ブログ1,410,000アクセス突破記念 梅崎春生 生活
[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年一月号『個性』初出。単行本未収録。未収録である理由は未完成だからである。底本(以下参照)の古林尚氏の解題によれば、『「生活」は末尾に、「この作品は二年前にかいたもので、未完である。書こうと思った小説が、締切日までに完成しなかったので、やむなくこれを出した」の付記が添えられている。この「生活」の素材はつぎの「無名颱風」にそっくり生かされ、また「年齢」においても部分的に活用された。』とある。しかし、短編として一つの形を成しており、ちょん切れた感じは(しばしば梅崎春生の作品にはそうしたエンディングが見られる)寧ろ、私は感じない。
底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。
傍点「ヽ」は太字に代えた。一部に禁欲的に注を附した。
上記の「無名颱風」及び「年齢」は近日中に公開する予定である。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが1,4100,000アクセスを突破した記念として公開する【2020年8月29日 藪野直史】]
生 活
列車が都城(みやこのじょう)を過ぎる頃から、空模様はあやしく乱れ始めた。
爆撃のためほとんど廃墟の相を呈する都城市は、踏みつぶされた蟹(かに)のような廃屋の断続する彼方に、淡黄色の砂塵(さじん)が紗をなして立ち騰(のぼ)り、日はまだ没しぎらないのに、すでに薄暮に似た感じであった。移勤してゆく視角のせいか、街全体がそのまま地底に沈んで行くようにも見えた。たちまちにして毀(こわ)れた街並は尽き、初秋の田園がひらけてくる。薄墨色の雲群が大きな掌をひろげるように地平から三方に伸びてゆくらしい。車窓に次々あらわれては消え去る稲田や疎林(そりん)が、ようやく立ちそめた風をうけて思い思いになびき騒いだ。何か不安なものが心に重くしずんでくる。さっき船着場から鹿児島駅まで歩き、駅で汽車のくるのを侍っていた間の、あのへんに狂騒的な亢奮(こうふん)がもはや醒めかかっていて、車窓から吹ぎ入る風に私は顔をさらしたまま、首筋や背中に滲みでてくる汗を何度も手拭いでこすりとった。湿度が次第に高まるらしく、顔を車窓の内側にむけると眼鏡がすぐに曇ってきた。
車室は発車のときから満員であった。おおむねは私とおなじく今日桜島突撃隊を解員された兵員ばかりである。それぞれ大きな衣囊(いのう)を特ちこんでいるから足の踏場もない。車窓は全部あけ放ってあるにも拘らず、人いきれで暑かった。大半は年取った補充兵だが、中には年若い兵隊や下士官もまじっていた。下士官が通路にしゃがんだりしていても、座席の兵隊は今はそれに席をゆずろうとしなかった。そしてそれは不自然ではなかった。ごくあたり前の情景に見えた。部隊では一律に同じような生彩のない顔をしていた連中が、桜島を離れ遠ざかるにつれて、少しずつ娑婆(しゃば)の表情をとりもどして来るのが、はっぎり感じられた。皆すこしうわついた調子で、会話を交したり笑い声をたてたりしている。年寄った兵が席を占め談笑するそばに、若い下士官が疲れたおももちで通路にうずくまるのも、軍隊に入って以来私の経験しない風景であった。軍服はまとっているけれども既に、世間のおじさんが席に掛け、生白い若者が通路にしやがんでいる様にしか見えない。戦終って十日経(た)ち、部隊をはなれる今となっては、おのずから年齢という世間の掟がこの車室にも通用し始まるらしい。それを不自然でなく眺める私も、無意識裡に世間の感情をとりもどし始めているのかも知れなかった。
私の前の座席には木兎(みみずく)に似た顔の老兵がこしかけていた。
