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2020/08/25

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 三 / 史邦~了

 

       

 

 動物に関する史邦の句は必ずしも以上に尽きるわけではない。ただその代表的なものは一わたり観察を試みたから、以下少しく他の方面の句に眼を移したいと思う。

 史邦の句作は何時頃からはじまるか、前に引いた「初雪」の句に「猿蓑撰集催しける比(ころ)発句して心見せよと古翁の給ひければ」という前書のついているのを見れば、それ以前已に俳道に志していたものと思われる。『猿蓑』収むるところの句すべて十二、いずれも駈出しの口つきではない。就中(なかんずく)最もすぐれたものは

 はてもなく瀬のなる音や秋黴雨    史邦

の一句であろう。「秋黴雨」は何と読むか、俳書大系は「しめり」と読ませてあるが、このルビは編者がさかしらに振ったもので、原本には何もついていない。降雨の工合(ぐあい)よくあった時に「いゝおしめりだ」などというのは、現在でも行われている言葉であるが、この場合「アキシメリ」ではどうも面白くないと思う。ここは「アキツイリ」と読むべきではなかろうか。日本内地の雨季は前後二回あって、六月から七月へかけてと、九月から十月へかげてと、大体似たような空模様を繰返す。前者が梅雨であることはいうまでもないが、後者は秋霖(しゅうりん)の名を以て呼ばれている。幾日も降続く秋雨(あきさめ)の意である。梅雨を「ツイリ」と呼ぶことに対して、秋霖に「アキツイリ」の語を宛てたものではないかと思う。『有磯海』に

 米になる早稲の祝や秋露入      其継

とあるのは、全然文字を異にしているけれども、思うにこれも「アキツイリ」であろう。『有磯海』の出版は『猿蓑』よりも四年おくれているから、史邦に倣ったと見られぬこともない。が、恐らくは史邦の造語でなく、更に捜したら同じ用例が見つかるかも知れぬ。

 毎日毎日陰鬱な秋霖が続いている。著しく水嵩(みずかさ)の増した瀬の音が絶えず轟々と聞える。それを「はてもなく瀬のなる音や」の十二字で現したので、芭蕉の「五月雨の雲吹き落せ大井川」などとはまた違って、内在的な力の強い句である。しかしてその間に自ら五月雨と違うものを持っているから面白い。

[やぶちゃん注:「秋黴雨」「アキツイリ」『秋霖に「アキツイリ」の語を宛てたもの』現在、辞書や歳時記に平然とそう書いてあり、言葉感覚の嗜好で今現在の俳句作でも好まれている様子だが、恐らくはこの史邦のこの句がこの語と読みの震源と考えてよい。個人的には「ついり」という発音には生理的に虫唾が走り、私は知っていても決して口にしない。

「其継」(きけい)元禄期(一六八八年~一七〇四年)の浪化(彼は真宗大谷派の名刹井波瑞泉寺の住職であった)を中心とした最も充実した状況にあった越中井波俳壇の主力俳人の一人で、浪化同宗の妙蓮寺第四代住職。浪化の侍者として、頻繁に京と行き来した彼に度々同行している。]

 

 菜の花や小屋より出る渡し守     史邦

 この句は当時史邦の句として比較的有名なものだったのではないかと想像する。句空撰の『北の山』、車庸(しゃよう)撰の『己(おの)が光』、兀峰(こっぽう)撰の『桃の実』、いずれもこれを録しているからである。前二者は元禄五年[やぶちゃん注:一六九二年。]、『桃の実』は同六年の出版であるから、作句の年代は『猿蓑』と大差ないものと見るべきであろう。流通性が多いだけ、特色に乏しいという難はあるかも知れぬが、如何にも長閑な趣が現れている。菜の花の多い、関西郊野の様子が眼に浮んで来る。

