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2020/08/18

萬世百物語卷之四 十三、山賊の美童

 

   十三、山賊の美童

Sanzokunobidou

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成したが、今回はかなり綺麗に接合出来たので、上下左右の罫線を除去し、画面の中も可能な限り清拭した。]

 

 あだし夢、いづれの時にかありけん、越後の國村松の侍大野何某と云ふもの勤番の事あたりて江戶へ下りける。

 やうやう、信濃路にかゝりて、榊(さかき)といふ所に着く。[やぶちゃん注:「越後の國村松」江戸時代に入ってからの話柄ととるならば、越後国蒲原郡の内、村松・下田・七谷・見附地方を支配した村松藩の藩庁が置かれた村松城(現在の新潟県五泉市村松。グーグル・マップ・データ。以下、同じ)のあった附近かと思われる。村松藩は寛永一六(一六三九)年に堀直寄の次男堀直時が安田三万石を与えられたことに始まり、寛永二一(一六四四)年五月、直時の子堀直吉の時代に領地替えが行なわれて陣屋を安田から村松に移したことから、正式な村松藩が始まった。村松藩はその所領の大半が山間地であったため、新田開発を成しても石高の伸びは少なく、貞享四(一六八七)年では実質的な石高は四万石だったと言われている(ウィキの「村松藩」に拠る)。

「榊」現在の長野県埴科(はにしな)郡坂城町(さかきまち)か。但し、ここが嘗て「榊」と表記した事実は見当らない。]

 

 宿のはづれより、少人(せうにん)の年十七ばかりともみゆるは、道のつかれにおもやせたるゆへなるべし、いかさまにもたゞものならずとみへて、容貌・裝束・刀・脇指のさままで、風流しほらしき體(てい)ながら、供の人ひとりもぐせず、すげ笠・竹杖(たけつゑ)などぞ、わづかに旅よそほひとみへて外(ほか)、たゞしどけなう、わらぐつふみなれたるさまにもなく、いたう困(こう)じたるとみへ、爰の松かげ、かしこの芝野にうち休みければ、今はさぞ程もさがらんとおもふに、さもなく、大野が馬の跡になり、先になり、その日もやがて、宿つくまでになりにけり。

[やぶちゃん注:「少人」少年。

「いかさまにもたゞものならず」直接には前を受けて「見るからに尋常な様子ではなく、具合が悪そうに見えて」であるが、後にもかかって、「見るからにその容姿・風体(ふうてい)・持ち物から見てただの田舎の青侍とは違うと見えて」の意も添えているのであろう。

「しほらしき」「しをらしき」が正しい。「風流」を受けるから、いかにも優雅感じでの意。]

 

 荷など馬につけかゆる程立ちやすらへば、少年もかたはらにこしかけ、竹杖をもろ手にすがりて休み居たり。

 大野、けさより『あやし』と見とがむれば、

「いづかたへ通らせ給ふぞ。爰は引はぎなど申すもの多所なるに、少年ひとり旅させ給ふ。いづかたへか。心もとなし。」

と、いふ。

「われらは越後筋のものにて是非なき旅つかまるが、心ぼそし。」

と語る。越後といふになつかしき、

「我らも村松よりまいる。越後はいづかたにか。」

とふ。

「長岡。」

と答ふ。

「しからば城下の御方ならんか。何ゆへに、いづ方へか。」

と、くどうものすれど、すこし、はゞかる體(てい)にて、

「江戶へ。」

と、のみ、いひさして、また、先にたちて行きける。

[やぶちゃん注:「長岡」越後国の古志郡全域及び三島郡北東部・蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた長岡藩。藩庁は長岡城ウィキの「越後長岡藩」の同藩の歴史を見ると、元和二(一六一六)年に外様大名の堀直寄が八万石をもって古志郡の旧蔵王堂藩領に入封したが、蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、直寄はその南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城し、城下町を移して長岡藩を立藩している。但し、直寄はわずか二年後の元和四年に越後村上に移され、代わって、譜代大名牧野忠成が入封、牧野家は堀家ら外様大名の多い越後を、中央部にあって抑える役割を委ねられたとある。寛永二(一六二五)年には将軍秀忠から知行七万四千石余の朱印状を交付されている。されば、同じ越後国とは言うても、村松藩と長岡藩は歴史的経緯から格の差甚だしく、関係も良好ではなかったことが判る。]

 

 大野、かのけはいをみるより、何となく心うかれ、

『さだめて、親などのつよきいさめに、わかき心の一たんにうかれ出づるか、または、侍のいきぢ、おさな心にも首尾かなわで、人などをうちたるや。あはれ、同宿にてもせば、世話して下らんものを。』

と、おもひ、馬に付きたる若黨して、いはせけるは、

「もはや、みるまゝ日もすでにくれぬ。少年の御心ぼそき體(てい)忍びがたう存するなり。あはれ、同宿もくるしかるまじうは、我が宿にも御入りあれかし。」

と、いひやる。何のいなめるさまもなく、

「こなたよりこそ申さまほしき。それは御芳志なるべし。」

と、うれしげに立ちどまれば、

「我らは、此ごろ、うち乘りつゞけたる馬上、退屈なり。ちと、めされよ。」

と、我が馬にうちのする。さのみ、いやしうもじたいなく、大やうにうちのりて、程なくけふの泊りにもついてけり。

[やぶちゃん注:「いきぢ」「意氣地」。

「かなわで」はママ。「叶はで」。]