さっき天蓋も建物もない歩廊だけの鹿児島駅で、陽にかんかん照らされながら私達は汽車を待っていた。駅員の話によると、列車はいつ来るかわからないと言う。桜島という隔絶した世界で、終戦後の世情がうまく行っていないだろう事は予測していたが、船で鹿児島に着くとすぐ、このようなダイヤの混乱という具体的な事実につきあたってみて、それがまことに実感として身にこたえた。九州本線は確実に三四箇所きれ、徒歩連絡せねばならぬが、日豊線は今のところ不明だと言う。うまく行けば全部つながっているが、断(き)れていればどこでおろされるか判らない。此の車室にいる兵達は皆私同様、漠然と桜島さえ離れたらすぐ汽車に乗れて、今日明日のうちにも故郷に帰りつけると思っていたに違いないのだ。此の木兎に似た老兵は、歩廊でも私の側にいて、いらいらした表情をうかべたり舌打ちしたり、不安げな様子をかくし切れない風であった。早く汽車に乗らないと桜島から呼びかえしに来はしないかと、怖れて居るかのように見えた。しかしそれは彼だけではなく、多かれ少かれ皆そんな表情を浮べていた。年取った兵ほど、その傾向が強かった。そんなに家に帰りたいのか、そんなに家は良い処なのかと、枕木を積み重ねた上に腰かけ、歩廊にくろぐろと印された自分の影を眺めながら、ぼんやり考え続けているうちに、前触れもなく汚れた汽車が駅に入って来、私達は衣囊をかつぎあげ、先を争って乗り込んだ。手際よく私が窓辺に座席をしめたら、向い合せにこの老兵が、窓から衣囊を押し入れて乗りこんできたのである。体力もない癖に、衣囊にはぎつしり詰め込み、船着場からここまでよく持ってこれたと思うほどだが、それを網棚にのせず大事そうに膝の前に置いた。自然私の膝は圧迫されて身体をねじって居なければならない。この私の姿勢を見ても、老兵は動ずる気配もない。此の無神経さは何だろう。老兵といっても四十四、五歳だが、終戦後規律がみだれたのを幸いに洗濯しないと見えて、ひどく汚れた略服を着ている。先程の憂欝そうな色は消え、むしろ、たのしそうに窓外の景色を眺めたり、隊で支給された弁当を長いことかかって食べたり、衣囊を拡げてその中の風呂敷包みを結び直したり、そLて小さな木箱の中のものを詰め換えて整頓したりした。箱の中には解員時に分配された航空糧食や携帯口糧がいっぱい詰っていた。そしてその上に小さな写真が一葉乗っている。私の視線に気付くと老兵は、垂れ下った瞼を引っばり上げるようにして顔を起した。濁った大きな眼である。はっきりしない呂律でつぶやいた。
「子供がふたりもあるのですよ。九つに六つ」
特に私にむかって言った調子でもない。独白じみた呟(つぶや)きである。もともと表情のはっきりしない、むしろ沈欝な感じのする顔だが、この瞬間だけは一種の喜悦とも羞恥ともつかぬ色が顔いっぱいに拡がって消えたのを私は見た。この赤く濁った大きな眼は、この木兎(みみずく)に似た顔は、今日初めて見たものではない。この老兵は桜島で私と同じ部隊にいた。その頃から私はこの男をはっきりと記憶に止めている。
桜島に転勤になった当初のころ、どうしたものか原因不明の熱が出て私は毎日医務室にかよった。診察をうけるために順番を待っている群のなかに私はこの男の顔をしばしば見た、と思う。元来設営の補充兵らしいのだが、身体にどんな故障があったのか知らないが、そんな具合に医務室に出入しているうちに設営の任に堪えないものと診断されたのかも知れない。その次気が付いたときは彼は医務室の雑用をするかかりになっていたようである。顔色は悪くぶわぶわとふくれて居るが、肩や胸が不釣合にほそく、手指は長くて掌全体はまるで鳥類のようにかさかさに乾いていた。部隊に赤痢(せきり)が蔓延(まんえん)しているというので、その掌に消毒剤を入れた噴霧器を握り、あちこち消毒して廻っていた。これはおそらく楽な仕事だっただろうと思う。私の居住壕にも両三度来た。
ある昼間、私が当直の疲れで寝台に横になり、うとうとしていると、いきなり生ぬるい霧のようなものが裸の胸や脇腹に吹きつけてきたので、びっくりして眼を覚ましたら、此の男が噴容器を手に構えて、寝台の側に立ちはだかっていた。何ということをするかと私は腹を立てた。
「なんだ。寝ているところに薬をかけるやつがあるか」
私が思わず身体を起してどなっても、この男はなぜ私からどなられるのか判らないような、ぼんやりした表情であった。
「消毒をばしているところです」
大きな眼をみひらいて私を見ているのだが、その瞳は丁度(ちょうど)、昼間は大きく見開いていても視力を喪失しているあの木兎(みみずく)の眼に、そっくりであった。此方を向いてはいるが、此方の姿が彼の瞳孔にうつっているのかどうか、それは意力を失ったたよりない視線であった。しかしこれが本物であるかどうか、私は信用しない。
