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2020/08/30

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 木導 三 / 木導~了

 

       

 

 木導はまた聴覚に関しても或微妙なものを捉えている。

 入歯して若やぐ声や鉢たゝき     木導

[やぶちゃん注:「鉢たゝき」既出既注であるが、再掲すると、「鉢敲」「鉢叩」「鉢扣」などと表記し、空也念仏(平安中期に空也が始めたと伝えられる念仏で、念仏の功徳により極楽往生が決定(けつじょう)した喜びを表現して瓢簞・鉢・鉦 (かね) などを叩きながら、節をつけて念仏や和讃を唱えて踊り歩くもの。「空也踊り」「踊り念仏」とも称した)を行いながら勧進することであるが、江戸時代には門付芸ともなった。特に京都の空也堂の行者が陰暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間に亙って鉦・瓢簞を叩きながら行うものが有名で、冬の季題として古くからあった。]

 仮寝に声のにごりやおぼろ月     同

[やぶちゃん注:「仮寝」は「うたたね」。]

 歯が抜けて声の洩れがちだった男が、入歯したら今までと違って若い声をするようになった、というのは俗中の俗事である。ただそれが鉢敲であるだけに、何となく侘びた趣がある。うたた寝をした間に風邪でも引いたか、嗄(しゃ)がれたような声をするというのも、あまり大した事柄ではない。この句の妙味はそれを「声のにごり」の一語によって現した点にある。嗄れた声に一種の美を認めたのは、古く『源氏物語』にも「嗄れたる声のをかしきにて」ということがあり、元禄の附合(つけあい)の中にも「風ひきたまふ声のうつくし」というのがあったかと思う。木導の句はその意味において前人を空しゅうするわけではないけれども、「にごり」の語は簡にしてよくこれを現している。

[やぶちゃん注:「源氏物語」のそれはかなり有名なシークエンスで、第二帖「帚木(ははきぎ)」で、光が方違(かたたが)えを口実に伊予介邸に泊まり、その夜、彼の後妻である空蟬(うつせみ)の寝所に忍び込む場面の頭にある。小君は彼女の弟。

   *

 君は、とけても寢られたまはず、いたづら臥しと思(おぼ)さるるに御目(おほんめ)さめて、この北の障子のあなたに、人のけはひするを、

(光)「こなたや、かくいふ人の隱れたる方ならむ、あはれや。」

と御心(みこころ)とどめて、やをら起きて立ち聞き給へば、ありつる子の聲にて、

(小君)「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ。」

と、かれたる聲のをかしきにて言へば、

(空蟬)「ここにぞ臥したる。客人(まらうど)は寢(ね)たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり。」

と言ふ。寢たりける聲のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうと[やぶちゃん注:男性から呼ぶ場合は「姉妹」の意で、ここは姉。]と聞きたまひつ。

   *

宵曲のそれは記憶違いで、「かれたる聲」(かすれた声)であり、ここは弟小君が眠たそうな嗄れ声で空蟬を探して声を掛けたシーンである。もっともそれに応じた空蟬の声もまた、「寢たりける聲のしどけなき」(寝ぼけた声でしまりのない声の感じ)とあるのが、艶っぽい。

「風ひきたまふ声のうつくし」これは越智越人の句。「曠野」に所収されている「雁がねの巻」で、越人との対吟(二人のそれはこれのみしか知られていない)の歌仙中の一句。貞享五(一六八八)年九月(同月三十日に元禄に改元)半ば、深川芭蕉庵でのものである。

 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

  かぜひきたまふ聲のうつくし    越人

である。安東次男氏の「名稱連句評釈(上)」(一九九三年講談社学術文庫刊)によれば、この付合は柳田國男が大変好きだったらしく、折口信夫は『私の師柳田國男叟先生、常に口誦して吝(ヲシ)むが如き様を示される所の物』と伝えていると記されてあった。]

 

