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2020/08/09

萬世百物語卷之二 七、惡緣のちぎり

 

   七、惡緣のちぎり

 あだし夢、和泉の國日根(ひね)の郡(こほり)吹飯(ふけゐ)の潟(かた)に、柴崎與次(しばさきよじ)といふものあり。家まづしからず、家子(けご)も多かりければ、民とはいへど、そだち、いやしからず。あけくれは、おのが家ならぬ文(ふみ)の道など心にかけ、おりおりのあはれにつけ、山がつのことのは、見所すぐれけれど、色あるふしをいひ出づれば、深山木(みやまぎ)の中には、花めづらしき、やさ男なりける。させる心やありけん、まだ、女はぐせざりける。

[やぶちゃん注:「和泉の國日根の郡吹飯の潟」現在の大阪府泉南郡岬町(みさきちょう)深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海。現在は潟という感じではない。地名は古くは「ふけひ」で後に「ふけい」から「ふけ」に転訛した。「吹飯の浜」「吹井の浦」として万葉以来の歌枕である。

「柴崎與次」不詳。

「家子」「江戸文庫」版の読みに従ったが、無論、この読みもあるし、版本がそうなっているのであろうが、個人的には「いへのこ」と読みたい。主人以外の家人・下男・下女などの家の者。妻子も当然含むが、最後に示されたように未婚である。

「文の道」学問や文学の道。

「山がつのことのは、見所すぐれけれど」「山賤の言の葉、見所、優れけれど」。田舎の男ではあるが、そのちょっとした折りに口ずさむ和歌や感懐などを聴くと、なかなかに見所のある、相応の風雅の道を感じさせる者であるが。本来、「山賤」は山の中で仕事をする身分の低い猟師や木樵を指すが、「吹飯の潟」近くに住んでおり、次段で「蜑(あま)」(漁師)という表現が出るので、かく訳した。

「させる心」或いは、相手とする女に求むるところの、ある思いでもあるのであろうか。]

 

 又、「みふき」といへる女ありけり。おなじ蜑(あま)の子ながら、つくも髮とりあぐる風情(ふぜい)より、なべての女にたぐへては、やさしきかたにぞ見なされける。年は十七にぞなりける。多からぬ家居の里なれば、與次も日ごろ出入りして、「みふき」が父母までめやすきものにぞおもひける。都もひなもかはらぬは、男女(なんによ)の色このむ心にて、與次がさまに、いつしか、めとゞめ、

『此人ならぬ男にそひたらんは、いきたるかひもあるまじう、』

つみふかう、おもふなるべし。かりそめにもいちじるしきは、めもとにて、ふと、みる顏の色より、

「終(つひ)にかくれぬ心のふかさ。」

と、輿次、また、あはれにおもひ、いとうちとくる。

『飯匕(いひがい)、かれにこそとらすべき。』

などおもふがうち、中だちたづね出でて、女の父母に、

「かくなん。」

といはすれば、あいしれる中、

「こなたよりこそ、ねがはまほしき折ふしなれ。」

と、はやうも事なりて、婚姻とゝのひける。

 今ぞ心のむすぼほれも、下ひもとともに、うちとくるさまして、小夜のね覺(ざめ)にもいふ事とては、

「おくれ、さきだつ人の世のならひありとも、つま、もち給ふな。夫(をつと)に、ふたゝび、そはじ。」

など、ちかごとするも、つきなき。いまいましさにぞみへける。

[やぶちゃん注:「みふき」いろいろな漢字表記が想起されるが、地名に因んだ「御吹」か、或いは美しい黒髪が風に吹かれる「美吹」か。

「つくも髮とりあぐる風情」「江浦草髮取り上ぐる風情」。「つくも髮」は普通は「九十九髮」で「百年に一年足らぬ」老女の乱れた白髪を言うが、ここは原義の海藻を指している。諸辞書は小学館「日本国語大辞典」を始めとして、その原義の海藻種を正しく言い当てておらず、海藻フリークの私には非常に歯痒い記載ばかりである。これは思うに、現行でも「海髪」と漢字表記する通称「イギス」のことと思う。「延喜式」に「小凝菜」、平城京出土の天平一八(七四五)年九月廿日木簡に「小擬」(ママ)として出る參河國寶飫(ほお)郡篠束鄕から納められた海藻のそれであろう(他の木簡では「伊支須」「小凝」と記す。いずれも「いぎす」と読むものと考えられる)。心太の材料として重要視されたもので、私はこの「小凝菜」は通称「イギス」で、種としてはこの標準和名は、紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi に当てられている。但し、私は寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「海髮(いぎす)」の注では、マサゴシバリ亜綱スギノリ目イバラノリ科のカズノイバライギス Hypnea flexicaulis を指すと同定した(種のリンクはそれぞれ学名によるグーグル画像検索画像)。生体は孰れも紅色から暗紅色の房状のであるが、乾燥すると黒ずんでくる。但し、ここは髪の色よりも、ふさふさと豊かな髪の形容として用いているものと思う。漁師ならではの美称である。

