい)」ルビはママ。「つれあひ」が正しい。

「得〔え〕見る事、あたはじ」この「得」は思わず当ててしまった誤りで、呼応の副詞「え」で不可能を表わすそれである。

と、臥(ふし)まろびて、立〔たた〕ざりければ、深覺、申されけるは、

「皆老同穴」夫婦が仲睦まじく、契りの固いこと。出典は「詩経」の「邶風」(はいふう)の「撃鼓」の「偕老」と、同じく「詩経」の「王風」の「大車」の「同穴」を続けて成句としたもの。「生きてはともに老い、死んでは同じ墓に葬られる」の意。

「撫摩懷抱(ぶまくわいほう)」「撫摩」は「なでさする。愛撫する。心をこめて世話をする。可愛がる」の意で、「懷抱」は「相手を懐(ふところ)に抱(いだ)くこと。抱擁」に同じい。

「三密(〔さん〕みつ)淸淨」主に密教で謂われるもので、「身密」・「口密」(くみつ)・「意密」の総称。仏の身体と言葉と心によって行われる三種の行為は不思議であることから「三密」と称される。また、衆生の身体・言葉・心によって行われる三種の行為も、その隠された本性に於いては仏の「三密」と同等であるとされる。ここはそれらの本来の在り方を体得したことを指す。

「身外(しんげ)」普通は「しんがい」。肉体の外側。

「被甲護身」邪気を完全にシャット・アウトするフルメタル・ジャケット。

「印明(いんめう)」ルビはママ。「いんみやう」が正しい。手に結ぶ「印相」と、口に唱える「明呪 (みょうじゅ)」 、即ち「真言」を指す。先に掲げた密教の「三密」のうちの「身密」・「口密」の二つ。

「阿字(〔あ〕じ)」梵語字母の第一字、及びそれによって表わされる音(おん)。密教では阿字は総ての梵字に含まれているもので、さればこそ総て、の宇宙の事象にも阿字が不生不滅の根源として含まれていると考える。

「一刀(〔いつ〕とう)」無敵の宝刀。正法の絶対の力を喩えたもの。

「大じや」「大蛇」。仏法を損なおうとする外道全般の比喩。

「三衣」ここは僧侶の意。

「さんげ」「懺悔」。江戸時代まで仏教のそれは「さんげ」と清音である。

「ゐん果」ママ。「因果(いんが)」。

「※1※2(くわいにん)」(「※1」=「月」+(「懐」-「忄」)。「※2」=「月」+(「妊」-「女」)孰れも私は見たことがない字体である。「懷妊」に同じい。

「古歲(こぞ)の夏」去年の夏。妻の患いは秋に始まっているのと期を一にする。

「平(へい)さん」「平產」。安産。

「ゆへ」ママ。「故(ゆゑ)」。

「本さい」「本妻」。

「しんゐ」ママ「瞋恚(しんい)」。「しんに」とも読む。怒り恨むこと。

「飮食(いんしい)」かくも読み、歴史的仮名遣もこれでよい。「いんし」「おんじき」などの読みもある。

「一〔ひとつ〕」まず第一に、の謂いであろう。

「五嶽」五岳。中国で古来崇拝される五つの名山。泰山(東岳)・嵩山(すうざん:中岳)・灊山(せんざん:後に衡山(こうざん)。南岳)・華山(西岳)・恒山(北岳)を指す。五行思想の影響で前漢時代に定められた。道教の山岳思想であるが、中国からの伝来の一類として仏教に取り入れられているから、違和感はない。

「四瀆」本来はフラットな意味で中国の四つの大河を指す。「瀆」は水源を発して、直接に海に注ぐ川を指す。一説では中国の大陸の汚濁を海に流し去る大河を指すともされる。一般には長江・黄河・淮水(わいすい)・済水(せいすい)を命数とする。「四瀆」は古くから神として祀られてきたが、先の「五岳」とともに国家の祭祀の対象となるのは前漢の宣帝の時からとされ、「四瀆」の各々について、特定の地にそれぞれの廟が建てられ、その後も歴代王朝によって祀られた。但し、ここでは猟師の不倫と殺生の悪因縁の深刻な大きさを五岳の高さと、四つの大河の深さに比喩しただけのことである。或いは作者は「瀆」の字の持つ「けがす」という別な意味を含ませている可能性もあろう。

「たつとみ」「尊み」。

「常隨(ぜうずい)」ルビはママ。「じやうずい」が正しい。

「けんご」「堅固」。

「一念あみだ佛卽滅無量罪」普通は「一念彌陀佛卽滅無量罪(いちねんみだぶつそくめつむりやうざい)」阿弥陀仏を、ただ一度でも心に堅固に念じただけで、それまで犯した無量の罪障を消滅させることが出来るということ。この句は「宝王論」や「往生本縁経」を出所(でどころ)とするなどと謂われるが、実際には見当たらず、出典は未詳である。まあ、浄土教の核心の教えでは外れてはいない。

「功力(くりき)」修行によって得た不思議な力。功徳の力。効験(こうげん)

「佛種(〔ぶつ〕しゆ)」種々の意味がある。小学館「大辞泉」によれば、①仏となるための種子(しゅうじ)。仏性(ぶっしょう)。②仏の教え。③仏果を生じるもととなるもの、即ち、菩薩の所行。④仏の道の跡継ぎの意、などである。総ては正法(しょうぼう)に基づくから、ハイブリッドな意味でもよいが、ここは元猟師が極楽往生の素懐を見事に遂げたことを言っているから、①や③の意味でとってよかろう。

「結焉(けちゑん)」ルビはママ。「結緣(けちえん)」と同じ意味を、「終焉」のそれと結びつけたものであろうが、結縁と結焉が同義かと言われると、私は不審に思わざるを得ない。また、「焉」はやはり歴史的仮名遣でも「エン」であり、「ゑん」ではない。]

2020/08/30

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 三 / 木導~了

 

       

 

 木導はまた聴覚に関しても或微妙なものを捉えている。

 入歯して若やぐ声や鉢たゝき     木導

[やぶちゃん注:「鉢たゝき」既出既注であるが、再掲すると、「鉢敲」「鉢叩」「鉢扣」などと表記し、空也念仏(平安中期に空也が始めたと伝えられる念仏で、念仏の功徳により極楽往生が決定(けつじょう)した喜びを表現して瓢簞・鉢・鉦 (かね) などを叩きながら、節をつけて念仏や和讃を唱えて踊り歩くもの。「空也踊り」「踊り念仏」とも称した)を行いながら勧進することであるが、江戸時代には門付芸ともなった。特に京都の空也堂の行者が陰暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間に亙って鉦・瓢簞を叩きながら行うものが有名で、冬の季題として古くからあった。]

 仮寝に声のにごりやおぼろ月     同

[やぶちゃん注:「仮寝」は「うたたね」。]

 歯が抜けて声の洩れがちだった男が、入歯したら今までと違って若い声をするようになった、というのは俗中の俗事である。ただそれが鉢敲であるだけに、何となく侘びた趣がある。うたた寝をした間に風邪でも引いたか、嗄(しゃ)がれたような声をするというのも、あまり大した事柄ではない。この句の妙味はそれを「声のにごり」の一語によって現した点にある。嗄れた声に一種の美を認めたのは、古く『源氏物語』にも「嗄れたる声のをかしきにて」ということがあり、元禄の附合(つけあい)の中にも「風ひきたまふ声のうつくし」というのがあったかと思う。木導の句はその意味において前人を空しゅうするわけではないけれども、「にごり」の語は簡にしてよくこれを現している。

[やぶちゃん注:「源氏物語」のそれはかなり有名なシークエンスで、第二帖「帚木(ははきぎ)」で、光が方違(かたたが)えを口実に伊予介邸に泊まり、その夜、彼の後妻である空蟬(うつせみ)の寝所に忍び込む場面の頭にある。小君は彼女の弟。

   *

 君は、とけても寢られたまはず、いたづら臥しと思(おぼ)さるるに御目(おほんめ)さめて、この北の障子のあなたに、人のけはひするを、

(光)「こなたや、かくいふ人の隱れたる方ならむ、あはれや。」

と御心(みこころ)とどめて、やをら起きて立ち聞き給へば、ありつる子の聲にて、

(小君)「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ。」

と、かれたる聲のをかしきにて言へば、

(空蟬)「ここにぞ臥したる。客人(まらうど)は寢(ね)たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり。」

と言ふ。寢たりける聲のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうと[やぶちゃん注:男性から呼ぶ場合は「姉妹」の意で、ここは姉。]と聞きたまひつ。

   *

宵曲のそれは記憶違いで、「かれたる聲」(かすれた声)であり、ここは弟小君が眠たそうな嗄れ声で空蟬を探して声を掛けたシーンである。もっともそれに応じた空蟬の声もまた、「寢たりける聲のしどけなき」(寝ぼけた声でしまりのない声の感じ)とあるのが、艶っぽい。

「風ひきたまふ声のうつくし」これは越智越人の句。「曠野」に所収されている「雁がねの巻」で、越人との対吟(二人のそれはこれのみしか知られていない)の歌仙中の一句。貞享五(一六八八)年九月(同月三十日に元禄に改元)半ば、深川芭蕉庵でのものである。

 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

  かぜひきたまふ聲のうつくし    越人

である。安東次男氏の「名稱連句評釈(上)」(一九九三年講談社学術文庫刊)によれば、この付合は柳田國男が大変好きだったらしく、折口信夫は『私の師柳田國男叟先生、常に口誦して吝(ヲシ)むが如き様を示される所の物』と伝えていると記されてあった。]

 

 酒桶に声のひゞきや夷講       木導

[やぶちゃん注:「酒桶」は「さかをけ」、座五は「えびすこう」。陰暦十月二十日に商家が商売繁盛を祈って恵比須神を祭り、祝宴を開く行事。冬の季題。]

 馬のかゆ砂かむ音の寒さかな     同

 一は大きな酒桶に反響する声を捉え、一は馬の歯に当る砂の音を描いている。その世界は必ずしも同じではないが、微妙な点に変りはない。

 くれあひに荷ひつれけり稲の音    木導

 音更ル挙樹柱の紙衣かな       同

[やぶちゃん注:「おとふけるくぬぎばしらのかみこかな」。「紙衣」は「紙子」とも書き、和紙を蒟蒻糊(こんにゃくのり)で繋ぎ合せ、柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解(ほぐ)してから縫った和服。防寒衣料又は寝具として用いられた。]

 崩ス碁の音ふけにけり冬の月     同

 小夜更けて椎炒ル音や冬ごもり    同

[やぶちゃん注:「小夜」は「さよ」、中七は「しひいるおとや」。]

 第一句は夕暮の道にゆさゆさと荷い連れる稲穂の音である。第二句以下はいずれも夜更の音を捉えたので、くぬぎ柱にさわる紙衣の音も、一局済んで崩す碁石の音も悪くはないが、「小夜更けて椎炒ル音」に至っては実に三誦して飽かぬ。闃寂(げきせき)たる冬夜の底にあって、ただ椎の実を炒る音だけが耳に入る、寂しいような、ものなつかしいような心持がひしひしと身に迫るような気がする。

[やぶちゃん注:「闃寂」ひっそりと静まり、さびしいさま。「げきじゃく」とも読む。「闃」の字自体が「静まりかえったさま・ひっそりとして人気(ひとけ)のないさま」を指す。]

 

 木導の句の特色の一半は明にこの鋭敏な感覚の上にある。

 尺八に持そへ行やかきつばた     木導

 はだか身に畳のあとや夏座敷     同

 藁筆に手をあらせけり冬籠り     同

[やぶちゃん注:「藁筆」は「わらふで」で狩野永徳が初めて作ったとされ、狩野派が好んだ筆の一種。サイト「筆の里工房」のこちらに復元したそれの写真が載る。『同派の技法書にはその製法が記され』ており、『また、熊野では、藁筆の原料はもち米の藁でなくてはならないとの口伝が存在する。もち米の藁はバサバサしているため、塩水に漬けて柔らかくし、酒と酢等を混ぜて、多少とろ火で煮るという』とある。復元されたそれは、軸部分が竹皮で出来ているが、これは覆いで、藁を束ねた剝き出しのそれを糸で縛ったものは、使えば、いかにも手が荒れそうな感じはする。にしても、これはどう見ても筆記用の筆ではなく、絵を描くためのものだ。木導は絵の嗜みもあったものか。]

 この種の句は必ずしもすぐれた句というわけではない。ただ感覚の上においては一顧の必要があろうと思う。

 蟬の音やするどにはるゝ空の色    木導

 青天に障子も青し軒の梅       同

 「するどにはるゝ」とは晴れきった青天を指すのであろう。「障子も青し」という言葉だけでは、障子に透いて見える青天の感じは悉されて[やぶちゃん注:「つくされて」。]いないかも知れぬ。しかもこの句を読むと、障子越に晴渡る春先の空の明るい感じが眼に浮ぶから妙である。

 ぬり物にうつろふ影や菊の花     木導

 姿見に顔とならぶや菊の影      同

 元日や神の鏡に餅の影        同

 三つとも物にうつる影を捉えたのであるが、神鏡にうつる御供えの餅の白い影が、特にはっきり描かれているように思う。

 よむ文を嚙で捨けり朧月       木導

[やぶちゃん注:「嚙で」は「かんで」。]

 いずれ秘密にせねばならぬ文であろう。読んでしまってから嚙んで捨てた、それが朧月の下だというのである。小説家ならば直にこれによって一条の物語を案出するかも知れぬが、われわれはこの句に示された含蓄だけで満足する。

 虎の皮臘虎(らつこ)の皮や冬ごもり 木導

 俳人によって繰返される冬籠が、とかく侘びた、貧しげな趣になりやすい中にあって、これはまたゆたかな、斬新な趣を発見したものである。芭蕉の「金屛の松の古びや冬籠」もゆたかでないことはないけれども、金屛の光が眼を射らず、それに描かれた松の古びているところは、どこまでも芭蕉らしい世界になっている。虎の皮、臘虎の皮を敷いて端坐する冬籠の主とは同一でない。卒然としてこの句だけ持出したら、近頃の句と誤認する人があるかも知れぬが、俳人は元禄の昔においても、決してこの種の世界を閑却してはいなかったのである。

 木導の句が自然の中に没入する底(てい)のものでなく、むしろ人事的興味を主にしたものであることは、上来引用した諸句によってほぼ明かであろう。これは同藩同門の先輩たる許六の句についても、やはり同様の傾向が認められる。木導には許六の感化が少くなかったであろうが、概括すればそれが彦根風の一特色になるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「臘虎」は「らつこ(らっこ)」。哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutrisウィキの「ラッコ」によれば、『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。『かつて千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームにより、HJ・スノーらの手による乱獲によってほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法』である「臘虎膃肭獣(らっこおっとせい)猟獲取締法」(明治四五(一九一二)年法律第二十一号)が『施行され、今日に至っている』とあるが、寺島良安の「和漢三才圖會」(正徳二(一七一二)年成立)「卷第三十八 獸類」にちゃんと「獵虎(らつこ)」の項立てがあり、この頃、既に蝦夷から毛皮が齎されていたことが書かれている(直江木導は寛文六(一六六六)年生まれで享保八(一七二三)年没)から、少しも奇異でない。

 

 寝静る小鳥の上や後の月       木導

[やぶちゃん注:「後の月」は「のちのつき」で、陰暦八月十五日夜の月を初名月というのに対し、九月十三日の夜の名月を指す。「十三夜(月)」「豆名月「栗名月」などとも呼ぶ。これは日本特有の月見習慣である。]

 夕立に動ぜぬ牛の眼かな       同

[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。]

 こういう人間以外の物を詠じた場合でも、見ようによってはどこか人間に近いものがある。強いて人間の如く見るというよりも、平生の人事的興味がこの種の場合にも姿を現すのであろう。

 「夕立」の句は『水の音』には収録されていない。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏であったか、これが「動かぬ」では面白くないが、「動ぜぬ」の一語によって、牛の鈍重な、悠揚迫らぬ様が眼に浮ぶという意味の説を、かつて読んだことがある。まことに「動ぜぬ」がこの句の字眼(じがん)であろう。木導の句としてはすぐれたものの一と思うが、これを採録せぬところを見ると、自選句集なるものに対して或(ある)疑を懐かざるを得ない。

[やぶちゃん注:「沼波瓊音」(明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人にして強力な日本主義者。名古屋生まれ。本名、武夫。東京帝国大学国文科卒。『俳味』主宰。]

 

 著ては又鉢木うたふかみこかな    木導

[やぶちゃん注:「鉢木」は「はちのき」。謡曲の題(後注参照)。]

 この句を読むと直に几董(きとう)の「おちぶれて関寺うたふ頭巾かな」を思出す。紙衣を著た侘人(わびびと)の境涯と「鉢木」の謡とは即き過ぎる嫌があるかも知れない。しかしそれは几董の関寺も同じことである。われわれはそれよりも木導の集中に、天明調の先駆と見るべき、こういう句のあることを面白いと思う。

[やぶちゃん注:謡曲「鉢木」は鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしたもので、観阿弥・世阿弥作ともいわれるが、不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。ウィキの「鉢木」から引用しておく。『ある大雪のふる夕暮れ、佐野の里』(現在の群馬県高崎市或いは栃木県佐野市に比定される)『の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。住人の武士は、貧しさゆえ接待も致されぬといったん断るが、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門尉常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領ですべて奪われ、このように落ちぶれたと身の上を語る。噺のうちにいろりの薪が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪もろくに無いのであった。常世は松・梅・桜のみごとな三鉢の盆栽を出してきて、栄えた昔に集めた自慢の品だが、今となっては無用のもの、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。そして今はすべてを失った身の上だが、あのように鎧となぎなたと馬だけは残してあり、一旦』、『鎌倉より召集があれば、馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦うと決意を語る』。『年があけて春になり、突然』、『鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、錆び薙刀を背負い、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に』、『時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与える。常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていった』という話で、能も見たことがない者さえよく知っている話であるが、いかにもな出来過ぎた話で、そもそも、この最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、彼は享年三十七歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病いのためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。

「几董」高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。

「おちぶれて関寺うたふ頭巾かな」「関寺」は謡曲「関寺小町」のこと。老女物。世阿弥作かともされる。シテは老後の小野小町で、七月七日、近江国の関寺の僧が寺の稚児(ちご)を連れて近くに住む老女を訪れる。老女が歌道を極めていると聴いていたことから、稚児たちの和歌の稽古に役立つと考えての訪問であったが、話が有名な古歌の由来に及んだ折り、小野小町の作として知られている歌が話題になり、その老女こそ、百歳を越えた小町その人だと知れるという展開である。「頭巾」は落魄(おちぶ)れた行脚僧(乞食僧)をイメージするのが「関寺」とも絡んでよかろうか。]

 

 太祇の句には「うぐひすの声せで来けり苔の上」「田螺(たにし)みえて風腥(なまぐさ)し水の上」「人追うて蜂もどりけり花の上」「うつくしき日和になりぬ雪の上」「陽炎や筏木かわく岸の上」「紙びなや立そふべくは袖の上」「ぼうふりや蓮の浮葉の露の上」「かはほりや絵の間見めぐる人の上」「蝙蝠や傾城いづる傘の上」「白雨のすは来る音よ森の上」「涼風に角力とらうよ草の上」「脱ぎすてゝ角力になりぬ草の上」「かみ置やかゝへ相撲の肩の上」の如く、下五字に同様の句法を用いたものが少くない。木導の句にもまたこの句法が散見する。

[やぶちゃん注:「太祇」炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の俳人。江戸の人か。俳諧は初め沾洲(せんしゆう)門の水国に学び、彼の没(享保一九(一七三四)年)後は、紀逸についた。寛延元(一七四八)年に太祇と改号し、二年後の「時津風」には「三亭太祇」とあって、その頃に宗匠となったものと考えられている。宝暦元(一七五一)年頃、京都に上って、翌年には五雲とともに九州に赴いたが、五月には戻って京都に住んだ。妓楼桔梗屋主人呑獅(どんし)の援助を受け、島原遊廓内に不夜庵を結んでいる。蕪村(ぶそん)と親密な風交を重ねた明和三(一七六六)年以降の六年間は意欲的に俳諧に関わり、多くの佳吟を残す重要な時期となった。人柄は無欲恬淡にして温雅洒脱であった。俳風は人事を得意とし、技巧的な趣向の面白さを持つ。

「陽炎」「かげらふ」。

「筏木」「いかだぎ」。

「ぼうふり」蚊の幼虫のボウフラのこと。

「かはほり」「蝙蝠」コウモリ。

「白雨」は「ゆふだち」と読む。

「かみ置やかゝへ相撲の肩の上」「かみ置」(かみおき)は幼児が頭髪を初めて伸ばす時にする儀式で、現在の七五三に当たる。冬の季題。「かゝへ相撲」「抱へ相撲(すまふ)」で諸大名が召し抱えた抱え力士のこと。この句意味がよく判らなかったが、ネットの本句へのQ&Aの回答によって、大名の若君が髪置きの祝いをし、当時の力士は縁起が良いものとされていたことから、その力士が若君を肩にひょいと乗せたものあろう、とあって氷解した。]

 

 どつと吹ク風や鶉の声の上      木導

[やぶちゃん注:「鶉」は「うづら」。]

 明月や撞ク入あひのかねの上     同

 名月やすらりと高き松の上      同

 ほとゝぎす鳴や蹴あげる鞠の上    同

[やぶちゃん注:「鳴や」は「なくや」、「鞠」は「まり」。]

 陽炎や笠屋が門の笠の上       同

 明月や香炉の獅子の口の上      同

 こういう言葉に現れたところだけを見て、天明調の先蹤(せんしょう)とするのは早計かも知れぬ。また元禄の作家にあっても個々について委しく調べたら、同様の句法はしばしば用いられているかも知れぬ。ここには太祇の集中において著しく眼につくような句法も、存外元禄時代に用いられているという一例として以上の句を列挙するにとどめる。

 遣羽子や吾子女に交る年女房     木導

 この句は『水の音』に洩れているが、人事的興味の上で、やはり天明の句に繋るべき内容を持っている。天明の作家が木導から何かの影響を受けたというわけではない。其角や嵐雪とも違う人事的作家が元禄にあって、その作品に天明の句と相通ずるものがあるというのである。

[やぶちゃん注:「遣羽子」は「やりはご」で羽子板遊び。「吾子女」は「あこめ」で、「衵(袙)姿」の略でであろう。童女が、上着を着けずに衵(女童(めのわらわ)が着た袿(うちき)の小形のもの。汗衫(かざみ)の下に着た中着(なかぎ)であったが、後には表着となった)「年女房」その年の歳女の成人女性であろう。年増女ではちょっと哀れであるから。]

 

 木導にはまた史上の人物を材料に用いた句がいくつもある。

    竹馬に曾我兄弟や門の雪    木導

    梶原も蓑著て聞やほとゝぎす  同

[やぶちゃん注:「聞く(きく)や」。鎌倉幕府の御家人で奸臣の誹謗も大きい梶原景時(保延六(一一四〇)年?~正治二(一二〇〇)年二月六日)。彼が幕府を追われるように出て、京へ上る途中(謀叛というのではなく、単に朝廷方の武家方として雇われることを目的として向かっていたものと思われる)、狐崎(静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。JR清水駅の西南西約三キロメートル)で不審に思った地侍らに襲われ、一族郎党、全滅した経緯は、私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を見られたいが、一説にはその時、鎧を着けて武装しているのを隠すために全員が蓑を着ていたという話もあるようだから、その最期のシークエンスを詠んだ時代詠であろうか。ホトトギスが日付とマッチする。]

    鶯やその時判官んめの花    同

[やぶちゃん注:「判官」は「はうぐわん(ほうがん)」で源義経のこと。「んめの花」は「梅の花」。義経が藤原泰衡に裏切られて高館で死ぬのは、文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日で初夏に当たり、ウグイスの初音と合致する。]

    名月に召や両介はたけ山    同

[やぶちゃん注:「召や」は「めすや」であろう。「両介」は恐らく三浦介三浦義澄と千葉介常胤、「はたけ山」は畠山重忠。孰れも鎌倉幕府創業の功臣である。されば、召すのは源頼朝ということになり、非常に贅沢なオール・スター・キャスト、テンコ盛りの時代詠のワン・ショットとなる。]

    声高に大津次郎や大根引    同

[やぶちゃん注:座五は「だいこびき」。「大津次郎」は「義経記」に出る義経東北行に纏わる義経の逃走を助けた商人。一行を捕らえんと待ち構えていた領主山科左衛門を謀(たばか)って、琶湖北岸の海津まで船で一行を送り届けた。しかし、「大根引」を持ち出した意味が良く判らぬ。大津二郎の妻が性悪女として出るから、それと関係があるかとも思ったが、やはり判らぬ。識者の御教授を乞う。]

    能因は槙の雫のかみこかな   同

[やぶちゃん注:中七は「まきのしづくや」。歌人能因(永延二(九八八)年~?)は藤原長能(ながよし)に学び、陸奥・甲斐・伊予などを旅して歌作した行脚の人。大江嘉言(よしとき)・源道済(みちなり)らと交遊し、「賀陽院(かやのいん)水閣歌合」・「内裏歌合」などにも参加した中古三十六歌仙の一人。「後拾遺和歌集」などに入集。俗名は橘永愷(たちばなのながやす)。通称は古曾部入道。この一句は「新古今和歌集」の能因法師の一首(五七七番)、

    十月ばかり、常磐(ときは)の
    杜(もり)をすぐとて

 時雨(しぐれ)の雨染めかねてけり山城の

    ときはの杜のまきの下葉(したば)は

をインスパイアしたもの。]

 

 已に其角の条において説いた通り、こういう種類の句は必ずしも天明の蕪村を俟ってはじめて生れたものではない。元禄諸家の集にも少くないが、その情景を髣髴する絵画的要素において一籌(いっちゅう)が喩(ゆ)するため、竟(つい)に蕪村ほど顕著な特色を成すに至らなかったのである。木導の句もその意味においては多くいうに足らぬ。ただ彼の如く人事的興味を主とする作家が、時にこの種の題材を取上げるのは、むしろ当然の成行であろうと思う。

[やぶちゃん注:「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する」は「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 絵草紙を橋で買けり春の風      木導

 夏菊や日にむら雲のかゝる影     同

 黒雲にくはつと日のさす紅葉かな   同

 短檠で見送る客や庭の菊       同

[やぶちゃん注:「短檠」は「たんけい」と読み、背の低いしっかりした基台を持つ灯明台で、四畳半以上の広間で用いる。サイト「茶道」のこちらが画像もあり、よい。]

 こほこほと馬も痎行枯野かな     同

[やぶちゃん注:中七は「うまもせきゆく」(馬も咳をしながら辿り行く)と読む。]

 これらの諸句は前に挙げた特色の外に、木導の伎倆を見るに足るものである。「夏菊や」の句、「黒雲に」の句の如き、自然の変化を捉え得た点において、木導としてはやや珍しい方の部に属する。

 木導の句には前書付のものが少く、芭蕉及同門の士との交渉を討(たず)ぬべきものも、あまり見当らない。

[やぶちゃん注:「討(たず)ぬ」検討する。知り得る。]

   翁身まかり給ふ比其角へ遣ス

 身をもだえ獅子のあがきや冬牡丹   木導

   芭蕉翁百ケ日

 なつかしや茶糟の中の蕗の薹     同

[やぶちゃん注:「茶糟」は「ちやかす」。思うに、墓前に供えるために茶を入れ、その滓を地面に捨てておいた。そこを見ると、蕗の薹の頭がのぞいていたという景か。]

   其角あつまへ旅立ける餞別

 氷ふむ音もせはしき別れかな     同

[やぶちゃん注:「あつま」は「あづま」で江戸のことであろう。]

   支考西国へまかりし餞別

 誹諧のうちは射取る八嶋かな     同

[やぶちゃん注:「射取る」は「いてとる」。八島壇の浦の那須与一の扇の的を射たエピソードに擬えたもの。次も同時に作られたものと思われ、同じシークエンスを意識したもので、弓の代わりに扇にと差し替えてと洒落たのであろう。]

   支考餞別

 さしかへて扇持たる別かな      同

   五老井の山桜短冊

 さつと咲さつと散けり山ざくら    同

   五老井の墓に詣て

 一本の棺に添る野菊かな       同

 「五老井」は許六のことである。許六の書いた『歴代滑稽伝』に「芭蕉東武下向の時四梅廬に漂泊し給ふ。木導汶村(ぶんそん)は方違[やぶちゃん注:「かたたがへ」。]してつゐに[やぶちゃん注:ママ。]逢はず、文通に木導はかたの如くの作者なりと度々称美あり」と見えているが、芭蕉をして称美せしめたというのはどんな句であったろうか。木導の句は芭蕉歿後に至って、はじめて諸集の上に現れるのだから、何とも見当がつかない。「かたの如くの作者」といい、「度々称美あり」という以上、「春風や麦の中行く水の音」の一句にとどまるわけではなさそうである。

[やぶちゃん注:森川許六は木導(二人は孰れも彦根藩士)より十歳上で正徳五(一七一五)年に亡くなっている(木導は享保八(一七二三)年没)。

「四梅廬」(しばいろ)近江蕉門で浄土真宗彦根明照寺(光明遍照寺)(グーグル・マップ・データ)の第十四世住職河野李由(こうのりゆう 寛文二(一六六二)年~宝永二(一七〇五)年)が自身の寺に名づけた別称(庭に四本の梅の木があることに因む)。若き日より芭蕉の風雅を慕い、修行中、法用と称して、元禄四(一六九一)年五月、京嵯峨野の落柿舎で「嵯峨日記」執筆中の芭蕉を訪れ、入門した。許六は李由と親しく、度々、明照寺に遊び、芭蕉も李由入門の直後に寺を訪れている(但し、これはその時のことではない。何故なら、木導の蕉門入門は元禄五(一六九二)年から七(一六九四)年)頃とされるからである)。参照したウィキの「河野李由」によれば、『芭蕉と李由の師弟関係は「師弟の契り深きこと三世仏に仕ふるが如し」と伝えられて』おり。『芭蕉死去後、渋笠を形見に貰い受け、明照寺境内に埋め』て『笠塚を築い』ている。元禄一五(一七〇二)年に許六とともに「韻塞」・「篇突」・「宇陀の法師」を編んでいる、とある。

「汶村」松井(松居とも)汶村(?~正徳二(一七一二)年)も同じく彦根藩士で、許六に俳諧・画を学んだ。]

 

 其角や支考のことは姑(しばら)く措(お)くとして、同藩同門たる許六との交渉については、何か他に異るものがありそうに思うが、これというほどの材料もない。許六の句の前書に「木導子が名木は家中一番のはつさくらなり、春毎に花見の席をまうく」ということがあり、また「木導が桜はよしのの口の花と盛をひとしくし、わが五老井の桜は都高台寺(こうだいじ)の桜と時をたがへず、折よせて病床にながむ」ということがある。木導の詠んだ五老井の山桜は、即ち高台寺の桜と同時に咲く花を指すのであろう。年長であり、不治の病者でもあった許六は勿論木導に先立って歿した。

[やぶちゃん注:「不治の病者」許六は晩年の宝永四(一七〇七)年の五十二歳頃からハンセン病を病んだ。]

 

 墓参の句は極めて淡々としているが、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]に添えた野菊に無限の情が籠っているのを見遁(みのが)すことは出来ぬ。

 木導が俳句の外に俳文を草したのは、恐らくは許六の影響であろう。「出女説(でおんなのせつ)」及「天狗弁(てんぐのべん)」の二篇が伝わっている。「天狗弁」はいわゆる俳文らしい、その才を見るべきものであるが、文学的価値からいえば「出女説」を推さなければならぬ。この一篇は許六の「旅賦」と共に、昔の旅宿の模様を知るべき有力な資料であり、許六が旅人の立場を主としているに反し、木導は旅宿の出女の側からこれを描いている。「あるは朝立(あさだち)の旅人を送り、打著姿(うちぎすがた)をぬぎ捨ては[やぶちゃん注:「すてては」。]帚[やぶちゃん注:「はうき」。]を飛し[やぶちゃん注:「とばし」。]、蔀(しとみ)やり戸おしひらきてより、やがて衣(きぬ)引(ひき)かづき、再寝(またね)の夢のさめ時は、腹の減期(へるご)を相図とおもへり。高足打(たかあしうち)の塗膳にすはりながら、通りの馬士(うまかた)に言葉をかはす。やうやう昼の日ざしはれやかにかゞやく比(ころ)、見世(みせ)の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌ぬぎの大げはひ、首筋のあたりより、燕の舞ありく景気こそ、目さむる心地はせらるれ。関札の泊りをうけては、あたらしき竪嶋(たてじま)に、京染の帯むすびさげて、鬢(びん)の雫のまだ露ながら、門の柱にうち添たるは[やぶちゃん注:「そひたるは」]、かれが一世の勢ひなるべし」といい、「冬枯のまばらなる比は、いつとなくよわり果て、鼻の下の煤気[やぶちゃん注:「すすけ」。]も寒く、木棉所の小車の音も、さびしく暮て、水風呂(すいふろ)の火影(ほかげ)に足袋さすわざも侘し。片田舎は法度(はつと)きびしく、表向は勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]もせず、されどあはれなるかたには心ひかるゝならひ、夜更(よふけ)亭主しづまり、ぬけ道よりしのびやかに、書院床の小障子あけて、神の瑞籬(いがき)もはゞかりなくて大股に打こへ」というが如き、出女の風俗を伝えて遺憾なきものである。殊に全体が写生的で面目躍如たる観があるのは、元禄の俳文中にあっても異彩を放つものといって差支ない。木導の句を見来って[やぶちゃん注:「みきたって」。]この一文を読めば、彼の観察の微細にわたるのも偶然でないという感じがする。出女のことはほぼ文中に尽きているが、木導の句には出女を詠じたものが二、三ある。

[やぶちゃん注:この俳文は宵曲が言うように、非常に興味深い。全文は許六編の「風俗文選」に所収(「卷之四」の「說類」)しているので容易に読める。お持ちでない方は、ここで「風俗文選」全篇をPDFで入手出来るので、ダウン・ロードされたい。「天狗辯」(「巻之九」の「辯類」)もある。この「出女說」はいつか電子化注する。

「出女」は私娼の一種。各地の宿場の旅籠におり、客引きの女性であるが、売春もした。「飯盛り女」「留女(とめおんな)」も同じい。]

 

 出女の化粧の中や飛燕       木導

[やぶちゃん注:「でをんなのけはひのなかやとぶつばめ」。]

 出女の羽ありをふるふあはせかな   同

 出女や水かゞみ見るところてん    同

 第一句の趣は文章の中に見えているが、第二及第三はそれぞれ異った場面を捉えているのが面白い。「出女説」を補うような意味で、ここに挙げて置くことにする。

[やぶちゃん注:「第一句の趣は文章の中に見えている」これは先の「出女說」の引用中の、『やうやう昼の日ざしはれやかにかゞやく比(ころ)、見世(みせ)の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌ぬぎの大げはひ、首筋のあたりより、燕の舞』(まひ)『ありく景気こそ、目さむる心地はせらるれ』の部分を指す。]

 

 木導は享保八年六月二十二日、五十八歳で亡くなった。彼が稿本『水の音』を完成したのは同じ年の五月上旬だというから、自家の句の輯録[やぶちゃん注:「しゅうろく」]を了(お)えて後、一ヵ月余で世を去ったのである。木導は元禄期において特に傑出した作家ではないかも知れぬが、一見平凡のようでしかも異色ある一人たるを失わぬ。上来引用した句はよくこれを証する。

[やぶちゃん注:「上来」(じょうらい)は「以上」に同じい。]

2020/08/29

ブログ1,410,000アクセス突破記念 梅崎春生 生活

 

[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年一月号『個性』初出。単行本未収録。未収録である理由は未完成だからである。底本(以下参照)の古林尚氏の解題によれば、『「生活」は末尾に、「この作品は二年前にかいたもので、未完である。書こうと思った小説が、締切日までに完成しなかったので、やむなくこれを出した」の付記が添えられている。この「生活」の素材はつぎの「無名颱風」にそっくり生かされ、また「年齢」においても部分的に活用された。』とある。しかし、短編として一つの形を成しており、ちょん切れた感じは(しばしば梅崎春生の作品にはそうしたエンディングが見られる)寧ろ、私は感じない。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。一部に禁欲的に注を附した。

 上記の「無名颱風」及び「年齢」は近日中に公開する予定である。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,4100,000アクセスを突破した記念として公開する【2020829日 藪野直史】]

 

   生  活

 

 列車が都城(みやこのじょう)を過ぎる頃から、空模様はあやしく乱れ始めた。

 爆撃のためほとんど廃墟の相を呈する都城市は、踏みつぶされた蟹(かに)のような廃屋の断続する彼方に、淡黄色の砂塵(さじん)が紗をなして立ち騰(のぼ)り、日はまだ没しぎらないのに、すでに薄暮に似た感じであった。移勤してゆく視角のせいか、街全体がそのまま地底に沈んで行くようにも見えた。たちまちにして毀(こわ)れた街並は尽き、初秋の田園がひらけてくる。薄墨色の雲群が大きな掌をひろげるように地平から三方に伸びてゆくらしい。車窓に次々あらわれては消え去る稲田や疎林(そりん)が、ようやく立ちそめた風をうけて思い思いになびき騒いだ。何か不安なものが心に重くしずんでくる。さっき船着場から鹿児島駅まで歩き、駅で汽車のくるのを侍っていた間の、あのへんに狂騒的な亢奮(こうふん)がもはや醒めかかっていて、車窓から吹ぎ入る風に私は顔をさらしたまま、首筋や背中に滲みでてくる汗を何度も手拭いでこすりとった。湿度が次第に高まるらしく、顔を車窓の内側にむけると眼鏡がすぐに曇ってきた。

 車室は発車のときから満員であった。おおむねは私とおなじく今日桜島突撃隊を解員された兵員ばかりである。それぞれ大きな衣囊(いのう)を特ちこんでいるから足の踏場もない。車窓は全部あけ放ってあるにも拘らず、人いきれで暑かった。大半は年取った補充兵だが、中には年若い兵隊や下士官もまじっていた。下士官が通路にしゃがんだりしていても、座席の兵隊は今はそれに席をゆずろうとしなかった。そしてそれは不自然ではなかった。ごくあたり前の情景に見えた。部隊では一律に同じような生彩のない顔をしていた連中が、桜島を離れ遠ざかるにつれて、少しずつ娑婆(しゃば)の表情をとりもどして来るのが、はっぎり感じられた。皆すこしうわついた調子で、会話を交したり笑い声をたてたりしている。年寄った兵が席を占め談笑するそばに、若い下士官が疲れたおももちで通路にうずくまるのも、軍隊に入って以来私の経験しない風景であった。軍服はまとっているけれども既に、世間のおじさんが席に掛け、生白い若者が通路にしやがんでいる様にしか見えない。戦終って十日経(た)ち、部隊をはなれる今となっては、おのずから年齢という世間の掟がこの車室にも通用し始まるらしい。それを不自然でなく眺める私も、無意識裡に世間の感情をとりもどし始めているのかも知れなかった。

 私の前の座席には木兎(みみずく)に似た顔の老兵がこしかけていた。

 さっき天蓋も建物もない歩廊だけの鹿児島駅で、陽にかんかん照らされながら私達は汽車を待っていた。駅員の話によると、列車はいつ来るかわからないと言う。桜島という隔絶した世界で、終戦後の世情がうまく行っていないだろう事は予測していたが、船で鹿児島に着くとすぐ、このようなダイヤの混乱という具体的な事実につきあたってみて、それがまことに実感として身にこたえた。九州本線は確実に三四箇所きれ、徒歩連絡せねばならぬが、日豊線は今のところ不明だと言う。うまく行けば全部つながっているが、断(き)れていればどこでおろされるか判らない。此の車室にいる兵達は皆私同様、漠然と桜島さえ離れたらすぐ汽車に乗れて、今日明日のうちにも故郷に帰りつけると思っていたに違いないのだ。此の木兎に似た老兵は、歩廊でも私の側にいて、いらいらした表情をうかべたり舌打ちしたり、不安げな様子をかくし切れない風であった。早く汽車に乗らないと桜島から呼びかえしに来はしないかと、怖れて居るかのように見えた。しかしそれは彼だけではなく、多かれ少かれ皆そんな表情を浮べていた。年取った兵ほど、その傾向が強かった。そんなに家に帰りたいのか、そんなに家は良い処なのかと、枕木を積み重ねた上に腰かけ、歩廊にくろぐろと印された自分の影を眺めながら、ぼんやり考え続けているうちに、前触れもなく汚れた汽車が駅に入って来、私達は衣囊をかつぎあげ、先を争って乗り込んだ。手際よく私が窓辺に座席をしめたら、向い合せにこの老兵が、窓から衣囊を押し入れて乗りこんできたのである。体力もない癖に、衣囊にはぎつしり詰め込み、船着場からここまでよく持ってこれたと思うほどだが、それを網棚にのせず大事そうに膝の前に置いた。自然私の膝は圧迫されて身体をねじって居なければならない。この私の姿勢を見ても、老兵は動ずる気配もない。此の無神経さは何だろう。老兵といっても四十四、五歳だが、終戦後規律がみだれたのを幸いに洗濯しないと見えて、ひどく汚れた略服を着ている。先程の憂欝そうな色は消え、むしろ、たのしそうに窓外の景色を眺めたり、隊で支給された弁当を長いことかかって食べたり、衣囊を拡げてその中の風呂敷包みを結び直したり、そLて小さな木箱の中のものを詰め換えて整頓したりした。箱の中には解員時に分配された航空糧食や携帯口糧がいっぱい詰っていた。そしてその上に小さな写真が一葉乗っている。私の視線に気付くと老兵は、垂れ下った瞼を引っばり上げるようにして顔を起した。濁った大きな眼である。はっきりしない呂律でつぶやいた。

「子供がふたりもあるのですよ。九つに六つ」

 特に私にむかって言った調子でもない。独白じみた呟(つぶや)きである。もともと表情のはっきりしない、むしろ沈欝な感じのする顔だが、この瞬間だけは一種の喜悦とも羞恥ともつかぬ色が顔いっぱいに拡がって消えたのを私は見た。この赤く濁った大きな眼は、この木兎(みみずく)に似た顔は、今日初めて見たものではない。この老兵は桜島で私と同じ部隊にいた。その頃から私はこの男をはっきりと記憶に止めている。

 桜島に転勤になった当初のころ、どうしたものか原因不明の熱が出て私は毎日医務室にかよった。診察をうけるために順番を待っている群のなかに私はこの男の顔をしばしば見た、と思う。元来設営の補充兵らしいのだが、身体にどんな故障があったのか知らないが、そんな具合に医務室に出入しているうちに設営の任に堪えないものと診断されたのかも知れない。その次気が付いたときは彼は医務室の雑用をするかかりになっていたようである。顔色は悪くぶわぶわとふくれて居るが、肩や胸が不釣合にほそく、手指は長くて掌全体はまるで鳥類のようにかさかさに乾いていた。部隊に赤痢(せきり)が蔓延(まんえん)しているというので、その掌に消毒剤を入れた噴霧器を握り、あちこち消毒して廻っていた。これはおそらく楽な仕事だっただろうと思う。私の居住壕にも両三度来た。

 ある昼間、私が当直の疲れで寝台に横になり、うとうとしていると、いきなり生ぬるい霧のようなものが裸の胸や脇腹に吹きつけてきたので、びっくりして眼を覚ましたら、此の男が噴容器を手に構えて、寝台の側に立ちはだかっていた。何ということをするかと私は腹を立てた。

「なんだ。寝ているところに薬をかけるやつがあるか」

 私が思わず身体を起してどなっても、この男はなぜ私からどなられるのか判らないような、ぼんやりした表情であった。

「消毒をばしているところです」

 大きな眼をみひらいて私を見ているのだが、その瞳は丁度(ちょうど)、昼間は大きく見開いていても視力を喪失しているあの木兎(みみずく)の眼に、そっくりであった。此方を向いてはいるが、此方の姿が彼の瞳孔にうつっているのかどうか、それは意力を失ったたよりない視線であった。しかしこれが本物であるかどうか、私は信用しない。

 私は知っている。私も補充兵だから、年配で海軍に召集された男たちの気持はほとんど類推できる。私達三十歳前後の連中は前年召集されたのだが、四十代の男たちはおおむね今年に入ってからである。だから私は、私の後から次次に入って来る連中の様子はつぶさに見て来た。彼等は例外なく同じコースをたどって同じ型の兵隊になって行くのだ。入団してきた当初は、彼等はみな世間の貌(かお)をぶらさげてくる。自尊心だとか好奇心だとか、軍隊の中で通用しそうにもない属性を表情に漲(みなぎ)らせてやって来る。勿論ある種の気構えをもって――いかにも烈しい肉体的訓練は充分覚悟しているぞといった風(ふう)な気構えを誇示しながら、悲壮な面もちで入ってくる。ところが一箇月もたつ間に、息子ほどの年頃の兵長にようしゃなく尻を打たれたり、甲板掃除で追い廻されたり、だんだん自分が人間以下に取りあつかわれていることが身に沁みてわかって来る頃から、彼等の世間なみの自尊心や好奇心や其他の属性は消えて無くなって行く。喜怒哀楽が表情に出てこなくなる。然し無くなるのは表面からだけだ。彼等の喜怒哀楽は表に出ずに心の内側に折れ込んで行くのだ。するどく深く折れまがって行くのだ。彼等は総じて無表情になる。自分を韜晦(とうかい)することによって生きて行こうと思い始める。肉体を、上から命ぜられる場合でも、最少限度に使用しようと心に決める。肉体のみならず、精神をも。かくして彼等はみな一様に動作がにぶくなり、痴呆に似た老兵となってゆくのだ。しかし勿論(もちろん)これらはポオズに過ぎない。だからわかい兵長らが彼等を前にして、何て年寄りはトロいのかと怒りなげいても、彼等がふたたび娑婆(しゃば)に帰れば、生馬の眼を抜くような利発な商人であったり、腕利きの職人であったり、あるいは俊敏な学者であることに、到底思いおよばないだろう。流体がおのずと抵抗のすくない流線型をとるように、彼等はその目的のためにいかなる擬体(ぎたい)[やぶちゃん注:「体」はママ。]をも採用する。佯狂(ようきょう)が最良の手段だと思えば、伴狂をすら取るのだ。馬鹿をよそおうこともつんぼとなることも、あり得るということを私は見て来た。私は今、彼等と書いた。彼等ではない。もちろん私並びに私達である。ただ三十前後の私達が長いことかかってもうまい具合に化け終(おお)せぬところを、此の年召集された四十前後は、極めて巧妙にしかも頑固になし遂げたようである。世間で苦労して来た賜物というほかはない。だから私は、軍隊で会った如何なる人間をも信用しない。ことに四十代の兵隊を。私ですらも贋(にせ)の表情をこさえ続けてきたから、この男達も仮面をかぶり終せたにちがいないのだ。此の私の座席から見わたせる幾多の老兵らは部隊にいた時は、ただひとつの表情しか持ちあわせなかった。それがただ、部隊からはなれ、狭い海峡をひとつ渡っただけで、もはや娑婆(しゃば)の表情を取りもどし始めている。このことは鹿児島駅で汽車に乗りこんだ時から、薄々と私は感じ始めていたのだ。部隊にいた頃は、私の前にいる老兵とても、なにか得体のしれない愚鈍な感じの男であったが、今ははっきりと解放された喜びが身のこなしに現われている。向うの座席の、所書[やぶちゃん注:「ところがき」。]でも書いて交換しているらしい二人の老兵も、弁当を分け合って食べている他の群も、それはもはやあの苦渋の表情から抜け出ている。世間人らしい匂いを立て始めている。窓縁に肱をついてぼんやり眼を見開いている私の顔も、他から見ればやはりそう見えるのかも知れないのだ。しかし召集前、私はそのような世間の貌を信用していたのか、世間の中で私は自らを韜晦(とうかい)せずに純粋に生きて来たのか、そういうことにふと思い当ると、私は突然にがいものを無理に口の中に押し込まれたような気がし、少し乱暴な動作で身体をよじり手を伸ばして、老兵の手箱の中からチラと見た写真をつまみ上げていた。老兵のかさかさした掌があわててそれを追ったが、その時は私はすでにその写真を私の眼の前にかざしていた。

[やぶちゃん注:「韜晦」自分の本心や才能・地位などを敢えて包み隠すこと。]

 ピントの合わぬぼんやりした写真であった。縁が色褪(あ)せているのはおそらく汗がしみたのであろう。納屋みたいな感じのする建物の前に子供が二人写っていた。二人ともまぶしそうに笑っていた。大きい方は頭が平たく、手には小旗を持っていた。小さな方はくりくりした眼を光線の具合かあらぬ方に向けて居るように見えた。その眼付が何となく此の老兵にそっくりである。先刻つぶやいた子供たちなのであろう。子供達の背後に、三十位の女が立っていた。これが母親だろう。上品な顔だちだが、これは笑っていない。眉の辺に暗い影が落ちている。子供たちが上等の服装をしていないことは、写真がぼやけていても直ぐに判る。あまり裕福でないに違いない。しかしこの小さな写真を見ていると、子供の頰の柔かい匂いや、日向に照らされた着物の匂いまで判るような気がした。写真をかえしながら、私は低い声で聞いた。

「これがその、息子さんたちかね」

「そうです。そうです」

 私が写真を眺めている間、私の顔をじっと見ていたらしい。私がそう言うと、ぶわぶわした頰にふしぎな笑いをうかべて、合点合点をした。桜島にいた頃は、過去も何も持たない、現象みたいにしか眺められなかった此の男が、ふるさとには家庭と職業を持っているということが、急に実感として私に迫ってきた。その実感は私自身にからんで何故か微かな不快の念を伴ってくる。それを押し殺しながら、私はこの老兵と次のような会話をした。

「故郷(くに)は何処なんだね。何処まで帰るのか」

「へええ」顔を上げずに写真を箱にしまいながら「原籍は福岡県ですたい。しかしその、居住区は別府」

 居住区だってやがら、と通路に立っていたわかい兵隊が笑い出した。とげとげしい乾いた笑い声であった。老兵は一寸びっくりしたような顔を上げたが、箱の中から小さい紙包みを取り出して私の顔の前でひらひらさせた。

「あなた」私のことをそう呼んだ。「之を湯で溶かすと、そっくりお萩になりますがな。餡粉(あんこ)は餡粉、御飯は御飯とな。先刻駅で仲間のものが慥(こしら)えて食べよりました」[やぶちゃん注:「慥」(「たしか」)の字に「こしらえる」の意味はない。恐らく「拵」の誤字或いは誤植である。]

 航空糧食の一種でお萩を粉末にしたものである。私も三、四個支給を受けて衣囊の中にしまってある。

「お前は何故食べなかったんだね」

「へへえ」老兵は女た曖昧(あいまい)なわらい方をしながら「子供に食べさしてやりたいと思いまして、な」

「子供に会いたいかね」

 老兵はぶよぶよと笑って返事をしなかった。しかしその眼に灼けつくような慕情が浮んで消えた。

 野面を斜めにてらしていた投日のかげが消えて、汽車は乾いた軋(きし)りを立ててがらんとした大きな駅に、辷(すべ)り込んだ。宮崎市である。混凝土(コンクリート)の歩廊[やぶちゃん注:プラット・ホームのこと。]を、風がさらに強く吹くらしく、歩廊面はぬめぬめと光った。眼を上げると油煙を溶かしたような黒雲がもはや南の空の半分を覆い、千切れた雲端は物凄い速度で渦巻きながらひくく垂れてくるらしい。湿気を帯びた風が線路をわたって私の頰をうつた。窓を飛びだして歩廊の水道栓に群れた兵隊の青い略服の裾が一斉(いっせい)にはたはたと動く。汽車がごとんと動き出すと、水を汲み残したまま水筒をかかえ、五、六人の兵達が歩廊を走って汽車に飛びのった。汽車は速力を早めた。毀(こわ)れた町が線路にそって連なる。大きな踏切りを越えた。線路沿いのせまい道を、カンカン帽を冠った男が歩いて行く。突風がいきなり帽子を吹き飛ばした。白い浴衣(ゆかた)のたもとを風でふくらませながら、男は腰をかがめてそれを追っかける。黒い柵(さく)伝いにカンカン帽はどこまでも転がって行くのだ。追っかける男の姿勢をはっきり、私の眼底に残したまま、汽車はそこを轟然(ごうぜん)とはしり技けた。

(ああ、あの感じなんだな)

 浴衣にカンカン帽子を冠った姿、それが先ず見慣れない感じであった。そんな服装が暗示する生活、それが此の世間にあるということが、何と無く肌合わぬ気がした。そしてそれと同時に、そのような市民生活を私も営んでいた時の記憶がふと肉体によみがえってきた。昔あんな見苦しい姿勢で私も吹きとばされた帽子を追っかけたことがある。その時の気持や肉体の感覚が、鮮かに呼び醒まされてきためだ。この汽車で東京に戻る。着物をきて畳のうえで妻子と飯を食う。背広をきて役所に通う。タ方夕刊を買って省線で戻ってくる。あるいは風で帽子を飛ばされたり、乏しい銭で安酒を飲んでみたりというような生活のディテイルが、驚くほどなまなましい感覚をもって、此の時私に思いだされてきた。

(此の感じをなぜ俺は長いこと思い出さなかったんだろう?)

 それは密度の違う世界に無理矢理に追いこまれるような、生理的な厭な気持であった。今日桜島の軍用波止場から出帆するときの、あの昂揚された自由感が、次第に質の違ったものにすり代えられて行くのが、私にはわびしく思われた。湿って火付きの悪いほまれを、口のなかがざらざらする気持になりながら、しきりに吸い込んだ。風のために莨(たばこ)の灰が鼻のよこに散って当った。

(そんな感じを思い起すことから、俺は懸命に逃げ廻っていたに違いないのだ。帰って行かねばならぬその世界が、厭(いや)な世界であるとは考えたくなかったのだ)

 しかしこの悪感[やぶちゃん注:「おかん」。]はすでに私の心を摑んでしまった。私は車窓をはしる景色にじっと眼を放って考えつづけていた。長い間座席にいるせいで、尻がすこし痛み出してきた。老兵が衣囊の紐(ひも)をぐいぐいしめる度に、衣囊のかたい内容が私のすねをつき上げて来る。整理もすんだと見える。蒼然と昏(く)れかかるのに、車室には燈が点(とも)らない。車室の男達はやや談笑に疲れた形で、ぼんやりしている者が多いが、その眼が明かに不安をやどして、時折窓外に走るのも、あやしい空模様につながって此の列車が何時とまるか判らないという危惧(きぐ)をかんじているに違いないのだ。

 衣囊の紐を結び終えた前の老兵がふと心配そうに私に話しかけた。

「此の汽車はまっすぐ別府まで行くとでしょうか」

「それは知らんよ。おそらく何処かで断(き)れているだろう」

「断れているとすれば、私どもはどうなるとでしょう」

「降りて次の駅まで歩くんだよ。重い荷物をかついで皆歩くんだ。どうせ家に帰れるんだ。一日や二日延びたって大したことはあるまい。そんなに早く帰り着きたい訳じゃないだろう」

 老兵は頰に一寸厭な色を浮べて、瞼を伏せた。独語のように言った。

「私どもは一刻も早く帰りたいとです」

 まだ幾分愚鈍な感じはあるとしても、此の老兵の受け答えや気持の動きは、すでに正常な市民のそれのように思われた。部隊に居たときのように、命令を受けてもそれを理解出来ない風であったり、寝ているところに消毒液をかけたりするような、けたを外した動作や振舞いは、まこと私が予想したように擬態(ぎたい)であるらしい。意識した擬態ではないとしても、保護色や警戒色のように自然の摂理として、此の老兵は自らの個体を守る為にあんな愚鈍さを身につけたのかも知れない。しかしその事は私とは何の関係もなく、また興味もない。ないにも拘らず、私は此の老兵の顔を見ていると、してやられたという感じが強かった。

「そんなに帰りたいのかね。家では何をやって居るんだね」

「人形を造るとです。人形師です」

 別府土産の人形を造るのがその商売だという。老兵はやや雄弁になって、粘土から人形を造り上げるまでの工程を、廻りくどく話し出した。時々手真似も入る。小さな工房を持っていて、そこで注文を受け仕事をしていたらしい。日当りの悪い房[やぶちゃん注:「ぼう」。部屋。]にすわって什事をしている光景が私の想像に浮んで来た。職人は別に使っていないが、弟が一人いて、それと一緒に仕事をしていると言う。

「私が学資を出してやりましてな、中学を卒業させました。ところが中学を出ても人形をば造りたいと言うもんで、仕事の加勢をさせて居りますが、これが私ども以上の腕利きで、これが人形は別府で一番良か店から幾らでん注文が来るとです。え。二月、二月に私どもが海軍に引っ張られたあとは弟一人でやっておりましたが、これも六月頃陸軍に引っ張られたということで、女房からその便りがあったっきりその後のことは判りませんです」

「お内儀さんはあの写真のうしろに立っていた人だね」

 野面はだんだん昏(く)れかかり、車室の中央は顔の輪郭も定かならぬほどになった。気温はやや降ったが、温度はますます高まるらしく、風もまた吹き募(つの)るらしかった。反対側の窓遠く、海が暗く見えるようであったが、それも海かどうか判らない。列車は左右に厭な振動をつづけながら進んでゆく。野面に遠く近く揺れる農家の燈を、私は眼をしばたたきながら眺めていた。そして老兵がしゃべるのをうつうつと聞いていた。

「巡検が終りますとな、何時も海岸の煙草盆に出て仲間の者と遅くまで話しこむとです。皆帰りたがる話ばかりで、何の因果でこんな海軍に入ったんじゃろか、孫子の代まで海軍には入(い)れんちゅうてな。私は医務室の仕事やっとったから良かったけんど、外の連中は、皆此の汽車に乗っとりますが、毎日もっこかつぎで肩の肉が破れたり底豆[やぶちゃん注:「そこまめ」。足の裏にできる肉刺 (まめ) 。]を出したり、満足な体の奴は居らんとです。みな私が楽な仕事をしているのを羨しがりましてな、私は何時も言い返してやったとですが、お前らは要領が悪い、軍人は要領を旨とすべしということを知らんかてな、しかしあまり可哀そうなんで医務室から薬持ってきてやって、煙草と交換してやったりしましたたい。その薬を煙草盆の周りでつけ合いながら、こんな処を見たらカアチャンが泣くだろうというようなことを一人が言ったりしますとな、笑うどころか皆しんとしてしまって、そのうちに八月十五日になりました。ラジオはがあがあ言うだけで何も判らず、隊長の訓辞では今までよりはもっと働かねばならんという話で、居住区に戻って皆と、陛下もこれ以上やって皆死んでしまえとは何とむごい事をおっしゃるかと、寄り合って悲観しているうちにあのラジオは終戦のことと判りましてな、班長や分隊士がやけになって酒打ちくろうて、まことに今まで一所懸命になってやって来られたのにと気の毒には思いましたけんと、私どもは皆してこれで家へ帰れる、子供や女房の顔も拝めるちゅうて、悪いとは思ったが肩をたたき合って喜びましたがな。もうこの世では逢えぬと私どもは諦(あきら)めて、なるたけ思い出すまいと思うて居ったところへ、こんな事になって、私はそれから女房や子供のことばっかり考えつづけですたい」

「お内儀さんはいくつだね?」

「へええ。三十二になります。おとなしい良い奴でしてな。今度も何か土産を持って行きたいけんど、隊で支給されたのは兵隊のものばっかりでな、甘い物を少し貰ったけんど、これは子供、その他毛布や服や米や罐詰や。何にも要らん、帰して呉れさえすれば何にも要らん、此方から金出してもいいと言ってさえ居た連中が、いよいよ帰れるとなるとみな慾張りになりましてな、俺の毛布はスフだから純毛のがほしいとか、靴をかっぱらわれたからまた何処からか取って来るとか、浅間しいと思いますけんど私もそれでな、何も自分ひとりの事を考えて居りやせん[やぶちゃん注:「や」が小書きでないのはママ。]、これだけあれは此の四、五年は着る物に不自由はせん、そうなれば女房もたすかるだろうし、また伜たちも……おや、雨が」

 雨滴が三粒四粒斜めに顔に当ったと思うと、次の瞬間には飛沫となってしぶいて来た。あわてて窓をがたがたと閉めた。車室のあちこちで窓を閉める音がする。汽車は今山峡のような場所を走っているらしい。雨滴が筋をなして流れる硝子窓のむこうを、樫(かし)の影がちらちら暗い空をくぎって飛びさる。通路で誰かマッチをすったので、瞬間車室は薄赤くほのめいたが、その光線に浮き上った人々の像は顔にかぐろく隈(くま)を作り、まことに疲れ果てた感じであった。桜島の静かな濤(なみ)の音を聞きながら、海岸の煙草盆のまわりに寄り合って、各々肉親の事を考え己れの不運をのろったのは、この老兵達の顔である。終戦の報を知った時、先ず彼等の頭にいっぱい拡がって来たのは、妻の、子供の、両親の顔であったに違いない。

金玉ねぢぶくさ卷之二 蟷螂(たうらう)蝉をねらへば野鳥蟷螂をねらふ

 

金玉ねぢぶくさ卷之二

    蟷螂(たうらう)蝉をねらへば野鳥蟷螂をねらふ

Semikamakiri

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」の挿絵をトリミング合成し、上下左右及び中央の重なり部分を消去して、絵の内部もできる限り、清拭した。]

 

 人は、まへに欲有ては、後(しりへ)に來〔きた〕る禍(わざはひ)をしらず。若(もし)其大きに欲する所をおさへて、まづ其事の邪正(じやせう)をおもんばからば、たとへ願ふ所はかなはずとも、其なす事に害はあらじ。博奕(ばくち)は有無(う〔む〕)の二つなれども、まづ、そのかたん事をおもふて、身躰(しんだい)を打あげ、商(あきない)は先〔まづ〕其利をさきに見て、高ひ物をしらず、買(かい)おき、盗(ぬすみ)も、まへに得る事を見て、後に首(くび)を失ふ事をわすれ、人とあらそふ時は、我身のよこしまを、わする。盤上(ばん〔じやう〕)の遊びすら、勝(かつ)て益なく、まけて損(そん)なき事なれども、相手の石をかこはんとて、我(わが)石の切るゝ事をしらず、先へ仕かけん事をのみおもふて、我〔わが〕てまへの、つまる事を、かへり見ず。

[やぶちゃん注:「おさへて」「抑えて」。

「邪正(じやせう)」ルビはママ。「じやしやう」が正しい。

「おもんばからば」通常は「おもんぱかる」であるが、これでも間違いではない。

「有無(う〔む〕)の二つ」勝か負けるかの二極しかないこと。

「商(あきない)」ルビはママ。「あきなひ」。

「高ひ」ママ。「高い」。

「買(かい)おき」ルビはママ。「かひ」。

「相手の石をかこはんとて……」以下は碁を例にとったもの。

「切るゝ事」相手に切られること。「キリ」(切り)は囲碁用語の一つで、斜めの位置関係にある相手の石を、繋がらせないように連絡を絶つ手のことで、動詞では「キる」「切る」と表現される。]

 

 今度、長崎の町人小柳仁兵衞、一國ききんして、米の相場百四十六匁〔もんめ〕せり。然〔しかる〕に、下直〔げぢき〕なる時の米、大分、買こみ持(もち)て、それ程の上りを受(うけ)ても、其米を不賣(うらず)。隣家(りん〔か〕)の町人、あまり其欲ふかきを見かぎり、其町をぼつ立〔たち〕しかば、

「他町(た〔ちやう〕)へ行(ゆき)て住せん。」

とすれども、先々〔さきざき〕に是を惡(にく)みて、かねて、身躰(しんだい)ふうきなれば、方々(はうばう)に屋しき求(もとめ)おき、長崎中に以上十七ケ所の家(いへ)を持(もち)ながら、終(つい)に我家に住する事、かなはず。

 せんかたなさのあまり、檀那寺へ行て、三日が間、寺にて暮しぬ。

 然るに、外のだんなどもをいひ合て、

「か程の惡(あく)人をかくまいたまはゞ、われわれは、だんなを引申〔ひきまうす〕べし。」

と、憤るゆへ、一人を大ぜいにはかへ難く、終(つい)には寺をもおい出されて、當分、路頭(とう)に立(たち)侍りしとぞ。

 誠に、善惡ともに十指(しの)ゆびざす所、十目(〔じふ〕ぼく)の見る所、是天道の印也。

[やぶちゃん注:「小柳仁兵衞」不詳。

「ききん」「飢饉」。

「百四十六匁〔もんめ〕」「匁」はここでは江戸時代の銀目(銀)の通貨単位。本書は元禄一七(一七〇四)年板行であるが、元禄銀では、通常時で米一石は四十一匁二分五厘であったから、約三・四倍である。

「下直なる時」値段が安い時。

「ぼつ立」つであるが、これは「ぼつ立てられしかば」とあるべきところ。「ぼつたてる(ぼったてる)」は「追い立てる」の意。

「身躰(しんだい)」「身代」。

「ふうき」「冨貴」。

「終(つい)に」ルビはママ。「つひに」。以下同じ。]「かくまい」ママ。「匿ひ」。

「ゆへ」ママ。「ゆゑ」。以下同じ。

「おい出されて」ママ。「追ひ出(だ)されて」。

「まことに、彼の成したことは、善と悪の極めつけの対象を十挙げるとして、その内の十悪の一つに入るべき存在」であると謂うのである。「十目」とは「多くの人の見る目・衆目」の意であるから、「圧倒的多数の長崎の、いやさ、日本中に大衆の見た目には、天道が罰している徴しに他ならぬ」の謂いであろう。]

 

 近年、草木(さうもく)は不作ならねど、米穀の高直(かうじき)成りしは、皆、有德(う〔とく〕)なる町人、窮民のうれへをかへりみず、利を得んとて、我〔われ〕がちに買おき、直段(ねだん)上らざれば、いつまでもうらざるゆへ、ぜひなく、しめあげに上〔あげ〕れども、久しくかこひし間(ま)に、米の性(しやう)をそんじ、あるひは、銀の步〔ぶ〕をついやしてしまふ所、利を得(う)る事、すくなし。我(わが)利を得る事すくなふして、人の害になる事おゝきは、米商人(〔こめ〕あきんど)のしめあげなり。

[やぶちゃん注:「草木」野菜や果樹であろう。

「有德」ここは「富裕」の意。

「あるひは」ママ。「或いは」でよい。

「しめあげ」流通している米を、殆んどそうした特定の富裕層の町人が買い上げてしまい、売る際には法外な値段をつけるという仕儀を指すか。

「銀の步〔ぶ〕をついやしてしまふ」よく意味が判らぬが、一つ、ウィキの「匁」に、『銀札』(江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である藩札のこと)『は本来』、『銀の預り証であり、引替え用銀準備の下、つまり額面と等価の丁銀への兌換を前提に発行される名目であったが、実際には災害など藩の財政逼迫の度に多発されることが多く、正銀の額面としての銀の掛目と』、『藩札の額面との間に乖離が生じるのが普通であった』。宝永四(一七〇七)年十月、『幕府は一旦、銀札発行を禁じ、流通している銀札を』五十『日以内にすべて正銀(丁銀・小玉銀)に引き替えるよう命じたが、例えば』、『紀伊田辺においては』、『銀札一貫目は正銀二百匁に替えると布告される始末であった』とあるような事実に基づくものか? 兌換がスムーズでなく、換えられても、額面より低く、歩留まりがひどく悪くなって、却って損をすることか? 識者の御教授を乞う。]