 酒桶に声のひゞきや夷講       木導

[やぶちゃん注:「酒桶」は「さかをけ」、座五は「えびすこう」。陰暦十月二十日に商家が商売繁盛を祈って恵比須神を祭り、祝宴を開く行事。冬の季題。]

 馬のかゆ砂かむ音の寒さかな     同

 一は大きな酒桶に反響する声を捉え、一は馬の歯に当る砂の音を描いている。その世界は必ずしも同じではないが、微妙な点に変りはない。

 くれあひに荷ひつれけり稲の音    木導

 音更ル挙樹柱の紙衣かな       同

[やぶちゃん注:「おとふけるくぬぎばしらのかみこかな」。「紙衣」は「紙子」とも書き、和紙を蒟蒻糊(こんにゃくのり)で繋ぎ合せ、柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解(ほぐ)してから縫った和服。防寒衣料又は寝具として用いられた。]

 崩ス碁の音ふけにけり冬の月     同

 小夜更けて椎炒ル音や冬ごもり    同

[やぶちゃん注:「小夜」は「さよ」、中七は「しひいるおとや」。]

 第一句は夕暮の道にゆさゆさと荷い連れる稲穂の音である。第二句以下はいずれも夜更の音を捉えたので、くぬぎ柱にさわる紙衣の音も、一局済んで崩す碁石の音も悪くはないが、「小夜更けて椎炒ル音」に至っては実に三誦して飽かぬ。闃寂(げきせき)たる冬夜の底にあって、ただ椎の実を炒る音だけが耳に入る、寂しいような、ものなつかしいような心持がひしひしと身に迫るような気がする。

[やぶちゃん注:「闃寂」ひっそりと静まり、さびしいさま。「げきじゃく」とも読む。「闃」の字自体が「静まりかえったさま・ひっそりとして人気(ひとけ)のないさま」を指す。]

 

 木導の句の特色の一半は明にこの鋭敏な感覚の上にある。

 尺八に持そへ行やかきつばた     木導

 はだか身に畳のあとや夏座敷     同

 藁筆に手をあらせけり冬籠り     同

[やぶちゃん注:「藁筆」は「わらふで」で狩野永徳が初めて作ったとされ、狩野派が好んだ筆の一種。サイト「筆の里工房」のこちらに復元したそれの写真が載る。『同派の技法書にはその製法が記され』ており、『また、熊野では、藁筆の原料はもち米の藁でなくてはならないとの口伝が存在する。もち米の藁はバサバサしているため、塩水に漬けて柔らかくし、酒と酢等を混ぜて、多少とろ火で煮るという』とある。復元されたそれは、軸部分が竹皮で出来ているが、これは覆いで、藁を束ねた剝き出しのそれを糸で縛ったものは、使えば、いかにも手が荒れそうな感じはする。にしても、これはどう見ても筆記用の筆ではなく、絵を描くためのものだ。木導は絵の嗜みもあったものか。]

 この種の句は必ずしもすぐれた句というわけではない。ただ感覚の上においては一顧の必要があろうと思う。

 蟬の音やするどにはるゝ空の色    木導

 青天に障子も青し軒の梅       同

 「するどにはるゝ」とは晴れきった青天を指すのであろう。「障子も青し」という言葉だけでは、障子に透いて見える青天の感じは悉されて[やぶちゃん注:「つくされて」。]いないかも知れぬ。しかもこの句を読むと、障子越に晴渡る春先の空の明るい感じが眼に浮ぶから妙である。

 ぬり物にうつろふ影や菊の花     木導

 姿見に顔とならぶや菊の影      同

 元日や神の鏡に餅の影        同

 三つとも物にうつる影を捉えたのであるが、神鏡にうつる御供えの餅の白い影が、特にはっきり描かれているように思う。

 よむ文を嚙で捨けり朧月       木導

[やぶちゃん注:「嚙で」は「かんで」。]

