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2020/08/13

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 六 / 丈艸~了

 

       

 

 丈艸の句には前書附のものが相当ある。しかし前に挙げた芭蕉関係の諸句の如く、前書によって丈艸その人の面目を窺い得るようなものはあまり多くない。

   閑居

 朝暮にせゝる火燵や春のたし    丈艸

[やぶちゃん注:上五「あさくれに」、「せゝる」は掻き立てるの意で、「火燵」は「こたつ」、「たし」は「足し」でこの春の日々の暮らし中で、それぐらいのことしか補えることはない、の意。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、掲句は「小柑子」(しょうこうじ:野紅編・元禄一六(一七〇三)年自跋)のもので、翌年の「土大根」(つちおおね:季水編・宝永元(一七〇四)年序)では、「風士季水病僧がほ句をなど申こされしに」と前書し(この年の改元前の元禄十七年二月二十四日に丈草は没した)、没後の宝永三年の「丈草発句集」では、上五を「朝夕に」とする、とある。]

 

   三月尽

 明ぬ間は星もあらしも春の持    同

[やぶちゃん注:「三月尽」は「さんぐわつじん」で三月の終わること。三月の晦日。上五「あけぬまは」、「持」は「もち」で「未だ受け持ちの分(ぶん)」の意。松尾氏前掲書によれば「喪の名殘」(ものなごり:北枝編・元禄十年刊)の句形で、『今日はもう三月尽。でも、』明日の『朝が来るまでは星もまだ春の星。強く吹く風もまた春の風。夜明けまで、春の名残を惜しむべし』と評釈され、また、「泊船集」(はくせんしゅう:風国編・元禄十一年刊)では上五を「行春や」とするとある。前書とともに「明けぬ間は」がいい。]

 

   年内立春

 十五日春ものし込年わすれ     同

[やぶちゃん注:「年内立春」いつもお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「暦のページ」の「暦と天文の雑学」の「年内立春と新年立春」に、以下のようにある。

   《引用開始》

.立春正月の意味

旧暦は立春正月の暦であるというのは、年の初め(歳首または年首)が立春前後に来るように調整された暦と言うことで、ぴったり同じになるという意味ではありません。

どれくらい前後するかというと、「最大±半月」です。

このようなずれが起こってしまうのは、旧暦が日次(ひなみ)を月の満ち欠けという太陰暦の要素から決定し、月次(つきなみ)を太陽の動きを示す二十四節気という太陽暦の要素から決定する太陰太陽暦であるための宿命のようなものです。

月の満ち欠けの周期と太陽の一年の動きの周期が割り切れないものであるため、月次を二十四節気にあわせて配置しても、日次の始まりである朔(新月)の日はぴったり二十四節気には合わせられないのです。

仕方がないので折衷案として、「最大±半月」の範囲内で一致すれば良いことにしたのが旧暦です。

2.年内立春と新年立春の意味

旧暦のシステムでは元日と立春の日付が最大±半月ずれることがあると言うことはおわかりになったと思います。

この「±」のうちの「-」、つまり旧暦の元日より早く立春を迎えてしまうことを年内立春と呼びます。

これに対して「+」、つまり旧暦の元日以降に立春が訪れる場合を新年立春と呼びます。

2007/2/4は立春ですが、この日は旧暦ではまだ12月ですから[やぶちゃん注:陰暦では1217日。]、元日より早くに立春を迎えた(つまり「-」側)例で、「年内立春」の例と言えます。

3.「年内立春」は珍しい?

こよみのページへ寄せられる質問や、掲示板への書き込みなどを読んでいると、旧暦の元日を迎えるより前に立春を迎えてしまうという年内立春は珍しい現象だと思っている方が多いようです。実を言いますと昔私も、「珍しい」と思いこんでおりました。

でもこれは(も)誤り。年内立春はほぼ2年に一度は起こるありふれた現象なのです。

[やぶちゃん注:中略。]

4.年内立春が「珍しい」と誤解される理由は?

年内立春がありふれた現象だと解って頂けたと思います。

ではなぜ、珍しい現象と誤解する人が多いのでしょうか。

ここからは、私の勝手な推理ですので、お暇な方だけおつきあいください。

  ふるとしに春たちける日よめる  在原元方

 『年の内に 春は来にけり ひととせを 

       こぞとや言はむ 今年とや言はむ』

古今集の冒頭を飾る歌で、年内立春といえば必ずこの歌が引用されるほど有名な歌でもあります(現に私も引用しています)。

意味はといえば、

 「年が変わらないうちに立春が来てしまったこの年を、

    去年と言うべきか、今年と言うべきか」

と言ったところでしょうか。

年内立春に戸惑っているといった印象を受ける歌です。

歌の善し悪しは私にはわかりませんが、何とも軽妙な感じで覚えやすい上、古今集の冒頭を飾る歌であるということで、よく知られた歌であることだけは間違いありません。

そしてそんな誰もが一度は聴いたことのある歌が、年内立春に戸惑っているような印象の歌ですから、

 旧暦時代の人も年内立春に戸惑っている

   → 戸惑うということは、珍しい経験に違いない

     → 年内立春は珍しい経験なのだ

と連想が進み、「年内立春は珍しいこと」という誤った結論に結びついてしまっているように思えます。

歌を作った在原元方が本当に、年内立春に戸惑っているのかどうかは何とも言えないところです。昔の人だってみんながみんな、暦に詳しいわけでは無かったでしょうから、本当に戸惑っているのかもしれませんが、2年に一度はあることなら、素人でもそんなに不思議な現象とは思わなかったと私は思います。

件の歌は、「年内立春」というちょっと変わった歌の題をもらって、さてどうしようかと考え、年内立春という言葉に潜む解っているけどどこか釈然としない感覚をウィットを効かせて軽妙な歌に仕立てたものではないかと想像します。

その時代の人たちにとっては、元方が歌に込めた「なんだか釈然としない思い」が良く了解できるので、おもしろい歌と受け取れたのでしょうが、今となっては、年内立春という余りなじみの無い言葉を歌った、特別な意味を持った歌と映るようになったのではないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

因みに、例えば、来年二〇二一年の立春を調べてみると、二月三日であるが、この日は陰暦では十二月二十三日となり、年内立春なのである。因みに、芭蕉にも、

   廿九日立春ナレバ

 春や來(こ)し年や行きけん小晦日(こつごもり)

という年内立春を詠んだ句がある(「千宜理記」)。

旧暦で大晦日(おおみそか)は「大晦日(おほつごもり)」で、その前日を「小晦日」と呼ぶ。この句は寛文二年(一六六二)年年末の詠とされるが、この年の十二月は小の月で十二月二十九日が大晦日に当たり、しかも立春だった。「小晦日」は不審を感じさせる言い方であるが(諸注釈は誰もそれを問題にしていないのだが)、これは一般に大の十二月三十日の場合のそれを大晦日と呼んでいたことに対して、音数律から判り易く句に用いたに過ぎないように思われる。因みに、この句は制作年代が判明している芭蕉の作では最古のものとされる。芭蕉十九歳の春のことである。先の在原元方の一首をもじると同時に、「伊勢物語」六十九段や「古今和歌集」(よみ人知らず・「卷第十三 戀歌三」・六四四番)に出る「君や來し我や行きけむ思ほえず夢か現(うつつ)か寢てか覺めてか」の措辞を裁ち入れた、如何にも貞門の優等生の諧謔である。]

 

というような句は、いわゆる題詠の類ではないにせよ、丈艸に対して何らかの鍵になる性質のものではない。「十五日」の句は「寒は既望の日より明て風景ことさらに悠然たり」という前書になっているのもある。この句を解する上に多少の便宜はあるが、格別注意を払わなければならぬ前書でもなさそうである。

[やぶちゃん注:「既望」陰暦十六日の夜を指す。]

 

 丈艸にはまた餞別、離別等の前書を置いたものがいくつもある。

   餞別

 見送りの先に立けりつくづくし    丈艸

[やぶちゃん注:「つくづくし」は実景の中に見える土筆のことではあるが、副詞の「つくづく」(熟(つくづく))の「凝っとよくよく(相手の去って行く)姿を見つめるさま」や、「(別れを)痛切にしみじみ感じ入るさま」、或いは「もの寂しく、ぼんやりしているさま。つくねん」の意を重ねているものと思う。松尾氏前掲書では、『土筆は旅立つあなたの道しるべのようであり、そして、しだいにあなたは土筆のように小さくなって、遠ざかる、元禄十四年春、仏幻庵を離れる支考に贈った餞別吟』とある。]

 

   餞別

 瓢簞の水の粉ちらす別かな      同

[やぶちゃん注:「水の粉」は「みづのこ」で、米や麦を炒り焦がし、粉に挽いたもの。冷水で溶かし、砂糖を加えなどして食する。「こがし」「いりこ」「水の実」等とも呼び、夏の季題である。瓢簞(ひょうたん)の水で以って「水の粉」を溶かしては二人で分け合って飲み、それをお別れとしよう、というのである。]

 

   餞別

 さしむかふ別やともに渋団      同

[やぶちゃん注:座五は「しぶうちは」。柿渋を塗って破れにくくした大きな団扇。本来は夏の季題。風を送ると同時に蚊を払うのに用いられた。松尾氏前掲書に、『元禄六年三月下旬、江戸に旅立つ史邦(ふみくに)からの〈慇懃(いんぎん)に成しわかれや藤の花〉のと留別吟に対する餞別吟』とある。三月と「藤の花」は無論、晩春であるが、少しばかり、早い日が別れのそれであったものか。季語無用論者の私には特に違和感はない。]

 