 

 「人を利するものは、天、これに福(さいわ)ひし、人を害する者は、天、是に禍(わざわ)ひす」と、聖人のいましめ給ふをわすれ、不義にして、とまん事を欲し、貪りのみ深きは、のみ・虱(しらみ)の、人をくらふ事を知つて、還(かへつ)て、其身の破るゝ事を知らず、魚(うを)の、餌を見て、釣針を見ざるがごとし。

[やぶちゃん注:「福(さいわ)ひ」ルビはママ。「さひはひ」が正しい。

「禍(わざわ)ひ」もルビはママ。「わざはひ」が正しい。

「破るゝ事」「破らるゝ事」の謂いであろう。]

 

 水無月の末、凉しき木の枝に蝉一疋とまりて、聲いさぎよく、吟ぜり。

 然るに、かまきり、是を見て、蝉をとらん事を欲し、斧をふりあげて、うしろより、忍びよる。

 野鳥、又、かまきりをとらんと、其跡へ續く。

 鳥さし、また、是を見て、『小鳥をとらん』と其跡へ、のぞむ。

 せみは、おのが吟ずる事を樂んで、跡なる蟷螂をしらず、蟷螂は、前なるせみをとらん事を欲して、後(うしろ)に野鳥ある事を、しらず、野鳥は、かまきりを見て、下より鳥さしのねらふ事を、知らず、鳥さしは、鳥に性根(せうね)を入〔いれ〕て、足元を見ずして踏(ふみ)はづし、岸(きし)へ落(おち)ければ、是に、おどろいて、野鳥、たち、鳥におどろひて、かまきりも、にげ、是を見て、蝉も、とびさりぬ。

 しかれば、世の諺にも、「蟷螂、せみをねらへば、野鳥、蟷螂をねらふ」と、いへり。

 とかく我〔われ〕欲する事ある時は、まづ、其事の邪正を能(よく)遠慮して行(おこ〔:な〕)ふべき事也。

[やぶちゃん注:「鳥さし」「鳥刺し」。鳥黐(とりもち)を塗った竿を用いて小鳥を捕らえること、或いは、その猟師を指す。

「野鳥、たち、」野鳥は飛び立ち。

「性根(せうね)」ルビはママ。「しやうね」。

 いかにもなステロタイプの教訓譚で、私は面白く思わない。]

2020/08/28

金玉ねぢぶくさ卷之一 讚州雨鐘の事 / 金玉ねぢぶくさ卷之一~了

 

    讚州雨鐘(あまがね)の事

 [やぶちゃん注:本篇は十三年前の二〇〇七年二月二十一日に、サイトで「雨鐘(あまがね)の事」として注と現代語訳を既に公開している。但し、そちらは底本をここで一九九四年校合本としている国書刊行会刊「叢書江戸文庫34 浮世草子怪談集」を用いており、漢字は新字体である。その冒頭注で記している如く、これを電子化訳注した理由は、この最後のパートの奇体なエピソードが私の極めて偏愛するものであり、後の寛保二(一七四二)年に板行される三坂春編(はるよし)の「老媼茶話」の「入定の執念」へ、そして安永五(一七七六)年の上田秋成「雨月物語」の「青頭巾」の、はたまた、同人の「春雨物語」の「二世の縁」(孰れも私の電子化訳注サイト版)へと連綿と、インスパイアされてゆくという奇譚系譜の流れがすこぶる明確に見えてくる優れた怪談だからである。また、その時は、私が高校教師時代に「雨月物語」の「青頭巾」を授業したように、高校生が読むことを考えて、漢字は「江戸文庫」版の新字を採用したのであったが、今回は原本を底本として、全くの零から始め、注も完全に一から施してある。また、ここでは挿絵が分離しており、話柄の展開に合わせて、配置を途中にもって行った。画像自体も今回、また新たにスキャンし、トリミングした。]

 讚州高松の城下より五里さつて、西南の方に室崎(むろさき)といふ所あり。後(うしろ)は山に便(たよつ)て、峯(みね)、峙(そばだ)ち、まへは海に續(つゞい)て、浦、ちかし。晝は樵歌(しやうか)・牧笛(ぼくてき)の聲、風に和(くわ)してきこへ、夜は漁歌(ぎよ〔か〕)の聲、岸うつ浪の音に夢をさまして、誠(まこと)におもしろき風景、矢手(め〔て〕)に金平(こんぴら)、ゆんでに矢嶋だんの浦(うら)、やくりがだけ、相引の鹽(しほ)、西海の多景(〔た〕けい)を、居ながら、兩眼(がん)の内(うち)に盡(つく)せり。

[やぶちゃん注:「讚州」。讃岐国(さぬきのくに)。現在の香川県。

「室崎」現在、このような地名は香川県内に見出せない。但し、高松城下から「西南」方向にあり、「矢手」(右手:古くは馬手(めて:馬上で手綱を持つ手)、左手を弓手(ゆんで:弓本体を執る手)と呼んだが、右手は矢をつがえる手であることから、「矢手」とも表記した)に「金平」、則ち、琴平山(金刀比羅宮)を配すとなると、一つの候補地としては香川県三豊市詫間町箱の室浜地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が挙げられるが、ここは高松からは直線距離でも凡そ四十三キロメートルも離れており、琴平以外の後の叙述と全く合わないから違う。室浜は庄内半島の先端部で備後灘に面しており、現在も清閑景勝の地ではあるものの、後に出る屋島・檀ノ浦・八栗ヶ岳・相引川等、室浜から約五十キロメートルも離れた屋島周辺を眺めることは地形図から見ても有り得ないからである。さすれば、そもそもが立ち戻って「西南」を「東北」の誤りととると、「金平」を除けば、大方の合点が行くのである。その場合、「室崎」は「牟礼」を候補とする。現在の香川県高松市牟礼町(むれちょう)牟礼及びその周辺域である。ここは左手が八島となって完全に一致する。「金平」はそもそもが何の対象を指して言っているか判らぬ。普通なら、琴平山(金刀比羅宮)であるが、それでは方向も何も合致しない。或いはそうではない対象物を指している可能性があり、又は「矢手」が「先手」の誤記であって、ずっと左奥の彼方(ここからは「西南」になる)に琴平山が見えて、手前の「ゆんでに」と続くなら、矛盾が氷解するのである。

「後は山に便て、峯、峙ち」この牟礼の半島部は以下に出る「やくりがだけ」(八栗山。五剣山とも呼ぶ。山上に四国八十八ヵ所第八十五番札所八栗寺がある。標高三百六十六メートル)やその南東に源氏ヶ峰(標高二百十七メートル)、半島中部から北部にも女体山・竜王山・遠見山・大仙山と続く。

「矢嶋だんの浦」八島壇ノ浦。これは無論、平家滅亡の赤間関の「壇ノ浦」ではなく、現在の香川県高松市屋島の東岸一帯の地名(かなりの部分が干拓され(後述)陸地化している)として名を残している場所を指す(言わずもがな、「平家物語」で那須与一が扇の的を射るエピソードのロケーションがここである。「那須与一扇の的」や「義経弓流し」(前のリンクの下方を見よ)の名場面のそれも完全に陸地である)。「壇ノ浦」ではなく「檀ノ浦」とするの正しいとする記載を見かけるが、国土地理院の地図上に見出せる地名も「壇ノ浦」であるから従わない。

「相引の鹽」相引川の「潮」の干満のことを指していよう。相引川は屋島と本土を隔てる全長約五キロメートルの東西に流れる人工河川の名。両端は瀬戸内海に開く(現在、東側が上記壇ノ浦と繋がっている。というより、往時の「壇ノ浦」は相引川の東西部川岸として陸地になってしまっているのである)。北の屋島と本土の間は本来は海であったが、江戸時代以降の埋立によって、八島は完全に陸続きとなって、旧海峡部分は川と呼称されるまでに狭隘化してしまったのであった。原文の「鹽」は「汐」=「潮の干満」の意であって、川の両端が海に繋がっている形となっているため、干潮の際には川の水が東西両方向に向かって相互引いていくという変わった現象が見られ、これが「相ひ引き合う」で河の名の由来となったとする説の他、「屋島の戦い」の際、この海域で源平双方が互いに譲らず「相ひ引いた」、引き分けたことによるという説もある(ここは概ねウィキペディアの「相引川」の記載を参考にした)。]

 

 さんぬる天和のころ、高松の御家中に、一國名取の男色、植木梅之介とて、いまだ二七の花の盛(さかり)、兄分といひかはせし人、聊(いさゝか)過(あやまち)の事あつて、御仕置に親疎(しんそ)なければ、ぜひなく、切腹おふせ付られ、梅の助へ書置一通殘し、則〔すなはち〕、御ぼだい寺において、いさぎよく、武士の本望(〔ほん〕もう)、成〔なし〕死をとげ侍りぬ。

 梅の介、其節は病気にて此事をしらず、少し快氣のおりふし、久しく對面せねば、床(ゆか)しく思ひ、

「長々の病中、終(つい)に一度も、とひたまはぬ。」

なんど、恨(うらみ)て、文〔ふみ〕こまごまと、したゝめ、

「是をとゞけよ。」

と、下人に渡しければ、親達、

「かゝる病中に右のおもむきをしらせなば、病気のうへに愁歎をかさね、いよいよ、病ひ、さかんになるべし。此返事、いかゞ。」

と、あんじ煩(わづら)ひ、やうやう、一つの謀(はかりごと)をもうけて、

「さんぬる比〔ころ〕、上より御使(し)しや役(やく)おふせ付られ、既(すで)に江戶へ發足(ほつそく)の砌(みぎり)、御身へ、いとまごひの爲、これへも來られ候へども、その節(せつ)は、御身、病氣、十死一生の折節なれば、對面させ申事、かなひ難く、我々、曖(あいさつ)のみにて、歸したる。」

との物語。

 梅の介、殘ねんなる顏つき、

「さては。それなれば、長々、音づれなきも理〔ことわ〕り。しかし、『病ひ本ぶくのおりふし、見よ』とて、一筆の文〔ふみ〕にても殘しおかれぬ所、曲(きよく)もなし。」

とて、神ならぬ身の、且(かつ)は恨(うら)み、または戀しく、江戶にての隙入〔ひまいり〕、道中上下の日限〔にちげん〕、ゆびを、おつて、かぞへ、

「もはや、御歸りも、程近し。」

と、男色の情(なさけ)の道に、露(つゆ)と消(きへ)し人を、まつも、はかなし。

[やぶちゃん注:「天和のころ」一六八一年~一六八四年。第五代将軍徳川綱吉の初期の治世(征夷大将軍宣下は延宝八(一六八〇)年で、この時期は「天和の治」と呼ばれた綱吉の善政時代であった)。この当時の讃岐高松藩は第二代藩主松平頼常(水戸光圀長男であったが、妾腹(女中)の子であったため、松平家養子となった。父の光圀は兄の松平頼重(讃岐高松藩初代藩主)を差し置いて自身が水戸藩主となったことを遺憾としていたことから、頼重の次男であった綱條(つなえだ)を光圀の養嫡子として藩主を継がせている)の治世であった。因みに、本書は元禄一七(一七〇四)年板行であるから、たかだか二十年ほど前となり、この最後の怪奇譚は、所謂、つい最近起こった事実として信じられている「噂話」、まずは大坂・京都に於ける「アーバン・レジェンド」として流布したであろうことが判るのである。それは、前に注した通り、これ以降に、繰り返し、繰り返し、この奇譚が別な作家によってインスパイアしていることからも証明出来るのである。

「一國名取の男色」讃岐国中に知らぬものとてない若衆道の美男。ここで言っておかなくてはならないが、当時の習慣ではこうした若衆道に入るのは、武士世界では至って普通のことであり、世間的に正常なものと認識されていたことである。見染めた年上の武士が、若侍の父母に義兄弟の契りを望み、誓約書を交わして、少年の父母から公認の許諾を受けるという礼式もごく普通に行われたのである。そうした誓約書の原本が今も残っていたりする。

「植木梅之介」不詳。

「二七」数え十四。

「親疎なければ」藩士として藩主から親しく重用されていたとか、疎遠で存在も知られていなかったとかによる、斟酌は全く汲まれることはないので。

「梅の助」ママ。「すけ」は通用し、自分でも書き変えた事例は幾らもある。

「おふせ」ママ。「仰(おほ)せ」。以下も同じ。

「本望(〔ほん〕もう)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「ほんまう」が正しい。

「おりふし」ママ。「折節(をりふし)」。以下も同じ。

「終(つい)に」ルビはママ。「つひに」が正しい。以下同じ。

「曲もなし」愛想もない、つれないことだ。

「神ならぬ身の」神のようには理非を弁え、我慢することの出来ぬ身なれば。

「隙入」課せられた藩の使者としての任務の推定所要時間。

「おつて」「折(を)つて」。ママ。]

 

Amagane1

[やぶちゃん注:半幅一枚の挿絵。国書刊行会「江戸文庫」版よりトリミングした。後の一枚も同じ。]

 

 其後、病氣、次第に本復(〔ほん〕ぶく)して、

「けふは溫(あたゝか)なれば。」

とて、さかやきをそり、身を淸(きよ)め、食ごなしの爲、杖をさゝへ、病中、たびたび見まひに預りし少年中間(しやう〔ねんなかま〕)への礼ついでながら、彼〔かの〕人の屋しき、なつかしく、まはりて、其門ぜんを通れば、ふしぎや、屋舖がへありしと見へて、門に、我〔わが〕友達の宿ふだ。内をのぞけば、おりふし、あるじ立出、梅の介を見付、

「さても永々の大病、御本ぶく、けふは初立(うい〔だち〕)と見たてまつりぬ。まづ、少し、是〔これ〕へ、御入〔おいり〕あれ。」

とて、ぜひに、ざしきへともなひ、四方山〔よもやま〕の物がたり。

 見れば、書院(しよいん)のかゝり、庭の木立(こ〔だち〕)、ありしにかはらぬ躰(てい)、梅の助、何とも、ふしんはれず、

「さても。是はきれいなる所へ御屋舖がへ。いつより、是へ御うつり候や。」

と問(とへ)ば、あるじの返答(へんたふ)に、

「まへの屋しき主、切ぷくの以後、早速、此屋舖拜領いたし候へども、忌中五十日、遠慮、先月より、これへうつり、長屋のはしばしまで、いづれも普請ねん入れおかれ、われわれに過〔すぎ〕たる大屋しきなれども、當分、しゆふくの世話もなく、あんど致したる。」

との物がたり。

[やぶちゃん注:「さかやき」「月代(さかやき)」。男性が前額から頭の中央にかけて髪を丸く剃り落とした部分及びそうした髪形を指す。本来は、武士が戦場で兜(かぶと)を被った際、髪があると、熱気が籠って苦痛であることから起こった風習で、早くは平安時代からあったとされる。当初は戦さが終わると、髪を伸ばしたが、やがて常時、月代を剃るようになり、江戸の太平の世にも行われ、一般町人にも普通に広がった。

「我友達」言うまでもないが、これは先の「少年中間」(「中間」は「なかま」で「仲間」の意で、武家下人の中間(ちゅうげん)ではない)とは別人。

「宿ふだ」「宿札」。表札。

「初立」病後の初めての外出。

「かゝり」構え。

「しゆふく」「修復」。「修」は「しう」が歴史的仮名遣であるが、「しゆ」と読むことがかなり多い。

「あんど」「安堵」。]

 

 梅の介、

「はつ」

と、おどろき、くはしく、しさいを問(とは)まほしけれど、爰にてとふも、はしたなき事におもひ、心をおさめ、あるじへ、いとまをこひ、彼〔かの〕屋しきを立出〔たちいで〕、道すがら、ともの下部(〔しも〕べ)をせめて、くはしくやうすをとへば、ありし次第を語るにぞ、梅の助、いとゞ胸ふさがり、覚悟を極(きはめ)、我屋しきへ歸りて、

「扨も、藤介殿事、不慮(〔ふ〕りよ)成〔なる〕死を致され、かねて、『死〔しな〕ば、一處(〔いつ〕しよ)』と申〔まうし〕かはせし中〔なか〕を、我等、病氣ゆへ、其節、たいめんをだに、とげず。さぞや、さいごの砌(みぎり)、われら、戀しく、おぼしつらん。しかれども、しらざる事は、ぜひもなし。延引(えんいん)ながら、今、かく聞付(きゝ〔つけ〕)て、独(ひとり)跡にながらふる時は、衆道の一分〔いちぶん〕立(たち)難し。不孝のだんは御めんを蒙(かうふ)り、我も彼〔かの〕靈前(れいぜん)において自害(じがい)をとげ、同じ苔(こけ)の底に形をうづんで、生(いき)ては、人に恥(はづ)る事なく、死しては、彼人へ男色のいき路(ぢ)を立〔たて〕、二世〔にせ〕のちぎりを結(むす)びたき。」

よし。

[やぶちゃん注:「おさめ」ママ。「納(をさ)め」。

「ともの下部」「供の下部」。お供の僕(しもべ)。彼は当然、隠されてあった事実を知っていたのは言うまでもな、父母から隠蔽を指示されていたのである。

「藤介殿」ここで相手の名が初めて読者に明かされる。人物は不詳。

「中〔なか〕」「仲」。

「ゆへ」ママ。「ゆゑ」が正しい。

「たいめん」「對面」。

「延引ながら」延び延びとなって遅れてしまったけれども。

「一分〔いちぶん〕」一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。

「いき路」「意氣地」(自分自身や他者に対する面目(めんぼく)から自分の意志をあくまで通そうとする気構え)を、若衆道に生きた者のせめてもの魂の「生きる」唯一の「路(みち)」に掛けたもの。

「二世〔にせ〕のちぎり」来世までもともに愛し合う者同士として連れ添おうという約束。]

 

 父母、おどろき、いろいろなだめ、

「愁歎のあまり、さ程におもふは理(ことわ)りなれども、死して何の益(ゑき)かあらん、もはや、日數(ひかず)も程經(へ)ぬれば、追付(おいつく)事も、かないがたし。親のなげきを義理にかへて、かならず、おもひとゞまれ。」

と。

[やぶちゃん注:「益(ゑき)」ルビはママ。「えき」でよい。

「追付(おいつく)」ルビはママ。「おひつく」が正しい。

「かないがたし」ママ。「叶ひ難し」。]

 

 達(たつ)て、敎訓、もだし難(がた)く、竊(ひそか)に屋舖(しき)をぬけ出〔いで〕、彼(かの)ぼだい寺に行〔ゆき〕、一堆(いつたい)の塚(つか)のまへにて、はかまの上(かみ)、おしくつろげ、既に自害に及びし所に、をりふし、和尚、物かげより此躰(てい)をほのかに見付、刄(かたな)をうばひ、やうすを、だんだん、せんさくのうへ、

「尤〔もつとも〕、一通りは義理にて、それは血気(けつき)の勇(ゆう)のみなり。仁義の道には、かなひ難し。主(しう)の追(をい)ばら切〔きり〕、親のかたき、兄分の助太刀を討(うつ)は、武士(ぶし)たる人のつねの道(みち)なり。たゞ今、これにて自害したまふは、忠にもあらず、孝にもあらず、心中の誠〔まこと〕もたゝず、たゞ親へ不孝、君(きみ)へ不忠となるのみにて、無益(むやく)の事に命をすつれば、おもふ人の為(ため)にもならず。誠〔まつこと〕其人の事を大切(たいせつ)に思ひ給はゞ、命をながらへ、修行の功をつんで、跡(あと)をとひ、ついぜんをなしたまはざる。」

と、義を說(とき)、道(みち)を立、理非(りひ)分明(ぶんめう)に敎化(けうげ)ありしかば、梅の介、たちまち悟道發明(ごだうはつめい)して、

「さてさて、あり難き御しめし、我身、無學麁昧(むがくそまい)の小人(せうじん)、ぐちの闇(やみ)に迷(まよ)ひ、仁義にあらぬ死を、とれり。此上は師弟のちぎりを結び、長く敎へをたれたまへ。」

と、父母、一門にもいとまごひして、直(すぐ)に此寺にとぢこもり、螢雪讚仰(けいせつさんがう)の功をつんで、翌年、三五の月の形(かたち)を、機散(きさん)の春の落花とともに、終に翠柳(すいりう)の髮(かみ)を剃落(そりおと)して、おしきかなや、紅顏の男色、すみ染の袖にちり果(はて)ぬ。

[やぶちゃん注:「達(たつ)て」副詞。「たって」は「達て・强つて」の字を当てるが、これは当て字で、「理を斷つて」の意が元である。どうしてもあることを実現しようと強く要求したり、切実に希望したりするさまを謂い、「無理に・強いて・どうあっても」の意。但し、使用法がやや変則的で、これは「敎訓」を飛び越えて、離れた「もだし難く」に掛かって、以下の「竊に屋舖をぬけ出」という仕儀となるのである。

「敎訓」「父母の諭し」で、それを突っぱねるわけには行かないので、その場では行動に移らなかったものの、で以下の「もだし難く、竊に屋舖をぬけ出」という隠れた実行行為にジョイントさせるという、やや強引な表現である。

「もだし難く」とても自身の思いをそのままにはしておけぬ故に。

「彼(かの)ぼだい寺」かの藤介の菩提寺。

「一堆(いつたい)の塚(つか)」土饅頭。藤助の墓である。

「はかまの上(かみ)、おしくつろげ」切腹の礼式。

「せんさく」「穿鑿」。細かに問い質すこと。

「尤〔もつとも〕、一通りは義理にて」「なるほどな、まあ、一通りは義理が通った話のようには見えるが、しかし、」という逆接表現である。

「主(しう)」ルビはママ。普通は「しゆう」であるが、しかし「主人」の読みの如く「しゆ」もあり、ここはそれ。主君・主人。

「追(をい)ばら」ルビはママ。「追腹(おひばら)」。主君の死後に臣下の者がその後を追って切腹すること。殉死。「二君に仕えず」とする武家社会の基本道徳で、当初は戦死の場合に行われることが殆んどであったが、後には主人の病死でも行われ、江戸初期には全盛期を見た。幕府は寛文三(一六六三)年に殉死禁止令を出したが、それでも後を絶たなかったことから、寛文八(一六六八)年に起こった宇都宮藩での追腹一件(おいばらいっけん:藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したところ、忠昌の世子であった長男奥平昌能(まさよし)が忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「いまだ生きているのか」と詰問し、杉浦は直ちに切腹した事件。幕府は奥平家に対して二万石減封の上、出羽山形藩九万石への転封に処し、殉死した杉浦の相続者を斬罪に処するなど、非常に厳しい処分を行った。昌能が家禄だけの処分となったのは、彼が徳川家康の長女亀姫の血を引いていたからである)で関係者を連座させて厳刑を科して以来、激減した。

「跡をとひ」跡を弔い。

「ついぜん」「追善」。

「分明(ぶんめう)」ルビはママ。「ぶんみやう」が正しい。

「悟道發明」仏道に入って悟りを開くこと。

「麁昧」性質(たち)が粗雑で、智に冥(くら)いこと。

「ぐち」「愚痴」。仏語。愚かなこと。無知によって惑わされ、総ての事象に関して、その真理を見極めることが出来ない愚かな心の状態を指す。

「螢雪讚仰(けいせつさんがう)」苦学に励み、師の徳を仰ぎ尊んで修行に励むこと。「螢雪」は「蛍の光」の歌や「蛍窓」でも知られるが、晋の車胤(しゃいん)が蛍を集めてその光で書物を読み、孫康が雪の明かりで書物を読んだという「晋書」の「車胤傳」の故事に基づき、「讚仰」(仮名遣「さんごう」)は「さんぎやう(さんぎょう)」とも読み、出典は「論語」の「子罕(しかん)」篇の「仰之彌高、鑽之彌堅」(之れを仰げば彌(いよいよ)高く、之れを鑽(き)れば堅し:師の徳は見上げるほどにますます高くあり、その御意志は剪(き)りつけようとすれば、ますます堅いものとなる)に基づく。

「三五」数え十五歳。

「月の形」年齢のそれを旧暦の欠けることのない大円の望月に擬え、欠けるところとてない円満なる悟達を見事に果たしたことを指す。

「機散(きさん)」最も正しく散るべき時機を弁えること。ここも同じく出家遁世の成就の時機を指す。

「すみ染の袖にちり果(はて)ぬ」くどいが、誤解してはいけない。ここは亡くなったのでは、当然ない。穢れた世を捨てた真の仏道に生きる遁世者となったことを指す。]

 

 然〔さる〕に、此寺も大樹(たいじゆ)のぼだい寺なれば、家中よりのさんけい、しげく、

「いにしへの友をさくべき隱室(いんじつ)にあらず。」

と、彼(かの)室崎(むろさき)に來〔きた〕り、一宇を結んで、晝は遠浦(ゑんほ)の歸帆に目を悅ばしめ、夜(よる)は松ふく風の音(おと)に心をすまして、親族の緣を切〔きり〕、世のまじはりを斷(たて)ば、おのづから、人も、とい來(こ)ず、よくもなく、怒(いかり)もおこらず、偏(ひとへ)に後生(ごしやう)ぼだいのみを心にかけて、道心けんごに行ひすましぬ。

[やぶちゃん注:「然〔さる〕に」接続詞。逆接。「しかるに・ところが」。

「大樹」名刹・大寺院の比喩。

「さんけい」「參詣」。

「さくべき」「避くべき」。

「とい來(こ)ず」ママ。「訪(と)ひ來ず」。

「よくもなく」「欲も無く」。

「けんご」「堅固」。

「行ひすましぬ」「行ひ澄(淸)ましぬ」。「すます」は動詞の連用形について、「一つのことに心を集中してその行為をする」或いは「完全に~する」の意を表わす。「ひたすら戒を守って修行し続けた、の謂い。]

 

 然〔しか〕るに、此所〔ここ〕に「雨鐘(あまがね)」とて、奇代(きだい)の事あつて、雨(あめ)ふれば、いづくともなく、鐘の音、かすかにきこへて、念佛の聲は、なし。

「さだめて、迷ひ變化(へんげ)のわざなるべし。」

とて、所の者も、おそれあへり。

 此道心、ふしぎのあまり、

「かやうの事を見とゞけてこそ、後世(ご〔ぜ〕)の疑(うたがい)もはれ、修行の種(たね)ともなるべけれ。」

と、終夜(よもすがら)、心をつくして、終(つい)に鐘の鳴(なる)元を見屆(とゞ)け、其所に印をさして、立歸り、翌日(よくじつ)村のものども、あまた、やとひ、彼(かの)所をほらせければ、土より四尺程下に、楠(くすのき)の板、一枚あり。

 はねおこして、その下を見れば、歲の程四十ばかりのほうし、鼠色の大衣(だいゑ)をちやくし、せうすいと、やせおとろへ、まへに鐘鼓(せうご)をひかへ、手に鐘木(しゆもく)をさゝへ、西むきに、けつかふざせり。

[やぶちゃん注:「鐘」これは後の描写で判るが、梵鐘や摺り鐘などではなく、仏具として用いる小さな鐘鼓(しょうご:「鉦鈷」とも書く)である。特に念仏を唱える際に拍子を打つの用いるもので、皿に似た青銅製の小型の鉦(かね)である。T字型をした撞木(しゅもく)を持って打ち鳴らすものである。言わずもがなであるが、地中よりこの鉦の音(ね)が絶えたとき、即身成仏を遂げたとするのである。されば、その鉦の音がずっとし続けること自体が有り得ない恐るべき怪異なわけである。

「迷ひ變化(へんげ)」聴きなれぬ語であるが、この「迷ひ」は他動詞「迷はする」的な用法で、「人を迷わせる変化(へんげ)の物の怪(け)」の謂いで採っておく。

「後世(ご〔ぜ〕)」来世。

「疑(うたがい)」ルビはママ。ここは来世の存在の疑義、引いては因果応報を疑うことを指す。死者の亡霊や妖怪或いは水子(現在もその供養で大金を儲けている寺が無数にあるが)といった葬式仏教で幅を利かせているものは、本来的な仏教では方便に過ぎず、その存在自体は正法(しょうぼう)にあっては害こそあれ、益にならず、実は何らその存在を積極的に肯定してはないのである。

「大衣(だいゑ)」三衣(さんえ/さんね:僧が着る袈裟の種類を言い、正装たる僧伽梨(そうぎゃり)=大衣(だいえ)=九条と、普段着に相当する鬱多羅僧(うったらそう)=上衣(じょうえ)=七条、及び、作業服に相当する安陀会(あんだえ)=中衣(ちゅうえ)=五条の三種を指す)の正装である大衣。九条、古くは二十五条を持つ袈裟(この「条」とは襞のことではなく、小さな布を縦に繋いだものを横に何本繋いだかを示す語で、御覧の通り、多い方がより正式・高位を示す)を指す。

「せうすいと」「憔悴と」であろう。

「鐘鼓(せうご)」ルビはママ。歴史的仮名遣は「しようご」でよい。後も同じ。

「けつかふざ」「結跏趺坐」。「跏」は「足の裏」、「趺」は「足の甲」の意で、仏教の坐法の一つ。両足の甲を、それぞれ、反対の腿(もも)の上に載せて押さえる形の座り方。先に右足を曲げて左足を載せる方を「降魔坐(ごうまざ)」、その逆の「吉祥坐」の二種がある。禅定(ぜんじょう:心を統一して三昧(ざんまい)に入って寂静になること)修行の者が行う。蓮華坐とも呼ぶ。]

 

Amagane2

 

 人々、おどろき、鋤(すき)・くわをすて、迯(にげ)ちりぬ。

 然(しか)れども、此道心、すこしもさはがず、

「抑(そもそも)御身は、いか成〔なる〕人ぞ。」

と、とへば、彼〔かの〕ほうし、

「我は、さんぬるころ、此土中へ入定(にうでう)せしものなり。

 その節(せつ)、一國の人民(にんみん)、我に結緣(けちゑん)のため、貴賤、ぐん集(じゆ)して、步(あゆみ)をはこぶ中に、よはひ二八ばかりの娘(むすめ)一人(ひとり)、夭桃(えうたう)の露(つゆ)をふくみ、芙蓉(ふよう)の水を出〔いで〕しすがたにて、母親ともに、我前へむかひ、

『一蓮詫生(いちれんたく〔しやう〕)。』

と手を合〔あはせ〕て、さりぬ。

 我、三界〔さんがい〕を出離(しゆつり)して愛着(あいぢやく)の念、なし。諸論、既につきて、此〔この〕定へ入〔いり〕ぬ。

 しかれども、さいごの砌(みぎり)、

『あゝ、うつくし。』

と、彼〔かの〕娘の、あだなる像(かたち)を、たゞ一念、よそながら、思ひしより、見濁(けんぢよく)の業(ごう)に引〔ひか〕れ、五薀(〔ご〕うん)のかたち、いまだ、破れず。

 されば、其娘、つゝがなく、世にありや。」

と、とふ。

 道心、いよいよ、不審晴(はれ)ず、

「そもそも、御身の入定、世にしれる者、なし。年號はいづれの歲、時代はいつの時にあたれる。」

 彼(かの)ほうし、こたへて謂(いふ)やう、

「かまくらの將ぐん義詮公(よしのりこう)の御代、年號(ごう)は、これに、しるしぬ。」

とて、彼〔かの〕せうごを、さし出〔いだ〕す。

「さては。光陰、遙(はるか)に隔(へだゝ)り、三百七十余年を經たり。其娘は、とく、死せり。今は子孫も世になし。」

と、いへば、入定のほうし、是をきゝ、

「鳴呼(ああ)、嗚呼、」

と、いふて、目をふさぎ、見て居(い)る内に、肉身(にくしん)、くちて、霜のきゆるごとく、四大分散して、たゞ一連の白骨(はくこつ)となる。

 衣を取あげて見れば、灰のごとく、

「ばらばら」

と消(きへ)うせぬ。

 誠に、「一念五百生〔しやう〕けねん無量劫(むりやうごう)」、おそるべく愼(つゝしむ)べきは、愛着(あいぢやく)なり。

 それより、此所に一宇を建(たて)て、彼〔かの〕せうごを什物(じう〔もつ〕)とし、「雨鐘」と號(なづけ)て、今にあり。

 

 

金玉ねぢぶくさ一之終

[やぶちゃん注:「くわ」ママ。「鍬(くは)」。

「はうし」ママ。「法師(ほふし)」(通常の「法」の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語では「ほふ」が使われる)正しい。以下同じ。というより、本書では盛んに出る歴史的仮名遣の誤りの一つで、以降は原則、注さない。悪しからず。

「入定(にうでう)」ルビはママ。「にふじやう」が正しい。断食や生き埋めなどの苦行の果てに絶命し、そのままミイラ化するところの、所謂、「即身仏」を指しているが、これは一般に仏教教義や正規の修行法にでもあるかのように錯覚されているが、全くの出鱈目であって、単なる民間信仰のレベルのおぞましい産物に過ぎない。

「結緣(けちゑん)」本来は仏・菩薩 が世の人を救うために手を差しのべて縁を結ぶことをシンボライズするが、ここは即身仏になられる大徳(だいとこ)ということで、衆生が、ありがたい仏法の体現志願者たるその人に逢って縁を結び、その魂に触れることによって、未来の成仏や得道の可能性を得ることを指す。

「ぐん集」「群集」。

「步(あゆみ)をはこぶ」彼の前に進み出て来拝する者の中に。

「二八」数え十六。梅之助の若き日と重なるように仕組まれてある。

「夭桃」「夭」は「若」で「若い」の意。みずみずしく美しく咲いた桃の花を指す。

「芙蓉(ふよう)の水を出〔いで〕しすがた」「いで」を添えたのはそのままでは躓くと考えて私が添えたもので、原本の記載例から見ると、この読みでない可能性もあろうとは思うが、他によい訓読法がない。この場合の「芙蓉」は「蓮の花」の古い美称別称である。

「一蓮詫生」「詫」はママ。誤りで「一蓮托生」が正しい。死後に極楽の同じ蓮華の上に生まれることを言う。

「三界」仏教の宇宙論に於いて人々がその中にいるとされる「迷い」の世界を三種に分けた謂い。「欲界」・「色界(しきかい)」・「無色界」の三種の世界で、「欲界」は淫欲と食欲がある衆生の住む世界であり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上道の六道を指し、「色界」とは「物質的な世界」の意で、淫欲と食欲の二欲を離れてある衆生(天人)の住んでいる世界とする。ここには清らかで純粋の物質だけがあるとされる。「無色界」はその「色界」の更に上位の時空間で、物質的なものから完全に離脱した衆生(天部の天人の最上位の連中)の住むところで、そこには物質が全く存在しない精神だけの世界、欲望も物質的条件も超越し、まさに、即、禅定の世界を指す。それでも「無色界」でさえも「精神」に捕われた未だ「迷い」の世界なのである。この僧は――それらを超越して仏菩薩の領域に入り、衆生の「迷い」の世界を「出離(しゆつり)して」いかなる対象に対しても「愛着(あいぢやく)の念」を持つことが無くなった――仏教教学に於けるあらゆる考え方や諸派の「諸論」への疑義や賛同といった偏頗な主張・主観も「既につきて此定(でう)へ入」った――と思っていた――のだ――この娘を見る瞬間までは……と言うのである。

「さいご」これは「最期」である。彼は則ち、実際には自身の肉体は本来的にはもう失われている、生命現象としては死を通過していることを認識しているのである。しかし、その死の大事な一瞬間に於いて、図らずも、かの娘を思い出し、「ああ、美しい!」とちら思い浮かべてしまったのである。

「あだなる」「婀娜なる」。艶めかしく美しいさま。色っぽいさま。これをわざわざ教義に惹かれて「徒なる」(儚い・無用だ)の意にハイブリッドで読み解く必要はない。それこそそれは僧が退けた「諸論」の低いレベルの話だからである。

「よそながら」それとなく。はっきりとではなく、間接的に。意識の薄明である。

「見濁(けんぢよく)の業(ごう)」「ごう」はママ。正しくは「ごふ」。仏教用語の五濁(ごじょく:現世の五つの穢(けが)れの相を指す。天災・疫病・戦争の発生たる「劫濁(こうじょく)」、この「見濁」、多くの衆生が長生きできなくなる「命濁(みょうじょく)」、煩悩により邪悪なものが蔓延(はびこ)る「煩悩濁」、衆生の持っている資質や因縁果報が生来的に下劣不善なものとなる「衆生濁」を指す)の一つ。広義には、邪悪な思想や誤った見解が蔓延することを言うが、ここでは極めて具体的に、「娘の美しさを垣間見たことによる穢れ」、そこから生じた「愛着の、時空間を越えたおぞましい悪業(あくごう)」の様態全部を指している。

「五薀(うん)」「蘊」はサンスクリット語の「積み重なり集まったもの」の意の語の漢訳。仏教で現世の人間存在を構成する五つの要素を指す。色蘊(しきうん:肉体)・受蘊(感覚)・想蘊(表象・想像)・行蘊(ぎょううん:意志・欲求)・識蘊(識別・判断)。「五陰(ごおん)」とも呼ぶ。これが、現在、そこに見えているように見える土中から出た僧の、一見、生きた僧に見える状態を仮に形成させているというのである。そこまで認識していながら、遂にしかし「されば」と言い掛け、「其娘、つゝがなく世にありや」? と問うてしまうところが、永劫に哀れなのである。

「かまくらの將ぐん義詮公(よしのりこう)」原本に「義詮(よしのり)」と読みを添えるが、これは誤り。これは「よしあきら」と読むのが正しい。しかし、足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年)は室町幕府第二代将軍としては、正平一三/延文三(一三五八)年に征夷大将軍の宣下を受けているものの、「鎌倉の将軍」と呼称するような地位にあったことはない。但し、父足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際、彼(幼名は千寿王)は人質として鎌倉にあったが、尊氏の家臣らの手引で脱出し、新田義貞に奉じられて、改めて鎌倉攻めに参加している。この時、彼は三歳ながら、父の名代として追討軍の将軍に相当する格付けであったことはある。しかしそれは、戦闘に於ける一時的な通称に過ぎず、それを以ってこの「かまくらの將ぐん」をそのまま受け入れることは不可能なのである。と言うより、この直後に彼の入定を掘り出された作中内時制から遡って「三百七十有余年」前と称している事実に着目しなくてはならない。作中時間である天和年間からほぼ確実な逆算出来る数値が示されており、これがこの叙述とは大きく齟齬し、「不審晴れ」ざるものだからである。即ち、この逆算をすると、足利義詮は生れてもいないのである。「三百七十有余年」という謂いを三百七十一以上三百七十八年と一先ず置くと(本来は私はこれは「三百七十六年前」前後と読む)、天和年間からでは最も遡って一三〇三年となり、最も下って一三一三年なのである。即ち、この乾元二・嘉元元(一三〇三)年から正和二(一三一三)年の期間内にこの法師は入定したということになる。するとこれは鎌倉末期であり、その時に「鎌倉の将軍」と表現可能な人物は第八代鎌倉幕府将軍久明親王(在位:正応二(一二八九)年~延慶元(一三〇八)年)、若しくは、第九代にして最後の鎌倉幕府将軍守邦親王(在位:延慶元 (一三〇八)年~元弘三(一三三三)年五月二十二日)の何れでしかいないことになる。該当期間はどちらも前後六年で悩ましいのであるが、こじつけるなら、前者の久明親王の名は「ひさあきら」とも「ひさあき」とも二様に訓ずるが、前者の方が一般的で、本文の「義詮」の正しい読みが「よしあきら」であるからして、そこで後ろの読みの一致が認められると言える。しかも、江戸時代の人々は足利義詮はよく知っていても、鎌倉幕府の傀儡将軍久明親王なんぞは、あまり知る人もいなかっただろうと思うのである。その辺の意識が働いて、有名人の方をうっかり記しかけて、表記を誤った(或いは彫師が勝手にかく彫ってしまった)のかも知れない。或いは、有り得ない創作怪談だったからして、わざと史実を誤って、作者自身がそれを匂わせるためにこの名にしたのだとも言えなくもない。因みに、私は整合性を考えて、サイト版「雨鐘(あまがね)の事」現代語訳では、敢えて原文を無視し、「鎌倉の将軍久明公の御代」という訳とした。私は怪談だからこそ、事実に合わない記載、歴史的に在り得ない設定は、極力、避けるべきであるという立ち位置をとっているからである。周辺事実に補強・裏打ちされてこそ、怪異は怪異として〈事実めいたリアルな恐怖〉を与えることが出来るという考え方を良しとするからである。

「四大」仏教用語「四大種(しだいしゅ)」の略。時空間を形成する四つの元素の意。物質的現象を要素の点から四種に分類したもので「地大」 (堅固を本質とし、保持することをその作用とするもの) ・「水大」 (湿気(しっき)を本質とし、収め集めることをその作用とするもの)・「火大」 (熱を本質とし。成熟させることをその作用とするもの) ・「風大」 (動を本質とし、成長させることをその作用とするもの) の四種。ここは「分散して」に続けて、その場で、周囲の空間の中へ、僧の骨を除く肉部分が急激に放散されていったさまを表現したもの。

「ばらばら」「江戸文庫」版では「はらはら」と清音であるが、原本には明らかに濁点が打たれてある(確認したが、もう一本も同じく濁点がある)。「はらはら」ではこのコーダが台無しになる。

「消(きへ)うせぬ」ルビはママ。

「一念五百生けねん無量劫」「一念五百生繫念」(けねん)「無量劫」で一連の仏語。「一念五百生」は僅かにただ一度きりでも、心に妄想を抱いただけで、その人は五百回もの回数にわたって輪廻し、その報いを受けるということを言う。後半は「一念五百生」と称されるものの、もし「繋念」(特にはっきりとある対象に思いを深くかけてとらわれてしまうこと)した時には、量り知れない長い時間に亙ってその罪を受けることになることを指す。特に男女の愛情について教訓して示されることが多い。「徒然草」の「あだしの露」で示された通り、親子の「愛着(あいぢやく)」でさえ、それを愛欲として捉え、おぞましい因果とするのが仏教なのである。

「什物(じう〔もつ〕)」ママ。「じふもつ」が正しい。

『「雨鐘」と號(なづけ)て今にあり』実在するという話や、この話柄に所縁のある寺院というのも聴いたことがない。そもそも「雨鐘 香川県 寺」のフレーズ検索では私のサイトの「雨鐘(あまがね)の事」が掛かってくる始末だ。]

2020/08/27

浮世草子怪談集「金玉ねぢぶくさ」 電子化注始動 / 序・卷之一 水魚の玉の事

 

[やぶちゃん注:「金玉(きんぎよく)ねぢぶくさ」は、正体不明の章花堂なる著者の元禄一七(一七〇四)年板行になる浮世草子怪談集である。浮世草子とは、天和二(一六八二)年に刊行されて爆発的流行を見せた井原西鶴の「好色一代男」以降、実に宝暦・明和 (一七五一年~一七七二年) 頃までに及ぶ、実に約八十年に亙って上方(制作板行は当初は西鶴の地元であった大坂で、後には京都に移った)を中心として出現した一連の町人文学群を、それまでの仮名草子とは一線を画するものとして呼んだもので、初期はそれ以前の作品もひっくるめて仮名草子と呼ばれており、浮世草子の名称が生れたのは宝永年間 (一七〇四年~一七一一年)であった。題簽は「新版繪入 金銀ねじぶくさ」であるが、それ以外の序題・目録題・内題・尾題ともに「金玉ねぢぶくさ」である。「ねぢぶくさ」とは「捻(ひね)り袱紗(ぶくさ)」で「ふくさをひねって小銭などを入れて懐にしまうための簡易の財布や、お捻りもの」を指すが、本書は他の知られた浮世草子怪談集の辻堂非風子作「多滿寸太禮(たますだれ)」や落月堂操巵(そうし)作「怪談乘合船」などに比べると、それらが種本を中国の志怪小説に依拠しているのに反し、本邦の先行する怪奇談に依拠する傾向が見られることのほか、その題名からも仄かに匂ってくるように、実は若衆道に係わる話柄が有意に多いこと(前二書では全く見られない)が特徴として挙げられるのである。

 私は実は二〇〇七年二月二十一日にサイトに巻一の「雨鐘(あまがね)の事」を電子化訳注している。いつかは全電子化注をしようと思いつつ、十三年もの月日が経ってしまった。

 底本は早稲田大学図書館公式サイト内の「古典総合データベース」のこちらにある、元禄一七(一七〇四)年序の後刷である寳永七(一七一〇)年版を使用した(同一板本が二冊あるので、場合によって参考底本を変えた。基本は明度が高く視認し易いこちら(二番目にあるもの)を使用した)。但し、判読に迷う箇所や不審な部分は、所持する国書刊行会一九九四年刊の「叢書江戸文庫34 浮世草子怪談集」と校合した。同「江戸文庫」版の本文底本は国立国会図書館蔵本で、その刊記は以上の私の底本と全く同じ(底本最終巻巻末のHTML画像)「寶永七庚寅九月吉祥日」のクレジットだからである(但し、「江戸文庫」の本文最後の刊記のみは東大付属図書館霞亭文庫蔵本の初刷のものを採用してある)。また、同書の校訂は木越治氏であるが、「上智大学」公式サイト内の「木越研究室」の「その他の作品」にある同書の電子化されたアーカイブ(私は二〇〇三年二月に「Jallc」(情報処理語学文学研究会)のテキスト・アーカイブで最初期のものを入手している)の最新データ(但し、新字体)を加工用に使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 底本は非常に多く読みが振られてあるが、特異な読みや、私が読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。逆に読み難い箇所には〔 〕で私が推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。句読点は「江戸文庫」を参考にしつつ、独自に附した。濁点は読む障害になる場合は迷わずに補った。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。正字か略字か判断に迷ったものは、正字で示した(明らかな略字であっても、雰囲気を損なうと判断してせいじとした箇所も多い)。記号も大いに用い、直接話法及びそれに準ずるものは改行を施し、自由にシークエンスごとの段落を成形した。挿絵は、単純平面画像をただ複写したものには著作権は生じないという文化庁見解に従い、「江戸文庫」版より挿絵をスキャンしてトリミングし適切と思われる位置に配した(左右に分かれているものは合成した)。注は概ね成形した各段落末などに挿入し、注の後は一行空けた。【2020827日始動 藪野直史】]

 

 

新版

  金銀ねぢぶくさ 一

繪入

[やぶちゃん注:表紙の題簽。頭は二行分かち書き。実際には主標題は「金銀ねちふくさ」で濁点はなく、「ね」は「祢」の、「ふ」は「婦」の崩し字。二巻以降はこれはカットする。]

 

金玉(きんぎよく)ねぢぶくさ序

儒佛(じゆぶつ)、おしヘは異なれ共、理(り)は一也。孔子は現(げん)を說(とき)、尺迦は未來を述べ、それぞれの機(き)に順(したがつ)て切磋琢磨の道を立(たつ)る。しかれども、其規模とする所は、皆(みな)人、仁に、義に、忠に、孝、ならん事を思ふのみ。於ㇾ是(こゝにおいて)、余も又、怪をいふ事を恐れず、理(り)となく、方便(はうべん)となく、交(まじ)へ、記しぬ。是を「金玉ねぢぶくさ」と題する事、「金玉」は人の所ㇾ愛、「ねぢぶくさ」の如く、常に懷ㇾ之せば、初學の爲に便〔びん〕あらんかと云ㇾ尓。何ぞ博厚(はくこう)の人の前に、謗(そしり)を得る事をうれへんや。

  元祿十七初陽吉辰 章花堂

[やぶちゃん注:「おしへ」ママ。「敎(をしへ)」。

「所ㇾ愛」「愛する所」。

「懷ㇾ之せば」「之れを懷(ふところ)にせば」。

「云ㇾ尓」「しか云ふ」。

「博厚」博識でその知が重厚でしっかりとして揺るぎないこと。

「元祿十七」「甲申」は「きのえさる/コウシン」。一七〇一年。

「初陽」陰暦正月の異称。

「吉辰」「きつたつ(きったつ)」は「吉日」の意。

 以下、目次が続くが、電子化の最後に回す。] 

 

 

金玉ねぢぶくさ巻之一

  水魚(すいぎよ)の玉(たま)の事

Suigynotama

 世に伯樂とて馬(むま)の目明(めきゝ)有〔あり〕て、然(しかう)して後(のち)に、千里の名馬、出〔いで〕、人に聖人の明德(めいとく)あつて、然して後に、賢人、あらはる。しかれども、人、見るに、物の邪正(じやしやう)をわかたず、聞(きく)に善惡(ぜんあく)・理非(りひ)をしらず。これ、同じ目、同じ耳に、正通(しやうつう)偏塞(へんそく)のかはりある事、いか成〔なる〕理(り)ぞや。

[やぶちゃん注:「正通偏塞」儒学や漢方で陰陽説に基づいて謂う語で対象の真理のが正しく認識されるか、逆に偏っているために閉塞を受けて誤った認識しか出来ないことを指す。根本的に人が理非を弁えるのは正通しているからであり、植物が動けず、鳥獣が理知を持たないのは偏塞しているからだと朱子学などでは説いている。]

 

  古(いにし)への卞和(べんくわ)は、玉石の為(ため)に、二代の君(きみ)に兩足(そく)をきられながら、猶〔なほ〕、すつるにしのびず、終(つい)に良工(りやうこう)にあふて、光(ひかり)をみがき出〔いだ〕し、世に並(ならび)なき美玉(びぎよく)とせり。然れば、たまは、つねにあれども、是を知る人、なく、知る人はあれども、又、さいく人、すくなし。爰(こゝ)を以て麒麟(きりん)も伯樂にあわねば、常の駑馬(どば)に等しく、珠玉も、良工、なければ、瓦礫(ぐわりやく)と同(おな)じ。されば、其道に長じ、其妙を極めぬれば、奇特(きどく)成〔なる〕事、おゝし。

[やぶちゃん注:「卞和(べんくわ)」現代仮名遣では「べんか」。春秋時代の楚の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、信じて貰えず、逆に「嘘をついた」として左足を切断される刑を受けた。次の武王のときにもやはり献じたが、「ただの石だ」とされて、今度は右足を斬られてしまった。その後、文王が位に就いた折り、これを磨かせてみると、はたして確かに優れた宝玉であったことから、この玉を「和氏(かし)の璧(へき)」と称した。後に趙の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が欲しがり、「十五の城と交換したい」と言ったので、「連城の璧」とも称された。こうした故事から名品の宝玉を、広く「卞和(べんか)氏の璧(へき/たま)」と呼ぶようになった。

「終(つい)に」ルビはママ。「つひに」が正しい。

「あわねば」ママ。

「瓦礫(ぐわりやく)」通常「ぐわれき」だが、かく(「リャク」)も読む。

「おゝし」ママ。]

 

  一年〔ひととせ〕、長崎の町人、伊せや久左衞門方へ唐人(たうじん)來て、歸國の砌(みぎり)、内藏(〔うち〕ぐら)の石垣(いしがき)に、小(ちいさ)き靑(あを)石一つ有〔ある〕を見て、

「掘出(ほりいだ)し、くれ候やうに。」

と所望(しよもう)す。てい主、

「やすき御事なれども、此石一つぬけば、惣石垣(さういしがき)くづれ、殊外(ことのほか)ざうさに御座(ござ)候間、ふしんの時節(じせつ)、のけ置(おき)、かさねて御こしの時、しんじ申〔まうす〕べき。」

よし返答す。唐人(たうじん)いふやう、

「かさねて又參る事は不定(〔ふ〕でう)なり。願(ねがは)くは、只今のぞみのよし。」

にて、則〔すなはち〕、彼(かの)石の代〔しろ〕に金子(きんす)百兩取出〔とりいだ〕し、

「これにて、普請のざうさを、まかないくれ候やうに。」

との事。てい主、いよいよ邪智(じやち)まはり、

『扨(さて)は。此石、玉石にて、かくは、のぞみに思ふならん。』

と、さのみ、五十兩、百兩を珍しくおもふ身躰(しんだい)にもあらねば、おしみて、終(つい)にあたへず。

 唐人、出船(しゆつせん)以後、彼(かの)石を掘出し、玉(たま)みがきをよんで、見せければ、

「玉とは見へねども、いかさま、常の石にも、あらず。」

と申す。まはりをかきて、みがゝせて見れども、さして替る事もなく、光も不出(いでず)、後(のち)には、大くつして、二つにわらせて見れば、中より水出〔いで〕て、其内に金魚のごとくなる鮒(ふな)二枚あり。

「さては。邪智(じやち)にまよひ、百兩の銀(かね)を取(とり)にがしぬ。」

と後悔して、彼(かの)石のわれを、すて侍り。

[やぶちゃん注:「所望(しよもう)」ママ。「しよまう」が正しい。

「不定(〔ふ〕でう)」ルビ「でう」はママ。「不定」は「でぢやう」が正しい。

「おしみて」ママ。

「二枚」二匹。]

 

 其後、かの唐人、また來り、金子千兩、出して、此石を所望す。

 あるじ、いよいよ後悔して、右のおもむきを語る。

 唐人、おどろき、泪(なみだ)をながし、

「我、此度(たび)、數(す)千里の波濤をしのぎて來(きた)る物は、彼(かの)石を求めんためなり。御身の心、もし、千兩にて不足なれば、三千兩までは、あたふるつもり。則(すなはち)、其金、持參せり。」

とて、新しき箱一つに、同じ包(つゝみ)の金(かね)、三百入〔いれ〕て、上に、

「水魚の玉石代」

と書付をしたり。

 てい主、後悔のあまり、彼(かの)石の子細をとへば、唐人、答(こたへ)ていふやう、

「此石を摺(すり)、水極(みづぎわ)一分〔ぶ〕の間(あいだ)において、みがけば、底より光起つて、誠(まつこと)に絕世の美玉なり。殊に大〔おほい〕さ、方面(はうめん)七寸五分、十方圓滿(ゑんまん)なる中(なか)に、おのれと水をふくみ、其中に二疋の金魚有〔あり〕て、うごく形、光りに和(くわ)し、美なる事、世に並びなし。王侯の心をよろこばしめ、其あたい、千万金、我、是を得て、冨貴(ふうき)を極めん事を欲し、はるばると來朝し、不幸にして此玉(たま)を不得(ゑず)。是、玉(たま)の世に傳(つたわ)るまじき天命(〔てん〕めい)なり。」

と歎(なげ)きぬ。

[やぶちゃん注:「水極(みづぎわ)」ルビはママ。

「間(あいだ)」ルビはママ。

「一分」三ミリメートル。

「方面七寸五分」二十二センチ七ミリメートル四方。

「おのれと水をふくみ」自然と水気を含んで。この中の水は何処からか流れ入ったものではなく、自然に石と大気から内部に生じた閉鎖独立系の水域であるということになる。

「あたい」ママ。「價」。

「傳(つたわ)る」ルビはママ。]

 

 誠(まこと)にかゝる奇玉も世に有〔ある〕ならいにや。かの唐人は、石垣の中より撰んで、これを玉なる事を知り、其道をしらざれば、てい主は是を破(わ)つて、瓦礫(ぐわりやく)となし果(はて)ぬ。

[やぶちゃん注:「ならい」ママ。]

 

 爰を以ておもへば、玉のみに限るべからず、今、濁りたる世にも、賢人はおゝく有べけれ共、能(よき)主君を得ざれば、賢才をあらはす事なく、彼(かの)玉石の唐人にあはざるがごとし。瓦礫と成〔なり〕て、朽果(くちはて)なん。是、おしむべき事なり。玉は眞寶(しんほう)にあらず。たゞ、人は人を知(し)るべき事、肝要なり。「人の、おのれをしらざる事を、うれへざれ。人をしらざる事を、うれへよ」とは、聖人の敎誡(けうかい)なれば、今さら、いふもおろかなるべし。とかく、人の君(きみ)たる人は、明德(めいとく)を明らかにして、彼唐人の石を見て、「眞珠」と知り、伯樂の、馬を見て、「きりん」を知るごとく、臣下の善惡を、よく見分て用ひたまふ事、天下國家の幸福ならん。むかし、虞公(ぐこう)の「百里奚(はく〔り〕けい)」を用ひ、項羽の韓信を失ひしに、恥(はぢ)給ふべきものか。

[やぶちゃん注:「おしむ」ママ。

「君」儒家で言う人徳を持った君子(確かな仁を持った人。同時にそれが君主でなくてはならないわけである)。

「虞公(ぐこう)の百里奚(はく〔り〕けい)」を用ひ」ここは最後は「用ひず」が正しい。百里奚(ひゃくりけい)は春秋時代の虞の大夫(後年は秦の宰相となった)。紀元前六五五年の冬のこと、晋の献公が虞侯に璧と名馬を贈って、虞の親戚に当たる霍(さい)と虢(かく)を討伐する時、「その街道を通過してよいか」と虞侯に求め。これに対して、百里奚は賢臣として名高った宮之奇(きゅうしき)と共に虞侯を諌めたが、虞侯はそれを無視し、献公の要求に応じてしまった。果たして、献公は虢と霍を滅ぼしたその帰途、突如、虞を襲撃してこれを滅ぼし、虞侯を初めとして百里奚らを捕虜として、下僕としたという事実を指す。ここは則ち、「百里奚」の進言「を用ひ」なかったが故に虞公は捕虜となり、国も失ったわけだからである。

「項羽の韓信を失ひし」秦の始皇帝が没し、「陳勝・呉広の乱」を契機として動乱が始まると、韓信は項梁とその甥項羽に仕えて郎中となった(紀元前二〇九年)。しかし、たびたび行った進言も項羽には用いられず、紀元前二〇六年に秦が滅亡すると、韓信は項羽の下を離れ、漢中に左遷させられた漢王劉邦の元へと移り、大将軍に取り立てられ、劉邦の天下統一に尽力し、嘗ての主君項羽をも滅ぼした。後に楚王に封ぜられたが、謀反の疑いをかけられ、その後、クーデターを企図するも未然に知られて非業の死を遂げた。

 さても、これは私には頗る馴染みの話であって、私の手掛けたものでは、私の「耳囊 巻之三 玉石の事」が最初で、本草学者で奇石収集家であった木内石亭が発刊した奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)の中の「後編卷之二」にある「生魚石 九」に所収する話の類話である(「雲根志」では首尾よくオランダ人がその石を入手している)。挿絵も示し、電子化してあるので比較されたい。「柴田宵曲 妖異博物館 魚石」にも出るし、柳田國男も『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』で触れているので、併せてお読みになることをお薦めする。ともかく、この話、我々が想像するよりもかなり古い時代にその原型はあるようではある。

大和本草卷之十三 魚之下 うき木 (マンボウ〈重複〉)


【和品】

ウキ木 奧州常州ノ海ニアリ形狀海鷂魚ニ似テ大ナリ

方一二丈漁人刀ヲ以切テ其肉ト腸トヲトル動カズ

味ヨシ他州ニハナシ然レ𪜈北海ニ雪魚アリ方一丈餘其

形鰈ノ如シ其肉白乄如雪潔シ脂ナシ好睡于

海上是浮木ノ類乎

○やぶちゃんの書き下し文

うき木〔(き)〕 奧州・常州の海にあり。形狀、海鷂魚(ゑい)に似て、大なり。方〔(はう)〕、一、二丈。漁人、刀を以つて、切りて、其の肉と腸とを、とる。動かず。味、よし。他州にはなし。然れども、北海に雪魚〔(ゆきうを)〕あり。方一丈餘り。其の形、鰈〔(かれひ)〕のごとし。其の肉、白くして雪のごとく、潔〔(きよ)〕し。脂、なし、好みて海上に睡〔(ねぶ)〕る。是れ、「浮木〔(うきき)〕」の類〔(るゐ)〕か。

[やぶちゃん注:「うき木」「浮木」「雪魚」これは間違いなく総てマンボウの異名である。岡山県立図書館公式サイト内の「レファレンスデータベース」の「マンボウの古記録」を見られたい(非常に詳しく、「メタデータ」欄には諸本へのリンクも完備しており(但し、一部はリンク先が変更されて繋がらないものもある)、非常に使い勝手がよい)。異名一覧に孰れも載る。恐らく、益軒は既出の大和本草卷之十三 魚之下 まんぼう」を書いた後に、単独で話として(思うに絵なども示されずに)これらの話を聴き、マンボウが海上に横倒しになっているものだなどとは露思わず(ウィキの「マンボウによれば、『この行動は、小型の魚やカモメなどの海鳥に寄生虫を取ってもらうため』、『深海に潜ることによって冷えた体を暖めるため』、『日光浴による殺菌が目的ではないかと考えられている。マンボウは勢いをつけて海面からジャンプすることもあり』、『これも寄生虫を振り落とすためである可能性がある』とある)、全く別な奇体な浮遊材木か島のように浮かんでいる奇魚と思い込んでしまったようである。本邦産種は、現在、

条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola

及び同属の

ウシマンボウ Mola alexandrini 

とされるが、更にミトコンドリアDNAのD-loop領域の分子系統解析から、現生マンボウ属は少なくとも三種(group A/B/C)に分かれるという解析結果が得られており、日本近海で主に見られるものはgroup B(Mola sp. B)に属するとされるというが、それでは如何にも無風流な呼び名でモラ・モラ・フルークの私は甚だ気に入らぬ。さても、書き出すエンドレスになるので、私の『栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)』の私の注、及び、私のブログ・カテゴリ「栗本丹洲」で全十回で電子異化注した、『栗本丹洲自筆「翻車考」』を是非読まれたい。私はそこで注した以上に語る必要を感じぬ程、入れ込んで注したからである。

「奧州」(陸奥国。現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県)「常州」(常陸国。現在の茨城県)「の海にあり」「他州にはなし」大和本草卷之十三 魚之下 まんぼう」で「奥州の海にあり」と言ったのと同じ間違いを益軒は冒している。マンボウたちは日本中にいる。

「海鷂魚(ゑい)に似て」「なんでマンボウとエイが似てるの?」と疑問の方は、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「うきゝ まんほう 楂魚」を見られたい。そこには挿絵として紛れもない「エイ」が描かれているのだ。そうしてそこで私は、この絵の不審を種明かしして、ヴィジュアルに説明してある。是非、見られたい。

「一、二丈」「一丈」は三メートル三センチメートル。「二丈」は過大に過ぎる。マンボウは最大で全長三メートル三十三センチメートル、体重二・三トンで、現在生息している世界最大級の硬骨魚の一種である(但し、大型個体はマンボウではなく、マンボウより大きくなる可能性が指摘されているウシマンボウと指摘する意見もある)。

「漁人、刀を以つて、切りて、其の肉と腸とを、とる」私の『栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注(2)』の注の『神田玄泉が「日東魚譜」』を見られたい。神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医で出身地不詳で、「日東魚譜」は全八巻からなる本邦(「日東」は日本の別称)最古の魚譜とされるもの(魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説し、序文には享保二一(一七三六)年の版や写本があって内容も若干、異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたもの)。その、まさに「雪魚〔(ゆきうを)〕」(読みは諸条件からの私の当て読み。リンク先を見よ)を原画像(国立国会図書館デジタルコレクションから)を添えて電子化注してあるが、そこにこのとんでもない漁法の図が載っている

「鰈」巨大エイと間違えるなら、巨大カレイもありでしょ。]

2020/08/26

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 二

 

       

 

 子規居士はかつて俳句における人事的美を論じて、「芭蕉去来はむしろ天然に重きを置き、其角嵐雪は人事を写さんとして端なく佶屈聱牙(きっくつごうが)に陥り、あるひは人をしてこれを解するに苦ましむるに至る」といったことがあった。概言すれば天明の俳句は元禄よりも人事的に歩を進めたと見るべきであろう。木導の句は同じ元禄の作者の中にあっても芭蕉、去来よりは人事的興味に富んでおり、しかも其角、嵐雪の如き佶屈聱牙に陥っていない。

 子規居士はまた蕪村の「飛入の力者(りきしや)怪しき角力[やぶちゃん注:「すまひ」。]かな」の句を解した中において、「角力は難題なり、人事なり、この錯雑せる俗人事を表面より直言せば固より俗に堕(お)ちん。裏面より如何なる文学的人事を探り得たりとも千両幟(せんりょうのぼり)は遂に俳句の材料とは為(な)らざるなり」云々と述べたことがある。蕪村が角力の句を作ること十余に及んだのは、その非凡なる力量をここに用いたものであろう。角力の句は其角にも少くないが、数においては誰よりも先ず木導を推さなければならぬ。木導は由来其角や蕪村のような多作家ではない。『水の音』所収の句三百五十九のうち、角力の句十四を算え得るのは、比率においては勿論、量においても蕪村と拮抗するに足るものである。

[やぶちゃん注:蕪村の句は明和七(一七七〇)年七月十一日の作。子規の評は「俳諧大要」の「第六 修學第二期」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションのここからの画像で正字正仮名で読める。かなり長い。当該部はここの最後から次のページにかけてである。

「千両幟」世話物で相撲取を主人公とした人形浄瑠璃「関取千両幟」(全九段。近松半二・三好松洛・竹田文吉・竹田小出雲・八民平七・竹本三郎兵衛合作。明和四(一七六七)年大坂竹本座初演。当時、大坂で人気のあった実際の力士稲川・千田川をモデルにした相撲物。贔屓の若旦那礼三郎が遊女錦木を身請けするための不足金二百両を用立てしなければならなくなった力士岩川が、恋敵側の贔屓力士鉄ヶ嶽との勝負に負けて若旦那の思いを果たさせようとする。土俵上の勝負の最中に「二百両進上、ひいきより。」の声が掛って岩川は気をとり直し、鉄ヶ嶽を倒すという筋。私の好きな外題)に引っ掛けた謂い。]

 

 うつくしき指櫛持やすまふ捕     木導

[やぶちゃん注:「指櫛」は「さしぐし」、座五は「すまふとり」。]

 大坂で元服するやすまひとり     同

 休む間は歯をみがきけり相撲とり   同

 去年から肉かゝりけりすまふとり   同

 引しめる師の下帯や相撲とり     同

 油ぎるせなかやすべるすまふとり   同

 胸の毛に麦の粉白しすまふとり    同

 此咄シ伏見で聞ぞ勝ずまふ      同

 いなづまの拍子になげるすまふかな  同

 馬を売きほひに出るすまふかな    木導

[やぶちゃん注:「売」は「うり」。]

 榎木から下りてとりたる相撲かな   同

[やぶちゃん注:これは子どもの情景か。]

 行騰をぬいて取たる角力かな     同

[やぶちゃん注:「行騰」は「むかばき」。「行縢」とも書く。遠出の外出・旅行・狩猟の際、両足の覆いとした布帛 (ふはく) や毛皮の類を指す。中世の武士は騎馬遠行の際の必需品とし、鹿の皮を正式として腰から足先までを覆う長いそれを着用した。現在も流鏑馬 (やぶさめ) の装束に使用される。]

 組合て馬屋へ落るすまふかな     同

[やぶちゃん注:上五は底本に従えば「くみあつて」。]

 なでしこの内またくゞるすまふかな  同

 以上の句は大体において力士を詠じたものと、現在相撲を取っているところとに分れる。これは木導の句に限らず、古今の角力の句に通ずる二大別であるが、専門的力士を詠ずるのは人事中の人事に属し、変化の余地が少いのに反して、辻角力とか宮角力とかいう素人本位のものは、多少の自然的背景を取入れ得るところから、多くの俳人はここに一条の活路を求めようとする傾がある。木導のはじめの七句はいずれも専門的力士を描いたので、他の景物を配せず「表面より直言」したものである。

 「うつくしき指櫛持や」の句は『笈日記』には「さし櫛の蒔絵うつくし」とある。こういう力士の様子は今の人には異様の感があるかも知れない。三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)氏の説によると、元禄の力士は大概前髪立(まえがみだて)で、身長七尺二寸、体重四十貫目という鬼勝象之助が二枚櫛をさし、白粉[やぶちゃん注:「おしろい」。]をつけて登場したとか、両国梶之助は一枚櫛で土俵へ出たとかいう話が伝わっているそうである。その指櫛が美しい蒔絵であるという。当時の風俗を窺う上からいっても看過すべからざるものであろう。

[やぶちゃん注:「前髪立」花魁のように左右の髪を前方に向かって角髪状に立ち上げた髪形。

「七尺二寸」二メートル十八センチメートル。但し、次々注参照。

「四十貫」百五十キログラム。但し、次注参照。

「鬼勝象之助」(おにかつぞうのすけ 生没年未詳)講談社「日本人名大辞典」によれば(一部を改変した)、近江出身の力士で、元禄から宝永(一六八八年~一七一一年)の頃に大関(当時は横綱はなく大関が最高位)として活躍、身長二メートル二十一センチメートル、体重百五十七キログラムの大型力士で、大関両国梶之助が角前髪に一枚櫛を挿したのに対し、二枚櫛を挿して話題となったとある。

「両国梶之助」(寛文四(一六六四)年~宝暦五(一七〇八)年)は現在の鳥取県気高町宝木に生まれた元禄年間の名力士。大関。「因幡・伯耆の両国に敵(かな)う者なし」と称され、「両国」は鳥取藩初代藩主池田光仲がその意で命名したと伝えられる。身長一メートル九十センチメートル、体重百五十キログラムで、五十貫(百八十七・五キログラム)の錨(いかり)を一度に二つ持ち上げたという伝説もある。]

 

 「いなづまの拍子になげる」の句は、実際稲妻がしている場合かも知れぬが、同時に角力の手の瞬間的動作を現したものと思われる。「行騰をぬいて」の句、「組合て馬屋へ落る」の句が武家らしい様子を現しているのも、この作者だけに興味を牽かれる。

 われわれは木導の角力の句を、句としてすぐれているというわけではない。蕪村が「飛入の力者あやしき角力かな」や「負まじき角力を寝物語りかな」の句に示したような人事的曲折の妙は認められず、「白梅や北野の茶店にすまひ取」とか、「夕露や伏見の角力ちりぢりに」とかいうような詩趣もこれを欠いている。其角の「投げられて坊主なりけり辻角力」「卜石(うらいし)やしとゞにぬれて辻ずまふ」「水汲の暁起やすまふぶれ」等に比しても、あるいは数歩を譲らざるを得ないかも知れぬ。ただわれわれの興味を感ずるのは、かくの如き多数の直叙的角力の句を、自ら『水の音』に採録した点にある。『水の音』に洩れた木導の句はどの位あるかわからぬが、われわれの目に触れただけでも、なお

 月代にいさみ立けり草相撲  木導(篇突)

 相撲取の腹に著けり虻の声  同(韻塞)

 片頰にやき米入れて相撲かな 木 導(正風彦根鉢)

の如きものを算え得るから、かたがた以て彼の角力趣味を察することが出来る。

[やぶちゃん注:「負まじき角力を寝物語りかな」蕪村の句。明和五(一七六八)七月二十日の作。「夕露や」の句から、京の伏見稲荷の奉納角力を見ての句である。

「白梅や北野の茶店にすまひ取」同前。安永七(一七七八)年十月二日の作。北野天満宮がロケーション。

「夕露や伏見の角力ちりぢりに」同前。「負けまじき」と全く同じ日の作。

「投げられて坊主なりけり辻角力」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の注によれば、元禄三(一六九〇)年七月十九日興行の歌仙の発句とある。その注で当時の辻相撲は夜間に町の辻などで行われたとあって、秋の季題とある。さすれば、組み合っているのを眺めている内は判らなかったが、投げられて間近に飛ばされてへたった人物は、何んとまあ、坊主頭の僧侶だったという意外な諧謔である。

「卜石(うらいし)やしとゞにぬれて辻ずまふ」これは恐らく神社の境内での辻相撲であろう。そこには持ち上げられれば祈願が叶うととでも伝える力石(多くの神社で見掛けるものである)の傍で、腕に覚えある連中がおっ始めたそれで、秋雨に石がぐっしょりと濡れても、組み合っているさまであろう。「しとど」は彼らの汗をも響かせると読んだ。

「水汲の暁起やすまふぶれ」「みづくみのあかつきおきや相撲觸(すまふぶれ)」で、未だ真っ暗な暁に起き出して井戸に水汲みに行ったところが、彼方から早くも今日の相撲の興行を触れ回る人の声が響いてきたというのであろう。]

 

 木導にはまた猫を詠じた句が相当ある。

 水鼻に泪も添ふるねこの恋      木導

[やぶちゃん注:「「泪」は「なみだ」。「猫の戀」は初春の季題とされる。]

 吐逆して胸やくるしきねこの恋    同

[やぶちゃん注:「吐逆」は「とぎやく」で吐き戻すこと。]

 ざらざらと舌のさゝけやねこの恋   同

[やぶちゃん注:「ささけ」は「ささくれた状態」の意。この句、私は面白いと思う。]

 鶯やきいたきいたとねこの恋     同

 三味線の皮とも成(なる)かねこの恋 同

 目のひかりあふひのまへか猫の恋   同

[やぶちゃん注:この句もいい。]

 爪の跡車の榻(しじ)やねこの恋   同

 盗み行猫のなきだす袷かな      同

[やぶちゃん注:「行」は「ゆく」で、「袷」は「あはせ」だが、ちょっと意味が判らぬ。或いは、女物の袷を銜えて、後ろ足で立ち上がる、化け猫か?]