 いずれ秘密にせねばならぬ文であろう。読んでしまってから嚙んで捨てた、それが朧月の下だというのである。小説家ならば直にこれによって一条の物語を案出するかも知れぬが、われわれはこの句に示された含蓄だけで満足する。

 虎の皮臘虎(らつこ)の皮や冬ごもり 木導

 俳人によって繰返される冬籠が、とかく侘びた、貧しげな趣になりやすい中にあって、これはまたゆたかな、斬新な趣を発見したものである。芭蕉の「金屛の松の古びや冬籠」もゆたかでないことはないけれども、金屛の光が眼を射らず、それに描かれた松の古びているところは、どこまでも芭蕉らしい世界になっている。虎の皮、臘虎の皮を敷いて端坐する冬籠の主とは同一でない。卒然としてこの句だけ持出したら、近頃の句と誤認する人があるかも知れぬが、俳人は元禄の昔においても、決してこの種の世界を閑却してはいなかったのである。

 木導の句が自然の中に没入する底(てい)のものでなく、むしろ人事的興味を主にしたものであることは、上来引用した諸句によってほぼ明かであろう。これは同藩同門の先輩たる許六の句についても、やはり同様の傾向が認められる。木導には許六の感化が少くなかったであろうが、概括すればそれが彦根風の一特色になるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「臘虎」は「らつこ(らっこ)」。哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutrisウィキの「ラッコ」によれば、『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。『かつて千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームにより、HJ・スノーらの手による乱獲によってほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法』である「臘虎膃肭獣(らっこおっとせい)猟獲取締法」(明治四五(一九一二)年法律第二十一号)が『施行され、今日に至っている』とあるが、寺島良安の「和漢三才圖會」(正徳二(一七一二)年成立)「卷第三十八 獸類」にちゃんと「獵虎(らつこ)」の項立てがあり、この頃、既に蝦夷から毛皮が齎されていたことが書かれている(直江木導は寛文六(一六六六)年生まれで享保八(一七二三)年没)から、少しも奇異でない。

 

 寝静る小鳥の上や後の月       木導

[やぶちゃん注:「後の月」は「のちのつき」で、陰暦八月十五日夜の月を初名月というのに対し、九月十三日の夜の名月を指す。「十三夜(月)」「豆名月「栗名月」などとも呼ぶ。これは日本特有の月見習慣である。]

 夕立に動ぜぬ牛の眼かな       同

[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。]

 こういう人間以外の物を詠じた場合でも、見ようによってはどこか人間に近いものがある。強いて人間の如く見るというよりも、平生の人事的興味がこの種の場合にも姿を現すのであろう。

 「夕立」の句は『水の音』には収録されていない。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏であったか、これが「動かぬ」では面白くないが、「動ぜぬ」の一語によって、牛の鈍重な、悠揚迫らぬ様が眼に浮ぶという意味の説を、かつて読んだことがある。まことに「動ぜぬ」がこの句の字眼(じがん)であろう。木導の句としてはすぐれたものの一と思うが、これを採録せぬところを見ると、自選句集なるものに対して或(ある)疑を懐かざるを得ない。

[やぶちゃん注:「沼波瓊音」(明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人にして強力な日本主義者。名古屋生まれ。本名、武夫。東京帝国大学国文科卒。『俳味』主宰。]

 

 著ては又鉢木うたふかみこかな    木導

[やぶちゃん注:「鉢木」は「はちのき」。謡曲の題(後注参照)。]

 この句を読むと直に几董(きとう)の「おちぶれて関寺うたふ頭巾かな」を思出す。紙衣を著た侘人(わびびと)の境涯と「鉢木」の謡とは即き過ぎる嫌があるかも知れない。しかしそれは几董の関寺も同じことである。われわれはそれよりも木導の集中に、天明調の先駆と見るべき、こういう句のあることを面白いと思う。

