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2020/08/02

大和本草卷之十三 魚之下 アラ (アラ或いはクエ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前を受けて『同』。]

アラ 鯛ニ似テ鯛ヨリヨコセハク長シ所〻黃黒色マタラ

ナリ又大口魚ニ似タリ長一二尺三尺ニ至ル口ヒロク

頭大ナリ味ヨク乄鯛ニ似タリ冬春多シ病人食之無

妨若水云アラハ敏魚ナルヘシ厨人以為下品乾タルハ

産後ノ血暈ヲ治ス能血ヲ收ム和流ノ外醫婦人

科用之

○やぶちゃんの書き下し文

あら 鯛に似て、鯛より、よこ、せばく、長し。所々、黃黒色、まだらなり。又、大口魚(たら)に似たり。長さ一、二尺、三尺に至る。口、ひろく、頭〔(かしら)〕、大なり。味、よくして、鯛に似たり。冬・春、多し。病人、之れを食ふ〔に〕妨〔(さまた)げ〕無し。若水〔(じやくすい)〕云はく、「『あら』は敏魚なるべし。厨〔(くりや)〕の人、以つて下品と為〔(な)〕し、乾〔(ほし)〕たるは、産後の血暈〔(けつうん)〕を治す。能く血を收む。和流の外醫、婦人科に之れを用ふ」〔と〕。

[やぶちゃん注:普通なら、

スズキ亜目ハタ科ハタ亜科アラ属アラ Niphon spinosus

の同定となるが、少し問題がある。何故なら、九州で「アラ」は、

ハタ亜科ハタ族マハタ属クエ Epinephelus bruneus

の地方名として古くから一般化しているからである。さらに都合の悪いことに、同地方では、

ハタ族マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus

も「アラ」と呼んでいるからである。では、本文の叙述の特徴から絞ればよい、ということになるが、これがまた、至難の技なのである。一つずつ見てみよう。読者も「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のアラクエマハタの画像を見ながら、考証してみて欲しい。

①「鯛に似て、鯛より、よこ、せばく、長し」何を以ってタイに似ているとするかが問題だが、強いて一番タイに似ている(三種はどれも私はタイに似ていないと思うのだが)のはマハタであると思うが、後半の横(体の幅)が狭く、体長が細長い、という両方の性質を具え持つのは、細長くてやや側扁するアラのみである。マハタやクエはでっぷりとしていて体幅は狭くないからである。

②「所々、黃黒色、まだらなり」これはクエ(茶褐色の体色に濃い斜めに走る帯状模様がある。但し、これは大きくなるに従って明瞭でなくなる)及びマハタ(若魚は褐色の横縞がはっきりしているが、大きくなるに従って消えてしまう)の特徴に近いが、特にクエのそれはまさに斑(まだら)模様と呼ぶに相応しい。

③「大口魚(たら)に似たり」タラ(条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類)に似ているのは文句なしに口吻部が有意に鋭意にとんがっているアラである。

④「長さ一、二尺、三尺に至る」最大で九十一センチメートルとなると、成魚で標準八〇センチメートルから一メートルのアラとなる。クエではより大きく一メートル二〇センチ、マハタとなるともっと大きくて一メートル八〇センチに達する。

⑤「口、ひろく、頭〔(かしら)〕、大なり」これは一目瞭然で マハタ > クエ > アラ の順だろう。

⑥「味、よくして、鯛に似たり」私は総て刺身で食べたことがあるが、甲乙つけ難い。どれも鯛に似ている。

⑦「冬・春、多し」アラの旬は秋から冬、クエは冬から初夏、マハタは晩秋から晩春であるから、ここはクエの分がいい

以上、獲得ポイントが一番多いのは、①③④でアラ、次いで②⑦でクエとなる。但し、②のクエの斑模様という内容は質的には無視出来ず、一方、①③の体型類似でのアラの優位が同じく無視出来ない。されば、私は

第一同定比定候補 アラ

第二同定比定候補 クエ

(補欠)マハタ

とせざるを得ない。疑義があれば、何時でもお受けしよう。

「病人、之れを食ふ〔に〕妨〔(さまた)げ〕無し」病人食として全く問題がない。

「若水」稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)と同時代人の医学者・本草学者にして儒学者。名は宣義、若水は号。ウィキの「稲生若水」によれば、『父は淀藩』(山城国久世郡(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にあった藩)『の御典医稲生恒軒、本名は稲生正治。江戸の淀藩の屋敷で若水は生まれた』。『医学を父から学んだ。その後、本草学を大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学んだ』。『元禄のころになると、彼の学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心であった加賀金沢藩主前田綱紀も彼の名声を知り』、元禄六(一六九三)年に『彼を儒者として召抱えられることとなった』。『その際、彼は姓を中国風の一字で稲と称した。前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、当時における本草学のバイブルであった「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得た。そのため、彼は隔年詰という一年おきに金沢で出仕する特別待遇を与えられた。彼はその知遇に応えるべく』、『京都で研究に努め、支那の典籍』百七十四『種に記載されている動植物関係の記述を広く収集し、統合や整理、分類を施し』、元禄一〇(一六九七)年に執筆を開始し、全三百六十二巻まで『書き上げて』、『京都の北大路の家で死去した』。享年六十一であった。『後に八代将軍徳川吉宗の下命で、若水の子、稲生新助や弟子の丹羽正伯らが』さらに六百三十八『巻を書き上げて、計』一千『巻にわたる大著が完成した。稲生若水は漢方、薬物などを中心とした本草学に、動植物全体を対象とする博物学への方向性を備えさせたといえる』とある。若水と益軒の交流は、井上忠氏の講演稿「貝原益軒とその学風」PDF)によれば、元禄元(一六八八)年益軒五十九歳の折りの上京の時に始まり、『甚だ親密で京都周辺の薬草採集や薬園見学に相携えてい っており』、『手紙による知識の交換が後まで続』き、『また益軒の『養生訓』の校正は若水の門人松岡恕庵が担当している』とある。

「敏魚」不詳。しかし直後に「以つて」、「厨〔(くりや)〕の人」は「下品と為〔(な)〕」す、と言っているところをみると、これは敏捷な魚(第一、デッカくなる「アラ」や「クエ」や「マハタ」の成魚の動きは海中では鈍重とも言うべき非常にゆっくりとしたものである)の謂いではなく、アシの早い魚、腐りやすい魚という意味であろうととる。だから「下品」なのである。因みに、現在は三種とも「超」が附く高級魚である。ただ、これが京都と加賀を行き来した若水の叙述だとすると(私は最後の部分から医師である彼の言ととった)、これは確実に本当の「アラ」を指す可能性が高いと言える。

「乾〔(ほし)〕たる」干物としたもの。

「血暈」産後に「血の道」(産褥 (さんじょく) 時・月経時・月経閉止期などの女性に現れる頭痛・眩暈(めまい)・寒け・発汗などの諸症状を指す)で眩暈がしたり、体が震顫(しんせん:ふるえること)したりする症状。「血振(ちぶるい)」とも呼ぶ。

「和流」本邦の。

「外醫」外科医。以上出産や婦人生殖器疾患や乳癌の治療を行う婦人科は外科の領域であった。]

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