柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 五
五
丈艸が『渡鳥集』に書いた賀詞は『有磯海』のほど重要なものではないが、その面目を窺うに足るものがあるから、やはり全文を引用して置きたい。
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。]
賀渡鳥集句幷序
崎陽の風士卯七(うしち)は蕉門の誹路[やぶちゃん注:「はいろ」。「俳路」に同じ。俳諧の世界。]ふかく盤桓て[やぶちゃん注:「たちもとほりて」。徘徊すること。盛んに歩き回ること。]高吟酔[やぶちゃん注:「ゑひ」。]をすゝめ酣酔[やぶちゃん注:「かんすい」。十分に酔うこと。]今に耽る。一句人を躍せずば[やぶちゃん注:「をどらせずば」。]死(しす)ともやまじといへる勇ミ有けり。此頃撰集の催しありて野僧が本(もと)へも句なんど求らる。松の嵐の響をだに耳の外になしぬれば、かの詩は多く人の吟ずるを聞て自[やぶちゃん注:「みづから」。]一字を題せずとかや。古人も草臥[やぶちゃん注:「くたぶれ」。]たりけり。弥(いよいよ)其(その)くさの方人(かたうど)とうち眠[やぶちゃん注:「ねふり」。]ながら、つくづく其酔詠[やぶちゃん注:「すいえい」。]の序(ついで)にさぞさこそおかしく興ぜられんとおもひやる心に引立られて、聊(いささか)拙き[やぶちゃん注:「つたなき」。]詞(ことば)をまうけて集のことぶきを申おくる[やぶちゃん注:「まうしおくる」。]物しかり。
句撰やみぞれ降よのみぞれ酒
壬午仲冬日
粟津野々僧丈艸塗稿
[やぶちゃん注:「渡鳥集」は去来・卯七編になるもの。丈草の跋文は元禄一五(一七〇二)年(壬午(みづのえむま/じんご))十一月(「仲冬」)であるが、刊行は遅れて宝永元(一七〇四)年であった。共同編者であった箕田卯七(みのだうしち ?~享保一二(一七二七)年)は肥前長崎の人で、去来の義理の従兄弟に当たる。江戸幕府の唐人屋敷頭(とうじんやしきがしら)を勤めた。
「句撰やみぞれ降よのみぞれ酒」は「くえらみやみぞれふるよのみぞれざけ」。「味醂(みりん)に餅霰(もちあられ)を加えたもので、奈良の名物。冬の季題でもある。実際の霙と霙酒の二重ねは響きも美しいが、寧ろ、卯七と二人共同で当たった楽しかった日々の思い出の重なりのイメージを狙ったものであろう。
「塗稿」「とかう(とこう)」であろうが、余り聞かぬ単語である。生地がひどいので誤魔化して「塗」り上げた原「稿」という謙遜の辞ではあろう。]
壬午とあるから、元禄十五年の冬にこの序を草したのである。「一句人を躍せずば死ともやまじ」というのは、杜甫の「語不バㇾ驚カセㇾ人ヲ死ストモ不ㇾ休マ」をもじったのであろう。「松の嵐の響をだに耳の外になしぬれば……」のあたり、丈艸の超然的態度を道破して遺憾なきものである。「性くるしみて学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸から見れば、「一句人を躍せずば死ともやまじ」ということも無用であったかも知れない。こういう態度の保持者たる丈艸が、その作品においては前に挙げたような、すぐれたものを示しているのだから、孤高自ら誇るの徒と同一視することは出来ぬのである。
[やぶちゃん注:「語不バㇾ驚カセㇾ人ヲ死ストモ不ㇾ休マ」訓読すると、
語(ご) 驚かせずんば 死すとも休(や)まず
