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2020/08/27

浮世草子怪談集「金玉ねぢぶくさ」 電子化注始動 / 序・卷之一 水魚の玉の事

 

[やぶちゃん注:「金玉(きんぎよく)ねぢぶくさ」は、正体不明の章花堂なる著者の元禄一七(一七〇四)年板行になる浮世草子怪談集である。浮世草子とは、天和二(一六八二)年に刊行されて爆発的流行を見せた井原西鶴の「好色一代男」以降、実に宝暦・明和 (一七五一年~一七七二年) 頃までに及ぶ、実に約八十年に亙って上方(制作板行は当初は西鶴の地元であった大坂で、後には京都に移った)を中心として出現した一連の町人文学群を、それまでの仮名草子とは一線を画するものとして呼んだもので、初期はそれ以前の作品もひっくるめて仮名草子と呼ばれており、浮世草子の名称が生れたのは宝永年間 (一七〇四年~一七一一年)であった。題簽は「新版繪入 金銀ねじぶくさ」であるが、それ以外の序題・目録題・内題・尾題ともに「金玉ねぢぶくさ」である。「ねぢぶくさ」とは「捻(ひね)り袱紗(ぶくさ)」で「ふくさをひねって小銭などを入れて懐にしまうための簡易の財布や、お捻りもの」を指すが、本書は他の知られた浮世草子怪談集の辻堂非風子作「多滿寸太禮(たますだれ)」や落月堂操巵(そうし)作「怪談乘合船」などに比べると、それらが種本を中国の志怪小説に依拠しているのに反し、本邦の先行する怪奇談に依拠する傾向が見られることのほか、その題名からも仄かに匂ってくるように、実は若衆道に係わる話柄が有意に多いこと(前二書では全く見られない)が特徴として挙げられるのである。

 私は実は二〇〇七年二月二十一日にサイトに巻一の「雨鐘(あまがね)の事」を電子化訳注している。いつかは全電子化注をしようと思いつつ、十三年もの月日が経ってしまった。

 底本は早稲田大学図書館公式サイト内の「古典総合データベース」のこちらにある、元禄一七(一七〇四)年序の後刷である寳永七(一七一〇)年版を使用した(同一板本が二冊あるので、場合によって参考底本を変えた。基本は明度が高く視認し易いこちら(二番目にあるもの)を使用した)。但し、判読に迷う箇所や不審な部分は、所持する国書刊行会一九九四年刊の「叢書江戸文庫34 浮世草子怪談集」と校合した。同「江戸文庫」版の本文底本は国立国会図書館蔵本で、その刊記は以上の私の底本と全く同じ(底本最終巻巻末のHTML画像)「寶永七庚寅九月吉祥日」のクレジットだからである(但し、「江戸文庫」の本文最後の刊記のみは東大付属図書館霞亭文庫蔵本の初刷のものを採用してある)。また、同書の校訂は木越治氏であるが、「上智大学」公式サイト内の「木越研究室」の「その他の作品」にある同書の電子化されたアーカイブ(私は二〇〇三年二月に「Jallc」(情報処理語学文学研究会)のテキスト・アーカイブで最初期のものを入手している)の最新データ(但し、新字体)を加工用に使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 底本は非常に多く読みが振られてあるが、特異な読みや、私が読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。逆に読み難い箇所には〔 〕で私が推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。句読点は「江戸文庫」を参考にしつつ、独自に附した。濁点は読む障害になる場合は迷わずに補った。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。正字か略字か判断に迷ったものは、正字で示した(明らかな略字であっても、雰囲気を損なうと判断してせいじとした箇所も多い)。記号も大いに用い、直接話法及びそれに準ずるものは改行を施し、自由にシークエンスごとの段落を成形した。挿絵は、単純平面画像をただ複写したものには著作権は生じないという文化庁見解に従い、「江戸文庫」版より挿絵をスキャンしてトリミングし適切と思われる位置に配した(左右に分かれているものは合成した)。注は概ね成形した各段落末などに挿入し、注の後は一行空けた。【2020827日始動 藪野直史】]

 

 