 味噌まめの熟るにほひや朧月     史邦

 「熟る」は「ニユル」と読むのかと思う。嗅覚を主にした句であるが、作者は別に朧月夜につきものの艶な匂などは持って来ない。ただ鼻に感じた味噌豆の煮える、甘い、暖かそうな匂を捉えただけである。朧な月の光の下に一たびこの香を嗅げば、直に身を春夜の大気の中に置くの思がある。場所も作者の位置も、強いて問う必要はない。真実の力といえばそれまでであるが、嗅覚の一点によって朧月の趣を生かしている作者の伎倆も認めなければなるまい。

 岡崎は祭も過ぬ葉雞頭        史邦

 この岡崎は三州岡崎ではない、京都の岡崎であろう。秋の祭が過ぎて、何となく物静になった空気の中に、葉雞頭が何時(いつ)までも衰えぬ色を見せている、というのである。沈静した空気に対して、葉雞頭の色彩が特に目立って感ぜられる。一茶の「一祭りさつと過けり草の花」などという句も、同じようなところを覘(ねら)ったものであるが、史邦の句のように湛然たるものがない。表現の如何よりもむしろ作者の心の問題であろう。

[やぶちゃん注:「京都の岡崎」現在の京都府京都市左京区南部の広域地名。この辺り(グーグル・マップ・データ)。「岡崎」を町名に冠する地区が多い。

「湛然」静かで動かぬさま。]

 

 春雨やおもきが上のふけあたま    史邦

 史邦はこういう感覚をも句中のものにしている。すぐれた句というわけではないが、懶(ものう)い春雨の感じが一句に溢れているように思う。特色の多寡を論ずれば、「小屋より出る渡し守」よりはこの方を推すべきであるかも知れぬ。

 芭蕉と史邦との交渉はどんなであったか、委しいことは伝わっておらぬが、史邦の句が撰集の上に現れる時代から推して、「奥の細道」旅行以後に相見たことは明である。幻住庵時代にも訪問者の一人であったらしく、『猿蓑』の「几右日記(きゆうにっき)」に

 笠あふつ柱すゞしや風の色      史邦

の一句をとどめており、『嵯峨日記』の中にもその名が見える。芭蕉が三年ぶりで江戸に帰って後、史邦も仕を辞して東へ下った。

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『幻住庵在庵中』(元禄三(一六九〇)年四月六日から七月二十三日まで。但し、途中の六月には一時、幻住庵を出て京の凡兆宅にあった時期がある)『の芭蕉を訪ねたときの吟である。清閑な庵居の柱にかけられた桧笠(ひのきがさ)を涼風が吹きあおっているさまである。緑陰を吹きぬけてくる風に涼しさとともに色彩が感じられるというのである』とあり、「笠」について『『幻住庵記』に「木曾の桧笠、越(こし)の菅蓑(すがみの)斗(ばかり)、枕の上に懸(かけ)たり」とある笠』とされ、「すゞしや」に注されて、『夏の季題。『猿蓑さがし』に「涼しや風の色とは翁の清貧、その隠者たる高節の所を形容して作れる也」とある』とあり、さらに宵曲の言っている通り、『『猿蓑』所収「几右日記」に、幻住庵を訪れた客の発句三十五句の中の一として出る』とある。]

 

   東武に志ありて白川の橋はらはら
   難に蹈初与市が蹴上の水にわらぢ
   をしめ直すもあとゆかしく

 鈴かけをかけぬばかりの暑かな    史邦

   東武におもむきし頃木曾塚に各吟
   会して離別の情を吐事あり

 涼風に蓮の飯喰ふ別かな       同

等の句があるから、その発足は夏だったのであろう。洛の史邦は一転して江戸の史邦になった。左の二句は東武における史邦の作品として、注目すべきものたるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「蹈初」「ふみそめ」。