 出替りや涙ねぶらすひざの猫     同

[やぶちゃん注:「出替」「でがはり」。ずっと以前に「嵐雪 二」で注したが、再掲しておくと、主家に奉公している者が、一年又は半年の年季を終えて交替するその日のことを指す。春(一年)又は春・秋(半年)が交代期であった。俳諧の季題としては「春」のそれと採っている。ここは年季が明けた若い下男或いは下女が去ってゆくのに際し、馴れ親しんだ主家の飼い猫が膝に上ってくるのである。思わず、愛おしくなってぽとぽとと涙を落とし、それをまた、猫が舐めるのである。これも人事と絡んでいい句ではないか。]

 

 火に酔うてねこも出けり朧月     同

[やぶちゃん注:「朧月」で春であるが、未だ寒かったのか、囲炉裏を強く焚いた故に猫が熱さに家の外へとふらふらと出てきた。時はまさに朧月夜見たさに誘われて出てきたようだと擬人化しているもの。悪くない。]

 

 ねこの子やぎよつと驚く初真桑    同

[やぶちゃん注:座五は「はつまくは」。スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa のこと。座五は夏の季題。]

 

 猫の恋の句は大方面白くない。猫の舌のざらざらしたのに著眼した第三句が、やや特色あるに過ぎぬ。「盗み行猫のなきだす」というのは事実であろうが、いささかきわど過ぎる嫌がある。火の側にいた猫が火気に酔ったような形で、月の朧な戸外に出て来たというのが、この中では先ず可なるものであろうか。これらの句は作者の猫に関する興味を窺い得る点においてはともかく、句としてすぐれたものではない。第三者に委ねたら恐らく採用すまいと思われる句を、自己の興味に従って収録するところに、『水の音』の自選句集たる所以がある。長短ともに自己の特徴を発揮するのが自選句集の本色だとしたら、必ずしも咎むべきでないかも知れぬ。

 けれども『水の音』の面白味は、固より以上に尽きるのではない。木導の句が嗅覚に鋭敏であること、ものの香を雨や雪に配したものが多いことは、已に説いた通りであるが、彼の句は嗅覚を離れても、なお雨に関して微妙なものを捉えている。

 爪とりていと心地よし春の雨     木導

 うつくしう封する文や春の雨     同

 わやわやと人足宿や五月雨      同

の如きは、まだ比較的平凡なものであるが、

 うしほ湯に今日も入ばや春の雨    木導

[やぶちゃん注:「うしほ湯」海水又は塩水を沸かした風呂。古来、病気の治療に利用された。]

 かゆさうに羽せゝる鶏や春の雨    木導

 春雨や菊で詰たる長まくら      同

[やぶちゃん注:菊枕(きくまくら)である。十分に乾燥させた菊の花弁を詰め物に用いた枕で、晩秋の季題。菊は漢方で体の無駄な熱を冷ますとされ、また、中国古来より邪気を払って不老長寿を得ることが出来るものとして珍重され、重陽の節句では、丘に登って菊の花を浮かべた菊酒(きくしゅ)を喫するのが習わしであった。秋に採取して天日で乾燥させた菊の花を詰め物代わりに用いることから、上品な香気もある。]

 しめりたる伊勢の宮笥や春の雨    同

[やぶちゃん注:「宮笥」は「みやげ」。土産(みやげ)の語源は、伊勢参宮に行けた人が郷里の人々へ伊勢神宮のお守りの入った小箱を持ち帰ったのがそれ、という説がある。ここは普通の何かの土産でもあろうか(無論、御札でもよい)、それが今降っている春雨というより、長い伊勢からの帰りの道中の湿り、その人の温もりとなって、貰った作者に感じられたというのであろう。]

 簀巻から塩のしづくや春の雨     同

[やぶちゃん注:「簀巻」は「すまき」。新巻鮭か巻鰤(まきぶり)か。]

 五月雨に𤾣たる状や嶋問屋      同

[やぶちゃん注:「𤾣たる状や」は「ばくたるさまや」。「𤾣」は「黴(かび)」の意。]

 うちあげるぬれたる桑や五月雨    同

などになると、明(あきらか)な特異な世界に入っている。これらの句の基調をなすものは、木導一流の微妙な感覚で、一誦直に身に近く春雨を感じ、五月雨を感ずる思いがある。「かゆさうに羽せゝる鶏」の如きは眼前の一小景に過ぎぬが、春雨の懶(ものう)さ、粘りというようなものを描いた点で、太祇の「春雨やうち身痒(かゆ)がるすまひ取」などと共通する或ものを持っている。

 雨ではないが、

 湯あがりに歩みよりたる柳かな    木導

などという句も、やはり感覚的な中に算えなければならぬ。湯上りの快適な、しかも幾分弛緩した感じと、懶げに垂れた柳の枝との間には、配合以上の調和があるといって差支ない。『鯰橋(なまずばし)』にある「湯あがりの僧行違ふ柳かな」という句は、この句と同案であるかどうか。第三者の立場から見る段になると、この句の趣は大分異って来る。感覚的な味を存するには、どうしても自ら歩み寄るのでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「鯰橋」里仲編。享保三(一七一八)年刊。]

 

 木導の句にはまた色彩の上に対照的な材料を捉えたものがある。

 真黒な蝶も飛けり白牡丹       木導

 青々とうづまく淵や散る紅葉     同

 これらはまだその色彩を対照した差が顕著に過ぎるけれども、

 白き歯に酸漿あかき禿かな      木導

[やぶちゃん注:「酸漿」は「ほほづき」、「禿」は「かむろ」。この句は秀逸である。]

に至ると、単に色彩の上で白と赤とを対照したに止らず、微細な観察においてもまた成功の域に入っている。禿の皓歯(こうし)に浮ぶ酸漿の赤い玉は、画くべくしてかえって画になりにくい一種の趣である。近代俳句の作者は往々にしてこの種の観察を喜ぶが、木導は元禄の昔において早くここに手を著けている。

 瞿麦やちらりと馬の口の中      木導

[やぶちゃん注:「瞿麦」は「なでしこ」。花の撫子特にこの漢名は中国では双子葉植物綱ナデシコ亜綱ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属エゾカワラナデシコDianthus superbus var. superbus に当てられており、同種は北海道及び本州中部以北、ユーラシア中部以北に植生する。]

などという句も、色彩的対照はないが、この句と共に挙ぐべきものであろう。大きく開いた馬の口の中に、ちらりと瞿麦の可憐な色が見えたと思うと、試がもぐもぐ食われてしまう。一茶などの覘い[やぶちゃん注:「ねらい」。]そうなところで、一茶よりは遥に自然な趣がある。「ちらりと」の一語も、草と共に馬の口に消える瞿麦を描き得て妙である。『鯰橋』には「ちらりとみえる馬の口」となっているが、「中」の字があった方が、口の中に消え去る様子を髣髴出来るように思う。

 燕脂の物縫うた目で見る柳かな    木導

[やぶちゃん注:上五はこれで「べにのもの」と読む。]

 『玉まつり』には上五字が「あかい物」となっている。紅い物を縫って疲れた眼を窓外に遣ると、そこには青い柳が春風に枝を垂れている。紅い色を見詰めたあとの眼は、ただ虚空に遊ばせても反対色の緑が浮ぶのであるが、その眼を移す柳の色は特に和やかな感じを与えるに相違ない。

 鉞の白き刃にもみぢかな       木導

[やぶちゃん注:「鉞」は「まさかり」、「刃」は「やいば」。いい句だ。]

 「白刃」という成語はある。「シラハ」と訓じても通用するが、これは抜身を指すので、色彩の白という意味は加わっていない。作者がわざわざ「白き刃」という言葉を用いたのは、研ぎすました刃の感じを「白」の一字によって現そうとしたためである。普通の刀や何かと違って、鉞の刃の広いことも、この場合の感じをよほど助けている。そのぴかぴか光った鉞の刃の上に紅葉が散りかかるという趣である。前の青淵の句のように、文字の上から色彩を対照したものと見るわけには行かないけれども、「白き刃」の一語には特異な力がある。ただ鉞の上に散るといわずに、「白き刃」を強調したのは、作者の表現の凡ならざるところであろうと思う。これも『鯰橋』には「鉞の刃に分のぼる」となっているが、「分のぼる」は繊巧(せんこう)に過ぎて面白くない。木導自身も後にこれを削って「白き刃」に改めたものであろう。

[やぶちゃん注:木導、いやや、好きになってきたぞ!]

大和本草卷之十三 魚之下 綳魚(すずめふぐ/すずめうを) (ハリセンボン及びその仲間・シマウミスズメなど)

 

綳魚 李時珍食物本草註曰處〻有之形似河豚

而小背靑有斑紋無鱗尾不岐腹白有刺戟人手

亦善瞋瞋則腹脹大圓緊如泡仰浮水面味甘平

無毒主補中益氣不可多食久食發瘡疥諸癬有

目疾者不可食之肝味甘補肝益筋〇河豚ニ似タ

レ𪜈毒ナシ但食之人マレナリ〇下ニ所圖之二物亦綳

ノ類ニテ河豚ニ少似タリ薄殼アリ上ノ圖ハ龜紋ノ如ク

三角四角ノ如

ナルへタテアリ遍身

皆短キ鍼アリ耳

ノアル処ニ小ナルヒレ

アリ口小ナリ尾ハ

後門ノ上ニアリテ

甚小ナリ遍身褐白色カラ少カタクシテ介類ノ如ニモ見

エタリサレトモ口ハ鳥ノ觜ノ如クニ乄目アレハ介ニハ非ス〇

下ハ背淡黑腹白遍身栗毬ノ如クナル針アリ栗ノイカ

ヨリスクナシ口小ナリ尾甚小ナリ形ハ魚トモ見ヘズ然

共又目ト觜アリ介ニアラス二物共ニ河豚魚ノ方ニ

近シ本草原始ニ海牛アリ形狀似タリ海牛ニハ角ア

リ此二物ニハ角ナシ〇一種𩸀魚ノ類其形方ナル事

双六ノ賽ノ如シ方一寸許カトニ口アリ尾ノ長五分許

皆異物也〇𩸀魚ノ類猶アリ不可盡知○日本紀

齊明紀出雲国言北海濱魚死而積其大如鮐雀

啄針鱗名曰雀魚コレ𩸀魚ナルヘシ

Harisenbon

Harisenbon2

[やぶちゃん注:原本の上記空欄部に二体の「綳魚」図が入る。一枚目は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該コマの画像からトリミングした。二枚目は、底本の画像(モノクローム)を拡大してスキャンし、トリミングし、周囲を消去して配置をずらし、汚損と思われる箇所を清拭したもの。背後の字写りが消え、原本そのものの感じとはかなり異なって見えるので、今回は敢えてトリミングして添えた(底本「貝原益軒アーカイブ」では特に画像使用の禁止は示されていないが、底本画像を取り込んだのは今回が初めてである)。マスコット・キャラクター風にチョー可愛い!!

○やぶちゃんの書き下し文

綳魚(すゞめふぐ/すゞめうを[やぶちゃん注:右/左ルビ。]) 李時珍「食物本草」の「註」に曰はく、『處々、之れ有り。形、河豚〔(ふぐ)〕に似て小さく、背、靑く、斑紋有り。鱗無し。尾、岐(また)あらず。腹、白く、刺(はり)有り、人の手を戟(さ)す。亦、善〔(よ)〕く瞋〔(いか)〕る。瞋れば、則ち、腹、脹〔(は)〕り、大圓〔に〕緊〔(しま)り〕、泡〔(あは)〕のごとし。仰〔(あふ)ぎ〕て、水面に浮〔(うか)〕ぶ。[やぶちゃん注:時珍の注はここまでで、以下は「食物本草」の本文をカップリングしたものである。後の原本(リンク)を参照されたい。]味、甘、平、毒、無し。中を補し、氣を益〔(やしな)〕ふを主〔(つかさど)る〕。多食すべからず。久〔しく〕食へば、瘡疥〔(さうかい)〕・諸癬〔(しよせん)〕を發す。目〔の〕疾〔(やまひ)〕有る者、之れを食ふべからず。肝〔(きも)〕、味、甘。肝〔(かん)〕を補ひ、筋〔(きん)〕を益す。』〔と〕。

〇河豚に似たれども、毒なし。但し、之れを食ふ人、まれなり。

〇下に圖する所の二物、亦、綳〔魚〕の類〔(るゐ)〕にて、河豚に少し似たり。薄〔き〕殼あり。上の圖は龜〔の〕紋のごとく、三角・四角の如くなる「へだて」あり。遍身、皆、短き鍼〔(はり)〕あり。耳のある処に小〔さ〕なる「ひれ」あり。口、小なり。尾は後門の上にありて、甚だ小なり。遍身、褐白色。「から」、少しかたくして、介〔(かひ)〕類[やぶちゃん注:貝類。]のごとくにも見えたり。されども、口は鳥の觜〔(くちばし)〕の如くにして、目あれば、介には非ず。

〇下〔圖のそれ〕は、背、淡黑、腹、白く、遍身、栗毬(くりいが)の如くなる針あり。栗のいがより、すくなし。口、小なり。尾、甚だ小なり。形は魚とも見へず[やぶちゃん注:ママ。]。然れ共、又、目と觜あり、介にあらず。二物共に河豚魚の方〔(かた)〕に近し。「本草原始」に「海牛」あり、形狀、似たり。海牛には角あり、此の二物には角なし。

〇一種、𩸀魚の類〔(るゐ)〕、其の形、方〔(はう)〕なる事、双六〔(すごろく)〕の賽〔(さい)〕のごとし。方一寸許り、かどに口あり、尾の長さ五分許り。皆、異物なり。

〇𩸀魚の類、猶ほあり、盡〔(ことごと)くは〕知るべからず。

○「日本紀」齊明紀に、『出雲の国、言(まふ)す、北海の濱、魚、死して、積めり。其の大〔いさ〕、鮐〔(ふぐ)〕のごとく、雀の啄〔(くちばし)〕、針の鱗。名〔づけて〕「雀魚〔すずめうを〕〕」と曰ふ』〔と〕、これ、𩸀魚なるべし。

[やぶちゃん注:まず、図の二種であるが、個人的には下の図は、

条鰭綱フグ目ハリセンボン科ハリセンボン属ハリセンボン Diodon holocanthus(全長40cmほど。体に小さな黒い斑点がたくさんあるが、鰭には斑点がないことでネズミフグ(以下参照)と識別出来る。体色は褐色系だが、斑(まだら)模様などには変異がある。全世界の熱帯・温帯に分布し、日本では本州以南に分布する)

としてよいように思う。ツートン・カラーも一見、同種の生体に一致する。但し、背部の色は真っ黒ではなく(本図はモノクロームだから致し方ない)、薄茶から淡褐色で、上の真っ白なそれは、同種の幼体の場合に背部の色が目立たないケースがあり得、或いは、膨らんだものを干物にした土産をよく見かけるが、経年で背部が白くなるので、そうした標本を益軒は見、それを描いた可能性も高いかと当初は思ったのだが、益軒は本文で「上の圖は龜〔の〕紋のごとく、三角・四角の如くなる「へだて」あり」と述べており、実は絵と現認した実物はかなり異なることが判明する。而して、これは、

ヒトヅラハリセンボン Diodon liturosus(全長50cmほど。体には斑模様があるが、これらの斑が白で縁取られることで、ハリセンボンと識別出来る。他の種類よりもやや南方系で、主にインド洋から西太平洋の熱帯域に分布する。本邦では紀伊半島以南に分布する)

が、まさにその解説文に合致すると私は思う。但し、より背部がくっきりと色分けされたものに、

ネズミフグ Diodon hystrix(全長70cmほどで、最大80cm以上に達するハリセンボンの大型種。体にも鰭にも小さな黒い斑点が非常に多く見られる。但し、大型個体ではかなり細身となる)

もおり、ヒトヅラハリセンボンもネズミフグの孰れも、背部の地色が濃いと、単色で描いた場合、下図のようになろうかとも思われるので、これらも二つの図の同定候補とはなると言える(データはウィキの「ハリセンボン」に拠ったが、生態写真による観察はネットの複数の画像を参考にした)。ハリセンボンは沖縄ではアバサー汁として知られ、私の好物で、私は訪れると必ず至高のオニダルマオコゼ(棘鰭上目カサゴ目フサカサゴ科(或いはオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニダルマオコゼ属オニダルマオコゼ Synanceia verrucosa)の刺身に添えていただくのを常としている。

「綳魚」「綳」は「繃」で、「たばねる」の意。これはまさにハリセンボンの通常時、怒張していない時の棘を畳んだ状態を指し示していると私は解く

「食物本草」元の李杲(りこう 一一八〇年~一二五一年:医師。金元四大家の一人。張元素について医学を学んだ。号の東垣でも有名。脾胃を補うのを治病の根本としたので「補土派」「温補派」などと呼ばれた。また、朱震亨と併称して「李朱医学」と称される。「脾胃論」ほか多くの著作がある)編とされる本草の中から食物だけを抽出し、その薬効等を論じたもの。国立国会図書館デジタルコレクションで崇禎一一(一六三八)年翁小麓刊(版本)の当該部分(右六行目。ここでは先に字下げで時珍が注を附した(△部)後に、本文が出る形式である)が視認出来る。但し、原本であるから読点のみの白文である。確認する限り、カップリング仕儀を除けば、忠実に引用されてある。

「瘡疥・諸癬」ここは広義のアレルギー性蕁麻疹である。

「河豚に似たれども、毒なし」但し、ウィキの「ハリセンボン」には、『フグの仲間ながら』、『毒は持っていないとされているものの、未解明の点も多い。卵巣については無毒とする報告がある一方、沖縄県の漁師への聞き取り調査などでは卵巣は有毒として廃棄される例も報告されている』。『ハリセンボンに対する検査数が未だ十分ではないため、卵巣などの部位の毒性や食用の可能性を断言することはできないとされている』。そのため、『食品衛生法に基づく厚生労働省通知(処理等により人の健康を損なうおそれがないと認められるフグ21種類及び部位)ではハリセンボン科に属するハリセンボン、イシガキフグ』(Chilomycterus reticulatus:全長60cmほど。体にもひれにも小さな黒い斑点が多くある。棘は短く、体を膨らませてもハリセンボンのそれのようにはならない)、『ヒトヅラハリセンボン、ネズミフグについては肝臓及び卵巣を食べられない部位としている』などとあるのだが、しかし、『沖縄県衛生環境研究所報』(第二十九号・一九九五年発行)の論文「沖縄近海産ハリセンボン類の毒性調査」(城間博正・大城善昇・山城興博・玉城宏幸共著・PDF)によれば、テトロドトキシン(TTXtetrodotoxinは検出されず、一九九九年の同研究所の『衛環研ニュース』PDF)にも、以上の検査他を受けて、『ハリセンボン類は全身を鋭く硬質の針で覆うことにより身を保護しており、TTXを持つ必要はないといわれていることからも、無毒である一因であると思われる。沖縄では、かなり古くからハリセンボン類を食用としているにもかかわらず、これまで中毒の発生事例がない事からも無毒であろうことは推定できる。今回はこれを証明したことになるといえる』と記されてあるのである。ハリセンボンの無毒証明は沖縄の食文化の継承と資源の有効活用の観点からも私は非常に有益な見解・提言と考えている。

「後門」肛門。

「本草原始」十二巻。明末の医家李中立が一六一二年に撰した「本草綱目」の要点を整理した本草書。生薬の図にオリジナリティがあるという。

『「海牛」あり、形狀、似たり。海牛には角あり、此の二物には角なし』国立国会図書館デジタルコレクションの原本(書名は「本草原始合雷公炮製」で、その第十二巻)画像でここに見つけた。

   *

海牛生東海海蠃之屬。頭有角似牛。故名曰海牛【海牛味鹹温無毒主補腎興陽◦海牛角硬尖鋭有紋◦身有龜背紋蒼色】

Umisuzume

[やぶちゃん注:以下は上図のキャプション。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示した。前は上図の上、後は下図の下にあるが、一続きのもの。]

  腹黃白色有筋頂花㸃尾像魚

  今人房術中用之

   *

訓読を試みる。全くの自然流であるからして、必ず原本を見られたい。

   *

海牛 東海に生ずる海蠃(かいら)[やぶちゃん注:巻貝(腹足類)。]の屬なり。頭、角(つの)有り、牛に似る。故に名づけて「海牛」と曰ふ【海牛、味、鹹、温、毒、無し。腎を補し、陽を興こすことを主(つかさど)る。海牛の角は、硬く、尖り、鋭く、紋、有り。身、龜の背の紋、有りて、蒼色。】。

腹、黃白色。筋(すぢ)有り、頂きは花の㸃あり。尾は、魚を像(かたど)る。今の人、房術の中(うち)に之れを用ふ。

   *

キャプションの「房術中」の部分は思うに「房中術」(性行為の際の媚薬として用いるということ)の錯字ではなかろうか。もう言わずもがな、フグ亜目ハコフグ科Ostraciidae の内の、眼の前方に前向きの棘(眼前棘)がある(通常は臀鰭の起部の前に後ろ向きの棘(腰骨棘)もある)を持つ、

コンゴウフグ属コンゴウフグ Lactoria cornuta

或いは同属の、

ウミスズメ Lactoria diaphana

シマウミスズメ Lactoria fornasini

の孰れかと思われる。「蒼色」とあるところからは、生時に体側に鮮やかな青い斑紋を持つシマウミスズメの可能性が高いように思う。

……にしても……この図……横倒しにして凝っと見てると……どっかで見たような……これって……「アマビエ」じゃあ、ねえか!?!……って…………

原画を国立国会図書館デジタルコレクションの画像修正システムでモノクロームにし、コントラストをつけて補正し、尾を下にして立たせ、私の貧しくショボい画像補正ソフトで即席にアマビエ風に仕立ててみた(あくまでお遊びである)――

Umisuzumeamabie3

「𩸀魚の類〔(るゐ)〕、其の形、方〔(はう)〕なる事、双六〔(すごろく)〕の賽〔(さい)〕のごとし」ハコフグ類である。但し、ハリセンボンも怒張しない時は四角いと言えるので、この記載は正しい。双六の骰子というのは、ちょっと言い過ぎとは思うけど、幼魚はそう言えなくもないか。

「方一寸許り」これ以下はやや過小。幼魚を見たか。

『「日本紀」齊明紀に……』「日本書紀」斉明天皇四(六五八)年の条に以下のようにある。

   *

出雲國言、於北海濱魚死而積。厚三尺許。其大如鮐、雀喙、針鱗、鱗長數寸。俗曰、雀入於海化而爲魚。名曰雀魚。

   *

出雲の國より言(まう)す、北の海濱、魚、死して積めり。厚さ三尺許り。其お大いさ鮐(ふぐ)のごとく、雀の喙(くちばし)、針の鱗(うろこ)、鱗の長さ數寸。俗、曰(い)ふ、「雀、海に入り、化して魚と爲(な)る。名づけて『雀魚(すずめうを)』と曰ふ」と。

   *

ああ! 楽しかった!!!]

2020/08/25

大和本草卷之十三 魚之下 河豚(ふぐ)

 

河豚 冬月春初味美シトテ衆人多ク食フ三月以後

魚ヤセテ味アシヽ凡魚ハ皆マタヽキセス目ヲフサカス

只河豚ノミ目ヲウコカス此事本草ニイヘリ此魚大

毒アリ愼身人不可食凡諸魚ノ中無毒シテ味美

キ魚多紅魚琵琶魚コチ緋魚大口魚等皆河豚ノ

コトク酒糟ニテ煑食ヘシ味ヨシ何ゾ有毒魚ヲ食フヤ

河豚ヲ食フ人タトヘハ隋侯ノ珠ヲ以テ千仭ノ雀ニナ

ケウツカコトシ〇一種サバフグ長一尺許ツネノフクヨリ

小ニシテ短カシ毒スクナシ五月味ヨシ褐色ニ乄紋アリ

〇河豚ホシテ遠ニ寄ス無毒ト云然トモ慎身人不

可食服藥人最不可食

○やぶちゃんの書き下し文

河豚(ふぐ) 冬月、春初、味、美〔(よ)〕しとて、衆人、多く食ふ。三月以後、魚、やせて、味、あしゝ。凡そ魚は、皆、またゝきせず。目を、ふさがず。只、河豚のみ、目をうごかす。此の事、「本草」にいへり。此の魚、大毒あり。身を愼む人、食ふべからず。凡そ諸魚の中、毒、無くして、味、美き魚、多し。紅魚(たひ)・琵琶魚(あんこう)・こち・緋魚(あこ)・大口魚(たら)等、皆、河豚のごとく、酒糟〔(さけかす)〕にて煑(に)食ふべし。味、よし。何ぞ毒有る魚を食ふや。河豚を食ふ人、たとへば、隋侯の珠〔(たま)〕を以つて千仭の雀に、なげうつがごとし。

〇一種、「さばふぐ」、長さ一尺許り。つねのふぐより、小にして、短かし。毒、すくなし。五月、味、よし。褐色にして紋あり。

〇河豚、ほして、遠くに寄す。毒、無しと云ふ。然れども、身を慎む人、食ふべからず。藥を服する人、最も食ふべからず。

[やぶちゃん注:条鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類の総論だが、あまり、注する意志が湧かぬほどに、現在の知見から見ると、大毒を持った魚として、養生訓先生らしいかなりの儒学的載道的な偏見に満ちている。されば、私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「ふぐ ふくべ ふくと 河豚」の本文と私の注を見られたい。寺島は「本草綱目」もしっかり引いている。因みに、本邦でフグ目(カワハギ・ハリセンボン・マンボウ等を含む)は10科50属129種、現生種は10科100属約357種を数える。内、フグ科は現在、現生27属約180種おり、日本近海には約40種、さらにその中で1983年に旧厚生省によって食用として許可された種は22種で、その時点でも半数を超えるのである。ご存知の強烈な神経毒(拮抗薬・特異療法・解毒法は一切見つかっていない)テトロドトキシン tetrodotoxin(C11H17O8N3)はその強力な毒性によって、ウェブ上でも専門家を含めて記載ページは多い。故に薀蓄を垂れるのも気が引けるのだが、最低限の注記はやはり危険毒物である以上、私なりに必要であると考える。致死量2~3㎎、一般に青酸カリの1000倍以上、500倍、経口摂取で850倍等と記載される(ヒトの青酸カリの致死量自体がその青酸カリの精製度の差や個人差によってぶれるので、この致死倍率の数値の相違を云々するのは余り意味のあることではないと私は思う)。また、毒性を持つ部位やその含有量が種・生息場所・時期・各個体によって異なること、その作用が神経伝達に関わるイオン・チャンネル(ナトリウム・チャンネル)の遮断による神経麻痺・筋肉麻痺であること、さらに、その毒性起原が食物連鎖による海洋細菌(StaphyloccusBacillusMicrococcusAlteromonasAcinetobacterVibrio 属の細菌が既に単離されている)由来で、それらを含んだ餌となるヒトデ類・貝類等を通して生物濃縮され、体内に蓄積されたものとあること等も、既に判明しており、管理された人工養殖のトラフグ(フグ科トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes)ではテトロドトキシンが認められないことも確認されている。

『只、河豚のみ、目をうごかす。此の事、「本草」にいへり』「本草綱目」の「河豚」の「集解」に、「目能開闔」(目、能く開闔(かいかふ:「開閉」の意)す)とあるのを指す。これは正しい観察で、マンボウを含むフグの仲間にだけは目蓋様のものがある。目の縁に輪状筋という組織があり、目を保護している。物理的にこの輪状筋を突いて刺激を与えると、フグは目蓋を閉じて目を守る。但し、ヒトのような瞬(まばた)きといった速さではなく、閉じるスペードはかなりゆっくりである。刺激を与えて閉じるまで二十秒ほどかかるという記載があったが、例えばYouTube のひこべー氏の「目を閉じる魚たぬきちくん」(種はコクテンフグ(フグ科モヨウフグ属コクテンフグ Arothron nigropunctatus)とある)を見ると、飼育水槽の外から指を掲げるだけで、かなり早く輪状筋をきゅっと閉めようとする生態を観察出来る。

「紅魚(たひ)」条鰭綱スズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major に代表される、タイ科 Sparidae のタイ類。マダイを意識はしているであろうが、ただ「紅」としているだけだと、タイ科でないものも広範に含まれると考えた方がよかろう。

「琵琶魚(あんこう)」硬骨魚綱アンコウ目アンコウ科 Lophiidae の内、本邦で食用に供されるは、アンコウ属 Lophiomus・キアンコウ属 Lophius・ヒメアンコウ属 Lophiodes であるが、その中でも本邦産種のキアンコウ(ホンアンコウ)Lophius litulon か、アンコウ(クツアンコウ)Lophiomus setigerus の二種がそれである。

「こち」「鯒」で、ここでは海産の条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属 Platycephalus の魚類、或いは、それと同じく体が著しく扁平で、頭が大きく、骨板に包まれ、多くの棘状突起や隆起線を持つ形態の似た魚類である。通常は、体を砂中に潜めて目だけを出し、周りの色彩に体色を似せる保護色を有する。

「緋魚(あこ)」

「大口魚(たら)」条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類(漢字表記は口吻が大きいことから)。

「隋侯の珠〔(たま)〕を以つて千仭の雀に、なげうつがごとし」「荘子」の「雑篇 譲王」の故事に基づく。

   *

故曰、「道之眞以治身、其緖餘以爲國家、其土苴以治天下。由此觀之、帝王之功、聖人之餘事也。非所以完身養生也。今世俗之君子、多危身棄生以殉物、豈不悲哉。凡聖人之動作也、必察其所以之、與其所以爲。今且有人於此、以隨侯之珠彈千仞之雀、世必笑之。是何也。則其所用者重而所要者輕也。夫生者、豈特隨侯之重哉。

(故に曰はく、「道の眞は以つて身を治め、其の緖餘(しよよ)は以つて國家を爲(をさ)め、其の土苴(どしよ)は以つて天下を治む」と。此れに由つて之れを觀れば、帝王の功は聖人の餘事なり。所身を完(まつと)うして生を養ふ所以に非ざるなり。今、世俗の君子は、多く身を危ふくして、生を棄て、以つて物に殉(したが)ふ。豈(あ)に悲しまざらんや。凡そ聖人の動作するや、必ず其の之(ゆ)く所以と、其の爲す所以とを察す。今-且(いま)此(ここ)に、人、有り、隨侯の珠(たま)を以つて千仞の雀を彈(う)たば、世、必ず之れを笑はん。是れ何ぞや。則ち、其の用ふる所の者、重くして、要(もと)むる所の者、輕ければなり。夫(そ)れ、生は、豈に特(ただ)に隨侯の重きのみならんや。)

   *

「緖餘」余り物。「土苴」「苴」は「芥(あくた)」で「残り滓(かす)」の意。「所身を完うして生を養ふ所以に非ざるなり」一身を安全なところに置いて命を養うことには役立たない。「隨侯の珠」「淮南子」注によれば、伝説の宝玉。随侯が大蛇の傷を癒し、その報恩として得られたという「明月の珠」のこと。以下は、それを鳥打ちの弾き玉として、目も眩むようなそそり立つ断崖の遙か上の小さな雀を撃ったとするなら、必ずや、世間の笑いものとならぬ訳がない、という意で、「されば、生命というものが、「隨侯の珠」どころではないほどに貴重なものだということを、誰も知らぬ、と結んでいるのである。ここでは「得るところが極めて少なく価値がなく、失うところの方が甚大にして致命的であること」の喩えとして使っている。

「サバフグ」フグ科サバフグ属シロサバフグ Lagocephalus spadiceus としておく。hん種は古くから全く無毒なフグとして食べられてきた。一応、無毒とされてはいるが、海域や季節により毒性を有する可能性は厳密には排除出来ないであろう。おまけに、外見が非常によく似ているが、筋肉にもテトロドトキシンを含む頗る危険なドクサバフグ Lagocephalus lunaris がおり、彼らは本来は南方系種であったが、近年、日本近海でも北上傾向にあり、シロサバフグと間違えて食い、重症中毒例も、複数、確認されていることから、ここは逆にm益軒先生の言を真に受けてはいけないと言っておく。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 一

 

[やぶちゃん注:直江木導(寛文六(一六六六)年~享保八(一七二三)年)は近江彦根藩士。上松氏に生まれたが、直江氏の養子となり、光任と名乗った。別号に阿山人。姓は「奈越江」とも書く。芭蕉晩年(元禄五(一六九二)年から七(一六九四)年)頃)に蕉門に入った最晩年の弟子の一人であるが、森川許六が記した「風俗文選」の「作者列傳」には「木導は、江州龜城の武士なり。直江氏。自ら阿山人と號す。師翁、奇異の逸物(いちもつ)と稱す」(原文は漢文)と記されてある。]

 

     木  導

 

        

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものを見ると、曲翠が「発句を取りあつめ、集作るといへる、此道の執心なるべきや」と尋ねたに対し「これ卑しき心より我上手なるをしられんと我をわすれたる名聞より出る事也。集とは其風体の句々をえらび我風体と云ことをしらするまで也。我俳諧撰集の心なし」と答えている。ここに集というのは必ずしも撰集と家集とを区別していない。いやしくも「我上手なるをしられん」としての仕業である以上、撰集たると家集たるとを問わず、芭蕉はこれを「名聞より出る卑しき心」の産物として斥(しりぞ)けたのである。

 蕉門の諸弟子はこういう芭蕉の垂戒を奉じたためであろう。一人も生前に自家の集を上梓した者はない。蕉門第一の作者として自他共に許し、多くの門葉を擁していた其角ですら、自ら『五元集』の稿本を完成して置いて、遂に出版を見ずして終った。門下乃至(ないし)後人の手に成った遺稿の類も、歿後直に出版されたものは、あまり見当らぬようである。固より今日とは諸種の事情を異にするとはいえ、彼らが軽々しく自家の集を出さなかったという一事は、道に志す者の態度として慥(たしか)に奥ゆかしいところがあるといわなければならぬ。中には自家の作品が徒(いたずら)に鼠家(そか)とならんことを患(うれ)えて、輯録したものに序文まで書きながら、歿後も刊行の運びに至らず、最近に至ってはじめて日の目を見たような作者もある。直江木導の如きはその一人であった。

[やぶちゃん注:「鼠家」ろくでもないことを企み、成すことの元凶の意。]

 

 木導という俳人については、従来とかくの批評に上ったことを聞かない。彦根の藩士で、芭蕉の晩年にその門に入り、同藩の先輩たる許六(きょりく)と共に句作につとめた。直江というのは養家の姓であること、相当な武士であったらしいことなどはわかっているが、その人について特に記すに足るような逸話も伝わっていない。彼にしてもし句を作らなかったならば、疾(はや)くに世の中から忘却されたであろう。仮令(たとい)句を作ったにしても、自選の句稿一巻を遺さなかったならば、今ここに取上げて見るだけの興味は起らなかったかも知れぬ。

 木導が世に遺した句稿というのは、「蕉門珍書百種」の一として刊行された『水の音』のことである。何故この集に『水の音』と題したかということは、その自序がこれを叙しているから、左に全文を引用する。

[やぶちゃん注:「水の音」は木導の発句三百五十九句と独吟歌仙一巻を収め、句集は彼が亡くなる享保八年六月二十二日の一と月前に送稿されたものであった。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全編を読むことが出来る。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

治国に乱をわすれざるは武士の常なり、其常に干里の雲路はるかの国々の風俗を尋ね味ひ  よく知るをさして是を兵法に因間内間といふ、此一すしを兼て求(もとめ)をかはやと風雅を種となしてはせを庵の松の扉をたゝき翁の流を五老井[やぶちゃん注:「ごらうせゐ」。]と共に汲つくす事三十年、かれこれの便をつたひ蕉門の俳友ところところに数をつくせり、其あらましを五老井雨夜物がたりにおよびぬれば、翁しばらく目をふさぎ奥歯をかみしめ皺の手をはたと打、謀略のたくましきを深かんじ玉ふと也、かの折から予が麦の中行(ゆく)水の音をも聞たまひて翁曰、いにしへ伊勢の守武(もりたけ)が小松生ひなでしこ咲(さけ)るいはほ哉(かな)、我が古池やかはず飛込水の音、今木導が麦の中行水の音、此三句はいづれも万代不易第一景曲(けいきよく)玄妙の三句也、誠に脇をなしあたへんと許子にながれに麦をかゝせて、かげろふいさむ花の糸口と筆をとり給ひしを初となしていひ捨し句どもとりあつめ阿山の鎮守に奉納せり。

[やぶちゃん注:【2020年9月14日追記】現在、私は木導の句集「水の音」を作成中であるが、その過程で、ここに出る「小松生ひなでしこ咲るいはほ哉」の句は、野田別天楼氏の指摘によって、荒木田守武の句ではないことが判明した。これは「新撰菟玖波集」に載る蜷川智薀(?~文安五(一四四八)年:室町時代の武士で連歌作者。新右衛門親当(ちかまさ)と称した。室町幕府に政所代として仕えた。和歌を正徹に、連歌を梵灯庵主に学び、一休に参禅した。「竹林抄」の「連歌七賢」の一人。「新撰菟玖波集」に六十六句が入集する。句集に「親当句集」がある)の句であって、「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」「新撰菟玖波集」を最初から何度か全篇を視認する中で「卷第十九」のこちらに(右頁最終行)、「小松おひなてしこさけるいはほかな」と発見出来たので、ここに追記しておく。

「因間」(いんかん)は「孫子」の兵法に出る間諜の一種。「郷間」とも称し、敵国の村里にいる一般人を使って諜報活動をすることを指す。

「内間」は同前で、敵国の官吏などを利用して内通させることを指す。

「五老井」森川許六の別号。

「景曲」和歌・連歌・俳諧などで、景色を写生的に、しかも面白く趣向を凝らして詠むこと。]

 

 許六が芭蕉に逢った時、「春風や麦の中行く水の音」という木導の句の話をしたら、芭蕉がひどくほめて、これは守武の「小松生ひなでしこ咲るいはほ哉」や、自分の「古池や娃飛込む水の音」にも劣らぬ万代不易の名吟であるといった。許六が画をよくするところから、直に句の趣をかかせて、「かげろふいさむ花の糸口」という脇を書いてくれた、というのである。木導は親しくその画を見、許六からその話を聞いて、多大の感激を禁じ得なかったであろう。彼が自らその句を選まむとするに当り、先ずこの事を念頭に浮べ、水の音と名づけて長く記念としようとしたのはさもあるべきことと思われる。

 木導の「春風」の句は芭蕉の脇と共に『笈日記』に出ている。最初は「姉川や」とあったのを、芭蕉が「春風」に改めたのだという説もあるが、本当かどうかはわからない。いずれにしてもこれが木導の出世作――というのが小説家めいておかしければ、芭蕉に認められた第一の作であった。許六、李由の共撰に成る『宇陀法師』にも、景曲の句としてこの句を挙げ、これを賞揚した芭蕉の言葉を録している。子規居士の説に従えば、芭蕉の「景気」といい、「景曲」といい、「見様体」というもの、悉く今日のいわゆる客観趣味であって、守武の撫子、芭蕉の古池も同じ範躊に属するものと見なければならぬ。この句において一歩を蹈出した[やぶちゃん注:「ふみだした」。]木導が、客観的天地に翺翔し、永く客観派の本尊として仰がれるとすれば、便宜この上もない話であるが、世の中の事実は遺憾ながらわれわれの誂(あつら)え通りに出来ていない。但[やぶちゃん注:「ただし」。]木導の句そのものは、「春風」の句に現れた客観趣味以外にもなお多くの語るべき内容を持っている。

[やぶちゃん注:「翺翔」鳥が空高く飛ぶように、思いのままに振る舞うこと。]

 

 『水の音』収むるところすべて三百五十九句のうち、第一に目につくのは嗅覚に属する句である。聴覚や嗅覚は文字に現すことが困難なので、動(やや)もすれば常套に堕し、誇張に傾く嫌がある。子規居士も梅が香を例に取って、歌人の感覚の幼稚なのを揶揄したことがあったが、木導の嗅覚はそんな平凡なものではない。同じ花の香であっても

 にんどうの花のにほひや杜宇     木導

 闇の夜になの花の香や春の風     同

の類になると、よほど常套を脱している。「梅が香」や「菊の香」の句にあっては、必要以上に「香」の字が濫用される結果、「香」はあるもなおなきが如き場合も少くないが、この二句の香は――句の巧拙は別問題として――そういう賛物(ぜいぶつ)ではない。読者は作者と共に、一応忍冬の香を嗅ぎ、菜の花の香を嗅がなければならぬ。平遠な闇夜の中に感ずる菜の花の香は、特異なものでも何でもないが、「暗香浮動月黄昏」を蹈襲する梅香趣味の比でないことは明(あきらか)ある。

[やぶちゃん注:「にんどう」「忍冬」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の別名で、生薬名としても知られる。花期は五~七月で、葉腋(ようえき)から花が二つずつ並んで咲き、夕方から甘い香りを漂わせる。

「杜宇」は「ほととぎす」。]

 

 けれども木導集中の嗅覚の句は、如上の程度を彷徨するのみではない。普通の人ならば厭がりそうな臭気の類までも、進んでこれを句中に取入れている。

 ぬり枕うるしくさゝよ夏座敷     木導

 牛臭き風のあつさや小松原      同

 五位鷺の糞のにほひや夏木立     同

 日覆の魚見せ涼し鮨の薫       同

[やぶちゃん注:上五は「ひおほひの」。座五は「すしのかざ」。]

 出がはりやわきがの薬和中散     同

 あせくさき蓑の雫や五月雨      同

 更ルほど汗くさくなるをどりかな   同

[やぶちゃん注:上五は「ふけるほど」。]

 うつり香の椀にのこるやはるの雨   木導

 あたらしき暦のかざや春の雨     同

 くれ合に硫黄の薫や窓の雪      同

[やぶちゃん注:「薫」は「かざ」。ここは上五から夕餉を用意するために、竈の火を点けるために火を起こすのに用いられた硫黄付け木(ぎ)の微かなそれを嗅ぎ分けたものであろう。]

 麦地ほる田土のかざや神無月     同

 藁くさき村の烟や冬のくれ      同

 「更ルほど」の句は『韻塞(いんふたぎ)』には「傾城(けいせい)の」となっている。粉黛を粧(よそお)った傾城が踊によって汗臭くなるというだけでは、単なる説明的事実に過ぎないが、「更ルほど」となると自ら別様の趣味を生じて来る。夜の更けるに従って踊見の人数も影えるのであろう。踊から発散するのと相俟って、そこに汗の香の漂うのを感ずる。作者は遠くから踊の光景を眺めているのでなしに、親しく踊場の群集の中に眺めているのである。

 小松原に漂う牛の臭、夏木立に感ずる五位鷺の糞の臭、木導の鼻は自然の中にこういうものを嗅出すかと思うと、新しい暦の紙のにおいだの、夕方の雪の窓に流れる硫黄のにおいだの、椀に残る何かの移り香だの、座辺のものにもその嗅覚を働かせている。その嗅覚は鋭敏ではあるが、決して病的ではない。また「小便の香も通ひけり萩の花」という一茶の句のように、殊更に現実暴露を試みた遊も見当らない。頗る自然であるのを多としなければならぬ。

 小路よりもろこ焼かやはるの雨    木導

[やぶちゃん注:「焼かや」は「やくかや」。「もろこ」は彼が彦根藩士であったことから、まず、琵琶湖固有種で「本諸子」或いは単に「諸子」と書く、日本産のコイ科 Cyprinidae の中でも特に美味とされ、炭火焼きが美味い条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科タモロコ属ホンモロコ Gnathopogon caerulescens のことと考えてよい。]

 乗合の舟のいきれや五月雨      同

 すゝ払や囲炉裏にくばる蕃椒     同

[やぶちゃん注:上五は「すすはきや」、座五は「たうがらし」。よく判らぬが、これは煤掃きを終えた後、保存を兼ねて、秋に収穫した唐辛子を火棚(ひだな)に並べるか、吊るすかしたものではないか。その燻ぶりつつ乾燥してゆく匂いが漂っているものか。]

 十種香の客もそろふや春の雨     同

[やぶちゃん注:上五は「じつしゆかう」。香道で、数種の香十包を焚き、その香の名を聴き当てる遊び。]

 これらの句は表面に「香」を現していないけれども、やはり嗅覚の範囲に入るべきものであろう。乗合舟のむっとする人いきれや、囲炉裏に燻(くすぶ)る唐辛子は、必ずしも嗅覚にのみ訴える性質のものではないかも知れぬが、作者の鋭敏な鼻がそれに無感覚でいるはずはないからである。

 同じく元禄期の作者であるが、秀和(しゅうわ)に「鰯やく鄰にくしや窓の梅」という句がある。自分は現在梅が香を愛(め)でているのに、心なき隣人が鰯を焼くので、その臭によって梅が香の没了することを歎じたのである。この主眼が俚耳に入りやすいため、有名な句にはなっているが、鰯焼く臭のみならず、俗臭もまた強いのを遺憾とする。鰯焼く隣人を憎むことによって、逆に梅が香を現そうとしたのも、作為の譏(そしり)を免れぬ。木導の「小路よりもろこ焼かや」の句は、その点になると遥に自然である。小路から流れる香を嗅いで、諸子(もろこ)を焼いているのかなと感ずる。「かや」という言葉に多少の疑問を含めているのも、この場合かえって句中の趣を助けているように思う。『虞美人草』の中に、春雨の京の宿で閑談を逞しゅうしながら、台所から流れるにおいを嗅いで、「また鱧(はも)を食わせるな」というところがある。先ずあれに似た淡い趣であろう。

[やぶちゃん注:「虞美人草」の第三章に出る。但し、淡いというのが、当たるかどうか。そこでは、宗近が『だまつて鼻をぴくつかせて』、『「又鱧を食はせるな。每日鱧ばかり食つて腹の中が小骨だらけだ。京都と云ふ所は實に愚な所だ。もういゝ加減に歸らうぢやないか」』と苛立つと、と甲野欽吾が、『「歸つてもいい。鱧位(ぐらゐ)なら歸らなくつてもいゝ。しかし君の嗅覺は非常に鋭敏だね。鱧の臭(にほひ)がするかい」』と応酬するシーンである。漱石の神経症的な描写の背後の内実それは「淡い」なんてもんじゃなく、病的に深刻である。]

 

 以上嗅覚に属する十数句のうち、大半は撰集などに見えぬ、『水の音』においてはじめて逢著する句である。これを以て直に木導自身の趣味に帰するのは、やや早計の嫌があるかも知れぬが、少くとも考慮に入れる位の価値はありそうである。雨及雪の句が多いのは、空気がこもるとか、香が低く沈むとかいう常識以外に、何らか理由があるのかもわからない。

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 三 / 史邦~了

 

       

 

 動物に関する史邦の句は必ずしも以上に尽きるわけではない。ただその代表的なものは一わたり観察を試みたから、以下少しく他の方面の句に眼を移したいと思う。

 史邦の句作は何時頃からはじまるか、前に引いた「初雪」の句に「猿蓑撰集催しける比(ころ)発句して心見せよと古翁の給ひければ」という前書のついているのを見れば、それ以前已に俳道に志していたものと思われる。『猿蓑』収むるところの句すべて十二、いずれも駈出しの口つきではない。就中(なかんずく)最もすぐれたものは

 はてもなく瀬のなる音や秋黴雨    史邦

の一句であろう。「秋黴雨」は何と読むか、俳書大系は「しめり」と読ませてあるが、このルビは編者がさかしらに振ったもので、原本には何もついていない。降雨の工合(ぐあい)よくあった時に「いゝおしめりだ」などというのは、現在でも行われている言葉であるが、この場合「アキシメリ」ではどうも面白くないと思う。ここは「アキツイリ」と読むべきではなかろうか。日本内地の雨季は前後二回あって、六月から七月へかけてと、九月から十月へかげてと、大体似たような空模様を繰返す。前者が梅雨であることはいうまでもないが、後者は秋霖(しゅうりん)の名を以て呼ばれている。幾日も降続く秋雨(あきさめ)の意である。梅雨を「ツイリ」と呼ぶことに対して、秋霖に「アキツイリ」の語を宛てたものではないかと思う。『有磯海』に

 米になる早稲の祝や秋露入      其継

とあるのは、全然文字を異にしているけれども、思うにこれも「アキツイリ」であろう。『有磯海』の出版は『猿蓑』よりも四年おくれているから、史邦に倣ったと見られぬこともない。が、恐らくは史邦の造語でなく、更に捜したら同じ用例が見つかるかも知れぬ。

 毎日毎日陰鬱な秋霖が続いている。著しく水嵩(みずかさ)の増した瀬の音が絶えず轟々と聞える。それを「はてもなく瀬のなる音や」の十二字で現したので、芭蕉の「五月雨の雲吹き落せ大井川」などとはまた違って、内在的な力の強い句である。しかしてその間に自ら五月雨と違うものを持っているから面白い。

[やぶちゃん注:「秋黴雨」「アキツイリ」『秋霖に「アキツイリ」の語を宛てたもの』現在、辞書や歳時記に平然とそう書いてあり、言葉感覚の嗜好で今現在の俳句作でも好まれている様子だが、恐らくはこの史邦のこの句がこの語と読みの震源と考えてよい。個人的には「ついり」という発音には生理的に虫唾が走り、私は知っていても決して口にしない。

「其継」(きけい)元禄期(一六八八年~一七〇四年)の浪化(彼は真宗大谷派の名刹井波瑞泉寺の住職であった)を中心とした最も充実した状況にあった越中井波俳壇の主力俳人の一人で、浪化同宗の妙蓮寺第四代住職。浪化の侍者として、頻繁に京と行き来した彼に度々同行している。]

 

 菜の花や小屋より出る渡し守     史邦

 この句は当時史邦の句として比較的有名なものだったのではないかと想像する。句空撰の『北の山』、車庸(しゃよう)撰の『己(おの)が光』、兀峰(こっぽう)撰の『桃の実』、いずれもこれを録しているからである。前二者は元禄五年[やぶちゃん注:一六九二年。]、『桃の実』は同六年の出版であるから、作句の年代は『猿蓑』と大差ないものと見るべきであろう。流通性が多いだけ、特色に乏しいという難はあるかも知れぬが、如何にも長閑な趣が現れている。菜の花の多い、関西郊野の様子が眼に浮んで来る。

 味噌まめの熟るにほひや朧月     史邦

 「熟る」は「ニユル」と読むのかと思う。嗅覚を主にした句であるが、作者は別に朧月夜につきものの艶な匂などは持って来ない。ただ鼻に感じた味噌豆の煮える、甘い、暖かそうな匂を捉えただけである。朧な月の光の下に一たびこの香を嗅げば、直に身を春夜の大気の中に置くの思がある。場所も作者の位置も、強いて問う必要はない。真実の力といえばそれまでであるが、嗅覚の一点によって朧月の趣を生かしている作者の伎倆も認めなければなるまい。

 岡崎は祭も過ぬ葉雞頭        史邦

 この岡崎は三州岡崎ではない、京都の岡崎であろう。秋の祭が過ぎて、何となく物静になった空気の中に、葉雞頭が何時(いつ)までも衰えぬ色を見せている、というのである。沈静した空気に対して、葉雞頭の色彩が特に目立って感ぜられる。一茶の「一祭りさつと過けり草の花」などという句も、同じようなところを覘(ねら)ったものであるが、史邦の句のように湛然たるものがない。表現の如何よりもむしろ作者の心の問題であろう。

[やぶちゃん注:「京都の岡崎」現在の京都府京都市左京区南部の広域地名。この辺り(グーグル・マップ・データ)。「岡崎」を町名に冠する地区が多い。

「湛然」静かで動かぬさま。]

 

 春雨やおもきが上のふけあたま    史邦

 史邦はこういう感覚をも句中のものにしている。すぐれた句というわけではないが、懶(ものう)い春雨の感じが一句に溢れているように思う。特色の多寡を論ずれば、「小屋より出る渡し守」よりはこの方を推すべきであるかも知れぬ。

 芭蕉と史邦との交渉はどんなであったか、委しいことは伝わっておらぬが、史邦の句が撰集の上に現れる時代から推して、「奥の細道」旅行以後に相見たことは明である。幻住庵時代にも訪問者の一人であったらしく、『猿蓑』の「几右日記(きゆうにっき)」に

 笠あふつ柱すゞしや風の色      史邦

の一句をとどめており、『嵯峨日記』の中にもその名が見える。芭蕉が三年ぶりで江戸に帰って後、史邦も仕を辞して東へ下った。

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『幻住庵在庵中』(元禄三(一六九〇)年四月六日から七月二十三日まで。但し、途中の六月には一時、幻住庵を出て京の凡兆宅にあった時期がある)『の芭蕉を訪ねたときの吟である。清閑な庵居の柱にかけられた桧笠(ひのきがさ)を涼風が吹きあおっているさまである。緑陰を吹きぬけてくる風に涼しさとともに色彩が感じられるというのである』とあり、「笠」について『『幻住庵記』に「木曾の桧笠、越(こし)の菅蓑(すがみの)斗(ばかり)、枕の上に懸(かけ)たり」とある笠』とされ、「すゞしや」に注されて、『夏の季題。『猿蓑さがし』に「涼しや風の色とは翁の清貧、その隠者たる高節の所を形容して作れる也」とある』とあり、さらに宵曲の言っている通り、『『猿蓑』所収「几右日記」に、幻住庵を訪れた客の発句三十五句の中の一として出る』とある。]

 

   東武に志ありて白川の橋はらはら
   難に蹈初与市が蹴上の水にわらぢ
   をしめ直すもあとゆかしく

 鈴かけをかけぬばかりの暑かな    史邦

   東武におもむきし頃木曾塚に各吟
   会して離別の情を吐事あり

 涼風に蓮の飯喰ふ別かな       同

等の句があるから、その発足は夏だったのであろう。洛の史邦は一転して江戸の史邦になった。左の二句は東武における史邦の作品として、注目すべきものたるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「蹈初」「ふみそめ」。

「与市が蹴上の水」「蹴上」は「けあげ」で現在の京都市左京区蹴上。インクラインで知られる、ここ(グーグル・マップ・データ)。旧東海道が京都三条通に通ずる九条山などの谷間(たにあい)の急坂で、嘗ては愛宕郡と宇治郡の境で、古くは「松坂」とも呼んだ。参照したサイト「京都風光」の「蹴上」によれば、『蹴上の語源としては「つま先上がりとなるほどの急坂」を意味するともいう』。ここには『源義経』『についての伝承がある。牛若丸(義経)は、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している』が、『現在の蹴上付近で、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市重治(与一)らの一行とすれ違う。その従者の一人(馬とも)が峠の湧水を撥ね、牛若丸の衣を汚した。牛若丸は怒り』、十人(九人ともされる)の『武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払った。また、与一も斬られたともいう。牛若丸は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。斬られた人々のために、九体の石造地蔵(九体仏)を安置して弔ったともいう。その場所は九体町付近とされる。(『雍州府志』)』とあった。]

 

   芭蕉菴に宿して

 蕣や夜は明きりし空の色       史邦

   深川の庵に宿して

 芭蕉葉や風なきうちの朝涼      同

 「蕣」の句は早暁の気を一句に尽した感がある。夜が漸く明放れてしかも日が出ぬ頃、爽な天地の中に朝顔の花を見る。早暁の大気と、爽な空の色と、はっきりした朝顔の花と、三者が渾然として一になっている。こういう朝顔の趣は今なお新な種類のものであるが、史邦が芭蕉庵に一宿して、早天にこの句を得たのだと思うと、一層感が深い。

 「芭蕉葉」の方は、蕣ほど早い時間ではない。芭蕉庵に一宿した史邦が、縁側か何かに出て涼んでいると、しっとりした朝の空気の中に、芭蕉が大きな葉を伸べている。まだ日も高くは上らず、芭蕉の葉を動かすほどの風もない、という静な世界を描いたのである。『続猿蓑』の編者は惟然の「無花果(いちじく)や広葉にむかふ夕涼」と並べてこれを録しているが、正に趣を同じゅうする朝夕の一対として、併看すべきものであろう。

[やぶちゃん注:「蕣」は「あさがほ」で秋の季題。「明きりし」は「あけきりし」。この言い切った毅然とした語勢が、この句の眼目であろう。

「朝涼」「あさすずみ」。]

 

 芭蕉と史邦との交渉は、京洛から東武にわたって続いている。

   古翁ある時のたまひけるは、
   史子我道は牛房の牛房くさきを
   持てよしとするに比せり、是を
   しれりやと仰られし返しに

 上下や下は紙子のはら背負      史邦

   其後人々此心を尋られしかば、
   師の道は信を以て物にむかふ、
   物また信に応ずるなりと答申
   けるとかや

という問答などは、関西においての事か、江戸に来てからの事か、時代の徴すべきものがないが、両者の関係が浅いものでなかった証左にはなるかと思う。ただ芭蕉が最後の旅に上るに当り、これを送った人々の中にも史邦の名は見えず、『枯尾花』に網羅された追悼句の中にもまた史邦は洩れている。芭蕉と親しかった門弟のうち、何故『枯尾花』に洩れたか不審なのは、西にあっては洒堂、東にあっては史邦である。洒堂については多分旅行にでも出て、大坂にいなかったものだろうといわれている。史邦にも何かそういう事情がなければ、どうしても解釈のつかぬところである。

[やぶちゃん注:「史子」は「しし」。史邦を尊称したもの。「牛房」は「ごばう」で牛蒡(ごぼう)のこと。

「上下や下は紙子のはら背負」「かみしもやしもはかみこのはらせおひ」。この一句、よく判らぬ。]

 

 史邦は芭蕉の門弟として篤実なる一人であった。元禄八年の『後の旅』にある

   芭蕉翁追悼

 河はあせ山は枯木の涙かな      史邦

の句は、如何ともしがたい胸中の悲哀を語るものであるが、「青山を枯山(からやま)なす泣枯(なきから)し、海河を悉(ことごと)に泣乾(なきほ)しき」と『古事記』にもあり、「河はあせ山は枯木」という調子が実朝の「山はさけ海はあせなん」の歌を連想せしむる点において、直に肺腑(はいふ)を衝(つ)かぬ憾があるかと思う。それよりもしみじみと感ぜられるのは

   旧庵師の像に謁

 芭蕉会と申初けり像の前       史邦

の一句である。これは師を喪った者の感情として、古今に通ずるものであろう。碧梧桐氏が「天下の句見まもりおはす忌日(きにち)かな」と詠み、鳴雪翁が「下手な句を作れば叱る声も秋」と詠んだのは、子規居士一周忌の時ではなかったろうか。大正六年最初の漱石忌の時に、東洋城氏は「この忌修す初めての冬となりにけり」と詠んだ。年々忌を修してその人を偲ぶことには変りはなくても、最初の忌日は自ら感懐の異るものがある。巧まざる史邦の句が人を動かすのは、その心持を捉えているがために外ならぬ。ここに「芭蕉会」とあるのは、当時実際にそう唱えたか、史邦だけがそういったのか、その辺はよくわからぬが、碧梧桐氏が「すなはち思ふ十七夜(じゆうひちや)忌と名づくべし」といった子規忌も、東洋城氏が「早稲田の夜急に時雨れぬ九日忌」といった漱石忌も、一般にはその称呼が用いられぬような事実があるから、かたがた以て「芭蕉会」という言葉が面白く感ぜられる。芭蕉会という言葉が芭蕉その人の風格なり、行状なりに適合していることは贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「古事記」のそれは、「上つ巻」の父伊耶那岐命の海原を治めよという命を聴かず、素戔嗚命が母恋しさに涕泣し、世を荒廃させてしまうシークエンスに出る。

   *

故。各隨依賜之命。所知看之中。速須佐之男命。不知所命之國而。八拳須至于心前。啼伊佐知伎也。其泣狀者。靑山如枯山泣枯。河海者悉泣乾。是以惡神之音。如狹蠅皆滿。萬物之妖悉發。

   *

故(かれ)、各(おのおの)依(よ)さし賜ひし命の隨(あにま)に、知ろしめす中(なか)に、御速須佐之男命、命(よ)せし國を治(し)らさずて、八拳須(やつかひげ)心(むね)の前(さき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く狀(さま)は、靑山(あをやま)を枯山(からやま)のごとく泣き枯らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾しき。是(ここ)を以ちて惡しき神の音(こゑ)は、狹蠅(さばへ)如(な)す、皆、滿ち、萬物(よろづ)の物の妖(わざはひ)、悉に發(おこ)りき。

   *

「実朝」のそれは、定家所伝本「金槐和歌集」では掉尾の六百六十三首目に収められたもので、

 山はさけ海はあせなむ世なりとも

     君にふた心わがあらめやも

の著名な一首。宵曲の言うように、原拠が見え見えで、悲哀感情がインク臭くなってよくない。

「芭蕉会と申初けり像の前」「ばしやうゑとまうしそめけりぞうのまへ」。私は宵曲のようには、買えない。]

 

