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2020/08/03

今日――Kは自死する――(今日から三日分を一挙に連続で掲げて示す)

 何時(いじ)も東枕で寢る私が、其晩に限つて、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因緣かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不圖眼を覺したのです。見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません。私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱(ひぢ)を突いて起き上りながら、屹(きつ)とKの室を覗きました。洋燈(ランプ)が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返(はねかへ)されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです。

 私はおいと云つて聲を掛けました。然し何の答もありません。おい何うかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身體は些(ちつ)とも動きません。私はすぐ起き上つて、敷居際(しきいきは)迄行きました。其所から彼の室の樣子を、暗い洋燈の光で見廻して見ました。

 其時私の受けた第一の感じは、Kから突然戀の自白を聞かされた時のそれと略(ほゞ)同じでした。私の眼は彼の室の中(なか)を一目見るや否や、恰も硝子(がらす)で作つた義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立に立竦(たちすく)みました。それが疾風(しつぷう)の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策(しま)つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に橫はる全生涯を物凄く照らしました。さうして私はがた/\顫(ふる)へ出したのです。

 それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは豫期通り私の名宛になつてゐました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の豫期したやうな事は何にも書いてありませんでした。私は私に取つて何んなに辛い文句が其中に書き列ねてあるだらうと豫期したのです。さうして、もし夫が奥さんや御孃さんの眼に觸れたら、何んなに輕蔑されるかも知れないといふ恐怖があつたのです。私は一寸眼を通した丈で、まづ助かつたと思ひました。(固(もと)より世間體(せんけんてい)の上丈で助かつたのですが、其世間體が此塲合、私にとつては非常な重大事件に見えたのです。)

 手紙の内容は簡單でした。さうして寧ろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するといふ丈なのです。それから今迄私に世話になつた禮が、極あつさりした文句で其後に付け加へてありました。世話序に死後の片付方も賴みたいといふ言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫(わび)をして吳れといふ句もありました。國元へは私から知らせて貰ひたいといふ依賴もありました。必要な事はみんな一口(ひとくち)づゝ書いてある中(なか)に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。

 私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆(みん)なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです。(ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回全文)

 「私は突然Kの頭を抱へるやうに兩手で少し持ち上げました。私はKの死顏が一目見たかつたのです。然し俯伏(うつぶし)になつてゐる彼の顏を、斯うして下から覗き込んだ時、私はすぐ其手を放してしまひました。慄(ぞつ)とした許(ばかり)ではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今觸つた冷たい耳と、平生に變らない五分刈の濃い髪の毛を少時(しばらく)眺めてゐました。私は少しも泣く氣にはなれませんでした。私はたゞ恐ろしかつたのです。さうして其恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟して起る單調な恐ろしさ許りではありません。私は忽然と冷たくなつた此友達によつて暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

 私は何の分別もなくまた私の室に歸りました。さうして八疊の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何うかしなければならないと思ひました。同時にもう何うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐる/\廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で。私は時々奧へ行つて奥さんを起さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ强い意志が私を抑えつけます。私はまたぐる/\廻り始めるのです。

 私は其間に自分の室の洋燈(ランプ)を點けました。それから時計を折々見ました。其時の時計程埒(らち)の明かない遲いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかつた事丈は明らかです。ぐる/\廻りながら、其夜明を待ち焦れた私は、永久に暗い夜が續くのではなからうかといふ思ひに惱まされました。

 我々は七時前に起きる習慣でした。學校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合ないのです。下女は其關係で六時頃に起きる譯(わけ)になつてゐました。然し其日(そのに)私が下女を起しに行つたのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云つて注意して吳れました。奥さんは私の足音で眼を覺したのです。私は奥さんに眼が覺めてゐるなら、一寸私の室迄來て吳れと賴みました。奥さんは寢卷の上へ不斷着の羽織を引掛て、私の後(あと)に跟(つ)いて來ました。私は室へ這入(はい)るや否や、今迄開いてゐた仕切の襖をすぐ立て切りました。さうして奥さんに飛んだ事が出來たと小聲で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋(あご)で隣の室を指すやうにして、「驚ろいちや不可(いけ)ません」と云ひました。奥さんは蒼い顏をしました。「奥さん、Kは自殺(しさつ)しました」と私がまた云ひました。奥さんは其所に居竦(ゐすく)まつたやうに、私の顏を見て默つてゐました。其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御孃さんにも濟まない事になりました」と詫(あや)まりました。私は奥さんと向ひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸でなかつたのです。然し奥さんの顏を見た時不意に我とも知らず左右云つて仕舞つたのです。Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御孃さんに詫(わ)びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し拔いてふら/\と懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸ひでした。蒼い顏をしながら、「不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか」と慰さめるやうに云つて吳れました。然し其顏には驚きと怖れとが、彫(ほ)り付けられたやうに、硬く筋肉を攫(つか)んでゐました。(ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月4日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百三回全文)