で(「語」は無論、「詩句」の意)、これは杜甫の七六〇年の春四十九歳の折り、成都の錦江のほとりで詠じた七律「江上値水如海勢聊短述」(江上(こうじやう)、水(みづ)の海勢(かいせい)のごとくなるに値(あ)ひ、聊(いささ)か短述す)の第二句である。「海勢」は水の流れの盛んなことを指す。
*
爲人性僻耽佳句
語不驚人死不休
老去詩篇渾漫與
春來花鳥莫深愁
新添水檻供垂釣
故著浮槎替入舟
焉得思如陶謝手
令梁述作與同遊
人と爲(な)り 性 僻(へき)にして佳句に耽り
語(ご) 人を驚かせずんば 死すとも休まず
老い去つて 詩篇 渾(すべ)て漫與(まんよ)なり
春來 花鳥 深く愁ふること莫(な)かれ
新たに水檻(すいかん)を添へて 垂釣(すいちよう)に供し
故(もと)より浮槎(ふさ)を著(つ)けて 入舟(にふしう)に替(か)ふ
焉(いづく)んぞ 思ひは 陶謝(とうしや)のごとくなる手を得て
梁(かれ)をして述作して 與(とも)に同遊せんこと
*
「僻」は偏頗なこと。「漫與」は漫然に同じい。とりとめもなく、ふとした何気ない感懐の表現となったことを言う。第四句「春來花鳥莫深愁」は明らかに、十三年前、「安禄山の乱」に遭遇して長安に軟禁されていた若き日に詠じた絶唱「春望」の「感時花濺淚 恨別鳥驚心」の悲傷の対句を軽くいなしたものである。「水檻」岸辺の木の板で作った手すり。「浮槎」は浮かべた筏のこと。「著」繋留し。「替入舟」「替」は「代」に同じで筏をもやってそこに行くことで、舟を漕ぎ出でるのに代えたの意。「陶謝」六朝期の大詩人陶淵明と謝霊運(しゃれいうん)。最後の二句は、「こんな折りには望んだことは、陶淵明や謝霊運のような文藻豊かな人物の手を得て、ともに詩を詠じながら遊んだならば、どんなにか面白かろうに、という思いなのであった」の意である。]
『渡鳥集』に「一処不住」の作者として挙げたものが芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴の五人であることは、前に惟然の条に記した。丈艸の晩年はその句によってもわかるように、大体草庵生活の継続であって、支考や惟然の如く、諸国漂浪の旅に上ったわけではない。しかし一処不住の沙門らしい風骨を具えた点からいえば、どうしても丈艸を首(かしら)に推さなければならぬ。元禄十五年刊の『はつたより』に
月雪や列は知識に成果ぬ 丈艸
[やぶちゃん注:「つきゆきやツレはちしきになりはてぬ」で「ツレ」はカタカナで同撰集に振っている。上五は後で宵曲も言っているように実景ではなく、俳諧の風雅の詩境を言う。「列」は嘗てともに修業した僧らを指す。「知識」は「善知識」で、元は「人々を仏の道へ誘い導く人」の意であるが、特に「高徳の僧」を指す。竹艸の親しんだ禅宗では参学の者が師家(しけ:師僧・先生)を指して言う。座五には地位・名誉を得た成功者と自認している(それは真の仏道を求めることとには明らかに反する利欲と名聞の世界である)そうした連中への批判的な物言いの雰囲気が濃厚に漂っている。]
という句がある。かつて修行を共にした同列の僧の中に、已に智識になりすました者があるという意であろうか。この「月雪」は眼前の光景ではない。丈艸自ら風雅に隠れたことを指すものと思われる。『丈艸発句集』には洩れているが、丈艸の境涯を按ずる上において、この句は看過すべきであるまい。
[やぶちゃん注:「はつたより」「初便(はつだより)」。知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]