[やぶちゃん注:謡曲「鉢木」は鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしたもので、観阿弥・世阿弥作ともいわれるが、不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。ウィキの「鉢木」から引用しておく。『ある大雪のふる夕暮れ、佐野の里』(現在の群馬県高崎市或いは栃木県佐野市に比定される)『の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。住人の武士は、貧しさゆえ接待も致されぬといったん断るが、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門尉常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領ですべて奪われ、このように落ちぶれたと身の上を語る。噺のうちにいろりの薪が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪もろくに無いのであった。常世は松・梅・桜のみごとな三鉢の盆栽を出してきて、栄えた昔に集めた自慢の品だが、今となっては無用のもの、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。そして今はすべてを失った身の上だが、あのように鎧となぎなたと馬だけは残してあり、一旦』、『鎌倉より召集があれば、馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦うと決意を語る』。『年があけて春になり、突然』、『鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、錆び薙刀を背負い、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に』、『時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与える。常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていった』という話で、能も見たことがない者さえよく知っている話であるが、いかにもな出来過ぎた話で、そもそも、この最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、彼は享年三十七歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病いのためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。

「几董」高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。

「おちぶれて関寺うたふ頭巾かな」「関寺」は謡曲「関寺小町」のこと。老女物。世阿弥作かともされる。シテは老後の小野小町で、七月七日、近江国の関寺の僧が寺の稚児(ちご)を連れて近くに住む老女を訪れる。老女が歌道を極めていると聴いていたことから、稚児たちの和歌の稽古に役立つと考えての訪問であったが、話が有名な古歌の由来に及んだ折り、小野小町の作として知られている歌が話題になり、その老女こそ、百歳を越えた小町その人だと知れるという展開である。「頭巾」は落魄(おちぶ)れた行脚僧(乞食僧)をイメージするのが「関寺」とも絡んでよかろうか。]

 

 太祇の句には「うぐひすの声せで来けり苔の上」「田螺(たにし)みえて風腥(なまぐさ)し水の上」「人追うて蜂もどりけり花の上」「うつくしき日和になりぬ雪の上」「陽炎や筏木かわく岸の上」「紙びなや立そふべくは袖の上」「ぼうふりや蓮の浮葉の露の上」「かはほりや絵の間見めぐる人の上」「蝙蝠や傾城いづる傘の上」「白雨のすは来る音よ森の上」「涼風に角力とらうよ草の上」「脱ぎすてゝ角力になりぬ草の上」「かみ置やかゝへ相撲の肩の上」の如く、下五字に同様の句法を用いたものが少くない。木導の句にもまたこの句法が散見する。

[やぶちゃん注:「太祇」炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の俳人。江戸の人か。俳諧は初め沾洲(せんしゆう)門の水国に学び、彼の没(享保一九(一七三四)年)後は、紀逸についた。寛延元(一七四八)年に太祇と改号し、二年後の「時津風」には「三亭太祇」とあって、その頃に宗匠となったものと考えられている。宝暦元(一七五一)年頃、京都に上って、翌年には五雲とともに九州に赴いたが、五月には戻って京都に住んだ。妓楼桔梗屋主人呑獅(どんし)の援助を受け、島原遊廓内に不夜庵を結んでいる。蕪村(ぶそん)と親密な風交を重ねた明和三(一七六六)年以降の六年間は意欲的に俳諧に関わり、多くの佳吟を残す重要な時期となった。人柄は無欲恬淡にして温雅洒脱であった。俳風は人事を得意とし、技巧的な趣向の面白さを持つ。

「陽炎」「かげらふ」。

「筏木」「いかだぎ」。

「ぼうふり」蚊の幼虫のボウフラのこと。

「かはほり」「蝙蝠」コウモリ。

「白雨」は「ゆふだち」と読む。

「かみ置やかゝへ相撲の肩の上」「かみ置」(かみおき)は幼児が頭髪を初めて伸ばす時にする儀式で、現在の七五三に当たる。冬の季題。「かゝへ相撲」「抱へ相撲(すまふ)」で諸大名が召し抱えた抱え力士のこと。この句意味がよく判らなかったが、ネットの本句へのQ&Aの回答によって、大名の若君が髪置きの祝いをし、当時の力士は縁起が良いものとされていたことから、その力士が若君を肩にひょいと乗せたものあろう、とあって氷解した。]