   翁三回忌

 凩や喪を終る日の袖の上       史邦

 芭蕉会に蕎麦切打ん信濃流      同

 これらの句にも皆真実の情が簑っている。ここにもまだ芭蕉会の語が用いてある。

[やぶちゃん注:「芭蕉会に蕎麦切打ん信濃流」「ばしやうゑにそばぎりうたんしなのぶり」。前句はいいが、これはやはり私は買わない。]

 

 史邦は自己唯一の撰集に『芭蕉庵小文庫』と名づけた。先師の遺文、遺句の類を多く収めたからの名であろう。その春の部に見えた左の一句は、前書に多くを語っているからここに全部を引用して置こうと思う。

   ふたみの机硯箱は翁ふかくいとをしみ
   てみづから絵かき讃したまひぬ。また
   一とせ洛のぼりに、いざさらば雪見に
   ころぶ所迄と興じ申されける木曾の檜
   笠越の菅蓑に桑の杖つきたる自画の像、
   此しなじなはさぬる年花洛の我五雨亭
   に幽居し給ふ時、一所不住のかた見と
   て予に下し給りぬ。されば師のなつか
   しき折々あるは月花に情おこる時は是
   をかけこれをすえ、ひたすら生前のあ
   らましして句の味をうかゞふのみ、
   む月七日はことにわか菜のあつものを
   すゝめて例よりもかなしくかしこまる
   袖になみだこぼれて

 折そふる梅のからびや粥はつを    史邦

 史邦の居を五雨亭といったこと、芭蕉がそこに滞在した形見として、以上の品々を史邦に贈ったことはこれで明である。それらの遺物を取出しては先師を偲び、折々のものを捧げてその前に畏るというのは、史邦その人の篤実な様子が思いやられる。師を担いで自ら售(う)ろうとするような、衒示的(げんじてき)態度が認められぬのは特に難有い。

[やぶちゃん注:「いざさらば雪見にころぶ所迄」貞享四年十二月初め、恐らくは三日(グレゴリオ暦では一六八八年一月五日)の名古屋での作と推定される名吟である。

「檜笠」「ひのきがさ」。

「越の菅蓑」「こしのすげみの」。

「はつを」は「初尾」で「初穗(はつほ)」に同じい。ここはその年最初の粥を炊いて仏前に奉ったことを指す。]

 

 芭蕉歿後の史邦について、もう一つ挙げなければならぬものは「芭蕉庵小文庫序」である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

木曾の情雪や生ぬく春の草と申されける言の葉のむなしからずして、かの塚に塚をならベて風雅を比恵比良(ひえひら)の雪にのこしたまひぬ、さるをむさし野のふるき庵ちかき長渓寺の禅師は亡師としごろむつびかたらはれければ、例の杉風(さんぷう)かの寺にひとつの塚をつきてさらに宗祇のやどりかなと書をかれける一帋(し)を壺中に納めて此塚のあるじとなせり、たれたれもかれに志をあはせて情をはこび句をになふ、猶師の恩をしたふにたえず、霜落葉かきのけてかたのごとくなる石碑をたて、霜がれの芭蕉をうへし発句塚と杉子がなげきそめしより愁傷なをあらたまりて

 日の影のかなしく寒し発句塚     史邦

[やぶちゃん注:「木曾の情雪や生ぬく春の草」「情」は「じやう」。「生ぬく」は「はえぬく」。この句は永く作句年次が明らかでなかったが、尾形仂(つとむ)氏が、「日本詩人選 松尾芭蕉」(一九七一年筑摩書房刊)で元禄三(一六九〇)年三月作と推定された。その経緯について山本健吉氏が「芭蕉全句」(私が所持するのは二〇一二年刊講談社学術文庫版)で詳細に纏めておられるので、以下に引く。

   《引用開始》

去来の『旅寝論』に「一とせ人々集りて、木曾塚の句を吟じけるに、先師一句も取給はず。門人に語りて曰(いわく)、都て物の讃、名所等の句は、先(まず)其(その)場をしるを肝要とす。西行の讃を文覚の絵に書、明石の発句を松島にも用ひ侍らんは、浅ましかるべし。句の善悪は第二の事也、となり。我むかし先師の木曾塚の句を拙(つたな)き句なりと思へり。此(この)時はじめて其(その)疑ひを解(とき)ぬ。乙州(おとくにが)木曾塚の句はすぐれたる句にあらずといへ共(ども)、此をゆるして猿蓑集に入べきよしを下知(げじ)し給ふ」とある。尾形氏は、人々が集って木曾塚の句を吟じたのは、元禄四年一月以外に考えられないとし、その時点で去来が「むかし」と言ったのを、前年の三月末と推定し、「先師の木曾塚の句」をこの句とする。また乙州が詠んだという木曾塚の句は、「その春の石ともならず木曾の馬」(猿蓑)の句をさす。従来この句の制作年次は明らかでなく、句の詠まれた事情も前書がないので不明であったが、この尾形氏の隙のない推論で、おおよそそれらの疑問は決着する。

『芭蕉庵小文庫』には編者史邦の序文にこの句を引用し、「と申されける言の葉のむなしからずして、かの塚に塚をならべて、風雅を比恵・日良の雪にのこしたまひぬ」といっている。この句は従来、木曾路での嘱目吟か、江戸で木曾路を思いやった句か、近江膳所(ぜぜ)・義仲寺の木曾塚での吟か、あるいは木曾義仲の画讃か、色々の説があったが、編者の序文に「かの塚に塚をならべて」とあるのが、芭蕉の遺言で遺骸が木曾塚の隣に葬られたことを意味する以上、それは木曾塚を意味するだろう。芭蕉が画讃句や名所の句に「先(まず)其(その)場をしるを肝要とす」と言って乙州の句を採ったのは、その句が義仲の馬に乗ったままの最後の情景をよく踏まえているからである。芭蕉が「木曾の情」といったのも、義仲の人間像をよく見据えているからである。その生涯をみれば、雪深い山国に雪をしのいで生えぬいた春の草のような生命力の逞しさがある、それが木曾義仲の本情である、といったのである。そのような義仲の生き方への共感がこの句には出ている。芭蕉の句としては拙い句ではあっても、「其場」をはずしていないのがとりえである。

   《引用終了》

と山本氏は評しておられるが、私は力強く、リアルに画像も想起出来る佳句と感ずる。

「比恵比良」比叡山と比良山地の高峰群。

「なを」ママ。]

 

 何の奇もない文章であるが、底にしみじみとしたものが流れている。「日の影」の句を誦して、新な石碑にさす冬の日影を、まのあたり見る如く感ずるのも、畢竟真実が籠っているためであろう。

 史邦には、なお

   芭蕉翁七回忌

 こがらしの身は七とせや像の皺    史邦

という句も伝わっている。綿々として思慕の情を絶たぬ史邦のような人が、特別な事情なしに『枯尾花』に洩れるということは、先ず不可解という外はない。

 史邦の句は『芭蕉庵小文庫』に多数収録されているが、それ以上に多いのは種文(しゅぶん)の手に成った『猿舞師』である。これは種文が弟子の立場から、師たる史邦の句を特に多く収めたのかも知れぬ。史邦の句を見るに当って、この二書は閑却すべからざるものであろう。『猿舞師』の中に

 冬枯の磯に今朝見とさか哉      ※羽

 川中の根木に横ろぶ涼かな      同

[やぶちゃん注:「※」は「公」の第二画がない字体。但し、諸本では「公羽」とあるので、「公」に同じい。]

の二句に註して、「右の句翁の句也と誰やらが集に書入たるは翁と※羽(こうう)の文字を読たがへたると史子申されける」とあるのは、『炭俵』の誤を指摘したので、芭蕉研究者に取っては注目すべき資料である。史邦は他人の作が師翁の作として伝えられ、やがて後世を誤るべきを悲しんでこれをいい、種文もその意を体して特に集中に加えたものと思われる。一たび芭蕉の句として有力な集に収められた以上、こういう忠実な人の証言でもないと、これを覆すことは不可能であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:恰も史邦が初めて指摘したように宵曲は書いているが、これは芭蕉自身が遺言状で指摘している。「公羽」は奥羽の岸本八郎兵衛(慶安二 (一六四九) 年~享保四(一七一九)年)で山形鶴岡の庄内藩給人で俳人。サイト「日本掃苔録」のこちらに、『祖は俳人長山重行の祖伝兵衛の配下と伝えられる庄内藩の給人岸本家に生まれる。俳号は公羽。鶴岡島居川原(あるいは長山小路)に住む』。寛文一〇(一六七〇)年、第三代『藩主酒井忠義の代に御徒とな』り、延宝八(一六八〇)年には『上野御仏殿造営の普請方として従事し』、貞享二(一六八五)年、第四代『藩主忠真の時に御徒目付とな』ったとあり、元禄二(一六八九)年、『松尾芭蕉が奥羽行脚の途中、鶴岡に来て長山重行邸に泊った折』り、『その門人となる。その後も、江戸勤番中』、『親しく教えを受けるなど』、『交流を深めた』。元禄七年、父『律右衛門の病死により』、『家督を継ぎ、御徒小頭となる。芭蕉から公羽に宛てた書翰が現存しており、「そのかみは谷地なりけらし小夜砧」の句を芭蕉は秀作と褒めている。志太野坡・池田利牛・小泉孤屋らが江戸蕉門の撰集『炭俵』を編集した際、公羽の句が二句、芭蕉の句として入集した。後に芭蕉がそれに気付いて、遺言状の中で』、『ぜひその誤りを正すように』、『と弟子の杉山杉風に命じている。(庄内人名辞典など)』とある。

「涼」は「すずみ」。]

 

 俳人としての史邦は元禄俳壇に如何なる地歩を占むべきか、それは今俄に論断する必要はあるまい。以上は主として動物に関する興味から史邦を見、次いで篤実なる芭蕉門下として史邦を見た、断片的なおぼえ書に過ぎぬ。史邦の全般にわたるものとしては、なお多くの研究を費さなければならぬからである。

[やぶちゃん注:以下は実際に一行空けで、底本では全体が二字下げ。]

 

   (附 記)

 その後市橋鐸(いちはしたく)氏に『史邦と魯九』なる著書があることを知って一読した。史邦一生の輪郭は大体これに尽されている。丈艸とは犬山以来の関係で、史邦が先ず京に上り、去来と相識るに至ったもののようである。去来の書いた「丈辨誄」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寝し、先師にま見え初られし」とあるのは、この間の消息を指すのであろう。芭蕉歿後の史邦の身辺は存外寂寞であったらしく、其角、嵐雪以下、蕉門の有名な人たちとも殆ど交渉がなかった。『芭蕉小文庫』から『猿舞師』に移るに及んで、集中の顔触が著しく局限されるのは、史邦の周囲の寂しかったためではあろうが、歿年もわからず、固より何処に葬られたかもわからず、一切杳然(ようぜん)として空に帰すというに至っては、あまりに甚しいような気がする。市橋氏が彼の不遇を憐んで、その伝を作るに至ったのも偶然でない。史邦の句として世に伝わる最後のものは、宝永二年の『続山彦』に見えた

 はつ雁やしらけてもどる空のしほ   史邦

の一句である。彼はこの句を詠んで後、果してどの位世にながらえたかわからぬが、他に何も資料が現れぬ限り、姑(しばら)くこれを以て形見とするより外はあるまい。ただこの句もまた動物を詠じたものであることは、文学的価値以外に多大の興味がある。

[やぶちゃん注:「市橋鐸」明治二六(一九八三)年~昭和五八(一八九三)年)は愛知県犬山出身の郷土史家。本名は市橋鐸麿(たくまろ)。犬山藩成瀬氏に仕える御典医をしてきた鈴木家に生まれ、國學院大學卒業後、函館商業学校で教鞭を執り、大正九(一九二〇)年に一宮の市橋家の養子となった。昭和二(一九二七)年、愛知県の小牧中学校に移り、同校では郷土室に勤め、郷土資料写真集を発行するなど、郷土歴史教育に取り組んだ。昭和一六(一九四一)年には名古屋市の委嘱を受け、「名古屋叢書」の編纂主任として、八年かけて全四十七巻を完成、戦後は愛知県立女子専門学校、後、県立女子大教授として昭和三十九年まで務めた。名古屋市・小枚市文化財調査委員。「史邦と魯九」は昭和一二(一九三七)年俳諧史研究社刊。

「杳然」遙かに遠いさま。ここは一向にその先の事蹟が見えぬこと。

「宝永二年」一七〇五年。

「空のしほ」よく判らぬ。ちょうど、そんな雰囲気に合った空の色・具合の謂いか。識者の御教授を乞う。]

2020/08/24

大和本草卷之十三 魚之下 むかでくじら (さて……正体は……読んでのお楽しみ!)

 

【和品】

ムカデクジラ 長大ニ乄海鯂ノ如シ背ニ鬣五アリ尾二

ニワカル足左右各六凡十二足アリ肉紅ナリ食之殺

人有大毒○本草鴆集解別錄曰海中有物赤色

狀如龍名海薑亦有毒甚於鴆羽是ムカテクシラノ類

乎凡有毒物ヲ知テ不可食性不知物ヲ妄不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

むかでくじら 長大にして、海鯂〔(くじら)〕のごとし。背に鬣(ひれ)五つあり。尾、二つにわかる。足、左右〔に〕各〔(おのおの)〕六つ、凡そ十二足あり。肉、紅〔(くれなゐ)〕なり。之れを食へば、人を殺す。大毒有り。

○「本草」〔の〕「鴆〔(ちん)〕」〔の〕「集解」〔の〕「別錄」に曰はく、『海中に物有り、赤色、狀、龍のごとし。「海薑〔(かいきやう)〕」と名づく。亦、毒有り、鴆〔の〕羽より甚だし。』〔と〕。是れ、「むかで・くじら」の類〔(たぐひ)〕か。凡そ、毒有る物を知りて食はざるべし。性〔(しやう)の〕知らざる物を妄〔(みだり)〕に食ふべからず。

[やぶちゃん注:遂に謎のおぞましい海棲生物が出現した。実はこれに就いて真っ向から立ち向かったのが、かの博物学者南方熊楠で、それは「十二支考」の「田原藤太(たわらとうだ)竜宮入りの話」の最後の部分に当たる(初出は大正五(一九一六)年三月発行の『太陽』)。かなり長いが、以下に引用する。底本は一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集1」を用いたが、加工データとして「青空文庫」の同作を使用させて貰った(そちらは一九九四年岩波文庫刊「十二支考(上)」底本(親本は平凡社「南方熊楠全集」)。しかし、これは初出なのか、本文や図の一部が省略された不完全なものである)。図類は私の底本からトリミングした。一部に私が〔 〕で推定で読みを添えた。( )のそれは底本のもの。なお、ルビは総て拗音その他の小書きがないベタな添えとなっているが、書名のカタカナ表記のそれは例外的に小書きにするかどうかの判断をせず、総てそのままとしたことをお断りしておく。その判断には個人によってブレが生じてしまうことを排除出来ないからである。本文中の丸括弧原注はポイント落ちであるが、本文と同じとした。これはもう注を附けたくなるところが満載! ストイックに附した。

   *

 これも従来気づいた人がないようだが、秀郷が竜に乞われて蜈蚣(むかで)を射平らげたてふ事も先例ある。『今昔物語』巻二十六の九にいわく、加賀の某郡の下衆(げす)、七人一党として兵仗〔へいじょう〕を具えて海に出で釣りを事とす。ある時風に遭〔お〕うて苦しむと、はるかに大きな島ありて、人がわざと引き寄するようにその島に船寄る。島に上りて見廻すほどに二十余歳らしい清げな男来て、汝たちを我が迎え寄せたるを知らずや、風は我が吹かしたのだと言って、微妙の飲食もて饗応し、さて言うは、ここより澳(おき)にまたある島の主〔ぬし〕我を殺してこの島を取らんと常に来り戦うをこれまで追い返したが、明日は死生を決し戦うはずゆえ、我を助けもらわんとて汝らを迎えたと、釣り人ども出来ぬまでも命を棄て加勢申さん、その敵勢はいかほどの人数船数ぞと問うと、男それはありがたい、敵も我も全く人でないのを明日見なさい、従前敵が来るとこの滝の前に上陸せしめず海ぎわで戦うたが、明日は汝らを強く憑(たの)むから上陸させて戦うて、我堪えがたくならば汝らに目を見合す、その時箭〔や〕のあらん限り射たまえと、戦いの刻限を告げ、しっかり食事して働いてくれと頼んで去った。七人、木で庵を造り鏃〔やじり〕など鋭〔と〕いで弓弦(ゆづる)括(くく)って火焼(た)いて夜を明かし、朝に物吉(よく)食べて巳(み)の時[やぶちゃん注:午前十時前後。]になりて、敵来〔きた〕るべしといった方を見れば、風吹いて海面荒れ光る中より大きな火二つ出で来る、山の方を望めば草木靡き騒ぐ中よりまた火二つ出で来る、澳より近く寄するを見れば十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]ばかりの蜈蚣で、上は□□に光り左右の眼(?)は赤く光る。上から来るは同じ長さほどの臥長(ふしたけ)一抱えばかりな蛇が舌嘗(なめず)りして向い合うた。蛇、蜈蚣が登るべきほどを置いて頸を差し上げて立てるを見て、蜈蚣喜んで走り上る。互いに目を瞋(いか)らかして相守る。七人は蛇の教えの通り、巌上に登り箭を番(つが)えて蛇を眼がけて立つほどに、蜈蚣進んで走り寄って互いにひしひしと咋(く)うほどに、共に血肉(ちじし)になりぬ。蜈蚣は手多かるものにて打ち抱きつつ(?)咋えば常に上手なり。二時ばかり咋う合うて蛇少し弱った体〔てい〕で釣り人どもの方へ目を見やるを、相図心得たり、と七人の者ども寄りて蜈の頭から尾まである限りの箭を筈本〔はずもと〕まで射立て、後には太刀で蜈の手を切ったから倒れ臥した。蛇引き離れ去ったから蜈蚣を切り殺した。やや久しうして男極めて心地悪気わるげに顔など欠けて血出でながら、食物ども持ち来って饗し、喜ぶ事限りなし。蜈蚣を切り放って木を伐り懸けて焼きしまう。さて男、釣り人どもに礼を厚く述べ、この島に田作るべき所多ければ妻子を伴れて移住せよ、汝ら本国に渡らんには此方こなたより風吹かさん、此方へ来んには加賀の熊田宮に風を祈れと教えて、糧食を積ませ乗船せしむると、にわかに風吹いて七人を本国へ送る。七人かの島へ往かんという者を語らい七艘に乗船し、諸穀菜の種を持ち渡りその島大いに繁昌が、みだりに内地人を上げず、唐人敦賀へ来る途上、この島に寄って食物を儲け、鮑〔あわび〕など取る由を委細に載せおる。

[やぶちゃん注:以上の「今昔物語集」のそれは、巻第二十六の「加賀國諍蛇蜈島行人助蛇住島語第九」(加賀國の、蛇(へみ)と蜈(むかで)と諍(あらそ)ふ島に行く人、蛇を助けて島に住む語(こと)第九)である。新字であるが、サイト「やたがらすナビ」のこちらで原話が読める

「□□」「今昔物語集」原本の欠字であるが、研究者は「サヲ」の漢字表記を期した意識的欠字で、「眞靑」(真っ青)辺りを当て得るとする。]

 これを以て攷〔かんが〕えると秀郷が蜈蚣を射て竜を助けた話も、話中の蜈蚣の眼が火のごとく光ったというも、『太平記』作者の創〔はじ〕めた思い付きでなく、少なくとも三百年ほど前(さき)だって行われたものと判る。英国に夜〔よる〕燐光を発する学名リノテーニア・アクミナタとリノテーニア・クラッシペスなる蜈蚣二つあり、学名は知らぬが予米国で一種見出し、四年前まで舎弟方に保存しあったが砕けしまった。かかる蜈蚣たぶん日本にも多少あるべし。蜈蚣の毒と蝮蛇〔まむし〕の毒と化学反応まるで反対すと聞いたが、その故か田辺〔たなべ〕辺〔へん〕で蜈蚣に咬かまれて格別痛まぬ人蝮蛇咬〔かむ〕を感ずる事劇しく、蝮蛇咬をさまで感ぜぬ人蜈蚣に咬まるれば非常に苦しむと伝う。この辺から言ったものか、『荘子』に蝍蛆(むかで)帯〔たい〕を甘んず、注に帯は小蛇なり、蝍蛆喜〔この〕んでその眼を食らう。『広雅』に蝍蛆は蜈蚣なり、『史記』に騰蛇(とうだ)[やぶちゃん注:翼を持たぬが、飛翔能力を持つ蛇神。]これ神なるも蝍蛆に殆(くるし)めらる、『抱朴子』に「南人山に入るに、皆竹管を以て活ける蜈蚣を盛る。蜈蚣蛇あるの地を知り、便(すなわ)ち管中に動作す。かくのごとくければ、則(すなわ)ち草中便ち蛇あるなり。蜈蚣、蛇を見れば、よく気を以てこれを禁じ、蛇ただちに死す」。『五雑俎』九に竜が雷を起し、大蜈蚣の玉を取らんとて撃った話あり。その長(たけ)一尺以上なるは能く飛ぶ。竜これを畏〔おそ〕る故に常に雷に撃たる、という。竜宮入りの譚に蜈蚣を竜の勁敵〔けいてき〕[やぶちゃん注:強敵。]としたるも洵(まこと)に由ありだ。西洋には蜈蚣蛇を殺すという事。下に言うべし。

[やぶちゃん注:「リノテーニア・アクミナタとリノテーニア・クラッシペス」恐らくは多足亜門ムカデ上綱ムカデ綱ジムカデ目Linotaeniidae 科に属する、現在の、前者はStrigamia 属 Strigamia acuminata Leach (1815) で、後者は同属の Strigamia crassipes Koch (1835) であろう。

「かかる蜈蚣たぶん日本にも多少あるべし」熊楠先生! いました! 沖縄本島・八重山諸島に棲息するジムカデ目オリジムカデ科ヒラタヒゲジムカデ属ヒラタヒゲジムカデ Orphnaeus brevilabiatusです(1 November 2011 The Terrestrial Bioluminescent Animals of Japan:英文論文)! ネット上を見ると、他に「ヒカリジムカデ」という発光ムカデの記載を複数確認出来るが、それは八重山諸島を分布域とすること、当該和名の学名が見当たらないことなどからは、ヒラタヒゲジムカデの異名なのではないかとも思われる。

 秀郷の譚に蜈蚣が湖水中の竜宮を攻めたすら奇なるに、『今昔物語』の加賀の海島の蜈蚣が海を渡った大蛇を襲うたは一層合点行かぬという人もあろう。しかし欧州西部の海浜波打ちぎわに棲む蜈蚣二属二種あり、四十年ほど前、予毎度和歌浦の波止場の波打ち懸る岩下に小蜈蚣あるを見た。今日は既に命名された事と想う。さて貝原先生の『大和本草』に「ムカデクジラ、長大にして海鰌(くじら)のごとし、背に鬣(たてがみ)五あり尾二に分かる。足左右各六すべて十二足あり。肉紅なり、これを食えば人を殺す。大毒あり」、『唐土訓蒙図彙』にその図あったが、貝原氏の説に随ってよい加減に画いた物に過ぎじと惟〔おも〕う。かかる変な物今日まで誰も気付かぬは不審と、在外中種々捜索すると、やっとサー・トマス・ブラウンの『ノーフォーク海岸の魚等の記』(十七世紀)に、「予また漁夫が海より得たという物を見るにロンデレチウスが図せるスコロペンドラ・セタセア(蜈蚣鯨の意)に合い十インチほど長し」とあるを見て端緒を得、ロンデレチウスの『海魚譜(リブリ・デ・ピツシブス・マリンス)』(一五五四年板)と『水族志余篇(ウニヴエルサエ・アクアチリウム・ヒストリアエ・パルス・アルテラ』(一五五五年板)を求めたが、稀書で手に入らず、しかし幸いに一六〇四年板ゲスネルの『動物誌』巻四にロ氏の原図(第二十八図)を出しあるを見出した、一七六七年板ヨンストンの『魚鯨博物志(ヒストリア・ナチユラリス・デ・ピツシブス・エト・セチス)』巻五の四四頁には一層想像を逞しうした図(第二十九図)を出す、この二書によるに、蜈蚣鯨を満足に記載したは、ただ西暦二百年頃ローマ人エリアヌス筆『動物性質記(デ・ナチユラ・アニマリウム)』一三巻二三章あるのみで、その記にいわく、蜈蚣鯨は海より獲れし事あり、鼻に長き鬚あり尾扁くして蝦(えび)(または蝗(いなご))に似、大きさ鯨のごとく両側に足多く、外見あたかもトリレミスのごとく海を游ぐ事駛(はや)し、と。トリレミスとは、古ローマで細長い船の両側に長中短の櫓を三段に並べ、多くの漕ぎ手が高中低の三列に腰掛けて漕いだもので、わが邦の蜈蚣船(『常山紀談』続帝国文庫本三九八頁、清正が夫人の付人輩〔ども〕、川口にて蜈蚣船を毎晩に漕ぎ競べさせたとある)も似たものか。さてゲスネルはかかる蜈蚣鯨はインドにありと言い、ヨンストンはその身全く青く脇と腹は赤を帯ぶと言った。それからウェブストルの大字書に、スコロペンドラ(蜈蚣)とスペンサーの詩にあるは魚の名、と出でおる。

[やぶちゃん注:「唐土訓蒙図彙」(平住専庵編・享和二(一八〇二)年刊)の巻十四の「魚介」のここ(左頁右下)に「海薑(かいけう)」と出るのがそれ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。解説には『そのかたち、龍の如く鬣あり。是、多く、其に毒あり。くらふへからす。和云むかでくしらなるへし』とある。]

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第二十八図 ロンデレチウスの蜈蚣鯨の画[やぶちゃん注:上図。]

第二十九図 ヨンストンの蜈蚣鯨の画[やぶちゃん注:下図。]

 

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第三十図 (イ)スコットランドのストロンサ島に打ち上げられた大海蛇

     (ロ)大鮫セラケ・マキシマ

[やぶちゃん注:底本では上に(ロ)図が、下に(イ)図があるが、順列が悪いので、逆転させて組み直した。

 これだけ列ねて一八九七年の『ネーチュール』五六巻に載せ、蜈蚣鯨は何物ぞと質問したが答うる者なく、ただその前インドの知事か何かだったシンクレヤーという人から『希臘詞花集(アントロギアイ・グライカイ)』中のテオドリダス(西暦紀元前三世紀)とアンチパトロス(紀元前百年頃)の詩を見ろと教えられたから半日ほど酒を廃して捜すと見当った、詩の翻訳は不得手ゆえ出任せに訳すると、テの詩が「風南海をかきまわして多足の蜈蚣を岩上に抛(な)げ揚げた、船持輩(ども)この怪物の重き胴より大きな肋骨を取ってここに海神に捧げ置いた」、アの方は「どことも知れぬ大海を漂浪したこの動物の遺骸、破れ損じて浜辺の地上にのたくった。その長さ四丈八尺[やぶちゃん注:十四メートル五十四センチメートル。]海沫(あわ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に沾(ぬ)れ巌石に磨(すりきら)れたるを、ヘルモナクス魚取らんとて網で引き上げ、ここにイノとパライモンに捧げた、この二海神まさにこの海より出た珍物を愛で受くべし」てな言(こと)だ。マクグレゴル注に、ここに蜈蚣というはその足の数多しというでなく、その身長きを蜈蚣に比(よそ)えたので、近世評判の大海蛇のような物だろうと言い、シュナイデルはこれぞエリアヌスのいわゆる蜈蚣鯨なりと断じた。これは鯨類などの尸(しかばね)が打ち上がったその肋骨の数多きを蜈蚣の足と見たのだろ。レオ・アフリカヌスの『亜非利加(アフリカ)記』にメッサの海浜のある社の鳥居は全く鯨の肋骨で作る。蜈蚣鯨が予言者ヨナを呑んでここへ吐き出した。今も毎度この社前を過ぎんとする鯨は死んで打ち上がる。これ上帝この社の威厳を添えるのだとは、そりゃ聞えませぬ上帝様だ。『続博物誌』に曰く、李勉汴州〔べんしゅう〕[やぶちゃん注:現在の河南省東部の開封(かいほう)市(グーグル・マップ・データ)。]にありて異骨一節を得、硯となすべし。南海におった時海商より得、その人言う、これ蜈蚣の脊骨と。支那でも無識の人は鯨の脊骨に節多きを蜈蚣の体と誤認したのだ、有名な一八〇八年九月スコットランドのストロンサ島に打ち上がった五十五フィート[やぶちゃん注:十六メートル七十六センチメートル。]の大海蛇は、これを見た者宣誓して第七図(イ)を画き稀有の怪物と大評判だったが、その骨をオエンら大学者が検して何の苦もなく一判りにセラケ・マキシマなる大鮫と知った(同図(ロ))。その心得なき者は実際覩〔み〕た物を宣誓して画いてさえ、かく途方もなき錯誤を免れぬ事あり(一八一一年エジンバラ板『ソーネリアン博物学会報告』一巻四二六―三九頁。一八五七年板『依丁堡皇立学士会院記事(プロシージングス・オヴ・ゼ・ロヤル・ソサイエチー・オヴ・エジンボロ)』三巻頁二〇八―一五頁。一八六〇年板、ゴッス『博物奇談(ゼ・ロマンス・オヴ・ナチユラル・ヒストリー)』三二七頁)。したがって『隋書』に「真臘国(カンボジア)に浮胡魚あり、その形䱉〔(ショ)〕に似る、嘴(くち)は鸚䳇〔(おうむ)〕のごとく、八足あり」、また『類函』四四九に『紀聞集』を引いて天宝四載[やぶちゃん注:七四五年。唐の玄宗の後期の元号。]、広州海潮によって一蜈蚣を淹(ひた)し殺す、その爪を割〔さ〕いて肉百二十斤[やぶちゃん注:唐代の換算で七十一キロ六百四十グラム。]を得、とあるも、鯨類か鮫類の死体の誤察から出た説だろう。第三十一図は、過去世の鮫クリマチウスで、ちょっと蜈蚣鮫と言っても通る形だ。

[やぶちゃん注:「セラケ・マキシマ」調べるのにやや手間取ったが、この Selache maxima (Gunnerus, 1765) とは、軟骨魚綱ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメCetorhinus maximus (Gunnerus, 1765) のシノニムであった。現在、旌旗に記録されているウバザメの最大個体は全長十二・二七メートルで推定体重は十六トンである。巨大だが、彼らはプランクトン食であり、人間には無害である。

「過去世の鮫クリマチウス」脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱†棘魚綱 Acanthodii クリマティウス目 Climatiiformes:シルル紀中期から石炭紀後期にかけてアフリカを除く六大陸及びグリーンランドに分布していたと考えられる一群。背鰭は二つあり、孰れも棘を有する。クリマティウス科クリマティウス属 Climatius など、胸鰭と腹鰭の間に最大六対の副対鰭(ふくついき)を持つが多い(熊楠の絵はそれを明らかに描いている)。歯はないか、あっても、顎に固着しない。体長は小さく、最大でも体長は僅かに十センチメートルであったらしい。]

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第三十一図 過去世の鮫類似魚クリマチウス

 以上拙考の大要を大正二年の『ノーツ・エンド・キーリス』一一七輯七巻に載せ、さらに念のため諸家の批評を求めると、エジンボロのゼームス・リッチー博士の教示にいわく、エリアヌスが筆した蜈蚣鯨はゴカイ類のある虫だろう、ゴカイ類の頭に鬚あるを鼻に長鬚ありと言い、尾に節ありて刺あるが鰕(えび)(または蝗(いなご))に似、両側に足多くトリレミスごとく見ゆとは、ゴカイ類の身に二十対あり二百双の側足(パラポチア)ありて上下二片に分かれ、波動して身を進むる様に恰(よく)当たれり。鯨は古人が大きな海産動物を漠然総称したので、英国、ノルウェー、北米等の海から稀に獲るネレイス・ヴィレンスという大ゴカイの長(たけ)一フィートより三フィート[やぶちゃん注:約三十一~九十一センチメートル。]で脊色深紫で所々黯青〔あんせい〕[やぶちゃん注:暗い青色。]また緑ばかりで光り、脇と腹は肉色であるいは青を帯びたる所が、ヨンストンのいわゆるその身全く青く脇と腹赤を帯ぶに合いおる。ローマのプリニウスら、かかるゴカイを海蜈蚣(スコロペンドラ・マリナ)と号(なづ)け、鈎(つりばり)を呑めばその腸をまるで吐き出し鈎を去って腸を復呑(のみもど)すと書きおるとあって、この鈎一件についても説を述べられ、予と論戦に及んだが、ここに要なければ略す。女文豪コンスタンス・ラッセル夫人よりも書面で教えられたは、哲学者ジョン・ロック一六九六年(わが元禄九年)鮭の胃を剖〔さ〕いて得た海蚣(うみむかで)をアイルランドの碩学で英学士会員だったモリノー男〔だん〕[やぶちゃん注:男爵。]に贈り、男これを解剖してロンデレチウスやヨンストンの蜈蚣鯨とやや差(ちが)う由を述べ、ロックの記載とともに同年板行したとあって、熊楠がこの学問上の疑論を提出した功を讃められたが、対手〔あいて〕が高名の貴婦人だけにその書翰を十襲〔じっしゅう〕[やぶちゃん注:幾重にも包んでしまっておく、大切にしまっておくこと。]して「書くにだに手や触れけんと思うにぞ」と少々神経病気味になって居る。

[やぶちゃん注:「ネレイス・ヴィレンス」環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科カワゴカイ属ネレイス・ヴィレンス Nereis virens。最大長九十センチメートルで、二百もの剛毛節を持つ。北半球の寒い地域に棲息し、本邦にはいない。英文サイト「Marine Species」のこちらの記載に拠った。]

 さてこれらの教示を得てますます力を得、また捜索するとプリニウスの海蜈蚣の事は、リッチー博士より前にキュヴィエーが既(はや)そのゴカイ類たる由を述べ居る、もっとも、博士とは別な点から起論されたが、帰する所は一で、ここに引いても動物専門の人でなくては解らぬ。このキュヴィエーは最(いと)高名な動物学者で一世那翁(ナポレオン)に重用されて仏国学政の枢機を運用し、ブルボン家恢復後も内務大臣になると間もなく死んだ。定めて眼が舞うほど忙しかった身をもって海蜈蚣の何物たるまで調べおったは、どこかの大臣輩〔ども〕がわずかな酒に酔っ払ったり芸妓に子を生ませたりして能事〔のうじ〕[やぶちゃん注:成し遂げるべき事柄。]とすると大違いだ。それからゴカイ類には、サモア島で年に二朝しか獲れず、したがって王に限って食うたパロロ・ヴェリジス、わが国備前の海蛭、支那の土笋(どじゅん)や禾虫(かちゅう)(畔田翠嶽〔くろだすいがく〕の『水族志』に出〔い〕づ)など食品たるものもあるが、その形背皆蚯蚓〔みみず〕に足を添えたようで魚釣りの餌にするのみ、食い試みぬ人が多い。一五六八年板ジャク・グレヴァン・ド・クレルモンの『毒物二書(ド・リヴル・ジュ・ヴエナン)』一三八頁に、古人一種の蜈蚣を蛇殺し(オフィオクテネ)と言い、能く蛇を咋(く)い殺したとあって、貝原先生同様人の唾が蜈蚣の大敵たる由を言うたは、秀郷唾〔つば〕を鏃〔やじり〕に塗りて大蜈蚣を殺したと言うに合う。それから海蜈蚣すなわちゴカイが人を咬めば、毒あるのみならず、触れても蕁麻(いらくさ)に触れたように痛むと言うた。十二年前、東牟婁郡勝浦港にあった時、毎度その近傍の綱切島[やぶちゃん注:この中央付近にある島(国土地理院図)と推定される。]辺の海底に黄黒斑(まだら)で二、三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]も長い海蜈蚣が住むと聞いて例の法螺談〔ほらばなし〕と気に留めなんだが、右のごとく教示やら調査やらで気がつき、当田辺湾諸村人に質〔ただ〕すと、諸所で夏日海底から引き揚げて石灰に焼く菊銘石〔きくめいせき/きくめいいし〕の穴に一尺から一間ほど長い海蜈蚣が棲むと聞いて、前祝いに五、六升飲んで出懸けると、炎日のため件(くだん)の虫がたちまち溶け腐りて漆のごとくなりおった。よほど大きな物で容れる器がないとの事だ。

[やぶちゃん注:「パロロ・ヴェリジス」待ってました! 私の大好きなパロロちゃんです! 私の偏愛振りは、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』をとくとあれ! なお、熊楠先生の指示しているのは、Palola viridis であるが、英文ウィキの「Palola viridisの分類の項を見ると、“It is sometimes synonymous with Palola siciliensis.”とあるので、それに従い、問題としない。

「備前の海蛭、支那の土笋(どじゅん)や禾虫(かちゅう)(畔田翠嶽の『水族志』に出いづ)」「畔田翠嶽〔くろだすいがく〕」は紀州藩の本草学者で藩医であった源伴存(みなもとともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年)の別称。「水族志」は本邦初と考えられている本格的な水産動物誌である(明治一〇(一八七七)年に再発見されたもので、南方熊楠も彼の再評価をした最初の一人である)。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの明一七(一八八四)年文会舎刊の活字本で見られるが、当時としては古典的乍ら、非常によく自分なりの系統を持たせてあり、記載も、よく諸書を引いて、これ、すこぶる海産生物博物誌として精密である(但し、残念なことに貝類は含まない)。さて、では、その記載順に見よう。まず「第十編 海蟲類」に「ウミミヽズ」「ウミヒル」・「ウミビル」が並んで載るのであるが、「ウミミヽズ」の漢名に「土笋」が載り、「海蛭」は後二者ととってよい。更に「禾虫」が「ウミヒル」の方の漢名として出る。以下に電子化する。漢文部分があり、本文も句読点がない漢字カタカナで読み難いので、平仮名に直し、句読点や濁点・記号等を打って、漢文部分(返り点のみ有り)は推定で書き下した。一部に丸括弧で推定の読みを添えた。但し、読みは完全な自然流で参考書もないからして(漢文部はかなり読みに苦労した。返り点のない部分でも返って読んだ箇所がある)、必ず、画像原本と比較対照して読まれたい。

   *

(二五一)

うみみゝず【紀州田納浦】 土笋 海底に生ず。形狀、蚯蚓の如く、太く大にして節あり。半(なかば)にて大なる節は𢌞(めぐ)り、三寸許(ばかり)。頭尾の節、次第に小也。肉色にして、長さ一尺許。「閩小記(びんしやうき)」に曰はく、『予、閩に在りて、常に「土笋凍(どじゆんとう)」を食ふ。味、甚だ鮮にして異なり。但し、其れ、海濱に生じ、形、蚯蚓に類すと聞く。何(いか)なる狀(かたち)かを識らず』。「五雜組」に曰はく、『又、土笋なる有るは、全(すべ)て蚯蚓の類なり』。按ずるに、「嶺山雜記」に『嶺南人(れいなんひと)、喜んで蛇を食ふ。其の名を易(か)へ、「茅鱔」と曰(い)ふ[やぶちゃん注:「鱔」は判読不能であったが、「嶺山雜記」を江戸時代の翻刻本で確認して当てた。]。草螽を食ふ。其の名を易へて、「茅蝦」と曰ふ。鼠、「家鹿」と曰ひ、曲蟮、「土笋」と曰へば、此れを以つて考(かんがふ)るに、「土笋」は蚯蚓なり。然らば、則ち、「海みゝず」は、即ち、海產「土笋」なり。土笋、海底泥中に產す。

㋑一種「うみみゝず」あり。海濱砂泥中に生ず。穴を發(おこ)して之れを捕(とら)ふ。長さ、二、三尺に至る。「閩中海錯疏(びんちゆうかいさくそ)」に、『土鑽(どさん)、砂蠶(ささん)[やぶちゃん注:ゴカイ。]に似て、長し。』。紀州若浦・毛見浦[やぶちゃん注:和歌山県毛見とその北の和歌浦地区(グーグル・マップ・データ)。]等に產する者あり、長さ、二、三尺、蚯蚓の如し。臭氣ありて、手に觸(ふる)れば、臭氣移り、去りがたし。

(二五二)

うみひる【備前岡山】 禾蟲 備前に產する「うみびる」は、潮の來(きた)る河中の泥底(どろぞこ)に生じ、九、十月に至(いたり)て、泥中より自然(おのづ)と出(いで)て、流水中に混(こん)じ流(なが)る。形狀、蚯蚓に似て、一、二寸、微紫色、左右、軟(やはらか)なる足あり、細くして、蜈蚣の足の小なるが如く、軟(やはらか)也。土人、「此を採(とり)て、麥の肥(こやし)とし、或(あるい)は煑(に)食ふて、味甘美也」と云(いふ)。「華夷續考」に曰はく、『海田、當(まさ)に、秋、成るべき時、禾蟲多く、潮に隨ひて浮上し、蚕(かひこ)のごとくして、微紫なり。小民、繒(そう)するに[やぶちゃん注:「繒」には「矢に糸をつけて鳥を射る道具」の意があるので、それを「漁具として絡布投げ打つ」の意でとってみた。]、以つて絡布(らくふ)[やぶちゃん注:繋ぎ合わせた布。]を、之れを捕る。艇に盈(み)つれば、歸る。味、甘く、食ふべし。之を市(あきな)ひ、利を獲る。爭ひ訟ふる者、有るに至る[やぶちゃん注:好む者が多くて買い手間に争いが起こるということであろう。]』と。「順德縣志」に曰はく、『禾蟲、蠶のごとく、微紫、長さ、一、二寸、種類無し。夏・秋の間、早稻(わせ)・晩稻(おくて)、將に熟せんとする時、田中に由(よ)り、潮、出でて、長く、田に漫(み)ち、潮に乘り、海に下る。日(ひる)、浮き、夜、沈む。浮けば、則ち、水面、皆、紫たり。采(と)る者、預(あらかじ)め、布の網を爲(つく)り、巨(おほき)なる口にて狭(せば)き尾となす。竹、有り。囊、有り。材を海の兩の旁(かたは)らに樹(た)て、名づけて、「埠(ふ)」と爲(な)す。各(おのおの)蟲に主(あるじ)有りて、出づれば、則ち、網をして材に繫ぎ、逆流するときは、之れを迎へる。張り口は、嚢(ふくろ)を東(ひんがし)し、二重たり。則ち、舟に瀉せば、百盤に至る[やぶちゃん注:かかった獲物を舟にぶちまけると、何重にもなるほど獲れるの意か。]。活(い)ける者は、之れを製するに、以つて醬(ひしほ)に作るべし。之れを炮(あぶ)りて、以つて醬に作るべし[やぶちゃん注:この部分、同一の衍文の可能性があるか。或いは「之れを製するに、以つて醬(ひしほ)に作りて可にして、之れを炮りて、以つて醬に作るも可なり」で、「生を塩辛にしてよく、また、炙った上で塩辛にするのもよい」の意かも知れぬ。]。味、甚だ美(よ)し。或いは醃(しほづけ)にして、之れを藏し、鹹壓(かんあつ)爲(し)て[やぶちゃん注:重い石で圧して水分を充分に取り除いた上で、であろう。]、之れを爆(さら)し、乾(ひもの)と爲すも、皆、可なり』と。按(あんずる)に「廣東新語」に『色、紅黃』と云ふ。地產により其の色を異にする者也。

(二五三)

うみびる 海底の巖に附着す。長さ二寸許。形狀、蠶に似たり。大(おほい)さ母指の如し。褐色にして淺深の橫斑、條をなす。頭より尾に至り、背上に淡茶色の硬き甲あり。甲は、末、尖り、間を隔てり。腹下、岩に着(つく)處、淡黃色にして微紅を帶ぶ。

   *

その次を見ると、何と! 「ウミケムシ」(「海毛蟲」)だ! 流石に脱線に過ぎるので、原本を見られたいが、私は江戸時代の本草書で「ウミケムシ」(環形動物門多毛綱ウミケムシ目ウミケムシ科ウミケムシ Chloeia flava)を単独で採り上げ、ここまで形状・様態をはっきり正確に記しているものを見たのは初めてである。以上、注したいところや、ゴカイ・フリークの私には判っていることも含め、如何にも私の注意欲をそそるのだが、それは別の機会とし、ともかくも、南方熊楠の挙げた「備前の海蛭」、中国の「土笋」や「禾虫」が何であるかを同定しなくてはならぬ。しかし、正直、熊楠はパロロから並列させて、オリジナルに挙げているように言っていながら、その実、「海蛭」・「土笋」・「禾虫」の三つ総てが(熊楠の書き方は最後の「禾虫」だけが引用であるかのように記しているが)、実は畔田翠嶽の「水族志」から引いたことが以上の電子化ではっきりしたと言ってよい。ただ、実は、畔田の記載は、当時の本草書の悲しさで、中国の本草書の別種を混在させて記しているためにそう簡単には行かないのが難しいところなのである。但し、それをいちいち指摘していると後に進まぬので、結論だけを示すと(細かな考証は後の「水族志」の「海蟲類」電子化注に譲っておく。お恥ずかしいことに、実は忘れていたが、私はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』起動していたのであった。「クラゲ」と「ナマコ」でストップしているが、近日中に再開することをお約束しておく)、

「海蛭」と「禾虫」は多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ科 Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

である。これについては、畔田はその生態を引用書を上手く選んで利用し、かなりいい線まで追い詰めている。糸の発射という怪しげに見える引用記載は、実は多毛綱ゴカイ科の環形動物で、生殖のために特殊な遊泳行動をとる生殖型個体を指しているものと考える。イトメは、砂泥中で生活している個体が成熟してくると、十月から十一月の大潮の夜、雌雄の体の前方の三分の一が自切し、生殖物(雄は精子を、雌は緑色の卵を)を充満させて泳ぎだし、生殖群泳するのである。特に日本ではこれを「バチ」「ウキコ」「ヒル」「エバ」と呼ぶ。イトメのバチを「日本パロロ」(英名:Japanese palolo)とも呼ぶが、これは先の『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』でも述べておいた。また、是非、お読み戴きたいのが、

私がカテゴリ「海岸動物」で電子化注した「いとめ」の生活と月齢との関係 ――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて―― 新田清三郎』(全十回)

である。新田先生は岐阜生まれで、大正時代に上京し、現在の江東区木場の地に医院を開業、人望厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった。昭和二〇(一九四五)年三月十日の東京大空襲で亡くなられた。逢って見たかった人である。最後にさらに、イトメの群泳が信じられない御仁に――美麗なビジュアルで――お目にかけようではないか! イトメちゃんを!

私の『文化十二年乙亥 冬十月 豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際小流に生ぜる奇蟲「豐年蟲」』(栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻六より)

の図入り電子化注で、決まり!

 さて、では最後に「土笋」だ。はっきり一発で言うと、これはゴカイではない。

「土笋」は環形動物門 Annelida の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)

である。世界中の潮間帯から深海底に至るまでの砂泥底・岩礁・サンゴ礁に穴を掘って棲息している、のっぺりとした円筒形の、ごく細いソーセージ状の蠕虫で見た目はミミズ或いはヒルに似ている。大きさは数ミリメートルから五十センチメートルまで多様はであるが、我々が目にする種は三~十センチメートル程度のものが多い。体は体幹部と陥入吻(かんにゅうふん)から成り、陥入吻は胴部に完全に引き込むことができ、その先端に口があって、その周囲又は背側に触手が多数ある。和名の「星口」は、この口の周囲で触手が放射状に広がる種のそれを星に見立てたドイツ語名「Sternwürmer」(「星型の蠕虫」)に由来するようである。その中でも、特に中国などで食用とされているのは、

サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta

が代表種である。ウィキの「土筍凍」を見よう。閩南語(福建省南部で話される方言で福建語とも呼ぶ)で「thô·-sún-tàng」(トースンタン)、北京語で読むと「tǔsǔn dòng」(トゥースエンドン)。他に「塗筍凍」とも書く。中国福建省の泉州市やアモイ市近郊の郷土料理で、『星口動物のサメハダホシムシ類を煮こごりにした料理』とある(「凍」が腑に落ちた。なお、種は中文の同ウィキの記載でも確認した)。『浙江省から海南省にかけての近海の砂地に生息する星口動物サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科の「土筍」』(別名は「塗筍」「塗蚯」「海沙虫」「沙虫」「泥蒜」「可口革嚢星虫」とするが、総てが生物学上の同一種を指すとは思われない)を一日ほど、『泥を吐かせ、さらに押して内臓の中から異物を出した後、繰り返し洗い、水でぐらぐら煮てから、碗やバットに入れ、冷やし固めたもの』。『この「土筍」にはコラーゲンが多く、煮ることによって煮汁に溶け出してゼラチンとなり、冷やすとゼリーのように固まる。貝の出汁と塩などで薄味を付けておき、そのまま、または酢、酢醤油をつけて食べる他、唐辛子味噌、おろしまたは刻みニンニク、辛子などの調味料や、コリアンダー、トマト、酢漬けのダイコン』やニンジンなどの『薬味と合わせて食べることも行われている』。『もともと、晋江市安海鎮周辺の郷土料理であったが、現在は泉州市、アモイ市の多くの海鮮料理のレストランで食べることができる。また、泉州市の中山路、晋江市の陽光路などの繁華街、アモイ市の歩行者天国となっている中山路などでは露天商もこれをよく売っている』。『大きさには』一、二匹が入った直径四センチほどの猪口(ちょく)サイズの小さなものから、数匹が入った直径六センチほどの中型のもの、十数匹が入った直径八センチ以上の茶碗サイズの『大型のものなどがある。大型のものは、切り分けて出されることもある』。『作られ始めた時期は不明であるが、清代には記録があり、周亮工』(一六一二年~一六七二年)は「閩小記」(畔田が引いたそのものである)の中で、『「予は閩でしばしば土筍凍を食すが、味ははなはだうまし。だが海浜にいると聞き、形はミミズに似たナマコである」』『などと記していることから、少なくとも』三百五十『年以上の歴史はある』。『厦門で現在のような丸い碗入りのものが普及したのは』、一九三〇『年代に安渓県出身の廖金鋭』(りょうきんえい)『が厦門の篔簹港』(うんとうこう)『で採れた「土筍」を使って作り、市内を売り歩いたのが大きいとされる』。『味が良いと評判で、中山公園西門付近で売っていた事が多く、「西門土筍凍」と呼んで、他のものと区別された。後に、廖金鋭から仕入れて、自分の店に置いて売る者もいくつか現れた。晩年、中山公園西門付近の斗西路に店を構え』、一九九〇『年代に廖金鋭が亡くなると、息子の廖天河夫妻が跡を継ぎ、現在も人気店として営業をしている』。『廖金鋭が存命の時期でも、厦門の埋め立てや都市化が進んでほとんど「土筍」が採れなくなり、福建省北部から仕入れるようになった。近年は福建省各地の工業化が進んで、「土筍」の漁獲量が減ったため、浙江省などからも運ばれており、浙江省温嶺市などでは人工養殖も行われている』。『素材である浙江省温嶺市産の冷凍「土筍」の営養素を分析した例では、次のような結果であった』。『水分80.97%、タンパク質12.00%、ミネラル2.13%、炭水化物1.58%、脂肪1.26%。また、脂肪分の内訳では、脂肪酸が84.93%、コレステロール15.07%と、比較的低コレステロールであった。総脂肪酸の内、アラキドン酸が20.11%、エイコサペンタエン酸(EPA)が4.14%、ドコサヘキサエン酸(DHA)が2.04%と不飽和脂肪酸が高かった。また、アミノ酸では、必須アミノ酸のすべてを含み、特にグルタミン酸、グリシン、アルギニンを多く含む』とある。中国人の動画が多数あるので現物を見るのは簡単。但し、採取から加工までのものはニョロニョロ系が苦手な人は見ない方がいいかも知れない。大丈夫ならば、それらの過程が総て映っている非常に綺麗な画像の、YouTube の中国江西网广播电视 China Jiangxi Radio and Television Networkの「【非美食】美食精 土笋がお薦め! せっかく煮凝りのセットしたのを、お孫さんが傍から勝手に開けて「ぱくぱく!」っていかにも美味しそうに食べちゃうところが、とっても、いい!

「食い試みぬ人が多い」熊楠先生! そんなことはありません! 先生がこれを書かれる、三十八年も前の明治一一(一八七八)年七月、かのエドワード・モース先生が北海道で食べておられるんです! 私の、

「博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY BY EDWARD S. MORSE CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」(二〇一三年九月十二日公開記事)

を熊楠先生に献呈致します! なお、私はカテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』で全文の電子化とオリジナル注を二〇一三年六月二十六日に始動し、二〇一六年二月十三日に終わっている(翻訳の当該部は「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う!」であるが、前記考証記事にも最後に同じものを掲げてある)。

「菊銘石」刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目サザナミサンゴ科キクメイシ属キクメイシ Dipsastraea speciosa(代表種。他にも同属種は多い)。個虫は直径一センチメートル以内であるが、長径二~三メートルもの半球状の群体を作る。個体のついていた痕は菊の花が集まったように見えることが和名の由来。生きている個体の中央部は青緑色を呈する。サンゴ礁を形成するサンゴ類の一種で、岩などに着生する。暖海種で、日本では房総以南の黒潮暖流域に見られるが、沖縄以南には少ない。「きくめいせき」とも呼ぶ。]

32

第三十二図 ゴカイの一種,ネレイス・メガロプス

 以上述べたところで秀郷蜈蚣退治の先駆たる、加賀の海島で蜈蚣海を游いで大蛇と戦った譚も多少根拠あるものとわかり、また貝原氏が蜈蚣鯨大毒ある由記したのも全(まる)嘘でないと知れる、氏の『大和本草』に長崎の向井元升〔げんしょう〕という医者の為人(ひととなり)を称し毎度諮問した由〔よし〕記しあれば、蜈蚣鯨の一項は向井氏が西洋人か訳官(つうじ)から聞き得て貝原氏に伝えたのかも知れぬ。第三十二図はゴカイの一種ネレイス・メガロプスが専ら水を游ぐ世態〔せいたい〕[やぶちゃん注:生態に同じい。]をやや大きく写したので、大小の違いはあるが、実際海蜈蚣また蜈蚣鯨の何様〔いかよう〕の物たるを見るに足る。

[やぶちゃん注:「向井元升」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で、五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の次男は蕉門の俳人として有名な向井去来である。

「ネレイス・メガロプス」学名は Nereis megalops であろうは思われるものの(種小名は「巨大な」、幾ら探しても、一致するシノニムを見出せない。但し、ゴカイ類の分類は近年、属レベルで大きな改変があり、属を移動した種も多い。例えば、本邦にも棲息し(北海道から東北地方の浅海息)、「蛇虫(じゃむし)」の名で呼ばれ、人をも噛む強力な強大な顎を有したゴカイ類の最大種(最大九十センチメートルにも達する。英文ウィキには時に四フィート(約一メートル二十二センチメートル)を超えるとあり、別名「king ragworm」(ragworm はゴカイの通称。「rag」は「襤褸布」だから「乞食(虫)の王様」的な何とも言えぬ呼称ではある)であるゴカイ科Alitta 属ジャムシ Alitta virens のシノニムには「ネレイス・グランドゥロサ」Nereis glandulosa Ehlers, 1908 があり、さらに調べると、やはり本邦にも棲息するゴカイ科Platynereis 属イソツルヒゲゴカイ Platynereis dumerili のシノニムにNectonereis megalops Verrill, 1873 というのを見出せた(英文のWorld Register of Marine Species」の同種のページを参照)。さて! このシノニム、よく見ると、「ネクトネレイス・メガロプス」と読めるではないか!(但し、このゴカイ、調べてみると、その幼生が脳内にオプシン(Opsin)とという光センサー・タンパク質が発現する光受容細胞を持ち、動物プランクトンのモデル生物として盛んに研究されているようだが、そんなに巨大な個体ではないよう(諸論文を縦覧したが、サイズ・データ記載がないので不明)である)。

「世態」「生態」に同じい。]

 これを要するに秀郷竜宮入りの譚は漫然無中有〔むちゅうゆう〕を出した丸嘘談でなく、事ごとにその出処根柢〔こんてい〕ある事上述のごとし。そのうち秀郷一、二の矢を射損じ第三の矢で蜈蚣を射留めたと言うに類した、那智の一蹈鞴(ひとつたたら)という怪物退治の話がある、また『近江輿地誌略』に秀郷竜女と諧(かたろ)うたという談については、古来諸国で竜蛇を女人の標識としたり、人と竜蛇交わって子孫生じたと伝え、「夜半人なく白波起こる、一目の赤竜出入の時」など言い、竜蛇を男女陰相に比(よそ)へて崇拝した宗義など、読者をぞっとさせる底の珍譚山のごとく、上は王侯より下乞丐(こつじき)に至るまで聞いて悦腹せざるなく、ロンドンに九年あったうち、近年大臣など名乗って鹿爪らしく構え居るやつばらに招かれ説教しやり、息の通わぬまで捧腹〔ほうふく〕[やぶちゃん注:「捧」は「両手で抱える」の意。腹をかかえて大笑いすること。]させ、むやみに酒を奢らせること毎々だったが、それらは鬼が笑う来巳(み)の年の新年号に「蛇の話」として出すから読者諸君は竜の眼を瞼みはり蛇の鎌首を立て竢〔ま〕ち給えと云爾(しかいう)。ついでに言う、秀郷の巻絹や俵どころでなく、如意瓶〔にょいがめ〕とて一切欲しい物を常に取り出して尽きぬ瓶を作る法が『大陀羅尼末法中一字心呪経』に出でおる。欲惚(ぼ)けた人はやって見るがよろしい。(大正三年[やぶちゃん注:四年の誤記。以下の「四年」も五年の誤記。]十二月六日起稿、大竜の長々しいやつを大多忙の暇を竊〔ぬす〕んで書き続け四年一日夜半成る)

[やぶちゃん注:「無中有」実際にはない現象を、あるように見せること。

「那智の一蹈鞴(ひとつたたら)」「和歌山県企画部企画政策局文化学術課」公式サイト内の]「和歌山県文化情報アーカイブ」の「和歌山県の民話」の「一つたたら」に、『むかし那智(なち)の奥山に、「一つたたら」という怪物(かいぶつ)があらわれました。身の丈(たけ)約九メートル、目がひとつ手も足も一本、疾風(しっぷう)のように現れ、民家を襲(おそ)い、那智山一帯の死活(しかつ)問題となりました』。『腕に自信のある何人かの武士が、怪物退治(たいじ)に山へ入りましたが、帰ってきた者はありませんでした。噂(うわさ)では、身体は岩石のようで矢もはね返し、力も無双(むそう)であるということです』。『あるとき、樫原(かしはら)の善兵衛さんの家に刑部(ぎょうぶ)という落武者(おちむしゃ)らしい若者が滞在(たいざい)していました。偉丈夫(いじょうふ)で人情も厚く、学問、武芸(ぶげい)に秀(ひい)でていました』。『刑部は、村人たちの困惑(こんわく)を見かねて、怪物退治を申し出て、善兵衛さんを道案内に、まず那智権現(ごんげん)に祈りを込めて奥山へ入りました』。『山に入って四日目、にわかに西の空から轟音(ごうおん)が起こり、噂(うわさ)のとおりの怪物が刑部たちを襲って来ました。刑部は、あわてず弓を引き絞り、怪物の皿のような大きなひとつの目に狙いを定め、一矢にして射抜きました』。『刑部には、この功労(こうろう)により、那智山から寺山三千町歩(ちょうぶ)と金百貫(かん)、本宮からも金百貫が贈られましたが、刑部は色川郷(いろかわごう)十八ヵ村に寄付して、村人から大いに感謝されました』。『やがて、刑部、刈場刑部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)は、色川の守り神として祀(まつ)られ、その神社は樫原(かしはら)にあります』。『この話は、永享(えいきょう)七年(一四三五)、室町時代の出来事で、刑部は平家の一族と言い伝えられています』とあった。

「近年大臣など名乗って鹿爪らしく構え居るやつばら」「南方熊楠 履歴書(その9) ロンドンにて(5)」(私の電子化注)に出た外交官加藤高明(安政七(一八六〇)年~大正一五(一九二六)年)のことであろう。彼は後に第二十四代内閣総理大臣となった。

   *

これ以上の本「むかでくじら」への注は、私は不要かと思う。ただ、一つ、我々が学んだことがある。それは南方熊楠が言っている、『鯨』という別な実在生物への比喩呼称は『古人が大きな海産動物を漠然総称した』に過ぎない、相対的な海棲生物の異常個体の謂いだ、ということである。「くじら」とは物理的絶対的に巨大な鯨並みの巨大生物なのではなく、本来の個体よりも相対的に大きいという謂いだ、ということである。クラーケンが通常の蛸より大きいように、数センチのチビッ子な生物の中で、それを凌駕する数十センチ、一メートルに達するような相対的に大きなゴカイを「クジラ」と呼称したという事実である。向後、古文献で「くじら」と出ても、実際の鯨類のように大きな生物だと考えるのは、伝統的な本草学上でもナンセンスであるということであった。

 久しぶりに、本気になって、しかも、楽しく注を附することが出来た。南方熊楠先生に感謝申し上げる。

 おっと! いけない! 「鴆」と「海薑」ね。大丈夫! 私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん)(本当にいないと思いますか? フフフ……)」の私の注で、同定していますからね。

2020825日追記】江戸中・後期の仙台藩儒学者であった大槻清準(安永元(一七七二)年~嘉永三(一八五〇)年:大槻玄沢の伯父の孫。林述斎に師事し、江戸の昌平黌に学び、文化三(一八〇六)年に仙台藩藩儒に抜擢された。荒蕪地の開墾を行い、藩校養賢堂を建てて第四代学頭となって藩士子弟の教導と教育行政に努めた)が、平戸の生月島(いけづきじま)の捕鯨の見聞を記した「鯨史稿」(文化五(一八〇八)年成立)の「巻之二」の最後に「蜈蚣鯨」の記載があったので、添えておく。国立国会図書館デジタルコレクションの江戸後期の写本の当該頁の画像を視認した。読み易さを考え、前半の漢文は訓点に従って書き下し(送り仮名は一部で推定で振った)、後半の漢字カタカナ交じりは、カタカナを平仮名に代えた。全体に句読点や濁点・記号を打った。〔 〕は私が補った読み(丸括弧)や添え字を示す。

   *

蜈蚣(ムカデ)鯨

蜈蚣鯨、此方〔(こなた)の〕漁人云く、『鯨魚の一種、別類、「蜈蚣鯨」と名づくる者、有り。形〔(かた)〕ち、鯨児に似たり。赤色〔の〕脊に五〔つの〕鬣〔(たてがみ)〕有り、岐尾〔(きび)に〕して、短脚、十二足、有り。水中を行く。形ち、蜈蚣に似たり。故に「蜈蚣鯨」と名づく。大毒有り。漁人、甚だ之れを恐る』と云ふ【「魚譜」。】。

按ずるに、これ、固〔(もと)〕より、鯨の種類にあらず。しかれども、俗に鯨の一種と云ふ說あるによりて、今、姑〔(しば)〕らく此に附して、異聞を廣む。

   *

この前半の引用元である「魚譜」については、それらしい魚譜を複数披見したが、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

2020/08/23

大和本草卷之十三 魚之下 白魚 (混沌にして同定比定不能)

 

白魚 周武王ノ船ニ入ルモノナリ長崎ノ海ニヒウヲト云

物アリ肥後及肥前平戸ニテハクマヒキト云長二尺餘

鱗白其形狀似鱸魚但口尖肉白味亦似鱸而淡

美可為膾可藏糟或曰是可為白魚或曰琵琶湖

所在ミゴイ可爲白魚今案ミゴイハ可爲鯇

○やぶちゃんの書き下し文

白魚 周〔の〕武王の船に入るものなり。長崎の海に「ひうお」[やぶちゃん注:ママ。]と云ふ物あり。肥後及び肥前・平戸にては「くまびき」と云ふ。長さ二尺餘り、鱗、白し。其の形狀、鱸魚〔(すずき)〕に似〔るも〕、但し、口、尖〔(とが)〕り、肉、白し。味も亦、鱸に似て淡美、膾〔(なます)〕と為すべし。糟〔(かす)〕に藏〔(つ)け〕るべし。或いは、曰はく、『是れ、白魚と為〔(な)〕すべし。』〔と〕。或いは曰はく、『琵琶湖に在〔(あ)〕る所の「ミゴイ」[やぶちゃん注:ママ。]、「白魚」と爲すべし。』〔と〕。今、案ずるに、「みごい」は「鯇(くわん)」と爲すべし。

[やぶちゃん注:これはもうグチャグチャである。まず、

「周〔の〕武王の船に入るものなり」の「白魚」とは白身魚の謂いであるから「はくぎよ」と読んでおく。何故ならシラウオやシロウオではないことを明確に示す必要があるからである。さて、これは本邦では一般にスズキと考えられているようだが、それは多分に生物学的魚類学的でなく、「平家物語」の「鱸」の影響を受けた文学的同定であって信ずるに足らないと私は思っており、私は「大和本草卷之十三 魚之上 鯇(ミゴイ/ニゴイ)」(そちらに「史記」に出るそれを注してある)で、

骨鰾上目コイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属コウライニゴイ Hemibarbus labeo

或いは

ズナガニゴイ Hemibarbus longirostris

と比定している。因みに、武王のそれのロケーションは黄河で、スズキがいてもおかしくはないが、余りに上流に過ぎると私は思うのである(本邦のスズキの驚くべき遡上距離からは絶対いないとは言えないが)。

 ところが、続く、

『長崎の海に「ひうお」と云ふ物あり。肥後及び肥前・平戸にては「くまびき」と云ふ』というのは既に「大和本草卷之十三 魚之下 シイラ」で出た、

スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus

で、「ひうお」も「くまびき」も現在、それぞれの地で今以ってシイラの異名として現存するのである。というより、そこで益軒自身がシイラを『又の名「くまびき」』と言ってしまっているのである。ところが、続く「長さ二尺餘り、鱗、白し。其の形狀、鱸魚に似るも、但し、口、尖り、肉、白し」というのは「ひうお」=「くまびき」=シイラの形状記載ではないのだ。これは戻ってしまって、上記のニゴイ属の形状と合致する始末なんである。

 さらに、困ったことに、

『琵琶湖に在〔(あ)〕る所の「ミゴイ」』というのは

ニゴイ属ニゴイ Hemibarbus barbus

で、これは本邦産固有種なのである(武王の「白魚」に比定するのは生物学的に誤りであるということである)。同種は琵琶湖沿岸では「ニゴイ」の他、「ミゴイ」とも呼ばれる

 さても、これ以上は語る気になれない。悪しからず、益軒先生。]

大和本草卷之十三 魚之下 まんぼう

 

【和品】

マンボウ 奥州ノ海アリ形方ナリ長六尺ヨコ三尺ハカリ

大小アリ其肉潔白ナリ油多ク味ヨシ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

まんぼう 奥州の海あり。形、方なり。長さ六尺、よこ、三尺ばかり。大小あり。其の肉、潔白なり。油多く、味、よし。

[やぶちゃん注:本邦産種は、現在、条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola 及びウシマンボウ Mola alexandrini とされるが、更にミトコンドリアDNAのD-loop領域の分子系統解析から、現生マンボウ属は少なくとも三種(group A/B/C)に分かれるという解析結果が得られており、日本近海で主に見られるものはgroup B(Mola sp. B)に属するとされるというが、それでは如何にも無風流な呼び名でモラ・モラ・フルークの私は甚だ気に入らぬ。されば、書き出すエンドレスになるので、私の『栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)』の私の注、及び、私のブログ・カテゴリ「栗本丹洲」で全十回で電子異化注した、『栗本丹洲自筆「翻車考」』を是非読まれたい。私はそこで注した以上に語る必要を感じぬ程、入れ込んで注したからである。

「奥州の海にあり」いいえ、日本中にいますよ、益軒先生!