   やよひの廿日あまり関に
   蘆文に別るゝとて

 落著のしれぬ別れやいかのぼり    丈艸

[やぶちゃん注:「蘆文」は美濃関(現在の岐阜県関市(グーグル・マップ・データ))の佐野氏。蕉門の故老。上五は「おちつきの」。「いかのぼり」で春。松尾氏前掲書に、『これからさきの旅路はどこにどう落ち着くことやら。中空にゆらゆら漂うあの凧のように。元禄六年』(一六九三年)『三月二十日、美濃の関で芦文に残した句』とある。この翌年に師芭蕉が亡くなることを考えると、丈草の個人的な内心に既にして孤独な漂泊の翳が強く落ちていることが窺える。丈艸三十の春の一句である。]

 

   惟然行脚におくる

 炎天にあるき神つくうねり笠     同

[やぶちゃん注:「あるき神」(がみ)は、芭蕉が「奥の細道」の冒頭で「そゝろかみの物につきてこゝろをくるはせ」と挙げた「そゞろ神」のことであろう。私は『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉』で、『不思議な神名だ。諸注、何となく何心なく人の心を旅へと誘う神として芭蕉の造語とする。そうであろう。しかし如何にも美事な神名ではないか! ウィトゲンシュタインも言っている。――「神は名指すことは出来るが、示すことは出来ない。」――「そぞろ神」とはまさに、そうした神の名としてコズミックでエターナルな魅力に満ちている!』と注をやらかした。相手がかの惟然なればこそこの一句素晴らしい餞別句と言える。]

 

   離別

 別るゝと鉢ひらきなり草の露     同

[やぶちゃん注:「鉢ひらき」から見て、相手は行脚僧ではなかろうか。]

 

   つくし人を送りて

 大仏を彫る別れやあきの風      同

[やぶちゃん注:判るる「筑紫」のお方、知りたや。]

 

これらの句の相手は何人であるか、蘆文、惟然の外は明でない。

 

   獅子庵の主人東西両華の廻国
   終りて此春又うき世の北の山
   桜見ばやと思ひ立申されしが
   一日湖山の草廬を敲て離別の
   吟を催せり、折節山野が屛居
   の砌なれば麓迄送り行に班荊
   の志にもまかせず、むなしく
   栗津の烟嵐に向ひて遊鳥一声
   の響に慣ふのみ

 松風の空や雲雀の舞わかれ      丈艸

「獅子庵の主人」は支考である。『東華集』『西華集』の両書を上梓して後、更に北越に遊ばむとして丈艸の庵を訪うたものと見える。「うらやましうき世の北の山桜」は芭蕉の句、句空がこれによって『北の山』なる書を撰していることは、人の知るところであろう。

[やぶちゃん注:「東西両華」これより前、京・近江・伊賀・伊勢・中国・四国・九州及び江戸と、東西広域に俳諧行脚し、元禄一一(一六九一)年の西日本の旅の集成「西華集」(同十二年刊)、翌元禄十二年には「東華集」(同十三年刊)をものしていることを指す。

「此春」は元禄十四年春のこと。但し、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の注によると、「東西夜話」(支考編・元禄十五年刊)に『よれば、支考の京出立は四月一日で』『初夏』『であったか』とある。

「うき世の北の山桜見ばや」堀切氏の注に、『芭蕉が加州白山へ奉納した「うらやましうき世の北の山ざくら」(『北の山』)の句によるもので、ここは北陸への旅をさす』とある。

「草廬」(さうろ(そうろ))は丈草の仏幻庵を指す。

「敲て」は「たたきて」。

「屛居」は「へいきよ(へいきょ)」。堀切氏曰く、『丈草が元禄十四年の春、「今年草庵を出でじとおもひ定むる事あり」と前書した「手の下の山を立きれ初がすみ」(『蝶すがた』)の句を詠んで、三年閉関禁足の生活に入ったことをいう』と注されておられる。

「砌」は「みぎり」。

「班荊の志」は「かんけいのこころざし」で堀切氏の注に、『春秋時代の「班荆道故」の故事(『春秋左氏伝』巻二十六)に囚むもので、朋友と道に遇って故郷を語り合うことを意味する。「班刑」とは荊を地に布いて坐る意である』とある。「班荊道故(はんけいどうこ)」は、暫く会っていない昔の友人と偶々出会って語り合うことで、「班荊」は草を敷くことを謂い、「道故」は「話をすること」の意。春秋時代、伍挙が楚から亡命して晋に赴く途中、古い友人の公孫帰生とたまたま出会って語り合ったという故事に由る。「荊を班きて故を道う」とも読む。「荊」は茨(いばら)だから、地に敷こうとして手近にあったのはそれしかなく、それを敷いてでも親しく話をするというニュアンスがあるのだろう。

「烟」「けぶり」。

「嵐」「あらし」。強い風。

「慣ふ」「ならふ」。真似する。

「松風」堀切氏はこの句の「松風」と「舞(まひ)わかれ」について、『謡曲『松風』で、「中の舞」にかかるとき、シテの松風が涙をおさえながら、小走りに橋掛りへ行き、ツレの村雨も泣きながら戻ってくる場面での地謡「立ち別れ」になぞらえたものか』とされる。「松風」については、小原隆夫氏のサイト内のこちらが詞章もあってよい。その「あらすじ」によれば、『ある秋の夕暮れのことです。諸国を旅する僧が須磨の浦(今の神戸市須磨区付近)を訪れます。僧は、磯辺にいわくありげな松があるのに気づき、土地の者にその謂れを尋ねたところ、その松は松風、村雨という名をもつふたりの若い海人の姉妹の旧跡で、彼女らの墓標であると教えられます。僧は、経を上げてふたりの霊を弔った後、一軒の塩屋に宿を取ろうと主を待ちます。そこに、月下の汐汲みを終えた若く美しい女がふたり、汐汲車を引いて帰ってきました。僧はふたりに一夜の宿を乞い、中に入ってから、この地にゆかりのある在原行平(ありわらのゆきひら)の詠んだ和歌を引き、さらに松風、村雨の旧跡の松を弔ったと語りました。すると女たちは急に泣き出してしまいます。僧がそのわけを聞くと、ふたりは行平から寵愛を受けた松風、村雨の亡霊だと明かし、行平の思い出と彼の死で終わった恋を語るのでした。姉の松風は、行平の形見の狩衣と烏帽子を身に着けて、恋の思い出に浸るのですが、やがて半狂乱となり、松を行平だと思い込んで、すがり付こうとします。村雨はそれをなだめるのですが、恋に焦がれた松風は、その恋情を託すかのように、狂おしく舞い進みます。やがて夜が明けるころ、松風は妄執に悩む身の供養を僧に頼み、ふたりの海人は夢の中へと姿を消します。そのあとには村雨の音にも聞こえた、松を渡る風ばかりが残るのでした』とある。

 本句について、堀切氏は以下のように評釈されておられる。『元禄十四年の春、北陸の旅に向かう支考を送ったときの餞別吟である。湖畔の松並木を吹く風が音を立て、その上には青空がひろがっている。その青空にもつれ合うように囀っていた二羽の雲雀が、風の強さのためか、つっと左右に舞い別れていったというのである。舞い別れるのは雲雀ばかりでなく、支考と丈草であり、どことなく離別の哀愁の漂ってくる句である。この句、近江八景の一 「栗津の晴嵐」にちなむとともに、謡曲『松風』で、シテの松風とツレの村雨(ともに霊)が別れる場面の地謡にある「立ち別れ」のことばになぞらえ、また「ツレたとひ暫しは別るるとも、待たば来んとの旨の葉を、シテこなたは忘れず松風の、立ち帰(かえ)り来(こ)んおん音(ノと)づれ(下略)」の詞章をふまえての着想であろう』とある。]

 

   身を風雲にまろめあらゆる乏
   しさを物とせず、唯一つの頭
   の病もてる故に枕のかたきを
   嫌ふのみ惟然子が不自由なり、
   蕉翁も折々之を戯れ興ぜられ
   しにも此人はつぶりにのみ奢
   を持てる人なりとぞ、此春故
   郷へとて湖上の草庵を覗かれ
   ける幸に引駐て二夜三夜の鼾
   息を贐とす、猶末遠き山村野
   亭の枕にいかなる木のふしを
   か侘て残る寒さも一入にこそ
   と後見送る岐にのぞみて

 木枕の垢や伊吹に残る雪       丈艸

 惟然が芭蕉と一緒にどこかへ泊った時、丸太を切っただけの枕を出された。頭が痛くて眠れず、帯を枕に巻きつけて寝たら、芭蕉が笑って、惟然は頭の奢に家を失ったか、といったという話がある。芥川氏がこの「木枕」の句を挙げて「この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであう?」と評したことは本文の初に引用した。残雪の美しさは固よりであるが、「木枕の垢」の一語は惟然の風丰(ふうぼう)を躍動せしめるものでなければならぬ。丈艸がこれらの俳友に対する態度は、あるいは雲の来去に任すが如きものであったかも知れぬが、そのいずれにもしみじみとした情の滲み出ているのは、丈艸の人物を考える上に、看過すべからざるところであろう。

[やぶちゃん注:「頭」後に合わせて「つぶり」と読んでおく。「かしら」「あたま」でも別段、構わぬ。

「奢」「おごり」。贅沢。このエピソードは以前に「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」の「広瀬惟然」の注で私が引いた伴蒿蹊著「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」にも出ていたので、参照されたい(ネタ元は以下で堀切氏の示される支考の俳文であろう)。