私は知っている。私も補充兵だから、年配で海軍に召集された男たちの気持はほとんど類推できる。私達三十歳前後の連中は前年召集されたのだが、四十代の男たちはおおむね今年に入ってからである。だから私は、私の後から次次に入って来る連中の様子はつぶさに見て来た。彼等は例外なく同じコースをたどって同じ型の兵隊になって行くのだ。入団してきた当初は、彼等はみな世間の貌(かお)をぶらさげてくる。自尊心だとか好奇心だとか、軍隊の中で通用しそうにもない属性を表情に漲(みなぎ)らせてやって来る。勿論ある種の気構えをもって――いかにも烈しい肉体的訓練は充分覚悟しているぞといった風(ふう)な気構えを誇示しながら、悲壮な面もちで入ってくる。ところが一箇月もたつ間に、息子ほどの年頃の兵長にようしゃなく尻を打たれたり、甲板掃除で追い廻されたり、だんだん自分が人間以下に取りあつかわれていることが身に沁みてわかって来る頃から、彼等の世間なみの自尊心や好奇心や其他の属性は消えて無くなって行く。喜怒哀楽が表情に出てこなくなる。然し無くなるのは表面からだけだ。彼等の喜怒哀楽は表に出ずに心の内側に折れ込んで行くのだ。するどく深く折れまがって行くのだ。彼等は総じて無表情になる。自分を韜晦(とうかい)することによって生きて行こうと思い始める。肉体を、上から命ぜられる場合でも、最少限度に使用しようと心に決める。肉体のみならず、精神をも。かくして彼等はみな一様に動作がにぶくなり、痴呆に似た老兵となってゆくのだ。しかし勿論(もちろん)これらはポオズに過ぎない。だからわかい兵長らが彼等を前にして、何て年寄りはトロいのかと怒りなげいても、彼等がふたたび娑婆(しゃば)に帰れば、生馬の眼を抜くような利発な商人であったり、腕利きの職人であったり、あるいは俊敏な学者であることに、到底思いおよばないだろう。流体がおのずと抵抗のすくない流線型をとるように、彼等はその目的のためにいかなる擬体(ぎたい)[やぶちゃん注:「体」はママ。]をも採用する。佯狂(ようきょう)が最良の手段だと思えば、伴狂をすら取るのだ。馬鹿をよそおうこともつんぼとなることも、あり得るということを私は見て来た。私は今、彼等と書いた。彼等ではない。もちろん私並びに私達である。ただ三十前後の私達が長いことかかってもうまい具合に化け終(おお)せぬところを、此の年召集された四十前後は、極めて巧妙にしかも頑固になし遂げたようである。世間で苦労して来た賜物というほかはない。だから私は、軍隊で会った如何なる人間をも信用しない。ことに四十代の兵隊を。私ですらも贋(にせ)の表情をこさえ続けてきたから、この男達も仮面をかぶり終せたにちがいないのだ。此の私の座席から見わたせる幾多の老兵らは部隊にいた時は、ただひとつの表情しか持ちあわせなかった。それがただ、部隊からはなれ、狭い海峡をひとつ渡っただけで、もはや娑婆(しゃば)の表情を取りもどし始めている。このことは鹿児島駅で汽車に乗りこんだ時から、薄々と私は感じ始めていたのだ。部隊にいた頃は、私の前にいる老兵とても、なにか得体のしれない愚鈍な感じの男であったが、今ははっきりと解放された喜びが身のこなしに現われている。向うの座席の、所書[やぶちゃん注:「ところがき」。]でも書いて交換しているらしい二人の老兵も、弁当を分け合って食べている他の群も、それはもはやあの苦渋の表情から抜け出ている。世間人らしい匂いを立て始めている。窓縁に肱をついてぼんやり眼を見開いている私の顔も、他から見ればやはりそう見えるのかも知れないのだ。しかし召集前、私はそのような世間の貌を信用していたのか、世間の中で私は自らを韜晦(とうかい)せずに純粋に生きて来たのか、そういうことにふと思い当ると、私は突然にがいものを無理に口の中に押し込まれたような気がし、少し乱暴な動作で身体をよじり手を伸ばして、老兵の手箱の中からチラと見た写真をつまみ上げていた。老兵のかさかさした掌があわててそれを追ったが、その時は私はすでにその写真を私の眼の前にかざしていた。
[やぶちゃん注:「韜晦」自分の本心や才能・地位などを敢えて包み隠すこと。]