「長さ六尺、よこ、三尺ばかり」誇張が平気な益軒先生にしちゃあ、ショボ過ぎですよ! 現在知られているデータでは最大捕獲個体で全長三メートル三十三センチメートル、体重二・三トンに達した。現生の硬骨魚の中でも世界最大級の一種である。]

大和本草卷之十三 魚之下 魴魚(まながつを) (同定はマナガツオでいいが、「本草綱目」の比定は大錯誤)

 

魴魚 其形方ナリ攝州泉州多シ京都ノ俗コレヲ以佳

品トス本草有一種火燒鯿其大有至二三十斤者

今案此魚大ナル者日本諸州往〻有之本草ニ云

所ノ如シ

○やぶちゃんの書き下し文

魴魚(まながつおを) 其の形、方(はう)なり。攝州・泉州、多し。京都の俗、これを以つて佳品とす。「本草」に、『一種有り。火燒鯿〔(くわしやうへん)〕。其の大いさ、二、三十斤に至る者、有り』〔と〕。今、案ずるに、此の魚、大なる者、日本諸州、往々に之れ有り。「本草」に云ふ所のごとし。

[やぶちゃん注:スズキ目イボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属マナガツオ Pampus punctatissimus。スズキ目サバ科サバ亜科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis とは生物学的には縁も所縁もない別種で、全く似ておらず、その体型は似ても似つかぬ平たく丸い形を成す。体色が黒っぽい銀色で金属光沢があり、最大で六十センチメートル程に成長する。著しく側扁した平べったい盤状で、腹鰭がなく、鰓孔が小さく、鱗はすこぶる剥がれやすい。本邦では本州中部以南・有明海・瀬戸内海に分布する。「まながつを」は諸本草書では「學鰹」と漢字表記したりするが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマナガツオのページによれば、『「真似鰹」の意味、カツオのいない瀬戸内海などでカツオがとれないので、初夏にとれる本種を「カツオに見立てた」ところから。「真似鰹(まねがつお)」から転訛したもの』というのが恐らく語源として納得できるもので、但し、『「魚のなかでも特にうまいため」』に『「真名魚」を「真な=親愛を表す語」で「真にうまいカツオ」の意』とし、『「真に菜にしてうまい魚」、「真菜が魚」からの転訛』も退けにくい(実際に本種はやや実の柔らかさに難があるが、美味い。現在は高級魚である)ものの、まるで似ていない「カツオ」を附する必要はないように思われる。

「方(はう)」このルビは判読が怪しい。スレがひどく、よく判らぬからである。国立国会図書館デジタルコレクションの別画像では改頁の一行目で背に詰まってしまって完全にルビが隠れていて比較のしようがない。虚心に普通に読めば、こうなる。私などはやや楕円の円盤状の魚体と表現するが、多くの記載は「方」形で四角とする。四十五度回転すると確かに四角くは見える。

「攝州・泉州」摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)と和泉国(大阪府南西部)。これで大阪湾相当。

「京都の俗、これを以つて佳品とす」西日本では古くから高級魚として好まれた。

『「本草」に、『一種有り。火燒鯿。其の大いさ、二、三十斤に至る者、有り』〔と〕』(明代の一斤は約五百九十七グラムであるから、十二キロ弱から十八キロ弱に相当する。はっきり言ってこれはデカい。デカ過ぎる。マナガツオは最大でも四十センチメートルで、三キログラムほどにしかならない。この物理的な齟齬データをも益軒は平然と載せている。ちょっと気が知れない。マナガツオにもそんな大物がいるぐらいな勝手な憶測をしたものか?)「鱗之四」に、

   *

魴魚【音「房」。「食療」。】

釋名鯿魚【音「編」。】。時珍曰、『魴方也。鯿扁也。其狀方其身扁也。』。

集解時珍、魴魚處處有之、漢・沔尤多。小頭縮項、穹脊濶腹、扁身細鱗、其色青白、腹内有肪、味最腴美。其性、宜活水。故詩云、『豈其食魚。必河之魴。』。俚語云、『伊洛鯉魴美如牛羊。』、又有一種、「火燒鯿」、頭尾俱似魴而脊骨更隆、上有赤鬛連尾如蝙蝠之翼。黑質赤章、色如烟薰。故名。其大有至二三十斤者。

肉 氣味 甘、溫。無毒。

主治調胃氣利五臟。和芥食之、能助肺氣去、胃風消穀。作鱠食之、助脾氣、令人能食作羮臛。食宜人。功與鯽同。疳痢人勿食【孟詵。】。

   *

益軒は項主体である「魴魚」を無批判にマナガツオと採っているが、まず、基本が成ってない。「本草綱目」の同定比定でまず疑うべきは淡水魚の可能性である。広大な中国大陸にあっては、圧倒的に淡水魚が食生活に馴染まれており、そこでは海水魚の割合は存外に低いのである。ここもそこを最初に検証せねばならぬという最初の一歩を益軒は踏み間違えてしまっている(これは益軒だけの誤りではなく、「和漢三才図会」の時珍もそうで、彼の場合は「本草綱目」に依拠する度合いが(名にし負う「三才図会」よりも)遙かに高いのであるが、引用する際に意図的に淡水魚であることを示す記載部分をカットして海産魚に牽強付会する例が非常に多い)。時珍は「魴魚」の多産する場所を「漢・沔(べん)」と言っている。「沔水」は漢水の古称或いは漢水の上流の呼称である。漢水は長江中流の武漢で長江に合流する完全な淡水域である。されば、この魴魚は絶対にマナガツオではあり得ないのである。私は淡水魚は守備範囲でないので同定は躊躇したくなるのだが、中文サイトを縦覧した結果、この「魴」は日本には棲息しない、

硬骨魚綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae XenocypridiniParabramis 属ヒラウオ Parabramis pekinensis(現在最新の分類名で示した)

であることが判った。グーグル画像検索「Parabramis pekinensisを見られたい。「なるほど!」と合点されることを請け合う。

 されば、今度は「火燒鯿」。記載から見て、これも淡水魚で扁側し、しかも恐らく「火燒」から見て、魚体が鮮やかな紅色であると踏んだ。而してズバリ! 見つかった。

コイ目サッカー科 Catostomidaeイェンツーユイ(胭脂魚)亜科 Myxocyprininae イェンツーユイ属イェンツーユイ Myxocyprinus asiaticus

生息域は長江などに限定される一属一種の大型の淡水魚である。「維基文庫」の「胭脂魚」にも『火烧鳊』の異名が記されてある。当該ページの写真は幼魚であるが、邦文の「イェンツーユイ」の本文に、『全長は』六十センチメートルから一メートルと『大型になる。背びれの前側が帆のように高く突き出しているのが特徴』で、成魚の『体色は褐色で、幼魚には三本の黒い横縞がある。また背びれの高さは、成魚になるにつれて低くなる。その体色や形態が幼魚と成魚では異なるため、かつては別種(別亜種)にされていたこともあったが、現在は』同一『種とされている』とある。悲しいことに、こちらのウィキの写真も全く同じ幼魚だ。そこで、さてもグーグル画像検索「胭脂魚」を見給え! 川の中で成人女性が抱えている写真を見れば、その大きさからも記載の体重が誇張でないことが知れる。

 因みに言っておくと、「魴魚」は海水魚としても、現代中国語ではマナガツオを指さない。

棘鰭上目マトウダイ目マトウダイ科マトウダイ属マトウダイ Zeus faber

を指す(和名は「馬頭鯛」。その特徴的な体両側の明瞭な縁取りをもつ円形の黒色斑(目玉模様。弓の的に似ている)から「的鯛」(まとうだい)でもあろう)。「維基文庫」の同種に、『遠東海魴、海魴、魴魚、鏡魚、鏡鯧、馬頭鯛、日本的鯛、豆的鯛、的鯛』の異名が載る。以上、益軒の最後の鬼の首獲ったような『「本草」に云ふ所のごとし』は完全に徹頭徹尾! 無効となる。

2020/08/22

萬世百物語卷 目次

 

[やぶちゃん注:以下、「萬世百物語」の目次。本文のそれとはかなり異なる。]

 

目  錄

 

卷之一

 一、丹州に變化玉章時ならぬ踊興行

 二、都に不思議懷胎消へてはるゝ諸人の疑

 三、出羽に獨身羽黑詣人を助けて人を殺

 四、陸奧に山中の怪怨を報ふ畜類

卷之二

 五、叡山に一眼一足の化生昔を聞ば橫川の治部卿

 六、和州に樂の隱家不慮に知北面何某

 七、泉州に惡緣の契夫を殺執心の幻

 八、丹波に男色の密契添伏の力くらべ

卷之三

 九、長州に寵愛の一子嬰兒を喰ふ描の一念

 十、武州に暗夜の武勇牛込狸のわるざれ

 十一、豫州に野島が婚禮運命盡る化の寢姿

 十二、洛陽に繪師の妙術詞をかわす目前の龍

卷之四

 十三、信州に山賊の美童惡心和ぐ情の道づれ

 十四、備中に穗井田が仙術孫に與ふる一詩の形見

 十五、江州に疫神便船枕ならぶる草津の宿

 十六、藝州に海中捨船亡靈無言訴へ

卷之五

 十七、周防に下界の天人うつゝの宮殿

 十八、武州に美少劔術惡言の亡命

 十九、大内に髙位の臆病相圖の似せ鬼

 二十、勢州に寐屋の化物口まねの自滅

 

萬世百物語卷之五 二十、寢屋の化物 / 萬世百物語 全巻 電子化注~了 

 

   二十、寢屋の化物

 あだし夢、伊勢の神部高岡(かんべたかをか)に法藏院といふありけり。

 夜な夜な、何とはしらず、法藏のねやちかくきたり、歌、うたひ、拍子、とり、おもしろふ、おどりける。

〽法藏院があたまは すてゝぎてぎよ すてゝぎてぎよ

と、夜すがらうたふに、戶あけてみれば、ものもみへず。

 一夜(ひとよ)、二夜も、かくて過ぎけり。

 また、る夜、來(きた)るに、法藏、たくみて、おともせず、しこりてうたふとき、

〽法藏院があたまが すててぎてぎよ すてゝぎてぎよ なら

〽をのれがあたまも すててぎ すててぎ すててぎ

と、しこりて、せりかくれば、のちは、おとも、せず。

「ばたり」

と、ものゝたおるゝを

「いかに。」

と、いでゝみれば、大きなるたぬきなり。

 かれは、ものいふ事ならぬものの、あたまと尾にて、口まねするせはしさに、まけじとて、あたまを、おぼえず、うちわりけん、おかし。

  寬延四年未正月吉日 江戶芝神明前

             和泉屋吉兵衞開板

萬 世 百 物 語

[やぶちゃん注:歌の部分に庵点を使用して、歌詞には字空けを施した。

「伊勢の神部高岡」思うにこれは、伊勢の神戸(かんべ)城(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の北の支城高岡城のあった、現在の三重県鈴鹿市高岡町附近ではないかと考えた。

「法藏院」不詳。上記近辺にはない。近場では、三重県津市河芸町(かわげちょう)赤部(あかべ)に浄土真宗法蔵寺ならある。

「おもしろふ」ママ。

「おどり」ママ。

「すてゝぎてぎよ」意味不明。私は例えば、ホトトギスの鳴き声のオノマトペイアかと思った。「捨てて切(ぎ)って! ギョッ?」ぐらいしか私には浮かばない。何となく、悟りが開けてない僧への揶揄のようにも思えなくはない。

「法藏」法蔵院の住職。

「たくみて」企略を以って。

「おともせず」音を立てぬようにして。不明の歌の相手に不在かと、油断させるためであろう。

「しこりて」「凝(しこ)りて・痼(しこ)りて」で、「ある行為や考えに熱中する」或いは「興奮する」の意があるから、それであろう。自分の「すててぎてぎよ」節に入れ込んで興奮して歌い始めた時に。

「しこりて、せりかくれば」住職が負けじと怒涛の如くにその返歌を歌い続け、しかもそれは「せりかく」「迫り掛く」(問い詰めて迫る)ものとして、波状的に相手を追い詰めるような調子になったところが。

「ものいふ事ならぬものの、あたまと尾にて、口まねするせはしさに」正しく人語を操って人間に判るようなことを言い出すことは出来ないものの、その不足する部分を、自分の頭を叩いたり、尾を以って地面を叩いたりすることで、補っていた。というのである。さればこそ、実はやはり「すてゝぎてぎよ」には意味はないとしてよかろう。

「おかし」ママ。

「寬延四年未」同年は辛未(かのとひつじ/しんび)でグレゴリオ暦一七五一年。

「江戶芝神明前」芝大神宮の門前町。増上寺の東直近。]

萬世百物語卷之五 十九、高位の臆病

 

   十九、高位の臆病

Kouinookubyou

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング補正した。廊下の板目が激しくずれているので接合が上手くいかない。そこで近づけた状態で、左右幅の上下左右の枠を除去するという裏技に出た。蔀が細く空いているように見える(あり得ない)のはお見逃しのほどを。それにしても鷲尾がかなり美形の少年なのに吃驚! 話を読んでいる間は、てっきりデブったオッサンかと思うておったに!]

 

 あだし夢、たはむれも、あしうはせまじきものなり。いづれの御時(おほんとき)にかありけん、鷲尾殿(わしのをどの)とやらん、くぎやう、いましける。あくまでおろかに、おくびやうなる人なりけり。うちうちのとのい、秋の夜のねぶりかちなるも、わかき上達(かんだち)めは、此人をおかしがりてぞ、すごされける。

[やぶちゃん注:「源氏物語」冒頭の「桐壺」のパロディであろう。さすれば標題の「高位」も「更衣」に掛けてあると読むべきか。

「鷲尾殿」鷲尾家(わしのおけ/わしおけ)は藤原北家四条流の公家。家格は羽林家。鎌倉時代の公卿四条隆親の三男隆良を祖とする。戦国時代末期に第八代当主隆頼の後、中絶していたが、江戸初期の慶長六(一六〇一)年に四辻公遠の子季満が隆尚に改名し、再興されている。家学は華道・神楽・膳羞(ぜんしゅう:神撰・料理方)。江戸時代の石高は百八十石(ウィキの「鷲尾家」に拠った)

「くぎやう」「公卿」は律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位で、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を指す。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。「公」は大臣、「卿」は参事または三位以上の廷臣を意味し、京都御所に仕える上・中級廷臣を指した。参議は四位であるが、これに準ぜられた。但し、もっと広く、殿上人(てんじょびと:清涼殿の殿上の間に昇ることを許された者。四位・五位の中で特に許された人及びメッセンジャー・ボーイとしての六位の蔵人)を指す場合もある。

「うちうち」「内々」。内裏。

「とのい」ママ「宿直(とのゐ)」。

「上達め」「上達部」。公卿の原義に同じい。]

 

 ある夜、藏人所(くらうどどころ)にあつまり、もの語りの次(つい)で、かの人も出られける。

 例のわかき人々、かねて、はかりや、ものせられけん、おのがどち、目、ひきながら、

「いかに、此程の紫宸殿に出づときくばけものは、いかにぞ。」

と、さたせらるゝに、かたへより、

「その事よ。」

など、じちにまめだちて語らる。

 わし殿、例(れい)の、ふるひつきて、目、すわり、鼻さきそらし、

「おそろしながら、なまさかしく、それはいつわりにや。」

と、あやしがらる。

「いやとよ、非藏人(ひくらうど)の幾田(いくた)とねの助みつといへばぞ、人々もいひける。めし出し、とひ給へかし。」

と、大やうにものせらるれば、とね、めして、とはる。

 かのものも、あいづにやのりけん、

「されば候ふ。此ごろ、紫宸殿の御階(みはし)の下より、鬼のすがたして出るを、何かはしらず、長橋(ながはし)の局(つぼね)のあたりにて、ちらと、のぞき見申す。」

といふ。

「それは。ふしぎ。」

と、みなみな、はづとるを、こざかしく、わし殿、

「いかに。心得ず。」

と、うたがひながらも、いとおそろしがほなり。

 皆々、口そろへて、

「かゝる事みてこんは、わし殿ならで、あるまじ。ぜひぜひ。」

と、そゝのかす。

 しれものゝくせ、かつにのり、

「さらば、賭(かけ)ものし給へ。見てこん。」

とあるに、

「いかにも。そこののぞみたまはん事、何にてもかなへ候ふべし。さりとて、太刀・かたなもち給はんは、公(おほやけ)のはゞかりなり。殿上にては、かなはじ。その外、何にてもゑたらんものもち給へ。」

と、ゆるさる。

「さらば。」

とて、下々のもてる棒なんどいふ物をめして、つきなう、かゝへられけり。

 よろづ、まへまへのあいづにやありけん、小御所(こごしよ)のまへなる淸涼殿と紫宸殿とのあいの廊下のもとより、鬼の姿めいたる、何とはしらず、

「つ」

と出でたり。

 なでう、念じ給ふべき。

「あ。」

と、いはれしものの、あまりまぢかう出づるおそろしさ、おぼえず、

「ほう」

と、うたれける。

 うたれて、ばけものは、たおれにけり。

 それより、わし殿、きほひて、跡をもみず、なりわたりて、

「手がらしつ。」

と出で來(こ)らる。

 さて、

「いかに。」

と、とヘば、

「ばけものの出(いで)たるを一うちになん、かいころしつ。人やりて見給へ。」

とある。

 一座、

「はつ。」

といひて、みさするに、死する程にはゑうち給はねど、ことに久しくなやみしと、きゝし。

 鬼は、幾田が下部(しもべ)にぞありける。

[やぶちゃん注:「藏人所」平安初期に設置された令外 (りょうげ) の官で、天皇と天皇家に関する私的な要件の処理・宮中の物資調達・警備などを司った。平安中期以後に職制が整い、別当・蔵人頭 (くろうどのとう) ・蔵人・出納・小舎人 (こどねり) ・非蔵人・雑色 (ぞうしき) などの職員がいた。清涼殿の西の後涼殿(こうろうでん)の南方の直近に、別棟で「蔵人所町屋(くろうどどころまちや)」が独立棟として建てられてあり、ここは主に蔵人が控えや宿所として使用した。ここはそれ。

「はかり」「謀」。はかりごと。

「目、ひきながら」鷲尾殿には気づかれぬように目くばせをしながら。

「紫宸殿」平安京内裏の正殿。内裏の中央やや南寄りにあり、南殿 (なでん) の呼称でもよく知られる。朝賀や公事を行うところで、大極殿(大内裏中央やや南にあった)の退廃後(平安京のものは治承元 (一一七七) 年焼亡して廃絶)は即位などの儀式もここで行なった。南面し、神明造檜皮葺(しんめいづくりひわだぶき)で、殿の中央北寄りに玉座を設け、その北に中国の制式に倣って、漢唐の名臣三十二人の肖像を描いた「賢聖障子 (けんじょうのしょうじ)」 があった。殿舎の前庭には東に「左近の桜」、西に「右近の橘」が植えてあった。ここは古くから怪異が出来する場として平安京では有名なゴースト・スポットであった。これは最も神聖な「ハレ」の空間が、その非日常性故に、異界たる邪鬼の異空間に接続しているという民俗社会の通例として腑に落ちる。それは「源氏物語」(長保三(一〇〇一)年頃執筆開始)の「夕顔」の帖の夕顔の死の直後に光が「南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて」と出るのでも判る。最も知られるものは、「源氏物語」よりも百年後に書かれたものであるが、「大鏡」の、「太政大臣(だいじょうだいじん)忠平」の中の以下のエピソードであろう。

   *

 この殿、いづれの御時とは覺えはべらず。思ふに、延喜[やぶちゃん注:醍醐天皇(寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)。]、朱雀院[やぶちゃん注:朱雀天皇(在位:延長八(九三〇)年~天慶九(九四六)年)。]の御程(おほんほど)にこそははべりけめ、宣旨承らせたまひて、おこなひに[やぶちゃん注:執行のために。]、陣座(ぢんのざ)ざまにおはします道に[やぶちゃん注:宣旨を受けた清涼殿から、紫宸殿の東直近にあった宜陽殿から西に延びた公卿の詰め所の方へ向かわれる途中。]、南殿の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせたまふに、もののけはひして、御太刀(おほんたち)の石突(いしづき)[やぶちゃん注:刀の鞘の下方の端を保護するために包んだ金具。鐺(こじり)。]をとらへたりければ、いと怪しくて、探らせたまふに、毛、むくむくと生(お)ひたる手の、爪ながく、刀(かたな)の刃(は)のやうなるに、『鬼なりけり』と、いと恐ろしく思(おぼ)しけれど、『臆(おく)したるさま見えじ』と念ぜさせたまひて[やぶちゃん注:恐怖をおこらえるになられつつ。]、

「おほやけの勅宣うけたまはりて、定めにまゐる人とらふるは、何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ。[やぶちゃん注:「放さないと、お前にとって都合の悪いことになろうぞ。」。]」

とて、御太刀をひき拔きて、かれが手をとらへさせたまへりければ、まどひてうち放ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思ふに夜(よる)のことなりけむかし。

   *

面白いのは、この鬼が逃げた方角で、所謂、陰陽道の鬼門である。この鬼は既にして牛の角を持っており、虎の褌を穿いているのかも知れぬ。また、この南殿、源元三位頼政の鵺(ぬえ)退治でも有名なロケーションである。詳しくは、私の「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の本文と私の詳細注を読まれたい。

「さた」「沙汰」。話題として取り上げること。噂にすること。

「じちに」ママ。「直(ぢき)に」。即座に。待ってましたとばかりに。

「まめだちて」「忠實立(まめだ)ちて」本気になって。真面目になって。或いは真面目なように振舞って。ここは最後。この若い上達部どもは、トンだ千両役者なのである。

「目、すわり」「目、据わり」。一般には「酔ったり怒ったりして、瞳が凝っと一点を見つめたままで動かなくなって」の謂いだが、ここは今風に言えば、「目が点になる」で、既にして恐ろしさから、内心、吃驚しているのである。

「鼻さきそらし」その話に無関心であるように装うために、顔を逸らせたのである。

「なまさかしく」「生賢しく」中途半端にしか賢くない者が謂い出したようなもので。小賢しい、バレバレの戯言(たわごと)と同じで。

「非藏人」平安時代、蔵人所に所属した官職の一つ。特に良家の子であって六位の者から選ばれ、特異的に蔵人に準じて昇殿を許されて、殿上の雑用を勤めた者。「非職(ひしき)の者」とも呼ぶ。

「幾田(いくた)とねの助みつ」不詳。漢字表記は例えば「幾田刀禰助光」辺りか。

「大やうに」落ち着いて。騒がずに如何にも事実であるかのように見せるためのポーズである。

「あいづにやのりけん」「合圖にや乘りけむ」。予め打ち合わせておいたのであろう、召し寄せが、鷲尾を騙す本格部分の起動の合図であったのである。

「御階」昇殿するための階段。東西南北の角に計四ヶ所の狭い小さなものがあるが、通常は南面正面の階(きざはし)を指す。但し、次の描写からは、南面正面は見えないので、紫宸殿の西側の小さな二つのそれということになる。

「長橋の局」宮中の清涼殿の南東角から紫宸殿の北西角に通じていた廊下のこと。

(つぼね)のあたりにて、ちらと、のぞき見申す。」

「はづとる」矢の「筈(はづ)とる」であろう。矢を弓につがえて射る構えを真似ることであろう。所謂、「夕顔」の鳴弦(めいげん)でも判る通り、弓の弦を鳴らしたその音は、警戒と別に、邪悪なものを遠ざけ、正体を見切る呪的な力を持つ。弓がそこにある必要はない。あるかのように「矢筈を執る」真似をすることが、共感呪術としてその空間を守るという認識である。無論、ここでは大仰な芝居の一つなわけで、もともとネタバレした状態の第三者として読む我々は、そのクサい演技に思わず、微苦笑せざるを得ないのだが、それにマンマと騙されて、その連中を内心、「こざかしく」思うという以下の下りも、今度は逆に鷲尾を哀れに思うということにもなる訳である。

「しれものゝくせ、かつにのり」「痴れ者」(哀れであるが、鷲尾を指す)「の癖、勝に乘り」で、「臆病な愚か者に限って、こうした癖にあるもので、調子に乗ってしまい」の意。

「賭(かけ)ものし給へ」そこへ私がちゃんと参って、再びここへ帰って来ることが出来るかどうかに就いて、賭けを致そうではないか。

「太刀・かたな」狭義には平安時代以降の日本の刀剣は「太刀(たち)」と「刀(かたな)」区別がある。判り易い識別法は体への装着の仕方の違いで、「太刀」は、刃を下にした状態で、前後に反るように、腰帯に二箇所の附属具でぶら下げるようにつける。これを「佩(は)く」と称する。「太刀」は平安後期頃に形態として確立したもので、それ以来の古式の日本刀となる。一方、「刀」の方は、刃を上にして腰帯に鞘(さや)を差し込む形で装着し、これを「差す」と称する。「刀」は別にしばしば「打刀(うちがたな)」とも呼び、太刀に代わるものとして室町時代頃から一般化し、江戸時代になると、通常は刀が用いられ、太刀はただの儀式用になった。参照にした「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「太刀と刀」によれば、『ただし、こうしたつけ方の違いは制作当初からの鞘などの「拵え(こしらえ)」と呼ばれる外装部が残っていれば見分けがつきやすいのですが、本来の拵えが残っている事例はかなりまれです。そこで主には、普段は柄(つか)の中に入れられている刀身の「茎(なかご)」と呼ばれる部分に刻まれた銘の位置に注目することになります』。『一般的に、太刀の場合は刃を下にして左腰に佩きますので、刃を下に向けたときの茎の左側が体の外側に向くことになります。この体の外側に向く方を「表(おもて)」といい、佩いた状態での表を「佩表(はきおもて)」、と呼びます。そして、刀工が銘を入れる場合、一般的には茎の「表」に入れるという原則がありましたので、「佩表」に刀工の名が刻まれていれば、これを太刀と判断する、という目安があるのです。逆に、刃を上にしたときの茎の左側を「差表(さしおもて)」といい、こちらに刀工の銘があれば刀と判断する、ということになります』。『ただし、この「佩表」、「差表」に刀工銘が入るという原則には例外がかなりありますので、あくまでも目安ということになります』。『また、これも絶対的な違いではありませんが、太刀と刀には、相対的な長さや反りの違いもあります。一般的には太刀の方が長く、刀の方がやや短く作られました。ただし、現代の分類基準では、太刀・刀とも刃の部分の長さが』二尺(約六十センチメートル)『以上のものとなっており、長さだけでは違いは明確になりません。これには、現存する日本刀は多くのものが伝来過程で扱いやすいように長さを短くされている(これを「磨り上げ〔すりあげ〕」といいます)ことも影響しています。太刀と刀の区別は、こうした銘の位置や長さを目安としつつ、全体の形状や、いつごろのものかという年代観を総合的に判断してなされています』。『また、刀よりも更に短く作られているものは、太刀や刀に対する二本目の刀剣として差すためのものなので、「脇差(わきざし)」と呼ぶのが一般的です。現代の分類基準では、脇差は刃部の長さが』一尺(約三十センチメートル)以上二尺(六十センチメートル)未満の『ものとされており、それより短いものは「短刀」として区別されています。逆に、長い方ではおおむね刃長』三尺(約九十センチメートル)『以上の長大なものを「大太刀(おおだち)」と呼んでいます』とあった。ただ、本話は時制設定が不確かであるから、「太刀・かたな」という謂いは大小も含めた刀剣類の謂いでとってよかろうと思われる。

「めして」お取り寄せになられて。

「つきなう」如何にも不自然に。公卿たる鷲尾に似つかわしくないのである。挿絵参照。

「小御所」これは室町時代(将軍が参内する際の装束の着替えや休息にために設けられたものという)や江戸時代にならないと存在しないもので、江戸時代のものは清涼殿の北東に作られ、幕府の使臣・京都所司代などに謁見するために設けられたものである。時代をぼかしてある以上、これは「小御所のまへなる」総てをカットすべきところである。

「淸凉殿と紫宸殿とのあいの廊下」先の「長橋の局」と同じ。

「なでう」「なでふ」。副詞で反語。

「念じ給ふべき」前を受けて「どうして恐ろしさを我慢しなさることがお出来になられようか、いや、全く以って無理である」の意。

「ほう」「ボン!」。棒で打った打撃音のオノマトペイア。「棒」(音「ボウ」)だからかね。

「たおれにけり」ママ。「倒(たふ)れにけり」。

「きほひて」ママ。「氣負(きお)ひて」。意気込んで。

「なりわたりて」足音も高らかに辺りに響き渡らしながら。

「かいころしつ」「搔き殺しつ」のイ音便。「かき」は動詞に付いて語調を整え、語意を強める接頭語。

「はつ。」今の「ヤバ!」って感じ。

「ゑうち給はねど」「ゑ」はママ。

「ことに久しくなやみし」非常に永いこと、痛みに苦しんだ。まあ、鷲尾には一言も漏らせないから、結果して、永く鷲尾の自慢話となった点では救いがあるとも言えぬわけではない。本作では珍しい、お笑い系の疑似怪談である。怪談嫌いらしい絵師もこれは気持ちよく「鬼」(鬼の面)の姿を描けたのであろう。]

萬世百物語卷之五 十八、美少の剱術

 

   十八、美少の剱術

 あだし夢、牛込のあたりに、名はわすれたり、眞言宗の寺ありけり。法位も高き寺なりければ、繁昌も大かたならず。されば浪人などいふもの、こゝをさすらへのよるべ所とし、多くあつまりける。何の友彌(ともや)とやらん、是れも名字はわすれたり、その年は十六にてきよき少年なりしが、

「江戶は身をたつる所。」

と、遠國よりのぼり、此寺に便りをもとめてあられける。

[やぶちゃん注:標題は国書刊行会「江戸文庫」版では『美少の秘術』とあるが、「秘術」は以下の展開から見て、友弥のそれとは読み難い。「剱」の崩し字は「祕」のそれに似ているものがあるから、「剱術」でよいと思う。

「牛込」現在の新宿区の北東部の広域に当たり、知られた地名では市谷・早稲田・神楽坂が含まれる。江戸時代(本篇は流石に江戸時代と考えてよい)は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で、一方で町屋も少なからず形成され、現代に至るまで、古くからこの地に住む一般住民が多い。所謂、古くからの「山の手」に当たる。この(グーグル・マップ・データ)中央部分の大半が旧牛込である。

「眞言宗の寺」現存するか、現在旧牛込地区にあるものを数えて見ても、真言宗寺院はすっくなくとも十ヶ寺近くはあるため、同定は不能。]

 

 また、もとよりあいしれる筋の唐物屋(からものや)十左衞門とて、おなじあたりに住みける。友彌がいまだ寺にもまかでぬ程、いつくしき形にまどひ、たゞにやまれぬ志(こころざし)を通じ、一夜(ひとよ)二夜のむつごともありけんかし。されど、友彌が身を考ふるに、

『かゝる事、こうじたらんは、ためあしからん。』

とて、十左衞門はよく念じける。

[やぶちゃん注:「あいしれる」ママ。「相ひ知れる」。

「唐物屋十左衞門」「唐物屋」は、本来は中国からの輸入品を売買していた店や商人を指し、「たうぶつや(とうぶつや)」とも読む。但し、後、古道具屋のことも、かく言った。後者でとっておく。前者では限定が容易で、後の展開と齟齬すると考えるからである。また、或いは父の代の屋号であって、実際に十左衛門はそうした商売とは無縁な商いをしていると考えた方がよいかも知れない。

「友彌がいまだ寺にもまかでぬ程」江戸に一旗揚げるために出て来て、その寺に入る前の時期。

「こうじたらんは」「昂じたらんは」。思いが募って深みに嵌ってしまったなら。

「念じける」我慢し、凝っとこらえてきた。]

 

 友彌ばかりは戀(なつ)かしき心に、町など出でたらんおりからは、逢はざるに、なつかしみ、

「おぢの方へまからむ。」

といひて、人しれずがり、ゆきける。

[やぶちゃん注:「戀(なつ)かしき」珍しく底本のルビである。

「おぢ」ママ。「伯父・叔父」は「をぢ」。

「人しれずがり」「がり」は接尾語で、通常は人を表す名詞・代名詞に付いて「~のもとに・~の所へ」となる。ここは変わった用法で、「人知れず」は連語で、本来は「誰にも知られぬように内緒で、そっと」という副詞的意味を持つものに、その文字通りの「人知れず」でその人のいる場所が判らぬがその判らぬ人の所へ行こうと探して、の意を掛けてある。但し、後の展開で、友弥が真っ直ぐに十左衛門のところに走るシーンがあるから、実際には友弥はまず間違いなく十左衛門はここにいるという場所を、この後には知り得ていたものと思われる。或いは、その以降でも、友弥が逢おうとしても、十左衛門は先の友弥のことを考えての自制から敢えて逢おうとは決してしなかったものととるしかない。]

 

 一年ばかりもふるまゝ、園部(そのべ)團右衞門といへる浪人、日ごろは剱術の師などして、その身は、寺に口もらひて、あなたこなた、かけまわる。つねに大口のみきけば、寺のものども、なかばは、にくみおもへる、よからぬ男ありける。

[やぶちゃん注:剣術を教えているが、それで得られる金子では到底生きて行けぬ故、寺の雑用などを手伝っては寺に寄食しているというのである。

「かけまわる」ママ。「驅け𢌞(まは)る」。]

 

 友彌にいく度かいひよれど、うけひくべきやうなく、つれなき松のみさほつくりて、心ざしをふたつにせざるを、のちのちは、はらたて、

「なさけをしらぬものは深山(みやま)の木猿(きざる)にこそあれ。」

とて、とてもかなはぬにくさにや、人前にても、

「木猿殿、ござめれ。」

なんどぞ、よびける。

 友彌、むねんにおもひて、いしゆをもはたさんとすれど、かれは大いなる男の、しかも心がけさへありといヘば、

『あしう、しそんじて、名のかきん。おりもこそあらめ。』

と、おもひ過(すぐ)しける。

[やぶちゃん注:「つれなき松のみさほつくりて」表向きは、「つれなき」(冷たく、素知らぬ振りをするばかりで)「松のみ」(「待つのみ」の掛詞)「さ」(名詞に付いて語調を整える接頭語ととる。さすれば、以下は)「ほつくりて」=「ぼつくりで」=「松ぼっくりで」=「待つばかりで」の掛詞となろう。しかし、今一つ別な意味がここには隠語として隠されてあると読める。それは則ち、「松ぼっくり」「松ぼくり」の「ぼくり」の元はその形から「松」の「ふぐり」(陰嚢・睾丸)が語源であるからである。だから、この表現に裏には、幾ら懸想してもすげない友弥なればこそ、園部の金玉(松ぼっくり)は淋しく「ほつくりて」=「ほつたらかしで」「放りっぱなしで」の若衆道の含みの謂いがあると私は採るのである。

「木猿」野猿・猿公(えてこう)であろう。人を人とも思わぬ激しい卑称である。

「ござめれ」連語で近世中期以後は誤って「ござんめれ」とも書いた。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「こそ」+ラ変動詞「あり」+推定の助動詞「めり」の已然形「めれ」が付いた「にこそあるめれ」の変化したもので、もとは「~であるように見える・のようだな。」の意。但し、後世にはその成立語源が忘れられ、「ごさん」が「御座る」の変化したもの、あるいは、「御参」のように意識されたから、ここも「木猿殿は、居られるようじゃのう!」といった見え透いた蔑した呼びかけである。

「いしゆをもはたさん」「意趣をも果たさん」。仕返しをして恨みを晴らしてやる!

「心がけさへあり」剣術を教えるほどであるから、腕に覚えがあるということ。

「あしう、しそんじて」「惡しう、し損じて」。

「かきん」「瑕瑾」。原義は「全体として優れている中にあって惜しむべき小さな傷・短所・欠点」の意であるが、ここは「恥・名折れ」の意。国書刊行会「江戸文庫」版では、『名のがさん』とある。或いは写本の誤りか、判読の誤りとも思われる。これでも意味は通るが、「瑕瑾」の方がきりりとして、遙かによい。]

 

 いかなる折にか、人けなく、春のあたゝかなる日ざし、書院のゑんがはに、ものかげのしけるは、かの團右衞門が、心よう、ひげぬきて居(をる)なりけり。友彌、

『よきおり。』

と、ひそかに身つくろひ、刀を引(ひき)さげて、より來(き)ける。

『なまじいに刀とりあつかひ、心つかれて、あしかりなん。』

と、ものかげにたておき、やおら、しやうじをあけ、

「團右衞門どの、よくもあしざまに仰せらる。うらみ申す。」

と、あどけなきうちに、いかりをふくみ、ぬき打ちにぞしたりける。

 拍子やよかりけん、

「あ。」

といふて、立ちけるが、ふたつになりてぞ、みへたりける。

 とゞめまで、よくさし、おちつきて見へしもの、わか人のかなしさ、いかにしてとりおとしけん、わきざし計(ばかり)にて立ちのきける。

[やぶちゃん注:「ゑんがは」ママ。「緣側(えんがは)」。

「ものかげのしける」「團右衞門どの、よくもあしざまに仰せらる。うらみ申す。」と言上(ことあ)げした際には、友弥は脇差を差したままで、手には太刀を持っていない。されば、園部は『何のことはねぇ』と、ほくそ笑んで無視し、視線を外したのであろう。そ瞬時を見計らって、障子の内側に隠して立てかけておいた太刀(恐らく抜き身にしておいた)を執って斬りつけたものと推定する。

「おちつきて見へしもの、わか人のかなしさ」底本では「おちつきて見へしも、□のわか人のかなしさ」となって、判読不能となっている。ここは「江戸文庫」版に拠ったが、或いは、本来は違った表現(「例の」「常の」等)であった可能性を否定は出来ない。

「いかにしてとりおとしけん、わきざし計にて立ちのきける」太刀を現場に放置したままにしてしまったのである。]

 

 それより、十左衞門がもとにかけこみ、

「しかじか。」

といふに、

「こゝは、やう、あしき。」

とて、うら道より、したしき方にしのばせける。追手、程なう、跡つけて、

「狼籍もの、出(いだ)せ。」

といへど、こゝになければ、せんなし。

 さて、友彌はかくしおゝせたれど、刀わすれたる念なさ、一家のきかんも口おしく、

「いかにせん。」

と、わびあへる。

 十左衞門、

「思案しすべきやうこそあれ。」

と、家、しまひて、友彌をつれ、はるか、人しれぬかたにしのびける。

[やぶちゃん注:「追手」は寺の者であって、公儀の役人ではない。殺人であるから、届け出はしなくてはならぬが、そもそも園部は寺内でその傲慢から甚だ憎まれていた。太刀を見て、寺内の者は友弥の仕業とは分かったものの、生前の園部への嫌悪から、「賊に殺された」とでも、噓の訴えをしておいて、重要な証拠物件たる凶器の太刀は、秘かに寺内に隠しておいたのである。友弥を真犯人として知っていた寺内で、何故そうしたかは、判然としないが、美少年の友弥への園部の普段のおぞましい仕儀を思い出し、心情的には寺内の全部が友弥に同情したからではあろう。しかし、それとは別に、寺の連中は、犯人の友弥を探し出して、彼を犯人として訴え出ないことを条件に、彼の家から、大枚の金を巻き上げることをも、同時に考えたものと私は推測するのである。

 

 さて、弟なるものを、細物(こまもの)あきないといふ事させ、かの寺に出入(でいり)せける。

 おもひ入りある心より、いかなるむりをも氣にかけず、納所(なつしよ)小僧の機嫌をとり、下々の男まで『よきものなり』とおもはれて、のちは、心やすう、

「かれなくては。」

とぞ、もてなしける。

 ある時、納所寮(なつしよれう)にて、酒のみ、わざと、すき事のはなし、し出(いづ)る。終(つひ)に、かの友彌がものがたりになり、

「刀をおとしたる、いかに念なかるらん。」

といふ。

 かのもの、『大かた、しすましたり』と、下人、よろこび、

「それ程のものわすれはせじか。刀のかね、よからぬゆへ、すてたることにあるベし。」

と、不案内にそしれば、

「いやいや、さやうのものならず。こゝにあり。これ見給へ。なにしらぬ法師の目にも、すさまじきものなり。」

と、櫃(ひつ)より取り出(いだ)して、みす。

 友彌がかたるにまがひなく、『あり所はみつ。とかうせん』とおもふほど、賓人(まろうど)の入來(いりきた)り、なりみち、さわぐを幸(さいはひ)に、酒、ゑひて、ふすまねし、人まをうかゞひ、ぬすみ出し、商賣の具、うちすて、跡けして、うせぬ。

 友彌、よろこび、それより故鄕に歸りしとなり。

 法師ばら、のちのち見付けて腹だちけんかし。

[やぶちゃん注:「弟なるもの」唐物屋十左衛門の実弟。

「細物(こまもの)」珍しく底本のルビ。

「あきない」ママ。

「おもひ入りある心より」思いやりのある風を寺内の者に徹底して感じさせるようにしたのである。

「納所小僧」寺の会計・庶務を取り扱う下級の僧。

「納所寮」同前の下級僧や下人らの住まう建物。

「すき事のはなし」若衆道の話。

「し出(いづ)る」本来は「し出(いだ)す」が相応しい感じがする。

「いかに念なかるらん」「どんなにか口惜しく、残念に思っていることだろうよ」。

「かのもの、『大かた、しすましたり』と、下人、よろこび」どうもうまくない表現部分だ。「かのもの」も「下人」もどちらも十左衛門の弟を指すとしか思われないが、「下人」の謂いは無理がある。思うに、「下人、よろこび」の部分は、以下の弟の台詞の後、「不案内」(細かいようすや事情がよくわからないさま。但し、ここはそのように演じた、ふりをしたということである。彼は兄からその太刀の仕様をちゃんと聴いて知っていたのである)「にそしれば、」の後ろに続けるべきところではないか?

「刀のかね、よからぬゆへ」(「ゆへ」はママ)刀剣の刃自体が、鈍(なまく)らな安物であったから。

「櫃」蓋が上方に開く大形の箱。

「とかうせん」さても、これからそれを奪取するにはどうしたらよかろうか、と内心、思案したのである。

「賓人」納所寮にやってくる客人。

「入來り、なりみち」ちょっと畳語になるが、「入り來たり、成り滿ち」で、訪問客の出入りが茂くなり、その場に人が溢れかえってきて、の意でとっておく。

「腹だちけんかし」「腹立ちけむかし」。地団駄を踏んで腹を立てたであろうが、後の祭りであったよ、といった結語のニュアンスであろう。]

2020/08/21

萬世百物語卷之五 十七、下界の天人

 

   十七、下界の天人

Gekainotenin

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成した。但し、中央部分の縁側が、左右で合致せず、大きくズレているため、今回は完全な接合をせずに間を空けた。その分、天人の往来のために、上下の雲形の部分に枠された額縁はわざと除去した。私としては、いい感じと勝手に思っている。]

 

 あだし夢、周防(すはう)の室積(むろづみ)といふ所に、寺の名はわすれたり。宗(しゆう)は淨土にぞありける。その寺に柳本小三郞(やなぎもとこさぶらう)といふなん、浪人の子、よるべして住みけり。兄なる男も當所にはあれど、これも田舍住みして世渡る浪々の身なれば、住寺のなさけに、小三郞をば、うちまかせたるなるべし。邊鄙(へんぴ)とはいへど、都めいたる風俗は、色にさかしき心にやありけん、いとなまめいたる少年なり。

[やぶちゃん注:「周防の室積」現在の山口県の室積湾周辺、光市室積を中心とした一帯(グーグル・マップ・データ。)。長州(萩)藩領内。江戸時代には北前船などの寄港地として栄えた。それで「都めいたる風俗」が腑に落ちる。

「寺」「宗は淨土」ここかどうかは判らぬが、光市室積に浄土宗専光寺がある。

「柳本小三郞」不詳。

「色にさかしき心にやありけん」人情に優れて優美なものを醸し出す力でもあるのであろうか。]

 

 ころは水無月、土さへさけて、あつかりし日の、やうやうにくれかゝれば、南面の客殿、庭なかば、かげろふ。小三郞我がすむかたの小ざしき、あいのしやうじあくれば、つきやま・やり水、のこらず、みゆ。手づから庭にみづそゝぎなどして、納涼をなしける。花だんにうへたるがんぴ・ひめゆりなどは、やゝさかり過(すぐ)れど、撫子(なでしこ)は秋さへふかうのこるものなれば、今をさかりなり。桔梗(ききゃう)・おみなめしは、まだつぼみて、色なきさまながら、早百合(さゆり)の花ぞ、さきみだれて、きれいに露置きたるも、すゞし。

[やぶちゃん注:見事な「花尽くし」である。

「水無月」陰暦六月。

「土さへさけて」「土さへ裂けて」。暑さに地面が乾涸びて、裂けたようなって。

「かげろふ」「陽炎ふ」。動詞。

「あいのしやうじ」「間の障子」。庭との隔ての障子。

「がんび」「雁皮」。バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana。奈良時代より製紙原料として用いられている。初夏に枝端に黄色の小花を房状に密生させる。

「ひめゆり」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属ヒメユリ Lilium concolor。花期は六~七月。朱色がかった赤色の鮮やかな花を咲かせる。

「撫子」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属エゾカワラナデシコ変種カワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus。花期は夏から秋にかけてで、上方でまばらに枝分かれした茎の頂端に淡紅色の花を数個つける。

「桔梗」キク目キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandiflorus。開花期は六月中旬の梅雨頃から始まり、夏を通じて、初秋の九月頃までと長い。つぼみが徐々に緑から青紫に変わり、裂けて、星型の花を咲かせる。

「おみなめし」マツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia の別名。花期は夏から秋にかけてで、茎の上部で分枝し、花茎の先端に黄色い小花を平らな散房状に多数咲かせる。

「早百合」ユリ属 Lilium 全般の美称。]

 

 山寺なれば、常さへ人けなきに、まして夕ぐれをや、築山(つきやま)のうしろ、蘇鐵(そてつ)のかげより、人音のしければ、『あやし』と見るほど、こゝらにては、めなれぬ大内(おほうち)の官女ともいふべき、それも、繪などにこそ、田舍にてはみるべき、年の程二八のころには、まだ、なよびなる、あたりもかゞやくばかりの人、小三郞が方(かた)をうちみて、おもはゆげにあゆみよる。

[やぶちゃん注:「蘇鐡」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta。ソテツ類の中で日本で自生する唯一の種で、自然分布では日本固有種であり、自生北限は宮崎県串間市都井岬であるが、参照したウィキの「ソテツ」によれば、『本州中部以南の各地でも冬季防寒(わらぼっち)をする事で植栽が可能である』とある。

「大内」内裏。宮中。

「二八」数え十六歳。

「なよびなる」「なよなよとした」の原義に、十六にも未だ満たぬの意味を含ませたもの。

「おもはゆげに」いかにも照れくさく、恥ずかしいと思っている感じで。]

 

 見るより、たましいも、うかれながら、またあやしさも、はれず。とにかく、そゞろだちておちつかぬを、そのまゝたもとをひかへ、

「さなあやしませ給ひそ。ゆへあればぞ、はづかしき女心に念じてこゝにもきたれり。わがおもひ、かなへさせ給へ。」

と、しとしとと立(たち)よるおもだち・風情、匂ひさへ、ゑならず。此世の人ともおもはれぬを、小三郞、

「あ。」

とばかりのいらへに、いひ出づることのはもなく、ほれぼれとなりて、

『いかなるあやしきものにもせよ、かゝる人にいのちうしなひてんは、つゆおしからじ。』

と、はやうもおもひしむことのあやしさ。

[やぶちゃん注:「たましい」ママ。

「そゞろだちて」訳もなく、ひどくそわそわしてきて。

「たもとをひかへ」「袂を控へ」。御辞儀の姿勢。

「しとしとと」物事をもの静かにするさま。しとやかなさま。しずしず。

「ほれぼれとなりて」「惚れ惚れとなりて」。すっかり心を奪われてしまい、うっとりするさま。

「おし」ママ「惜し」。

「おもひしむ」「思ひ染(し)む」。]

 

 その日もすでにたそがれすぎ、あやめもみへぬ程なりけり。姬は小三郞がありさまみて、

「さては、そこにも心うちとけ給ふか。我がねがひのかなひつる、うれし。さらば、そこの住み給ふかたへしのばせ給へ。」

と、小ざしきにともなふ。

 ひそかにしやうじかため、その夜のにいまくら、たがいのさましるべし。

[やぶちゃん注:「あやめもみへぬ」ママ。「綾目も見えぬ」。

「そこ」そなたの。対称の二人称代名詞。目の前にいる、自分と同等かそれ以下の相手を指す。]

 

 それより、よがれなく、月にも雨にも通ひくるに、いつしか、住持、目とゞめ、寺のものども、そゞめきて、

「田舍に、かゝる人、あるべしや。國守の姬君もかくまでやあらん。あに人間ならん、さだめてきつねやうのもの、日ごろの心をしりて、たぶらかすにぞあらん。」

といふ。

 住持、もつともにおもへど、

「我いひ出(いで)んは、かれもはゞかりおほかるべし。」

と、かの兄なる男よびよせ、くわしく語りて、いさめさす。

 男もおどろき、小三郞をかたはらにまねき、

「かゝる事、きくなり。いかにわかき身のわきまヘなきとて、さやうのもの、人間にあるべしや、ありとて、こゝに來たるべきか。大かたは、しれつる事、なぜ、一刀(ひとかたな)にとをさぬぞ。あさまし。ひけうもの。」

とぞ、はぢしめける。

 小三郞もおもへば、げにふしぎなれば、

「もつとも。」

と、ことうけながらも、さすがにつらふ心ぼそくも覺えける。

[やぶちゃん注:「よがれ」「夜枯れ」。夜の訪問がなくなること。

「そゞめきて」何だかんだと騒いで。

「あに人間ならん」「豈、人間ならんや」。反語。

「かれもはゞかりおほかるべし」「直接に拙僧が諌めたのでは、彼(小三郎)も相応の成人なればこそ、立場もなくなり、少々憚られるように思わるる」。

と、かの兄なる男よびよせ、くわしく語りて、いさめさす。

 男もおどろき、小三郞をかたはらにまねき、

「ありとて、こゝに來たるべきか」反語的疑問。「万が一にもまことの子女であったとしても、ここに来たることなどあろうか? いや、あり得まいよ。」。

「とをさぬぞ」ママ。「通(とほ)さぬぞ」。突き刺して殺さぬのか?! の意。

「ひけうもの」「卑怯者」。

「ことうけながらも」「言承け乍らも」。返答しながらも。]

 

 程なく、例の如く來りて、うちうらみたる風情に、

「いかに人のさかしらすればとて、なきものになさんと、はかり給ふつれなさ。われは、きつね・たぬきやうのものにもなく、ゐんゑんあればぞ、遠き天をも、わけきたれり。」

とて、くどきなく。

 小三郞、此ごろのなさけより、今のうらみおもひつゞけ、わりなうおもへど、かの男、時々しはぶき、ものかげよりせきたつれば、今は、ぬきうちにぞ、うつたりける。

 うたれて、女は、かけ出せり。

「さらば。」

と兄弟、松、ともし、のりしたひて、べうべうたる野に出でたり。

 みれば、きれいにたいらかなる道、つけり。

「日來このみて獵などすれば、國の案内、山川のあり所、ことごとくしりつくすに、かゝる所は、いまだおぼへず。」

と、あやしみながら、三町ばかり行くとおもへば、森々(しんしん)たる宮、たち、およそ近國には肥後の「あそのみや」、安藝(あき)には「いつくしま」ならで、おぼへざるけつこうなり。

 されども、のりのみへけるをしるべに、一、二の門を過ぎ、拜殿などおぼしき所をへて、廊閣一町ばかりも、はてしなく行きける。

 まだ、金銀もかゞやくばかりに、たつとき宮門の内、玉樹、陰しげり、芳花(はうくわ)、紛々たり。

 されども、のりは、なをあと引きけり。

 むかふに、けつこうの一宮あり。御簾(みす)かけて内はみヘぬが、人げ、さらになく、寂寞(せきばく)たるきざはしのうへまで、血のあるをあやしびて、おそろしながら、すだれかゝげてみれば、おくの間、かすかにたかき座ありて、綾錦(あやにしき)かさねたるしとねに、かの女、ひとり、ふしたり。

 いき、やう薰じ、この世の外、淨土なんどいふべき地も、かゝる所にやありなんと、けうさめて、おそろしき事、つねならず。あしも、ゑさだまらねば、

「いや、いや、かゝるところ、われわればかりみるに、よしなし。先づ、歸りて、人にも見せん。」

と、それより、あしばやに行きて、寺中のものにふれまわし、棒なんど手々(てんで)にもち、すでに夜もあけて、かの所をたづぬるに、あとかたもなくなりし。

「天人といふものにやあらん。」

と語りあへるも、いかゞ、まことしからぬを。

[やぶちゃん注:「さかしら」「賢しら」「利口そうに振る舞うこと・物知りぶること」或いは「出しゃばること・お節介」又は「さし出口をきくこと。讒言」の意であるが、女の正体如何によって意味は微妙に孰れにもとれる。ハイブリッドでよかろう。

「ゐんゑん」ママ。「因緣(いんねん)」。「緣」は単漢字でも歴史的仮名遣は「えん」で「ゑん」ではない。

「くどきなく」「口說き泣く」。しきりに意中を訴えつつ、泣く。

「此ごろのなさけより、今のうらみおもひつゞけ、わりなうおもへど」出逢って以来、続いていた親密さを、今の兄に吹き込まれた変化(へんげ)のものに騙されているだという恨みを引き比べてみたとき、たまらなくつらいとは思ったが。

「かの男」小三郎の兄。

「しはぶき」咳払いをし。

「せきたつれば」「急き立つれば」。

「松」「紙燭(しそく)」であろう。本来は室内や邸内用の照明具の一つで、松の木を凡そ長さ四十五センチメートル、直径一センチメートルほどの棒状に削って、先端を焦がして油を塗っておいて火を点すもので、手元を紙で巻いたことから、かく字を当てる。

「のりしたひて」血糊(ちのり)の後を追って。

「べうべうたる」「渺々たる」。限りなく広がっているさま。

「きれいにたいらかなる道」妙に綺麗で、全く平らかな一筋の道。ここがすでに異界への通路であることを示唆している。

「おぼへず」ママ。「覺えず」。後も同じ。

「三町」約三百二十七メートル。

「森々たる」奥深く静まりかえっているさま。

「あそのみや」「阿蘇の宮」。熊本県阿蘇市にある肥後国一の宮阿蘇神社。景行天皇伝説を持つ古社で、祭神は、神武天皇の勅命で国土開発に当たった開拓神健磐龍命(たけいわたつのみこと)など十二神。

「いつくしま」「嚴島」。海中に建つ社殿で有名な広島県宮島にある安芸国一の宮厳島神社。市杵島姫命ほかを祀る。平家寄進の仏経その他宝物が多いが、嵯峨天皇(在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)。の頃からの由緒を伝える。

「けつこう」「結構」。構造物。

「のりのみへけるをしるべに」ママ。血「糊の見えけるを標(しるべ)に」。以下の「みへ」も総てママ。

「一町」百九メートル。

「紛々たり」入り交じって乱れるさま。

「なをあと引きけり」ママ。「猶ほ痕を引きけり」。

「人げ」「人氣」。

「いき」「息」ここは鼻から吸うこの場の吸気。

「やう薰じ」非常に良く薫じられた状態にあって。えもいわれぬ妙香が薫じられているような感じがしたのである。まさに「この世の外」の天人の住む六道の最高位の天上道か、或いは「淨土」の香気とはこのようなものではないかと推し量るような香りに満ちているのである。

「けうさめて」ママ。「興醒(きようさ)めて」。

「あしも、ゑさだまらねば」足が震えてしっかりと立っていることが出来なかったので。

「ふれまわし」ママ。「觸れ𢌞(まは)し」。 

 さても。この少女の正体は実際には何であったのか? 作者は天人説をコーダではっきりと疑っている。後のこと知りたや、であるが、特に変異はその後に起こらなかったからこそ、続きもないわけで、私は最終的にやはり事実、天人であったのだと結論したい。読者の中には「血糊」に着目され、何らかの獣の変化と鬼の首獲ったお気持ちの方もいるやも知れぬが、天人は「血を流す」のである。「天人五衰」である。これは天上道(天上界)にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる五つの兆しを言う。ウィキの「天人五衰」によれば、「大般涅槃経」の第十九に於いては、①衣裳垢膩(えしょうこうじ:衣服が垢で油染みる)・②頭上華萎(ずじょうかい:頭上の華鬘(けまん)が萎(な)える)・③身体臭穢(しんたいしゅうわい:身体が汚れて臭い出す。他の経典では解釈に違いがあり、「体の上から発する光が滅する」とか「頭の頂きの中にある光が滅する」、「両眼がしばしば瞬いて眩(くるめ)くようになる」などともいう)・④腋下汗出(えきげかんしゅつ:腋の下から汗が流れ出る)・➄不楽本座(ふらくほんざ:自分の席に戻るのを嫌がるようになる)であるが、この内、身体から分離する「垢」や、体から出る「汚れ」や「臭気」は身体の代謝老廃物であり、「汗」に至ってはヒトの場合、赤くない「血」と言い換えてもいい、不可欠な代謝物である。則ち、天人にも血があるのである。そう考えると、死期の近づいた天人が最後の自身の願いとして、天上界から見下ろしていた現世の、懸想していた柳本小三郎に、最後に逢いに来たのだった、として、私は何の違和感も感じぬのである。そこはかとない哀れをさえ感ずるばかりである。そうした、愚かな人知の不可知部分を許容せずして、どうして百物語を語れるのか、と逆に作者に言いたいぐらいである。ただ、或いはもしかしたら、この「花尽くし」こそが確信犯であって、実は彼女は多くの花の精の複合的な化身だったと作者は仄めかしているやも知れぬ、或いはその中でも深紅の姫百合の花の精とでも匂わせたかったのかも知れぬ。

大和本草卷之十三 魚之下 烏賊魚(いか) (イカ総論)

 

烏賊魚 此類多シコブイカ大ニシテ味ヨシ水イカ長クシ

テ緣ヒロシ柔魚閩書曰似烏賊而長色紫漳人晒

乾食之其味甘美トイヘリ是スルメナリ骨ウスシ乾タルヲ

多食ヘハ消化シカタシ凡烏賊性本草ニ益氣强志トイ

ヘリ柔魚ノ性最然リ河豚鰹魚ナト一切魚毒ニアタリタ

ルニスルメノ手煎シ服スヘシ瑣管スルメヨリ小ナリ長ク骨

ウスシ食之柔軟又サバイカトモ云アフリイカ廣大ナ

リ障泥ニ似タリヤハラカニ乄味ヨシ小イカアリ凡烏賊

魚無益人病人不可食難消化肉餻ト乄可ナリ海

鰾鮹ハイカノ甲也藥ニ用ユ功能多シ本草可考世醫

云歷久ヲ一用テ尤良

○やぶちゃんの書き下し文

烏賊魚(いか) 此の類〔(るゐ)〕多し。「こぶいか」、大にして、味、よし。「水いか」、長くして、緣(へり)、ひろし。柔魚(するめ)、「閩書」に曰はく、『烏賊に似て、長く、色、紫。漳人(しやうひと)、晒(さらし)乾して之れを食ふ。其の味、甘美といへり。是れ、「するめ」なり。骨、うすし。乾したるを多く食へば、消化しがたし。凡そ烏賊、性、「本草」に『氣を益し、志を强くす』といへり。柔魚〔(いか)〕、性、最も然り。河豚〔(ふぐ)〕・鰹魚〔(かつを)〕など、一切〔(いつさい)の〕魚毒にあたりたるに、「するめ」の手、煎じ服すすべし。瑣管(しやくはちいか)、「するめ」より小なり。長く、骨、うすし。之れを食〔ふに〕柔軟〔にして〕、又、「さばいか」とも云ふ。「あふりいか」、廣大なり。障泥〔(あふり)〕に似たり、やはらかにして、味、よし。「小〔(こ)〕いか」あり。凡そ、烏賊魚、人に益無く、病人、食ふべからず。消化し難し。肉餻(かまぼこ)として可なり。海鰾鮹〔(かいへうせう)〕は、「いかの甲」なり。藥に用ゆ。功能、多し。「本草」、考ふべし。世醫〔(せい)〕云はく、『久〔しく〕歷〔(ふ)る〕を用ひて尤も良し』〔と〕。

[やぶちゃん注:かなり簡略であるが、軟体動物門頭足綱鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes のイカ類(本邦で一般的なものはコウイカ目 Sepiida・ダンゴイカ目 Sepiolida・ツツイカ目 Teuthida・閉眼目 Myopsida・開眼目 Oegopsida に属する)の総論。本格的な総論は先行する医師で本草学者人見必大の著した「本朝食鑑 鱗介部之三 烏賊魚」(元禄一〇(一六九七)年刊。本「大和本草」は。宝永七(一七〇九)年刊)が詳細で優れてよい(リンク先は私の電子化注)。

「こぶいか」コウイカ目コウイカ科コウイカ属カミナリイカSepia (Acanthosepion) Lycidas の異名。地域によっては近縁種のコウイカ属コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta の異名でもある。前者はコウイカ類の大型種で外套長は三十八センチメートル。五キログラム。身が非常に分厚く、甘みがあるが、やや硬い。以前は「モンゴウイカ」の通名で知られたが、近年、専ら輸入物の別種にそれが用いられてしまった結果、混同が生じている。則ち、カミナリイカの本来の和名はモンゴウイカであるべきはずであるということである。

「水いか」閉眼目ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ Sepioteuthis lessoniana。外套長は三十五~四十五センチメートル。大きいものでは五十センチメートル越えて六キログラ以上に達する個体もあるようである。沿岸域に棲息するイカでは大型のグループに入る。鰭(外套部の側辺にある所謂「えんぺら」)が大きく、外套長の九十%以上にも及び、卵円形の外形であるため、コウイカ類と見誤まられかちであるが、石灰の貝殻(ここに出る「海鰾鮹」)を持たず、幅の広い軟甲を持つ。

「柔魚(するめ)」狭義には「するめいか」でツツイカ目スルメイカ亜目アカイカ科スルメイカ亜科スルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus 一種を指す。古くから本邦で食されてきた種で、現在も最も消費量の多い魚介類の一種である。「真イカ」というのは本種の別称である。但し、イカの干物である加工食品としての「するめ」(鯣)は本種以外にヤリイカ(閉眼目ヤリイカ科 Heterololigo 属ヤリイカ Heterololigo bleekeri)やケンサキイカ(ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ Uroteuthis edulis。槍と剣で二種を同一種と考えている人が多いが、別種である)の他、シリヤケイカ(コウイカ目コウイカ科Sepiella属シリヤケイカSepia japonika)や前出のアオリイカが使われることもあり、しかも等級としていいとされる「一番鯣」はスルメイカではなく、ヤリイカ・ケンサキイカの二種のそれであるから、混同しないように注意が必要である。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「漳」現在の福建省南東部に位置する漳州市を中心とした広域旧称。

「氣を益し、志を强くす」陽気を正常に回復し、精神や神経を正気に向けて強める。

「鰹魚〔(かつを)〕」「魚毒」既に出した寄生虫アニサキスであろう。

「瑣管(しやくはちいか)」「尺八烏賊」。益軒は別種として出しているが、これは前出のヤリイカの別名である。ヤリイカの若い個体ととっておく。

「さばいか」これもヤリイカの別名として生きている。

「あふりいか」前出。

「障泥〔(あふり)〕」現代仮名遣「あおり」。馬具の一つ。毛皮などで作り、鞍の下に左右の馬の腹の両脇に掛けて泥除けにしたもの。

「小〔(こ)〕いか」コウイカ目コウイカ科コウイカ属ヒメコウイカ Sepia (Doratosepion) kobiensis、閉眼目ヤリイカ科ジンドウイカ属ジンドウイカ Loliolus (Nipponololigo) japonica、 開眼目ホタルイカモドキ科ホタルイカモドキ亜科ホタルイカ属ホタルイカ Watasenia scintillans の異名である。ホタルイカは富山湾のそれが知られ、そこに限定された固有種のように誤認されているが、実際には日本海全域と太平洋側の一部に分布している(通常は深海部)から、外すことは出来ない。現在の漁獲は特に富山湾沿岸の滑川市を中心とする富山県と、兵庫県の日本海側で多く水揚げされており、実際の漁獲量は兵庫県の浜坂漁港が日本一(二〇一七年で二千七百三十四トン)で、富山県全体(同千二百九十九トン)を遙かに上回っている(ホタルイカ部分の説明はウィキの「ホタルイカ」に拠った)。

「海鰾鮹〔(かいへうせう)〕」「いかの甲」十腕形上目コウイカ目Sepiina 亜目コウイカ科 Sepiidae に属する全種に見られる硬く脆い体内構造物の通称。別に「イカの骨」・「烏賊骨(うぞっこつ)」や英名の「カトルボーン」(Cuttlebone)などとも呼ばれるが、正確には同じ軟体動物の貝類の貝殻が完全に体内に内蔵されたものである。学術的には甲あるいは軟甲と呼ぶ。これはまさに頭足類が貝類と同じグループに属することの証と言ってよい。即ち、貝類の貝殻に相当する体勢の支持器官としての、言わば「背骨」が「イカの甲」なのである。あまり活発な遊泳を行わないコウイカ類では、炭酸カルシウムの結晶からなる多孔質の構造からなる文字通りの「甲」を成し、この甲から生じる浮力を利用している。対して、後で語られるように、活発な遊泳運動をするツツイカ類では運動性能を高めるために完全にスリムになって、半透明の鳥の羽根状の軟甲になっている。ツツイカ目のヤリイカ科アオリイカは、外見はコウイカに似るが、甲は舟形ながら、薄く半透明で軽量である。これは言わば、甲と軟甲双方の利点を合わせた効果を持っている。即ち相応の浮力もあり、スルメイカほどではないにしても、かなり速い遊泳力も持ち合わせているのである。以下、ウィキの「イカの骨」から引く。『貝殻の痕跡器官であるため主に炭酸カルシウムから構成されている。もともとの形は巻き貝状、あるいはツノガイ状で、アンモナイトやオウムガイのように内部に規則正しく隔壁が存在し、細かくガスの詰まった部屋に分けられていたと考えられているが、現生種ではトグロコウイカのみがその形状を持ち、他の種はそのような部屋の形を残してはいない。矢石として出土するベレムナイトの化石も、元は貝殻である』。『コウイカの場合、それに当たる部分は現在の骨の端っこに当たる部分(写真では向かって左端、尖った部分が巻き部)であり、本体の気体の詰まった小部屋に分かれて、浮力の調節に使われる部分は、新たに浮きとして発達したものと考えられる。顕微的特徴を見ると薄い層が縦の柱状構造により結合している。このようなイカの骨は種によっては』二百なら六百メートルの水深で内部へ爆縮してしまう。『従ってコウイカの殆どは浅瀬の海底、通常は大陸棚に生息する』。『スルメイカ等では殻はさらに退化し、石灰分を失い、薄膜状になっており、軟甲とよばれている』。『その昔、イカの骨は磨き粉の材料となっていた。この磨き粉は歯磨き粉や制酸剤、吸収剤に用いられた。今日では飼い鳥やカメのためのカルシウムサプリメントに使われ』ており、また『イカの骨は高温に耐え、彫刻が容易であることから、小さな金属細工の鋳型にうってつけであり、速く安価に作品を作成できる』ともある。『イカの骨は「烏賊骨」という名で漢方薬としても使われる。内服する場合は煎じるか、砕いて丸剤・散剤とし、制酸剤・止血剤として胃潰瘍などに効用があるとされる。外用する場合は止血剤として、粉末状にしたものを患部に散布するか、海綿に塗って用いる』とある。