「幸に」「さひはひに」。

「引駐て」「ひきとどめて」。

「鼾息」「いびき」。

「贐」「はなむけ」。「餞」に同じい。

「野亭」野中の小屋。

「侘て」「わびて」。

「一入」「ひとしほ」。

「後」「うしろ」。

「岐」「わかれみち」。

 堀切氏前掲書の評釈を引く。『元禄八年春、木曾塚の無名庵に丈草を訪ねた惟然が、二、三日滞在したのち、故郷美濃へ向けて出立するときに、はなむけた句である。折しも伊吹山には残雪が白く残っているのが遠望されるが、これから旅立つあなたは、この草庵でそうであったように、旅先の宿でも、さぞ、苦手な固い木枕に寝て、その木枕についた垢に辟易することだろう――だが、どうか身体には十分気をつけて旅を続けてほしいと祈るばかりだ、というのである。一句、木枕の垢のイメージと伊吹山の残雪のイメージとが、どことなく照応し、それぞれのイメージがダブって映ってくるところが絶妙である。伊吹山は近江・美濃国境にそびえ、山の向こう側に郷国をもつ惟然・丈草のふたりにとって、共通のなつかしい山でもあった。また、長い前書からうかがえるように、平生枕の硬いのを嫌った惟然坊に対する丈草一流のユーモアも託されているのである。支考の「貧讃ノ賛」(『本朝文鑑』巻八)なる一文に、ある夜、木曾寺で雑魚寝した際、惟然が枕を帯でくるくる巻きにしているのを見た芭蕉が「さなん鉢びらきの境界ながら、天窓に栄耀の残りたれば、さてはかの千両の金は、あたまにこそつゐ(ひ)えけめ」と戯れたことが伝えられているが、そうしたエピソードをもふまえての送別吟であったわけである』。なお、「伊吹」に注され、『近江国(滋賀県)と美濃国(岐阜県)の国境にそびえる山。その残雪は山麓一帯の厳しい余寒の象微である』とされる。

『芥川氏がこの「木枕」の句を挙げて「この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであう?」と評した』「丈艸 一」で示した通り、芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(リンク先は本「丈艸」のために急遽、私が電子化したものである)中の一節である。]

 

 丈艸には行脚旅行の産物と見るべきものが乏しい。以下少しく丈艸自身動いている句を列挙する。

   美濃の関にて

 町中の山や五月ののぼり雲      丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『元禄十三年夏、美濃の関の箕十』(きじゅう)『亭(円慶寺)に遊んだときの吟である。町の真ん中に山がそびえている、この関の里の眺めであるが、五月空には、いつのまにか北へ流れる上り雲が出て、いつ雨模様になるかわからない気配だというのである。梅雨空の心もとなさと明日の行脚の旅への気がかりとがにじみ出ている』とされ、まず「美濃の関」に注されて、『美濃国(岐阜県)の関をさす。美濃蕉門俳人箕十』(万々堂箕十)『が往持であった円慶寺での吟である』とされ、続いて「町中」には、『北美濃の山並が起伏して関まで入ってきているので、町は山の裾をめぐってうずくまるように形成されている』とされる。「のぼり雲」には、『方言。北方へ流れる雲。雨気をもたらす雲である。地方によっては、西方へ行く雲をいう』とされる。さても、ロケーションに惹かれて、この「円慶寺」という寺を探してみたのだが、いっかな容易に見つからぬ。廃寺になったかと諦めかけた最後のフレーズ検索で、名前が変わっており、しかも、どうも堀切実氏の寺名の記載に誤りがあるらしいことが判った。個人ブログ「フクロウ日誌」の「丈艸と惟然 ③」に、『現在の光圓寺』とあった。本句を挙げられて、『丈艸が惟然の郷里である関で詠んだ句』。『丈艸は1700(元禄13)年夏に生母の年忌法要のため、仏幻庵から郷里の犬山に帰省し、ついでに美濃の各地に立ち寄り、関へも足をはこんでいる。彼にとってはかつてない長旅であった。関の「慶圓寺」(現在の光圓寺)には、知り合いで住職だった正圓(万々堂箕十)がおり、この句は寺内にあった箕十亭で詠んだものといわれている(ただしこのとき惟然は関にいない)。正圓の箕十亭はこの地の俳諧仲間が集う大切な場であったが、昭和初期に老朽化のため取り壊されたとのこと』(後掲するリンク先の画像を参照)と語られ、この句について、『座五「のぼり雲」は雨を予感させる雲であり、旅の途上にある丈艸の「雨来たらんとする五月空のこころもとなさと、行脚僧の明日の旅を気にしている気もちとがにじみ出ている」(『丈草発句漫談』)と市橋さんは述べ、「町中の山」が関の里の地形をうまくよみこんだものだ、ともいっているが、この「山」が具体的には関のどの山なのかは言及していない』とある(ここに出る方は愛知県犬山出身の郷土史家で丈草の研究家でもあった市橋鐸(いちはしたく 明治二六(一八九三)年~昭和五八(一九八三)年のこと)。『沢木美子さんは惟然の評伝『風羅念仏にさすらう』(1999年)のなかで、「町中の山」が光圓寺の南にある梅龍寺山であろうと指摘し、丈艸の故郷犬山』(愛知県)『はこの山の南にあり、その方角からわきたつ「のぼり雲」に彼の望郷の念も託されている、と述べている。これを読んだその日、すぐ思い立って光圓寺へ向かった』。『この場所の吟ならば、北西に流れる「のぼり雲」は、やはり目の前の梅龍寺山の背後から立ち上る雲でなければならず、沢木さんの見立てどおりだろうと思ったのである』とあって、境内に建つ関市教育委員会の説明板が写真で読めるのだが、そこでは『光圓寺(旧 慶圓寺)』とあるのである。岐阜県関市朝倉町にある浄土真宗光円寺(グーグル・マップ・データ航空写真)である。この寺が、関の盆地部分の中央にあって、その南北及び西に平地に盛り上がった転々とする丘陵(梅竜寺山・一ツ山・十六所・力山・安桜山など)に囲まれているのが航空写真でよく判る。]

 

   洛東の花

 落込や花見の中のとまり鳥      同

[やぶちゃん注:上五は「おちこむや」。松尾氏前掲書に、『いまを盛りのみごとな桜。あふれるばかりの花見客。枝に止まる鳥など、誰も目にとめてくれない。花に目を奪われて、人目を惹かない鳥を、「落込や」と擬人法で表現したところに、滑稽味がある。元禄十五年春の作』とされる。]

 

   尾張の国に春を探て

 梅の花ちりはじめけり追儺風     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書を見ると、「梅櫻」(朱拙編・元禄十年刊)のもので、座五の「追儺」には「ナライ」の読みが振られてあるようである。「ならいかぜ」は『いまの愛知県稲沢市、大国霊(おおくにたま)神社の儺追(なおい)祭に吹く風。祭りは正月十三日、人の邪鬼を払い、国土安穏、五穀豊穣を祈る。儺追祭に来合せたところ、折からの追儺風に、梅の花が散りはじめた。眼前の実景の句』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。この祭りは今も毎年旧暦一月十三日に「儺追(なおい)神事」として行われるが、現在は奇祭「はだか祭り」(公式サイト内の解説ページ。但し、男たちの壮絶な「はだか祭り」部分は江戸末期に始まったとある)と「神男(しんおとこ)」(籖で選ばれた「儺負人(なおいにん)」の通称で、彼に触れると厄が落とされるとされる)の名で、よく知られる。]

 

   丈山之像謁

 さかさまに扇をかけてまた涼し    同

[やぶちゃん注:前書は「丈山の像に謁す」。「丈山」安土桃山から江戸初期にかけての武将で文人の石川丈山(じょうざん 天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)。もとは武士で「大坂の陣」の後に浪人となり。一時、浅野家に、さらに広島へ仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲して丈山と号した。江戸初期における漢詩人として代表的な人物であり、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。これは松尾氏前掲書によれば、『元禄四年六月一日、芭蕉・去来らと』、丈山が寛永一八(一六四一)年五十九歳の時に造営し、九十歳で没するまでの約三十年間、悠々自適の生活を送った『白河一条寺詩仙堂』(京都市左京区一乗寺のここにある詩仙堂丈山寺。グーグル・マップ・データ。公式サイトはこちら。京に冥い私であるが、ここは大変好きな場所である。現在は曹洞宗寺院)『の旧跡を尋ね』て頂相(ちんそう)像を拝した『折の作』とある。この丈草に一句は、閑適の詩が多い中で丈山の漢詩の中でも、詩吟を学ぶ初心者の練習によく用いられる以下の七絶「富士山」(寛文一二(一六七一)年「覆醬集」所収)を想起したものである。

   *

仙客來遊雲外巓

神龍棲老洞中淵

雪如紈素煙如柄

白扇倒懸東海天

 仙客(せんかく) 來たり遊ぶ 雲外の巓(いただき)

 神龍 棲み老ゆ 洞中の緣

 雪は紈素(ぐわんそ)のごとく 煙(けむり)は柄(え)のごとし

 白扇 倒(さか)しまに懸る 東海の天

   *

「紈素」は白い練り絹のこと。「柄」はここでは扇で取る箇所で扇骨の集中した要(かなめ)のこと。「肝心要」の「かなめ」は、元々ここのことである。しゃっちょこばらず、自然体で、頂相の丈山も微笑んだに違いない。]

 