「与市が蹴上の水」「蹴上」は「けあげ」で現在の京都市左京区蹴上。インクラインで知られる、ここ(グーグル・マップ・データ)。旧東海道が京都三条通に通ずる九条山などの谷間(たにあい)の急坂で、嘗ては愛宕郡と宇治郡の境で、古くは「松坂」とも呼んだ。参照したサイト「京都風光」の「蹴上」によれば、『蹴上の語源としては「つま先上がりとなるほどの急坂」を意味するともいう』。ここには『源義経』『についての伝承がある。牛若丸(義経)は、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している』が、『現在の蹴上付近で、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市重治(与一)らの一行とすれ違う。その従者の一人(馬とも)が峠の湧水を撥ね、牛若丸の衣を汚した。牛若丸は怒り』、十人(九人ともされる)の『武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払った。また、与一も斬られたともいう。牛若丸は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。斬られた人々のために、九体の石造地蔵(九体仏)を安置して弔ったともいう。その場所は九体町付近とされる。(『雍州府志』)』とあった。]

 

   芭蕉菴に宿して

 蕣や夜は明きりし空の色       史邦

   深川の庵に宿して

 芭蕉葉や風なきうちの朝涼      同

 「蕣」の句は早暁の気を一句に尽した感がある。夜が漸く明放れてしかも日が出ぬ頃、爽な天地の中に朝顔の花を見る。早暁の大気と、爽な空の色と、はっきりした朝顔の花と、三者が渾然として一になっている。こういう朝顔の趣は今なお新な種類のものであるが、史邦が芭蕉庵に一宿して、早天にこの句を得たのだと思うと、一層感が深い。

 「芭蕉葉」の方は、蕣ほど早い時間ではない。芭蕉庵に一宿した史邦が、縁側か何かに出て涼んでいると、しっとりした朝の空気の中に、芭蕉が大きな葉を伸べている。まだ日も高くは上らず、芭蕉の葉を動かすほどの風もない、という静な世界を描いたのである。『続猿蓑』の編者は惟然の「無花果(いちじく)や広葉にむかふ夕涼」と並べてこれを録しているが、正に趣を同じゅうする朝夕の一対として、併看すべきものであろう。

[やぶちゃん注:「蕣」は「あさがほ」で秋の季題。「明きりし」は「あけきりし」。この言い切った毅然とした語勢が、この句の眼目であろう。

「朝涼」「あさすずみ」。]

 

 芭蕉と史邦との交渉は、京洛から東武にわたって続いている。

   古翁ある時のたまひけるは、
   史子我道は牛房の牛房くさきを
   持てよしとするに比せり、是を
   しれりやと仰られし返しに

 上下や下は紙子のはら背負      史邦

   其後人々此心を尋られしかば、
   師の道は信を以て物にむかふ、
   物また信に応ずるなりと答申
   けるとかや

という問答などは、関西においての事か、江戸に来てからの事か、時代の徴すべきものがないが、両者の関係が浅いものでなかった証左にはなるかと思う。ただ芭蕉が最後の旅に上るに当り、これを送った人々の中にも史邦の名は見えず、『枯尾花』に網羅された追悼句の中にもまた史邦は洩れている。芭蕉と親しかった門弟のうち、何故『枯尾花』に洩れたか不審なのは、西にあっては洒堂、東にあっては史邦である。洒堂については多分旅行にでも出て、大坂にいなかったものだろうといわれている。史邦にも何かそういう事情がなければ、どうしても解釈のつかぬところである。

[やぶちゃん注:「史子」は「しし」。史邦を尊称したもの。「牛房」は「ごばう」で牛蒡(ごぼう)のこと。

「上下や下は紙子のはら背負」「かみしもやしもはかみこのはらせおひ」。この一句、よく判らぬ。]

 

 史邦は芭蕉の門弟として篤実なる一人であった。元禄八年の『後の旅』にある

   芭蕉翁追悼

 河はあせ山は枯木の涙かな      史邦

の句は、如何ともしがたい胸中の悲哀を語るものであるが、「青山を枯山(からやま)なす泣枯(なきから)し、海河を悉(ことごと)に泣乾(なきほ)しき」と『古事記』にもあり、「河はあせ山は枯木」という調子が実朝の「山はさけ海はあせなん」の歌を連想せしむる点において、直に肺腑(はいふ)を衝(つ)かぬ憾があるかと思う。それよりもしみじみと感ぜられるのは

