萬世百物語卷之五 十七、下界の天人
十七、下界の天人
[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成した。但し、中央部分の縁側が、左右で合致せず、大きくズレているため、今回は完全な接合をせずに間を空けた。その分、天人の往来のために、上下の雲形の部分に枠された額縁はわざと除去した。私としては、いい感じと勝手に思っている。]
あだし夢、周防(すはう)の室積(むろづみ)といふ所に、寺の名はわすれたり。宗(しゆう)は淨土にぞありける。その寺に柳本小三郞(やなぎもとこさぶらう)といふなん、浪人の子、よるべして住みけり。兄なる男も當所にはあれど、これも田舍住みして世渡る浪々の身なれば、住寺のなさけに、小三郞をば、うちまかせたるなるべし。邊鄙(へんぴ)とはいへど、都めいたる風俗は、色にさかしき心にやありけん、いとなまめいたる少年なり。
[やぶちゃん注:「周防の室積」現在の山口県の室積湾周辺、光市室積を中心とした一帯(グーグル・マップ・データ。)。長州(萩)藩領内。江戸時代には北前船などの寄港地として栄えた。それで「都めいたる風俗」が腑に落ちる。
「寺」「宗は淨土」ここかどうかは判らぬが、光市室積に浄土宗専光寺がある。
「柳本小三郞」不詳。
「色にさかしき心にやありけん」人情に優れて優美なものを醸し出す力でもあるのであろうか。]
ころは水無月、土さへさけて、あつかりし日の、やうやうにくれかゝれば、南面の客殿、庭なかば、かげろふ。小三郞我がすむかたの小ざしき、あいのしやうじあくれば、つきやま・やり水、のこらず、みゆ。手づから庭にみづそゝぎなどして、納涼をなしける。花だんにうへたるがんぴ・ひめゆりなどは、やゝさかり過(すぐ)れど、撫子(なでしこ)は秋さへふかうのこるものなれば、今をさかりなり。桔梗(ききゃう)・おみなめしは、まだつぼみて、色なきさまながら、早百合(さゆり)の花ぞ、さきみだれて、きれいに露置きたるも、すゞし。
[やぶちゃん注:見事な「花尽くし」である。
「水無月」陰暦六月。
「土さへさけて」「土さへ裂けて」。暑さに地面が乾涸びて、裂けたようなって。
「かげろふ」「陽炎ふ」。動詞。
「あいのしやうじ」「間の障子」。庭との隔ての障子。
「がんび」「雁皮」。バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana。奈良時代より製紙原料として用いられている。初夏に枝端に黄色の小花を房状に密生させる。
「ひめゆり」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属ヒメユリ Lilium concolor。花期は六~七月。朱色がかった赤色の鮮やかな花を咲かせる。
「撫子」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属エゾカワラナデシコ変種カワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus。花期は夏から秋にかけてで、上方でまばらに枝分かれした茎の頂端に淡紅色の花を数個つける。
「桔梗」キク目キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandiflorus。開花期は六月中旬の梅雨頃から始まり、夏を通じて、初秋の九月頃までと長い。つぼみが徐々に緑から青紫に変わり、裂けて、星型の花を咲かせる。
「おみなめし」マツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia の別名。花期は夏から秋にかけてで、茎の上部で分枝し、花茎の先端に黄色い小花を平らな散房状に多数咲かせる。
「早百合」ユリ属 Lilium 全般の美称。]