「世醫〔(せい)〕」世間一般の医師たち。

「久〔しく〕歷〔(ふ)る〕」長く時間が経って乾燥したものの謂いであろう。但し、原本ではスレがあってはっきりしないが、国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、「歷ㇾ久」という送り仮名があるのだが、これだと、読めない。強いて読もうなら、「久(なが)ら〔く〕」或いは「久(ひたす)ら」で、「歷〔(た)〕ち〔たる〕」となろうか。なお、「本草綱目」ではこの「海鰾鮹」の「附方」について膨大な記載がある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年板行の風月莊左衞門刊「本草綱目」(訓点附き)の当該部をリンクさせておく。そこから実にたっぷり三コマ分が総てそれなのである。]

2020/08/20

大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)

 

人魚 本草綱目䱱魚集解引徐鉉諬神録云謝仲

王者見婦人出沒水中腰以下皆魚乃人魚也又

徂異記云査道奉使髙麗見海沙中一婦人肘後

有紅鬣問之曰人魚也○䱱鯢モ亦人魚ト云乃名

同物異○日本記二十二巻推古帝二十七年攝

津國有漁父沈罟於掘江有物入罟其形如兒非

魚非人不知所名今案此魚本邦ニ処〻稀有之亦

人魚ノ類ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

人魚 「本草綱目」〔の〕「䱱魚」の「集解」に徐鉉〔(じよげん)〕が「諬神録〔(けいしんろく)〕」に云はく、『謝仲王といふ者、婦人、水中に出沒するを見る。腰より以下、皆、魚。乃〔(すなは)〕ち、「人魚」なり』〔と〕。又、「徂異記」に云はく、『査道、使を髙麗に奉ず、海沙の中、一婦人、肘〔(ひぢ)の〕後〔ろに〕、紅〔き〕鬣〔(たてがみ)〕有るを見る、之れを問へば、曰はく、「人魚なり」〔と〕』〔と〕。

○「䱱」・「鯢」も亦、人魚と云ふ。乃ち、名、同〔じくして〕物〔は〕異〔(こと)なり〕。

○「日本記」二十二巻「推古帝二十七年」、『攝津國に漁父有り。罟(あみ)を掘江[やぶちゃん注:ママ。]に沈む。物、有り。罟に入る。其の形、兒〔(こ)〕のごとく、魚に非ず、人に非ず。名づくる所を知らず』〔と〕。今、案ずるに、此の魚、本邦に処〻、稀れに之れ有り。亦、人魚の類〔(るゐ)〕なるべし。

[やぶちゃん注:幻想の人型生物・妖精たる人魚(Mermaid)である。一般に哺乳綱海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon 誤認説が流布しているが、正直言うと、私はこれは人魚伝説が先にあって、それに既存生物を当てはめてみた比喩的なもののように今は感じている。これは熱帯や亜熱帯の浅海を棲息域とする彼らを、到底、遭遇し得るとは思われない場所にも、汎世界的に同様の形状の人魚伝承が多数散在するからである。但し、私は最後の「日本書紀」に出るものは、場所と様態(子どもに似る)という点から見て、食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目鰭脚下目アシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicusか、アザラシ科 Phocidae のアザラシ類(可能性としては特異的に南下してしまったアザラシ科アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus(二〇〇八年八月に多摩川に出現した「タマちゃん」はこれ)、或いはゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha が考え得る)の可能性が高いと睨んではいる。なお、お薦めのものとして、九頭見和夫氏の論文『江戸時代の「人魚」像』(二篇が読める。孰れもPDF)をお示ししておく。

『「本草綱目」〔の〕「䱱魚」』後に出る「鯢」とともに、並んで「鱗之四」に以下のように出る。

   *

【音「啼」。「綱目」。】 校正時珍曰、『舊注見鮧魚今分出。』。

釋名人魚【弘景。】。孩兒魚。時珍曰、『䱱聲如孩兒。故有諸名作「鯷」「鮧」者並非。』。

集解弘景曰、『人魚荆州臨沮青溪多有之。似鯷而有四足、聲如小兒。其膏然之不消耗。秦始皇驪山塚中所用人膏是也。』。宗奭曰、『䱱魚形微似獺四足、腹重墜如囊。身微紫色、無鱗・與鮎鮠相類。甞剖視之、中有小蟹小魚小石數枚也。』。時珍曰、『孩兒魚有二種生江湖中。形色皆如鮎鮠。腹下翅形似足。其顋頰軋軋音如兒啼。卽䱱魚也。一種生溪澗中。形聲皆同。但能上樹。乃鯢魚也。「北山經」云、『决水多人魚。狀如鯷四足、音如小兒。食之無瘕疾。』。又云、『休水北注於洛中多䱱魚。狀如蟄蜼而長、距足白而對。食之無蠱疾、可以禦兵。』。按此二說前與陶合後與冦合。蓋一物也。今漁人網得以爲不利、卽驚異而棄之。蓋不知其可食如此也。徐鉉「稽神錄」云、『謝仲玉者見婦人出沒水中。腰已皆魚。乃人魚也。』。又「徂異記」云、『查道奉使高麗。見海沙中一婦人。腰已下後有紅鬛。問之曰、「人魚也」。』。此二者乃名同物異、非䱱鯢也。

氣味甘有毒。

主治食之療瘕疾【弘景。】。無蠱疾【時珍。】。

 

【音「倪」。「拾遺」。】

釋名人魚【「山海經」。】。魶魚【音「納」。】。鰨魚【音「塔」】。大者名鰕【音「霞」。】時珍曰、鯢、聲如小兒。故名卽䱱魚之能上樹者。俗云、鮎魚。上竿乃此也。與海中鯨同名異物。蜀人名魶。秦人名鰨。「爾雅」云、『大者曰鰕』。「異物志」云、『有魚之形以足行如鰕。故名鰕。』。陳藏器、以此爲鱯魚。欠攷矣。又云一名王鮪。誤矣。王鮪乃鱘魚也。

集解藏器曰、『鯢生山溪中。似鮎有四足長尾、能上樹。大旱則含水、上山以草葉覆身張口。鳥來飮水、因吸食之。聲如小兒啼。』。時珍按、郭璞云、『鯢魚似鮎四足前脚似猴。後脚似狗。聲如兒啼。大者長八九尺。』。「山海經」云、『決水有人魚、狀如䱱。食之已疫疾。』。「蜀志」云、『雅州西山峽谷出魶魚。似鮎有足、能緣木。聲如嬰兒。可食。』。「酉陽雜爼」云、『峽中人食鯢魚。縳樹上鞭、至白汁出如構汁、方可治食。不爾有毒也。

氣味甘、有毒。

主治食之已疫疾【「山海經」。】。

   *

私は人魚フリークであるので、今回は寛文九(一六六九)年板行の風月莊左衞門刊「本草綱目」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該開始ページ)の訓点参考に訓読を試みる。読みの一部を推定で歴史的仮名遣で丸括弧で附した。

   *

(ていぎよ)【音「啼」。「綱目」。】 校正時珍曰はく、『舊注、鮧魚に見たり。今、分ち出だす。』。

釋名人魚【弘景。】。孩兒魚(がいじぎよ)。時珍曰はく、『䱱、聲、孩兒のごとし。故に諸名有り。「鯷」「鮧」と作(な)す者、並びに非なり。』。

集解弘景曰はく、『人魚、荆州の臨沮(りんしよ)[やぶちゃん注:現在の荊州市内。完全な内陸。]の青溪に多く、之れ、有り。鯷(てい)に似て、四足有り、聲、小兒のごとし。其の膏(あぶら)は、之れを然(もや)して消耗せず。秦の始皇、驪山(りざん)の塚の中に用ふる所の「人膏(じんかう)」は是れなり。』と。宗奭(そうせき)曰はく、『䱱魚、形、微(わずか)に獺(かはうそ)に似て、四足、腹、重墜(ぢゆうつい)して囊(ふくろ)のごとし。身、微かに紫色。鱗、無くして、鮎(なまづ)・鮠(はや)と相ひ類(るゐ)す。甞つて剖(さ)きて之れを視るに、中に小蟹・小魚・小石數枚有り。』と。時珍曰はく、『孩兒魚、二種有り、江湖の中に生ず。形・色、皆、鮎・鮠のごとし。腹の下、翅(つばさ)の形して、足に似たり。其の顋(あぎと)・頰(ほほ)、軋軋(あつあつ)として[やぶちゃん注:軋(きし)むような感じで。]、音(こゑ)、兒の啼(なきごゑ)のごとし。卽ち、䱱魚なり。一種、溪澗の中に生ず。形・聲、皆、同じ。但し、能(よ)く樹に上る。乃(すなは)ち、鯢魚(げいぎよ)なり。「北山經」に云はく、『决水(けつすい)、人魚、多し。狀(かたち)、鯷のごとく、四足、音、小兒のごとし。之れを食ひて、瘕疾(かしつ)[やぶちゃん注:疾患発症。]、無し。』と。又、云はく、『休水、北のかた、洛に注ぐ中(うち)、䱱魚多し。狀、蟄蜼(ちつい)[やぶちゃん注:不明。単漢字を単純に接合すると「穴に潜った猿」の意。]のごとくにして長く、距足(きよそく)[やぶちゃん注:後肢か。]、白くして、對(たい)す。之れを食へば、蠱疾(こしつ)[やぶちゃん注:精神・神経系統の疾患。]無く、以つて兵[やぶちゃん注:兵器・凶器か。多分に呪術的効果と思われる。]を禦(ふせ)ぐ。』と。按ずるに、此の二說、前(さき)の陶[やぶちゃん注:陶弘景の見解。]と合し、後の冦[やぶちゃん注:冦宗奭のそれ。]と合す。蓋(けだ)し一物なり。今、漁人、網し、得て、以つて利あらずと爲(な)し、卽ち、驚異して之れを棄つ。蓋し知其の食ふべきことを知らず、此くのごときなることを。徐鉉が「稽神錄」に云はく、『謝仲玉といふ者、婦人、水中に出沒するを見る。腰、已下(いか)、皆、魚なり。乃ち人魚なり。』と。又「徂異記(そいき)」に云はく、『查道、高麗に奉使(ほうし)す。海沙の中、一婦人を見る。肘の後ろに紅き鬛(たてがみ)有り。之れに問ふに曰はく、「人魚なり」と。』と。此の二つに者、乃ち、名、同じく、物、異なり。䱱・鯢に非ざるなり』。

氣味甘、毒、有り。

主治之れを食ひて瘕疾を療ず【弘景。】。蠱疾、無し【時珍。】。

 

鯢魚(げいぎよ)【音「倪(げい)」。「拾遺」。】

釋名人魚【「山海經(せんがいきやう)」。】。魶魚【音「納」。】。鰨魚(たうぎよ)【音「塔」】。大なる者を鰕(か)と名づく【音「霞」。】。時珍曰はく、『鯢、聲、小兒のごとし。故に名づく。卽ち、䱱魚の能く樹に上る者なり。俗に云はく、「鮎魚、竿(さを)に上る」は、乃ち此れなり。海中の鯨と同名異物なり。蜀人(しよくひと)、「魶」と名づく。秦人(しんひと)、「鰨」と名づく。「爾雅」に云はく、『大なる者、「鰕」と曰(い)ふ』と。「異物志」に云はく、『有魚の形有りて足を以つて行くこと鰕(えび)のごとし。故に鰕と名ずく。』と。陳藏器、此れを以つて鱯魚と爲すは、攷(かんが)ふることを欠(か)く。又、云はく、一名、「王鮪(わうい)」と。誤れり。王鮪は乃ち鱘魚(てふざめ)[やぶちゃん注:チョウザメ。]なり。

集解藏器曰はく、『鯢、山溪の中に生ず。鮎に似て、四足有り、長き尾、能く樹に上る。大旱するときは、則ち、水を含み、山に上り、草葉を以つて身を覆ひ、口を張る。鳥、來つて水を飮むときは、因りて之れを吸ひ食ふ。聲、小兒の啼くがふごとし。』と。時珍、按ずるに、郭璞(かくはく)が云はく、『鯢魚、鮎に似て、四足、前脚(まへあし)、猴(さる)に似たり。後脚、狗に似たり。聲、兒の啼(なきごゑ)のごとし。大なる者の長さ、八、九尺。』と。「山海經」に云はく、『決水、人魚有り、狀、䱱のごとし。之れを食ひて、疫疾を已(や)む。』。「蜀志」に云はく、『雅州西山[やぶちゃん注:現在の四川省内。完全な内陸。]、峽谷に魶魚を出だす。鮎に似て、足有り、能く木に緣(よ)る。聲、嬰兒のごとし。食ふべし。』と。「酉陽雜爼(いうやうざつそ)」に云はく、『峽中の人、鯢魚を食ふ。樹上に縳(ばく)し、鞭(むちう)ちて、白汁、出でて、構汁(かうじふ)[やぶちゃん注:溝(どぶ)の泥汁、]のごとくなるに至りて、方(まさ)に治(めて)食ふべし。爾(しか)らざれば、毒有るなり。

氣味甘、毒、無し。

主治之れを食ひて疫疾を已む【「山海經」。】。

   *

益軒は「大和本草卷之十三 魚之上 魚/鯢魚(オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」を先行して書いており、それがここでは非常に幸いしている。以上は、かなり判り易い。そうして、残念乍ら、「䱱魚」も「鯢魚」も日本人には絶対に「人魚」モデル生物ではあり得ないことも、もう、お判りであろう。完全な海から離れた内陸の渓谷に棲息する、純淡水産の生物で、体が魚のようでありながら四足があり、体から白濁した体液を出す――そう、これは中国と日本にしか棲息しない、

両生綱有尾目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属の中華人民共和国東部固有種である、

チュウゴクオオサンショウウオ Andrias davidianus(近年、遺伝子解析により、一種と考えられていたものが五種いることが判ったと報道があった)

で間違いない。本邦産種は岐阜県以西の本州・四国・九州の一部に棲息する固有種

オオサンショウウオ Andrias japonicus

で別種である。但し、近畿地方の一部では人為的に移入されたチュウゴクオオサンショウウオとの競合と遺伝子汚染が生じており、懸念されている。

 なお、ここでは木に上るとあるが、彼らは湿潤であれば、時に陸を匍匐することがあるし(実写映像を見たことがある)、水に浸った木の枝ぐらいは登るから、全く問題ない。さても問題は「彼らは鳴くか?」であるが、少なくとも、本邦のオオサンショウウオは飼育している専門家も「鳴かない」と断言されており、少なくとも人間の可聴域で鳴くことはないようだ。しかし、チュウゴクオオサンショウウオ(中文名「中國大鯢」)の方は、別名を俗名を「娃娃魚」(wá wá yú:ゥーアゥーアユィー)と称し、これは捕まえた際に赤ん坊(娃娃)のような鳴き声を出すという俗説に基づくものである。但し、確かなものとして同種の鳴き声を録音したりしたデータや動画は見当たらなかった(代わりに食べるために油で揚げている無惨な中国人の動画を見てしまった)。しかしながら、一件だけ、サンショウウオ科サンショウウオ属ベッコウサンショウウオ Hynobius ikioi(阿蘇山系以南・霧島山系以北の鹿児島県北部・熊本県・宮崎県に棲息)が鳴くという記事があった(先のリンク先に示したが、現在は残念ながら、消失している。保存はしていないが、幸い、一部を引用しておいたので見られたい)。序でに言っておこうか、私は無論、オオサンショウウオを食べたことはない。しかし、食べたことがある人の話を聴いたことがある。石見出身の先輩の尊敬していた英語教師である。彼は小さな頃の捕獲と調理法を細かく、臨場感たっぷりに語って呉れた。茹でる時の強烈な臭いは山椒の域ではないこと、そうして、「ほんと! 美味かった!」という一言を。

『徐鉉が「諬神録」』五代十国から北宋代の政治家で学者の徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年)の伝奇小説集。「中國哲學書電子化計劃」で調べると、「第八卷補遺」に、

   *

謝仲宣泛舟西江、見一婦人沒波中、腰以下乃魚也。竟不知人化魚、魚化人。【曾慥「類說」。】。

   *

う~ん、人名が「王」、「玉」、「宣」、困りましたな。西江(せいこう)は中国南部(華南地区)を流れる。位置はウィキの「西江」で確認されたい。

「徂異記」宋の聶田(しょうでん)の書いた志怪小説的(題名から類推)随筆を明初の陶宗儀が編し、叢書検「説郛(せっぷ)」に収載、明末から清初にかけて公刊された。因みに、ウィキの「海人魚(かいにんぎょ)にはこれと他に三篇の中国版「人魚」の原文と訳が載る。

「査道」不詳。

『「日本記」二十二巻「推古帝二十七年」、『攝津國に漁父有り。罟(あみ)を掘江に沈む。物、有り。罟に入る。其の形、兒〔(こ)〕のごとく、魚に非ず、人に非ず。名づくる所を知らず』「日本書紀」推古天皇二七(六一九)年七月の条。

   *

秋七月。攝津國有漁父。沈罟於堀江。有物入罟。其形如兒。非魚非人。不知所名。

   *

とある。「罟」は音「コ」で漁獲や狩猟用の網の意。「堀江」は大坂城下の南西端。現在の大阪府大阪市西区の北堀江と南堀江付近(グーグル・マップ・データ)。陸地になったのが最も遅い低湿地で、戦国初期にはこの一帯は未だ海であったとされる。]

大和本草卷之十三 魚之下 きだこ (ウツボ〈重複〉)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

キダコ 長二三尺無鱗色ハ淡黑斑㸃アリ尾ニマタナシ

頭大ニ尾小ナリ下腮少長シ目小ニ乄ナキカ如シ身ハ

マルカラス長崎ニアリ或曰鱧ナラント云ハ非也本草ノ

鱧ノ形狀ト同カラス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

きだこ 長さ二、三尺。鱗、無し。色は淡黑、斑㸃あり。尾に、また、なし。頭〔(かしら)〕、大〔(だい)〕に、尾、小なり。下腮〔(したあご)〕、少し長し。目、小にして、なきがごとし。身は、まるからず。長崎にあり。或いは曰はく、「鱧〔(はも)〕」ならんと云ふは非なり、「本草」の「鱧」の形狀と同じからず。

[やぶちゃん注:「きだこ」とは条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科ウツボ属ウツボ Gymnothorax kidako の異名である(種小名を見るべし!)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のウツボのページによれば、「キダコ」の異名を神奈川県三崎・長崎県・熊本県天草地方とする。困るのは、既に「魚之下 ひだか (ウツボ)」と出ることである。

「鱧」条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus。「鱧」ではないというのは、正しいのだが、恐らく益軒は「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」での混乱を持ち越したままに、後を書いた結果として、このような重複生物の誤認を引き起こしたのではないかと考える。

『「本草」の「鱧」の形狀と同じからず』「本草綱目」の「鱧魚」前記リンク先で電子化して、考証してある。必ず参照されたい。そこで私は時珍の謂う「鱧魚」を巨大化するライギョ類(スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科 Channidae のライギョ(雷魚)類)に同定比定している。]

大和本草卷之十三 魚之下 つかや (メジナ)

 

【和品】

ツカヤ 若狹ノ大嶌ノ海ニアリ他處ニナシト云長三四

寸ヨリ一尺ニイタル鮒ニ似テ少セハシ鮒ノ類ニアラス

味ヨシ腥カラズ鮓トナシテ尤美ナリ無毒

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

つかや 若狹の大嶌の海にあり。他處〔(よそ)〕になしと云ふ。長さ三、四寸より一尺にたる。鮒〔(ふな)〕に似て、少しせばし。鮒の類〔(るゐ)〕にあらず。味、よし。腥〔(なまぐさ)〕からず。鮓〔(すし)〕となして尤も美なり。毒、無し。

[やぶちゃん注:「ふくいお魚図鑑」(福井県庁作成・PDF)によれば、「メジナ」のところに『本件ではグレ、ツカヤ、ツカエなど地域によって呼び名が異なります。漁獲量は少ないです。高浜町には、つかやめしと言われる郷土料理があるそうです』とある(しかし、実際にそれが如何なる調理法であるのか、「つかやめし 高浜町」で検索を掛けてみても見当たらない。不審である。高浜町はここ。グーグル・マップ・データ)。ともかくも、磯釣りでお馴染みのスズキ目スズキ亜目イスズミ科メジナ亜科メジナ属メジナ Girella punctata である。私も何度も釣ったし、好きな味だ(私は磯臭いのが好物である)。

「若狹の大嶌の海」福井県大飯郡おおい町大島を含む大島半島がある。高浜との関係から、この大島半島の西大島湾と東の小浜湾(国土地理院図)を指すと考えてよかろう。

「他處になし」不審。メジナは北海道南部から台湾までの沿岸域に広く分布する(琉球列島では稀)。この名が若狭でのみ使わられるからかとも考えたが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のメジナのページを見ると、「つかや」は京都府舞鶴市舞鶴魚市場以外にも、山陰北部や北陸での異名として載る。ただ、記す体長がメジナの標準値(最長六十センチメートル以上に達するが、よく獲れるのは四十センチメートルほどである)より小さいところをみると、メジナの幼魚や若魚を指していた異名であるのかも知れない。]

大和本草卷之十三 魚之下 海豚(いるか)

 

海豚 長一間ハカリ色クロク海鰌ノ如シ觜ハ鱵魚ノ

如ク上下トモニ長クトガレリ形マルシ皮アツク油多シ漁

人煎シテ油ヲトル形豚ノ如シヒレアリ足ニ似タリ尾ニ

岐アリ肉ハ赤クシテクジラノ赤肉ノ如シ肉ニハ油多カラ

ス味モクシラニ似タリ鱗ナシシヒヨリ形少チイサシ

毒ナシ本草ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

海豚(いるか) 長さ一間ばかり。色、くろく、海鰌(くじら)のごとし。觜〔(くちばし)〕は鱵魚(さより)のごとく、上下ともに長くとがれり。形、まるし。皮、あつく、油多し。漁人、煎〔(せん)〕じて油をとる。形、豚のごとし。ひれあり、足に似たり。尾に岐あり。肉は赤くして、くじらの赤肉のごとし。肉には油多からず。味もくじらに似たり。鱗なし。「しび」より、形、少しちいさし[やぶちゃん注:ママ。]。毒、なし。「本草」にあり。

[やぶちゃん注:分類学上は「イルカ」に相当する系統群は存在せず、一般的にハクジラ亜目 Odontoceti に属する生物種の中で比較的小型(基準体長が概ね四メートル以下か。但し、それ以下でも和名や認識がクジラである種もいる)の種を総称して「イルカ」と呼ぶことが多いが、その境界や定義については明確でなく、個人・地域によっても異なる。ハクジラ亜目の内、本邦で見られる「イルカ」は、

マイルカ科マイルカ亜科 Delphinae では、

 マイルカ属マイルカ Delphinus delphis

 ハンドウイルカ属ハンドウイルカ Tursiops truncates(一般の日本人の想起する「イルカ」は圧倒的に本種である)

 スジイルカ属マダライルカ Stenella attenuate

 スジイルカ属スジイルカ Stenella coeruleoalba

等を代表種とし、シワハイルカ亜科 Stenoninaeでは、

 シワハイルカ属シワハイルカ Steno bredanensis(一属一種)

セミイルカ亜科 Lissodelphinae では、

 セミイルカ属セミイルカ Lissodelphis borealis

 シロハラセミイルカ Lissodelphis peronii

 セミイルカ Lissodelphis borealis

 シロハラセミイルカ Lissodelphis peronii

 カマイルカ属カマイルカ Lagenorhynchus obliquidens

等が挙げられ、ネズミイルカ科 Phocoenidae では、

 ネズミイルカ属ネズミイルカ Phocoena phocoena

 スナメリ属スナメリ Neophocaena phocaenoides(本種は本書では「滑魚(なめり)」という独立項が既にそれにあたると私は考えている)

 イシイルカ属イシイルカ Phocoenoides dalli

で概ねカバー出来ると思われる。

「一間」約一メートル八十二センチメートル。

「しび」スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis前項参照。

『「本草」にあり』「本草綱目」の記載を中心に書かれた私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「いるか 海豚魚」を参照されたい。]

2020/08/19

大和本草卷之十三 魚之下 シビ (マグロ類)

 

シビ 日本ニ昔ヨリ鮪ノ字ヲシビトヨム鮪ハ鱘ノ別名ナリ

本草ニ時珍曰鱘其色靑碧腹下色白是ハシビニ似タ

リ又曰其鼻長与身等口在頷下肉色純白是皆

シビトカハレリシビノ口ハ頷下ニナシ今シヒト云魚ハ其形

鰹ノコトク略マルシ皮ノ色カシラ尾ノ形モ鰹ノ如シ有

鱗口トガレリ皮色淡白頭扁シ長一間バカリ肉赤シ

肥大ナリ、味ブリノ如シ毒アリ往〻人ヲ醉シム西州

ニハ五嶋平戶ニ多ク捕ル本草ニヲイテ別ニシヒノ如ナル

魚ミヱス但鮪ニ別種アリテ本邦ニアルシビモ鮪ナルカ

鱘魚牛魚鮠魚ナト本草ニ載タリシビモ此類ナルヘシ

○マグロ是シビノ小ナルヲ云フリノ子ヲハマチト云カ如シ

シビトマグロト非二物又マルタトモ云大ナルハ長三四尺ア

リ其最小ナルハメジカト云又鰹ニ似テ大ナリ肉赤

シ小毒アリ味アレトモ下品ナリ漁人ホシテカツヲトス

味堅魚ニヲトル爾雅注郭璞カ說ニ鮪大小ヲ分テ

三等トス本邦ノシビマグロ目ジカモ大小三等アリ然

ラハ王鮪ハシヒ叔鮪ハマグロ鮥子ハメジカナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

シビ 日本ニ昔ヨリ鮪ノ字ヲシビトヨム鮪ハ鱘ノ別名ナリ

本草ニ時珍曰鱘其色靑碧腹下色白是ハシビニ似タ

リ又曰其鼻長与身等口在頷下肉色純白是皆

シビトカハレリシビノ口ハ頷下ニナシ今シヒト云魚ハ其形

鰹ノコトク略マルシ皮ノ色カシラ尾ノ形モ鰹ノ如シ有

鱗口トガレリ皮色淡白頭扁シ長一間バカリ肉赤シ

肥大ナリ味ブリノ如シ毒アリ往〻人ヲ醉シム西州

ニハ五嶋平戶ニ多ク捕ル本草ニヲイテ別ニシヒノ如ナル

魚ミヱス但鮪ニ別種アリテ本邦ニアルシビモ鮪ナルカ

鱘魚牛魚鮠魚ナト本草ニ載タリシビモ此類ナルヘシ

○マグロ 是シビノ小ナルヲ云フリノ子ヲハマチト云カ如シ

シビトマグロト非二物又マルタトモ云大ナルハ長三四尺ア

リ其最小ナルハメジカト云又鰹ニ似テ大ナリ肉赤

シ小毒アリ味アレトモ下品ナリ漁人ホシテカツヲトス

味堅魚ニヲトル爾雅注郭璞カ說ニ鮪大小ヲ分テ

三等トス本邦ノシビマグロ目ジカモ大小三等アリ然

ラハ王鮪ハシヒ叔鮪ハマグロ鮥子ハメジカナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

しび 日本に、昔より、「鮪」の字を「しび」とよむ。「鮪」は「鱘」の別名なり。「本草」に時珍曰はく、『鱘、其の色、靑碧〔(あをみどり)〕、腹の下、色、白し』〔と〕。是れは「しび」に似たり。又、曰はく、『其の鼻、長くして身と等し。口、頷の下に在り。肉色、純白』〔と〕。是れ皆、「しび」と、かはれり。「しび」の口は頷の下になし。今、「しび」と云ふ魚は、其の形、鰹〔(かつを)〕のごとく、略〔(ほぼ)〕まるし。皮の色・かしら・尾の形も鰹のごとし。鱗、有り、口、とがれり。皮の色、淡白。頭〔(かしら)〕扁〔(ひらた)〕し。長さ一間ばかり。肉、赤し。肥大なり。味、「ぶり」のごとし。毒あり。往々、人を醉〔(ゑひ)〕しむ。西州には五嶋〔(ごたう)〕・平戶に多く捕る。「本草」にをいて[やぶちゃん注:ママ。]、別に「しび」のごとくなる魚、みゑず[やぶちゃん注:ママ。]。但し、鮪に別種ありて、本邦にある「しび」も鮪なるか。鱘魚・牛魚・鮠魚など、「本草」に載りたりし。「しび」も此の類〔(るゐ)〕なるべし。

○まぐろ 是れ、「しび」の小なるを云ふ。「ぶり」の子を「はまち」と云ふがごとし。「しび」と「まぐろ」と二物に非ず。又、「まるた」とも云ひ、大なるは、長さ三、四尺あり。其の最小なるは「めじか」と云ひ、又、鰹に似て、大なり。肉、赤し。小毒あり。味あれども下品なり。漁人、ほして「かつを〔ぶし〕」とす。味、堅魚〔(かつを)〕にをとる[やぶちゃん注:ママ。]。「爾雅」の注〔の〕郭璞が說に、『鮪、大小を分〔(わかち)〕て三等とす』〔と〕。本邦の「しび」・「まぐろ」・「目じか」も大小三等あり。然らば、「王鮪」は「しび」、「叔鮪」は「まぐろ」、「鮥子」は「めじか」なるべし。

[やぶちゃん注:結論から言えば、ここで益軒に言うのは、

「しび」=スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis

で、次いで「○まぐろ」として掲げられているものは、『「しび」の小なるを云ふ』から見ても、

「まぐろ」=マグロ属キハダ Thunnus albacares

で、そこで「其の最小なるは」とする、

「めじか」=マグロ属メバチ Thunnus obesus

と同定しておく。そうしないと、部分的に各個に見てゆくと、他の種も候補として挙げられて、収拾がつかなくなるからである。

『日本に、昔より、「鮪」の字を「しび」とよむ』「古事記」の顕宗天皇相当の部分の歌垣の中に(歌謡番号一〇九)「阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾」(遊び來(く)る しびが端手(はたで)に:ぶらぶらと泳いでやってくる「しび」の傍らに)と出る。但し、これは志毘臣(しびのおみ)という名に掛けたちゃらかしであって実際の魚が詠まれたり、描かれてたりしているわけではない。「日本書紀」のそれも同じで、「古事記」の伝承譚のメイン部分を小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと=武烈天皇)と平群鮪(へぐりのしび:皇臣であったが増長して自ら王となろうとした平真鳥(へぐりのまとり)の子)の影媛(かげひめ:物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘)の対決シーンに同じように出る。ただ、そこでは「鮪」の漢字が使用されており、「しび」と読ませている。「日本書紀」ではこの人物の他に、天智天皇が新羅へ送った使者の名や、推古天皇の女官の名の一部に「鮪(しび)」の字が見られる。「万葉集」では第六巻の山部赤人の一首(短歌三首附属。長歌のみ示す)の九三八番に、

   山部宿禰赤人の作れる歌一首幷せて短歌

やすみしし わご大君(おほきみ))の 神(かむ)ながら 高知ろしめす 印南野(いなみの)の 大海(おほみ)の原の 荒栲(あらたへ)の 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人舟(あまふね)散-動(さわ)き 鹽燒くと 人そ多(さは)にある 浦をよみ 諾(うべ)も釣(つり)はす 濱を良(よ)み 諾も鹽燒く あり通(がよ)ひ 見ますもしるし 淸き白濱

と出る。「印南野」は現在の須磨の浦一帯、「藤井の浦」現在の明石の浦辺。原文表記も「鮪」(次も同じ)。今一つあり、第十九巻の大伴家持の天平勝宝二(七五〇)年五月の一首(四二一八番)で、

   漁夫(あま)の火光(ともしび)を
   見たる歌一首

 鮪(しび)突くと

   海人(あま)の燭(とも)せる

  漁火(いざりび)の

    秀(ほ)にか出でなむ

       我が下思(したも)ひを

『「鮪」は「鱘」の別名なり』として、以下、益軒は「本草綱目」の叙述のマグロに似ている箇所と、全然、似ていない箇所を示しつつ、最後には本邦のマグロは別種のマグロ類としているわけだが、この益軒の引用をマグロの姿を抹消し、淡水にも海水にもいる異同部を繋げて想起してみて貰いたい。而して「本草綱目」「鱗之四」の「鱘魚」の釈名と集解を引こう。

   *

鱘魚【「拾遺」。】

釋名鱏魚【「尋」・「淫」、二音。】。鮪魚【音「洧」。】。王鮪【「爾雅」。】。碧魚、時珍曰、『此魚延長。故從「尋」從「覃」。皆延長之義。』。「月令」云、『季春、天子薦鮪於寢廟。故有「王鮪」之稱。』。郭璞云、『大者名王鮪、小者名叔鮪、更小者名鮥子。音洛。』。李奇「漢書」注云、『周洛曰鮪、蜀曰䱴䲛。』。音「亘懵毛詩疏義」云、『遼東登萊人、名尉魚。言樂浪尉仲明溺海死。化爲此魚。蓋尉亦鮪字之訛耳。』。「飲膳正要」云、『今遼人、名乞里麻魚。』。

集解藏器曰、『鱘生江中。背如龍長一二丈。』。時珍曰、『出江淮黄河遼海深水處亦。鱣屬也。岫居。長者丈餘。至春始出而浮陽見日則目眩。其狀如鱣而背上無甲其色青碧、腹下色白。其鼻長與身等。口在頷下。食而不飲。頰下有靑斑紋、如梅花狀。尾岐如丙。肉色純白。味亞於鱣。鬐骨不脆。羅願云、『鱘狀如鬵鼎上大下小。大頭哆口似銕兠鍪。其鰾亦可作膠如鱘鮧也。亦能化龍。』。

   *

特徴をよく読み取って欲しいのだ。「龍」のようなのだ。「龍になる」とさえ最後には言っているのだ。頰の下に青い特徴的な斑紋があるのだ。それは梅の花のような形をしているのだ。「鬐骨」(キコツ:鬣の骨。背鰭とその背骨の部分)は非常に硬いのだ。六メートルもあるのだ(ここは誇張ととらないで欲しい)。しかも、海は最後で、まずは「江・淮・黄河」と大きな淡水河川を出現場所としているのだ。流石に、もう、お判りだろう。当時の日本人は知らなかった(アイヌの人々は知っていた。北海道にも当時はいたから)、この「鱘魚」とは、

「鱘」=条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科 Acipenseridae

のことで、マグロとは何の関係もないのである。現代中国語でも「鱘」はチョウザメなのだ。幸い、現在は「鱘」を「まぐろ」と読むことはまずなくなった。この誤認は寺島良安にも見られ、「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」でも、「かぢをとし 鱘」を項として掲げ(その直後に「しび はつ 鮪」の項を配している)、飛び上がった頬に少女漫画の瞳の中の☆☆が流れ落ちたような紋様までご丁寧に描き込んだ挿絵を添えてている。これは日本人が見たらまず、百人中、九十九人が、鋭い口吻を持った『「かじきまぐろ」でしょ?』と言うはずだ。私も当初は海産のスズキ目メカジキ科 Xiphiidae 及びマカジキ科 Istiophoridae の二科に属する魚(カジキマグロとは通称で正式和名ではない)の絵であるだろうと勝手に思い込んでいたから。良安も結局、「本草綱目」を無批判に挙げ、結果、それに同定しているように読めるのだ。しかし! 違う! このカジキのようなそれは、チョウザメ中の異形種である、

チョウザメ目ヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメ属ハシナガチョウザメ(古くはシナヘラチョウザメと呼称)Psephurus gladius

なのであった。これを同定して教えて下さった方は、「釜石キャビア株式会社」というチョウザメの日本での養殖を行っておられたところでチョウザメに係わるお仕事に従事しておられた方で、同種を描いた中国切手も送って下さった。前のリンク先とともに、二〇〇八年六月八日の私のブログ記事「チョウザメのこと」を是非、読まれたい。しかし、その後の東日本大震災で施設が流され、事業の再開はならなかったようである。悲しい。

「五嶋」五島列島。

「牛魚」違いますね、益軒先生。「本草綱目」のこれはまず、哺乳綱ジュゴン(海牛)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon ですよ。

「鮠魚」これも違います。限定は出来ませんが、時珍は明らかに淡水産のハヤ類(散々注したのでもうしない)やナマズ類を指しており、マグロとは何の関係もありんせんヨ。

「まぐろ」は『是れ、「しび」の小なるを云ふ。「ぶり」の子を「はまち」と云ふがごとし。「しび」と「まぐろ」と二物に非ず。又、「まるた」とも云ひ、大なるは、長さ三、四尺あり。其の最小なるは「めじか」と云ひ、又、鰹に似て、大なり』結果して私は異種と断じたわけだが、当時の漁民がそうした出世魚的な観点から、複数のマグロ類を捉えていた可能性を示唆するものとして興味深い。

「小毒あり」ありません。あるとすれば、強力な痛みを引き起こす帰省中のアニサキス(線形動物門双腺綱回虫目回虫上科アニサキス科アニサキス亜科アニサキス属 Anisaki)ですね(私はやられたことがあるので大いに語れる)。

「かつを〔ぶし〕」鮪節は実際に製造され、現在も売られている。

『「爾雅」の注〔の〕郭璞が說に、『鮪、大小を分〔(わかち)〕て三等とす』〔と〕。本邦の「しび」・「まぐろ」・「目じか」も大小三等あり。然らば、「王鮪」は「しび」、「叔鮪」は「まぐろ」、「鮥子」は「めじか」なるべし』対象魚がチョウザメという違いはあれど、益軒先生が腑に落ちたお気持ちは察しまする。]

萬世百物語卷之四 十六、海中の捨舟 / 萬世百物語卷之四~了

 

   十六、海中の捨舟

 あだし夢、永祿年中、毛利・大友の鬪爭を和睦せしめんと、將軍家義輝公の仰せにより、安藝へは聖護院(しやうごゐん)の法親王、豐後へは久我の左大臣殿下らせ給ふ。

[やぶちゃん注:「永祿年中」一五五八年~一五七〇年。但し、永禄八年五月十九日(一五六五年六月十七日)に三好義継や三好三人衆及び松永久通たちが共謀して二条城を襲撃、室町幕府第十三代将軍足利義輝を殺害(「永禄の変」)しているから、そこまでの間となり、具体的には永禄六(一五六三)年である。後注参照。

「毛利・大友の鬪爭」一五五〇年代から大友氏と毛利氏は豊前・筑前の二ヶ国を巡って、度々、戦いを繰り返していた。特に知られるのは「門司城の戦い」で、永禄元年から永禄五年までに豊前国門司城を巡って行われた、大友宗麟(義鎮:よししげ)と毛利元就との数度の合戦で、永禄四(一五六一)年の戦闘が最も有名。

「聖護院の法親王」聖護院道増法親王(永正五(一五〇八)年~元亀二(一五七一)年)生まれ。近衛尚通(ひさみち)の子で、天台宗聖護院門跡。園城寺(おんじょうじ)長吏や熊野三山検校(けんぎょう)などを務めた。義輝の依頼を受け、永禄四年に毛利元就と尼子義久との、永禄六年、元就と大友宗麟との紛争の調停に当たっている。和歌・連歌に精通した。彼が親王を名乗るのは、父尚通が太政大臣となり、後の永正一六(一五一九)年に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者)となったからであろう。

「久我の左大臣殿」久我通堅(こがみちかた 天文一〇(一五四一)年~天正三(一五七五)年)と思われるが(ウィキの「門司城の戦い」に、『足利義輝は大友家に久我通堅と聖護院道増と大館晴光を通じて』、『代々』『将軍家陪臣出身の戸次氏・鑑連に対して御内書を下していて、鑑連が宗麟に対して意見を具申すべき極めて枢要な立場であった。この仲介により、一度』、『大友氏と毛利氏の間で休戦が』暫く『続いた』とある)、彼は正二位(左大臣にはなれる)・権大納言で左大臣にはなっていない(後に勅勘を被り、永禄八(一五六五)年)には従二位に落とされ、次いで永禄十一には解官されている)。]

 

 おほくのうなばらを過(すぎ)て、すでに府内(ふない)近くならんとせし時、とまりをおなじうせる船あり。大臣のめされたる御船(みふね)ちかう見へける。さすがに人乘(のる)とも見へず、何の音もなし。

[やぶちゃん注:「府内」大分県大分市中心部の明治初期までの旧称。府内は豊後国の国府であり、江戸時代には府内藩の藩庁府内城が置かれた城下町であった。

「さすがに」そうは言っても。]

 

 かくしてあくる日も、ならべ、こぐ。

 その夜は、風、あしうして、府内まで入(いり)がたければ、荻原(をぎはら)といふ所に御船をかけける。かの船もまた、同じく、磯ちかく、よす。

[やぶちゃん注:「荻原」不詳。これは「荻原」の誤りで、現在の大分県大分市萩原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)ではないかと思われる。現在は内陸であるが、近代の古い地図を見ると、海側は二つの河川の河口で島もあり、複数の新しいものと思われる岸壁で囲われた田になっていて(スタンフォード大学の明治三六(一九〇三)年測図・昭和一七(一九四二)年修正・陸地測量部參謀本部作成の「大分」)、江戸時代以前は、河口の砂州が出来る以前、もっと海が大きく貫入していた可能性があり、大型の船が繋留出来る場所があったとしてもおかしくない気がするのである。]

 

「あやし。」

と御覽じて、はし船(ぶね)おろさせ、人してみせ給ふに、内には、のれる人もなく、船のともに、多く、血のつきたるあと、のみ、みへて、外には、たゞ絲(いと)、一すじ、二、三尺ばかりもあるべきに、文(ふみ)やうのもの、つけてありける。

 とりよせて見給へば、同國鶴崎といふ所より、中津といふまで、船、やとうて、荷物つみたる「おくり」といふものなり。

 殿、あやしませ給ひ、すなはち、守護に、

「かく。」

と御物語あれば、かの所にせんぎあり、船頭を尋ね出し、そのやう、たゞさるゝに、あき人をば、ころして、荷物をとり、人のうたがはん事をおそれ、舟をば、すてけるなり。まがふすじなければ、船頭はおきてになりたるとなん。

 冤罪のくちおしさを大臣に訴へけん、靈の程こそ、おそろしけれ。

[やぶちゃん注:「はし船」艀舟(はしけぶね)。艀。本船に対する端船(はせん)で、大型船に積み込んでおき、人馬・貨物の積み下ろしや陸岸との連絡用に用いる小型の舟。

「船のとも」「船の艫」。船の舵取りををする後部。船尾。

「絲、一すじ」(ママ)「二、三尺ばかりもあるべきに、文(ふみ)やうのもの、つけてありける」「文」は手紙。ただ、ちょっと説明が不十分で大事なそのシチュエーションの映像を想起し難い。どこにその糸が結び付けられてあり、その先に結ばれた手紙(書置き)は、船体のどこにあったのかが、全く、判らぬ。これは作者の大きな瑕疵と言える。

「鶴崎」大分県大分市大字鶴崎(つるさき)。萩原の東四キロほどの位置。

「中津」大分県中津市。北の国東(くにさき)半島を回り込んだ周防灘の南岸。

「やとう」ママ。「雇ふ」。

「おくり」「送り」で「送り狀」のことと採る。

「守護」鶴崎は豊後、中津は豊前であるが、孰れも当時の守護は大友宗麟であるから、問題ない。

「せんぎ」「詮議」。

「そのやうたゞさるゝに」「その樣、糺(ただ)さるるに」。

「あき人」「商人」で「あきんど」と読んでおきたい。

「まがふすじ」ママ。「違(まが)ふ筋(すぢ)」。

「おきてになりたる」「掟」処罰された。

「冤罪のくちおしさを大臣に訴へけん、靈の程こそ、おそろしけれ」と、ここが怪談のキモなればこそ、やはり、糸に繋がった送り状の描写の致命的な不全が甚だ痛い。]

萬世百物語卷之四 十五、疫神の便船

 

   十五、疫神の便船 

Ekisinbinsen

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成し、上下左右の罫を消去し、出来る限り、清拭してみた。舟中の苫(とま:菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもので、舟や小さな小屋を覆って雨露を凌ぐのに用いる)の中をよく御覧(ごろう)じろ。確かに奴(きゃつ)らが見える。実は、本「萬世百物語」では今まで、怪異出来のシークエンスを描いたものが、実はない。絵師が怪奇画を嫌ったせいかも知れぬが、これはその中でも特異点と言えるのである(但し、それでもその部分が小さくてショボいが)。]

 

 あだし夢、天正八年、天下に疫病(えやみ)はやりて、おほくの人損じけるころ、瀨田のわたりに、ある時、大津の方より都のものとみゆる、わかき女の、いやしからぬが、ひとり出來て、日も未(ひつじ)の刻ばかりにおよべるに、わたしぶね、やとひて、うち乘(のり)ぬ。

 おりふし、

「むかふかぜなれど、比良(ひら)の根(ね)おろしならねば、あなたの方へはあやうからず。」

と出(いだ)せど、船は、えはやうもすゝまず、浪にゆられて、おそかりけり。

 舟のつく程、そこらの苫かづきて、うち入るゝ浪をふせぎ、女は、ふしたり。

 あまり、ね入りごちて、いびきはすれど、とまの下にものありともみへねば、あやしみて、そと、苫をのぞきて見るに、多くのへび、かさなりあひて、いたり。

 すべて、かぞへば、千ばかりもやあるらんと見ゆ。

 船頭、大きにおどろき、ひたいに汗かき、せなかはそゞろにさむく、おそろしさ、いはんかたなし。

 やうやう、きしもちかうなるまゝに、こゑして、船ばたをおどろかすに、目さめて、おきあがるをみれば、さきの女なり。

 舟のちんをやれど、中々、いなみて、とるびやうもなし。

 女、ほゝゑみて

「いかに。」

と、とヘば、かへすべきやうなく、

「しかじか。」

と、かたりて、身ぶるひす。

 女、おかしがり、

「扨ては、みたるや。かならず、人にかたるべからず。あなかしこ、我は蛇疫(じやえき)の神なり。我、いま、都より草津の里に入る。一ケ月ばかりにて歸るべし。」

とて、竹のしげみに入りける。

 それよりは跡もみへず。

 その夏、草津の一むら、のこらず、疫(え)やみし、七百にあまれる人、死したり。

 その春より夏の頃までは、京にはやつて多く死しけるが、それより、都は、事なくぞなりける。

[やぶちゃん注:「天正八年」一五八〇年。

「疫病」死亡率が有意に高いことから、一つ候補として挙げてよいのは天然痘(疱瘡)であろう。こちらの医学史を専門とする慶應義塾大学経済学部教授鈴木晃仁氏の言によれば、戦国時代には五年に一度のペースで大流行が発生しているとある。或いは麻疹(はしか)を挙げてもよい。こちらは流行が頻繁で、実際の死亡率が本邦では天然痘よりも高かった。

「瀨田のわたり」「大津」「草津」位置関係が判らぬ方はこちら(グーグル・マップ・データ)を見られたい。瀬田の唐橋は古くからあり、天正八年当時は織田信長の架けた本格的なものがあったが、或いは、疫(えやみ)の蛇神は何らかの理由があってこの橋を渡るのを嫌ったものであろう。一つ考えられるのは、俵藤太秀郷の百足退治伝説で知られる瀬田の橋姫こと大神霊龍王の存在である。知られた伝説では唐橋の上で大蛇に変じた龍女に百足退治を依願され、見事打ち果して、龍宮へ招かれている。されば、唐橋は龍女の結界内であり、鬼神のおぞましい疫病の蛇神は通れぬと考えられるからである。

「未の刻」午後二時前後。

「比良の根おろし」滋賀県の比良山地東麓に吹く局地風である比良颪(ひらおろし)。丹波高地から琵琶湖に向かって、比良山地南東側の急斜面を駆け降りるように吹く強い北西風。

「あやうからず」ママ。「危ふからず」。

「舟のつく程」「船」と「舟」の混在はママ。舟が対岸へ近づいた頃。

そこらの苫(とま)かづきて、うち入るゝ浪をふせぎ、女は、ふしたり。

「ね入りごちて」すっかり寝入って。「ごつ」は接尾語で四段型活用をし、当該の何らかの動作や物事を成すの意。

「いびき」「鼾」。

「とまの下にものありともみへねば」妙に平板で人型の膨らみには見えぬのである。

「そと」そっと。

「こゑして」船頭が恐ろしながらも、岸に着くので声をかけたのである。

「船ばたをおどろかすに」「船ばた」の物の怪「を驚かす」(目を覚まさせ)たところ。

「舟のちん」「舟の賃」。

「中々」呼応の副詞。到底(~ない)。ここは受けるべき打消を「いなみて」が受けている。

「とるびやうもなし」ママ。「取るべうもなし」。「取るべくもなし」のウ音便。受け取ることも出来ないでいる。

「おかしがり」ママ。

「あなかしこ」変わった用法である。連語で感動詞「あな」に形容詞「かしこし」の語幹がついたものであるが、しっくりくる辞書的な訳としては、渡し賃を出したのに受け取らぬから、「あら、もったいない!」の意ともとれるが、ピンとこない。特異的に「かならず、人にかたるべからず」という前言に掛かると考えて、「決して、ゆめゆめ」という禁止のダメ押しのニュアンスの方が自然である。しかも、この厳禁の強制的誓約は同時に、それを守れば船頭を疫病には罹患させないという舟渡し賃代わりの報酬として含まれていることは言うまでもない。

「蛇疫の神」見知らぬ鬼神名である。要は疫病(流行り病)の恐ろしい猖獗を一面では忌み嫌われる蛇を以ってその恐ろしさをシンボライズし、実体もそれに置換したものであろう。]

2020/08/18

萬世百物語卷之四 十四、穗井田が仙術

 

   十四、穗井田が仙術

Sennin

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成し、上下左右の罫を消去し、出来る限り、清拭してみた。穂井田の父が壁書する様子が描かれ、起句の頭「夢裡人间」までが記されてある。背後に少年の孫。]

 

 あだし夢、文祿のころ、備中の國猿懸(さるかけ)に、穗井田(ほゐだ)何がしといふありけり。もとは尼子(あまこ)が家にかたうどして、代々此所の國人(くにうど)なりしが、尼子も、いつしか毛利がために、ほろぼされ、殘黨もちりぢりになるゆへ、先祖、民間に下(くだ)れど、本國なれば此所に住しぬ。鄕人(ごうじん)ども、たつとび、主人のごとく、うやまふゆへ、田畝(でんぽ)もおほく、家ゆたかなる暇(いとま)にまかせ、つねは、たゞ寺院に出入(でいり)、學徒にひとしく、雪をあつむる窻(まど)にならひて、殘螢(ざんけい)の囊(ふくろ)をかゝげ、文章の筋(すぢ)をこのみける。

[やぶちゃん注:「文祿」一五九三年から一五九六年。豊臣政権下。

「備中の國猿懸」備中猿懸城のあった地(グーグル・マップ・データ)。猿掛城とも書き、現在の岡山県倉敷市真備町(まびちょう)妹(せ)と小田郡矢掛町(やがけちょう)横谷(よこだに)の境に存在した山城である。ウィキの「猿掛城」によれば(太字下線は私が附した)、『現在の倉敷市から矢掛町にまたがる標高』二四三『メートルの猿掛山に存在した連郭式の山城で』、『その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長』(しょうのいえなが)『が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられている。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった』。『南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えた』。『戦国時代中期の』天文二(一五三三)年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし』、『備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入った』。天文二二(一五五三)年、『尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首』(かくしゅ)『城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び』、『猿掛城を攻略した。為資と家親は家親の長男の元祐』(もとすけ)『を穂田実近の養子とし』、『猿掛城主に据えることで和睦した』。永禄一一(一五六八)年、為資の子『庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時』、『猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし』、『猿掛城を奪取する。この年、毛利氏の援軍により』、『家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり』、『備中に覇を唱えた』。天正二(一五七四)年、『元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり』、『猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった』。天正三(一五七五)年五月、松山城は陥落、『備中兵乱は終結、元親は自刃した。この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に』五『千貫の知行地を与えられた。元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。また、この際に元清は在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字とした』。天正一〇(一五八二)年には『羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣となった』。翌年、『元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移』り、『猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた』。慶長五(一六〇〇)年、毛利輝元が「関ヶ原の戦い」に於いて『西軍総大将として敗将となったため』、防・長二国に『大幅に減封され』、『城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となった』とある。されば、この主人公はもともと猿懸(掛)城のあった穂田郷を生地・本拠地とした前者荘氏に直系の流れを汲む者と読まねばなるまい。されば、そのルーツは庄氏ということになる。その辺りは引用に疲れたによって、ウィキの「庄氏」を読まれたい。或いは本話のモデルとなった実在の人物が特定出来るのかも知れぬが、私には判らぬ。ただ、上記ウィキには終わりの方に、『庄勝資は』『宇喜多氏との一連の対峙において落命したようで、庄氏は歴史の表舞台から去ったのである。庄氏は、武士の興隆期に分国の守護代として、また管領家の内衆(重臣)として威を示した。しかし細川氏の衰退後は、これに代わる権力の裏付けと言う点で確立が遅れ、同じ国衆である三村氏に権勢を奪われている。庄氏は、戦国時代の備中に守護家を凌ぐ威を張りながら、最終的には守護家と同様に戦国大名へとは変貌できなかったのである。この点では、隣国浦上氏にも類似した行動様式(守護赤松氏と並立し、国衆を束ねる立場を取る)があり、やはり長年にわたって培われた「家格」とでも称する感覚(権力の支持者であったが故に、完全にはそれを否定できない)が作用した可能性もある』とある。その線上にこの主人公は陽炎のように消えてゆくのかも知れない、などと思ったが――とんだ、見当違いであった――最後の注を読まれたい。

「尼子」宇多源氏。佐々木氏の一族。出雲・隠岐の守護京極高秀の子高久が近江国犬上郡尼子荘を領して尼子氏を称した。その子持久が出雲守護代となり、代々、月山 (がっさん) 城主となり、持久の子清定、さらに経久(つねひさ)の時、勢力が伸張し、山陰を支配した。永禄九(一五六六)年、義久が毛利氏に敗れた後、支族であった勝久が織田信長と結んで再興策を企て、天正五(一五七七)年、秀吉の播磨上月城攻略後、ここに拠ったが、翌年、毛利軍の攻囲を受けて落城、自殺して尼子一族は滅亡した。戦国史のファンにはたまらなく面白いところであろうが、冥い私には専ら、上田秋成の「雨月物語」中の名篇「菊花の約(ちぎり)」を想起するばかりである。

「かたうど」「方人」。味方に組すること。]

 

 うちつゞいて、みだるゝ世の中、いつまたおさまるべきともなく、おや、うたるれば、子、また、うらみ、きのふまで二心(ふたごころ)なき味方とみるも、けふはいつしか、ほねをきざむ怨敵となる。かしこにて功をあらはし、鬼神(おにがみ)ときゝし士(さぶらひ)も、こゝにては終(つひ)にかばねを郊原(こうげん)の雨露(うろ)にさらす。すべて、名をこのみ、利をあらそふ人間の慾心とや、いはん。武士の道は、おのが心の修羅よりおこるまどひなれば、よしや、かくてもあらめと、民とても、また、安からず。戰場にかりたてられ、或(あるい)は、かり田・亂妨(らんばう)・とりものとて、一日(いちじつ)もやすき隙(ひま)なく、いとおしき妻子にわかるゝのみか、一身だに、やすく立ちがたき世のさま、すべてあさましき人界とや、さとりけん、同國長田山の深谷にこもりて、仙の跡、したひけり。

[やぶちゃん注:「鬼神(おにがみ)」「江戸文庫」版のルビを採用した。

「かくてもあらめと、」私はここは「かくてもあらめど、」と、あるべきところではないかと疑っている。但し、「江戸文庫」も『と』ではある。

「かり田」実った稲を勝手に刈り取って奪取すること。

「亂妨」乱暴狼藉。

「とりもの」物品や家畜及び婦女の略奪。

「長田山」岡山県真庭(まにわ)市樫東(かしひがし)にある。五八三・九メートルの長田山(ながたやま)か(国土地理院図)。]

 

 此長田山といへるは、「千載集」に爲政の卿、

 千とせのみおなじ琴をぞしらぶなる

      長田の山のみねのまつかぜ

と、よまれたる所なりけるが、世のうきよりは、住みよかるべき事ざまとや、おもひけん、その後(のち)、子どもにも、かくと、しらせず、行衞なしに、うせにけり。

[やぶちゃん注:「千載和歌集」の「巻第十 賀歌」の一首であるが、この和歌の引用には誤りがある

   *

   後一条院の御時、長和五年大嘗會
   主基方(すきかた)御屛風に、備
   中國長田山の麓に琴彈き遊びした
   る所をよめる

                     善滋爲政

 千世(ちよ)とのみ同じことをぞしらぶなる

    長田(ながた)の山の峰の松風

   *

が正しい。長和五(一〇一六)年年十一月十五日の大嘗会(だいじょうえ:即位後最初に行う新嘗祭)。「主基方」は大嘗会に於いて「悠紀國(ゆきのくに)」「斎 () 酒 () 」で「神聖な酒」の意。それを奉る地を指し、京の東方の国と定められていた)に次いで新穀を奉る京よりも西方の国に設けられた斎場のことで、平安時代以降は備中と丹波が交替に務めた。上句は「『千年までも』(チョンチョンというオノマトペイアか)と同じ事を何度も琴で演奏するのが聴こえる」で「こと」が「事」と「琴」に掛けられている。作者「善滋爲政」これで「かものためまさ」と読むようである。岩波新古典文学大系の人名索引によれば、生年未詳で、一条院(寛弘八(一〇一一)年没)・後一条院(長元九(一〇三六)年没)期の人物とするから、藤原道長の全盛期とほぼ一致する。姓は「慶滋」とも。能登守保明の子で、小野宮実資の家司にして従四位上に至り、漢詩をよくし、「本朝文粋」や「本朝麗藻」などにその作が見えるとあるのみである。ネットでは文章博士で賀茂氏とする。]

 

 終に存亡をもしらず、孝行の一子、父の名殘をおしみて、形を畫像にかゝせ、まことの親につかうまつるごとく、朝夕に保養(ほやう)する事、すでに三十年にあまりける。

[やぶちゃん注:「おしみて」ママ。

「保養」「江戸文庫」版では『ほうよう』(ママ)とルビする。孝養を続けるの意。]

 

 ある日、一子がるすに、何がし、たちまち歸り來て、客殿の上に座し、もとありし家人の名をよべど、それも今はなきものとなりて、しれるものなし。孫なる十二、三なるが、

「たそ。」

とて、出づるに、硯(すずり)筆(ふで)乞(こふ)て、かたはらの壁に書(かき)とゞめ、筆をすて、また、いづ地(ち)ともなくうせぬ。

 子なる男、歸りてみれば、

 夢裡人間歲月多

 歸來往時已消磨

 惟有門前鑑池水

 春風不改舊時波

といふ詩をぞ書きたりける。

「そのかたち、いかなりしぞ。」

と、とふに、

「おさな心に見覺えて、不思議にも影堂(えいだう)の人によく似たり。」

と、いふにぞ、

「扨は。仙道などいふ事をも學ばるゝや。」

と、いまさら、悲歎の淚をながしける。

 今そのすゑ、穗井田八郞左衞門とて、近江の志賀に居をしめ、畫像も、なを、家につたふ、と、きく。

[やぶちゃん注:漢詩は、底本では二段組で返り点が打たれてあるが、ずれて見苦しくなるので除去し、一段で示した。「江戸文庫」版(完全ひらがなルビ添え)を参考に書き下してみる。

   *

 夢裡(むり)の人間(じんかん) 歲月 多し

 歸り來たれば 往時(わうじ) 已に消磨(しやうま)す

 惟(た)だ 門前 鑑池(かんち)の水(みづ)有りて

 春風 改めず 舊時の波(なみ)

   *

「人間」は「江戸文庫」版は『にんげん』であるが、採らない。「鑑池」は澄んだ鏡のような池であろう。但し、「前鑑」には「鑑」を「かんがみる」と訓じて、「先人の残した手本」或いは「前人の経験したことを想起して自らを戒めること」の意があり、それを効かせてあるように思われる。というより、この漢詩は彼の作ではなく、しかもこの後半のシチュエーション全体が、中国の隠者の伝承の中のシークエンスそのままなのである。例えば、知られたものでは、北宋の蘇軾の「東坡志林」の「巻二」の「異事上」の「黃僕射」がそれである。

   *

 虔州布衣賴仙芝言、連州有黃損僕射者、五代時人。僕射蓋仕南漢官也、未老退歸、一日忽遁去、莫知其存亡。子孫畫像事之、凡三十二年。復歸、坐阼階上、呼家人。其子適不在、孫出見之。索筆書壁云、

 一別人間歲月多

 歸來人事已消磨

 惟有門前鑑池水

 春風不改舊時波

投筆竟去、不可留。子歸、問其狀貌、孫云、

「甚似影堂老人也。」

連人相傳如此。其後頗有祿仕者。

   *

インスパイアどころか、そのまんまで、見つけた時は、ちょっと鼻白んだ。

「影堂」先の子が父の画像を描かさせ、それを祀った御影堂の意。

「仙道などいふ事をも學ばるゝや」子が、自分が若き日の記憶に基づいて描かせた画像と変わらない(年をとっていない)ことから、かく述懐したものである。

「穗井田八郞左衞門」不詳。]

譚海 卷之三 小倉殿の事

 

小倉殿の事

○近世小倉殿と聞えしは、詩文章に名ある御方(おんかた)にて、南郭文集はじめ、諸人の集に往々贈答の事見えたり。此相公ばかりは、昔繪にある如く頰つらに髭を長く生(はやし)て、束帶の體(てい)など異形に見えられけるとぞ。

[やぶちゃん注:「小倉殿」羽林家の家格を有する公家小倉家。藤原北家閑院流。西園寺家一門の洞院家庶流。家業は神楽。江戸時代の家禄は百五十石。鎌倉時代に従一位・左大臣であった洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年:太政大臣・西園寺公経の子)の二男権中納言公雄(きんお 生没年未詳。出家したのは文永九(一二七二)年)が創設した。

「南郭文集」「南郭先生文集」享保一二(一七二七)から宝暦八(一七五八)年にかけて刊行された、江戸中期の儒者で漢詩人の服部南郭の撰になる漢詩文集。四編・四十巻・二十四冊。服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)は京都生まれ。江戸で柳沢吉保に歌人として仕え、荻生徂徠に学んだ。吉保没後は私塾を開いて、「経世論の太宰春台」に対して、「詩文の南郭」として徂徠門下の双璧と称された。享保九年には「唐詩選」を校訂して出版し、唐詩流行の端緒を作った。]

甲子夜話卷之六 17 武州への天子來り玉ふこと有る考

 

6-17 武州への天子來り玉ふこと有る考

成島邦之助【司直】云。昔より武藏國へ天子の來り給ふ事は無き事なるに、此頃風と見出したり。承應三年九月、嚴廟右府御轉任の時、花町兵部卿宮下向ありて、雲光院を旅館とし、中川修理大夫館伴を勤めしこと、御日記に見ゆ【此雲光院は、淨土宗龍德山雲光院。光嚴敎寺とて、元馬喰町にあり。阿茶の局建立なれば、當時さぞ莊嚴なることにて有けん。今は深川靈巖寺の隣に移されたり】。兵部卿宮は後水尾帝の皇子にて、後光明帝御早世により、兵部卿宮御踐祚あり。後西院と申奉りし也。さあれば武州へ天子來り給ふも同じ事なりと云。此花町宮と申は、古くは櫻町宮とも云。今有栖川宮と云家なり。

■やぶちゃんの呟き

表題の「考」は「かう(こう)」と音読みしておく。

「成島邦之助【司直】」成島司直(なるしまもとなお 安永七(一七七八)年~文久二(一八六二)年)は儒学者・歴史家・政治家・文筆家・歌人にして江戸幕府奥儒者。東岳及び翠麓と号した。極官は従五位下・図書頭。幕府の正史である「御実紀」(通称「徳川実紀」)の編集主幹であった。ウィキの「成島司直」によれば、天保一二(一八四一)年七月十四日(一八四一年八月三十日)には「御実紀」の発起人にして統括であった静山とも懇意で本書にもしばしば登場する『林述斎が死去し、司直が公的にも正史事業の主宰者になる。さらに』、天保十四年四月には第十二代将軍徳川家慶の『日光東照宮参詣にも陪従』、『栄華の極みにあった』が、「御実紀」『完成直前の』天保一四(一八四三)年十月、『突如、御役御免と隠居謹慎を言い渡され、子の筑山まで連座で罰せられてしまう』。『御実紀調所』(「御実紀」編集本部に相当する)は『昌平坂学問所に移され、その正本全』五百十七『巻は、述斎・司直という史学界の両巨頭が不在のまま、同年』十二月(一八四四年初頭)、『家慶に献上されることとなった』。『その後、司直は、死までの』二十『年間近く、幕府に再び用いられることはなかった』。『失脚の理由は一切公表されず、現在でも憶測の対象になっている』。『木村芥舟によれば、家慶に寵用され、たびたび外政にも干渉したので、それを妬んで讒言した者がいたからだという』。『岡本氏足(岡本近江守)によれば、その妬んだ者とは目付の鳥居耀蔵であるという』『(ちなみに耀蔵は司直の元上司・林述斎の二男でもある)』。『山本武夫は、司直失脚は、天保の改革の主導者だった水野忠邦の失脚』(同年閏九月十三日)『の直後であることから、これと関係があるのではないか、と推測している』。後、嘉永二(一八四九)年十一月に、子の筑山が「御実紀」『副本を完成させたことで賞賜され、司直の存命中に成島家は名誉回復されている』とある。