ピントの合わぬぼんやりした写真であった。縁が色褪(あ)せているのはおそらく汗がしみたのであろう。納屋みたいな感じのする建物の前に子供が二人写っていた。二人ともまぶしそうに笑っていた。大きい方は頭が平たく、手には小旗を持っていた。小さな方はくりくりした眼を光線の具合かあらぬ方に向けて居るように見えた。その眼付が何となく此の老兵にそっくりである。先刻つぶやいた子供たちなのであろう。子供達の背後に、三十位の女が立っていた。これが母親だろう。上品な顔だちだが、これは笑っていない。眉の辺に暗い影が落ちている。子供たちが上等の服装をしていないことは、写真がぼやけていても直ぐに判る。あまり裕福でないに違いない。しかしこの小さな写真を見ていると、子供の頰の柔かい匂いや、日向に照らされた着物の匂いまで判るような気がした。写真をかえしながら、私は低い声で聞いた。
「これがその、息子さんたちかね」
「そうです。そうです」
私が写真を眺めている間、私の顔をじっと見ていたらしい。私がそう言うと、ぶわぶわした頰にふしぎな笑いをうかべて、合点合点をした。桜島にいた頃は、過去も何も持たない、現象みたいにしか眺められなかった此の男が、ふるさとには家庭と職業を持っているということが、急に実感として私に迫ってきた。その実感は私自身にからんで何故か微かな不快の念を伴ってくる。それを押し殺しながら、私はこの老兵と次のような会話をした。
「故郷(くに)は何処なんだね。何処まで帰るのか」
「へええ」顔を上げずに写真を箱にしまいながら「原籍は福岡県ですたい。しかしその、居住区は別府」
居住区だってやがら、と通路に立っていたわかい兵隊が笑い出した。とげとげしい乾いた笑い声であった。老兵は一寸びっくりしたような顔を上げたが、箱の中から小さい紙包みを取り出して私の顔の前でひらひらさせた。
「あなた」私のことをそう呼んだ。「之を湯で溶かすと、そっくりお萩になりますがな。餡粉(あんこ)は餡粉、御飯は御飯とな。先刻駅で仲間のものが慥(こしら)えて食べよりました」[やぶちゃん注:「慥」(「たしか」)の字に「こしらえる」の意味はない。恐らく「拵」の誤字或いは誤植である。]
航空糧食の一種でお萩を粉末にしたものである。私も三、四個支給を受けて衣囊の中にしまってある。
「お前は何故食べなかったんだね」
「へへえ」老兵は女た曖昧(あいまい)なわらい方をしながら「子供に食べさしてやりたいと思いまして、な」
「子供に会いたいかね」
老兵はぶよぶよと笑って返事をしなかった。しかしその眼に灼けつくような慕情が浮んで消えた。
野面を斜めにてらしていた投日のかげが消えて、汽車は乾いた軋(きし)りを立ててがらんとした大きな駅に、辷(すべ)り込んだ。宮崎市である。混凝土(コンクリート)の歩廊[やぶちゃん注:プラット・ホームのこと。]を、風がさらに強く吹くらしく、歩廊面はぬめぬめと光った。眼を上げると油煙を溶かしたような黒雲がもはや南の空の半分を覆い、千切れた雲端は物凄い速度で渦巻きながらひくく垂れてくるらしい。湿気を帯びた風が線路をわたって私の頰をうつた。窓を飛びだして歩廊の水道栓に群れた兵隊の青い略服の裾が一斉(いっせい)にはたはたと動く。汽車がごとんと動き出すと、水を汲み残したまま水筒をかかえ、五、六人の兵達が歩廊を走って汽車に飛びのった。汽車は速力を早めた。毀(こわ)れた町が線路にそって連なる。大きな踏切りを越えた。線路沿いのせまい道を、カンカン帽を冠った男が歩いて行く。突風がいきなり帽子を吹き飛ばした。白い浴衣(ゆかた)のたもとを風でふくらませながら、男は腰をかがめてそれを追っかける。黒い柵(さく)伝いにカンカン帽はどこまでも転がって行くのだ。追っかける男の姿勢をはっきり、私の眼底に残したまま、汽車はそこを轟然(ごうぜん)とはしり技けた。
(ああ、あの感じなんだな)
浴衣にカンカン帽子を冠った姿、それが先ず見慣れない感じであった。そんな服装が暗示する生活、それが此の世間にあるということが、何と無く肌合わぬ気がした。そしてそれと同時に、そのような市民生活を私も営んでいた時の記憶がふと肉体によみがえってきた。昔あんな見苦しい姿勢で私も吹きとばされた帽子を追っかけたことがある。その時の気持や肉体の感覚が、鮮かに呼び醒まされてきためだ。この汽車で東京に戻る。着物をきて畳のうえで妻子と飯を食う。背広をきて役所に通う。タ方夕刊を買って省線で戻ってくる。あるいは風で帽子を飛ばされたり、乏しい銭で安酒を飲んでみたりというような生活のディテイルが、驚くほどなまなましい感覚をもって、此の時私に思いだされてきた。
(此の感じをなぜ俺は長いこと思い出さなかったんだろう?)