丈艸は宝永元年二月二十四日、四十三歳を一期(いちご)として世を去った。浪化に後(おく)るること四カ月、去来に先立つこと七カ月である。その訃(ふ)が湖南の正秀から伝えらるるに及び、去来は「丈艸ガ誄(るい)」一篇を草して深くその死を悼んだが、自分もまた久しからずして黄土(こうど)に帰したのであった。丈艸は一たび『猿蓑』に跋を草し、二たび『有磯海』に序を草し、三たび『渡鳥集』に賀詞を寄せている。この三書はいずれも去来の与(あずか)るところ少からぬものである。去来と丈艸とは同じような性格の人とも思われぬが、一点深く冥合するところがあり、心交の度も他に異るものがあったに相違ない。
[やぶちゃん注:「宝永元年二月二十四日」グレゴリオ暦一七〇四年三月二十九日。彼は寛文二(一六六二)年(月日は不詳)生まれであった。
「黄土」黄泉(よみ)の国。
「冥合」「みょうごう」で、知らず知らずのうちに一つになっていく、なっていることを言う。]
山に龍った当初の丈艸と去来との間には、互に往来することがあったらしい。「丈艸ガ誄」の中に「……義仲寺の山の上に、草庵をむすびげれば、時々門自啓ク、曲々水相逢フなどと打吟じ、あるは杖を横たへ、落柿舎を扣(たたい)て、飛込だまゝか都の子規(ほととぎす)とも驚かされ、予も彼(かの)山に這のぼりて[やぶちゃん注:「はひのぼりて」。]、脚下琶湖ノ水、指頭花洛ノ山と、眺望を共にし侍りしを」とあるのが、自らその間の消息を明(あきらか)にしている。
[やぶちゃん注:「時々門自啓ク、曲々水相逢フ」これは丈草の漢詩と読む。「時々 門 自(おのづか)ら啓(ひら)く」「曲々 水 相逢(あひあ)ふ」であるが、私は「啓」は「ひらき」と連用形で対句となると思う。但し、諸本は「ク」を送ってはいる。「時には人が訪ねて来れば、粗末な柴の門は自ずと開き、彼方には蛇行した複数の川が、一つになって見える」の意であろう。
「脚下琶湖ノ水、指頭花洛ノ山」同前。「脚下 琶湖(はこ)の水 指頭(しとう) 花洛の山」で、「足の下には琵琶湖の満々たる湖水が、そして指指すその頭の先には。花の都の京の山々が見渡せる」の意であろう。]
飛込だまゝか都のほとゝぎす 丈艸
[やぶちゃん注:「とびこんだままかみやこのほととぎす」。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「篇突」(へんつき:許六・李由篇で元禄一一(一六九八)年刊)所収の句で、『ほととぎすよ、都の空を鳴き渡るべきなのに、落柿舎に飛込んだままなのかい』の意で、『去来を「都の時鳥」に見立てた、諧謔味をこめた即興の挨拶吟』とし、『元禄十一年の初夏、洛星落柿舎に去来を訪ねた折の作』とされる。]
という句は元禄十一年の『貳妬』に出ているから、それ以前の話であろう。去来の句にも
僧丈艸をとぶらふ
馬道や菴をはなれて霜の屋根 去来
[やぶちゃん注:「菴」は暫く「いほ」と訓じておく。]
丈艸の住まれける湖南の山家を
訪ひて申侍る
夕照にひらつく磯のかれ葉かな 同
[やぶちゃん注:「夕照」は「ゆふやけ」。「ひらつく」は「薄いものがゆれ動く。ひらひらする。ひらめく」或いは「落ち着きなくしきりに動く」のハイブリッドの意であろう。]
の如きものがある。
丈艸が山を出なくなったのは何時(いつ)頃からか。
今年艸庵を出でじとおもひ
定むる事あり
手の下の山を立きれ初がすみ 丈艸
[やぶちゃん注:「立きれ」は「たちきれ」という命令形。松尾氏前掲書によれば、『初霞よ、手をかざす下に見える山里を書きしておくれ。俗世への未練を絶ちたいから。閉』門『禁足三年の誓いを立てた元禄十四年の年頭吟』とある。俳諧ならではの静かな、言上げでない呟きである。]