   旧庵師の像に謁

 芭蕉会と申初けり像の前       史邦

の一句である。これは師を喪った者の感情として、古今に通ずるものであろう。碧梧桐氏が「天下の句見まもりおはす忌日(きにち)かな」と詠み、鳴雪翁が「下手な句を作れば叱る声も秋」と詠んだのは、子規居士一周忌の時ではなかったろうか。大正六年最初の漱石忌の時に、東洋城氏は「この忌修す初めての冬となりにけり」と詠んだ。年々忌を修してその人を偲ぶことには変りはなくても、最初の忌日は自ら感懐の異るものがある。巧まざる史邦の句が人を動かすのは、その心持を捉えているがために外ならぬ。ここに「芭蕉会」とあるのは、当時実際にそう唱えたか、史邦だけがそういったのか、その辺はよくわからぬが、碧梧桐氏が「すなはち思ふ十七夜(じゆうひちや)忌と名づくべし」といった子規忌も、東洋城氏が「早稲田の夜急に時雨れぬ九日忌」といった漱石忌も、一般にはその称呼が用いられぬような事実があるから、かたがた以て「芭蕉会」という言葉が面白く感ぜられる。芭蕉会という言葉が芭蕉その人の風格なり、行状なりに適合していることは贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「古事記」のそれは、「上つ巻」の父伊耶那岐命の海原を治めよという命を聴かず、素戔嗚命が母恋しさに涕泣し、世を荒廃させてしまうシークエンスに出る。

   *

故。各隨依賜之命。所知看之中。速須佐之男命。不知所命之國而。八拳須至于心前。啼伊佐知伎也。其泣狀者。靑山如枯山泣枯。河海者悉泣乾。是以惡神之音。如狹蠅皆滿。萬物之妖悉發。

   *

故(かれ)、各(おのおの)依(よ)さし賜ひし命の隨(あにま)に、知ろしめす中(なか)に、御速須佐之男命、命(よ)せし國を治(し)らさずて、八拳須(やつかひげ)心(むね)の前(さき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く狀(さま)は、靑山(あをやま)を枯山(からやま)のごとく泣き枯らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾しき。是(ここ)を以ちて惡しき神の音(こゑ)は、狹蠅(さばへ)如(な)す、皆、滿ち、萬物(よろづ)の物の妖(わざはひ)、悉に發(おこ)りき。

   *

「実朝」のそれは、定家所伝本「金槐和歌集」では掉尾の六百六十三首目に収められたもので、

 山はさけ海はあせなむ世なりとも

     君にふた心わがあらめやも

の著名な一首。宵曲の言うように、原拠が見え見えで、悲哀感情がインク臭くなってよくない。

「芭蕉会と申初けり像の前」「ばしやうゑとまうしそめけりぞうのまへ」。私は宵曲のようには、買えない。]

 

   翁三回忌

 凩や喪を終る日の袖の上       史邦

 芭蕉会に蕎麦切打ん信濃流      同

 これらの句にも皆真実の情が簑っている。ここにもまだ芭蕉会の語が用いてある。

[やぶちゃん注:「芭蕉会に蕎麦切打ん信濃流」「ばしやうゑにそばぎりうたんしなのぶり」。前句はいいが、これはやはり私は買わない。]

 

 史邦は自己唯一の撰集に『芭蕉庵小文庫』と名づけた。先師の遺文、遺句の類を多く収めたからの名であろう。その春の部に見えた左の一句は、前書に多くを語っているからここに全部を引用して置こうと思う。