山寺なれば、常さへ人けなきに、まして夕ぐれをや、築山(つきやま)のうしろ、蘇鐵(そてつ)のかげより、人音のしければ、『あやし』と見るほど、こゝらにては、めなれぬ大内(おほうち)の官女ともいふべき、それも、繪などにこそ、田舍にてはみるべき、年の程二八のころには、まだ、なよびなる、あたりもかゞやくばかりの人、小三郞が方(かた)をうちみて、おもはゆげにあゆみよる。
[やぶちゃん注:「蘇鐡」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta。ソテツ類の中で日本で自生する唯一の種で、自然分布では日本固有種であり、自生北限は宮崎県串間市都井岬であるが、参照したウィキの「ソテツ」によれば、『本州中部以南の各地でも冬季防寒(わらぼっち)をする事で植栽が可能である』とある。
「大内」内裏。宮中。
「二八」数え十六歳。
「なよびなる」「なよなよとした」の原義に、十六にも未だ満たぬの意味を含ませたもの。
「おもはゆげに」いかにも照れくさく、恥ずかしいと思っている感じで。]
見るより、たましいも、うかれながら、またあやしさも、はれず。とにかく、そゞろだちておちつかぬを、そのまゝたもとをひかへ、
「さなあやしませ給ひそ。ゆへあればぞ、はづかしき女心に念じてこゝにもきたれり。わがおもひ、かなへさせ給へ。」
と、しとしとと立(たち)よるおもだち・風情、匂ひさへ、ゑならず。此世の人ともおもはれぬを、小三郞、
「あ。」
とばかりのいらへに、いひ出づることのはもなく、ほれぼれとなりて、
『いかなるあやしきものにもせよ、かゝる人にいのちうしなひてんは、つゆおしからじ。』
と、はやうもおもひしむことのあやしさ。
[やぶちゃん注:「たましい」ママ。
「そゞろだちて」訳もなく、ひどくそわそわしてきて。
「たもとをひかへ」「袂を控へ」。御辞儀の姿勢。
「しとしとと」物事をもの静かにするさま。しとやかなさま。しずしず。
「ほれぼれとなりて」「惚れ惚れとなりて」。すっかり心を奪われてしまい、うっとりするさま。
「おし」ママ「惜し」。
「おもひしむ」「思ひ染(し)む」。]
その日もすでにたそがれすぎ、あやめもみへぬ程なりけり。姬は小三郞がありさまみて、
「さては、そこにも心うちとけ給ふか。我がねがひのかなひつる、うれし。さらば、そこの住み給ふかたへしのばせ給へ。」
と、小ざしきにともなふ。
ひそかにしやうじかため、その夜のにいまくら、たがいのさましるべし。
[やぶちゃん注:「あやめもみへぬ」ママ。「綾目も見えぬ」。
「そこ」そなたの。対称の二人称代名詞。目の前にいる、自分と同等かそれ以下の相手を指す。]
それより、よがれなく、月にも雨にも通ひくるに、いつしか、住持、目とゞめ、寺のものども、そゞめきて、
「田舍に、かゝる人、あるべしや。國守の姬君もかくまでやあらん。あに人間ならん、さだめてきつねやうのもの、日ごろの心をしりて、たぶらかすにぞあらん。」
といふ。
住持、もつともにおもへど、
「我いひ出(いで)んは、かれもはゞかりおほかるべし。」
と、かの兄なる男よびよせ、くわしく語りて、いさめさす。
男もおどろき、小三郞をかたはらにまねき、
「かゝる事、きくなり。いかにわかき身のわきまヘなきとて、さやうのもの、人間にあるべしや、ありとて、こゝに來たるべきか。大かたは、しれつる事、なぜ、一刀(ひとかたな)にとをさぬぞ。あさまし。ひけうもの。」
とぞ、はぢしめける。
小三郞もおもへば、げにふしぎなれば、
「もつとも。」
と、ことうけながらも、さすがにつらふ心ぼそくも覺えける。
[やぶちゃん注:「よがれ」「夜枯れ」。夜の訪問がなくなること。
「そゞめきて」何だかんだと騒いで。
「あに人間ならん」「豈、人間ならんや」。反語。
「かれもはゞかりおほかるべし」「直接に拙僧が諌めたのでは、彼(小三郎)も相応の成人なればこそ、立場もなくなり、少々憚られるように思わるる」。