 

 どつと吹ク風や鶉の声の上      木導

[やぶちゃん注:「鶉」は「うづら」。]

 明月や撞ク入あひのかねの上     同

 名月やすらりと高き松の上      同

 ほとゝぎす鳴や蹴あげる鞠の上    同

[やぶちゃん注:「鳴や」は「なくや」、「鞠」は「まり」。]

 陽炎や笠屋が門の笠の上       同

 明月や香炉の獅子の口の上      同

 こういう言葉に現れたところだけを見て、天明調の先蹤(せんしょう)とするのは早計かも知れぬ。また元禄の作家にあっても個々について委しく調べたら、同様の句法はしばしば用いられているかも知れぬ。ここには太祇の集中において著しく眼につくような句法も、存外元禄時代に用いられているという一例として以上の句を列挙するにとどめる。

 遣羽子や吾子女に交る年女房     木導

 この句は『水の音』に洩れているが、人事的興味の上で、やはり天明の句に繋るべき内容を持っている。天明の作家が木導から何かの影響を受けたというわけではない。其角や嵐雪とも違う人事的作家が元禄にあって、その作品に天明の句と相通ずるものがあるというのである。

[やぶちゃん注:「遣羽子」は「やりはご」で羽子板遊び。「吾子女」は「あこめ」で、「衵(袙)姿」の略でであろう。童女が、上着を着けずに衵(女童(めのわらわ)が着た袿(うちき)の小形のもの。汗衫(かざみ)の下に着た中着(なかぎ)であったが、後には表着となった)「年女房」その年の歳女の成人女性であろう。年増女ではちょっと哀れであるから。]

 

 木導にはまた史上の人物を材料に用いた句がいくつもある。

    竹馬に曾我兄弟や門の雪    木導

    梶原も蓑著て聞やほとゝぎす  同

[やぶちゃん注:「聞く(きく)や」。鎌倉幕府の御家人で奸臣の誹謗も大きい梶原景時(保延六(一一四〇)年?~正治二(一二〇〇)年二月六日)。彼が幕府を追われるように出て、京へ上る途中(謀叛というのではなく、単に朝廷方の武家方として雇われることを目的として向かっていたものと思われる)、狐崎(静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。JR清水駅の西南西約三キロメートル)で不審に思った地侍らに襲われ、一族郎党、全滅した経緯は、私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を見られたいが、一説にはその時、鎧を着けて武装しているのを隠すために全員が蓑を着ていたという話もあるようだから、その最期のシークエンスを詠んだ時代詠であろうか。ホトトギスが日付とマッチする。]

    鶯やその時判官んめの花    同

[やぶちゃん注:「判官」は「はうぐわん(ほうがん)」で源義経のこと。「んめの花」は「梅の花」。義経が藤原泰衡に裏切られて高館で死ぬのは、文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日で初夏に当たり、ウグイスの初音と合致する。]

    名月に召や両介はたけ山    同

[やぶちゃん注:「召や」は「めすや」であろう。「両介」は恐らく三浦介三浦義澄と千葉介常胤、「はたけ山」は畠山重忠。孰れも鎌倉幕府創業の功臣である。されば、召すのは源頼朝ということになり、非常に贅沢なオール・スター・キャスト、テンコ盛りの時代詠のワン・ショットとなる。]

