今日――夏目漱石の「心」の連載は終わった / 謝辞――2020年の私の「心」シンクロニティにお附き合い戴いた少数の方に心より感謝申し上げる――
夏目漱石の「心」の連載は――今日――終わった――
初出と私の冗長な注は
『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回
を見られたい。
さて。最後は「こゝろ」初版(大正三(一九二四)年九月二十日岩波書店発行)の「下 先生と遺書」の最終章(決定公刊稿)を以下に再現して終わりとする。底本は総ルビであるが、老婆心乍ら、若い読者が迷うかも知れぬと思う部分にのみに初出字だけに附した(ルビの一部に歴史的仮名遣の誤りがあるが、そこは特に載せなかった)。断っておくと、「私」は総て「わたくし」であり、「妻」は総て「さい」である。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字に直した。
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五 十 六
『私(わたくし)は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいぜい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻(さい)の笑談(ぜうたん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答へも無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持(こゝろもち)がしたのです。
それから約一箇月程經ちました。御大葬(ごたいさう)の夜(よ)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木(のぎ)大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ殉死だと云ひました。
私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪(と)られて以來、申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間(あひだ)死なう死なうと思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。
夫(それ)から二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確(たしか)かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の敍述で己(おの)れを盡(つく)した積です。
私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合(しあは)せです。私は妻に殘酷な驚怖(きやうふ)を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間(ま)に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死(とんし)したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。
私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(ゑが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞(いつは)りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰延(くりの)べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから已(やむ)むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。
私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後(あと)でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」
こ ゝ ろ 終
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なお、私のサイトには、2010年に作成した、ブログ版の各章のマニアックな「やぶちゃんの摑み」を、よりブラッシュ・アップしたHTML横書の全三分割版の
心(大正3(1914)年『東京朝日新聞』連載初出版)
先生の遺書 (一) ~(三十六)→(単行本「こゝろ」「上 先生と私」 相当パート)
先生の遺書(三十七)~(五十四)→(単行本「こゝろ」「中 兩親と私」 相当パート)
先生の遺書(五十五)~ (百十)→(単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)
を用意してある。取り分け――この荒んだ騒動の中――「こゝろ」の授業を受けることが出来なかった今の高校二年の多くの生徒諸君――或いは――「こゝろ」が教科書に載らなくなって、それどころか、おぞましいことに小説を授業で一つも学ばずに卒業してしまうことになる可能性が出来(しゅったい)しつつある未来の生徒諸君のために――拙劣ながらも、私のこれらを一抹の参考に供したい――と思うのである。私の生きている限り――ブログとサイトが残存している限りは――。
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因みに。今回のシンクロ公開中、ここに至って、最後に一つ、
「何故、今まで気がつかなかったのか!?!」
と激しく悔いる箇所があった。
第三段落目の、乃木大将の遺書の下りに出る、
『申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時』
の
『といふ意味の句』
の部分である。乃木の遺書は『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回の私の注で全文(非常に長い)電子化してあるが、当該部は冒頭部にある、
明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死處得度心掛候モ其機ヲ得ス皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候時モ無餘日候折柄
の下線部である。若い人のために読み下すと、
「其の後、死に處(どころ)得たく心掛け候ふも、其の機を得ず、皇恩の厚(こう)に浴し、今日まで、過分の御優遇を蒙(かうぶ)り、」
であろう。
私が何を言いたいか、もうお判りであろう。
Kの遺書の末尾に墨の余りで記されてあったと「先生」の言う、あの一文である(『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回を見よ)。
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後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。
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以前から執拗に述べている通り、これは『といふ意味の文句』なのであって、「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらう」という言葉そのままが書かれていたのではないのである。それは乃木の遺書のここでの叙述からも明白である。私はそれは漢文か漢文調の禪語のような雰囲気のものではなかったかと推理しているのだが、まさにそのヒントがこの乃木の遺書のそこに実は示唆されているのではないか? という遅過ぎた発見だったのである。
私は即座に相応しい文字列を作れぬが、拙を承知で示すなら、
欲得死處 不得其機 憶恥今生
「死に處を得んと欲すれども得ず 其の機を得ず 憶ふ 今に生きんことを恥づと」といったようなものではなかったろうか? それは古武士のようなKの辞世に相応しいではないか!――
……しかも……先生、……これはKのまさに薄志弱行と断罪した自己自身の肉体への潔い決別の辞であり……それ以上でも、それ以下でもなく……ひいては皮肉や怨嗟なんぞでは……到底……これ、なかったのですよ……先生……先生の致命的な踏み違いの後半生は、この文句の誤訳に始まったのではありませんか?…………
いや……実はそんなことはどうでもいいのかも知れません……先生……あなたは本当に愛していた人を――「誰にも」――正直に言わなかった……あなたが本当にに愛していたのは――靜でもなければ――学生の「私」でもない――「K」――です――ね……しかも「K」というイニシャルは? それは先生のネガティヴなる――あなた――即ち――あなた自身のトリック・スターに他ならない。
「K」とは――やはり「夏目金之助」――金之助というあなたがペン・ネームで誤魔化し続けた、あなた自身だったのだ――と――今――私は確かに思うのです…………