   梅本寺より帰るとて

 蟬なくやわかれてのぼる軒の山    同

[やぶちゃん注:「梅本寺」は「ばいほんじ」と読む。「日文研」の画像データベースの「拾遺都名所図会」のこちらに曹洞宗の寺として載り所在した場所もリンクで特定出来るが、現在は全く存在しないようである(「拾遺都名所図会」天明七(一七八七)年)。ところが、鏡山次郎氏のサイト内の『山科「花山」地域・2000年の歩み』の比留田家文書(寛文一一(一六七一)年九月二十二日の条)に、『一、観音堂(梅本寺)』『これは浄土宗無本寺道心者寺にて、山号、院号、寺号はない』とあるので、困ってしまった。これはもう、識者の御教授を乞うしかない。序でに、実は句意の映像も理解しかねている。

 

   遊長命寺

 笋の鮓を啼出せほとゝぎす      同

[やぶちゃん注:「長命寺」近江八幡市長命寺町の北西端の琵琶湖西岸近くに聳える長命寺山(三百三十三メートル)の標高約二百五十メートルの山腹にある天台宗姨綺耶山(いきやさん)長命寺(ちょうめいじ:グーグル・マップ・データ)。句は「たけのこのすしをなきだせほととぎす」だが、どうも意味がよく判らない。ここで「鮓」とくれば、鮒鮓だが、丈草は出家だから、腥さものはだめである。そこで「さあ、竹の子の熟(な)れずしを早う出しておくれ!」という内心の気持ちを不如帰の鳴き声に掛けたものか。]

 

   須磨の浦眺望

 ながめ合秋のあてどや寺と舟     同

[やぶちゃん注:上五は「ながめあふ」。]

 

   旧里(ふるさと)に帰りて

 聖霊にもどり合せつ十とせぶり    同

[やぶちゃん注:「旧里」彼の故郷は尾張犬山。思うに、決して良い思い出はない場所である。さればこそ、凡に帰るのも十年ぶるなのである。]

 

   残暑のたへがたき比夜船より
   あがりて洒堂亭にねぶる

 稲妻や夜あけて後も船ごゝろ     同

[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「ねぶる」は「眠(ねぶ)る」。松尾氏前掲書によれば、『元禄六年の初秋、難波に洒堂を訪れた折の作』とされ、出典は「市の庵」(洒堂編・元禄七年自序)で、『明け方空に稲光』り『が閃めく。夜船を降りた後も、まだ船に揺られているような気分』と訳される。「洒堂」は浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)は医師で蕉門の俳人。近江出身で名は道夕。別号に珍碩・珍夕(ちんせき)。元禄三(一六九〇)年に俳諧七部集の一つ「ひさご」の編者となり、同六年には江戸深川の芭蕉庵滞在を記念して「深川」を板行、同年夏、大坂に移って点者となり、同七年に「市の庵」を出したが、俳壇経営には失敗した。晩年の芭蕉からは遠ざかった。]

 

   淀川のほとりに日をくらして

 舟引の道かたよけて月見かな     同

[やぶちゃん注:何故か私は実際にこの景色を見たような既視感(デジャ・ヴ)があって、これは映像が非常によく判る。やや広角気味だ。「舟引」は重い荷物を積んだ船を特に川上に遡上させる時や、下流に向かう場合でも、流れと漕ぎでは遅くて困る危急の場合、通常は川の片岸(狭い川なら両岸も可能)に縄を渡し、そこを仲間の船乗りや、雇われ者らが直に人力で船を引っ張って助勢を加えて行くことを指す。だから、淀川の堤の上で作者が、そうした生業(なりわい)をなす人々を、ちょいと避(よ)けて月見と洒落たというのである。珍しく、複数の人の動きが詠まれた動と静(月)の佳品である。]

 

   伊賀へ越時おときの峠にて

 いひおとす峠の外もあきの雲     同

[やぶちゃん注:「おときの峠」現在の滋賀県甲賀市信楽町多羅尾と三重県伊賀市西山町を結ぶ御斎峠(おとぎとうげ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「御斎峠」によれば、『於土岐、於登岐、御伽とも表記する。昔から近江では伊賀・伊勢道、伊賀では京道(京街道)と呼ばれていた。標高は』五百七十メートル。『峠の名前の由来は、「三国地志」によると、鎌倉・南北朝時代の禅僧、夢窓国師が訪れた際、この峠で村人のお斎(接待)を受けたことによるという』。天正一〇(一五八二)年、「本能寺の変」の『後、摂津国にいた徳川家康が三河国岡崎城へ帰還するため、宇治田原から滋賀へ抜ける経路としてこの峠を使ったといわれる。案内した多羅尾光俊は、この功によって明治まで長い間、多羅尾領を押えていた』。『峠に妖怪が出るという昔話がある。早朝に腹の膨らんだ餓鬼が現れ、旅人に「茶漬けを食べたか」と尋ねる。「食べなかった」と答えると通してくれるが、「食べた」と答えると襲いかかり、腹を裂いて茶漬けを取り出し、貪り食ったという』とある。それをおさえた句で、「御齋」(おとぎ)は「飯」の縁語であるから、「いひおとす」は「飯落とす」で、おにぎりを落してしまったの意。松尾氏前掲書によれば、『元禄八年初秋、芭蕉の故地』(芭蕉逝去の翌年である)『伊賀上野訪問の折の作』とある。]

 

   嵯峨にて

 竹伐の外には見えず菊の主      同

[やぶちゃん注:「たけきりのほかにはみえずきくのぬし」。松尾氏前掲書によれば、「菊の道」(紫白女編・元禄十三年刊)所収で、『秋の日の日差しを浴びて、みごとに咲き揃った大輪の菊。菊の主はどこかとあたりを見廻すが、竹』を『伐る人がいるばかり。菊の香の漂う閑寂な嵯峨野の風情。元禄十二年ごろの作』とある。]

 

   野明別墅にて

 柴の戸や夜の間に我を雪の客     同

[やぶちゃん注:「野明」坂井野明(?~正徳三(一七一三)年)。博多黒田家の浪人。姓は奥西とも。去来とは親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えたもので、「鳳仭(ほうじん)」とも称した。「別墅」は「べつしよ(べっしょ)」で別荘。松尾氏前掲書に、『「柴の戸」は柴で作った粗末な門』(隠棲者のポーズ)で、『柴の戸の客となり、一夜を明かした。翌朝起きてみるとこはいかに、あたりはすっかり雪景色』で、思わずも『雪見の客人となった』自分に『興じた句。元禄十一年の冬、嵯峨の野明の別荘での吟』とある。]

 

   旅中

 蜻蛉の来ては蠅とる笠の中      丈艸

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんばう」。元禄十年刊の元梅編の「鳥の道」所収。]

 

   旅行

 かたびらにあたゝまりまつ日の出かな 同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書に、『「かたびら」は麻、からむし』(イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea:茎の皮から採れる非常に強靭な繊維が麻などと同じく古代から永く使用されてきた)『で織った布で仕立てたひとえ物。夏の衣服。夏とはいえ』、『冷気の沁む山間の明け方、かたびらで身を暖め、朝日のあたるのを待つ。「まつ」は「あたゝまり」と「日の出」に掛かる。早朝の旅立のさま』とある。孤高の行脚をここまでリアルにさりげなく〈直(なほ)きもの〉として詠める者は丈草をおいて他にはいないと私はおもう。]

 

   東湖あたりの冬空にさまよひて

 むきたらで又やしぐれの借り著物   同

[やぶちゃん注:「東湖」琵琶湖東岸。松尾氏前掲書に、『「むきたらで」は、こぼし足りないでとの意の方言』で、この『旅先で、まだ降り足りないのか、またしもしぐれに濡れてしまった。またまた借着をする始末』となったの意とされる。]

 句の上に現れた丈艸の足跡は極めて範囲が狭い。生国の尾張より東には及ばず、西も須磨から先へは行っておらぬようである。其角の如き都会人ですら、東海道を何度か往復しているのに、丈艸の世界は余りに局限された傾がある。

   人の行脚のうらやましくて

 下京をめぐりて火燵行脚かな     丈艸

の句は、たまたま斯人の世界を語るものであろう。しかして丈艸の句の天地が毫も狭隘に失せぬのを見れば、旅行が吟懐を鼓する唯一の途でないことは自ら明(あきらか)である。

[やぶちゃん注:「下京」(しもぎやう(しもぎょう))は堀切氏前掲書注に、『京都の三条通り以南の地。商人・工人・職人が住む庶民的な町であった』とし、「火燵行脚」(こたつあんぎや(こたつあんぎゃ)は『丈草の造語か』とされ、『元禄十年冬、洛の吾仲亭に遊んだ折の句か』とある。「吾仲」は京六条の仏画師で俳人渡辺吾仲(ごちゅう 延宝元(一六七三)年~享保一八(一七三三)年)。初め五雨亭史邦に学び、落柿舎で芭蕉に謁して後、李由・支考の門に入った。]

 

 尤も丈艸は病身でもあった。長途の行脚を企て得なかった理由はここにも存するかと思う。四十三歳を以て歿したのも、決してその健康を示すものではない。

   病中の吟

 山がらは花見もどりかまくらもと   丈艸

[やぶちゃん注:「山がら」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius varius。全長十三~十五センチメートル。頭部は黒い羽毛で被われ、額から頰、後頸部にかけて明色の斑が、下嘴基部から胸部にかけて、黒い帯模様が入り、尾羽は黒褐色。初列風切や次列風切は黒褐色で、羽毛の外縁は青みがかった灰色。雨覆や三列風切の色彩は青みがかった灰色。嘴は黒く、後肢は青みがかった灰色を呈する。]

 

   衰病倚ㇾ人

 行先にのがれ入けり蚊帳の内     同

[やぶちゃん注:「衰病(すいびやう)にて人に倚(よ)る」或いは「倚(たの)む」か。]

 

   病床

 虫のねの中に咳出す寝覚かな     同

[やぶちゃん注:堀切氏・松尾氏ともに元禄十五年秋頃(没するのは元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日))の作とする。]