と、かの兄なる男よびよせ、くわしく語りて、いさめさす。
男もおどろき、小三郞をかたはらにまねき、
「ありとて、こゝに來たるべきか」反語的疑問。「万が一にもまことの子女であったとしても、ここに来たることなどあろうか? いや、あり得まいよ。」。
「とをさぬぞ」ママ。「通(とほ)さぬぞ」。突き刺して殺さぬのか?! の意。
「ひけうもの」「卑怯者」。
「ことうけながらも」「言承け乍らも」。返答しながらも。]
程なく、例の如く來りて、うちうらみたる風情に、
「いかに人のさかしらすればとて、なきものになさんと、はかり給ふつれなさ。われは、きつね・たぬきやうのものにもなく、ゐんゑんあればぞ、遠き天をも、わけきたれり。」
とて、くどきなく。
小三郞、此ごろのなさけより、今のうらみおもひつゞけ、わりなうおもへど、かの男、時々しはぶき、ものかげよりせきたつれば、今は、ぬきうちにぞ、うつたりける。
うたれて、女は、かけ出せり。
「さらば。」
と兄弟、松、ともし、のりしたひて、べうべうたる野に出でたり。
みれば、きれいにたいらかなる道、つけり。
「日來このみて獵などすれば、國の案内、山川のあり所、ことごとくしりつくすに、かゝる所は、いまだおぼへず。」
と、あやしみながら、三町ばかり行くとおもへば、森々(しんしん)たる宮、たち、およそ近國には肥後の「あそのみや」、安藝(あき)には「いつくしま」ならで、おぼへざるけつこうなり。
されども、のりのみへけるをしるべに、一、二の門を過ぎ、拜殿などおぼしき所をへて、廊閣一町ばかりも、はてしなく行きける。
まだ、金銀もかゞやくばかりに、たつとき宮門の内、玉樹、陰しげり、芳花(はうくわ)、紛々たり。
されども、のりは、なをあと引きけり。
むかふに、けつこうの一宮あり。御簾(みす)かけて内はみヘぬが、人げ、さらになく、寂寞(せきばく)たるきざはしのうへまで、血のあるをあやしびて、おそろしながら、すだれかゝげてみれば、おくの間、かすかにたかき座ありて、綾錦(あやにしき)かさねたるしとねに、かの女、ひとり、ふしたり。
いき、やう薰じ、この世の外、淨土なんどいふべき地も、かゝる所にやありなんと、けうさめて、おそろしき事、つねならず。あしも、ゑさだまらねば、
「いや、いや、かゝるところ、われわればかりみるに、よしなし。先づ、歸りて、人にも見せん。」
と、それより、あしばやに行きて、寺中のものにふれまわし、棒なんど手々(てんで)にもち、すでに夜もあけて、かの所をたづぬるに、あとかたもなくなりし。
「天人といふものにやあらん。」
と語りあへるも、いかゞ、まことしからぬを。
[やぶちゃん注:「さかしら」「賢しら」「利口そうに振る舞うこと・物知りぶること」或いは「出しゃばること・お節介」又は「さし出口をきくこと。讒言」の意であるが、女の正体如何によって意味は微妙に孰れにもとれる。ハイブリッドでよかろう。
「ゐんゑん」ママ。「因緣(いんねん)」。「緣」は単漢字でも歴史的仮名遣は「えん」で「ゑん」ではない。
「くどきなく」「口說き泣く」。しきりに意中を訴えつつ、泣く。
「此ごろのなさけより、今のうらみおもひつゞけ、わりなうおもへど」出逢って以来、続いていた親密さを、今の兄に吹き込まれた変化(へんげ)のものに騙されているだという恨みを引き比べてみたとき、たまらなくつらいとは思ったが。
「かの男」小三郎の兄。
「しはぶき」咳払いをし。
「せきたつれば」「急き立つれば」。
「松」「紙燭(しそく)」であろう。本来は室内や邸内用の照明具の一つで、松の木を凡そ長さ四十五センチメートル、直径一センチメートルほどの棒状に削って、先端を焦がして油を塗っておいて火を点すもので、手元を紙で巻いたことから、かく字を当てる。
「のりしたひて」血糊(ちのり)の後を追って。
「べうべうたる」「渺々たる」。限りなく広がっているさま。