   ふたみの机硯箱は翁ふかくいとをしみ
   てみづから絵かき讃したまひぬ。また
   一とせ洛のぼりに、いざさらば雪見に
   ころぶ所迄と興じ申されける木曾の檜
   笠越の菅蓑に桑の杖つきたる自画の像、
   此しなじなはさぬる年花洛の我五雨亭
   に幽居し給ふ時、一所不住のかた見と
   て予に下し給りぬ。されば師のなつか
   しき折々あるは月花に情おこる時は是
   をかけこれをすえ、ひたすら生前のあ
   らましして句の味をうかゞふのみ、
   む月七日はことにわか菜のあつものを
   すゝめて例よりもかなしくかしこまる
   袖になみだこぼれて

 折そふる梅のからびや粥はつを    史邦

 史邦の居を五雨亭といったこと、芭蕉がそこに滞在した形見として、以上の品々を史邦に贈ったことはこれで明である。それらの遺物を取出しては先師を偲び、折々のものを捧げてその前に畏るというのは、史邦その人の篤実な様子が思いやられる。師を担いで自ら售(う)ろうとするような、衒示的(げんじてき)態度が認められぬのは特に難有い。

[やぶちゃん注:「いざさらば雪見にころぶ所迄」貞享四年十二月初め、恐らくは三日(グレゴリオ暦では一六八八年一月五日)の名古屋での作と推定される名吟である。

「檜笠」「ひのきがさ」。

「越の菅蓑」「こしのすげみの」。

「はつを」は「初尾」で「初穗(はつほ)」に同じい。ここはその年最初の粥を炊いて仏前に奉ったことを指す。]

 

 芭蕉歿後の史邦について、もう一つ挙げなければならぬものは「芭蕉庵小文庫序」である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

木曾の情雪や生ぬく春の草と申されける言の葉のむなしからずして、かの塚に塚をならベて風雅を比恵比良(ひえひら)の雪にのこしたまひぬ、さるをむさし野のふるき庵ちかき長渓寺の禅師は亡師としごろむつびかたらはれければ、例の杉風(さんぷう)かの寺にひとつの塚をつきてさらに宗祇のやどりかなと書をかれける一帋(し)を壺中に納めて此塚のあるじとなせり、たれたれもかれに志をあはせて情をはこび句をになふ、猶師の恩をしたふにたえず、霜落葉かきのけてかたのごとくなる石碑をたて、霜がれの芭蕉をうへし発句塚と杉子がなげきそめしより愁傷なをあらたまりて

 日の影のかなしく寒し発句塚     史邦

[やぶちゃん注:「木曾の情雪や生ぬく春の草」「情」は「じやう」。「生ぬく」は「はえぬく」。この句は永く作句年次が明らかでなかったが、尾形仂(つとむ)氏が、「日本詩人選 松尾芭蕉」(一九七一年筑摩書房刊)で元禄三(一六九〇)年三月作と推定された。その経緯について山本健吉氏が「芭蕉全句」(私が所持するのは二〇一二年刊講談社学術文庫版)で詳細に纏めておられるので、以下に引く。

   《引用開始》

去来の『旅寝論』に「一とせ人々集りて、木曾塚の句を吟じけるに、先師一句も取給はず。門人に語りて曰(いわく)、都て物の讃、名所等の句は、先(まず)其(その)場をしるを肝要とす。西行の讃を文覚の絵に書、明石の発句を松島にも用ひ侍らんは、浅ましかるべし。句の善悪は第二の事也、となり。我むかし先師の木曾塚の句を拙(つたな)き句なりと思へり。此(この)時はじめて其(その)疑ひを解(とき)ぬ。乙州(おとくにが)木曾塚の句はすぐれたる句にあらずといへ共(ども)、此をゆるして猿蓑集に入べきよしを下知(げじ)し給ふ」とある。尾形氏は、人々が集って木曾塚の句を吟じたのは、元禄四年一月以外に考えられないとし、その時点で去来が「むかし」と言ったのを、前年の三月末と推定し、「先師の木曾塚の句」をこの句とする。また乙州が詠んだという木曾塚の句は、「その春の石ともならず木曾の馬」(猿蓑)の句をさす。従来この句の制作年次は明らかでなく、句の詠まれた事情も前書がないので不明であったが、この尾形氏の隙のない推論で、おおよそそれらの疑問は決着する。