「風と」「ふと」。

承應三年九月一六五四年十月相当。しかし、これは「承應二年」の誤りのようである。後注参照。

「嚴廟右府御轉任」「嚴廟」は第四代将軍徳川家綱の諡号「厳有院」の略。「右府御轉任」以下は彼が承応二(一六五三)年七月十日(「幕府祚胤伝」では八月十二日)に右大臣に転任(右近衛大将兼任如元)したことを指す。

「花町兵部卿宮」後の後西(ごせい)天皇(寛永一四(一六三八)年~貞享二(一六八五)年/在位:承応三年十一月二十八日(一六五五年一月五日)~寛文三(一六六三)年三月)。諱は良仁(ながひと)。幼名は秀宮。別名を花町宮(はなまちのみや)・花町殿と称した。ウィキの「後西天皇」によれば、『後水尾天皇の第八皇子。母は典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘)』。元後水尾天皇の第四皇子であった『後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく』、『他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し』て『即位するまでの繋ぎ』『として』の即位であった。但し、『即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている』とある。なお、後西『天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説』『・江戸幕府説』『が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄』(綱宗の母が後西天皇の母方の叔母に当たる)『という天皇の血筋が問題視されたとする説がある』一方、『譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている』とある。以上、太字や下線部から、本文の「承應三年九月」は「承應二年九月」の誤りと思われる。月遅れの名代到着は問題ない。鎌倉時代からそうである。

「雲光院」現在は東京都江東区にある浄土宗龍山雲光院(グーグル・マップ・データ)。慶長一六(一六一一)年に徳川家康の側室阿茶局(戒名:雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)の開基。元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、火事等で度々、移転を繰り返し、天和三(一六八三)年に現在地に移転した。静山が本項を書いた当時は既に現在位置にあった。但し、花町兵部卿宮が旅所とした際、元の日本橋馬喰町にあったものかどうかは判らぬ。

「中川修理大夫」不詳。時制上からは豊後国岡藩三代藩主中川久清(慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)が相応しいが、「寛政重脩諸家譜」も見たが、彼は修理大夫になったことはない(彼の祖父久成や第八代藩主久貞は修理大夫であるが、時制が全く合わない)。

「館伴」「くわんばん(かんばん)」接伴役。御馳走役。

「莊嚴」「しやうごん(しょうごん)」。

「靈巖寺」先のグーグル・マップ・データの雲光隂の北西三百メートル弱の位置にある浄土宗道本山東海院霊巌寺。

「後光明帝御早世」享年二十二。

「有栖川宮」後西天皇の第二皇子有栖川宮幸仁親王が寛文七(一六六七)年に高松宮を継承したが、後の寛文十二年に有栖川宮と宮号を変更している。

萬世百物語卷之四 十三、山賊の美童

 

   十三、山賊の美童

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[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成したが、今回はかなり綺麗に接合出来たので、上下左右の罫線を除去し、画面の中も可能な限り清拭した。]

 

 あだし夢、いづれの時にかありけん、越後の國村松の侍大野何某と云ふもの勤番の事あたりて江戶へ下りける。

 やうやう、信濃路にかゝりて、榊(さかき)といふ所に着く。[やぶちゃん注:「越後の國村松」江戸時代に入ってからの話柄ととるならば、越後国蒲原郡の内、村松・下田・七谷・見附地方を支配した村松藩の藩庁が置かれた村松城(現在の新潟県五泉市村松。グーグル・マップ・データ。以下、同じ)のあった附近かと思われる。村松藩は寛永一六(一六三九)年に堀直寄の次男堀直時が安田三万石を与えられたことに始まり、寛永二一(一六四四)年五月、直時の子堀直吉の時代に領地替えが行なわれて陣屋を安田から村松に移したことから、正式な村松藩が始まった。村松藩はその所領の大半が山間地であったため、新田開発を成しても石高の伸びは少なく、貞享四(一六八七)年では実質的な石高は四万石だったと言われている(ウィキの「村松藩」に拠る)。

「榊」現在の長野県埴科(はにしな)郡坂城町(さかきまち)か。但し、ここが嘗て「榊」と表記した事実は見当らない。]

 

 宿のはづれより、少人(せうにん)の年十七ばかりともみゆるは、道のつかれにおもやせたるゆへなるべし、いかさまにもたゞものならずとみへて、容貌・裝束・刀・脇指のさままで、風流しほらしき體(てい)ながら、供の人ひとりもぐせず、すげ笠・竹杖(たけつゑ)などぞ、わづかに旅よそほひとみへて外(ほか)、たゞしどけなう、わらぐつふみなれたるさまにもなく、いたう困(こう)じたるとみへ、爰の松かげ、かしこの芝野にうち休みければ、今はさぞ程もさがらんとおもふに、さもなく、大野が馬の跡になり、先になり、その日もやがて、宿つくまでになりにけり。

[やぶちゃん注:「少人」少年。

「いかさまにもたゞものならず」直接には前を受けて「見るからに尋常な様子ではなく、具合が悪そうに見えて」であるが、後にもかかって、「見るからにその容姿・風体(ふうてい)・持ち物から見てただの田舎の青侍とは違うと見えて」の意も添えているのであろう。

「しほらしき」「しをらしき」が正しい。「風流」を受けるから、いかにも優雅感じでの意。]

 

 荷など馬につけかゆる程立ちやすらへば、少年もかたはらにこしかけ、竹杖をもろ手にすがりて休み居たり。

 大野、けさより『あやし』と見とがむれば、

「いづかたへ通らせ給ふぞ。爰は引はぎなど申すもの多所なるに、少年ひとり旅させ給ふ。いづかたへか。心もとなし。」

と、いふ。

「われらは越後筋のものにて是非なき旅つかまるが、心ぼそし。」

と語る。越後といふになつかしき、

「我らも村松よりまいる。越後はいづかたにか。」

とふ。

「長岡。」

と答ふ。

「しからば城下の御方ならんか。何ゆへに、いづ方へか。」

と、くどうものすれど、すこし、はゞかる體(てい)にて、

「江戶へ。」

と、のみ、いひさして、また、先にたちて行きける。

[やぶちゃん注:「長岡」越後国の古志郡全域及び三島郡北東部・蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた長岡藩。藩庁は長岡城ウィキの「越後長岡藩」の同藩の歴史を見ると、元和二(一六一六)年に外様大名の堀直寄が八万石をもって古志郡の旧蔵王堂藩領に入封したが、蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、直寄はその南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城し、城下町を移して長岡藩を立藩している。但し、直寄はわずか二年後の元和四年に越後村上に移され、代わって、譜代大名牧野忠成が入封、牧野家は堀家ら外様大名の多い越後を、中央部にあって抑える役割を委ねられたとある。寛永二(一六二五)年には将軍秀忠から知行七万四千石余の朱印状を交付されている。されば、同じ越後国とは言うても、村松藩と長岡藩は歴史的経緯から格の差甚だしく、関係も良好ではなかったことが判る。]

 

 大野、かのけはいをみるより、何となく心うかれ、

『さだめて、親などのつよきいさめに、わかき心の一たんにうかれ出づるか、または、侍のいきぢ、おさな心にも首尾かなわで、人などをうちたるや。あはれ、同宿にてもせば、世話して下らんものを。』

と、おもひ、馬に付きたる若黨して、いはせけるは、

「もはや、みるまゝ日もすでにくれぬ。少年の御心ぼそき體(てい)忍びがたう存するなり。あはれ、同宿もくるしかるまじうは、我が宿にも御入りあれかし。」

と、いひやる。何のいなめるさまもなく、

「こなたよりこそ申さまほしき。それは御芳志なるべし。」

と、うれしげに立ちどまれば、

「我らは、此ごろ、うち乘りつゞけたる馬上、退屈なり。ちと、めされよ。」

と、我が馬にうちのする。さのみ、いやしうもじたいなく、大やうにうちのりて、程なくけふの泊りにもついてけり。

[やぶちゃん注:「いきぢ」「意氣地」。

「かなわで」はママ。「叶はで」。]

 

 いつしか、ゆく衞しらぬ人もしたしきたぐひにさへ、いまはまされるさまして、心やすげになりもて行く。

 大野、おりおり、わかちをとふに、

「たゞおやのいさめに、ふと、おもひわかで、まうでつるが、江府(がうふ)に伯父なる神川(かみかは)たれといふものをたより、我名は神川三之丞。親は、かの家にて神川何と申す。」

と、へだてなきうちにも、くわしきわけは、しのびがほなるぞ、じでうして、人、うちたるに、さだめて、我手柄、かくせるも、おくふかうおもへば、それよりは、しいてもたづねず。

[やぶちゃん注:「わかち」「分かち」。かく一人旅をすることとなった具体的な事情や訳(わけ)。

「おもひわかで」「思ひ分かで」。冷静な判断もせずに。

「江府」江戸。

「かの家」越後長岡藩牧野家家士の中。

「じでうして」不詳。「事情(じじやう)して」で「あるよんどころない訳があって」の意か。

「しいても」ママ。「强(しひ)ても」。]

 

 かくて、たがいにわりなき中となり、ひるは馬を並(ならべ)て打乘(うちのり)、玆(ここ)の名所をとひ、かしこの泊りをかさね、たはむるれは道のなぐさみ、遠路(ゑんろ)もちかき心に、終(つひ)に枕ならぶるむつごとも、ながき世までとちぎり、板橋に着(つき)ける。

[やぶちゃん注:当時の習慣ではこうした若衆道に入るのは、武士世界では至って普通のことである。見染めた年上の武士が、若侍の父母に義兄弟の契りを望み誓約書を交わして、少年の父母から公認の許諾を受けるという礼式も普通に行われたのである。

「たがい」ママ。

「板橋」現在の東京都板橋区板橋附近。旧中山道の日本橋から一つ目の宿場。]

 

「あすは江府に打ち入り、まづは互にわかれなんが、しばしさへ、わかれといふ名のつらくて。」

と、酒など、うちのみ、

「もはや、ふし給へ。」

と、いへば、三之丞、

「いましばし、かたらせ給へ。江府に至りて、おぢが方にまからんほど、二、三日はへだたるべきよしなさ。」

とて、ふしがたがる。

 げには、一日三秋とかや、いにしへより、まち久しき事にいひならはせり。

「かつは、長の旅路、事なう是れまでつきたるも、目出たさ。」

など、いひて、盃(さかづき)さしさゝるゝも、たゞふたりにて、へだてなげなり。

[やぶちゃん注:「よしなさ」なんてつまらないことでしょう!

「ふしがたがる」「臥し難がる」。]

 

 ことに今宵は雨さへしきりいと心ぼそきに、やたての筆とりて、みだり書きする次(つい)で、三之丞、

 ことのはのかれなん秋のはじめとや

      袖になみだのまづしぐるらん

なにとなう、書きつゞくるを、大野、すこしまめだちて、

「こはいかにいまいまし。かりそめ、ぶしの草枕をも、かくかはしまいらするうへは、つゆおろそかにおもひ奉らんやうなし。日ごろは、主人のため、はつべき身とおもへつるを、いまは君がためにぞおしからぬ命とかけて、大せつに存ずるを、扨(さて)我(わが)心をうたがはせ給ふか。よしよし、明日、江府へもつきなば、そなたより、かれがれならんとの御言葉のはし、候ふな。」

と、うらむ。

[やぶちゃん注:「まめだちて」真剣な態度になって。

「ことのはのかれなん秋のはじめとや袖になみだのまづしぐるらん」表向きは「互いの睦(むつみ)ごとも、これを以って終わってしまいます(「枯れなん」)、それはあなたさまが私に飽き始められたからでありましょうか(「秋の始めや」)」の謂いであるが、以下の展開から見ると、それは、「今直きに私の申し上げてきた言葉が総ておぞましい噓であることが明らかになりましょう(「言の葉の枯れなん」)から」のニュアンスが込められていると私は読む。

「かれがれならん」は「離(か)れ離れならん」で、人の行き来や、歌や文(ふみ)の遣り取りが途絶えがちになることから転じて、相愛の二人であるはずのものが、疎遠になっていってしまうかも知れぬといういうことを指す。不吉な言上(ことあ)げをなされるな、と大野は言ったのである。]

 

「いやとよ、なにし、かさなる心の侍らん。まことに大せつのつとめかゝへさせ給ふ御身に、一たんの御あはれびゆへ、行衞しらぬ我を、かくまでの御いたはり、此世の程と申さんは、義におゐて、おろかなる心なるべし。御はづかしながら、永劫にも罪ふかゝるべきは、御いとおしきなり。あまりの事に『しばし』といへど、わかれは心ぼそう、ちよと筆すさむ事に候ひし、御心にかゝらば、ゆるさせ給へ。いさゝか、事なし。」

と、なみだぐめば、大野もすゞろに、はなつまり、何とやらん、事しまぬ體(てい)なれば、

「いざ、ゝせ給へ、夜もふけなむ。あすはまた、つとめて、おくべし。」

と、ふたり、うちふしたり。

 三之丞、いつもおき出(いで)ながら、今宵は、ことに、やうかはりて、いく度となう、小用し、はな、うちかむ。

 大野、あやしみ、

「何事に、かくせさせ給ふぞ。きそくにてもよからずや。」

と、とふ。

 三之丞、いまは、たまらず、こゑゆすりてなき出(いだ)すにぞ、大野、

「こは、いかに。」

と心得ねば、

「あやしかるも、ことわりなり。その時、かたり出づるこそ、おそろしけれ。今は何をかつゝみ侍らはん。はづかしながら、我は、まことは越後のものには、なし。信濃・上野(かうづけ)の間に住(すみ)て、人の家におし込みし、旅人なんど、はぎとる盜人(ぬすびと)の同類なり。總じて『此道、あやうし』とて、旅人もおのづから心付け、宿々もゆだんせぬを、『なみにて、とられぬたからぞ』と、また、千法、うばはん事をたくみて、此度(このたび)は『われらをかくしたて、心ゆるさん時を案内して、なきものにせよ』と、たくみしが、いつしか、おもひの外の御なさけにかんじ、その事は、たえて、おもはず。あまつさへ、夜ごとに同類の相圖して、せむるも、うるさし。『いかに、時分おそし、もはや、かなはじ、すてゝこよ』などいふ時は、『此度の旅人、中中(なかなか)油斷なき男にて、心やすきさまながら、まだはかられず。とはいへど、よき寶の多くみゆるに、いま、しばし』など、かれらをいつわるも、たゞ御名殘(おなごり)のおしさ、せめて、つきそひ奉らんためなり。されば、今宵にいたりて、かぎりとなれば、わかれ奉らんがかなしき。」

とて、なみだは、たゞ、枕うくばかりに、なく。

 大野、きくより、身の毛だち、鬼を一車にのせたらんやうなれど、さすがに、なさけある心ざし、一しほ、哀(あはれ)そふ心に、これも、なくより、外は、なし。

「もはや、夜もあけなん。」

と、ぜひなく出づるに、かたみとも見つべきさげ物など、とらせて、やりぬ。

「我(わが)出(いで)なんあと、つけて見給へ。」

といふに、したひて、うらみちより、さしのぞけば、深山木(みやまぎ)の風情(ふぜい)したる男、五、六人、ふけうげに三之丞をとりまきて語り行く。

『あはれ、いかなるめにもあひなんや。』

と、心もとながるも、すき心、こりずや。

[やぶちゃん注:「かさなる心」お恨みする心が積もること。

「ゆへ」ママ。

「おゐて」ママ。

「御いとおしきなり」あなたさまのことを心からお慕いしていることにあるので御座います。

「ちよと」ちょっと。

「筆すさむ事に候ひし」慰みごとに筆を執って詠じました。

「すゞろに」むやみやたらに。

「事しまぬ」事仕舞わぬ。こと済まぬ。このままには終わらずになりそうであること。

「いざ、ゝせ給へ」「さあ、最後の盃を呑みほされよ。」。

「つとめて」早朝。

「おくべし」起きましょう。

「いつもおき出ながら」三之丞は今までもいつも深夜に起き出して出て行くことが多かったが、の意。ここにその不審が読者に翳を差すこととなる。

「きそくにてもよからずや」「氣息にても良からずや」。心持ち(ここは身体上の気分の悪さを指す)でも良くないのか?

「上野(かうづけ)」現在の群馬県。

「なみにて、とられぬたからぞ」「並にて」は「捕られぬ寶ぞ」。「ちょっとやそっとでは奪うことが出来ぬよほどの金目の物を持っておると読んだぞ!」の謂いであろう。

「千法、うばはん事をたくみて」あらゆる手段を使っても奪おうという計略を企(たくら)んで。

「われらをかくしたて」我ら盗賊団の存在を気づかれぬように完璧に隠し通して。

「すてゝこよ」「捨てて來よ」。「今回の仕込みは失敗だ! 捨てて逃げて来い!」。

「鬼を一車にのせたらんやう」鬼と車に相乗りしたような気分。

「もはや夜もあけなん。」言うまでもなく、少年の台詞。

「さげ物」「提げ物」。ここは大野の持ち物である印籠(いんろう)とか巾着(きんちゃく)といった腰に提げて持ち歩くものを指す。

「深山木の風情」ここは山賤(やまがつ:木樵か猟師体(てい)の者)で山賊のような風体(ふうてい)を謂う。

「ふけうげ」ママ。「不興氣(ふきようげ)」。

 個人的にはこの話、怪談ではないが、好きだ。]

2020/08/17

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 二 

 

       

 

 動物に関する史邦の句のうちで、ちょっと変ったものに穴熊がある。

 はち巻や穴熊うちの九寸五分     史邦

 これは穴熊を詠んだというよりも、穴熊を捕る人間の方が主になっている。が、他に季節のものが見えぬから、穴熊もしくは穴熊打を以て冬の季とするのであろう。尤も『小文庫』にはこの句の外に

 あな熊の寝首かいても手柄かな    山店

 丹波路やあなぐまうちも悪右衛門   嵐竹

の如き句を収めているので、さのみ異とするに足らぬようだけれども、その『小文庫』は史邦の編に成るのだから、全然史邦の興味外とするわけには行かない。

[やぶちゃん注:「九寸五分」刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀。「鎧通し」のこと。当時でも銃砲での狩りは武家の特殊グループに限られたから、ここは「穴熊擊ち」と言っても、燻ぶり出してそれでとどめを刺したものであろう。「穴熊」は「史邦 一」で既出既注。

「小文庫」既出既注であるが、再掲しておくと、史邦の編になる芭蕉の追悼集「芭蕉庵小文庫」(元禄九(一六九六)年刊)。

「山店」石川山店(さんてん 生没年未詳)伊勢山本の人。蕉門の石川北鯤(ほっこん)の弟。天和年間(一六八一年~一六八八年)に入門し、「虚栗」に初出。

「悪右衛門」戦国から安土桃山にかけての武将赤井直正(享禄二(一五二九)年~天正六(一五七八)年)の通称。赤井氏の実質的な指導者として氷上(ひかみ)郡を中心に丹波国で勢力を誇った豪族。「甲陽軍鑑」には「名高キ武士」として徳川家康・長宗我部元親・松永久秀らとともに、しかも筆頭として名が挙がっている(ウィキの「赤井直正」に拠る)。

「嵐竹」松倉嵐竹(生年未詳)本名は松倉文左衛門。蕉門最古参の門人松倉嵐蘭の弟。]

 

   此魚此川の名物とや

 涼しさや瀬見の小河の談儀坊     史邦

 「談儀坊」というのは魚の異名らしい。『見た京物語』に「目高(めだか)をだんぎぼうといふ」と書いてあるのは、土地の人のものでないだけに、固より不安を免れぬけれども、『人倫訓蒙図彙』に談儀坊売というものがあって、「こまかなるざこを桶に入れになひあるきだんぎぼうと云なり、これを都の幼少なる子供もとめ水鉢又は泉水に放ちなぐさみとするなり」と註してあるのを見れば、甚しく誤ってはおらぬように思う。もし談儀坊なる名の由来が『嬉遊笑覧』にある如く、「凡僧経論もみずに咄(はな)すを水に放すといふ秀句」であるとするならば、子供が水鉢や泉水に放すのを見て、『見た京物語』の著者が直に目高と心得るのも、一概に無理とはいえないからである。

 『和漢三才図会』などは石斑魚(いしぶし)の条において、「又背腹共黒談儀坊主」と記している。「いしぶし」ならば『源氏物語』その他平安朝のものに見えている魚である。京洛においても後には「いしもち」とのみ称(とな)えて、談儀坊とはいわぬという説もあるが、文献にのみよる考証は隔鞾搔痒(かっかそうよう)の感なきを得ない。『蕉門名家句集』には「談儀坊ハサギシラズト読ム」という註がある。サギシラズならば例の「鉄道唱歌」にも「扇(おうぎ)おしろい京都紅(きょうとべに)、また賀茂川の鷺(さぎ)しらず」とあり、京都名物として御馴染のものである。『俳書大系』なども最初は「談儀坊」に「さぎしらず」とルビを振ってあったが、普及版に至ってこれを削ってしまったので、何だかわけがわからなくなった。しかしこの句の場合はともかく、談儀坊というもの何時(いつ)でもサギシラズと読むとは限らぬのであろう。『猫の耳』にある次の句などは、やはり「ダンギボウ」と読んだ方がよさそうに思う。

   辻談議

 胸の月けもなし魚の談儀坊      問景

 談儀坊を句にしたのは勿論、史邦がはじめではない。古くは『あぶらかす』あたりにもこれを取入れたものがあるけれども、多くは談儀坊という名称から来た擬人的な興味を弄しているに過ぎぬ。史邦の句はその点では全く自然である。談儀坊そのものの姿は頗る漠然としているが、ここは涼しさを主にして味うべきであろう。「瀬見の小河」は有名な石川丈山の詠もあり、賀茂川のことであるのは贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「瀬見の小河」京都市左京区下鴨の東部を流れる川。賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)の「糺の森(ただすのもり)」の南で賀茂川に入る。「蟬の小川」。この中央(グーグル・マップ・データ)。但し、賀茂川の異名ともされ、宵曲も後のそうとっている。「新古今和歌集」の「巻第十九 神祇歌」にある鴨長明の一首に(一八九四番)、

   鴨社歌合とて人〻よみ侍りけるに、月を

 石川の瀨見の小川の淸ければ月も流れをたづねてぞすむ

とある。「月も」は賀茂の明神もそれでここに坐(ま)しますが、されば「月も」の意。

「談儀坊」(だんぎばう(だんぎぼう))は小学館「日本国語大辞典」では、『魚「めだか(目高)」の異名。だんぎぼうず』とする。これは意の②で、①では、「談義僧」のこととして、そちらには、『仏教の教えなどを、わかりやすくおもしろく説き聞かせる僧。また、教典などを講義する僧』とする。

「見た京物語」全一冊の京の見聞記。二鐘亭半山(木室卯雲:きむろぼうううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:戯作者で俳人。幕臣。俳人慶紀逸門。狂歌も嗜み、幕府高官の目にとまった一首が縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良(よものあから)らの天明狂歌に参加、噺本「鹿の子餅」は江戸小咄流行の先駆けとなった)著。天明元(一七八一)年八月序。著者が明和三(一七六六)年三月に小普請方として京都に赴任して、一年半ほど滞在した間に書き留めたものを、帰府後に自家版として知友に贈ったものを改めて公刊したもの。

「人倫訓蒙図彙」風俗事典。著者未詳。画は蒔絵師源三郎。元禄三(一六九〇)年刊。第七巻。各階層に於ける種々の職業・身分に簡潔な説明を加え、合わせて、それらの特徴的所作や使用される器物を描いた図を掲げる。巻一は公家・武家・僧侶に関するものを扱い、巻二以下は能芸部・作業部(主に農工)・商人部・細工人部・職之部という構成で、最終巻は遊郭・演劇・民間芸能などを載せる。京を中心に当時の風俗・生活を知るための貴重な資料である。「談儀坊売」は「商人部」ではなく、「作業部」の最後(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)に挙げられている。拡大すると、天秤棒の向かって右側の荷い桶の中に、小魚(私には金魚か出目金のように見える)が泳いでいるのが判る。

「嬉遊笑覧」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。当該部は、「第十二巻上」の終わりの方にある。所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)を基礎データとし、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字)で校訂し、読点・記号等を変更・追加した。但し、孰れにも疑義のある表記個所があったが、取り敢えず、意味が通ずると考えた方を採った。

   *

だんぎぼう、「安布良加須」に、『水の中にも智者は有けり よの魚に敎化をやするや談義坊』。「洛陽集」に、『談義房氷の天井張られけり 春澄』。「人倫訓蒙圖彙」に、『談義坊賣あり。注云、こまかなるざこを桶に入て、になひあるき、「だんぎ坊」と賣也。此を都の幼少なる子供、もとめて、水鉢又は泉水にはなち、なぐさみとする也』。「大倭本草」に、杜父魚の條、『京師の方言に、「だんぎ坊主」といふ魚あり。杜父魚に似て、其形、背高し。是亦、杜父魚の類也』。「本草啓蒙」、『杜父魚、京にて「いしもち」、彥根にて「どぼ」、仙臺にて「かじか」、勢州にて「だんぎぼう」』(「物類稱呼」に諸方言を多く載たれども、「だんぎぼう」は他物をいへり)などあり。江戶にて「土※魚(ダボハゼ)」といふ物也[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(「艹」+「甫」)。]。談義坊とは、凡僧、經論も見ずに咄すを、水に放すと云秀句にて、談義坊といふとぞ。小野蘭山晚年の說に、『この「石もち」といふ魚は、尾、圓し。杜父魚は「本草」に、「其尾岐」とあるにかなはず。「寧波府志」に出たる泥魚、是也』といへり。今按るに、處によりて異同有。其名も杜父魚・土※魚・泥魚、みな一名の轉じたると聞ゆ。こゝの名も亦然なり。トウマン(江州)、トチンコ(石州)、チンコ(同)、ドボ(彥根)、トウボウ(備前)、ドンホ(筑前)、トホウズ(作州)など一名の轉じたる也。さればダボハゼ・ダンギボウもおなじ名と聞ゆ。カシイ(駿州)、カコブツ(越前)、トングウ(筑後)、トンコツ(伊勢龜山)などいふも、又、おなじ。但し、カクブツはカハカジカ(仙臺)、カハヲコゼ(伏見)、ゴツポ(防州)などの名を略し、それに物といふことを添しにもあるべし。ダンギボウもタボトボといふを、やがて、談義坊主と拵へたる謔名也。「啓蒙」に此名を勢州方言としたるは、今は京師には「石もち」とのみいふにこそ。「芭蕉七部集」、『かくぶつや腹をならべて降霰 拙侯 杜父魚は河豚のやうなる魚にて、水上に浮ぶ。越の川にのみある魚也』と云り。

   *

少しだけ注しておく。総てやり出すと、博物学的に大脱線になるので、一部に留める。

・「安布良加須」は「油糟(あぶらかす)」で、松永貞徳著になる俳諧論書。寛永二〇(一六四三)年刊。「新増犬筑波集」の上巻に相当し、下巻の「淀川」とあわせて一巻とする。山崎宗鑑の「犬筑波集」所収の付合(つけあい)の前句に、新しく付句を試みて手本を示したものである。多様な方言を例示していて水産動物の博物誌に強い興味がある私には非常に面白い(面白いが、これは同定をさらに混同させはする)。後で宵曲が言っている「あぶらかす」は本書のこと。

・「洛陽集」は江戸前期の俳諧選撰集で自悦編。

・「大倭本草」(貝原益軒の「大和本草」)の「杜父魚」は私が「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」で電子化注してあるが、最後に確かにそう出てくるものの、そこに至る益軒の叙述からは「だんぎ坊主」をメダカに当てることは逆立ちしても、到底、不可能である。

・「かくぶつや腹をならべて降霰」座五は「ふるあられ」。この句は「続猿蓑」の「冬之部」に載るが、後書もあって、そこには、「杜夫魚(かくぶつ)は河豚(ふぐ)の大さにて水上に浮ぶ、越の川にのみあるうをなり」とある。しかして、これはスズキ目カジカ科 Rheopresbe属アユカケ Rheopresbe kazika のことを指す。本種は降河回遊型のライフ・サイクルを持つことで知られる(「カマキリ」という異名もよく知られる)。ウィキの「アユカケ」によれば、伝承として、『「冬に腹をみせて浮かび下る」とも言われる。霰(あられ)の降る晩に大きな腹を上にして浮かびながら川を下るため霰が腹を叩くという。地方名「あられがこ」の由来である。実際に冬に降河するアユカケは産卵を控え大きな腹をしている』ものの、『腹を見せて流下する様子は今のところ観察されていない』とある。また同種は、本州の太平洋側では茨城県久慈川以南に、日本海側では青森県深浦町津梅川以南、及び四国・九州に棲息するので、後書の限定とは矛盾する。これは思うに、淡水産カジカ類全般を「ゴリ」と呼ぶが、特に石川県金沢市周辺では、これらの魚(アユカケもその一種に含まれる)を用いた佃煮・唐揚げ・照り焼き・白味噌仕立ての「ゴリ汁」などの「ゴリ料理」が名物となっていることに関係する誤認であろうと思われれる。御当地料理の食材は他の国に同じものがあっても「違う」と喧伝したがるもので、作者も恐らく加越能出身の誰彼からか、或いは現地でそう聴かされて信じていたものであろう。私自身、実は若い頃、金沢のゴリ料理のゴリというのは金沢周辺にのみ棲息する淡水固有種のカジカ類だと勝手に思い込んでいたことを自白しておく。

・「拙侯」は大坂の人。詳細不詳。

   *

「『和漢三才図会』などは石斑魚(いしぶし)の条において、「又背腹共黒談儀坊主」と記している」私の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「いしぶし 石斑魚」を見られたい。さすれば、「いしぶし」の登場する「源氏物語」の「常夏」冒頭のシークエンスの引用や拙訳も読める。因みにそこでは、喧々諤々の同定論争に嫌気がさして、「いしぶし」同定の一番人気は幼魚期を海で過ごす「通し回遊」をするハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ウキゴリ属ウキゴリChaenogobius urotaenia、二番手は淡水産のカジカ亜目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux であろうかとかわして逃げている。まんず、騙されたと思って上記リンク先のそれを読まれたい。損は、させない自信はある。

「隔鞾搔痒」「鞾」は「靴」に同じい。

「蕉門名家句集」俳人で、蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主安井小洒(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年:本名、知之)が昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。

「サギシラズ」「鷺不知」小学館「日本国語大辞典」に、『(あまりにも小さいので鷺の目にもとまらないという意)京都の鴨川でとれる雑魚(ざこ)のごくこまかいもの。また、それをつくだ煮にした食品。生きたまま沸騰した湯にとおし、薄口醤油と砂糖とを加えて長時間たきつめたもの。におい消しに生薑(しょうが)を入れることもある。京都の名物であるが、今日ではほとんど産しない』とあり、ネット上には琵琶湖産の「いさざ」(ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属イサザ Gymnogobius isaza を指すともあった。イサザは同属種の上記のウキゴリに似るが、小型であること、体側の斑点が不明瞭なこと、尾柄が長いことなどで区別され、琵琶湖固有種で、北湖に産する。琵琶湖にはウキゴリも棲息しており、イサザはウキゴリから琵琶湖の閉鎖空間で種分化が進んで生まれたものと考えられている。

「鉄道唱歌」「扇(おうぎ)おしろい京都紅(きょうとべに)、また賀茂川の鷺(さぎ)しらず」ウィキソースの「鉄道唱歌/東海道篇」から、五十三番を節で改行して示す(都は正字化した)。

   *

扇おしろい京都紅

また加茂川の鷺しらず

みやげを提げていざ立たん

あとに名殘は殘れども

   *

「俳書大系」昭和初期に刊行された勝峰晋風編のシリーズ「日本俳書大系」(日本俳書大系刊行会刊)。

「猫の耳」越智越人編の享保一四(一七二九)年十一月の俳諧撰集。

「胸の月けもなし魚の談儀坊」「胸の月」は悟りを開いた心を清く澄む月に喩えて、心が清いさまにも使う。秋の季題。「けもなし」はそんな禅機の「氣も無し」(かけらもない)と「毛も無し」で「坊」主の頭に掛けて「談儀坊」を引き出したのであろう。駄句だが、この場合の「談儀坊」が頭でっかちのゴリ類がイメージとしてはよかろうかい。

「問景」不詳。事蹟がネットでも掛かってこない。

『「瀬見の小河」は有名な石川丈山の詠もあり』「石川丈山」は「丈艸 六」に既出既注。この詠とは、

   鴨河をかぎり、都のかたへいつましきとて
   よみ侍りける

 わたらじな瀨見の小河の淺くとも

    老いの波そふ影もはづかし

である。ウィキの「石川丈山」などには、丈山は老いて後、洛北の一乗寺に詩仙堂を構えて隠棲していたが、ある時、『後水尾上皇からお召しがあった』。しかし、丈山は『「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った。上皇はその意を了として丈山の歌を「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波そふ影は恥かし」と手直しして返したという』などという清貧のエピソードとして記しているが、事実はこんな風流な話とは全く違う事実に基づく作歌理由がある。丈山は実は晩年、「出身地の三河に帰りたい」という願いを徳川幕府に願い出たが、京都所司代板倉重宗が許さず、これに憤慨して詠んだのが本歌であるというのである。その詳しい背景や経緯は、伊藤勉氏の論文「鴨河倭歌考」に非常に詳しい。事実を知るほどに、板倉への怒りがいやさかとなる。御一読あれ。]

 

 数珠掛はどの木に啼や栗の花     史邦

 「数珠掛」は「数珠掛鳩」の略である。鷺に「五位」といい、鴨に「羽白(はじろ)」という。俳句にはよくある略語である。どういう場所であるか、はっきりわからないけれども、相当木の茂っているところらしく、栗の花の連想があるせいか、どんより曇っている日のような感じがする。数珠掛鳩がしきりに鳴くが、声ばかりで姿は見えぬのである。子規居士の『病牀六尺』に、松山ではこの鳥が「トシヨリコイ」と鳴く旨が記されてあったと思う。

[やぶちゃん注:「数珠掛」は「じゆずかけ(じゅずかけ)」。ハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria。和名は後頸部に半月状の黒輪があることによる。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 斑鳩(はと)(シラコバト・ジュズカケバト)」の私の注を参照されたい。鳴き声と動画はManyamou氏の「ジュズカケバト(大宮公園小動物園)」がお薦め。]

 

 広沢やひとり時雨るゝ沼太郎     史邦

 広沢は池の名で、古来月の名所になっている。「沼太郎」の語には二説あって、鴻(おおとり)のことだともいい、沼の大きなことだともいう。柳亭種彦(りゅうていたねひこ)がどは「山の太郎は富士なり、川の太郎は利根なり、それ等に対して、こゝは沼太郎なりといひたて、余所には知らぬ時雨に孤(ひとり)ぬるゝと、広沢の広き光景をいひたるなり。池太郎といふべきを沼太郎と転じたるは、俳諧のはたらきなるべし」と断じているが、この説には俄(にわか)に従いにくい。広沢という語が直に池を現しているにかかわらず、下に沼太郎の語を添えるのは、俳句として働きのあるものでないし、かつ池を沼にいい換えるなどは、働きかも知れぬがむしろ窮した方である。これを鴻のこととすれば、蕭条たる広沢の時雨の中に唯一羽鴻が浮んでいる光景になって、画面に中心を生ずると共に、自ら魂が入って来る。「ひとり時雨るゝ」という言葉も、鳥の形が大きいだけに、この場合適切なように思う。これが唐崎の松とか、何もない枯野の中の一つ松とかいうものならば、種彦のいわゆる「時雨に孤ぬるゝ」という感じも受取れるであろうが、広沢の池の広い感じを現すものとしてはどうも工合が悪い。種彦はまた雁を沼太郎というのは近江の方言だから、京師の句に用いるべきいわれはないとか、この「や」は「は」に通う「や」で、もし雁の事とすれば「広沢に」といわなければならぬとかいう説をも述べている。しかしそれらはやや理窟にわたる弁で、太郎という語の考証などに力を入れず、直にこの句の趣を味えば、鴻の句として十分その妙を感じ得べきはずである。同じ元禄時代の「かれ枝やひとり時雨るゝてりましこ 彫棠」などという句を併せ考えても、ひとり時雨るるものが何であるかは、自ら明でなければならぬ。それでもまだ足りなければ、史邦の動物に対する興味ということを持出しても構わない。要するにこの句を以て「広沢はひとり時雨ると沼太郎」の意と解する種彦説では、大した趣を感ずることは出来ないが、鴻を登場させるに及んで、はじめて生趣躍動するのみならず、史邦の面目を発揮し得たものとなる。その意味においてこの句もまた動物を詠じた一に算えたいのである。

[やぶちゃん注:「沼太郎」カモ目カモ亜目カモ科マガン属オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii ととってよかろう。全長九〇センチメートルから一メートルと大型で、体型や頸部が長く、嘴は細長い。夏季にシベリア東部で繁殖し、冬季になると、中国や日本へ南下する。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」でも「ひしくい」に同定されておられ、語注に、『和名、ひしくい。『俚言集覽』に「近江・美濃のあたり、雁の大いなるを沼太郎と言ふといへり」とある。全体は暗褐色で腹と尾羽の先が白い。本来は秋の季語』とされる(本句は「時雨」で冬)。そうとうれば、既にして発句を好んで諧謔化する種彦のような説明にならぬ逆立ちした語釈は不要である。そもそも史邦は尾張犬山の出である。地理情報と用語をリンクさせねばならない縛りなど俳諧にはない。だったら、芭蕉は「奥の細道」で東北弁で句を創らなくてはなるまいよ、柳亭はん。

「柳亭種彦」(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)は江戸の合巻作家。名は左門、主税。旗本高屋甚三郎知義の長男として江戸に生まれ、下谷御徒町の御先手組屋敷で育った。寛政八(一七九六)年に家督を相続、若い頃唐衣橘洲に狂歌を学び、文化初年頃(一八〇四年頃)から戯作活動に入った。「源氏物語」に材をとった「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)が大好評を得て、合巻界の第一人者となった(歌川国貞画)。同作は文政一二(一八二九)年から始まり、死去により未完で終わった(本作で彼は幕府の咎めを受けて絶版となり、その直後に病没しているが、自殺であったとも言われる)。一方で考証家としても優れた考証随筆を残している。

「てりましこ」「照猿子」で、スズメ目アトリ科ヒワ亜科ベニマシコ属ベニマシコ Uragus sibiricus の異名。日本では夏鳥として北海道、青森県下北半島で繁殖し、冬鳥として本州以南へ渡り、越冬する。ほぼスズメと同じ大きさで、嘴は丸みを帯びて短く、肌色をしている。♂は全体的に紅赤色を帯び、目先の色は濃い。夏羽は赤みが強くなる。頰から喉、額の上から後頭部にかけては白い。背羽に黒褐色の斑があり、縦縞のように見える。♀は全体的に明るい胡桃色で、頭部・背・喉から胸・脇腹の羽毛に黒褐色の斑があり、全体に縞模様があるように見える。この「照猿子」とその映えから考えて、♂の映像であろう。

「彫棠」青地彫棠(ちょうとう ?~正徳三(一七一三)年)は松山藩の江戸詰めの藩医青地伊織。其角門の代表的俳人として江戸で活躍した。晩年は周東と号した。]

 

 泥亀や苗代水の畦づたひ       史邦

 『猿蓑』にはこうなっているが、これは去来の書誤りで、「畦づたひとうつりとは形容風流格別なり。殊に畦うつりして蛙啼くなりともよめり。肝要のけしきをあやまること筆の罪のみにあらず、句を聞くことのおろそかに侍る故なり」といって、芭蕉が不機嫌だったという話の残っている句である。其角の「此木戸や鎖(じょう)のさゝれて冬の月」と共に、「猿蓑誤字物語」の一に算うべきものであろう。

 「畦づたひ」と「畦うつり」では、芭蕉のいう通り大分感じが違う。この句を冷かしたわけでもあるまいが、其角に「苗代や座頭は得たる畝(あぜ)伝ひ」という句があったはずである。単にのろのろした泥亀が畦づたいに歩いているというよりは、畦から畦へ移るという方が趣としても面白い。

[やぶちゃん注:以上の話は「去来抄」に載るもの。しかし、宵曲のこういう仕儀は戴けない。ちゃんと正しい句を示すべきである。

 泥龜(どろがめ)や苗代水(なはしろみづ)の畦(あぜ)づたひ

である。「去来抄」のそれは、「同門評」の以下。

   *

  泥がめや苗代水の畦うつり    史邦

さるミの撰に、予誤て畦つたひと書。先師曰、畦うつりと傳ひと、形容風流各別也。殊に畦うつりして蛙なく也ともよめり。肝要の氣色をあやまる事、筆の罪のみにあらず。句を聞事のおろそかに侍るゆへ也と*、機嫌あしかりけり。

   *

『其角の「此木戸や鎖(じょう)のさゝれて冬の月」と共に、「猿蓑誤字物語」の一に算うべきもの』同じく「去来抄」に載るトンデモ誤読事件。しかも、読み違えたのは、芭蕉自身であったと考えてよい。投句された際、草書でさらに字が詰まっていたために「此木戶」を「柴ノ戶」と読み違えてしまったのである。「去来抄」の「同門評」の以下。

   *

  此木戶や錠のさゝれて冬の月    其角

猿みの撰の時此句を書おくり、下を冬の月・霜の月置煩ひ侍るよしきこゆ。然るに初は文字つまりて、柴(シバ)ノ戶と讀たり。先師曰、角が冬・霜に煩ふべき句にもあらずとて、冬月ト入集せり。其後大津より先師の文に、柴戶にあらず、此木戶也。かゝる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出板に及とも、いそぎ改むべしと也。凡兆曰、柴戶・此木戶させる勝劣なし。去來曰、此月を柴の戶に寄て見侍れば、尋常の氣色也。是を城門にうつして見侍バ、其風情あはれに物すごくいふばかりなし。角が冬・霜に煩ひけるもことはり也。

   *]

 

 史邦の動物に関する句が往々微細な観察にわたっていることは、前にも一、二の例を挙げたが、なお少しくこれを説かなければなるまい。

 由来なき絵や書壁の蝸牛       史邦

[やぶちゃん注:「書」は「かく」。]

の如きは、いずれかといえば特色の乏しいもので、所詮蕪村の「蝸牛や其角文字のにじり書」[やぶちゃん注:「ででむしやそのつのもじのにじりがき」。]に如(し)かぬであろう。が、

 蟷螂のほむらに胸のあかみかな    史邦

の句になると、大分史邦らしい特色がある。『小文庫』には「小見」といふ前書があって、

   大見

 稲妻やうみの面をひらめかす 史邦

[やぶちゃん注:「面」は「おもて」。]

の句に対している。大見、小見の語は別に説明がないけれども、その句から考えると、先ず大見は壮大なる観察、小見は繊細なる観察というようなことになるのではないかと思う。但この時代の観察は後ほど客観に徹せぬため、この「ほむら」と「胸のあかみ」なども、いささか即き[やぶちゃん注:「つき」。]過ぎる憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]がないでもない。ここでは蟷螂の胸に眼を著けた史邦の「小見」に或価値を認めるまでである。

 

 あたままで目でかためたる蜻蛉かな  史邦

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼ」。]

 これなども、蟷螂の句と同じく、「小見」に属すべきものであろう。蜻蛉の眼玉を材料にしたものは、近頃の童謡にもある。ルナアルの『博物誌』などは存外この眼玉を閑却しているようだけれども、あの眼玉は慥(やしか)に特異なものである。俳人の観察は疾(はや)くからここに注がれており、史邦の句の外にも次のような句が残っている。

 蜻蛉のつらうちはみな目玉かな    才角

 蜻蛉の顔は大かた眼玉かな      知足

 句集刊行の順序からいうと、史邦の句の出ている『猿舞師(さるまわし)』が元禄十一年、才角の『俳諧曾我』が十二年、知足の『東華集』が十三年で、殆ど先後を論ずるほどの差は認められない。これらは同工異曲と称すべきもので、蜻蛉の眼玉の感じから期せずして一致したものであろう。それだけに史邦の独擅場というわけには行かないが、「つらうちはみな目玉」とか、「顔は大かた眼玉」とかいうよりも「あたままで目でかためたる」という方が何分か積極的なところがある。やはり動物に関する興味の一片と見るべきものである。

[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』などは存外この眼玉を閑却しているようだ」私の『ジュール・ルナール「博物誌」ピエール・ボナール挿絵付 附 Jules Renard “Histoires Naturelles” 原文+やぶちゃん補注』から、訳のみ引く。

   *

 

   蜻蛉(とんぼ)   La Demoiselle

 

 彼女は眼病の養生をしている。

 川べりを、あっちの岸へ行ったり、こっちの岸へ来たり、そして腫(は)れ上がった眼を水で冷やしてばかりいる。

 じいじい音を立てて、まるで電気仕掛けで飛んでいるようだ。

 

   *

「才角」不詳。

「知足」下里知足(寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)。本名は吉親。尾張国鳴海村(現在の名古屋市緑区鳴海町)の千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪。庄屋を勤める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した「鳴海六俳仙」の一人。

「猿舞師」種文編。

「俳諧曾我」白雪編。

「東華集」支考編。]

 

 史邦の馬糞の句のことは前に一言した。あれも前書附であったが、もう一つある馬糞の句にもまた前書が附いている。

   牢人して住所を去る比
   親疎の面々に対して

 似た物や馬糞つかみにあかさしば   史邦

 前書附の場合に二度まで馬糞を用いたのは、果して史邦の興味であるかどうかわからぬが、この「似た物」の句は十分にわからない。

[やぶちゃん注:「史邦の馬糞の句のことは前に一言した」「史邦 一」を見よ。「似た物や」の句意や感懐は私にはよく判らぬ。

「あかさしば」鳥綱タカ目タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus の、背の部分の羽の色が褐色を呈している個体を指すようである(但し、この呼称は江戸以降)。「さしば」は「立ち上がる」・「一定方向に直線的に運動する」の意の「さし」に、「鳥」を意味する「羽」がついたものであるらしい。サイト「鳥小屋」のこちらを参照した。私の好きな鷹である。]

 

 霞野や明立春の虎の糞        史邦

[やぶちゃん注:「明立」は「あけたつ」。]

 寒菊や赤土壁の鷹の糞        同

   幻住庵にて

 枯柴やたぬきの糞も庵の門      同

 史邦の句にはなおかくの如き動物の糞の句がある。第一の句は当時としては空想の句に外ならぬが第二、第三の句はいずれも写生句であろう。幻住庵の門前に狸の糞があるなどは、場所が場所だけにスケッチとしても面白い。昔子規居士(しきこじ)が「糞の句」の題下に鳥獣の糞の句を列挙したことがあるが、あの中にも狸の糞は見当らぬようであった。居士は美醜の標準から糞の句を見、俳人の観察区域が遂にこの辺にまで及ぶものとした。それはその通りであるが、われわれは史邦の句に関する限り、これも動物に附随する意味のものとして見たいと思っている。

 史邦の動物に関する句の中には、以上のようなものの外に、

   題鷹山別

 正行がおもひを鷹の山わかれ     史邦

[やぶちゃん注:「正行」は「まさつら」で、楠木正成の嫡男で「小楠公」と呼ばれた正行(?~正平三/貞和四(一三四八)年)のこと。父の戦死の後、南朝軍として活躍、河内守・摂津守となったが。河内の「四条畷(しじょうなわて)の戦い」で高師直・師泰の軍に敗れて自害した。前書は「鷹の山別れに題す」で、父正成との今生の別れは「桜井の別れ」として知られるが、それを「親子鷹の別れ」と捉え、鷹の巣立ちを意味する「山別れ」としたのであろうとは思う。]

の如く、何者かを仮託せんとしたものがあり、

 どかぶりの跡はれ切るや鵙の声    史邦

 帷子は日々にすさまじ鵙の声     同

などの如く、動物そのものの観察よりも季節の感じを主にしたものもある。「どかぶり」の句は今日どしゃ降などいうのと同じく、豪雨のあと一天拭うが如く晴れ渡った中に、鵙の高音を耳にするの意であろう。一読爽(さわやか)な秋晴の空を仰ぐが如き思がある。「帷子」の句は秋に入ってなお帷子を著ている場合、日ごとに凄涼の感を深うするというので、前とは全然異った背景の下に鵙の声を点じ、自ら別様の趣を捉えている。共に好句たるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「鵙」私の好きなスズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。本邦ではほかに、アカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus が見られる。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず)(モズ)」を参照されたい。

「帷子」は「かたびら」。夏の麻の着物。古くは「片枚 (かたひら)」と記し、裏のない衣服を総てこう呼んだが、江戸時代には「単 (ひとえ) 仕立ての絹物」に対し、麻で仕立てられたものを「帷子」と称した。武家のしきたりを書いた故実書によれば、帷子は麻に限らず、生絹 (すずし) ・紋紗 (もんしゃ) が用いられ、江戸時代の七夕や八朔 (はっさく:陰暦八月一日) に着用する白帷子は七夕には糊をつけ、八朔それには糊をつけないのを慣わしとしていた。浴衣も湯帷子が本来の名称であった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

大和本草卷之十三 魚之下 むつ (考えに考えた末にムツゴロウに比定)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

ムツ 東土西州ニモアリ筑後肥前ノ泥海ニ最多シ長七

八寸油アリ煎乄燈油トス頭目共ニ大ナリ尾無岐

石首魚ニ似テ黑筋ノ紋アリ下品也性味不佳

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

むつ 東土、西州にもあり。筑後・肥前の泥海に最も多し。長さ七、八寸。油あり。煎(せん)じて燈油とす。頭〔かしら〕〕・目共に大なり。尾、岐(また)、無し。石首魚〔(ぐち)〕に似て、黑筋の紋あり。下品なり。性・味、佳からず。

[やぶちゃん注:これはちょっと困った。特定の種(群)に当てはめようとすると、叙述に多くの矛盾が生ずるからである。まず、例えば、「東」「西」の日本で広く漁獲され、脂が多く、「頭」(これを「口」と読み換える)と「目」とが大きいとなると、現行の標準和名でズバリ、「ムツ」の、深海魚である

条鰭綱スズキ目スズキ亜目ムツ科ムツ属ムツ Scombrops boops

が一見、当て嵌まるように思えるのだが、何だか、おかしい。「尾」は綺麗に分岐しているからだ。そもそもが「泥海」なんぞにはムツはいないぞ? 「筑後」と「肥前」の「泥」の「海」(広大な干潟)に「最も多」く認められ、脂が多く、「頭」と「目」が大きいと言えば、これはもう、あの有名な、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科ムツゴロウ属ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris

に他ならないからである。

 しかし、既に出た、「石首魚〔(ぐち)〕」(スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata 及び ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii)似ているとなったら、明らかに前者であろうし、ムツゴロウは有明海と八代海にしか棲息しないから、「東土」が当てはまらない。

 「黑筋の紋」に至っては、敢えて言うならムツの特徴だ(ムツの成魚は全体的に紫黒色となるが、腹側が銀灰色を帯びるため、そのように見えぬことはない)。だが、綺麗に洗ってみると、ムツゴロウにだって体側に「筋」ではないが、特徴的な黒い転々とした「紋」がある。

 さても行き詰まった。少し考えてみた。

 はっきりと「東」日本にもいるというのは、実際に益軒が見たからではなく、そう聴いたのを記載した可能性が頗る高い点である(益軒は京都遊学以外は殆んどの人生を福岡で過ごした)。実は「ムツ」という名はとんでもなくややこしい和名で、全然関係のない魚類の異名に盛んに「~ムツ」と附くのである。その中に、「アカムツ」と呼ばれた、ハゼ、則ち、ムツゴロウとも近縁である、江戸の干潟でこれを釣るのが非常に好まれた、

オキスデルシス亜科トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus

がいるのだ。有明海ではムツゴロウを単に「ムツ」とも呼ぶ。さすれば、江戸帰りの藩士や江戸の本草学者に「江戸の干潟に頭と目のでっかいムツはいるか?」と訊ねた際、アカムツのことと思った相手は「いる」と応じるに決まっていると考えたのだ。

 正直、もう少し、益軒が見知っている「ムツ」の形態をちゃんと描写して呉れれば、こんな袋小路には陥らなくて済んだのに、とは思う。ともかくも私はこれをムツゴロウに同定して終わりとする。大方の御叱正を俟つ。

大和本草卷之十三 魚之下 ひだか (ウツボ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前に合わせて「同」。]

ヒダカ 大如指身マルシ黃白色長三四尺ウナキニ似テ

小ナリ食フヘシウナキノ類ナリ本草所載鱓魚是ナルカ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ひだか 大〔いさ〕指のごとく、身、まるし。黃白色、長さ三、四尺。うなぎに似て、小なり。食ふべし。うなぎの類〔(るゐ)〕なり。「本草」載〔する〕所〔の〕「鱓魚」、是れなるか。

[やぶちゃん注:当初は外来種で西日本に分布する条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus albus に比定しようと思ったが、本邦への移入は近代(一説に明治三三(一九〇〇)年前後に朝鮮半島から奈良県に持ち込まれたという記録があるという)らしく、これはボツ。しかし「ヒダカ」という和名が、いっかな、見つからない。やっと見つけたのが、磯野直秀先生の論文「『日葡辞書』の動物名」(PDFでダウン・ロード可能)で、そこには『ひだか』『(ウツボ,「細長い毒魚」)』で名前には波線が引かれており、これは同論文凡例部に初出と思われる単語を指す(「日葡辞書」は慶長八(一六〇三)年に本編が、翌年に補遺編が長崎で出版されたイエズス会宣教師の編になる日本語・ポルトガル語辞典)。今から四百年以前に九州に普通に棲息し、しかも宝永六(一七〇九)年刊の本書に、かくも普通に現認出来る魚として書かれる以上、これはもうタウナギではなく、

条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科ウツボ属ウツボ Gymnothorax kidako

ということになる。一メートル前後に成長し、胸鰭・腹鰭はなく、やや側扁し、独特の黒と黄色の網目模様を有する。鋭い歯列を持ち、咬まれると危険。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のウツボのページによれば、『島根県』から『九州の日本海・東シナ海、千葉県館山』から『九州南岸の太平洋、瀬戸内海、屋久島、奄美大島』及び『朝鮮半島南部、済州島、台湾』の『比較的暖かい海域の』『浅い岩礁地帯』に棲息し、『夜行性』。『エビカニ(甲殻類)、軟体類(貝)、タコなど捕食』する。『食用にする地域と、しない地域がある。主に暖かい主に太平洋側で食用になっている』。『千葉県外房の冬期のウツボの開き干しは風物とも言えそうだが、伊豆半島、紀伊半島、徳島県、高知県などでよく食べられて』おり、『和歌山県などの佃煮(小明石煮)も有名』とあり、『スーパーなどでも非常に希にこのような加工品を見かける』とある。私は干物は食って美味いと思ったが、たたきは何度か食す機会を逸し、残念なことに未だ食べていない。

「黃白色」やや疑問だが、ネットが画像を縦覧するに、個体によっては黒い斑(まだら)部分が濃くなく、白っぽく見えたり、全身が黃白色に見えるものがいるようである。

『「本草」載〔する〕所〔の〕「鱓魚」、是れなるか』「鱗之四」に、

   *

【「善」。】【「别録上品」。】

釋名黄䱇【音「旦」。】宗奭曰、『鱓腹黃、故世稱黃鱓。』。時珍曰、『「異苑」作黃䱇、云黃疸之名、取乎此也。藏器言當作「鱣魚」、誤矣。鱣字平聲、黃魚也。』。

集解韓保昇曰、『鱓魚生水岸泥窟中。似鰻鱺而細長、亦似蛇而無鱗、有靑、黃二色。』。時珍曰、『黃質黑章、體多涎沫、大者長二三尺、夏出冬蟄。一種蛇變者名「蛇鱓」、有毒害人。南人鬻鱓肆中、以缸貯水、畜數百頭、夜以燈照之、其蛇化者、必項下有白㸃。通身浮水上、卽棄之。或以蒜瓣投於缸中、則羣鱓跳擲不已、亦物性相制也。藏器曰、『作臛、當重煑之、不可用桑柴、亦蛇類也。弘景曰、『鱓是荇芩根所化、又云死人髮所化。今其腹中自有子、不必盡是變化也。』。

 氣味 甘、大溫、無毒。思邈曰、『黑者有毒。』。弘景曰、『性熱能補。時行病後食之、多復。』。宗奭曰、『動風氣。多食、令人霍亂。曾見一郎官食此、吐利幾死也。時珍曰、『按「延夀書」云、「多食、發諸瘡、亦損人壽。大者、有毒殺人。不可合犬肉、犬血食之。」。』。[やぶちゃん注:以下、「主治」に続くが、略す。]

   *

とある。トンデモ化生説を時珍を含めて複数の本草学者が語っており、弘景の死人の髪の毛が変ずるとも言う、というところが如何にもキモい。最後の犬の肉と合わせてはよくない、犬の血が鱓の肉をだめにするからというのも、なんじゃらほいで面白い。]

大和本草卷之十三 魚之下 太刀魚(たちうを)

 

【和品】

太刀魚 形刀ニ似テ長クウスク背靑ク腹白シ長キ

者二三尺橫セハシ其觜鱵ノ如ク長ク乄上下齊ク觜

ノ内鋸ノ如シ味不レ好骨多クアフラアリ腥シ性不好

食フヘカラス本草綱目ニノセル鱭魚ニ相似テ不同

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

太刀魚(たち〔うを〕) 形、刀に似て、長く、うすく、背、靑く、腹、白し。長き者、二、三尺。橫、せばし。其の觜〔(くちばし)〕、鱵(さより)のごとく長くして、上下齊(ひとしく)、觜の内、鋸〔(のこぎり)〕のごとし。味、好からず。骨、多く、あぶらあり。腥〔(なまぐさ)〕し。性、好からず。食ふべからず。「本草綱目」にのせる「鱭魚」に相ひ似て、同じからず。

[やぶちゃん注:スズキ目サバ亜目タチウオ科タチウオ属タチウオ Trichiurus lepturusウィキの「タチウオ」より引く。『最大で全長』二・三四『メートル、体重』五『キログラム』に達する。『頭はとがっており、一見獰猛そうな鋭く発達した歯が目立つ。体は全体に左右に平たく、幅は指』四『本などと表現される。背びれは背中全体に伸びて』百三十『軟条以上あり、尾びれ、腹びれは持たず、尾部は単純に先細りになっている。体表には鱗がなく、その代わりに全身が銀色に輝くグアニン』(guanine:プリン塩基)『質の層で覆われている。生きている間はやや青味がかった金属光沢を持つが、死後』、『ほどなく』、『灰色がかった銀色となる。表面のグアニン層は人が指で触れただけで』、『すぐ落ちるほど落ちやすいが、生時は常に新しい層が生成されることで体を保護している。このグアニン層から採った銀粉は、かつてはセルロイドに練りこまれて筆箱や下敷きといった文房具、また模造真珠』(これにより「ハクウオ」(箔魚)の名で呼ぶ地方もある)『やマニキュアに入れるラメの原料として使われていた』。『世界中の熱帯から温帯にかけて分布する。沿岸域の表層から水深』四百『メートル程度の範囲の泥底近くで群れて生活しているが、時には河口などの汽水域まで入り込むこともある』。『産卵期は』六月から十月で、『稚魚や幼魚のうちは、甲殻類の浮遊幼生や小さな魚などを食べている。成魚はカミソリのような歯で小魚を食べるが、時にはイカや甲殻類を食べることもある。ただし』、『貝やエビなど硬い殻を持つものは一切口にしないことから、漁師たちは「タチウオは歯を大事にする」と言い習わしてきた。この鋭い歯は、人の皮膚も容易に切り裂くため、生きているタチウオを扱うときには手袋などをして身を守る事が推奨される。泳ぐ力は弱く、エサの魚に追い付かないため』、『エサが近付いてくるのを待っている』。『成魚と幼魚とは逆の行動パターンを持ち、成魚は夜間は深所にいて日中は上方に移動し、特に朝夕は水面近くまで群れて採餌をするが、幼魚は日中は泥底の上の』百『メートルほどの場所で群れていて、夜になると上方へ移動する』。『潮流が穏やかな場所では頭を海面に向けて立ち泳ぎすることがある。場所によってはこの立ち泳ぎが群れになる事がある。これは、潮流によってタチウオが一箇所に流されて来たという説と、敵から逃げる際に体に当たる光を目晦ましにするためという説がある。潮流が早い場所では立ち泳ぎが出来ないため、この光景は見られない』。『その外観が銀色で太刀に似ていることより、「太刀魚」(タチウオ)と名づけられた』『(「刀」の字を取って「魛」と表記することもある)。別名にタチノウオ、タチ、ハクナギ、ハクウオ、サワベル』(福島県での呼び名で洋刀の「サーベル」(オランダ語:sabel)由来)、『シラガ』(幼魚に使用されることが多い)、『カトラス』(外国語由来。以下参照)『などがある。英名』cutlassfish『の由来は、和名の由来と同じようにその外観が「カットラス(舶刀)」と呼ばれる湾曲した刃を持つ剣に似ていることから』で、『「サーベルフィッシュ」と呼ばれることもある』。

「鱵(さより)」条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori独立項として既出

「觜の内、鋸のごとし」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタチウオのページに写真があるが、そこには、本来のタチウオの『口床(口の下の部分、舌のようなところ)が黒っぽい』のに対して、宮崎県や南西諸島で獲れる個体に、この口床が『淡い色合い』を呈するものがおり、こちらは『背ビレ、目の色合いは黄緑がかっている。輸入ものもあるが、宮崎、鹿児島などから入荷してくる。量的には少ないが紛らわしい』個体群がおり、これは現在、タチウオ属テンジクタチ Trichiurus sp.2 として、不明の別種扱いとされているようである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のテンジクタチのページによれば、『体長』は一メートルを『遙かに超える。尾鰭がない。口が大きく歯は犬歯状で鋭い。腹鰭はなく、尻鰭は棘状だが』、『埋没していて見えない。タチウオよりも体高がある。鮮度のよいとき』は、『背鰭は青みがかった黄色で、目も黄色い。口床は淡いいろで少し黄色みがかる』とあって、細部にかなりの違いがあることが判る。

『「本草綱目」にのせる「鱭魚」に相ひ似て、同じからず』「鱗之三」の以下。

   *

鱭魚【音「劑」。「食療」。】

釋名鮆魚。【音「劑」。】。鮤魚【音「列」。】。※刀【音「篾」。】。魛魚【音「刀」。】鰽魚【「廣韻」音「道」、亦作「鮂」。】。望魚。[やぶちゃん注:「※」=「魚」+「篾」。]

時珍曰、『魚形如劑物裂篾之刀、故有諸名。「魏武食制」謂之望魚。』。

集解時珍曰、『鱭生江湖中、常以三月始出。狀狹而長薄、如削木片、亦如長薄尖刀形。細鱗白色。吻上有二硬鬚、腮下有長鬛如麥芒。腹下有硬角刺、快利若刀。腹後近尾有短鬛、肉中多細刺。煎、炙或作鮓、鱐、食皆美、烹煮不如。』。「淮南子」云、『鮆魚飮而不食、鱣鮪食而不飮。』。又「異物志」云、『鰽魚初夏從海中泝流而上。長尺餘、腹下如刀、肉中細骨如毛。云是鰽鳥所化、故腹内尚有鳥腎二枚。其鳥白色、如鷖、羣飛。至夏、鳥藏魚出、變化無疑。然今鱭魚亦自生子、未必盡鳥化也。』。

氣味甘、溫、無毒。詵曰、『發疥不可多食。』。源曰、『助火、動痰、發疾。』。

主治貼痔瘻【時珍。】。

附方【「新一」。。瘻有數孔【用耕垈土燒赤、以苦酒浸之、合壁土令熱、以大鮆鮓展轉染土、貼之每日一次。「千金方」。】

   *

この益軒の謂いは正しい。まず、現在の「鱭」は中国では、条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科エツ亜科エツ属エツ Coilia nasus に代表されるエツ属の漢名であること、時珍は「江湖中に生ず」としており、エツは汽水魚であるから、「異物志」の記載も首肯出来るからである。但し、「異物志」は後半がけったいな化生説となっており、話にならない。なお、私は、「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱭 たちいを」では、時珍の記載の「腮の下に長き鬛(たてがみ)有りて麥の芒(のぎ)のごとし。腹の下にも硬角の刺(とげ)有り、快利にして、刀のごとし。腹の後、尾に近くして短き鬛有り、肉中も細き刺多し」という部分に着目し、別にスズキ目トゲウナギ亜目トゲウナギ科Mastacembelidae のトゲウナギ類も有力な同定候補している(但し、彼等に対しては現在、スズキ目Perciformesではなく、日本にもいるタウナギMonopterus albus(但し、これは過去に大陸から移入されたものと考えられている)に代表されるタウナギ目Synbranchiformesとする説が浮上しており、その説が有力になりつつあるようである)。彼等はSpiny eel(トゲだらけのウナギ)の英名を持ち、最近はスパイニー・イールあるいはスピニ・イールと呼ばれる売れっ子の熱帯性淡水魚類である。「ウナギ」とあるが、体型が似るだけで全く関係がない。以下にウィキのスパイニーイル」の記述(トゲウナギ科 Mastacembelidae の記載である)の一部を引く。以上の「本草綱目」の時珍の記載とお比べ頂きたい。『体は細長く、各ひれはウナギのように融合せず分離している。また、背びれの前方に名前の由来となった短いトゲが一列に並んでいる。 頭部は尖った三角形のような形状で、口の先端には鼻孔がヒゲのように発達した器官があり、これを動かして餌を探す行動が見られる』十五センチメートル『程度の小型の種類から』一メートル『に達する大型種までおり、色彩や模様も多様。 分布はアジアとアフリカに渡っており、東南アジア(インドからインドシナ半島にかけて)にはMastacembelus属とMacrognathus属が』『分布する。いずれも観賞魚として流通しており、砂に潜る性質や人間によく馴れることからアクアリストに人気がある』。当時の大陸の中国人には海水魚のタチウオなんぞより、遙かに馴染みの淡水魚であることは間違いない。]

2020/08/16

萬世百物語卷之三 十二、繪師の妙術 / 萬世百物語卷之三~了

 

   十二、繪師の妙術

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[やぶちゃん注:以上は国書刊行会「江戸文庫」版からトリミング合成した。]

 あだし夢、東福寺の兆でんすは、わかきよりゑかくことを好める。中にも龍の繪を心入(こころいれ)て書(かき)けり。我も、『このうへは』とおもひ、人もすぐれたるやうにもてはやしける。

 秋の日くれかゝり、深草山(ふかくさやま)のうづらのこゑも心ぼそふ、いなり山の紅葉かれがれなる頃、ふくかぜ、身にしみ、學びの窻(まど)もあはれがちなるに、何となう、詠め出せば、人の聲す。

「荻(をぎ)ならで、かゝる宿音(やどをと)するものもありけるよ。」

と、みれば、寺にまうづる行きがてにやありぬ、老人夫婦、ゑんのあたり、たちより、でんすがかきおける龍の繪を、つくづく詠め、むかひて難じけるは、

「あはれ。よき筆づかひかな。よき事はよけれど、雌雄(めを)のわかちをしらず。それ、龍のかたち、角のさま、凹(なかくぼ)にしてそばだち、浪あらく、目ふかく、鼻ほがらかに、鬣(たてがみ)するどに、鱗(うろこ)きびしく、下ほど次第にそがれ、朱火(しゆくわ)さかんなるは、雄(を)なり。又、角なびけ、浪たいらかに、目大いに、鼻なおく、鬣まろく、うろこ、うすく、尾とはらと、ことやうならぬは、雌(め)なり。」

と、かたる。

 でんす、心得ず、

「いかに。そこには、師傳(しでん)ありて、繪がけるや。又、まことの龍を見て、しかいふや。」

と、すこしふずくみて、あざ笑ふを、翁、わらつて、

「げに。さぞ、おぼすらん。せうこなき事を申さんや。まことは、われは龍なり。見おぼへて、よくかけ。」

とて、たちまちかたちをへんじ、軒端(のきば)にくだる雲に乘りて、うせぬ。

 それよりしてぞ、兆でんすが筆、妙にいたり、寺中(てらうち)の龍にもふしぎあるにおよぶと聞(きき)し。

[やぶちゃん注:「東福寺の兆でんす」室町前・中期の臨済宗の画僧吉山明兆(きつさんみんちょう 正平七/文和元(一三五二)年~永享三(一四三一)年)の通称で「兆殿主」。淡路国津名郡物部庄(現在の兵庫県洲本市物部)出身で、西来寺(現在の兵庫県洲本市塩屋)で『出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い』、『東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与え』、第四代将軍『足利義持からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、兆殿主と称された』。『東福寺には、『聖一国師像』や『四十八祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』、『大涅槃図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。工房は明兆没後も弟子達によって受け継がれ、明兆画風も他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなってゆく。弟子に霊彩、赤脚子など』がいる、とある。サイト「令始画帳」のこちらで彼の龍図が見られる。

「深草山」「いなり山」グーグル・マップ・データ航空写真で、東福寺から南東方向に伏見稲荷参道が見えるが、この付近広域が伏見稲荷神社の後背地である稲荷山である。「深草山」とあるが、東福寺の山門南から南へずっと伏見稲荷を越えても、この辺りは深草の里なのである。ここでは特にどこかのピークを指して「深草山」と言っているのではなく、「深草」の「山里」(実際に南方向の東側は現在も丘陵部の裾野である)を指している。だから「うづらのこゑ」(「鶉の聲」)も近く聴こえてくるというのである。

「心ぼそふ」ママ。

「荻」単子葉植物綱イネ目イネ科ススキ属オギ Miscanthus sacchariflorus

「宿音」例えばこの荻や或いは薄の茎や穂が庵の戸や壁に当たって発する音。

と、みれば、寺にまうづる行きがてにやありぬ、老人夫婦、ゑんのあたり、たちより、でんすがかきおける龍の繪を、つくづく詠め、むかひて難じけるは、

「朱火」不詳。龍を取り巻く火炎様のものを指すか。

「なおく」「直く」。真っ直ぐですっとしている。

「うろこ、尾とはらと、ことやうならぬは、雌(め)なり」雌の龍は尾と腹の部分の鱗が全く変わらないのだそうだ。今度、見ることがあったら見てみよう。え? 無論、本物を龍をさ!