「きれいにたいらかなる道」妙に綺麗で、全く平らかな一筋の道。ここがすでに異界への通路であることを示唆している。
「おぼへず」ママ。「覺えず」。後も同じ。
「三町」約三百二十七メートル。
「森々たる」奥深く静まりかえっているさま。
「あそのみや」「阿蘇の宮」。熊本県阿蘇市にある肥後国一の宮阿蘇神社。景行天皇伝説を持つ古社で、祭神は、神武天皇の勅命で国土開発に当たった開拓神健磐龍命(たけいわたつのみこと)など十二神。
「いつくしま」「嚴島」。海中に建つ社殿で有名な広島県宮島にある安芸国一の宮厳島神社。市杵島姫命ほかを祀る。平家寄進の仏経その他宝物が多いが、嵯峨天皇(在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)。の頃からの由緒を伝える。
「けつこう」「結構」。構造物。
「のりのみへけるをしるべに」ママ。血「糊の見えけるを標(しるべ)に」。以下の「みへ」も総てママ。
「一町」百九メートル。
「紛々たり」入り交じって乱れるさま。
「なをあと引きけり」ママ。「猶ほ痕を引きけり」。
「人げ」「人氣」。
「いき」「息」ここは鼻から吸うこの場の吸気。
「やう薰じ」非常に良く薫じられた状態にあって。えもいわれぬ妙香が薫じられているような感じがしたのである。まさに「この世の外」の天人の住む六道の最高位の天上道か、或いは「淨土」の香気とはこのようなものではないかと推し量るような香りに満ちているのである。
「けうさめて」ママ。「興醒(きようさ)めて」。
「あしも、ゑさだまらねば」足が震えてしっかりと立っていることが出来なかったので。
「ふれまわし」ママ。「觸れ𢌞(まは)し」。
さても。この少女の正体は実際には何であったのか? 作者は天人説をコーダではっきりと疑っている。後のこと知りたや、であるが、特に変異はその後に起こらなかったからこそ、続きもないわけで、私は最終的にやはり事実、天人であったのだと結論したい。読者の中には「血糊」に着目され、何らかの獣の変化と鬼の首獲ったお気持ちの方もいるやも知れぬが、天人は「血を流す」のである。「天人五衰」である。これは天上道(天上界)にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる五つの兆しを言う。ウィキの「天人五衰」によれば、「大般涅槃経」の第十九に於いては、①衣裳垢膩(えしょうこうじ:衣服が垢で油染みる)・②頭上華萎(ずじょうかい:頭上の華鬘(けまん)が萎(な)える)・③身体臭穢(しんたいしゅうわい:身体が汚れて臭い出す。他の経典では解釈に違いがあり、「体の上から発する光が滅する」とか「頭の頂きの中にある光が滅する」、「両眼がしばしば瞬いて眩(くるめ)くようになる」などともいう)・④腋下汗出(えきげかんしゅつ:腋の下から汗が流れ出る)・➄不楽本座(ふらくほんざ:自分の席に戻るのを嫌がるようになる)であるが、この内、身体から分離する「垢」や、体から出る「汚れ」や「臭気」は身体の代謝老廃物であり、「汗」に至ってはヒトの場合、赤くない「血」と言い換えてもいい、不可欠な代謝物である。則ち、天人にも血があるのである。そう考えると、死期の近づいた天人が最後の自身の願いとして、天上界から見下ろしていた現世の、懸想していた柳本小三郎に、最後に逢いに来たのだった、として、私は何の違和感も感じぬのである。そこはかとない哀れをさえ感ずるばかりである。そうした、愚かな人知の不可知部分を許容せずして、どうして百物語を語れるのか、と逆に作者に言いたいぐらいである。ただ、或いはもしかしたら、この「花尽くし」こそが確信犯であって、実は彼女は多くの花の精の複合的な化身だったと作者は仄めかしているやも知れぬ、或いはその中でも深紅の姫百合の花の精とでも匂わせたかったのかも知れぬ。]
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