    声高に大津次郎や大根引    同

[やぶちゃん注:座五は「だいこびき」。「大津次郎」は「義経記」に出る義経東北行に纏わる義経の逃走を助けた商人。一行を捕らえんと待ち構えていた領主山科左衛門を謀(たばか)って、琶湖北岸の海津まで船で一行を送り届けた。しかし、「大根引」を持ち出した意味が良く判らぬ。大津二郎の妻が性悪女として出るから、それと関係があるかとも思ったが、やはり判らぬ。識者の御教授を乞う。]

    能因は槙の雫のかみこかな   同

[やぶちゃん注:中七は「まきのしづくや」。歌人能因(永延二(九八八)年~?)は藤原長能(ながよし)に学び、陸奥・甲斐・伊予などを旅して歌作した行脚の人。大江嘉言(よしとき)・源道済(みちなり)らと交遊し、「賀陽院(かやのいん)水閣歌合」・「内裏歌合」などにも参加した中古三十六歌仙の一人。「後拾遺和歌集」などに入集。俗名は橘永愷(たちばなのながやす)。通称は古曾部入道。この一句は「新古今和歌集」の能因法師の一首(五七七番)、

    十月ばかり、常磐(ときは)の
    杜(もり)をすぐとて

 時雨(しぐれ)の雨染めかねてけり山城の

    ときはの杜のまきの下葉(したば)は

をインスパイアしたもの。]

 

 已に其角の条において説いた通り、こういう種類の句は必ずしも天明の蕪村を俟ってはじめて生れたものではない。元禄諸家の集にも少くないが、その情景を髣髴する絵画的要素において一籌(いっちゅう)が喩(ゆ)するため、竟(つい)に蕪村ほど顕著な特色を成すに至らなかったのである。木導の句もその意味においては多くいうに足らぬ。ただ彼の如く人事的興味を主とする作家が、時にこの種の題材を取上げるのは、むしろ当然の成行であろうと思う。

[やぶちゃん注:「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する」は「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 絵草紙を橋で買けり春の風      木導

 夏菊や日にむら雲のかゝる影     同

 黒雲にくはつと日のさす紅葉かな   同

 短檠で見送る客や庭の菊       同

[やぶちゃん注:「短檠」は「たんけい」と読み、背の低いしっかりした基台を持つ灯明台で、四畳半以上の広間で用いる。サイト「茶道」のこちらが画像もあり、よい。]

 こほこほと馬も痎行枯野かな     同

[やぶちゃん注:中七は「うまもせきゆく」(馬も咳をしながら辿り行く)と読む。]

 これらの諸句は前に挙げた特色の外に、木導の伎倆を見るに足るものである。「夏菊や」の句、「黒雲に」の句の如き、自然の変化を捉え得た点において、木導としてはやや珍しい方の部に属する。

 木導の句には前書付のものが少く、芭蕉及同門の士との交渉を討(たず)ぬべきものも、あまり見当らない。

[やぶちゃん注:「討(たず)ぬ」検討する。知り得る。]

   翁身まかり給ふ比其角へ遣ス

 身をもだえ獅子のあがきや冬牡丹   木導

   芭蕉翁百ケ日

 なつかしや茶糟の中の蕗の薹     同

[やぶちゃん注:「茶糟」は「ちやかす」。思うに、墓前に供えるために茶を入れ、その滓を地面に捨てておいた。そこを見ると、蕗の薹の頭がのぞいていたという景か。]

   其角あつまへ旅立ける餞別

 氷ふむ音もせはしき別れかな     同

[やぶちゃん注:「あつま」は「あづま」で江戸のことであろう。]

   支考西国へまかりし餞別

 誹諧のうちは射取る八嶋かな     同

[やぶちゃん注:「射取る」は「いてとる」。八島壇の浦の那須与一の扇の的を射たエピソードに擬えたもの。次も同時に作られたものと思われ、同じシークエンスを意識したもので、弓の代わりに扇にと差し替えてと洒落たのであろう。]