 

 直接病を詠じたこれらの句は勿論

 守りゐる火燵を庵の本尊かな     丈艸

[やぶちゃん注:「庵」は「いほ」、「本尊」は底本では「ほぞん」と読んでいる。火燵にかじりついている自身を、火燵とそれに入って凝っとしている自身の姿を、火燵を仏として守る、引いてはその僧体の己れ自身が本尊のようだとカリカチャライズしたものである。]

 

 小畳の火燵ぬけてや花の下      同

[やぶちゃん注:「小畳」(こだたみ)は普通の畳より小さく作った畳で、田舎間に用いた畳のこと。]

 

 ほこほこと朝日さしこむ火燵かな   同

[やぶちゃん注:堀切氏・松尾氏ともに「ほこほこと」は尾張方言で暖かなさまとし、松尾氏は元禄十三年頃の作とされる。]

 

 影法師の横になりたる火燧かな    同

等、火燵を詠んだものに特色が多いのも、病弱の結果だろうといわれている。

[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書では「影法師」は「かげぼし」と読んでおられ、『自堕落にごろりと火燵で寝ころぶと、影法師も一緒。火燵に横になったまま、おのが影法師を懐かしいもののように眺めやる。丈草の日常の一端を物語るかのような一句』と評釈しておられる。]

 

 元禄十六年十月、浪化上人遷化(せんげ)の報の伝えられた時、丈艸は病牀にあった。

   御あとしたひ侍るべき程に
   やみふしたれば小詞の片は
   しにもかよはず

 悲しみの根や三越路に残る雪     丈艸

 この時の病は遂に癒えなかったのであろう。浪化に後(おく)るること四カ月にして丈艸も世を去った。「御あとしたひ侍るべき程にやみふしたれば」というのは、必ずしも誇張の言ではなかったのである。

[やぶちゃん注:「浪化」は越中国井波瑞泉寺の住職であったが、元禄十六年十月九日(グレゴリオ暦一七〇三年十一月十七日)に三十二の若さで亡くなり、丈草は翌元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)に逝去した。因みに同年は三月十三日に宝永に改元し、去来はその宝永元年九月十日(一七〇四年十月八日)に亡くなった。

「御あと」は「みあと」と読んでおく。

「小詞の片はし」は「しやうしのかたはし」と読んでおく。「つまらぬ一言の片端をさえもお送りすること、これ、出来申さず」の意でとっておく。

「三越路」「みこしぢ」。越前・越中・越後の称。松尾氏は前掲書で、本句を端的に『越の地の残雪はあなたを失った悲しみの印』と道破されておられる。]

 

 浪化と丈艸とは『有磯海』以来の交渉であり、芭蕉歿後浪化が無名庵に丈艸を訪ねたこともあったらしい。なお『そこの花』に左のような句が見えるから、ついでにここに挙げて置く。

   黒海苔は雪のりとも俗にいふ、
   一種両名にして能州福浦より出る
   とかや、岩間に降積れる雪の日に
   照されて潮に潟されて此ものとは
   なり侍るとぞ、此回浪化よりの恵
   賜に瓊章を添られたるにて初て其
   来由を知ぬ、取あへず拙き言の葉
   の藻屑をつらねて其浦波の辺をお
   もふのみ

 海苔の名やたゞ打見には雪と墨    丈艸

 句は頗る妙でないが、雪海苔と称して黒いのを興じたのであろう。横井千秋(よこいちあき)の歌にも「越の海の浜のいくりの白雪の凝りてなるとふくろのりぞこれ」というのがあったと記憶する。

[やぶちゃん注:どうも前書の句読点が不全で気にいらぬ。正字化して読みを附し、再掲する。

   *

   黑海苔は、雪のりとも俗にいふ。一種
   兩名にして、能州福浦より出(いづ)
   るとかや、岩間に降積(ふりつも)れ
   る雪の、日に照されて、潮(うしほ)
   に潟されて、此ものとはなり侍るとぞ、
   此囘(このくわい)浪化よりの惠賜
   (けいし)に瓊章(たまづさ)を添ら
   れたるにて、初(はじめ)て其(その)
   來由(らいゆ)を知(しり)ぬ。取あ
   へず、拙(つたな)き言の葉の藻屑
   (もくづ)をつらねて、其(その)浦
   波の邊(あたり)をおもふのみ

 海苔の名やたゞ打見には雪と墨    丈艸

   *

「黑海苔」所謂、「岩海苔(いわのり)」は多種を含む。大まかには植物界紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属 Porphyra に属する種群で、主に板海苔に加工されるものであるが、知られた種ではアサクサノリPorphyra tenera、スサビノリPorphyra yezoensis が挙げられるものの、この能登産のそれはウップルイノリ Porphyra pseudolinearis である。潮間帯上部に生育し、幅が狭く長い。成長したものは長さが約三十センチメートル・幅五センチメートルまで伸長するが、長さ二十センチメートル・幅一~二センチメートルが通常個体である。雌雄異株で、秋から一月ぐらいまで岩礁に見られる北方系の種である。一風変わった標準和名は海域名由来で、「十六島」と書いて「うっぷるい」と読む。現在の島根県出雲市(以前は平田市であったが、二〇〇五年三月に旧出雲市・平田市・簸川郡佐田町・多伎町・湖陵町・大社町の二市四町が新設合併して新しい「出雲市」となった)の十六島町(うっぷるいちょう)にある十六島湾(うっぷるいわん)と北部岩礁海岸の広域(グーグル・マップ・データ)がそこであるが、「十六島」という単独の島の名ではない。航空写真(グーグル・マップ・データ)で見ると、十六以上の大小様々な島が見える。如何にもアイヌ語の語源を感じさせる地名であるが、これに関しては、「日本古代史とアイヌ語」というサイトの「十六島」に実に緻密で詳細な考察がある。それによれば、アイヌ語で「松の木が多いところ」若しくは「穴や坂や崖の多いところ」という意味である可能性が高いとある(このサイト、震えるほど素晴らしい! 是非、ご覧あれ)。但し、他にも朝鮮語であるとする説もあり、古くは「於豆振(おつふるひ)」と称し、これは、「海藻を採って打ち振るって日に乾す」ことを意味する『打ち振り』が訛ったとする説もあり、「出雲国風土記」の「楯縫郡(たてぬひのこほり)」の条には、この地名に該当すると考えられる「彌豆島(みづしま)」の地名について、諸校訂や注釈では「於豆椎(おつふるひ)」「振畏濱(ふるひはま)」「於豆振畏(おつふるひ)」「許豆埼(こづのさき)」等の字や読みが与えられてある。

「雪のりとも俗にいふ」「雪海苔」で、雪の降る頃、多く岩に附着した岩海苔を採取するところから、日本海沿岸で採取される海苔の一種を別称する。甘海苔などとも呼ぶ。ここでは前記のウルップイノリと同義である。

「能州福浦」現在の石川県羽咋郡志賀町福浦港。ここは元禄から幕末にかけて諸国の北前船が出入りする「風待ち港」として繁栄した町である。能登の外浦海岸の岩場では広く岩海苔の採取が行われ、特に福浦産のそれは、良質な岩海苔として、毎年、京の本願寺や加賀藩への献上品であったという。

「岩間に降積(ふりつも)れる雪の」雪に引き締められ、鍛えられ、といったニュアンスが省略されている。

「潮(うしほ)に潟されて」「潟されて」は「かたされて」と読むしかない。所謂、引き潮の時には岩礁表面や潮溜まりの中に海から少しばかり隔たされて、生育環境に変化が与えられて(生態系に圧が加えられて、或いは逆に、強い潮力から守られて)のニュアンスである。

「此囘」此の度(たび)。

「瓊章(たまづさ)」「玉章」。手紙のこと。

「藻屑(もくづ)」と確信犯で読んおいた。岩海苔だから藻屑(もくず)である。これは所謂、「文藻」(ぶんさう(ぶんそう))、「文章のいろどり・文の彩(あや)・文飾」或いは「詩歌・文章を作る才能」「文才」の意を諧謔して謙遜したものと思う。「文藻(ブンサウ)」ならざる「藻屑」(「サウセツ」)の謂いである。

「打見には」「うちみには」。ちょっと見たところでは。

 一句について堀切氏は前掲書で、『越中井波の浪化上人から、能登福浦の名産である黒海苔、一名雪海苔を戴いたことに謝意を表した挨拶句である。この海苔が何故「黒海苔」と呼ばれたり「雪海苔」と呼ばれたりするのかわからなかったが、岩間に降り積もった雪が日に照らされているうちに、また潮の満ち干にさらされているうちに、こんな色の海苔になったものだと知り、その名の由来も明らかになった――だが、それにしても、ちょっと見ただけでは「黒海苔」と「雪海苔」の名称は、いかにも「雪」と「墨」のように対照的で奇妙な気がすることだ、といった意であろう』とされ、座五は『物事の正反対であることをいう諺。『毛吹草』に「かきぐれてふりくる空や雪と墨 正式」とある』とされる。]

 