『芭蕉庵小文庫』には編者史邦の序文にこの句を引用し、「と申されける言の葉のむなしからずして、かの塚に塚をならべて、風雅を比恵・日良の雪にのこしたまひぬ」といっている。この句は従来、木曾路での嘱目吟か、江戸で木曾路を思いやった句か、近江膳所(ぜぜ)・義仲寺の木曾塚での吟か、あるいは木曾義仲の画讃か、色々の説があったが、編者の序文に「かの塚に塚をならべて」とあるのが、芭蕉の遺言で遺骸が木曾塚の隣に葬られたことを意味する以上、それは木曾塚を意味するだろう。芭蕉が画讃句や名所の句に「先(まず)其(その)場をしるを肝要とす」と言って乙州の句を採ったのは、その句が義仲の馬に乗ったままの最後の情景をよく踏まえているからである。芭蕉が「木曾の情」といったのも、義仲の人間像をよく見据えているからである。その生涯をみれば、雪深い山国に雪をしのいで生えぬいた春の草のような生命力の逞しさがある、それが木曾義仲の本情である、といったのである。そのような義仲の生き方への共感がこの句には出ている。芭蕉の句としては拙い句ではあっても、「其場」をはずしていないのがとりえである。

   《引用終了》

と山本氏は評しておられるが、私は力強く、リアルに画像も想起出来る佳句と感ずる。

「比恵比良」比叡山と比良山地の高峰群。

「なを」ママ。]

 

 何の奇もない文章であるが、底にしみじみとしたものが流れている。「日の影」の句を誦して、新な石碑にさす冬の日影を、まのあたり見る如く感ずるのも、畢竟真実が籠っているためであろう。

 史邦には、なお

   芭蕉翁七回忌

 こがらしの身は七とせや像の皺    史邦

という句も伝わっている。綿々として思慕の情を絶たぬ史邦のような人が、特別な事情なしに『枯尾花』に洩れるということは、先ず不可解という外はない。

 史邦の句は『芭蕉庵小文庫』に多数収録されているが、それ以上に多いのは種文(しゅぶん)の手に成った『猿舞師』である。これは種文が弟子の立場から、師たる史邦の句を特に多く収めたのかも知れぬ。史邦の句を見るに当って、この二書は閑却すべからざるものであろう。『猿舞師』の中に

 冬枯の磯に今朝見とさか哉      ※羽

 川中の根木に横ろぶ涼かな      同

[やぶちゃん注:「※」は「公」の第二画がない字体。但し、諸本では「公羽」とあるので、「公」に同じい。]

の二句に註して、「右の句翁の句也と誰やらが集に書入たるは翁と※羽(こうう)の文字を読たがへたると史子申されける」とあるのは、『炭俵』の誤を指摘したので、芭蕉研究者に取っては注目すべき資料である。史邦は他人の作が師翁の作として伝えられ、やがて後世を誤るべきを悲しんでこれをいい、種文もその意を体して特に集中に加えたものと思われる。一たび芭蕉の句として有力な集に収められた以上、こういう忠実な人の証言でもないと、これを覆すことは不可能であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:恰も史邦が初めて指摘したように宵曲は書いているが、これは芭蕉自身が遺言状で指摘している。「公羽」は奥羽の岸本八郎兵衛(慶安二 (一六四九) 年~享保四(一七一九)年)で山形鶴岡の庄内藩給人で俳人。サイト「日本掃苔録」のこちらに、『祖は俳人長山重行の祖伝兵衛の配下と伝えられる庄内藩の給人岸本家に生まれる。俳号は公羽。鶴岡島居川原(あるいは長山小路)に住む』。寛文一〇(一六七〇)年、第三代『藩主酒井忠義の代に御徒とな』り、延宝八(一六八〇)年には『上野御仏殿造営の普請方として従事し』、貞享二(一六八五)年、第四代『藩主忠真の時に御徒目付とな』ったとあり、元禄二(一六八九)年、『松尾芭蕉が奥羽行脚の途中、鶴岡に来て長山重行邸に泊った折』り、『その門人となる。その後も、江戸勤番中』、『親しく教えを受けるなど』、『交流を深めた』。元禄七年、父『律右衛門の病死により』、『家督を継ぎ、御徒小頭となる。芭蕉から公羽に宛てた書翰が現存しており、「そのかみは谷地なりけらし小夜砧」の句を芭蕉は秀作と褒めている。志太野坡・池田利牛・小泉孤屋らが江戸蕉門の撰集『炭俵』を編集した際、公羽の句が二句、芭蕉の句として入集した。後に芭蕉がそれに気付いて、遺言状の中で』、『ぜひその誤りを正すように』、『と弟子の杉山杉風に命じている。(庄内人名辞典など)』とある。