という句が元禄十四年の『蝶すがた』に出ているから、先ずその辺からと見るべきであろう。
その翌年の『柿表紙(かきびょうし)』に
閉関立春
白粥の茶碗くまなし初日影 丈艸
などとあるのも、山を出なくなってからの片鱗を伝えているものと思われる。世間の外に逸脱した丈艸と、世間の中に生活する去来とは、これがために相見る機会が少くなった。「丈艸ガ誄」の中に「人は山を下らざる誓ひあり」とあるのは、如何にも丈艸らしい面目を発揮したもので、一たびこの誓を立てて後、遂に山を下らなかったのである。
[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『元禄十五年の歳旦吟である。元朝、用意された一杯の白粥を盛った茶碗のすみずみにまで初日の光がさしわたっているさまである。閉関中に迎えた新春であり、簡素な白粥の膳に、丈草の清浄な境地が象徴的に映し出されている。ゆったりと落ち着きはらった気分が、句の調べによく表われている』とされ、『丈草は元禄十四年、四十歳を迎えた年の年頭に、閉関禁足三年の誓いを立て、故翁追悼に千部の華経読経と経塚建立をめざした。この句はその翌年の閉関中の歳旦吟か(石川真弘『蕉門俳人年譜集』)』とある。]
丈艸の庵の様子は何も書いたものがないからわからぬが、丈艸を悼んだ
去年の夏仏幻庵を尋侍るに
調度は弦鍋(つるなべ)壱
つに釜のみ有、今は其主も
又まぼろし
争ひもなき死跡やげんげ畠 素覧
という句の前書によって、極めて簡素なものであったことは想像出来る。
[やぶちゃん注:作者もよく知らぬが、前書も句もまことにしみじみとした、いい句である。
「素覧」三輪素覧(みわそらん 生年未詳)。名古屋蕉門の一人で、通称、四郎兵衛。「笈日記」に出、芭蕉宛書簡も残る。]
贈丈艸上人之坊
夜寒さの水鼻落ん本ンの上 朱拙
[やぶちゃん注:「朱拙」(承応二(一六五三)年~享保一八(一七三三)年)は豊後日田(ひた)の医師。日田俳諧の開祖であった中村西国(さいこく)に談林風を学んだが、元禄八年に来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者であり、編著に「梅桜」「けふの昔」などがある。]
の句に対して、
答見寄山菴
焼栗も客も飛行夜寒かな 丈艸
[やぶちゃん注:前書は「山菴に寄するものを見て答ふ」か。よく判らぬ。句は「やきぐりもきやくもとびゆくよさむかな」。朱拙編で元禄十一年刊の「後れ馳」(おくればせ)所収で、前にある朱拙の「夜寒さの」の句に対する返句である。参照した松尾氏前掲書によれば、『この夜寒、囲炉裏に埋めた焼栗もはじけるが、来客もまた寒さにこらえきれず、飛ぶように帰っていった』と訳しておられる。]
と答えたのは、山を下らざることを誓う以前のようであるが、それ以後といえども、人の来り訪うのを拒んだわけではない。
草庵せまけれど秋ごとに
今宵の月をとはれて
窓本をちれば野原や月の客 丈艸
[やぶちゃん注:「ちれば」は「散れば」で窓の外に出て貰って、歩かれれば、そこはもう、見渡す限りの野原で御座る、心行くまで独り、月を愛でて下されよ、の意。見事なワイド画面で、しかも孤高を保つ丈草の秘かな思いも伝わってくるる佳句である。]
丈艸は沙婆気(しゃばけ)の取れきらぬえせ隠者のように、強いて訪客を回避しようとすることはなかったのである。
[やぶちゃん注:正直、宵曲、言わんでもいいこと(無論、宵曲は「似非隠者」とはとってないことは明白であるが、「娑婆気」が残存する似非隠者は卜部兼好のように恋文の代筆なんどして俗人とひっきりなしに触れ合っていたことを考えるとやはり言わずもがなの謂いとしかとれぬ)を言って却ってシラけさせている。不要。]