 丈艸の前書附の句の中には、なお次のような種類のものがある。

   さらに劉伶が鍤もたのまじなど興
   じて

 酔死ぬ先から花の埋みけり      丈艸

[やぶちゃん注:「劉伶」(りゅうれい 二二一年?~三〇〇年?)は大の酒飲みとして知られた竹林の七賢の一人。ウィキの「劉伶」によれば、三国時代の魏および西晋の文人で沛(はい)の生まれ。「世説新語」によれば、身長が約一四〇センチと低く、『手押し車に乗り、鍤(シャベル)を携えた下僕を連れて、「自分が死んだらそこに埋めろ」と言っていた。酒浸りで、素っ裸でいることもあった。ある人がそれを』咎めたのに答えて言うに、『「私は、天地を家、部屋をふんどしと思っている。君らはどうして私のふんどしの中に入り込むのだ。」』とやり返した。『また』、『酒浸りなので、妻が心配して意見したところ、「自分では断酒できないので、神様にお願いする」と言って、酒と肉を用意させた。そして祝詞をあげ、「女の言うことなど聞かない」と言って肉を食い、酒を飲んで酔っぱらったと伝わる』。『著書に『酒徳頌』がある』とある。「鍤」は「すき」と読んでいる。「鋤」に同じい。一句は「ゑひしぬさきからはなのうづみけり」と読む。堀切氏前掲書に、『落花紛々たる下に盃を手にして陣取った丈草が、散る花びらの中に埋められてゆくような感興を覚え、その感興のままに吟じたものである。竹林の七賢人のひとり晋の劉伶は、いつも一壺の酒を携え、供の者に鋤を担わせて、酔死したらそのまま埋めてもらう用意をしていたということだが、自分にはそんな鋤など無用である――花をこよなく愛して、今まさに花に埋められるように死んでゆけるのだから、これ以上のしあわせはない。また、昔、玄石という人は酔死んだと思われて葬られ、埋められてしまったということだが、自分も酔死なぬ先から花に埋められてしまうのだから、ありがたいことだ、どうかこのままにしてもらいたいといった句意であろう。花好き、酒好きの丈草がすでに死を平常心でみつめ、悠々自適の境地にあったことをよく示している。もちろん西行の「ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」(『山家集』上・春)の一首が念頭にあったことであろう』と評釈され、劉伶については、『中国西晋の思想家で、字は伯倫、竹林の七賢人のひとり。『荘子』の思想を実践し、酒をこよなく好んだ人。『蒙求』中巻所載の「劉伶解酲(かいてい)」の章に「常に鹿車(ろくしゃ)に乗り、一壺酒(こしゅ)を携(たずさ)へ、人をして鋤(すき)を荷ひ、之を随はしめ、謂つて曰く、『死せば便(すなわ)ち我を理(う)めよ』と。その形骸を遺(わす)るゝこと、かくの如し」云々とある』とされ、上五に注されて、『『蒙求』の同じ章に並んで出る「玄石沈酒」の故事をふまえる。一度飲むと不日間醒めない酒を飲んで、家人から死んだものと思われて葬られていた玄石が、棺を開けると、ちょうど千日の眠りから醒めたところであったという話』とある。因みに最後の「千日酒」は、「蒙求」より前の「搜神記」の「卷十九」にある著名な一話が種本である。原話は漢文の授業でも私がよくやったように個人的に好きな笑話で、ダメ押しのオチがすこぶるいい。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 地中の別境」(2)]の注で原文を示したので参照されたい。]

 

   魯九といふをのこの法師になり
   たるを示して

 蚊屋を出て又障子あり夏の月     同

   吹あらしあらしと今は山やおもふ
   行あかつきのねざめなりしをとい
   ふを誦して

 山やおもふ紙帳の中の置火燵     同

 これらの句の中には観念的なものもあるが、丈艸の句としては閑却すべからざるものであろう。「蚊屋を出て」の句は「贈新道心辞」という文章の末に記されている。文中に「世をのがれて道を求るほどの人は、皆一かどの志を発して、まことしきつとめともしあへれど、年を重ねぬれば又かれこれにひかる縁おほく、事繁くなりて更にはじめの人ともおもほへぬふるまひのみぞおほかる。古人も此事をいましめて、出家は出家以後の出家を遂べきよし、勤めはげましぬ」とあるのが、この句意に当るのであろうが、丈艸の生涯はこの点において恐らく遺憾なきものであったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「蚊屋を出て又障子あり夏の月」の「出て」は「でて」でよかろう。堀切氏前掲書では、『元禄十四年夏、門人魯九が出家した折に与えた句である。蚊帳を出て月を眺めようとしたら、まだもう一つ障子があり、これをあけなければ夏の月を仰ぐことができないことがわかったという意である。すなわち出家をしても幾つかの障害を一つ一つ越えてゆかなければ、真如の月を仰ぐことはできないのだということを寓意した句であり、師として出家の心がけを諭しているのである。かなり教訓的な理の勝った句であるが、それも丈草の深い体験から得た信念なのであろう』と評釈され、『魯九は丈草唯一の門人で、美濃蜂屋の産、師に忠実な人であった』とある。「蜂屋」は現在の岐阜県美濃加茂市蜂屋町(はちやまち)(グーグル・マップ・データ)。

「吹」(ふく)「あらしあらしと今は山やおもふ行」(ゆく)「あかつきのねざめなりしを」は藤原定家の一首と松尾氏前掲書にあり、風国編で元禄九年刊のそれを見ると、前書に確かに『定家の卿の哥(うた)に『吹あらしあらしと今はおもふ行あかつきの寢覺なりしを』といふを誦して』とある。しかし、幾つかのデータを調べて見ても、この形の定家の歌は見つからなかった。識者の御教授を乞う。

「紙帳」「しちやう」は和紙で作った寝帳で蚊帳・防寒に用いられた。]

 丈艸の句が人事趣味に乏しく、自然趣味に富んでいることは最初にこれを述べた。動物の句の多いのは、丈帥の性格から来たものかどうか。時鳥(ほととぎす)の句が十五句もあるのは、必ずしも異とするに足らぬけれども、啄木鳥(きつつき)、田螺(たにし)なども数句ある。きりぎりすは殊に多い。

[やぶちゃん注:「時鳥」言わずもがな、本書では盛んに詠まれた句が出るが、ここで以下の注とのバランス上、一応、注しておくこととする。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。

「啄木鳥」キツツキ目キツツキ亜目キツツキ科 Picidae のキツツキ類の総称(キツツキという種は存在しない)。世界的にはヒメキツツキ類・シルスイキツツキ類・キツツキ類など約二百三十種からなる。本邦に棲息する「きつつき」と呼ばれる仲間は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 啄木鳥(てらつつき・きつつき)(キツツキ)」の注で詳細を記してあるので参照されたい。

「田螺」「丈草 四」で以下の句が出ており、既注。]

 

 木啄や枯木をさがす花の中      丈艸

[やぶちゃん注:「木啄」は「きつつき」。餌(え)を求めて枯れ木ばかりを探して花には目もくれない、探賞せぬさまを擬人化して興がったもの。]

 

 木つゝきの夜遊びがてら渡りけり   同

[やぶちゃん注:夜行性のキツツキ類を探してみたが、見当たらない。但し、深夜から早暁の暗い内に木を叩く音を聴いたという個人の記載があるから、いるようだ。それをここも「夜遊びがてら」と擬人化して興がっている。]

 

 木啄のたちばに近き梢かな      同

[やぶちゃん注:「たちば」「立場」で「たてば」と呼び、江戸時代、街道の宿駅の出入口に設けられた休息するための掛け茶屋のこと。旅人・人足などが休憩したが、宿泊は禁じられていた。]

 

 木つゝきの入まはりけり藪の松    同

[やぶちゃん注:中七は「入(いり)𢌞りけり」。]

 

 背戸中は冴返りけり田螺殼      同

[やぶちゃん注:「せどなかはさえかえりたにしがら」。この句、「丈草 四」で既出既注。]

 

   里の男の田螺殼を水底に沈め待ち
   居たれば腥を貪る鯲のいくらとも
   なく入り籠りて

 入替る鯲も死ぬに田螺がら      同

[やぶちゃん注:「いれかはるどぢやうもしぬにたにし殼(がら)」。「腥」は「なまぐさき」、「鯲」は「どぢやう(どじょう)」で泥鰌のこと。本邦にはドジョウ科Cobitidae は約十種が棲息するが、我々が本邦に於いて一般に知るのはコイ目ドジョウ科シマドジョウ亜科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatusであるか、又は特徴的な斑紋を持つシマドジョウ亜科シマドジョウ属シマドジョウCobitis biwaeである。なお、「どぜう」という表記は歴史的仮名遣いとしては明白な誤りである。由来としては「どじやう」が四文字で縁起を気にした江戸商人が同音の三文字に変えたものとも言うが、不詳である。この句も「丈草 四」の注で既注。]

 

 花曇田螺のあとや水の底       同

[やぶちゃん注:丈艸はよほど田螺が好きらしい。生きているその微細な動きを捉えた一句で、花曇りに対した視線のずらしが上手い。]

 

 悔みいふ人の途切やきりぎりす    同

[やぶちゃん注:「途切」は「とぎれ」。「きりぎりす」は流石に現在のコオロギのその鳴き音(ね)でなくてはならない。但し、一般にコオロギ類を直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属するものの総称とするが、私は現代のコオロギ類は主にコオロギ亜科 Gryllinae に属する種群を狭義に指すとする方が、より正しいと考えている。実際、コオロギ亜科に属する種には、フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma・オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ Loxoblemmus campestris・オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitzi・ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado といった本邦の「コオロギ」の呼称で知られるオール・スター・キャストが含まれているからである。松尾氏前掲書では、「流川集」(ながれがわしゅう:露川編・元禄六年刊)からとして、

 悔(クヤミ)いふ人のとぎれやきりぎりす

の形で出し、『前書「追悼」。「きりぎりす」はいまのこおろぎ。弔問客の途絶えた通夜の家。静けさのなかで聞こえてくるこおろぎの声が、新たな悲しみを誘う。元禄四年七月十二日』(グレゴリオ暦一六九一年八月五日)『に没した猶子(ゆうし)を悼んでの吟という』とある。]