   支考餞別

 さしかへて扇持たる別かな      同

   五老井の山桜短冊

 さつと咲さつと散けり山ざくら    同

   五老井の墓に詣て

 一本の棺に添る野菊かな       同

 「五老井」は許六のことである。許六の書いた『歴代滑稽伝』に「芭蕉東武下向の時四梅廬に漂泊し給ふ。木導汶村(ぶんそん)は方違[やぶちゃん注:「かたたがへ」。]してつゐに[やぶちゃん注:ママ。]逢はず、文通に木導はかたの如くの作者なりと度々称美あり」と見えているが、芭蕉をして称美せしめたというのはどんな句であったろうか。木導の句は芭蕉歿後に至って、はじめて諸集の上に現れるのだから、何とも見当がつかない。「かたの如くの作者」といい、「度々称美あり」という以上、「春風や麦の中行く水の音」の一句にとどまるわけではなさそうである。

[やぶちゃん注:森川許六は木導(二人は孰れも彦根藩士)より十歳上で正徳五(一七一五)年に亡くなっている(木導は享保八(一七二三)年没)。

「四梅廬」(しばいろ)近江蕉門で浄土真宗彦根明照寺(光明遍照寺)(グーグル・マップ・データ)の第十四世住職河野李由(こうのりゆう 寛文二(一六六二)年~宝永二(一七〇五)年)が自身の寺に名づけた別称(庭に四本の梅の木があることに因む)。若き日より芭蕉の風雅を慕い、修行中、法用と称して、元禄四(一六九一)年五月、京嵯峨野の落柿舎で「嵯峨日記」執筆中の芭蕉を訪れ、入門した。許六は李由と親しく、度々、明照寺に遊び、芭蕉も李由入門の直後に寺を訪れている(但し、これはその時のことではない。何故なら、木導の蕉門入門は元禄五(一六九二)年から七(一六九四)年)頃とされるからである)。参照したウィキの「河野李由」によれば、『芭蕉と李由の師弟関係は「師弟の契り深きこと三世仏に仕ふるが如し」と伝えられて』おり。『芭蕉死去後、渋笠を形見に貰い受け、明照寺境内に埋め』て『笠塚を築い』ている。元禄一五(一七〇二)年に許六とともに「韻塞」・「篇突」・「宇陀の法師」を編んでいる、とある。

「汶村」松井(松居とも)汶村(?~正徳二(一七一二)年)も同じく彦根藩士で、許六に俳諧・画を学んだ。]

 

 其角や支考のことは姑(しばら)く措(お)くとして、同藩同門たる許六との交渉については、何か他に異るものがありそうに思うが、これというほどの材料もない。許六の句の前書に「木導子が名木は家中一番のはつさくらなり、春毎に花見の席をまうく」ということがあり、また「木導が桜はよしのの口の花と盛をひとしくし、わが五老井の桜は都高台寺(こうだいじ)の桜と時をたがへず、折よせて病床にながむ」ということがある。木導の詠んだ五老井の山桜は、即ち高台寺の桜と同時に咲く花を指すのであろう。年長であり、不治の病者でもあった許六は勿論木導に先立って歿した。

[やぶちゃん注:「不治の病者」許六は晩年の宝永四(一七〇七)年の五十二歳頃からハンセン病を病んだ。]

 

 墓参の句は極めて淡々としているが、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]に添えた野菊に無限の情が籠っているのを見遁(みのが)すことは出来ぬ。