 

 いつしか、ゆく衞しらぬ人もしたしきたぐひにさへ、いまはまされるさまして、心やすげになりもて行く。

 大野、おりおり、わかちをとふに、

「たゞおやのいさめに、ふと、おもひわかで、まうでつるが、江府(がうふ)に伯父なる神川(かみかは)たれといふものをたより、我名は神川三之丞。親は、かの家にて神川何と申す。」

と、へだてなきうちにも、くわしきわけは、しのびがほなるぞ、じでうして、人、うちたるに、さだめて、我手柄、かくせるも、おくふかうおもへば、それよりは、しいてもたづねず。

[やぶちゃん注:「わかち」「分かち」。かく一人旅をすることとなった具体的な事情や訳(わけ)。

「おもひわかで」「思ひ分かで」。冷静な判断もせずに。

「江府」江戸。

「かの家」越後長岡藩牧野家家士の中。

「じでうして」不詳。「事情(じじやう)して」で「あるよんどころない訳があって」の意か。

「しいても」ママ。「强(しひ)ても」。]

 

 かくて、たがいにわりなき中となり、ひるは馬を並(ならべ)て打乘(うちのり)、玆(ここ)の名所をとひ、かしこの泊りをかさね、たはむるれは道のなぐさみ、遠路(ゑんろ)もちかき心に、終(つひ)に枕ならぶるむつごとも、ながき世までとちぎり、板橋に着(つき)ける。

[やぶちゃん注:当時の習慣ではこうした若衆道に入るのは、武士世界では至って普通のことである。見染めた年上の武士が、若侍の父母に義兄弟の契りを望み誓約書を交わして、少年の父母から公認の許諾を受けるという礼式も普通に行われたのである。

「たがい」ママ。

「板橋」現在の東京都板橋区板橋附近。旧中山道の日本橋から一つ目の宿場。]

 

「あすは江府に打ち入り、まづは互にわかれなんが、しばしさへ、わかれといふ名のつらくて。」

と、酒など、うちのみ、

「もはや、ふし給へ。」

と、いへば、三之丞、

「いましばし、かたらせ給へ。江府に至りて、おぢが方にまからんほど、二、三日はへだたるべきよしなさ。」

とて、ふしがたがる。

 げには、一日三秋とかや、いにしへより、まち久しき事にいひならはせり。

「かつは、長の旅路、事なう是れまでつきたるも、目出たさ。」

など、いひて、盃(さかづき)さしさゝるゝも、たゞふたりにて、へだてなげなり。

[やぶちゃん注:「よしなさ」なんてつまらないことでしょう!

「ふしがたがる」「臥し難がる」。]

 

 ことに今宵は雨さへしきりいと心ぼそきに、やたての筆とりて、みだり書きする次(つい)で、三之丞、

 ことのはのかれなん秋のはじめとや

      袖になみだのまづしぐるらん

なにとなう、書きつゞくるを、大野、すこしまめだちて、

「こはいかにいまいまし。かりそめ、ぶしの草枕をも、かくかはしまいらするうへは、つゆおろそかにおもひ奉らんやうなし。日ごろは、主人のため、はつべき身とおもへつるを、いまは君がためにぞおしからぬ命とかけて、大せつに存ずるを、扨(さて)我(わが)心をうたがはせ給ふか。よしよし、明日、江府へもつきなば、そなたより、かれがれならんとの御言葉のはし、候ふな。」

と、うらむ。

[やぶちゃん注:「まめだちて」真剣な態度になって。

「ことのはのかれなん秋のはじめとや袖になみだのまづしぐるらん」表向きは「互いの睦(むつみ)ごとも、これを以って終わってしまいます(「枯れなん」)、それはあなたさまが私に飽き始められたからでありましょうか(「秋の始めや」)」の謂いであるが、以下の展開から見ると、それは、「今直きに私の申し上げてきた言葉が総ておぞましい噓であることが明らかになりましょう(「言の葉の枯れなん」)から」のニュアンスが込められていると私は読む。

「かれがれならん」は「離(か)れ離れならん」で、人の行き来や、歌や文(ふみ)の遣り取りが途絶えがちになることから転じて、相愛の二人であるはずのものが、疎遠になっていってしまうかも知れぬといういうことを指す。不吉な言上(ことあ)げをなされるな、と大野は言ったのである。]

 

「いやとよ、なにし、かさなる心の侍らん。まことに大せつのつとめかゝへさせ給ふ御身に、一たんの御あはれびゆへ、行衞しらぬ我を、かくまでの御いたはり、此世の程と申さんは、義におゐて、おろかなる心なるべし。御はづかしながら、永劫にも罪ふかゝるべきは、御いとおしきなり。あまりの事に『しばし』といへど、わかれは心ぼそう、ちよと筆すさむ事に候ひし、御心にかゝらば、ゆるさせ給へ。いさゝか、事なし。」