「なべての女にたぐへては」普通一般の女たちと並べて見てみると。

『「みふき」が父母までめやすきものにぞおもひける』「みふき」の父母までも「感じのよいお方」だと思い、引いては「娘の夫として無難だ」と思ったのである。

「ひな」「鄙」。

「與次がさま」「與次が樣」与次の姿、見目、形。

「めとゞめ」「目留め」。

「つみふかう」禁断の(仏教では愛敬(あいぎょう)は妄執である)恋の道に落ちて。

「おもふなるべし」憧憬(あくが)るるようになったものであろう。

「かりそめにも」ちょっと見でも、といった謂いであろう。但し、ここでは主格が変わって与次からとなる。上手い展開の流し方ではある。

「めもと」ここは明らかに与次の視線からの「みふき」の目元である。

「飯匕(いひがい)」ご飯をよそう杓文字のこと。

「かれ」彼女。

「中だち」仲人(なこうど)。

「むすぼほれ」「結ぼほれ」。「結ぼほる」は「結ぼる」(二つの対象が解け難く固く結ばれている・縁を繋ぐ)と同じい。ここはそれを名詞化して、以下の初夜の下着の「下紐」解くに掛け、駄目押しで「うちとくるさまして」と繋がるようになっている。

「小夜のね覺(ざめ)」夜中にふと目が覚めること。

「夫(をつと)に、ふたゝび、そはじ」万一、あなたさまが先に身罷られるようなことがありましても、私は決して二度と夫は持ちませぬ。

「ちかごと」「誓言」。

「つきなき」「盡無き」。飽きて尽きることなく、何度もそう言い続けたのである。

「いまいましさにぞみへける」「みへ」はママ。ここはそれを聴かさせる与次の心内語。どちらか先に亡くなることは老少不定とはいえども、その仮定を何度も繰り返されることは、縁起が良くない、不吉な言上げとなるのが民俗社会であるから、与次のこの心の内での感懐(ぼやき)は無理なく首肯出来る。]

 

 ほどなく、「みふき」、なくなりけるを、與次も、ともに死するばかりにあけくれになげきけるが、さるものはうとき習(ならひ)に、おのづから、日がらたつまゝ、人もすゝめ、我もひとりねの床(とこ)さびしきより、家のみだらなるもうちすてがたふ、平松といふ在所より、緣あれば、所へだてゝ、女もとめける。

[やぶちゃん注:「日がら」「日柄」「日次」。日数(ひかず)。

「みだらなる」「猥らなる」。「みゆき」の死以後、自棄になった主人に愛想つかして下人らも遠ざかっていたものか、家内が荒れ放題になっているのである。

「うちすてがたふ」ママ。「打ち捨て難く」。

「平松」いろいろ探してみたが、「所へだて」た平松というそれらしい場所は見当たらなかった。なお、この「所隔て」たところから迎えたのは、「吹飯」の里では「みふき」の生前のことを知っており、その親愛の深さも知れ渡っているから、どの女も二の足を踏むだろうし、事情を知らぬ遠い在所の女ならよかろうということになったのであろう。]

 

 今宵こそ新枕(にひまくら)めづらしく、ふるめかしきもの、今には、いまいましき心(ここち)すれば、みな、とりかくしつ。

[やぶちゃん注:「心(ここち)」私の好みから当て訓した。]

 

 なにくれ、ひるのあつさに、

「井のもとにて、ゆあみん。」

と、下女に、ゆ、とらせつ。

 山のはの日かげ入りとはみえて、まだ、人がほも、たそがれならぬほど、もとの女、「みふき」が、かたちあらはにみへて、

「いかに。ちかひしことのは、たがへ給ふぞ。さりとて、今さら、うらむべきには、あらず。めづらしき人にあひ給はん、これ、ふかきを、きよむるくすりにこそあなれ。」

とて、何にかあるらん、一袋の粉(こ)をたらいの内にふりたて、手してかきまはす、と、みし。

 何かたまるべき、與次、おそろしさに魂入(たまい)りしを、人々、かけつけ、引きたてしに、やうやうひと心(ごこ)ちは付きながら、總身(さうみ)のふしぶし、いたみ、たえがたく、その夜、ほどなく、はてける。

 ねたみのふかさ、死しても、やまざる。つみふかきなるべし。

[やぶちゃん注:「なにくれ」再婚の初夜も済み、なにやかやとあった翌日の謂いか。盛夏だったようである。

「ゆあみん」「湯浴み(せ)ん」。水をかぶってもかく言う。

「ゆ、とらせつ」下女に井戸水を汲み上げさせて、傍に置いた桶に水を張らせたのであろう。

「人がほも、たそがれならぬほど」「人顏も、黄昏ならぬほど」。言わずもがな、「たそがれ」は夕暮れも深まって有意に暗くなって向こうから来る相手の顔がよく見えず、「誰(た)れそ彼(かれ)は」から「たそがれ」となったものである。

「ふかきを、きよむるくすりにこそあなれ」「深きを、淸むる藥にこそあんなれ」。体の深いところにある穢れを、清めて呉れる薬だという風に聴いております」。

「何かたまるべき」反語。恐ろしさをこらえることが出来ようか、いや、とても出来ぬ。

「魂入(たまい)りし」気絶した。但し、このような言い方はまず見かけぬ。

 本件の怪異の肝(キモ)は、亡妻が直に元夫の元に出現し、奇体な薬物によって、即座に死に至らしめるという点である。こうした展開は、この手の怨恨譚では似たようなものは少ない。圧倒的に後妻に対して出て、苛め或いは殺しながら、元夫には物理的危害は加えぬという展開が半数であろう。それだけにここはまず頗る新味がある。しかも最後のこのシークエンスが凄い!……桶の中に……妖しい白い粉を……さらさらと……落とし込み……妖しく美しい笑みを浮かべつつ……震えながら浸かっている素っ裸の与次の前で……左手で右袖を優美に抑えて、ゆっくりと右手で水を搔き回す「みふき」……顔は凝っと……与次を見つめている……この映像――なんとも言えず――「キョワい!」……

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