 木導が俳句の外に俳文を草したのは、恐らくは許六の影響であろう。「出女説(でおんなのせつ)」及「天狗弁(てんぐのべん)」の二篇が伝わっている。「天狗弁」はいわゆる俳文らしい、その才を見るべきものであるが、文学的価値からいえば「出女説」を推さなければならぬ。この一篇は許六の「旅賦」と共に、昔の旅宿の模様を知るべき有力な資料であり、許六が旅人の立場を主としているに反し、木導は旅宿の出女の側からこれを描いている。「あるは朝立(あさだち)の旅人を送り、打著姿(うちぎすがた)をぬぎ捨ては[やぶちゃん注:「すてては」。]帚[やぶちゃん注:「はうき」。]を飛し[やぶちゃん注:「とばし」。]、蔀(しとみ)やり戸おしひらきてより、やがて衣(きぬ)引(ひき)かづき、再寝(またね)の夢のさめ時は、腹の減期(へるご)を相図とおもへり。高足打(たかあしうち)の塗膳にすはりながら、通りの馬士(うまかた)に言葉をかはす。やうやう昼の日ざしはれやかにかゞやく比(ころ)、見世(みせ)の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌ぬぎの大げはひ、首筋のあたりより、燕の舞ありく景気こそ、目さむる心地はせらるれ。関札の泊りをうけては、あたらしき竪嶋(たてじま)に、京染の帯むすびさげて、鬢(びん)の雫のまだ露ながら、門の柱にうち添たるは[やぶちゃん注:「そひたるは」]、かれが一世の勢ひなるべし」といい、「冬枯のまばらなる比は、いつとなくよわり果て、鼻の下の煤気[やぶちゃん注:「すすけ」。]も寒く、木棉所の小車の音も、さびしく暮て、水風呂(すいふろ)の火影(ほかげ)に足袋さすわざも侘し。片田舎は法度(はつと)きびしく、表向は勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]もせず、されどあはれなるかたには心ひかるゝならひ、夜更(よふけ)亭主しづまり、ぬけ道よりしのびやかに、書院床の小障子あけて、神の瑞籬(いがき)もはゞかりなくて大股に打こへ」というが如き、出女の風俗を伝えて遺憾なきものである。殊に全体が写生的で面目躍如たる観があるのは、元禄の俳文中にあっても異彩を放つものといって差支ない。木導の句を見来って[やぶちゃん注:「みきたって」。]この一文を読めば、彼の観察の微細にわたるのも偶然でないという感じがする。出女のことはほぼ文中に尽きているが、木導の句には出女を詠じたものが二、三ある。

[やぶちゃん注:この俳文は宵曲が言うように、非常に興味深い。全文は許六編の「風俗文選」に所収(「卷之四」の「說類」)しているので容易に読める。お持ちでない方は、ここで「風俗文選」全篇をPDFで入手出来るので、ダウン・ロードされたい。「天狗辯」(「巻之九」の「辯類」)もある。この「出女說」はいつか電子化注する。

「出女」は私娼の一種。各地の宿場の旅籠におり、客引きの女性であるが、売春もした。「飯盛り女」「留女(とめおんな)」も同じい。]

 

 出女の化粧の中や飛燕       木導

[やぶちゃん注:「でをんなのけはひのなかやとぶつばめ」。]

 出女の羽ありをふるふあはせかな   同

 出女や水かゞみ見るところてん    同

 第一句の趣は文章の中に見えているが、第二及第三はそれぞれ異った場面を捉えているのが面白い。「出女説」を補うような意味で、ここに挙げて置くことにする。

[やぶちゃん注:「第一句の趣は文章の中に見えている」これは先の「出女說」の引用中の、『やうやう昼の日ざしはれやかにかゞやく比(ころ)、見世(みせ)の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌ぬぎの大げはひ、首筋のあたりより、燕の舞』(まひ)『ありく景気こそ、目さむる心地はせらるれ』の部分を指す。]

 

 木導は享保八年六月二十二日、五十八歳で亡くなった。彼が稿本『水の音』を完成したのは同じ年の五月上旬だというから、自家の句の輯録[やぶちゃん注:「しゅうろく」]を了(お)えて後、一ヵ月余で世を去ったのである。木導は元禄期において特に傑出した作家ではないかも知れぬが、一見平凡のようでしかも異色ある一人たるを失わぬ。上来引用した句はよくこれを証する。

[やぶちゃん注:「上来」(じょうらい)は「以上」に同じい。]

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