と、なみだぐめば、大野もすゞろに、はなつまり、何とやらん、事しまぬ體(てい)なれば、

「いざ、ゝせ給へ、夜もふけなむ。あすはまた、つとめて、おくべし。」

と、ふたり、うちふしたり。

 三之丞、いつもおき出(いで)ながら、今宵は、ことに、やうかはりて、いく度となう、小用し、はな、うちかむ。

 大野、あやしみ、

「何事に、かくせさせ給ふぞ。きそくにてもよからずや。」

と、とふ。

 三之丞、いまは、たまらず、こゑゆすりてなき出(いだ)すにぞ、大野、

「こは、いかに。」

と心得ねば、

「あやしかるも、ことわりなり。その時、かたり出づるこそ、おそろしけれ。今は何をかつゝみ侍らはん。はづかしながら、我は、まことは越後のものには、なし。信濃・上野(かうづけ)の間に住(すみ)て、人の家におし込みし、旅人なんど、はぎとる盜人(ぬすびと)の同類なり。總じて『此道、あやうし』とて、旅人もおのづから心付け、宿々もゆだんせぬを、『なみにて、とられぬたからぞ』と、また、千法、うばはん事をたくみて、此度(このたび)は『われらをかくしたて、心ゆるさん時を案内して、なきものにせよ』と、たくみしが、いつしか、おもひの外の御なさけにかんじ、その事は、たえて、おもはず。あまつさへ、夜ごとに同類の相圖して、せむるも、うるさし。『いかに、時分おそし、もはや、かなはじ、すてゝこよ』などいふ時は、『此度の旅人、中中(なかなか)油斷なき男にて、心やすきさまながら、まだはかられず。とはいへど、よき寶の多くみゆるに、いま、しばし』など、かれらをいつわるも、たゞ御名殘(おなごり)のおしさ、せめて、つきそひ奉らんためなり。されば、今宵にいたりて、かぎりとなれば、わかれ奉らんがかなしき。」

とて、なみだは、たゞ、枕うくばかりに、なく。

 大野、きくより、身の毛だち、鬼を一車にのせたらんやうなれど、さすがに、なさけある心ざし、一しほ、哀(あはれ)そふ心に、これも、なくより、外は、なし。

「もはや、夜もあけなん。」

と、ぜひなく出づるに、かたみとも見つべきさげ物など、とらせて、やりぬ。

「我(わが)出(いで)なんあと、つけて見給へ。」

といふに、したひて、うらみちより、さしのぞけば、深山木(みやまぎ)の風情(ふぜい)したる男、五、六人、ふけうげに三之丞をとりまきて語り行く。

『あはれ、いかなるめにもあひなんや。』

と、心もとながるも、すき心、こりずや。

[やぶちゃん注:「かさなる心」お恨みする心が積もること。

「ゆへ」ママ。

「おゐて」ママ。

「御いとおしきなり」あなたさまのことを心からお慕いしていることにあるので御座います。

「ちよと」ちょっと。

「筆すさむ事に候ひし」慰みごとに筆を執って詠じました。

「すゞろに」むやみやたらに。

「事しまぬ」事仕舞わぬ。こと済まぬ。このままには終わらずになりそうであること。

「いざ、ゝせ給へ」「さあ、最後の盃を呑みほされよ。」。

「つとめて」早朝。

「おくべし」起きましょう。

「いつもおき出ながら」三之丞は今までもいつも深夜に起き出して出て行くことが多かったが、の意。ここにその不審が読者に翳を差すこととなる。

「きそくにてもよからずや」「氣息にても良からずや」。心持ち(ここは身体上の気分の悪さを指す)でも良くないのか?

「上野(かうづけ)」現在の群馬県。

「なみにて、とられぬたからぞ」「並にて」は「捕られぬ寶ぞ」。「ちょっとやそっとでは奪うことが出来ぬよほどの金目の物を持っておると読んだぞ!」の謂いであろう。

「千法、うばはん事をたくみて」あらゆる手段を使っても奪おうという計略を企(たくら)んで。

「われらをかくしたて」我ら盗賊団の存在を気づかれぬように完璧に隠し通して。

「すてゝこよ」「捨てて來よ」。「今回の仕込みは失敗だ! 捨てて逃げて来い!」。

「鬼を一車にのせたらんやう」鬼と車に相乗りしたような気分。

「もはや夜もあけなん。」言うまでもなく、少年の台詞。

「さげ物」「提げ物」。ここは大野の持ち物である印籠(いんろう)とか巾着(きんちゃく)といった腰に提げて持ち歩くものを指す。

「深山木の風情」ここは山賤(やまがつ:木樵か猟師体(てい)の者)で山賊のような風体(ふうてい)を謂う。

「ふけうげ」ママ。「不興氣(ふきようげ)」。

 個人的にはこの話、怪談ではないが、好きだ。]

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