新版

  金銀ねぢぶくさ 一

繪入

[やぶちゃん注:表紙の題簽。頭は二行分かち書き。実際には主標題は「金銀ねちふくさ」で濁点はなく、「ね」は「祢」の、「ふ」は「婦」の崩し字。二巻以降はこれはカットする。]

 

金玉(きんぎよく)ねぢぶくさ序

儒佛(じゆぶつ)、おしヘは異なれ共、理(り)は一也。孔子は現(げん)を說(とき)、尺迦は未來を述べ、それぞれの機(き)に順(したがつ)て切磋琢磨の道を立(たつ)る。しかれども、其規模とする所は、皆(みな)人、仁に、義に、忠に、孝、ならん事を思ふのみ。於ㇾ是(こゝにおいて)、余も又、怪をいふ事を恐れず、理(り)となく、方便(はうべん)となく、交(まじ)へ、記しぬ。是を「金玉ねぢぶくさ」と題する事、「金玉」は人の所ㇾ愛、「ねぢぶくさ」の如く、常に懷ㇾ之せば、初學の爲に便〔びん〕あらんかと云ㇾ尓。何ぞ博厚(はくこう)の人の前に、謗(そしり)を得る事をうれへんや。

  元祿十七初陽吉辰 章花堂

[やぶちゃん注:「おしへ」ママ。「敎(をしへ)」。

「所ㇾ愛」「愛する所」。

「懷ㇾ之せば」「之れを懷(ふところ)にせば」。

「云ㇾ尓」「しか云ふ」。

「博厚」博識でその知が重厚でしっかりとして揺るぎないこと。

「元祿十七」「甲申」は「きのえさる/コウシン」。一七〇一年。

「初陽」陰暦正月の異称。

「吉辰」「きつたつ(きったつ)」は「吉日」の意。

 以下、目次が続くが、電子化の最後に回す。] 

 

 

金玉ねぢぶくさ巻之一

  水魚(すいぎよ)の玉(たま)の事

Suigynotama

 世に伯樂とて馬(むま)の目明(めきゝ)有〔あり〕て、然(しかう)して後(のち)に、千里の名馬、出〔いで〕、人に聖人の明德(めいとく)あつて、然して後に、賢人、あらはる。しかれども、人、見るに、物の邪正(じやしやう)をわかたず、聞(きく)に善惡(ぜんあく)・理非(りひ)をしらず。これ、同じ目、同じ耳に、正通(しやうつう)偏塞(へんそく)のかはりある事、いか成〔なる〕理(り)ぞや。

[やぶちゃん注:「正通偏塞」儒学や漢方で陰陽説に基づいて謂う語で対象の真理のが正しく認識されるか、逆に偏っているために閉塞を受けて誤った認識しか出来ないことを指す。根本的に人が理非を弁えるのは正通しているからであり、植物が動けず、鳥獣が理知を持たないのは偏塞しているからだと朱子学などでは説いている。]

 

  古(いにし)への卞和(べんくわ)は、玉石の為(ため)に、二代の君(きみ)に兩足(そく)をきられながら、猶〔なほ〕、すつるにしのびず、終(つい)に良工(りやうこう)にあふて、光(ひかり)をみがき出〔いだ〕し、世に並(ならび)なき美玉(びぎよく)とせり。然れば、たまは、つねにあれども、是を知る人、なく、知る人はあれども、又、さいく人、すくなし。爰(こゝ)を以て麒麟(きりん)も伯樂にあわねば、常の駑馬(どば)に等しく、珠玉も、良工、なければ、瓦礫(ぐわりやく)と同(おな)じ。されば、其道に長じ、其妙を極めぬれば、奇特(きどく)成〔なる〕事、おゝし。

[やぶちゃん注:「卞和(べんくわ)」現代仮名遣では「べんか」。春秋時代の楚の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、信じて貰えず、逆に「嘘をついた」として左足を切断される刑を受けた。次の武王のときにもやはり献じたが、「ただの石だ」とされて、今度は右足を斬られてしまった。その後、文王が位に就いた折り、これを磨かせてみると、はたして確かに優れた宝玉であったことから、この玉を「和氏(かし)の璧(へき)」と称した。後に趙の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が欲しがり、「十五の城と交換したい」と言ったので、「連城の璧」とも称された。こうした故事から名品の宝玉を、広く「卞和(べんか)氏の璧(へき/たま)」と呼ぶようになった。