 

 行燈に飛ぶや袂のきりぎりす     同

[やぶちゃん注:諸注は、やはり、この「きりぎりす」をこおろぎとするのだが、袂に飛び込むのは私はコオロギよりも、幼体のキリギリス(現行では直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis で、青森県から岡山県に棲息するとするニシキリギリスGampsocleis buergeri 及び、近畿地方から九州地方を棲息域とするヒガシリキリギリスGampsocleis mikado の二種に分ける考え方が一般的である)の方が自然に思われる。私はインキ臭い国文学者らが、「昔のきりぎりすはいまのコオロギ、今のコオロギは昔のきりぎりす」というバカの一つ覚えの一括絶対交換を唱えるのは甚だしい誤謬であると考えている。ここではそれを主張する場ではないからして、私の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の迂遠な注を見て戴きたい。なんなら、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」の方もご覧あれ。絵を見れば一目瞭然、江戸中期(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立)には、既に、入れ替えではなく、ちゃんとそれぞれの種に本草学的には正しく同定されているのである。要するに私が言いたいのは、詩語としてのそれらは、その後も韻律や詩想に合わせて自在に相互交換されてはいたと私は思うのである。

 

 宵までや戸にうたれたる蟋蟀     同

[やぶちゃん注:「蟋蟀」は「きりぎりす」。どうです? 戸にとまっているんですよ? コロギが戸に張り付いて動かずに凝っと鳴き続けるさまを、あなた! 想像できますか? これは、真正のキリギリスにして初めて出来ることでしょう?! あなたは、高校一年の時に、かの芥川龍之介の「羅生門」を読まされていますよね? あの有名な作品の冒頭の第四文(第二段落内)は、

   *

唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。

   *

とあり、羅生門下の第一シークエンスの終り(第八段落末尾。次の段落で楼上へと通ずる梯子を見出す)では、

   *

丹塗の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。

   *

と描写されるんですよ。円柱に貼りついたコオロギなんて、これ、ゴキブリのように大きくて、頽廃的どころじゃあなくて、生理的にキビが悪いでしょうが?! あれはね、どう考えて見たって、コオロギじゃなくて、キリギリス、な、ん、で、す、って!……さても……以下、詳しくはどうあっても「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の私の迂遠な注を読んで戴きたいのである。なお、以下では読者の想像に任せるが、概ね、コオロギと変換して採って問題はない。

 

 踊子のかへり来ぬ夜や蛬       同

[やぶちゃん注:「をどりこのかへりきぬよやきりぎりす」。盆踊りの帰りであろう。]

 

 寒けれど穴にも啼かずきりぎりす   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈。『秋も深まり、寒さがしだいにつのってくる時節を迎えたが、こおろぎは穴ごもりもしないで、じっと寒さに耐えるかのように弱々しく嗚いている、というのである。こおろぎのかすかな声に、ひっそりと耳を傾けているのであろう』とされ、「きりぎりす」を「こおろぎ」として、そこに『西行の歌に「きりぎりす夜寒に秋のなるまゝによわるか声の遠ざかりゆく」(『新古今集』巻五・秋下)がある』と引く。この西行の一首に遠く応じている一句と私は思う。また、『丈草の短冊(『俳人の書画美術3 蕉門請家』所出)には「夜寒にも穴には鳴ずきりぎりす」とある』と注されておられる。「寒けれど」の方が丈草の哀しい共感がよく出てくると私は思う。]

 

 きりぎりす啼くや出立の膳の下    同

[やぶちゃん注:「出立」は「でだち」で、下五は「ぜんのした」であるが、これは「出立ちの膳」で、則ち、葬儀の出棺の際に会葬者に出される「一膳飯」、「出立ちの飯」のことである。特に尾張地方の習慣で、元来は続く長い「野辺送り」へ向けての腹ごしらえの意味があった。「食い別れ」「立ちめし」とも呼び、故人と交わす最後の餐(さん)なのであった。]

 

 物かけて寝よとや裾のきりぎりす   同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、「俳諧曾我」(白雪編。元禄十二年自序)のそれは、

   旅行

 物かけて寐よとや裾のきりぎりす

とあり、元禄十二年頃の作とする。]

 

 月夜ぞや霜にこりたる蛬       同

[やぶちゃん注:この「蛬」はコオロギでもキリギリスでもあり得るであろう。これは画像の個人の嗜好の問題であるが、寧ろ、部分着色した緑色の後者の方が遙かに凄絶な絵となるように思う。そこにシンボライズされるのは孤高な丈草その人である。]

 

 寝がへりの方になじむや蟋蟀     同

[やぶちゃん注:コオロギであろう。それへの親愛の視線に逆に孤独な作者のペーソスが滲む。]

 

 つれのある所へ掃くぞきりぎりす   同

[やぶちゃん注:訳すまでもない。堀切氏は評釈に、『部屋の掃除をしているうちに、隅の方にこおろぎが一匹みつかった。だが、一匹だけ放り出すのはかわいそうだ――ひとつ、仲間のいそうなところへ掃き出してやろう、と呼びかけたのである。生き物へのあわれみの情が働いているのであるが、裏返してみれば、草庵に孤住』(こじゅう)『する丈草自身のさびしさの反映であろう。それでいて、どことなく瓢逸な味わいもある』とされ、『元禄十三年十二月五日付無名宛書簡』や、『元禄十三年執筆の「旅の記」の末尾にも出る句であり、『誹諧耳底記』によれば、この句によって丈草は「きりぎりすの法師」と呼ばれたという』とある。「誹諧耳底記(はいかいじていき)」は九十九菴(つくもあん)風之の俳論。]

 

 このきりぎりすが極めて人に親しく感ぜられるのは、丈艸閉居の句が多いためであろう。「寝がへりの方になじむや」「つれのある所へ掃くぞ」などというのは、後世の一茶の句と相通ずる点もあるが、「寝返りをするぞ脇よれきりぎりす」という一茶の句と併誦して見ると、気品の差は如何ともすることが出来ない。

 丈艸については以上かなり冗長の弁を費した。最後になお十数句を挙げて、説明の足らぬところを補って置きたい。

 春雨やぬけ出たまゝの夜著の穴    丈艸

[やぶちゃん注:丈草の名吟。堀切氏は前掲書では「春雨」注され、『陰暦二月末から三月に降る雨。しとしとと小止みなく降る雨。春の季題』とし、「夜着」は『大型で厚く綿を入れた襟・袖のある掛け蒲団。搔巻』とある。評釈は、『朝遅く目覚めると、今日も春雨が小止みなく降っている。草庵にひとり閑居していると、起き出してはみたものの、急いで夜着をたたむことも物憂いことだ。ふと見ると、すっぽりと抜け出した夜着は、自分の体の分だけ、そのまま穴のようになってあいているというのである。懶窩(らんか)(ものうい穴)と号した丈草の日常をありのままに客観視して微苦笑のうちに詠んだ句であるが、隠閑の境涯にある者の怠惰な性情と、物憂くやるせない春雨の本情とが、どことなく照応しているのである。ここでも師芭蕉亡きあとの虚脱感があとを引いているといえよう』とされる。この句は『元禄八年四月八日付卓袋宛書簡に、「何にかに古翁の事申出られ、愚句少々書付申候。(中略)」として、「花曇田螺のあとや水の底」の句とともに報じられている』とある。]

 

 うぐひすや次第上りの茶木原     同

[やぶちゃん注:「上りの」は「のぼりの」、座五は「ちやのきはら」。茶が次第次第に段々になって上へ上へと植えられているそこを、鶯が、これまた、その段々畑を次第次第に鳴きながら上へ上へと登ってゆくのである。]

 

 さしのぞく窓につゝじの日あしかな  同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書には「白陀羅尼(はくだらに)」(支考編・元禄十七自序)から、

 さしのぞく窗(まど)につゝじの日あし哉

で載り、『「日あし」は時刻によって変わる太陽の位置。日足。朝寝した目に、もう高くなった日の光がまぶしい。のぞきこむ窓辺のつつじも紅みを増したよう。「つゝじの日あし哉」は、日足の強さと花のあざやかさへの詠嘆。『句集』は「窓へ」』とある。「窓へ」の方が動画的効果が生まれていいか。]

 

 郭公鳴や湖水のさゝにごり      丈艸

[やぶちゃん注:「郭公」は「ほととぎす」。「鳴や」は「なくや」。堀切氏は前掲書で、『早暁、湖辺から眺望した琵琶湖の大景であろう。曇天下、降り続く五月雨のために、水かさを増した湖面はいつものように青くなく、鈍色』(にびいろ)『に薄く濁っている。と、あたりの静寂を破って、ほととぎすが一声鳴き声を残して湖上を飛び去っていったのである。視覚・聴覚のイメージが取り合わされており、琵琶湖の茫洋とした眺めに対して、作者の繊細な感覚が鋭く働きかけているような感じがある。「郭公鳴や」は「ほとゝぎすなくやさ月のあやめ草あやめもしらぬこひもする哉」(『古今集』巻十一・恋、読み人知らず)など、和歌によくある詠法を生かした表現である』と評釈しておられる。]

 

