萬世百物語卷之五 十九、高位の臆病
十九、高位の臆病
[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング補正した。廊下の板目が激しくずれているので接合が上手くいかない。そこで近づけた状態で、左右幅の上下左右の枠を除去するという裏技に出た。蔀が細く空いているように見える(あり得ない)のはお見逃しのほどを。それにしても鷲尾がかなり美形の少年なのに吃驚! 話を読んでいる間は、てっきりデブったオッサンかと思うておったに!]
あだし夢、たはむれも、あしうはせまじきものなり。いづれの御時(おほんとき)にかありけん、鷲尾殿(わしのをどの)とやらん、くぎやう、いましける。あくまでおろかに、おくびやうなる人なりけり。うちうちのとのい、秋の夜のねぶりかちなるも、わかき上達(かんだち)めは、此人をおかしがりてぞ、すごされける。
[やぶちゃん注:「源氏物語」冒頭の「桐壺」のパロディであろう。さすれば標題の「高位」も「更衣」に掛けてあると読むべきか。
「鷲尾殿」鷲尾家(わしのおけ/わしおけ)は藤原北家四条流の公家。家格は羽林家。鎌倉時代の公卿四条隆親の三男隆良を祖とする。戦国時代末期に第八代当主隆頼の後、中絶していたが、江戸初期の慶長六(一六〇一)年に四辻公遠の子季満が隆尚に改名し、再興されている。家学は華道・神楽・膳羞(ぜんしゅう:神撰・料理方)。江戸時代の石高は百八十石(ウィキの「鷲尾家」に拠った)
「くぎやう」「公卿」は律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位で、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を指す。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。「公」は大臣、「卿」は参事または三位以上の廷臣を意味し、京都御所に仕える上・中級廷臣を指した。参議は四位であるが、これに準ぜられた。但し、もっと広く、殿上人(てんじょびと:清涼殿の殿上の間に昇ることを許された者。四位・五位の中で特に許された人及びメッセンジャー・ボーイとしての六位の蔵人)を指す場合もある。
「うちうち」「内々」。内裏。
「とのい」ママ「宿直(とのゐ)」。
「上達め」「上達部」。公卿の原義に同じい。]
ある夜、藏人所(くらうどどころ)にあつまり、もの語りの次(つい)で、かの人も出られける。
例のわかき人々、かねて、はかりや、ものせられけん、おのがどち、目、ひきながら、
「いかに、此程の紫宸殿に出づときくばけものは、いかにぞ。」
と、さたせらるゝに、かたへより、
「その事よ。」
など、じちにまめだちて語らる。
わし殿、例(れい)の、ふるひつきて、目、すわり、鼻さきそらし、
「おそろしながら、なまさかしく、それはいつわりにや。」
と、あやしがらる。
「いやとよ、非藏人(ひくらうど)の幾田(いくた)とねの助みつといへばぞ、人々もいひける。めし出し、とひ給へかし。」
と、大やうにものせらるれば、とね、めして、とはる。
かのものも、あいづにやのりけん、
「されば候ふ。此ごろ、紫宸殿の御階(みはし)の下より、鬼のすがたして出るを、何かはしらず、長橋(ながはし)の局(つぼね)のあたりにて、ちらと、のぞき見申す。」
といふ。
「それは。ふしぎ。」
と、みなみな、はづとるを、こざかしく、わし殿、
「いかに。心得ず。」
と、うたがひながらも、いとおそろしがほなり。
皆々、口そろへて、
「かゝる事みてこんは、わし殿ならで、あるまじ。ぜひぜひ。」
と、そゝのかす。
しれものゝくせ、かつにのり、
「さらば、賭(かけ)ものし給へ。見てこん。」
とあるに、
「いかにも。そこののぞみたまはん事、何にてもかなへ候ふべし。さりとて、太刀・かたなもち給はんは、公(おほやけ)のはゞかりなり。殿上にては、かなはじ。その外、何にてもゑたらんものもち給へ。」
と、ゆるさる。
「さらば。」
とて、下々のもてる棒なんどいふ物をめして、つきなう、かゝへられけり。
よろづ、まへまへのあいづにやありけん、小御所(こごしよ)のまへなる淸涼殿と紫宸殿とのあいの廊下のもとより、鬼の姿めいたる、何とはしらず、