 「私は奥さんに氣の毒でしたけれども、また立つて今閉めたばかりの唐紙を開けました。其時Kの洋燈(ランプ)に油が盡きたと見えて、室の中(なか)は殆ど眞暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持つた儘、入口に立つて奥さんを顧みました。奥さんは私の後(うしろ)から隱れるやうにして、四疊の中を覗き込みました。然し這入(はい)らうとはしません。其處は其儘にして置いて、雨戸を開けて吳れと私に云ひました。

 それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあつて要領を得てゐました。私は醫者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奥さんに命令されて行つたのです。奥さんはさうした手續の濟む迄、誰もKの部屋へは入(い)れませんでした。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切つて一息に死んで仕舞つたのです。外に創(きず)らしいものは何にもありませんでした。私が夢のやうな薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ばしつたものと知れました。私は日中の光で明らかに其迹を再び眺めました。さうして人間の血の勢といふものゝ劇しいのに驚ろきました。

 奥さんと私は出來る丈の手際と工夫を用ひて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸ひ彼の蒲團に吸收されてしまつたので、疊はそれ程汚れないで濟みましたから、後始末はまだ樂でした。二人は彼の死骸を私の室に入れて、不斷の通り寢てゐる體(てい)に橫にしました。私はそれから彼の實家へ電報を打ちに出たのです。

 私が歸つた時は、Kの枕元にもう線香が立てられてゐました。室へ這入るとすぐ佛臭(ほとけくさ)い烟(けむり)で鼻を撲(う)たれた私は、其烟の中に坐つてゐる女二人を認めました。私が御孃さんの顏を見たのは、昨夜來此時が始めてゞした。御孃さんは泣いてゐました。奥さんも眼を赤くしてゐました。事件が起つてからそれ迄泣く事を忘れてゐた私は、其時漸(やうや)く悲しい氣分に誘はれる事が出來たのです。私の胸はその悲しさのために、何の位(くらゐ)寬ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤(うるほひ)を與へてくれたものは、其時の悲しさでした。

 私は默つて二人の傍(そば)に坐つてゐました。奥さんは私にも線香を上げてやれと云ひます。私は線香を上げて又默つて坐つてゐました。御孃さんは私には何とも云ひません。たまに奥さんと一口二口(ふくち)言葉を換(かは)す事がありましたが、それは當座の用事に即(つ)いてのみでした。御孃さにはKの生前に就いて語る程の餘裕がまだ出て來なかつたのです。私はそれでも昨夜の物凄い有樣を見せずに濟んでまだ可かつたと心のうちで思ひました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄(みだ)りに鞭(むち)うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです。[やぶちゃん注:ここまでが自死当日のシークエンスとなる。]

 國元からKの父と兄が出て來た時、私はKの遺骨を何處へ埋(うめ)るかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雜司ケ谷近邊(きんへん)をよく一所に散步した事があります。Kには其處が大變氣に入つてゐたのです。それで私は笑談(ぜうだん)半分に、そんなに好(すき)なら死んだら此處へ埋(うめ)て遣らうと約束した覺えがあるのです。私も今其約束通りKを雜司ケ谷へ葬つたところで、何の位の功德(くどく)になるものかとは思ひました。けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪(ひざ)まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです。今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて吳れました。ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月5日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百四回全文)

   *

私の三回の細かなシーンへの偏執的な考察は、それぞれの回の私の「摑み」を読まれたい。

 

Kの霊のために――ここは――「靜」かに終わることとする――

 

 

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