「涼」は「すずみ」。]

 

 俳人としての史邦は元禄俳壇に如何なる地歩を占むべきか、それは今俄に論断する必要はあるまい。以上は主として動物に関する興味から史邦を見、次いで篤実なる芭蕉門下として史邦を見た、断片的なおぼえ書に過ぎぬ。史邦の全般にわたるものとしては、なお多くの研究を費さなければならぬからである。

[やぶちゃん注:以下は実際に一行空けで、底本では全体が二字下げ。]

 

   (附 記)

 その後市橋鐸(いちはしたく)氏に『史邦と魯九』なる著書があることを知って一読した。史邦一生の輪郭は大体これに尽されている。丈艸とは犬山以来の関係で、史邦が先ず京に上り、去来と相識るに至ったもののようである。去来の書いた「丈辨誄」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寝し、先師にま見え初られし」とあるのは、この間の消息を指すのであろう。芭蕉歿後の史邦の身辺は存外寂寞であったらしく、其角、嵐雪以下、蕉門の有名な人たちとも殆ど交渉がなかった。『芭蕉小文庫』から『猿舞師』に移るに及んで、集中の顔触が著しく局限されるのは、史邦の周囲の寂しかったためではあろうが、歿年もわからず、固より何処に葬られたかもわからず、一切杳然(ようぜん)として空に帰すというに至っては、あまりに甚しいような気がする。市橋氏が彼の不遇を憐んで、その伝を作るに至ったのも偶然でない。史邦の句として世に伝わる最後のものは、宝永二年の『続山彦』に見えた

 はつ雁やしらけてもどる空のしほ   史邦

の一句である。彼はこの句を詠んで後、果してどの位世にながらえたかわからぬが、他に何も資料が現れぬ限り、姑(しばら)くこれを以て形見とするより外はあるまい。ただこの句もまた動物を詠じたものであることは、文学的価値以外に多大の興味がある。

[やぶちゃん注:「市橋鐸」明治二六(一九八三)年~昭和五八(一八九三)年)は愛知県犬山出身の郷土史家。本名は市橋鐸麿(たくまろ)。犬山藩成瀬氏に仕える御典医をしてきた鈴木家に生まれ、國學院大學卒業後、函館商業学校で教鞭を執り、大正九(一九二〇)年に一宮の市橋家の養子となった。昭和二(一九二七)年、愛知県の小牧中学校に移り、同校では郷土室に勤め、郷土資料写真集を発行するなど、郷土歴史教育に取り組んだ。昭和一六(一九四一)年には名古屋市の委嘱を受け、「名古屋叢書」の編纂主任として、八年かけて全四十七巻を完成、戦後は愛知県立女子専門学校、後、県立女子大教授として昭和三十九年まで務めた。名古屋市・小枚市文化財調査委員。「史邦と魯九」は昭和一二(一九三七)年俳諧史研究社刊。

「杳然」遙かに遠いさま。ここは一向にその先の事蹟が見えぬこと。

「宝永二年」一七〇五年。

「空のしほ」よく判らぬ。ちょうど、そんな雰囲気に合った空の色・具合の謂いか。識者の御教授を乞う。]

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