「つ」
と出でたり。
なでう、念じ給ふべき。
「あ。」
と、いはれしものの、あまりまぢかう出づるおそろしさ、おぼえず、
「ほう」
と、うたれける。
うたれて、ばけものは、たおれにけり。
それより、わし殿、きほひて、跡をもみず、なりわたりて、
「手がらしつ。」
と出で來(こ)らる。
さて、
「いかに。」
と、とヘば、
「ばけものの出(いで)たるを一うちになん、かいころしつ。人やりて見給へ。」
とある。
一座、
「はつ。」
といひて、みさするに、死する程にはゑうち給はねど、ことに久しくなやみしと、きゝし。
鬼は、幾田が下部(しもべ)にぞありける。
[やぶちゃん注:「藏人所」平安初期に設置された令外 (りょうげ) の官で、天皇と天皇家に関する私的な要件の処理・宮中の物資調達・警備などを司った。平安中期以後に職制が整い、別当・蔵人頭 (くろうどのとう) ・蔵人・出納・小舎人 (こどねり) ・非蔵人・雑色 (ぞうしき) などの職員がいた。清涼殿の西の後涼殿(こうろうでん)の南方の直近に、別棟で「蔵人所町屋(くろうどどころまちや)」が独立棟として建てられてあり、ここは主に蔵人が控えや宿所として使用した。ここはそれ。
「はかり」「謀」。はかりごと。
「目、ひきながら」鷲尾殿には気づかれぬように目くばせをしながら。
「紫宸殿」平安京内裏の正殿。内裏の中央やや南寄りにあり、南殿 (なでん) の呼称でもよく知られる。朝賀や公事を行うところで、大極殿(大内裏中央やや南にあった)の退廃後(平安京のものは治承元 (一一七七) 年焼亡して廃絶)は即位などの儀式もここで行なった。南面し、神明造檜皮葺(しんめいづくりひわだぶき)で、殿の中央北寄りに玉座を設け、その北に中国の制式に倣って、漢唐の名臣三十二人の肖像を描いた「賢聖障子 (けんじょうのしょうじ)」 があった。殿舎の前庭には東に「左近の桜」、西に「右近の橘」が植えてあった。ここは古くから怪異が出来する場として平安京では有名なゴースト・スポットであった。これは最も神聖な「ハレ」の空間が、その非日常性故に、異界たる邪鬼の異空間に接続しているという民俗社会の通例として腑に落ちる。それは「源氏物語」(長保三(一〇〇一)年頃執筆開始)の「夕顔」の帖の夕顔の死の直後に光が「南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて」と出るのでも判る。最も知られるものは、「源氏物語」よりも百年後に書かれたものであるが、「大鏡」の、「太政大臣(だいじょうだいじん)忠平」の中の以下のエピソードであろう。
*
この殿、いづれの御時とは覺えはべらず。思ふに、延喜[やぶちゃん注:醍醐天皇(寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)。]、朱雀院[やぶちゃん注:朱雀天皇(在位:延長八(九三〇)年~天慶九(九四六)年)。]の御程(おほんほど)にこそははべりけめ、宣旨承らせたまひて、おこなひに[やぶちゃん注:執行のために。]、陣座(ぢんのざ)ざまにおはします道に[やぶちゃん注:宣旨を受けた清涼殿から、紫宸殿の東直近にあった宜陽殿から西に延びた公卿の詰め所の方へ向かわれる途中。]、南殿の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせたまふに、もののけはひして、御太刀(おほんたち)の石突(いしづき)[やぶちゃん注:刀の鞘の下方の端を保護するために包んだ金具。鐺(こじり)。]をとらへたりければ、いと怪しくて、探らせたまふに、毛、むくむくと生(お)ひたる手の、爪ながく、刀(かたな)の刃(は)のやうなるに、『鬼なりけり』と、いと恐ろしく思(おぼ)しけれど、『臆(おく)したるさま見えじ』と念ぜさせたまひて[やぶちゃん注:恐怖をおこらえるになられつつ。]、
「おほやけの勅宣うけたまはりて、定めにまゐる人とらふるは、何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ。[やぶちゃん注:「放さないと、お前にとって都合の悪いことになろうぞ。」。]」