「終(つい)に」ルビはママ。「つひに」が正しい。

「あわねば」ママ。

「瓦礫(ぐわりやく)」通常「ぐわれき」だが、かく(「リャク」)も読む。

「おゝし」ママ。]

 

  一年〔ひととせ〕、長崎の町人、伊せや久左衞門方へ唐人(たうじん)來て、歸國の砌(みぎり)、内藏(〔うち〕ぐら)の石垣(いしがき)に、小(ちいさ)き靑(あを)石一つ有〔ある〕を見て、

「掘出(ほりいだ)し、くれ候やうに。」

と所望(しよもう)す。てい主、

「やすき御事なれども、此石一つぬけば、惣石垣(さういしがき)くづれ、殊外(ことのほか)ざうさに御座(ござ)候間、ふしんの時節(じせつ)、のけ置(おき)、かさねて御こしの時、しんじ申〔まうす〕べき。」

よし返答す。唐人(たうじん)いふやう、

「かさねて又參る事は不定(〔ふ〕でう)なり。願(ねがは)くは、只今のぞみのよし。」

にて、則〔すなはち〕、彼(かの)石の代〔しろ〕に金子(きんす)百兩取出〔とりいだ〕し、

「これにて、普請のざうさを、まかないくれ候やうに。」

との事。てい主、いよいよ邪智(じやち)まはり、

『扨(さて)は。此石、玉石にて、かくは、のぞみに思ふならん。』

と、さのみ、五十兩、百兩を珍しくおもふ身躰(しんだい)にもあらねば、おしみて、終(つい)にあたへず。

 唐人、出船(しゆつせん)以後、彼(かの)石を掘出し、玉(たま)みがきをよんで、見せければ、

「玉とは見へねども、いかさま、常の石にも、あらず。」

と申す。まはりをかきて、みがゝせて見れども、さして替る事もなく、光も不出(いでず)、後(のち)には、大くつして、二つにわらせて見れば、中より水出〔いで〕て、其内に金魚のごとくなる鮒(ふな)二枚あり。

「さては。邪智(じやち)にまよひ、百兩の銀(かね)を取(とり)にがしぬ。」

と後悔して、彼(かの)石のわれを、すて侍り。

[やぶちゃん注:「所望(しよもう)」ママ。「しよまう」が正しい。

「不定(〔ふ〕でう)」ルビ「でう」はママ。「不定」は「でぢやう」が正しい。

「おしみて」ママ。

「二枚」二匹。]

 

 其後、かの唐人、また來り、金子千兩、出して、此石を所望す。

 あるじ、いよいよ後悔して、右のおもむきを語る。

 唐人、おどろき、泪(なみだ)をながし、

「我、此度(たび)、數(す)千里の波濤をしのぎて來(きた)る物は、彼(かの)石を求めんためなり。御身の心、もし、千兩にて不足なれば、三千兩までは、あたふるつもり。則(すなはち)、其金、持參せり。」

とて、新しき箱一つに、同じ包(つゝみ)の金(かね)、三百入〔いれ〕て、上に、

「水魚の玉石代」

と書付をしたり。

 てい主、後悔のあまり、彼(かの)石の子細をとへば、唐人、答(こたへ)ていふやう、

「此石を摺(すり)、水極(みづぎわ)一分〔ぶ〕の間(あいだ)において、みがけば、底より光起つて、誠(まつこと)に絕世の美玉なり。殊に大〔おほい〕さ、方面(はうめん)七寸五分、十方圓滿(ゑんまん)なる中(なか)に、おのれと水をふくみ、其中に二疋の金魚有〔あり〕て、うごく形、光りに和(くわ)し、美なる事、世に並びなし。王侯の心をよろこばしめ、其あたい、千万金、我、是を得て、冨貴(ふうき)を極めん事を欲し、はるばると來朝し、不幸にして此玉(たま)を不得(ゑず)。是、玉(たま)の世に傳(つたわ)るまじき天命(〔てん〕めい)なり。」