それは密度の違う世界に無理矢理に追いこまれるような、生理的な厭な気持であった。今日桜島の軍用波止場から出帆するときの、あの昂揚された自由感が、次第に質の違ったものにすり代えられて行くのが、私にはわびしく思われた。湿って火付きの悪いほまれを、口のなかがざらざらする気持になりながら、しきりに吸い込んだ。風のために莨(たばこ)の灰が鼻のよこに散って当った。
(そんな感じを思い起すことから、俺は懸命に逃げ廻っていたに違いないのだ。帰って行かねばならぬその世界が、厭(いや)な世界であるとは考えたくなかったのだ)
しかしこの悪感[やぶちゃん注:「おかん」。]はすでに私の心を摑んでしまった。私は車窓をはしる景色にじっと眼を放って考えつづけていた。長い間座席にいるせいで、尻がすこし痛み出してきた。老兵が衣囊の紐(ひも)をぐいぐいしめる度に、衣囊のかたい内容が私のすねをつき上げて来る。整理もすんだと見える。蒼然と昏(く)れかかるのに、車室には燈が点(とも)らない。車室の男達はやや談笑に疲れた形で、ぼんやりしている者が多いが、その眼が明かに不安をやどして、時折窓外に走るのも、あやしい空模様につながって此の列車が何時とまるか判らないという危惧(きぐ)をかんじているに違いないのだ。
衣囊の紐を結び終えた前の老兵がふと心配そうに私に話しかけた。
「此の汽車はまっすぐ別府まで行くとでしょうか」
「それは知らんよ。おそらく何処かで断(き)れているだろう」
「断れているとすれば、私どもはどうなるとでしょう」
「降りて次の駅まで歩くんだよ。重い荷物をかついで皆歩くんだ。どうせ家に帰れるんだ。一日や二日延びたって大したことはあるまい。そんなに早く帰り着きたい訳じゃないだろう」
老兵は頰に一寸厭な色を浮べて、瞼を伏せた。独語のように言った。
「私どもは一刻も早く帰りたいとです」
まだ幾分愚鈍な感じはあるとしても、此の老兵の受け答えや気持の動きは、すでに正常な市民のそれのように思われた。部隊に居たときのように、命令を受けてもそれを理解出来ない風であったり、寝ているところに消毒液をかけたりするような、けたを外した動作や振舞いは、まこと私が予想したように擬態(ぎたい)であるらしい。意識した擬態ではないとしても、保護色や警戒色のように自然の摂理として、此の老兵は自らの個体を守る為にあんな愚鈍さを身につけたのかも知れない。しかしその事は私とは何の関係もなく、また興味もない。ないにも拘らず、私は此の老兵の顔を見ていると、してやられたという感じが強かった。
「そんなに帰りたいのかね。家では何をやって居るんだね」
「人形を造るとです。人形師です」
別府土産の人形を造るのがその商売だという。老兵はやや雄弁になって、粘土から人形を造り上げるまでの工程を、廻りくどく話し出した。時々手真似も入る。小さな工房を持っていて、そこで注文を受け仕事をしていたらしい。日当りの悪い房[やぶちゃん注:「ぼう」。部屋。]にすわって什事をしている光景が私の想像に浮んで来た。職人は別に使っていないが、弟が一人いて、それと一緒に仕事をしていると言う。
「私が学資を出してやりましてな、中学を卒業させました。ところが中学を出ても人形をば造りたいと言うもんで、仕事の加勢をさせて居りますが、これが私ども以上の腕利きで、これが人形は別府で一番良か店から幾らでん注文が来るとです。え。二月、二月に私どもが海軍に引っ張られたあとは弟一人でやっておりましたが、これも六月頃陸軍に引っ張られたということで、女房からその便りがあったっきりその後のことは判りませんです」
「お内儀さんはあの写真のうしろに立っていた人だね」