「そこには」そなたには。老翁を指して呼びかけたもの。

「師傳ありて」絵師の師匠からの口伝でもあって。

「ふずくみて」「憤(ふづく)む・慍む」。但し、歴史的仮名遣は「ふづくむ」。近世より前は「ふつくむ」と清音。「腹を立てる・憤(いきどお)る」の意。

「せうこなき」「證據無き」。但し、歴史的仮名遣は「しようこ」でよい。]

萬世百物語卷之三 十一、野島が婚禮

 

   十一、野島が婚禮

 あだし夢、伊豫の河野が家に野島太郞左衞門といへる武士ありけり。いまにたぐへば、二、三千石の領をも所務して、河野が一族のうへ、またなき家の、きり人なり。

[やぶちゃん注:「河野」伊予で勢力を持っていた戦国大名河野氏は、最後の当主が河野伊予守通直(永禄七(一五六四)年~天正一五(一五八七)年)であるが、彼よりも三代前に同じ名を名乗った河野家当主に湯築(ゆずき)城(グーグル・マップ・データ)三代城主であった河野弾正少弼通直 (明応九(一五〇〇)年~元亀三(一五七二)年)がおり、ちょっとこの人物がモデルではないかと思わせる記事が、山岡尭氏の「伊予たぬき学会」のこちらの「年表」の中にある。躊躇するが、ややネタバレ風になるのを覚悟で示す【ネタバレの虞れが厭なら、これ以下を読まずに飛ばして本文をどうぞ!】と、それによれば、延暦年間(七八二年~八〇六年)に、弘法大師八十八ヶ所開基の際、狡猾な狐を追放し、正直明朗な狸を寵愛したとあり(ただ、一説に、この追放も条件附きで、大師は「四国と本州との間に橋が架かったら帰ってよい」としたというから、こちらの追放は既に解除されていることになる。なお、弘法伝承には別に「四国と本州に橋が架かると邪悪な気が四国を襲う」と予言したという伝承も別にあるらしいことを、架橋前後に聴いたことがある)、その後、享禄年間(一五二八年から一五三二年)の項に、『湯築城三代城主』『河野通直に奥方二人騒動、狐を四国から追放』とあるからである。この後者の道直の奇譚は、私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(12) 「河童ノ詫證文」(3)」の本文に「本朝故事因緣集」(作者未詳。元禄二(一六八九)年板行)の「八十七 四國狐不住由來」(四國に狐住まざる由來)を柳田國男が引くのを、原本を確認して注を附した(太字部分)ものを参照されたいのだが、実は長い間、現代に至るまで、四国にはタヌキ(イヌ科タヌキ属タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus)はいるが、キツネは棲息しないと信じられていた。少なくとも動物学者を除いて、一般の日本人の多くはそう信じており、全国的にもこれが一般的認識であったし、今もそう思っている人は有意に多いのである(ウィキの「キツネ」で四国に居ない旨に記載が訂正されたのは実に七年前の二〇一三年五月である)。しかし、それは間違いで、キツネ(食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica)は四国にもいるのである。但し、本州・九州に比して個体数は有意に少なくはある。しかし、嘗ては確認地域が高知県と愛媛県の境に集中し、他の地域での情報は非常に少なかったが、ここ最近では徳島県や香川県でもキツネの目撃情報が多くなっており、全体的には数が増えている傾向にあるのである。但し、実は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」でも、寺島良安も『按ずるに、本朝、狐、諸國に之れ有り。唯だ、四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ』と書いてあるのである(同書は正徳二(一七一二)年成立)。しかし、だからと言って「江戸中期には狐はいなかったんじゃないの?」と反論されても困る。「判らぬ」としか答えようはない。しかし、ともかく、今は確実にいるのである(後者の私の注でも実証出来る記事(捕獲された狐の写真有り。場所は香川県高松市)をリンクさせてある)。

「野島太郞左衞門」不詳。国書刊行会「江戸文庫」本では姓は『野嶋』の表記である。

「きり人」所謂、「切れ者」と同じ。主君の寵愛を受けて権勢を振るう人を指す。]

 

 ある時、廿ばかりなる靑侍、門前に案内せり。

「いかなる人ぞ。」

と尋ねさするに、

「われらは丹波の國のものなるが、野島殿の御一族、京極の家におはする德居民部(とくゐみんぶ)といへる人に、同國のよしみあるゆへ、それよりの仰せにより、中國がた奉公の望(のぞみ)にて、きたれり。すなはち德居殿の狀、こゝにあり。」

とてわたすに、野島、よくうけて、

「民部のたのみ越(こ)せし人、親疎(しんそ)のへだてあるべからず。」

と對面し、

「亂逆(らんげき)、みち、さりあへぬに、かろうじて、おはせし事、珍重(ちんちやう)なり。德居が方(かた)音信(おとづれ)をも久しうてきゝつる事、ひとへに御芳志と存ずるなり。浪人の身のかたづき、一旦には、なりがたし。おりもあらば、國主にも推擧すべし。先(まづ)その程は心(こころ)永(なが)に休息し、中國かたをも一見し給へ。」

と、ねんごろにもてなしければ、うちとけてぞ住みける。

[やぶちゃん注:「京極の家」安土桃山から江戸初期にかけての大名に丹後宮津藩(宮津城)初代藩主で高知(たかとも)流京極家の祖京極高知(元亀三(一五七二)年~元和八(一六二二)年)がいるが、時代は河野弾正少弼通直とは合わない(生年が通直の没年)。しかし、作者が本怪談を創作するに際して厳密な歴史考証を成したとも思えないから、彼の意識の中のモデルがこの京極高知であった可能性は大いにあるように思われる。

「德居民部」不詳。

「狀」書状。手紙。

「亂逆(らんげき)」読みは国書刊行会「江戸文庫」版によった。下剋上の世。

「みち、さりあへぬに」「道、去り敢へぬ」。道中、行き悩んで来られたであろうに。]

 

 野島、したしくなりて、日がら、ふるまゝ、かの男が仕わざをみるに、つねのわかものともみへず、ものゝふの道は、ひとつひとつ、いふにやおよぶ、和歌・有職(いうそく)のみち、いづれ、のこせることなく、きようの仁體(じんてい)、まして、人の心根を、よくよくみはかり、野島がおもはん程の筋は、先だちてわきまふるに、

『いにしへの賢人の心も、か程までは入りたゝじ。あはれ、河野殿に申(まうし)て、ちかく奉公にも出ださばや。』

なんど、ほれまどひぬ。

[やぶちゃん注:「日がら、ふるまゝ」「日柄、經るまま」。日数が経つうちに。

「いふにやおよぶ」「言ふに及ばず」の意。

「有職」博識で、歴史・文学・朝廷の儀礼等によく通じていること。

「いづれ、のこせることなく」「孰れ」も「殘せる事無く」。どのような場合でも、その言動に漏れ足らぬことが見当たらず。

「きよう」「器用」。

「か程までは入りたゝじ」「かくまで用意周到にして完璧な境地までは、とても入り立つことなど出来まいぞ!」。

「あはれ」感動詞。讃美驚嘆の「ああっつ!」。

河野殿に申(まうし)て、ちかく奉公にも出ださばや。』

「ほれまどひぬ」「惚れ惑ひぬ」殆んど理性を失うほどに惚れ込んでしまった。]

 

 野島は男子はなく、娘ひとりありし。なれ行くまゝ、かの男のうるはしさに、いつしか、れんぼし、ならの社のちかごともあひ見てゝこそものすべけれと、人しれず、行き通ひぬ。

[やぶちゃん注:「なれ行くまゝ」「馴れ行く儘」。娘がこの男に慣れ親しんゆくうちに。

「れんぼし」「戀慕し」。

「ならの社のちかごともあひ見てゝこそものすべけれ」読みや出典は不詳。読みを確定出来ない理由は「江戸文庫」版が『なゝの社のちかごとも』となっているためで、「社」は「やしろ」と読んで和歌の上句とはなるものの、「奈良の社」でなのか、「七(なな)の社」(多くの神社)での「誓言」(ちかごと)なのかが判らぬからである。「奈良」の地名を引き出すのは何だかおかしい気もする。下句はそんな沢山の神頼みなんぞより、大事なことは、「相ひ(「逢ひ」も掛ける)見て」「てこそ」(連語。接続助詞「て」+係助詞「こそ」。文中に用いて「て」の受ける部分を強調する。文語文では「こそ」のかかっていく述語を已然形で結ぶ)「ものす」(様々な動作の婉曲的代動詞)ことをすることであるに違いない――互いに一瞬見て愛し合ったのだから、することは、もう、一つしかないでしょう――の謂いではあろう。如何にもな、古歌のそれらしい感じはするものの、和歌嫌いの私には原拠が判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 

 いつしか身さへたゞならずなれば、内の人もあやしみ、父母も、しりぬ。野島、きゝて、

『侍の家に居(を)らんもの、かゝる不義、いかに女のしたへばとて、あるべき事にもなし。是、ひとつなんかの男に事たらぬことよ。』

と、心ゆかずおもへど、かくなり行きてのち、とりかへすべきやうもなく、わかきがうへに、罪ゆるし、嗣(よつぎ)の子なきも、いまさら、幸(さいはひ)におぼへ、

「世人、多くしらぬ程に。」

と、とりはかり、すじだてゝ、家(いへ)相續の事ねがへば、異議なくかなひ、それよりは「野島主馬之丞(しゅめのじよう)」と名づけて、家の目出度き、よつぎ、めきたり。

[やぶちゃん注:「したへばとて」「慕へばとて」。

「ひとつなんかの男に事たらぬことよ」「一つ何かの男に事足らぬことよ」。「一箇の普通のその辺の成人男子の一人分にもこと足りぬ、大戯(おおたわ)け者ではないか!」の謂いか。

「おぼへ」ママ。]

 

 かくて三年の秋風ふきかへ、文月(ふみづき)の十五日にもなれば、主馬之丞、寺にまうでぬ。

 名殘のあつき歸るさの道にこうじて、そうぞく、ぬぐまでもなく、ゑんのはしちかく、凉(すずみ)とりて、ふしぬ。

 はじめの程こそ女どもあつまり、うちわの風すゞしさそへて、もてあつかひけれ、いとよくねいれば、やおら、しりぞきて、おのが、かたがたに、たちぬ。

 あまりに。こうじやしけん、いきたかくふしぬるを、ひとりの女、

『ようも、こうじさせ給ふや。いぎたなき御(おん)ふるまひぞ。』

と、ものかげより、はしたなくみれば、大きやかなる尾といふものを、ゑんより下に、

「ぶらり」

とさげて、人みるとも、しらず。

 かの女、あまりにおどろき、

「かれの、これの。」

と、おのがどち、さゝやきてみるほど、女房も、きをつけ、立ち寄り、みる。

 とのゝふるまひ、ことやうなるに、さして、おどろくけしきもなく、

「かゝるべしとは、かねておもひよる事あれど、我が心からしいづるわざ、まいて兒(こ)さへいづれば、何といふべきかた、なし。今更、うちつけに、父母にいはんも、はづかし。家司(けし)の、それ、めしてこよ。」

とて、よび出(いだ)し、みするに、

「かゝる事、そのまゝには、なしがたし。ともかうも、殿(との)に申(まうし)てこそ。」

とて、野島にしらす。

 此さまをみるより、大きにはら立て、主馬之丞が方へ近づく。

 はじめて、目や、さめけん、それよりは、尾も、みへず。

 常のさまなれど、おしつけて、繩かくるを、女房は、

「今更、口おしき。」

と、さすが、また、

「あはれなる。」

と、さしつどひて、うらみ泣く。女ども、何と、わくことなく、あやしき中にも、めのまへのあはれに、たへぬなみだもろさは、女のつねなるべし。

 主馬之丞、おどろき、

「こは、いかにすればか。」

と、大(おほ)やうにもてなすに、野島、はらにたへず、馬場すゑに引き出し、例(れい)の煤茅(すすがや)とりあつめ、侍・下部、こぞりて、いま迄は主(しゆ)なるおそろしき人を、ゑしやくもなく、いぶせば、終(つひ)にたまらず、

「あら、くるし。子までいでくるうへを、いかにかくするぞ。今は何をか、かくすべき、我こそ丹後の國京極が家のそのものなるが、その先(せん)、京極の娘の色よきにめでて、さまざまにたぶらかせしかど、道理(だうり)につまりて、たちはなれぬ。それより國々を見めぐり、此所にいたるに、か程の娘、又なくおぼへて、かくしつるが、いまは、是れまでにこそ。」

と死しけり。

 みれば、大きなる「ふるだぬき」なり。

 むすめ、見て、

「ちくせうの女(つま)となるいんぐわ、人にむかひて、いかにおもてむくべき、あさまし。」

とて、かの子をさしころし、我もそのまゝ、じがいしけるなん、あはれなる物語ぞ。

[やぶちゃん注:「文月の十五日」陰暦七月初秋の望月である。

「こうじて」「困じて」。疲れて。

「そうぞく」ママ。「裝束(さうぞく)」。

「いきたかくふしぬる」高鼾(たかいびき)をしているのである。

「うちつけに」無遠慮に。強いて言いつける。

「家司」家政を担当した家臣の中の重役。

「それ」個人名を伏せた表記。

「女房」主馬之丞の妻。

「大(おほ)やうに」「大樣に」。この場合は、その妻を始めとした女どもの反応の仕方が、何か中途半端な感じであることを言っているのであろう。則ち、獣の化けたものとおぞましくも感じながら、目に見えているのは、三年もの間、馴れ親しんだ美男の夫であり、主人であるからである。しかし、それが野島の怒りを刺激してしまうのである。

「煤茅」一般に火起こしの材料や、囲炉裏や火燵などに敷き詰める灰を作るための燃えやすい茅の束。

「ゑしやくもなく」遠慮「會釋も無く」。

「いぶせば」「燻せば」。実際の狐狸を捕らえる際に複数ある穴に煤藁を突っ込んで、燻り出すことから、狐狸の憑き物と見なされた患者に近代までこうした同じような煙責めが行われた。

「子までいでくるうへを」「子(こ)まで出で來る上を」。頑是ない子どもまで生まれたにも拘わらず。

「京極が家のそのものなるが」京極家に古くから棲みついておった物の怪であるが。

「道理につまりて、たちはなれぬ」何らかの高邁な僧などの調伏を受けた感じである。その辺りを知りたくは思うが、ここまで来れば、それを長々しく語るのは怪談としてはダラついて上手くないから、仕方ない謂いではある。しかし、不親切の感は免れぬ。

「ちくせう」ママ。「畜生(ちくしやう)」。

 エンディングは女子どものスプラッターで後味が甚だ悪い。ここまでの展開が開放的で、どこかあっけらかんとして陽性部分がチラついていただけに、どうもコーダに失敗している感が強い話柄である。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 一

 

[やぶちゃん注:中村史邦(ふみくに 生没年不詳)は大久保荒右衛門・根津宿之助の名も伝わる。尾張犬山の人で。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に活躍した蕉門俳人。尾張国犬山藩主の養子(旧姓は成瀬)寺尾土佐守直龍(なおたつ)の侍医で、医名は春庵と名乗った。後に京に出て、上洛して仙洞御所に出仕し、また、京都所司代の与力も勤めた。元禄五(一六九二)年に致仕し、翌年の秋には江戸に移住した。芭蕉からは二見形文台や自画像を贈られ、師没後は、逸早く遺句・遺文(特に「嵯峨日記」の伝来は有名)を集めて追悼集「芭蕉庵小文庫」(元禄九(一六九六)年刊)を刊行しているが、俳人としての全盛期は「猿蓑」の頃で、後は飛躍し得なかった。]

 

     史  邦

 

       

 

 史邦という俳人は従来どの程度に見られているか、委(くわ)しいことは知らぬが、あまり評判になっていないことだけは慥(たしか)である。史邦は「シホウ」と読まず、「フミクニ」と読むのだという。しかし「史邦吟士」と称し、「史子」と呼ぶような場合にも、一々音読を避けていたかどうか。明治の阪本四方太氏は本名をそのまま雅号に用いたので、元来は「ヨモタ」であるのを、雅号の場合は「シホウダ」と発音した。長塚節氏も本名は「タカシ」と読むのだけれども、普通には皆「セツ」と称している。史邦の読み方にもあるいはこれに似た消息がありはせぬかと思う。

[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は俳人。鳥取県出身。正岡子規門下。俳誌『ホトトギス』で活躍した。

「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は歌人で小説家。子規門。]

 

 史邦の句に多少注意し出したのは、彼の句に動物を扱ったものが多いように感ぜられたからであった。尤もこういう興味は大分筆者の主観が手伝うので、冷静に勘定して見たら、それほど多いわけではないのかも知れない。史邦の句というものも、全部でどの位あるのかわからず、比例を取って見たわけでもないのだから、動物の句が多いということもどの程度までに立証されるか疑問である。ただ漠然たる考を幾分慥めたいため、この文章を草するに当り、蝶夢(ちょうむ)の編んだ去来、丈艸二家の集についていささか調べて見た。急場仕事で不安心ではあるが、去来の句に取入れた動物の種類約三十一、この外に魚とか虫とかいうだけのものが少しある。丈艸は虫及(および)鳥とだけあるものを除いて三十九。史邦の五十種に比べていずれも多少の遜色があるけれども去来、丈艸の句集は比較的句数が少いので、もっと句数の多い芭蕉とか、其角とかいう人たちの集について見たら、動物の種類もあるいは史邦のそれを超えているかも知れない。そういう比較を多くの句集について試みるのも、別個の問題として面白いかと思うが、筆者が史邦についていおうとするところは、必ずしも多数決にのみよろうとするわけでないから姑(しばら)く他に及ばぬことにする。

 去来、丈艸二家の集に現れた動物の句と、史邦の動物の句とを比べて見ると、種類以外によほど異った点がある。例えば去来集においては時鳥の句十一、鶯の句八、鹿の句七、丈艸集においては時鳥の句十五、きりぎりすの句九、というが如く、種類によって非常に句数の多いものが見えるけれども、史邦の句にはそれがない。去来にしろ、丈艸にしろ、句数の多いものは必ず季節によって観賞に値する種類の動物であるが、史邦の句はこれに反し、季題的動物の上に偏愛の迹(あと)が見えず、馬の句八が最も多く、猫の句六がこれに次ぐ位のもので、他はいずれも目につくほどの数ではない。しかも去来集には馬の句六、猫の句四を算え得るのであるから、馬や猫においては敢て異とするに足らぬのである。

 去来は「鴨啼くや弓矢をすてゝ十余年」と詠(よ)んだ人である。従ってこの人の馬を詠じたものには「うちたゝく駒のかしらや天の河」の如き、「乗りながら馬草はませて月見かな」の如き、その面目を想いやるべきものがある。史邦の句にはこれほど気稟(きひん)の高いものは見当らぬけれども、

 どくだみや繁みが上の馬ほこり    史邦

 板壁や馬の寐かぬる小夜しぐれ    同

   旅行

 瘦馬の鞍つぼあつし藁一把      同

[やぶちゃん注:座五は「わらいちは」。]

 煎りつけて砂路あつし原の馬     同

の如く、妙に実感に富んでいる。路傍に繁った十薬(どくだみ)の葉の上に、馬の埃が白くかかっているということも、板壁を隔ててまだ眠らぬ馬が、しきりにコトコト音させているということも、頗るわれわれの身に近く感ぜられる。去来の句にあるような画趣の美しさは認められぬ代りに、今少し違った味がある。「瘦馬」及「煎りつけて」の二句は、炎天下の馬を描いたもので、句は必ずしも妙ではないかも知れぬが、喘(あえ)ぐが如き大暑の実感を伴っていることは、何人も認めざるを得ぬであろう。

 この種の傾向を示す句の中に次のようなものがある。

   猿蓑撰集催しける比発句して
   心見せよと古翁の給ひければ

 はつ雪を誰見に行し馬の糞     史邦

 「古翁」は芭蕉である。史邦は何時頃から蕉門に入ったものか、委しいことはわからぬが、その句の撰集に見えるのは、大体『猿蓑』あたりからかと思われる。この句はいわゆる写生の句ではない。芭蕉の慫慂(しょうよう)に対して、一応の謙辞を述べたものらしくも解せられるが、姑く句の表だげについていえば、正に雪上に馬糞を点じたもので、伝統的な歌よみや詩人などは頭から眉を顰(しか)めそうな材料である。「初雪にこの小便は何奴(なにやつ)ぞ」という其角の句のように、磊落とか奇抜とかいうわけでもない。初雪の上に誰か馬で通ったと見えて、新なる馬糞が落ちているという事実を、そのまま句中のものとしたのである。句の佳否はともかく、史邦の態度が徒(いたずら)に奇を好むものでないことだけは認めてやらなければなるまい。

 毛頭巾をかぶれば貒の冬籠     史邦

 貒は「マミ」と読むのであろう。他に「猫」となっている書もあるが、いずれにしてもこれはその動物の姿ではない。自ら毛頭巾を被(かぶ)っている様を、マミもしくは猫に擬したものらしい。貒の如しとも、貒に似たともいわず「貒の」といい切ったところに特色がある。貒、猫、字形の相類するところから混雑したのかと思うが、句としてはマミの方がよさそうである。

[やぶちゃん注:「貒」食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma の異名。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及びその前項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」の私の注も参考になると思う。実は良安は今一種(流石に本邦にいるとは記さないが)、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん)(同じくアナグマ)」をも挙げている。]

 身の龝や月にも舞はぬ蚊のちから   史邦

 この句には「高光のさいしやうかく斗(ばかり)がたくみゆるとよみたまひけむは九月十三日の夜とかやうけたまはりて」という前書がついている。「かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな」というのは、『拾遺和歌集』にある藤原高光の歌で、「法師にならむと思ひ立ちける頃月を見侍りて」という前書がある。月に対して人世(じんせい)の憂苦多きを歎ずるのは、古今一貫した人間の常情であろう。史邦も月に対してこの歌を思い、我身の秋をしみじみと感じたのである。秋もうら寒くなるにつれて、次第に飛ぶ力を失いつつある蚊にさえ、落莫(らくばく)たる我身の影を認めたに相違ない。

[やぶちゃん注:「龝」は「あき」(秋)。]

 

 油なき雁の羽並や旅支度 史邦

 雁といわず、鴨といわず、あまりに栄養がよ過ぎて脂肪過多に陥った水鳥は、身体が重くなって長途の飛行に適せぬと聞いている。油なき羽並の雁は即ちその北地へ帰る旅支度の已に調ったことを語るものであろう。こういう句を見ると、史邦の動物に臨む態度の如何にも親しいものであることがわかる。それも後に一茶が振廻したような、殊更な人間的俗情でなしに、もっと自然な親しみである。

[やぶちゃん注:「羽並」は「はなみ」。羽振り。鳥の羽が揃って並んでいる状態や有様。また、多くの鳥が羽翼を連ねて並んでいること様子も言う。地や湖水などにいる情景よりも、試し飛びをしている複数の雁の姿を映像する方が良かろうから、後者で私は採る。]

 

 石竹に雀すゞしや砂むぐり      史邦

 初雪に鷹部屋のぞく朝朗       同

 野畠や雁追のけて摘若菜       同

 こういう句に現れた動物との親しみは、「初蛍なぜ引返すおれだぞよ」とか、「やよしらみ這へ這へ春の行く方へ」とかいう句に喝采する人たちの、よく解するところではないのかも知れない。

[やぶちゃん注:「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。

「砂むぐり」「砂潛(すなむぐ)り」。砂浴び。砂に窪みを作って羽を逆立せるように砂を浴びる行動はスズメに頻繁にみられる。主に皮膚や羽についているダニなどの寄生虫を落とす目的であろうが、羽を逆立せるように動く彼らを見ていると、それ自体を遊びとしても好んでいるかのようにも見える。

「初雪に鷹部屋のぞく朝朗」座五は「あさぼらけ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈を引く。『初雪が清らかに降り積もった早暁、身の引き締まるような気持で、そうした朝にふさわしい鷹部屋をのぞいてみた、というのである。「初雪」「鷹部屋」「朝朗」と脱俗的な雰囲気のものが並び、長(たけ)高い句風になっている。舞台は大名屋敷か武家屋敷ででもあろう。「鷹部屋のぞく」は、朝狩の心用意があってのことかもしれない』とされ、「初雪に」に注されて『ここは初雪が降り敷いていて、空は晴れ上がっているさまとみる』とある。

「野畠や雁追のけて摘若菜」「のばたけやかりおひのけてつむわかな」。堀切氏は前掲書で、『広い野の畠に出て、畦の若菜を摘もうとすると、辺りにいる雁が、人の気配に驚いて飛び立ってゆく――まるで雁を追いのけて若菜を摘むような気がする、というのである。春の若菜摘みの光景の一点描』(いちてんびょう)『であるが、「雁追のけて」という見方がおもしろい』と評されておられる。「若菜摘み」は正月七日の七草を摘む行事。新年の季題である。

「初蛍なぜ引返すおれだぞよ」小林一茶の句。「八番日記」所収の文政三(一八二〇)年の作。

「やよしらみ這へ這へ春の行く方へ」同じく一茶で「七番日記」所収の文化一一(一八一四)年五十二歳の時の句。]

 

   世上をつくぐおもふに

 蚊の声をはたけば痛し耳のたぶ    史邦

   石火の気と云事を

 追立てすねとらへけり蠅の声     同

   間不ㇾ容ㇾ髪といふ事を

 草むらや蠅取蜘の身づくろひ     同

 これらはいずれも小動物を仮りて何者かを現そうとしたものである。耳辺に唸る蚊の声がうるさいから、殺すつもりで打つと、蚊は打てずに耳朶(みみたぶ)の痛みだけが残る、というような事実は世間にいくらもある。史邦もこの意味において「世上」云々の前書を置いたのであろうが、これはいささか理に堕した嫌(きらい)がある。長塚節氏の歌に「ひそやかに螫(さ)さむと止る蚊を打てば手の痺れ居る暫くは安し」「声掛けて耳のあたりにとまる蚊を血を吸ふ故に打ち殺しけり」などとあるが如く、単にそれだけのことを詠んだ方が、句としてはかえってよかったろうと思う。しかし史邦の主眼が最初から寓意にあるのだとすれば、如何とも仕方がない。

 蠅及(および)蠅取蜘蛛の句は、それとは少し趣が違う。石火の気と間不ㇾ容ㇾ髪とかいうことを如実に現さんがために、蠅なり蠅取蜘蛛なりを用いたのであるが、単に思量の上に成ったというよりも、かつて見たところをこの意に当嵌(あては)めたという方が当っているようである。平生からこういう小動物に興味を持っている者でなければ、直にこの趣を捉えるわけには行かない。蠅取蜘蛛が蠅を捕る状(さま)はしばしば目撃したことがあるが、あの呼吸はなるほど間髪を容れずともいうべきものかと思う。

[やぶちゃん注:「石火」(せつくわ(せっか))で電光石火(稲妻の光や燧石(ひうちいし)を打った際に出る火の意から、動きが非常に素早いことや非常に短い時間の喩え)のそれ。「気」はその瞬時の気迫の意。「機」にも通ずる。ここの「すね」(脛)は蠅のそれである。

「追立て」は「おひたてて」。

「間不ㇾ容ㇾ髪」「間(かん)、髪(はつ)を容(い)れず」或いは「間に髪を容れず」元は「間に髪の毛一本さえも入れる余地がない・物事に少しの隙間もないさま」から転じて、ある一つの事態が起きた際、すかさず、それに応じた行動に出るさまを指す。

「蠅取蜘」「はへとりぐも」。節足動物門蛛形(クモ)綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidae に属するハエトリグモ類。ハエトリグモ科は世界的にクモ類中で最大の種数を抱え、かつては五百属五千種が知られ、現在は命名されている種だけで六千種に及ぶが、主に熱帯棲息域を持つ種が多く、実際の種数はおそらくもっと多い。ここで史邦の観察しているそれは、屋外であるから、ハエトリグモ科マミジロハエトリグモ属マミジロハエトリ Evarcha albaria あたりか。しかも、これは蠅を捕らえるためのプレの準備運動という映像である。私が例外的に好きな昆虫である。私は家内に棲む彼らを絶対に殺さない。]

 

 けれども同じ蠅を詠んだ句でも、更に趣の深いのは。

      病中の吟

 蠅打や暮がたき日も打暮し      史邦

である。暮れがたい夏の永い日も、僅に蠅を打つ一事によって暮す、という病牀の徒然(とぜん)な有様で、長病の牀(とこ)の哀れさは「暮がたき日も」の中七字に集っている。「打暮し」の「うち」は、「うち渡り」とか「うち眺め」とかいう接頭語でなしに、蠅打の「打」であるこというまでもない。「たれこめて蠅うつのみぞ五月雨(さつきあめ)」という渭橋の句、「蠅打てあとにはながめられにけり」という千那(せんな)の句、いずれも哀れでないことはないが、暮れがたき日も蠅を打暮す病牀の哀れは遥にこれにまさっている。前の蠅の句、蠅取蜘珠の句の如きは、まだなるほどと合点する分子を含んでいる。この蠅打の句に至って、はじめて作者その人の姿を感ぜしむるものがある。渾然たる出来栄というべきであろう。

[やぶちゃん注:「渭橋」検校(けんぎょう)であった数藤祢一(すどうねいち 生没年不詳)。妙観派の僧で奥村勾当。元禄一三(一七〇〇)年に検校に任官した。俳人としても著名で、渭橋と号し、宝井其角らと連句を作った「たれが家」があり、其角門であった。

「千那」三上千那(慶安四(一六五一)年~享保八(一七二三)年)は近江堅田の本福寺の住職で俳人。江左尚白(こうさしょうはく)とともに近江蕉門の古参であった。田中千梅編の追善集「鎌倉海道」がある。]

佐藤春夫「女誡扇綺譚」ブログ版の再々校正終了

佐藤春夫の「女誡扇綺譚」のブログ版(ブログ・カテゴリ「佐藤春夫」内で十回分割)は、漢字表記の正字に難があったのを、昨夜より総てについて今一度、本文校正を行った。サイト版ではかなり以前にそれを施していた(置換システムで容易だったため)が、ブログ版は初期公開以後、不完全に部分修正するに留まっていたのだが、ブログ版でしか見れない注(サイト版ではカットした部分が多数ある)もあったことから、ブログ版も完全にする必要を感じたからである。また、これは、亡き三女のビーグル犬アリスへの追悼テクストとして私なりに遅きに失した示しをつけるためでもあった。

2020/08/15

萬世百物語卷之三 十、あんや武勇

 

   十、あんや武勇

Anyabuyu

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成したが、中央で左右の幅のズレが甚だしいため、橋の部分の一致を合成基準の基点とし、ズレて見苦しい上下の枠の消去を行い、序でに、そのままではおかしい左右の枠も消去し、汚れも落として掲げた。]

 

 あだし夢、金王櫻のあたり、さる人の下(しも)やしきなんありけり。ひとひ、公(おほやけ)のいとま、したしきがかぎり、

「櫻の花見がてら、心やすく遊びなん。」

と、碁うち、俳諧のわざ人などかてゝ、道の程よりうち入り、庭の長閑(のどか)なるけしきに心とゞめ、酒も、いたふ、しみければ、程なう、日もくれ、燭などたてゝおのがさまざま興ぜられける。賓人(まらうど)ひとり、厠(かはや)に行きなんとせらるゝを、あるじ、人めして、

「ともしかゝげて、まいれ。」

とある。

「いや、おぼろにこそあれ、月も出、燈籠もありて、道、いとおかし。」

などいひて、ひとりぞ、ものせられける。厠は、それよりはるか、築山にそひ、あを木のかげしげりたる中にありける。

[やぶちゃん注:標題の意味不詳。「闇夜武勇」で「闇夜の武勇伝」かと思ったが、「月も出」て「灯籠もあ」る訳であるから、不審。まあ、ただ「ちょっと暗い、相手がはっきりとは見えなかった夜の武勇伝」という意でとっておく(実際には見えてるけど……)。なお、断っておくと、以下、本篇は底本でも「江戸文庫」版でも、ひらがながだらだらだらだら続いていて、非常に読み難い(と私は有意に感じる)ので、執拗(しゅう)ねく読点を打った。

「金王櫻」現在の東京都渋谷区渋谷にある金王八幡宮(こんのうはちまんぐう:グーグル・マップ・データ)にある金王桜のことか。長州緋桜という種類で、一枝に一重と八重が混ざって咲く珍しい桜だという。この桜の歴史について金王八幡宮の「社傳記」によると、源頼朝が父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、その名を後世に伝える事を厳命し、鎌倉亀ヶ谷(かめがやつ)の館にあった憂忘桜を、この地に移植させ、金王桜と名づけたとされているそうである。因みに、「江戸三名桜」とは、この金王八幡宮の金王桜と、円照寺の右衛門桜、白山神社の旗桜と言われているそうである(以上はサイト「桜日和」の「金王桜」に拠った)。ただ私は鎌倉の郷土史研究をしているが、関係史料にこのような記載を見たことがなく、話としても知らない。なお、ウィキの「土佐坊昌俊」によれば、『『平治物語』において、源義朝の死を愛妾である常盤御前に伝えた郎党、金王丸(こんのうまる、渋谷金王丸常光)を昌俊と同一人物する説があるが、史料においては確認されていない』。『伝説では、昌俊=金王丸は、常盤御前とともにいた幼い義経を覚えていたため』、『討つことができなかったとされる。白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の研究によると、金王丸の実在を証明する確実な史料は存在しない』。『金王八幡宮が鎮座する東京都渋谷は、昌俊の祖父であり、桓武天皇の孫高望王の子孫と名乗る秩父党の河崎冠者基家が、前九年の役での武功により』、永承六(一〇五一)年に『与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄にあたる。また同神社は渋谷氏歴代の居城渋谷城の一部で』、寛治六(一〇九二)年に『基家が城内の一角に創建したと伝えられる。今も神社の一隅には金王丸を祀る金王丸影堂があり、傍らに「渋谷城・砦の石」と伝わる石塊が残る』とあった。因みに、ここは私の大学時代の通学路で毎日のようにその鳥居の前を歩いたのであったが、一度もその桜を見た記憶がない。そもそもその境内に入ったこと自体がないのだ。私は大の神道嫌いなので仕方がないが、鎌倉由来の桜があったのなら……と、今、この瞬間、少し惜しい気がしている。

「さる人の下やしき」江戸切絵図を見ると、金王八幡宮東北に接して「諏訪因幡守」の屋敷があり、八幡宮正面には道を隔てて「松平美濃守」の屋敷がある。調べてみると、前者が信濃諏訪家(高島藩)の下屋敷で、後者が筑前黒田家(福岡藩)の下屋敷のようである。この孰れかであろう。]

 

 燈籠のあかりに、ふみいし、つたひ、道ゆく程、

『けさは、あはれに、よしなき事をも、しつる。いかりのまゝ、ふびんさよ。』

など、おもふがうち、厠にいられける。

 窻(まど)より、ともしびのかげに、遠う路次口(ろじぐち)のかた、見やれば、けさ、なきものにしつる中間(ちゆうげん)、ありしすがたそのまゝに、出で來たる。

 かの人、

『あやし。』

とはみれど、したゝかものなれば、よくしづまりて、

『死せる人、かたちあるべきいわれなし。いかさまにも、ふるものゝこうへたるにぞ、あるらん。』

と、おもひわきながら、近寄るほど、うたがひもなき作助なり。

『にくきものかな。』

と、おもひ、

『きと、すまひ、もの見せてくれん。』

など、こぶしにぎり、鼻あぶらひいて、いよいよ、やうだい、うかゞふ。

[やぶちゃん注:「けさは、あはれによしなき事をもしつる。いかりのまゝふびんさよ」突然の内心語で、「何?」っと惑わされる。読み進めても、殺められた故作助の不始末や、それに対する怒りの具体的内容、及び、斬り捨て御免としてしまった経緯など、一切の説明もないのだ。そうして、ネタバレになるが、それらは最後まで明らかにされないのである(実際には無駄に期待を持たれるよりも遙かにいいと思うの確信犯で述べた)。この手の怪奇談ではここまで大胆な前振り無し、後の述懐も無し。というのは全くの特異点でと言える。思い切った構成だが、やはり不満の残るところで、個人的には生理的にムズムズ感が残って「好きくない」。それは登場人物の誰にも読者が感情移入出来ないという異常な作物だからであろう。

「遠う路次口」「遠う」はママ。「遠く」のウ音便。かなり遠く離れた、屋敷裏の路地へと通ずる小道の先の、裏木戸口の謂いか。

「いわれ」ママ。

「ふるものゝこうへたる」「古る物の劫經たる」。長い年月生きた古い生き物が変化(へんげ)となったものであろうという推定である。

「おもひわきながら」「思ひ別きながら」。冷静な思慮を以って分別しながらも。

「きと」「屹度(きつと)」の縮約ととった。

「すまひ」ハ行四段自動詞「爭(すま)ふ」か。「張り合って・争って」。

「鼻あぶらひいて」「鼻脂を塗る」で、ここは「うまくゆくように十分に準備する」の喩え。

「やうだい」「樣體」「樣態」。その人の形をしたものの様子や行動。]

 

 戶のそとまで來たりしが、さすが内へも、ゑいらず、戶を、手して、外より、おさへける。

 かの人、

『入りたらば、あびせん。』

と、おもへど、えいらねば、

『今は。』

と、こなたより、足(あし)して、厠の戶を、け出(いだ)し、おもひかけず、おどろく所を、とびちがへて、ぬきうちにぞ、うたれし。

 きられて、ものもいわず、かけ出し、うせぬ。

「まさに手ごたへしつるは。いかさまにも、みしらせつ。」

と、燈籠の火かかげてすかすに、刀にのりも、ついたり。

「さては。」

と鼻紙(はなばみ)しておしぬぐひ、さらぬていに手水(てうづ)などしまひて、手ふきながら、座にぞ、いられける。

[やぶちゃん注:「あびせん」「一太刀、浴びせん」である。

「け出し」「蹴出し」。戸を勢いよく瞬時に蹴り飛ばし。

「おもひかけず、おどろく」主語は作助(のようなるもの)。

「とびちがへて」ぱっと体を左右孰れかに飛び交(か)わして。

「みしらせつ」「見知らせつ」。手応えはあったが、どうなったかは判らないので、『しっかりと思い知らせてやる!』と念じたのである。

「のり」血糊(ちのり)。]

 

 人、よふで、

「たそ、泉水のあたり見て給へ。ものおとしつ。」

と、の給ふ。

 あるじ、

「とく、まいれ。」

とあれば、近習(きんじふ)の小坊主、ともし、とつて、行きける。

 しばらくありて、いき、つぎあへず、かけ歸りて、

「何もおちてはなく候(さふらふ)が、池水の内に、何やら、あやしきもの、ばたつき候。え見申さぬ。」

と、いふも、おくして、おかし。

「さればこそ。せうこなければ、かたられず。かくのゆへ、ありつ。」

と、いわるゝに、一座、きほひて、

「めづらし事(ごと)。」

とて立出(たちいで)見らる。

 大きなる、ふるだぬき、したゝかに、しりをも、かけて、やりつけられ、死(しに)もやらで、ばたつきける。

 せんせうの、ばけものなり。

 ていしゆ、みてよろこび、

「是れこそあれ、やしきに住みぬる門(かど)の長(をさ)の年ふるを、さむき夜、あはれにも、いくたびか、たぶらかしける、いんぐわにこそ。」

と笑われける。

[やぶちゃん注:「よふで」ママ。「呼びて」。

「たそ」「誰(た)そ」。誰か。

「近習」主君のそば近くに仕える役。一般に若い者が選ばれ、同性愛の相手ともされた。

「小坊主」少年。ここは卑称。

「いき、つぎあへず」「息、繼ぎ合えず」。激しく何かに驚き、呼吸がひどく乱れて、ハアハアしている様態を指す。

かけ歸りて、

「ばたつき」激しくバチャバチャと音を立てており。相応に大きな物なのであろう。だから次の弁解が出る。

「え見申さぬ」恐ろしさのあまり、とてもそれが何であるか見ることも出来ませなんだ、の謂い。

「おくして」「臆して」如何にも気後れして、おどおどして。おじけていて。

「せうこ」ママ。「證據」(しようこ)。ここは特異な用法で、私が「物を落した」と言ったのは嘘で、実は別に隠して御座った別の理由(根拠)があった、ということ自体全体を指すのであろう。それで以下、「かくのゆへ、ありつ」と、初めて、さっき体験した怪異とその顛末を一座におもむろに披露したというわけである。

「いわるゝに」ママ。

「きほひて」「氣負ひて」。酒も入っているため、皆、意気込んだのである。

「しりをも、かけて」「尻をも、缺けて」ととった。先の一太刀で尻の部分を大きく斬り、抉られたものであろう。

「せんせう」意味不明。仮名遣が正しいとならば、「淺小」「尠少」で「(妖術の程度が)とても浅く小さいこと」或いは「淺笑」(ちょっぴり可笑しいこと)か。歴史的仮名遣の誤りとなると、「僭上」(せんしやう/せんじやう)で「分を過ぎて驕り高ぶり見えを張ること」や、「賤匠」(せんしやう:身分の低い技しか持たぬ存在)か。

「いんぐわ」「因果」。

「門の長」門番の老人。多くは長屋門の長屋の一部分に住んでいた。]

佐藤春夫「女誡扇綺譚」の誤認部分の修正完了

私の三年前の佐藤春夫の「女誡扇綺譚」電子化注について、一昨日、近代日本文学研究者の河野龍也先生より、誤った箇所の御指摘を戴いた。今朝より修正を始め、先程、ブログ版(十回分割。但し、修正箇所は冒頭注と「一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の中の一つ)及びサイト一括版を同時に修正した。河野先生のメールは非常に詳細で丁寧なもので、私自身、非常にありがたい気持ちに包まれた。ここに深く感謝申し上げるものである。

2020/08/14

ヨット――金沢八景――遠い昔……

今日、友の誘いで、ヨットで金沢文庫の沖までクルーズした……思い出す……五十四年前……父の当時の職場の人々と東京湾へ釣りに出た――小学校の三、四年のことだ――直に僕は船酔いになり――父は舟乗りに謝って、一緒に八景の小さな港に蒼褪めた僕と降りたのだった……「ああ、父さん! ごめんね……」…………

2020/08/13

佐藤春夫「女誡扇綺譚」の修正について

私の佐藤春夫の「女誡扇綺譚」電子化注について、河野龍也先生より、誤った箇所の御指摘を戴いた。大変、ありがたく思っている。明後日より、修正を開始する。
ブログ版)(サイト版

 先生より、
   *
芥川の中国紀行が岩波文庫に入ったとき、山田俊治さんが本を送ってくださいました。ご承知のことかと存じますが、解説に藪野様への謝辞が見えたのが強い印象に残っております。大学で文学を学ぶ教室でも、藪野様の広い視野にわたる注釈の恩沢に浴している教員・学生も多いはずですが、ふだんはお世話になる一方でございます。今回このような機会にお話しできるのはありがたく、長年の積み重ねに改めて敬意と感謝を申しあげます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

   *
と過褒を頂戴しました。

私は自分やっていることが、全くは無駄ではないと感じたのでした。

もう少し、僕は生きられる気がしたのです――

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 六 / 丈艸~了

 

       

 

 丈艸の句には前書附のものが相当ある。しかし前に挙げた芭蕉関係の諸句の如く、前書によって丈艸その人の面目を窺い得るようなものはあまり多くない。

   閑居

 朝暮にせゝる火燵や春のたし    丈艸

[やぶちゃん注:上五「あさくれに」、「せゝる」は掻き立てるの意で、「火燵」は「こたつ」、「たし」は「足し」でこの春の日々の暮らし中で、それぐらいのことしか補えることはない、の意。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、掲句は「小柑子」(しょうこうじ:野紅編・元禄一六(一七〇三)年自跋)のもので、翌年の「土大根」(つちおおね:季水編・宝永元(一七〇四)年序)では、「風士季水病僧がほ句をなど申こされしに」と前書し(この年の改元前の元禄十七年二月二十四日に丈草は没した)、没後の宝永三年の「丈草発句集」では、上五を「朝夕に」とする、とある。]

 

   三月尽

 明ぬ間は星もあらしも春の持    同

[やぶちゃん注:「三月尽」は「さんぐわつじん」で三月の終わること。三月の晦日。上五「あけぬまは」、「持」は「もち」で「未だ受け持ちの分(ぶん)」の意。松尾氏前掲書によれば「喪の名殘」(ものなごり:北枝編・元禄十年刊)の句形で、『今日はもう三月尽。でも、』明日の『朝が来るまでは星もまだ春の星。強く吹く風もまた春の風。夜明けまで、春の名残を惜しむべし』と評釈され、また、「泊船集」(はくせんしゅう:風国編・元禄十一年刊)では上五を「行春や」とするとある。前書とともに「明けぬ間は」がいい。]

 

   年内立春

 十五日春ものし込年わすれ     同

[やぶちゃん注:「年内立春」いつもお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「暦のページ」の「暦と天文の雑学」の「年内立春と新年立春」に、以下のようにある。

   《引用開始》

.立春正月の意味

旧暦は立春正月の暦であるというのは、年の初め(歳首または年首)が立春前後に来るように調整された暦と言うことで、ぴったり同じになるという意味ではありません。

どれくらい前後するかというと、「最大±半月」です。

このようなずれが起こってしまうのは、旧暦が日次(ひなみ)を月の満ち欠けという太陰暦の要素から決定し、月次(つきなみ)を太陽の動きを示す二十四節気という太陽暦の要素から決定する太陰太陽暦であるための宿命のようなものです。

月の満ち欠けの周期と太陽の一年の動きの周期が割り切れないものであるため、月次を二十四節気にあわせて配置しても、日次の始まりである朔(新月)の日はぴったり二十四節気には合わせられないのです。

仕方がないので折衷案として、「最大±半月」の範囲内で一致すれば良いことにしたのが旧暦です。

2.年内立春と新年立春の意味

旧暦のシステムでは元日と立春の日付が最大±半月ずれることがあると言うことはおわかりになったと思います。

この「±」のうちの「-」、つまり旧暦の元日より早く立春を迎えてしまうことを年内立春と呼びます。

これに対して「+」、つまり旧暦の元日以降に立春が訪れる場合を新年立春と呼びます。

2007/2/4は立春ですが、この日は旧暦ではまだ12月ですから[やぶちゃん注:陰暦では1217日。]、元日より早くに立春を迎えた(つまり「-」側)例で、「年内立春」の例と言えます。

3.「年内立春」は珍しい?

こよみのページへ寄せられる質問や、掲示板への書き込みなどを読んでいると、旧暦の元日を迎えるより前に立春を迎えてしまうという年内立春は珍しい現象だと思っている方が多いようです。実を言いますと昔私も、「珍しい」と思いこんでおりました。

でもこれは(も)誤り。年内立春はほぼ2年に一度は起こるありふれた現象なのです。

[やぶちゃん注:中略。]

4.年内立春が「珍しい」と誤解される理由は?

年内立春がありふれた現象だと解って頂けたと思います。

ではなぜ、珍しい現象と誤解する人が多いのでしょうか。

ここからは、私の勝手な推理ですので、お暇な方だけおつきあいください。

  ふるとしに春たちける日よめる  在原元方

 『年の内に 春は来にけり ひととせを 

       こぞとや言はむ 今年とや言はむ』

古今集の冒頭を飾る歌で、年内立春といえば必ずこの歌が引用されるほど有名な歌でもあります(現に私も引用しています)。

意味はといえば、

 「年が変わらないうちに立春が来てしまったこの年を、

    去年と言うべきか、今年と言うべきか」

と言ったところでしょうか。

年内立春に戸惑っているといった印象を受ける歌です。

歌の善し悪しは私にはわかりませんが、何とも軽妙な感じで覚えやすい上、古今集の冒頭を飾る歌であるということで、よく知られた歌であることだけは間違いありません。

そしてそんな誰もが一度は聴いたことのある歌が、年内立春に戸惑っているような印象の歌ですから、

 旧暦時代の人も年内立春に戸惑っている

   → 戸惑うということは、珍しい経験に違いない

     → 年内立春は珍しい経験なのだ

と連想が進み、「年内立春は珍しいこと」という誤った結論に結びついてしまっているように思えます。

歌を作った在原元方が本当に、年内立春に戸惑っているのかどうかは何とも言えないところです。昔の人だってみんながみんな、暦に詳しいわけでは無かったでしょうから、本当に戸惑っているのかもしれませんが、2年に一度はあることなら、素人でもそんなに不思議な現象とは思わなかったと私は思います。

件の歌は、「年内立春」というちょっと変わった歌の題をもらって、さてどうしようかと考え、年内立春という言葉に潜む解っているけどどこか釈然としない感覚をウィットを効かせて軽妙な歌に仕立てたものではないかと想像します。

その時代の人たちにとっては、元方が歌に込めた「なんだか釈然としない思い」が良く了解できるので、おもしろい歌と受け取れたのでしょうが、今となっては、年内立春という余りなじみの無い言葉を歌った、特別な意味を持った歌と映るようになったのではないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

因みに、例えば、来年二〇二一年の立春を調べてみると、二月三日であるが、この日は陰暦では十二月二十三日となり、年内立春なのである。因みに、芭蕉にも、

   廿九日立春ナレバ

 春や來(こ)し年や行きけん小晦日(こつごもり)

という年内立春を詠んだ句がある(「千宜理記」)。

旧暦で大晦日(おおみそか)は「大晦日(おほつごもり)」で、その前日を「小晦日」と呼ぶ。この句は寛文二年(一六六二)年年末の詠とされるが、この年の十二月は小の月で十二月二十九日が大晦日に当たり、しかも立春だった。「小晦日」は不審を感じさせる言い方であるが(諸注釈は誰もそれを問題にしていないのだが)、これは一般に大の十二月三十日の場合のそれを大晦日と呼んでいたことに対して、音数律から判り易く句に用いたに過ぎないように思われる。因みに、この句は制作年代が判明している芭蕉の作では最古のものとされる。芭蕉十九歳の春のことである。先の在原元方の一首をもじると同時に、「伊勢物語」六十九段や「古今和歌集」(よみ人知らず・「卷第十三 戀歌三」・六四四番)に出る「君や來し我や行きけむ思ほえず夢か現(うつつ)か寢てか覺めてか」の措辞を裁ち入れた、如何にも貞門の優等生の諧謔である。]

 

というような句は、いわゆる題詠の類ではないにせよ、丈艸に対して何らかの鍵になる性質のものではない。「十五日」の句は「寒は既望の日より明て風景ことさらに悠然たり」という前書になっているのもある。この句を解する上に多少の便宜はあるが、格別注意を払わなければならぬ前書でもなさそうである。

[やぶちゃん注:「既望」陰暦十六日の夜を指す。]

 

 丈艸にはまた餞別、離別等の前書を置いたものがいくつもある。

   餞別

 見送りの先に立けりつくづくし    丈艸

[やぶちゃん注:「つくづくし」は実景の中に見える土筆のことではあるが、副詞の「つくづく」(熟(つくづく))の「凝っとよくよく(相手の去って行く)姿を見つめるさま」や、「(別れを)痛切にしみじみ感じ入るさま」、或いは「もの寂しく、ぼんやりしているさま。つくねん」の意を重ねているものと思う。松尾氏前掲書では、『土筆は旅立つあなたの道しるべのようであり、そして、しだいにあなたは土筆のように小さくなって、遠ざかる、元禄十四年春、仏幻庵を離れる支考に贈った餞別吟』とある。]

 

   餞別

 瓢簞の水の粉ちらす別かな      同

[やぶちゃん注:「水の粉」は「みづのこ」で、米や麦を炒り焦がし、粉に挽いたもの。冷水で溶かし、砂糖を加えなどして食する。「こがし」「いりこ」「水の実」等とも呼び、夏の季題である。瓢簞(ひょうたん)の水で以って「水の粉」を溶かしては二人で分け合って飲み、それをお別れとしよう、というのである。]

 

   餞別

 さしむかふ別やともに渋団      同

[やぶちゃん注:座五は「しぶうちは」。柿渋を塗って破れにくくした大きな団扇。本来は夏の季題。風を送ると同時に蚊を払うのに用いられた。松尾氏前掲書に、『元禄六年三月下旬、江戸に旅立つ史邦(ふみくに)からの〈慇懃(いんぎん)に成しわかれや藤の花〉のと留別吟に対する餞別吟』とある。三月と「藤の花」は無論、晩春であるが、少しばかり、早い日が別れのそれであったものか。季語無用論者の私には特に違和感はない。]

 

   やよひの廿日あまり関に
   蘆文に別るゝとて

 落著のしれぬ別れやいかのぼり    丈艸

[やぶちゃん注:「蘆文」は美濃関(現在の岐阜県関市(グーグル・マップ・データ))の佐野氏。蕉門の故老。上五は「おちつきの」。「いかのぼり」で春。松尾氏前掲書に、『これからさきの旅路はどこにどう落ち着くことやら。中空にゆらゆら漂うあの凧のように。元禄六年』(一六九三年)『三月二十日、美濃の関で芦文に残した句』とある。この翌年に師芭蕉が亡くなることを考えると、丈草の個人的な内心に既にして孤独な漂泊の翳が強く落ちていることが窺える。丈艸三十の春の一句である。]

 

   惟然行脚におくる

 炎天にあるき神つくうねり笠     同

[やぶちゃん注:「あるき神」(がみ)は、芭蕉が「奥の細道」の冒頭で「そゝろかみの物につきてこゝろをくるはせ」と挙げた「そゞろ神」のことであろう。私は『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉』で、『不思議な神名だ。諸注、何となく何心なく人の心を旅へと誘う神として芭蕉の造語とする。そうであろう。しかし如何にも美事な神名ではないか! ウィトゲンシュタインも言っている。――「神は名指すことは出来るが、示すことは出来ない。」――「そぞろ神」とはまさに、そうした神の名としてコズミックでエターナルな魅力に満ちている!』と注をやらかした。相手がかの惟然なればこそこの一句素晴らしい餞別句と言える。]

 

   離別

 別るゝと鉢ひらきなり草の露     同

[やぶちゃん注:「鉢ひらき」から見て、相手は行脚僧ではなかろうか。]

 

   つくし人を送りて

 大仏を彫る別れやあきの風      同

[やぶちゃん注:判るる「筑紫」のお方、知りたや。]

 

これらの句の相手は何人であるか、蘆文、惟然の外は明でない。

 

   獅子庵の主人東西両華の廻国
   終りて此春又うき世の北の山
   桜見ばやと思ひ立申されしが
   一日湖山の草廬を敲て離別の
   吟を催せり、折節山野が屛居
   の砌なれば麓迄送り行に班荊
   の志にもまかせず、むなしく
   栗津の烟嵐に向ひて遊鳥一声
   の響に慣ふのみ

 松風の空や雲雀の舞わかれ      丈艸

「獅子庵の主人」は支考である。『東華集』『西華集』の両書を上梓して後、更に北越に遊ばむとして丈艸の庵を訪うたものと見える。「うらやましうき世の北の山桜」は芭蕉の句、句空がこれによって『北の山』なる書を撰していることは、人の知るところであろう。

[やぶちゃん注:「東西両華」これより前、京・近江・伊賀・伊勢・中国・四国・九州及び江戸と、東西広域に俳諧行脚し、元禄一一(一六九一)年の西日本の旅の集成「西華集」(同十二年刊)、翌元禄十二年には「東華集」(同十三年刊)をものしていることを指す。

「此春」は元禄十四年春のこと。但し、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の注によると、「東西夜話」(支考編・元禄十五年刊)に『よれば、支考の京出立は四月一日で』『初夏』『であったか』とある。

「うき世の北の山桜見ばや」堀切氏の注に、『芭蕉が加州白山へ奉納した「うらやましうき世の北の山ざくら」(『北の山』)の句によるもので、ここは北陸への旅をさす』とある。

「草廬」(さうろ(そうろ))は丈草の仏幻庵を指す。

「敲て」は「たたきて」。

「屛居」は「へいきよ(へいきょ)」。堀切氏曰く、『丈草が元禄十四年の春、「今年草庵を出でじとおもひ定むる事あり」と前書した「手の下の山を立きれ初がすみ」(『蝶すがた』)の句を詠んで、三年閉関禁足の生活に入ったことをいう』と注されておられる。

「砌」は「みぎり」。

「班荊の志」は「かんけいのこころざし」で堀切氏の注に、『春秋時代の「班荆道故」の故事(『春秋左氏伝』巻二十六)に囚むもので、朋友と道に遇って故郷を語り合うことを意味する。「班刑」とは荊を地に布いて坐る意である』とある。「班荊道故(はんけいどうこ)」は、暫く会っていない昔の友人と偶々出会って語り合うことで、「班荊」は草を敷くことを謂い、「道故」は「話をすること」の意。春秋時代、伍挙が楚から亡命して晋に赴く途中、古い友人の公孫帰生とたまたま出会って語り合ったという故事に由る。「荊を班きて故を道う」とも読む。「荊」は茨(いばら)だから、地に敷こうとして手近にあったのはそれしかなく、それを敷いてでも親しく話をするというニュアンスがあるのだろう。

「烟」「けぶり」。

「嵐」「あらし」。強い風。

「慣ふ」「ならふ」。真似する。

「松風」堀切氏はこの句の「松風」と「舞(まひ)わかれ」について、『謡曲『松風』で、「中の舞」にかかるとき、シテの松風が涙をおさえながら、小走りに橋掛りへ行き、ツレの村雨も泣きながら戻ってくる場面での地謡「立ち別れ」になぞらえたものか』とされる。「松風」については、小原隆夫氏のサイト内のこちらが詞章もあってよい。その「あらすじ」によれば、『ある秋の夕暮れのことです。諸国を旅する僧が須磨の浦(今の神戸市須磨区付近)を訪れます。僧は、磯辺にいわくありげな松があるのに気づき、土地の者にその謂れを尋ねたところ、その松は松風、村雨という名をもつふたりの若い海人の姉妹の旧跡で、彼女らの墓標であると教えられます。僧は、経を上げてふたりの霊を弔った後、一軒の塩屋に宿を取ろうと主を待ちます。そこに、月下の汐汲みを終えた若く美しい女がふたり、汐汲車を引いて帰ってきました。僧はふたりに一夜の宿を乞い、中に入ってから、この地にゆかりのある在原行平(ありわらのゆきひら)の詠んだ和歌を引き、さらに松風、村雨の旧跡の松を弔ったと語りました。すると女たちは急に泣き出してしまいます。僧がそのわけを聞くと、ふたりは行平から寵愛を受けた松風、村雨の亡霊だと明かし、行平の思い出と彼の死で終わった恋を語るのでした。姉の松風は、行平の形見の狩衣と烏帽子を身に着けて、恋の思い出に浸るのですが、やがて半狂乱となり、松を行平だと思い込んで、すがり付こうとします。村雨はそれをなだめるのですが、恋に焦がれた松風は、その恋情を託すかのように、狂おしく舞い進みます。やがて夜が明けるころ、松風は妄執に悩む身の供養を僧に頼み、ふたりの海人は夢の中へと姿を消します。そのあとには村雨の音にも聞こえた、松を渡る風ばかりが残るのでした』とある。

 本句について、堀切氏は以下のように評釈されておられる。『元禄十四年の春、北陸の旅に向かう支考を送ったときの餞別吟である。湖畔の松並木を吹く風が音を立て、その上には青空がひろがっている。その青空にもつれ合うように囀っていた二羽の雲雀が、風の強さのためか、つっと左右に舞い別れていったというのである。舞い別れるのは雲雀ばかりでなく、支考と丈草であり、どことなく離別の哀愁の漂ってくる句である。この句、近江八景の一 「栗津の晴嵐」にちなむとともに、謡曲『松風』で、シテの松風とツレの村雨(ともに霊)が別れる場面の地謡にある「立ち別れ」のことばになぞらえ、また「ツレたとひ暫しは別るるとも、待たば来んとの旨の葉を、シテこなたは忘れず松風の、立ち帰(かえ)り来(こ)んおん音(ノと)づれ(下略)」の詞章をふまえての着想であろう』とある。]

 

   身を風雲にまろめあらゆる乏
   しさを物とせず、唯一つの頭
   の病もてる故に枕のかたきを
   嫌ふのみ惟然子が不自由なり、
   蕉翁も折々之を戯れ興ぜられ
   しにも此人はつぶりにのみ奢
   を持てる人なりとぞ、此春故
   郷へとて湖上の草庵を覗かれ
   ける幸に引駐て二夜三夜の鼾
   息を贐とす、猶末遠き山村野
   亭の枕にいかなる木のふしを
   か侘て残る寒さも一入にこそ
   と後見送る岐にのぞみて

 木枕の垢や伊吹に残る雪       丈艸

 惟然が芭蕉と一緒にどこかへ泊った時、丸太を切っただけの枕を出された。頭が痛くて眠れず、帯を枕に巻きつけて寝たら、芭蕉が笑って、惟然は頭の奢に家を失ったか、といったという話がある。芥川氏がこの「木枕」の句を挙げて「この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであう?」と評したことは本文の初に引用した。残雪の美しさは固よりであるが、「木枕の垢」の一語は惟然の風丰(ふうぼう)を躍動せしめるものでなければならぬ。丈艸がこれらの俳友に対する態度は、あるいは雲の来去に任すが如きものであったかも知れぬが、そのいずれにもしみじみとした情の滲み出ているのは、丈艸の人物を考える上に、看過すべからざるところであろう。

[やぶちゃん注:「頭」後に合わせて「つぶり」と読んでおく。「かしら」「あたま」でも別段、構わぬ。

「奢」「おごり」。贅沢。このエピソードは以前に「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」の「広瀬惟然」の注で私が引いた伴蒿蹊著「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」にも出ていたので、参照されたい(ネタ元は以下で堀切氏の示される支考の俳文であろう)。

「幸に」「さひはひに」。

「引駐て」「ひきとどめて」。

「鼾息」「いびき」。

「贐」「はなむけ」。「餞」に同じい。

「野亭」野中の小屋。

「侘て」「わびて」。

「一入」「ひとしほ」。

「後」「うしろ」。

「岐」「わかれみち」。

 堀切氏前掲書の評釈を引く。『元禄八年春、木曾塚の無名庵に丈草を訪ねた惟然が、二、三日滞在したのち、故郷美濃へ向けて出立するときに、はなむけた句である。折しも伊吹山には残雪が白く残っているのが遠望されるが、これから旅立つあなたは、この草庵でそうであったように、旅先の宿でも、さぞ、苦手な固い木枕に寝て、その木枕についた垢に辟易することだろう――だが、どうか身体には十分気をつけて旅を続けてほしいと祈るばかりだ、というのである。一句、木枕の垢のイメージと伊吹山の残雪のイメージとが、どことなく照応し、それぞれのイメージがダブって映ってくるところが絶妙である。伊吹山は近江・美濃国境にそびえ、山の向こう側に郷国をもつ惟然・丈草のふたりにとって、共通のなつかしい山でもあった。また、長い前書からうかがえるように、平生枕の硬いのを嫌った惟然坊に対する丈草一流のユーモアも託されているのである。支考の「貧讃ノ賛」(『本朝文鑑』巻八)なる一文に、ある夜、木曾寺で雑魚寝した際、惟然が枕を帯でくるくる巻きにしているのを見た芭蕉が「さなん鉢びらきの境界ながら、天窓に栄耀の残りたれば、さてはかの千両の金は、あたまにこそつゐ(ひ)えけめ」と戯れたことが伝えられているが、そうしたエピソードをもふまえての送別吟であったわけである』。なお、「伊吹」に注され、『近江国(滋賀県)と美濃国(岐阜県)の国境にそびえる山。その残雪は山麓一帯の厳しい余寒の象微である』とされる。

『芥川氏がこの「木枕」の句を挙げて「この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであう?」と評した』「丈艸 一」で示した通り、芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(リンク先は本「丈艸」のために急遽、私が電子化したものである)中の一節である。]

 

 丈艸には行脚旅行の産物と見るべきものが乏しい。以下少しく丈艸自身動いている句を列挙する。

   美濃の関にて

 町中の山や五月ののぼり雲      丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『元禄十三年夏、美濃の関の箕十』(きじゅう)『亭(円慶寺)に遊んだときの吟である。町の真ん中に山がそびえている、この関の里