 葬の火の渚につゞく鵜舟かな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書に、「西の雲」(かの遂に芭蕉に逢えずに亡くなった金沢の俳人小杉一笑の兄ノ松(べっしょう)の編に成る一笑追善集。元禄四年跋)所収とし、『「葬の火」は葬列の松明(たいまつ)の火。月のない暗闇の夜。川辺の葬列の松明の火が水辺にゆらめく。その川面を、篝火を焚いた鵜飼舟が過ぎてゆく。死者をとぶらう火と、殺生をするための火との対比。謡曲「鵜飼」を背景とするか』とある。能の「鵜飼」は小原隆夫のサイト内のこちらが詞章もあってよい。但し、追善句の性質上、私はそのような穿鑿を持ち出すよりも、相対する灯明と業火が全く同じ世に同じように点ぜられてある映像をこそしみじみと味わうべきであると思う。]

 

 行秋や梢に掛るかんな屑       同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈。『農家では秋の収穫作業の終わったあと、屋根替えやら家の手入れやらを含めて、秋普請にかかる。そうした晩秋の季節、ふと見ると庭の木の梢に鉋屑がふりかかっていたのである。秋の過ぎ去ろうとするころの、なんとなくうら淋しい光景であるが、「かんな屑」のようなとるに足らぬものを目にとめたところが俳諧らしい』とある。]

 

   訪郷里旧友

 病人と鉦木に寐たる夜寒かな     同

[やぶちゃん注:前書は「鄕里(ふるさと)の舊友(きういう)を訪(と)ふ」。「鉦木」は「しゆもく(しゅもく)」。仏具で鉦(かね)を打ち鳴らすためのT字形の棒。鉦叩き。堀切前掲書に、『郷里を訪ねると旧友は病臥の身となっていた。つもる話もあり、その家に泊まることになったが、何かの都合で、二人枕を並べて寝るのでなく、撞木(しゅもく)のかたちに床をとって寝ることになり、秋の夜寒のわびしさがひとしむ感じられてならなかったというのである。筋交いのようになって離ればなれなかたちで寝るのは、なんとなくちぐはぐでおかしみさえ感じられるが、久しぶりに会って友と一夜を過ごすにしては、もの足りない気分であったのだろう』とある。或いは既に病態が進んでいて、彼を動かすことが躊躇われた故に(それほど狭い一間であった故に。妻子が隣りの一間に寝ていたのかも知れぬ。貧しい町屋の長屋ならば、二間のみはあり得る)、このような形で寝ることとなったのかも知れぬ。私は軽々にこの句を『おかしみさえ感じられる』とか、『わびしい情趣であるが、「鉦木に寐たる」にユーモラスな気分がある』(松尾勝郎氏の前掲書の評)とは言えない。鉦叩きには抹香の匂いもする。この旧友の病人は、実は幾許も無かったのかも知れぬ。]

 

 玉棚や藪木をもるゝ月の影      同

[やぶちゃん注:「玉棚」盂蘭盆会に祖先の位牌を安置して供え物を載せる棚。そこに先祖の霊を迎える。精霊棚(しょうりょうだな)。静謐にして寂寥を含んだ、しかし確かな実景のスカルプティング・イン・タイムである。]

 

 雲冷る三更にひくし雁の声      同

[やぶちゃん注:上五「くもひゆる」であろう。「三更」は底本に「よなか」とルビされてある。夜間の時間区分の一つである五更の第三で、凡そ現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。「雁」は「かり」。]

 

 雞頭の昼をうつすやぬり枕      同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書の評釈。『「ぬり枕」は箱枕の木の台が漆塗の枕。秋日の下、くつろいで頭をのせている塗枕に、庭に群生する真赤な鶏頭の花が映し出されている。元禄十年の秋、名古屋に素覧を訪ねた折の吟。素覧は「鶏頭野客」と号したほど、鶏頭花を愛好した』とある。「素覧」は三輪素覧(生没年未詳)中期の俳人。尾張名古屋の人で、尾張蕉門の一人。藤屋露川と交わり、露川門と蕉門諸家の句集「幾人水主(いくたりかこ)」を元禄一六(一七〇三)年に刊行している。別号に鶏頭山もある。芭蕉宛書簡が残る。]

 

 月代や時雨のあとのむしの声     同

[やぶちゃん注:「後れ馳(おくればせ)」(朱拙編・元禄十一年刊)所収の句形。「月代(つきしろ)や時雨(しぐれ)のあとのむしの聲(こゑ)」。「月代」とは、月が出ようとする間際に東の空が白んで明るく見えることをいう。月の光りの回折の視覚、晩秋の時雨がさっと降って、さっと上がったその湿りけも持った嗅覚と触覚、そして叢ですだき始める虫の声の聴覚、総て文句なしの完全な自然景のマルチな再現である。]

 

 淋しさの底ぬけてふるしぐれかな   同

[やぶちゃん注:これは「けふの昔」(朱拙編で元禄十二年刊)の句形。堀切氏の前掲書の評釈がよい。但し、氏は「篇突」(へんつき:許六・李由篇で元禄一一(一六九八)年刊)所収の句形、

 淋しさの底ぬけてふるみぞれかな

で示され、『元禄十年冬、粟津仏幻庵での吟であろう。寒夜、草庵に独居していると、冷たい霙(みぞれ)が闇の空から底のぬけたように果てしなく降ってくるのが、ひしひしと感じられる。その果てしなく降る霙の中で、わが心の淋しさも、淋しさというもののぎりぎりの限界をさらにつき抜けるかのように、底知れぬ淋しさとなって迫ってくる、というのである。丈草の孤絶の声が、腸(はらわた)からうめき出るように聞こえてくる句である。なにがしかの甘い感傷を伴いやすい尋常の淋しさをつき抜けたところの、禅機に根ざす実存的な寂寥感なのである。上五「淋しさの」の「の」が微妙に働いている。「底ぬけて」はもちろん上にも下にもかかっているのである』とある。ここは彼の絶対の孤独の核心に至るためには、より冷感の強い「みぞれ」であってこそよいと私は思う。]

 

 引起す霜のすゝきや朝の内      同

[やぶちゃん注:諸史料によれば、元禄三年冬に京で巻かれた丈草・支考・芭蕉・史邦・去来・野童による六吟歌仙の発句であるが、

 引起す霜のすゝきや朝の月

 引起す霜のすゝきや朝の門(かど)

の異形がある。]

 

 鷹の目の枯野にすわるあらしかな   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈では、『鷹狩の情景であろう。蕭条とした枯野に、鷹匠の小手に据えられた一羽の鷹が、吹きすさぶ嵐に羽毛を逆立てながら、獲物をねらって鋭く精悍な目を光らせているさまである。炯々(けいけい)として物を射るような鷹の眼光を直叙した句法であるが、冬枯れの野と強い嵐を背景にして、見事な構図をなしている。鷹が獲物の鳥に飛びかかる直前の最も緊迫した一瞬なのである』とされ、注で、『鷹狩の鷹であろう。一解に野性の鷹とみるものもある』とあり、私は断然、これは野生のそれを望遠で狙った優れた描写だと感じている。]

 

 雞の片足づゝや冬ごもり       同

[やぶちゃん注:鶏小屋の景。実際には多くの種に鳥が片足で寝ることがある。体温損失を防ぐためとも言われているが、実際の理由は判っていないようではあるが。]

 

 著てたてば夜るのふすまもなかりけり 同

[やぶちゃん注:まず、堀切氏前掲書の評釈を引く。『寝るときも起きているときも、たった一枚の布子だけの生活なので、寝ているときは夜着であるが、朝それを着たまま起き出せば、もうとり立てて夜着というべきものはなくなってしまう――そんな簡素な草庵の毎日だというのである。元禄八年、三十四歳当時に詠んだ「春雨やぬけ出たまゝの夜着の穴」』(既出既注)『の句より、いっそう徹底した一切放下の清高な境地というべきであろう』。以下、注で、『『幻の庵』には正秀の丈草追悼詞中に出る句であり、この句を受けて「境界の哀を病中の吟に熟し給ふも周く世のかた見とはなりぬ」と記されている』とある。「幻の庵(まぼろしのいほ)」はただ一人の丈草の弟子魯九の編になる追善句集。宝永元(一七〇四)年自跋。次に、松尾氏前掲書の評釈を引く。『「ふすま」は裳、夜具。寝るも起きるもたった一枚の布子だけ。魯九は同書にこの句を引き、「境界の哀れを病中の吟に熟し給ふも、周く世のかた見とはなりぬ」と記す。病床にあって、一切を放下した悟道の境地。元禄十六年十月ごろの吟』とある。]

 

 雷おつる松はかれ野の初しぐれ    同

[やぶちゃん注:「雷」は無論、「らい」。堀切氏の評釈に、『冬枯れの野に折しも初時雨が降っている。野中に立つ一本の松――かつて落雷にあって見るかげもなく枯れ果ててしまった松であるが、これにも初時雨がわびしく降りそそいでいるという情景である。中七「松はかれ野」の「かれ」は上下に掛けられた叙法である』とある。]

 

 水底の岩に落つく木の葉かな     同

[やぶちゃん注:最後も堀切氏の評釈で終わらさせてもらう。『冷たく澄んだ水底の方に、それまで水面に浮かんでいた落葉が、ゆっくりと沈んでいって岩に落ち着いたという光景である。ほとんど悟入の境地にあるともいえるような丈草の透徹した自然凝視の眼があり、造化の実相――その輪廻転生のすがたを心安らかに肯定しているのである。とりすました大徳のような風格さえ感じられる句である』とされる。確かに公案への巧まざる非の打ちどころのない答えとなっている。]

 

 新(あらたに)に説明を加えなければならぬものもあるが、今はこれで筆を擱(お)くことにする。

[やぶちゃん注:最後に。宵曲は内藤丈草を高く評価した人物として芥川龍之介を挙げたが、ここで今一人、丈草を愛した、忘れて貰いたくない人物を、一人、挙げておく。数少ない日本の真のシュールレアリストであった瀧口修造その人である。

 

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