と歎(なげ)きぬ。

[やぶちゃん注:「水極(みづぎわ)」ルビはママ。

「間(あいだ)」ルビはママ。

「一分」三ミリメートル。

「方面七寸五分」二十二センチ七ミリメートル四方。

「おのれと水をふくみ」自然と水気を含んで。この中の水は何処からか流れ入ったものではなく、自然に石と大気から内部に生じた閉鎖独立系の水域であるということになる。

「あたい」ママ。「價」。

「傳(つたわ)る」ルビはママ。]

 

 誠(まこと)にかゝる奇玉も世に有〔ある〕ならいにや。かの唐人は、石垣の中より撰んで、これを玉なる事を知り、其道をしらざれば、てい主は是を破(わ)つて、瓦礫(ぐわりやく)となし果(はて)ぬ。

[やぶちゃん注:「ならい」ママ。]

 

 爰を以ておもへば、玉のみに限るべからず、今、濁りたる世にも、賢人はおゝく有べけれ共、能(よき)主君を得ざれば、賢才をあらはす事なく、彼(かの)玉石の唐人にあはざるがごとし。瓦礫と成〔なり〕て、朽果(くちはて)なん。是、おしむべき事なり。玉は眞寶(しんほう)にあらず。たゞ、人は人を知(し)るべき事、肝要なり。「人の、おのれをしらざる事を、うれへざれ。人をしらざる事を、うれへよ」とは、聖人の敎誡(けうかい)なれば、今さら、いふもおろかなるべし。とかく、人の君(きみ)たる人は、明德(めいとく)を明らかにして、彼唐人の石を見て、「眞珠」と知り、伯樂の、馬を見て、「きりん」を知るごとく、臣下の善惡を、よく見分て用ひたまふ事、天下國家の幸福ならん。むかし、虞公(ぐこう)の「百里奚(はく〔り〕けい)」を用ひ、項羽の韓信を失ひしに、恥(はぢ)給ふべきものか。

[やぶちゃん注:「おしむ」ママ。

「君」儒家で言う人徳を持った君子(確かな仁を持った人。同時にそれが君主でなくてはならないわけである)。

「虞公(ぐこう)の百里奚(はく〔り〕けい)」を用ひ」ここは最後は「用ひず」が正しい。百里奚(ひゃくりけい)は春秋時代の虞の大夫(後年は秦の宰相となった)。紀元前六五五年の冬のこと、晋の献公が虞侯に璧と名馬を贈って、虞の親戚に当たる霍(さい)と虢(かく)を討伐する時、「その街道を通過してよいか」と虞侯に求め。これに対して、百里奚は賢臣として名高った宮之奇(きゅうしき)と共に虞侯を諌めたが、虞侯はそれを無視し、献公の要求に応じてしまった。果たして、献公は虢と霍を滅ぼしたその帰途、突如、虞を襲撃してこれを滅ぼし、虞侯を初めとして百里奚らを捕虜として、下僕としたという事実を指す。ここは則ち、「百里奚」の進言「を用ひ」なかったが故に虞公は捕虜となり、国も失ったわけだからである。

「項羽の韓信を失ひし」秦の始皇帝が没し、「陳勝・呉広の乱」を契機として動乱が始まると、韓信は項梁とその甥項羽に仕えて郎中となった(紀元前二〇九年)。しかし、たびたび行った進言も項羽には用いられず、紀元前二〇六年に秦が滅亡すると、韓信は項羽の下を離れ、漢中に左遷させられた漢王劉邦の元へと移り、大将軍に取り立てられ、劉邦の天下統一に尽力し、嘗ての主君項羽をも滅ぼした。後に楚王に封ぜられたが、謀反の疑いをかけられ、その後、クーデターを企図するも未然に知られて非業の死を遂げた。

 さても、これは私には頗る馴染みの話であって、私の手掛けたものでは、私の「耳囊 巻之三 玉石の事」が最初で、本草学者で奇石収集家であった木内石亭が発刊した奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)の中の「後編卷之二」にある「生魚石 九」に所収する話の類話である(「雲根志」では首尾よくオランダ人がその石を入手している)。挿絵も示し、電子化してあるので比較されたい。「柴田宵曲 妖異博物館 魚石」にも出るし、柳田國男も『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』で触れているので、併せてお読みになることをお薦めする。ともかく、この話、我々が想像するよりもかなり古い時代にその原型はあるようではある。

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