野面はだんだん昏(く)れかかり、車室の中央は顔の輪郭も定かならぬほどになった。気温はやや降ったが、温度はますます高まるらしく、風もまた吹き募(つの)るらしかった。反対側の窓遠く、海が暗く見えるようであったが、それも海かどうか判らない。列車は左右に厭な振動をつづけながら進んでゆく。野面に遠く近く揺れる農家の燈を、私は眼をしばたたきながら眺めていた。そして老兵がしゃべるのをうつうつと聞いていた。
「巡検が終りますとな、何時も海岸の煙草盆に出て仲間の者と遅くまで話しこむとです。皆帰りたがる話ばかりで、何の因果でこんな海軍に入ったんじゃろか、孫子の代まで海軍には入(い)れんちゅうてな。私は医務室の仕事やっとったから良かったけんど、外の連中は、皆此の汽車に乗っとりますが、毎日もっこかつぎで肩の肉が破れたり底豆[やぶちゃん注:「そこまめ」。足の裏にできる肉刺 (まめ) 。]を出したり、満足な体の奴は居らんとです。みな私が楽な仕事をしているのを羨しがりましてな、私は何時も言い返してやったとですが、お前らは要領が悪い、軍人は要領を旨とすべしということを知らんかてな、しかしあまり可哀そうなんで医務室から薬持ってきてやって、煙草と交換してやったりしましたたい。その薬を煙草盆の周りでつけ合いながら、こんな処を見たらカアチャンが泣くだろうというようなことを一人が言ったりしますとな、笑うどころか皆しんとしてしまって、そのうちに八月十五日になりました。ラジオはがあがあ言うだけで何も判らず、隊長の訓辞では今までよりはもっと働かねばならんという話で、居住区に戻って皆と、陛下もこれ以上やって皆死んでしまえとは何とむごい事をおっしゃるかと、寄り合って悲観しているうちにあのラジオは終戦のことと判りましてな、班長や分隊士がやけになって酒打ちくろうて、まことに今まで一所懸命になってやって来られたのにと気の毒には思いましたけんと、私どもは皆してこれで家へ帰れる、子供や女房の顔も拝めるちゅうて、悪いとは思ったが肩をたたき合って喜びましたがな。もうこの世では逢えぬと私どもは諦(あきら)めて、なるたけ思い出すまいと思うて居ったところへ、こんな事になって、私はそれから女房や子供のことばっかり考えつづけですたい」
「お内儀さんはいくつだね?」
「へええ。三十二になります。おとなしい良い奴でしてな。今度も何か土産を持って行きたいけんど、隊で支給されたのは兵隊のものばっかりでな、甘い物を少し貰ったけんど、これは子供、その他毛布や服や米や罐詰や。何にも要らん、帰して呉れさえすれば何にも要らん、此方から金出してもいいと言ってさえ居た連中が、いよいよ帰れるとなるとみな慾張りになりましてな、俺の毛布はスフだから純毛のがほしいとか、靴をかっぱらわれたからまた何処からか取って来るとか、浅間しいと思いますけんど私もそれでな、何も自分ひとりの事を考えて居りやせん[やぶちゃん注:「や」が小書きでないのはママ。]、これだけあれは此の四、五年は着る物に不自由はせん、そうなれば女房もたすかるだろうし、また伜たちも……おや、雨が」
雨滴が三粒四粒斜めに顔に当ったと思うと、次の瞬間には飛沫となってしぶいて来た。あわてて窓をがたがたと閉めた。車室のあちこちで窓を閉める音がする。汽車は今山峡のような場所を走っているらしい。雨滴が筋をなして流れる硝子窓のむこうを、樫(かし)の影がちらちら暗い空をくぎって飛びさる。通路で誰かマッチをすったので、瞬間車室は薄赤くほのめいたが、その光線に浮き上った人々の像は顔にかぐろく隈(くま)を作り、まことに疲れ果てた感じであった。桜島の静かな濤(なみ)の音を聞きながら、海岸の煙草盆のまわりに寄り合って、各々肉親の事を考え己れの不運をのろったのは、この老兵達の顔である。終戦の報を知った時、先ず彼等の頭にいっぱい拡がって来たのは、妻の、子供の、両親の顔であったに違いない。
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