とて、御太刀をひき拔きて、かれが手をとらへさせたまへりければ、まどひてうち放ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思ふに夜(よる)のことなりけむかし。
*
面白いのは、この鬼が逃げた方角で、所謂、陰陽道の鬼門である。この鬼は既にして牛の角を持っており、虎の褌を穿いているのかも知れぬ。また、この南殿、源元三位頼政の鵺(ぬえ)退治でも有名なロケーションである。詳しくは、私の「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の本文と私の詳細注を読まれたい。
「さた」「沙汰」。話題として取り上げること。噂にすること。
「じちに」ママ。「直(ぢき)に」。即座に。待ってましたとばかりに。
「まめだちて」「忠實立(まめだ)ちて」本気になって。真面目になって。或いは真面目なように振舞って。ここは最後。この若い上達部どもは、トンだ千両役者なのである。
「目、すわり」「目、据わり」。一般には「酔ったり怒ったりして、瞳が凝っと一点を見つめたままで動かなくなって」の謂いだが、ここは今風に言えば、「目が点になる」で、既にして恐ろしさから、内心、吃驚しているのである。
「鼻さきそらし」その話に無関心であるように装うために、顔を逸らせたのである。
「なまさかしく」「生賢しく」中途半端にしか賢くない者が謂い出したようなもので。小賢しい、バレバレの戯言(たわごと)と同じで。
「非藏人」平安時代、蔵人所に所属した官職の一つ。特に良家の子であって六位の者から選ばれ、特異的に蔵人に準じて昇殿を許されて、殿上の雑用を勤めた者。「非職(ひしき)の者」とも呼ぶ。
「幾田(いくた)とねの助みつ」不詳。漢字表記は例えば「幾田刀禰助光」辺りか。
「大やうに」落ち着いて。騒がずに如何にも事実であるかのように見せるためのポーズである。
「あいづにやのりけん」「合圖にや乘りけむ」。予め打ち合わせておいたのであろう、召し寄せが、鷲尾を騙す本格部分の起動の合図であったのである。
「御階」昇殿するための階段。東西南北の角に計四ヶ所の狭い小さなものがあるが、通常は南面正面の階(きざはし)を指す。但し、次の描写からは、南面正面は見えないので、紫宸殿の西側の小さな二つのそれということになる。
「長橋の局」宮中の清涼殿の南東角から紫宸殿の北西角に通じていた廊下のこと。
(つぼね)のあたりにて、ちらと、のぞき見申す。」
「はづとる」矢の「筈(はづ)とる」であろう。矢を弓につがえて射る構えを真似ることであろう。所謂、「夕顔」の鳴弦(めいげん)でも判る通り、弓の弦を鳴らしたその音は、警戒と別に、邪悪なものを遠ざけ、正体を見切る呪的な力を持つ。弓がそこにある必要はない。あるかのように「矢筈を執る」真似をすることが、共感呪術としてその空間を守るという認識である。無論、ここでは大仰な芝居の一つなわけで、もともとネタバレした状態の第三者として読む我々は、そのクサい演技に思わず、微苦笑せざるを得ないのだが、それにマンマと騙されて、その連中を内心、「こざかしく」思うという以下の下りも、今度は逆に鷲尾を哀れに思うということにもなる訳である。
「しれものゝくせ、かつにのり」「痴れ者」(哀れであるが、鷲尾を指す)「の癖、勝に乘り」で、「臆病な愚か者に限って、こうした癖にあるもので、調子に乗ってしまい」の意。
「賭(かけ)ものし給へ」そこへ私がちゃんと参って、再びここへ帰って来ることが出来るかどうかに就いて、賭けを致そうではないか。
「太刀・かたな」狭義には平安時代以降の日本の刀剣は「太刀(たち)」と「刀(かたな)」区別がある。判り易い識別法は体への装着の仕方の違いで、「太刀」は、刃を下にした状態で、前後に反るように、腰帯に二箇所の附属具でぶら下げるようにつける。これを「佩(は)く」と称する。「太刀」は平安後期頃に形態として確立したもので、それ以来の古式の日本刀となる。一方、「刀」の方は、刃を上にして腰帯に鞘(さや)を差し込む形で装着し、これを「差す」と称する。「刀」は別にしばしば「打刀(うちがたな)」とも呼び、太刀に代わるものとして室町時代頃から一般化し、江戸時代になると、通常は刀が用いられ、太刀はただの儀式用になった。