今日――「心」で最後に記されるKの肉声――「結婚は何時ですか」――「何か御祝ひを上げたいが、私は金がないから上げる事が出來ません」――
要するに私は正直な路を步く積で、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。さうして其所に氣のついてゐるものは、今の所たゞ天と私の心だけだつたのです。然し立ち直つて、もう一步前へ踏み出さうとするには、今滑つた事を是非共周圍の人に知られなければならない窮境に陷つたのです。私は飽くまで滑つた事を隱したがりました。同時に、何うしても前へ出ずには居られなかつたのです。私は此間に挾まつてまた立ち竦(すく)みました。
五六日經つた後、奥さんは突然私に向つて、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答へました。すると何故話さないのかと、奥さんが私を詰(なじ)るのです。私は此問の前に固くなりました。其時奥さんが私を驚ろかした言葉を、私は今でも忘れずに覺えてゐます。
「道理で妾(わたし)が話したら變な顏をしてゐましたよ。貴方もよくないぢやありませんか。平生(へいぜい)あんなに親しくしてゐる間柄だのに、默つて知らん顏をしてゐるのは」
私はKが其時何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にも云はないと答へました。然し私は進んでもつと細かい事を尋ねずにはゐられませんでした。奥さんは固より何も隱す譯がありません。大した話もないがと云ひながら、一々Kの樣子を語つて聞かせて吳れました。
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月2日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百一回より)
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○茶の間。
K 「そうですか。」
奥さん「あなたも喜んで下さい。」
K、奥さんの顏を見、少年のような笑顔を浮かべながら、
K 「おめでとう御座います。」
K、席を立つ。廊下の障子を開ける前に、ふと奥さんの方を振り返って、やはり快活に。
K 「結婚は何時ですか。……何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事が出来ません。」
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このKの表情は本作中、最も輝いて見えるように撮らねばならない。しかも一抹の翳りをも加えずに――である。