山菴の歳暮老鼠ひとつ
廿日ねずみ二疋ありて
所を得がほ也
行灯をけせば鼠のとしわすれ 丈艸
に至っては、世外に超然たる仏幻庵の歳暮風景であろう。灯を消せば直に跳梁を極めるその鼠どもに対しても、丈艸は格別な親しみを持っていたような気がする。
[やぶちゃん注:「山菴」は「さんあん」、「歳暮」は「せいぼ」と音で読んでおく。「老鼠」は「らうそ」。「行灯」は「あんどん」。堀切氏は『元禄十四年の歳末吟か』とされ、無論、『「老鼠ひとつ」は丈草自身を見立てたもの』で、『大晦日の夜』、『ひとり静かに行灯の火を消して寝ようとすると、わが草庵に居ついた』二匹の『鼠どもが賑やかに鳴き立てながら』、『年忘れの会をやっているらしい、と軽く打ち興じた』句とされる。その諧謔にまた仄かなペーソスが漂う。前書とセットになって佳句となっている。]
元禄十五年十月、去来が最後に丈艸を訪ねた時の模様は、「丈艸ガ誄」の末段がこれを尽している。
宿二丈艸草庵一
さむきよやおもひつくれば山の上 去来
久しぶりに相見た二人は、夜の更けるのも知らず、閑談に耽ったものであろう。時ならぬ雷鳴と共に、烈しい山風が庵の扉を吹放つのを見て、丈艸は「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山ノ雷雨震フ二寒更ニ一」という即興の句を示した。一夜は閑寂な談笑に明けて、
去来が庵を訪ひ来れるに別るゝとて
雪曇身の上を啼く烏かな 丈艸
ということになったのであるが、常と同じ烏の啼声でも、この朝は何となく心に沁むものがあったのであろう。かくして相別れたなり、二人は遂に相見る機がなかった。「なき名きく春や三とせの生別れ」という去来の悼句は、最後に丈艸を訪うてから足掛三年になることを詠んだものと思われる。去来に比すれば十歳も年少であり、蕉門の骨髄を摑み得た丈艸が、自分に先立って歿したことは、去来に取って大なる痛恨事であった。
[やぶちゃん注:「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山ノ雷雨震フ二寒更ニ一」「虛室(きよしつ) 閑(しづか)に夸(ほこ)らんと欲す 是れ寶/滿山の雷雨 寒更(かんかう)に震(ふる)ふ」。「無一物即無尽蔵の部屋にあること、それが、これ、私の宝。山全体に激しい雷雨がやって来ては、寒い夜更けを震わせる」。禪の公案のようで、句もいいが、彼の漢文の詩句群も、はなはだ実に魅力に満ちている。]
丈艸の一生を煎じつめれば、「丈艸ガ誄」の外に出ぬといって差支ない。両刀を棄てて仏門に入ったことが、その生涯における第一の山であり、次いで芭蕉の門に入ったことが第二の山である。その後における丈艸の生活は、この二つの世界より得来ったものによって、過誤なしに歩を続けたと見るべきであろう。他は丈艸自身も多く伝うることを好まず、また伝わってもいない。世を謝して自然に任せた晩年の境涯は、容易に他の窺うを許さぬ底のものであるが、芥川氏のいわゆる「最も的々と芭蕉の衣鉢を伝えた」ものが斯人(しじん)であることは、疑問の余地はあるまいと思う。
以上丈艸の生涯に沿うて彼の句を見来った。なお遺された句について、他の方面から少しく観察を試みたい。
[やぶちゃん注:芥川龍之介のそれは、前に示した「澄江堂雜記」の「丈艸の事」の冒頭。]
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