参照にした「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「太刀と刀」によれば、『ただし、こうしたつけ方の違いは制作当初からの鞘などの「拵え(こしらえ)」と呼ばれる外装部が残っていれば見分けがつきやすいのですが、本来の拵えが残っている事例はかなりまれです。そこで主には、普段は柄(つか)の中に入れられている刀身の「茎(なかご)」と呼ばれる部分に刻まれた銘の位置に注目することになります』。『一般的に、太刀の場合は刃を下にして左腰に佩きますので、刃を下に向けたときの茎の左側が体の外側に向くことになります。この体の外側に向く方を「表(おもて)」といい、佩いた状態での表を「佩表(はきおもて)」、と呼びます。そして、刀工が銘を入れる場合、一般的には茎の「表」に入れるという原則がありましたので、「佩表」に刀工の名が刻まれていれば、これを太刀と判断する、という目安があるのです。逆に、刃を上にしたときの茎の左側を「差表(さしおもて)」といい、こちらに刀工の銘があれば刀と判断する、ということになります』。『ただし、この「佩表」、「差表」に刀工銘が入るという原則には例外がかなりありますので、あくまでも目安ということになります』。『また、これも絶対的な違いではありませんが、太刀と刀には、相対的な長さや反りの違いもあります。一般的には太刀の方が長く、刀の方がやや短く作られました。ただし、現代の分類基準では、太刀・刀とも刃の部分の長さが』二尺(約六十センチメートル)『以上のものとなっており、長さだけでは違いは明確になりません。これには、現存する日本刀は多くのものが伝来過程で扱いやすいように長さを短くされている(これを「磨り上げ〔すりあげ〕」といいます)ことも影響しています。太刀と刀の区別は、こうした銘の位置や長さを目安としつつ、全体の形状や、いつごろのものかという年代観を総合的に判断してなされています』。『また、刀よりも更に短く作られているものは、太刀や刀に対する二本目の刀剣として差すためのものなので、「脇差(わきざし)」と呼ぶのが一般的です。現代の分類基準では、脇差は刃部の長さが』一尺(約三十センチメートル)以上二尺(六十センチメートル)未満の『ものとされており、それより短いものは「短刀」として区別されています。逆に、長い方ではおおむね刃長』三尺(約九十センチメートル)『以上の長大なものを「大太刀(おおだち)」と呼んでいます』とあった。ただ、本話は時制設定が不確かであるから、「太刀・かたな」という謂いは大小も含めた刀剣類の謂いでとってよかろうと思われる。
「めして」お取り寄せになられて。
「つきなう」如何にも不自然に。公卿たる鷲尾に似つかわしくないのである。挿絵参照。
「小御所」これは室町時代(将軍が参内する際の装束の着替えや休息にために設けられたものという)や江戸時代にならないと存在しないもので、江戸時代のものは清涼殿の北東に作られ、幕府の使臣・京都所司代などに謁見するために設けられたものである。時代をぼかしてある以上、これは「小御所のまへなる」総てをカットすべきところである。
「淸凉殿と紫宸殿とのあいの廊下」先の「長橋の局」と同じ。
「なでう」「なでふ」。副詞で反語。
「念じ給ふべき」前を受けて「どうして恐ろしさを我慢しなさることがお出来になられようか、いや、全く以って無理である」の意。
「ほう」「ボン!」。棒で打った打撃音のオノマトペイア。「棒」(音「ボウ」)だからかね。
「たおれにけり」ママ。「倒(たふ)れにけり」。
「きほひて」ママ。「氣負(きお)ひて」。意気込んで。
「なりわたりて」足音も高らかに辺りに響き渡らしながら。
「かいころしつ」「搔き殺しつ」のイ音便。「かき」は動詞に付いて語調を整え、語意を強める接頭語。
「はつ。」今の「ヤバ!」って感じ。
「ゑうち給はねど」「ゑ」はママ。
「ことに久しくなやみし」非常に永いこと、痛みに苦しんだ。まあ、鷲尾には一言も漏らせないから、結果して、永く鷲尾の自慢話となった点では救いがあるとも言えぬわけではない。本作では珍しい、お笑い系の疑似怪談である。怪談嫌いらしい絵師もこれは気持ちよく「鬼」(鬼の面)の姿を描けたのであろう。]
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